結婚相談所一覧
関東
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COME TO LIFE
幸せになるお手伝いをしています~COMETOLIFE
結婚相談所を開業し、婚活カウンセラー資格の初級、中級と取得しました。婚活カウンセラーとしては、婚活アドバイスができることが一番大事ではあるのですが、婚活の中で、心がくじけてしまって婚活をあきらめてしまう方に何か支援はできないだろうかと考えていました。現状、結婚相談所を成婚して退会される方より、成婚できずに退会される方の方が多いようなので、成婚できずに退会する方を少しでも減らすことも、婚活カウンセラーとしては、取り組む価値のあることかな、と思っています。会員様と成婚退会者は日々発生していますから、厳密な成婚率の算定は不可能ですが、仮に、10万人の会員様がいらして、毎月2,000人の方が成婚されるとして、12か月で24,000人のご成婚、単純計算では24%です。もちろん、結婚相談所の会員となっていても、結婚相談所の活動以外の、友人のご紹介や婚活イベント、アプリで知り合って成婚されて退会される方もいらっしゃるでしょうから、24%を上回るか可能性はもちろんあります。それでも、成婚されて退会される方よりは、成婚せず退会される方の方が多いのではないでしょうか。そして成婚されず退会される方の多くが、婚活に心が折れて退会されるのではないかと思います。そんなことを考えながら、そもそもカウンセリングって、どんなものなの、という関心からカウンセリングと心理療法の勉強を始めました。私が、カウンセリングのベースとしている心理療法は、認知療法系の認知行動療法、スキーマ療法とマインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)です。ちなみに認知行動療法は、「認知療法」系の認知行動療法と、「行動療法」系の認知行動療法があります。認知療法、行動療法それぞれ側から他方の技法を取り入れた結果、双方とも認知行動療法となったのですが、そのため学会も2つあるそうです。心理療法としては、広く効果性が認められれている認知行動療法を学んでいたところ、インフルエンザに罹患し、症状は比較的短期間で済んだものの、喉の痛み3週間ほどつづき食事ができず、体重は6キロ減り、体力をとともに気力も衰えてしまいました。病後は、うつ状態という、うつの発症までには至らない状態に陥ることが多いらしいのですが、ああ、これがうつ状態なのか、ということを体験しました。認知行動療法は、うつ病の改善に効果を上げた療法ですので、自分を教材として認知行動療法の考え方や、技法を学ぶことができました。認知行動療法(ジュディス・ベックのテキスト)を学ぶ中で、技法としてマインドフルネスが取り入れられていること、さらには、マインドフルネスに認知療法を統合した、マインドフルネス認知療法(MBCT)があることを知りました。マインドフルネスは、明確な定義や説明はないのですが、日本には入ってきていない東南アジアの仏教で行われているヴィパッサナー瞑想を源流として、西欧での禅などのムーブメントも加わった、西欧流の瞑想法、と考えてもらえばよいでしょう。西欧流の瞑想法なので、釈迦の基本的な認知論方法論とは、やや合致しないところもあるように感じています。釈迦の認知論方法論が、欲求へ執着が束縛となり苦しみを生むという解釈をしていることや、自分が自分について考える自分が、自分ではないという考え方などは、西欧的な自己肯定、自我観とは少し相容れないのではないかと思っています。ヴィパッサナー瞑想も(認知療法系の)認知行動療法も、個人の中に形成される認知が、苦悩を生み出すのだから、個人の中に形成される認知を、出来事を適切に認知し解釈した、適合的なものに改善してゆけば、苦悩はなくなるはずだよね、という基本的な考え方は同じです。ヴィパッサナー瞑想は、瞑想によって自分の体の動きの観察から始めて、感覚の観察、心の観察へと進め、体と心の平静状態(高度なリラクセーション状態)の中で、苦悩が発生する原因を突き止めます。(認知療法系の)認知行動療法は、アーロン・T・ベックの認知モデルに基づき、自分の信念が適合的なものであるかどうかを検討し、適合的でないものである場合には信念を非機能的なものから機能的なものへ書き換えてゆくことや、非機能的な信念から半ば無意識に生成され気分を低下させ、行動を停滞させる「非機能的な自動思考」を検出し、適合的なものに変えてゆくことで、気分の低下や行動の停滞の改善を目指します。認知行動療法は、気の持ち方が大事という、方法ではありません。倫理的なメカニズムに基づいた、ロジカルな方法です。私も、インフルエンザ後の体力と気力の低下の「うつ状態」の中で、「やらなきゃいけないとわかっていても、なかなか行動に結びつかない」という状態を体験しましたので、精神論で乗り切れるものでないことを嫌というほど理解しました。スキーマ療法は、認知行動療法が、非機能的な自動思考の検知と修正に重きを置き、行動の停滞の改善を重視するのに対して、認知行動療法をベースに、ベックの認知モデルの中核信念に相当するものとして、主として幼少期の養育暦から形成された、記憶、感情、身体感覚、認知などの複合体としてのスキーマを想定します。スキーマとは、幼少期に本来充足されて当然の、例えば幼児には極めて重要な、自分が守られているという安心感等の中核的感情欲求が満たされないことによって形成される早期不適合スキーマをいい、早期不適合スキーマが不適合な判断や行動に結びついていると考え、早期不適合スキーマを修正することを目指します。これはわたしの経験からなのですが、ヴィパッサナー瞑想は、一定のレベルに達すると「高度な観察眼」が現れ、独力で、スキーマが生成される原因となった体験や、その時の認知(自分がした解釈)と、成長に従ってその認知(解釈)が、新たな体験を吸収しながら修正されつつも維持され、そのことが現在の自分の判断や行動に制約を生んでいることが一気通貫に理解できます。この状態は、ヴィパッサナー瞑想の解説書を多数執筆されている、アルボムッレ・スマナサーラ先生が、ヴィパッサナー瞑想による観察を「実況中継」をすることと説明されていますが、まさしく、自分のことなのに、他人のことのように冷静に、よどみなく「実況中継」がなされ状態が実現した状態です。ヴィパッサナー瞑想は、中間地点として、体と心がくつろいだ状態(漢語では軽安覚支という状態)を実現しますが、なかなかその状態が実現しないこと、その原因が、ここにいてはいけない感覚、存在するのが許されていないよう感覚が原因であるようだということに思い当たり、約6か月ほどかかりましたが、その感覚をもたらしているものが早期不適合スキーマがあるという認識に行き着きました。ヴィパッサナー瞑想は観察瞑想と言われ、観察対象を定めて瞑想します。観察していても当然いろいろな考えが浮かんできます。そこで、浮かんできた考えの内容を理解したら、それを「放す」ということをします。「放す」ということは、浮かんできた考えに対して、「どうしよう」とか「なんとかしなければ」といった反応、つまり意図や意欲を持って考えることを「放す」、すなわち「考えないようにする」という訓練をします。「考えないようにする」という訓練が、意図や意欲を抑制することによって、感情の生成を抑制する効果(感情の記憶を保持するのは扁桃体とされますから、扁桃体の活性化を抑えると考えられます)をもたらすようです。感情の生成が抑制されていますから、ヴィパッサナー瞑想で、自分の早期不適合スキーマを生成することとなった体験(心的外傷、トラウマなど)を、「高度な観察眼」で観察しても恐怖や嫌悪感は全く生まれません。このことは、大脳皮質の高次処理系のはたらきによって、大脳辺縁系の扁桃体の活動を抑制している状態と考えられます。このような悩の機能については、加賀谷亮先生の「世界のエリートがやっている最高の休息法」ダイヤモンド社が詳しいのでご参照ください。ただし、恐怖心や嫌悪感は生まれませんが、早期不適合スキーマの存在を知りその内容を理解しても、そのことによって早期不適合スキーマが改善されるとかなくなるとかいうことではありませんし、早期不適合スキーマあることを知ったことで、どうしよう、という苦悩は生まれます。「高度な観察眼」は、日本では漢訳で「尋」と「伺」とされます。「高度な観察眼」は、仏教の説明では、先ほど説明した「考えないようにする」訓練等によって、高度なリラクセーション状態を実現し、さらに集中状態を実現すると、心のはたらきを停止すると「止」という状態になり、「観」という智慧による観察が始まる、と説明される状態です。「早期不適合スキーマを知ったことで、どうしよう、という苦悩は生まれます」が、この状態では、早期不適合スキーマは、自己の認知の中に形成されているということは自覚できていますから、自己の認知の中に、過去の心的外傷体験の解釈として形成されているのであれば、「そうか、自分で作った解釈なんだから、不都合な部分を自分で変えてゆけばいいんんだ」という智慧による観察の結果が出てきます。このように早期不適等スキーマによってもたらされる苦しみ(私の場合は、ここにいてはいけない感覚、存在するのが許されていないよう感覚)を知り、原因となる早期不適合スキーマを知ることで、ああ、なるほどこうすればいいのだな、という考えが現れて聞きます。仏教の布教等の意図は全くありませんのでご安心いただきたいのですが、どうやらこれが釈迦が説いた中核的な方法論である「四聖諦」であるようです。「四聖諦」は仏教の修行の方法というよりも、ヴィパッサナー瞑想により、心のはたらきを停止すると「止」という状態が実現し、「観」という智慧による観察が始まり、「これは苦しみなのだ」と自覚することによって、本来、人間に備わっている「これが苦しみならば、苦しいより楽な方がいいよね、苦しみをなくして楽になりたいな、楽になる方法を探して楽になろう」という本能的なはたらき(智慧のはたらき)が起動すること、と理解した方がいいようにおもいます。そこに至るまで、観察瞑想とされる、ヴィパッサナー瞑想により観察力を養い、集中力を養うこと必要、ということだと思います。非機能的な信念や早期不適合スキーマをご説明したからといって、あなたの苦悩の原因が非機能的な信念や早期不適合スキーマに駆るかどうかはわかりません。あくまでも、ご自身が気づき、注意をしてゆくことで自覚することが大事です。ヴィパッサナー瞑想は、ご自身が気づき、注意をしてゆくことで自覚する方法を提供しますから、ご要望があればご指導いたします。ヴィパッサナー瞑想は感情の生成を抑制しますから、非機能的な信念や早期不適合スキーマのあるなしに関わらず、感情の生成に使用されている脳のエネルギーをセーブすることができます。脳のエネルギーをセーブすることができますから、セーブしたエネルギーは活用できますから、頭のはたらきはよくなります。ただし、ほかの人と比べてよくなる、ということではなく、自分の中で、以前の自分よりもよくなる、という意味です。すぐに効果は出ません。しかし、しっかりとやってゆけば少しづつでも効果は出ます。その少しの効果、自分に現れた少しの変化に気づくことが観察力を養うことになり、養った観察力に、高度なリラクセーション状態と集中力が加わって、問題解決能力と言える、智慧が発現します。入会を前提としませんから、他の相談所会員の方でもOKですし、結婚相談所への入会意思がなくてもOKです。条件は、結婚を真剣にお考えの方、ということだけです。こちらとしては、いろいろな方のお悩みに接することでカウンセラーとしての幅が広がりますがから、こちらにもメリットがあります。
リラクゼーションは、癒しをもたらすからとか、リフレッシュ効果があるからとかいう理由から、高度なリラクセーション状態を実現しようとするわけではありません。釈迦の認知論に基づく高度なリラクセーション状態の実現には目的、裏返せば得られる利益があるから、高度なリラクセーション状態の実現をご案内しているのです。その目的、もしくは得られる利益は以下のようなものです。1.意識の表層に(しばしば、もしくはときどき)あらわれる、不安や苦悩、悲しみをなくしても、原因がある限り、不安や苦悩、悲しみは繰り返し現れるという前提に立つならば、原因を突き止めて、原因をなくせば、不安や苦悩、悲しみは表れなくなるだろうという前提に立ちます。2.その前提に基づき、高度なリラクセーション状態は、思考を停止し、感情の生成を停止し、集中力を高めた「高度なリラクセーション状態」では、意識の表層に不安や苦悩、悲しみがない状態であるにもかかわらず、不安や苦悩、悲しみの原因を突き止めることができます。3.釈迦は、不安や苦悩、悲しみの原因を突き止めるための方法論は教示していますが、不安や苦悩、悲しみの原因と不安や苦悩、悲しみが生成されるメカニズム、不安や苦悩、悲しみの原因をなくす方法は教示してません。それは、不安や苦悩、悲しみの原因を突き止めたなら、不安や苦悩、悲しみの原因は「本人」に特有なものなのだから、どうしたらよいかは本人に自ずと開示される(これを智慧というようです)、という釈迦の経験から、不安や苦悩、悲しみが生成されるメカニズム、不安や苦悩、悲しみの原因をなくす方法を教示する必要はない、と考えたのでしょう。4.仮に、「不安や苦悩、悲しみが生成されるメカニズム、不安や苦悩、悲しみの原因をなくす方法」を、認知行動療法のベックの認知モデルを援用して説明します。ヴィパッサナー瞑想により思考を停止し、感情の生成を停止し、高度なリラクセーション状態を実現することにより、気分を低下させる(不安や苦悩、悲しみをもたらす)非機能的な自動思考の生成が行われていない状態であっても、気分を低下させる(不安や苦悩、悲しみをもたらす)非機能的な自動思考を生成する原因である、非機能的な中核信念の原型が生成された時点の記憶まで遡り、生成された非機能的な中核信念が、その後の体験の中で維持強化されてきた経過を把握でき、現在において生起する不安や苦悩、悲しみとの牽連性(つながり)が明らかになるので、不安や苦悩、悲しみなくす方法として、非機能的な中核信念の原型が生成された時点で体験によって自己が抱いた感情の記憶を手放すこと、非機能的な中核信念の原型が生成された時点での解釈を現在の判断能力によって解釈し直すこと、生成された非機能的な中核信念が、その後の体験の中で維持強化されてきた経過を解釈し直し、現在まで維持されている非機能的な中核信念を、現在の自分の判断能力によって適応的なものへの変更してゆくなどの方法が、自然と開示される、ということだと説明できます。5.また、釈迦は、人を認知する機能ととらえ、人は生きている限り認知することを止めることができないと認識していたようです。人は認知する機能であるがゆえに、認知すること(=感覚すること感覚したいと欲求すること、考えること考えたいと欲求すること)への欲求は、強力なものであると釈迦は認識したようです。「認知すること(=感覚すること感覚したいと欲求すること、考えること考えたいと欲求すること)への欲求は、強力なものである」という認識は、同時に、ヴィパッサナー瞑想により、「認知すること(=感覚すること感覚したいと欲求すること、考えること考えたいと欲求すること)への欲求」を瞑想中のみであっても停止することによって、感情を生成を抑制する機能を脳に開発する(大脳皮質により感情の記憶を保持する扁桃体の活動を抑制する)ことに道を開くと考えられます。人が認知することを止められないのは、人は、五感を通じて感覚すること、その感覚から得た情報に基づき概念を形成すること、形成された概念に無自覚に執着してしまう、という性向があり、無自覚に執着することの根底には、五感を通じた感覚、概念を形成すること、形成された概念に対して、「好ましいもの楽しいもの」という感情を持つからであると認識したようです。「好ましいもの楽しいもの」という感情を持つことにより、執着を生み出してしまうことが、悩み苦しみを生み出す根本的な原因であると、釈迦は理解したようです。6.5.を前提としたときに、ヴィパッサナー瞑想によって思考を停止し、感情の生成を停止した「高度なリラクセーション状態」を実現することは、『五感を通じた感覚、概念を形成すること、形成された概念に対して、「好ましいもの楽しいもの」という感情』を抱くことを停止することにほかなりませんから、これによって好き嫌い、嫌悪感、恐怖等の感情の生成をなくす、もしくはおだやかにする効果がもたらされ、「好き嫌い、嫌悪感、恐怖等の感情の生成をなくす、もしくはおだやかにする」ことは、これらの感情の生成に使われている脳のエネルギーを節約することになりますから、その節約されたエネルギーを、大脳皮質の高次処理系の活動にふりむけることでき、業務効率の向上、学生であれば学習成果の向上などが期待できることになります。また、嫌悪感や恐怖等の感情が、大脳皮質の活動への集中を妨げることを抑止するという効果も期待できるでしょう。人には、現在の状況を分析し、将来を想像する予想するという有益で便利な脳の機能がありますから、嫌悪感や恐怖が起った場合、将来を想像する予想するという機能が、嫌悪感や恐怖を増大させる、ということもありますから、嫌悪感や恐怖等の感情の抑制は大きな効果をもたらすでしょう。これから高度なリラクセーション状態を作るための、釈迦の認知論を考察します。釈迦の教示を阿含経から引用して説明しますが、(繰り返しになりますが)私は仏教徒ではありませんし、仏教の布教の意図はありません。釈迦の説いたことは、今日日本で信仰されている仏教とは異なり、自己の外部に救済を求めたり、自己の外部に設定された救済者を信仰することにより心の安静を得るというものではありません。釈迦は以下のように教示しています。「自分を島とし、自分を拠り所として、他を拠り所とせず、真理を島とし、真理を拠り所とし、他を拠り所とせず、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは何によって生じ、何によって発生するのかを、根源的に観察すべきである。」(春秋社 相応部経典第三巻より) 「真理」は、仏教では「法」と訳され解釈されますが、ここでの「真理」とは、「自分を拠り所として」「愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは何によって生じ、何によって発生するのかを、根源的に観察」することによって、自分がたどり着いた「愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩み」が生まれる原因を自覚したとき、その自覚を、「真理」と理解してよいでしょう。(仏教の観点を踏まえて考察すれば、その「自覚」は、釈迦が説いた「法」を、自らが実証して得た「自覚」という理屈になります。仏教的には「法」を主として、自らの自覚を「従」とする立場であると考えられますが、認知論の考え方からすれば、釈迦が説いた「法」を、自分が実証して自覚に至れば、それは自らの経験に照らして真実相当性があるということになりますから、自らが「真理」と認識することに無理はありません。釈迦が説いた「法」を、自分が実証し「自覚」にいたることなく、釈迦が説いたことだから「真理」なのだということであれば、それは「信仰」ということになるでしょう。)釈迦が教示したことは、自らの苦しみが生まれる自らの認知形成のあり方を自覚し、その自覚に基づいて自らの力で苦しみを乗り越える方法を教示したものですから、自力救済、すなわち今日の認知論アプローチによる心理療法ととらえてもいい内容です。ですから、ここでの釈迦の教示、阿含経の解釈は、仏教による理解、解釈を参照することはありますが、仏教としての理解、解釈を行うものではありません。むしろ釈迦の認知論、方法論は、現代の心理学や、認知行動療法、スキーマ療法などの心理療法の考え方とも矛盾しませんから、それらを参照しながら、釈迦の認知論を考察したものとお考えいいただいていいでしょう。現代の心理学や、認知行動療法、スキーマ療法などの心理療法と釈迦の認知論、方法論の決定的な違いは、現代の心理学や、認知行動療法、スキーマ療法が、科学的な検証を可能とする方法によって、被験者や臨床患者の観察や診察、心理療法による介入の結果などから、心理的苦悩をなくす方法を探ったのに対して、釈迦は悩み苦しむ一人の人間、つまり臨床患者、被験者として、自らの認知形成のしくみを高い集中力をもって観察し、自らのありのままの認知形成が悩み苦しみを生み出すという認知に至り、自らの認知形成のしくみを、悩み苦しみを生み出さないものに改変し、その方法を教示したと考えられます。それゆえでえあろうと考えますが、釈迦の悩み苦しみが深かったがゆえに、釈迦は、常人では成し得ない水準で、自らの体と心のはたらきと認知形成のしくみに奥深く分け入り、悩み苦しみの発生原因を突き止めたと考えられるため、釈迦の方法論を学ぶ人、実践する人は、悩み苦しみが大きい人ほど、釈迦の方法論の実践によって得るものが大きくなるのではないかと感じています。(仮に、の話になりますが、苦悩した釈迦が到達した方法論は、(仮に)苦悩の無い人がいたならば、その人には理解できないだろう、ということになります。釈迦の認知論、方法論はヴィパッサナー瞑想をの経験とともに理解すべきものではないかと思っています。)釈迦の認知論、方法論が革新的であったのは、2600年前、神話的世界観が支配的であったと考えられる時代に、悩み苦しみの解消を自己の外部に求めるという方法論を取らず、釈迦は、悩み苦しむ自己の体(身体感覚)と苦悩が生起する心理的プロセスを観察し考察すること通じて、悩み苦しみを含む認知を生み出す五蘊という体と心のはたらき、認知形成のしくみがあると自覚し、人のありのままの認知形成機能、言い換えれば野放し状態の五蘊のはたらきこそが、悩み苦しみを生み出すのであり、自らが野放し状態の五蘊のはたらき方を変えてゆけば悩み苦しみは滅尽できると、説いたことであると考えています(五蘊=色:眼、耳、などの感覚器官、受:体と心の感覚、想:考えアイディア、行:意欲を起こしアイディアを実行する、識:記憶の保持、記憶の参照機能)。20代から座禅を始め、30代でヴィパッサナー瞑想に取り組み今日まで継続して来た経験をもとに、阿含経を読んだところ、自分が経験してきたことは、釈迦の教示の中にあることを知りました。自分に中核的感情欲求が満たされなかったことによる早期不適合スキーマが形成されているようだ、ということもヴィパッサナー瞑想により、自覚しました。どうしたらいいんだろう、という困惑と疑問に回答をあたえてくれたのもヴィパッサナー瞑想でした。そのような経験を踏まえて、釈迦が教示した、悩み苦しみをなくす方法論とその前提となる、釈迦がとらえた、人が悩み苦しみを生み出す、体と心のはたらきと認知形成のしくみを自らが確認し、ご紹介しようと試みたものが、このブログです。阿含経の念身経には、J.カバットジンさんが、マインドフルネスストレス低減法で効果を上げた、慢性疼痛等に対する痛みの軽減効果も説かれています。ただし、なぜ痛みの軽減効果あるのかは、「こうすれば、こうなるから、やってみて自分で確かめなさい」というスタイルが釈迦の方法論であるため、教示されてはいません。それでもヴィパッサナー瞑想をしていれば、釈迦が説かなかったことを、こういうことのようだ、という理解に至ることができます。瞑想を実践して自ら自覚に至り、それをたよりにして生きてゆきなさい、それこそが釈迦が意図したことであると感じます。釈迦が説いた7つある「悟りにいたるための支分」のなかに、『「物事の解明という悟りの支分」(択法覚支)』(治意経)というものがあります。択法とはこの場合、釈迦が教示した、人の体と心のはたらきと認知形成のしくみを学び、自分の体と心のはたらきと認知形成のしくみを観察し、自覚し、悩み苦しみをなくす方法を知ること(そしてその観察が高度な観察眼考察眼である「尋」と「伺」を用意します)、と考えられますから、このブログは、仏教の理解によらない、私にとっての「択法覚支」養成の試みとも言えます。このブログが、悩み苦しみをなくすため、何らかのお役に立てれば幸いです。「認知」という言葉については、対象を広くとっています。体に生まれる感覚、痛み、心理的苦痛、苦悩、怒り、好き嫌いや恐怖など生成される感情、記憶、記憶の参照、意識的無意識的双方の思考など「体と心にうまれる認知できる出来事」という意味で使用しています。これは、釈迦が到達した「ただ事象のみが存在する」(大念処経)と言っている時の「事象」の意味内容を、「体と心にうまれる認知できる出来事(そしてそれは自分の思うままにならないこと)」と解釈していることから、体と心のはたらきと、認知形成のしくみによって「体と心にうまれる認知できる出来事(そしてそれは自分の思うままにならないこと)」を、「認知」として、「認知形成のしくみ」「認知形成機能」「認知形成のありか方」という使い方をしています。ただしご注意ください。「体と心にうまれる認知できる出来事(そしてそれは自分の思うままにならないこと)」と説明する時の、「そしてそれは自分の思うままにならないこと」の意味は、ありのままの認知形成の状態、言い換えれば悩み苦しみの原因となる認知を生み出す認知形成機能の野放し状態であり、さらに自分がそのような認知形成の状態にあることを自覚していない状態を言い表したものです。ヴィパッサナー瞑想は、「そしてそれは自分の思うままにならないこと」であることを自覚する(四念処の観察考察によって知る)ことによって、「悩み苦しみの原因となる認知を生み出す認知形成機能の野放し状態」を改善してゆく方法です。釈迦がとらえた、人のありのままの認知形成の機能といえる五蘊、すなわち色、受、想、行、識の機能とその機能によって認知が生成されること、五蓋とされる、貪り、怒り、心の浮つきと後悔、沈鬱になることと眠気、疑念がうまれることの五つの、ヴィパッサナー瞑想の進展を妨げ、観察力が発現することを妨げる、好ましくない認知形成のはたらきなどもふくめて、「体と心にうまれる認知できる出来事(そしてそれは自分の思うままにならないこと)」を生み出すはたらきとしくみを、「体と心のはたらき」「認知形成のしくみ」としています。ありのままの体と心のはたらきと認知形成のしくみ、とは釈迦が苦しみであるとした「五取蘊」、すなわち悩み苦しみという認知を生み出してしまう野放し状態としての五蘊のはたらきというということになります。高度なリラクセーション状態は、実現できて、そのメリットが得られなければ意味がありません。高度なリラクセーション状態を実現するためには、体と心との対話、すなわち体と心の声(状態)を聞き取り、リラクセーション状態へフィードバックすることが必要です。ヴィパッサナー瞑想は、自分が、自分の体と心を観察することによって、体と心と対話することを可能とする瞑想法です。ヴィパッサナー瞑想は、釈迦の認知論(人の心と体のはたらき、認知形成のしくみがどのようなものであるかという理解)から生み出されたと考えられますから、ヴィパッサナー瞑想によって、高度なリラクセーション状態に到達するためには、釈迦の認知論を知っておくことは有益です。高度なリラクセーション状態は、そこがゴールではなく、さらにその先にある状態に至るための中間地点ですから、その先に至るための情報も含めて学習するほうがより理解が深まるでしょう。高度なリラクセーション状態の説明を、車のエンジンの設計製造に例えれば、エンジンのスペックだけ提示されてエンジンの設計製造を要求されても、よいエンジンをつくることはできないのではないでしょうか。そのエンジンがどのような車に搭載されるのか、その車の想定される顧客層、利用形態、販売地域、価格、ボディ剛性など多岐にわたる、完成形としての車の情報が無ければ、その一部であるエンジンの設計製造はできないでしょう。釈迦の認知論、方法論は、最終的には釈迦が到達した、第四禅とされる、悩み苦しみはもちろんのこと、喜びや安楽さえ放棄した、完全な心の平静の境地から教示され、なおかつ釈迦の方法論を実践する者たちが第四禅へ到達することを可能とするものですが、第四禅に到達する中間点に高度なリラクセーション状態があるといっていいように思います。高度なリラクセーション状態を実現し、そこにとどまりメリットを享受することも可能ですし、一歩すすんで、生き苦しさ、なんとなくつらい、と言ったことが生起する原因を知り、それを解消することへ進むことも可能です。そのため今回は、釈迦の認知論、方法論の全体像をお話します。高度なリラクセーション状態の実現を目標としていますから、釈迦が到達した方法論、すなわちヴィパッサナー瞑想、四念処、五蘊、四聖諦などを、仏教の文脈からではなく、認知論として考察してみます。「仏教の文脈からではなく、認知論として考察」するとは、「釈迦はこのように説いているのだからそれは真実である」という観点は、いったん脇においておいて、ヴィパッサナー瞑想の四念処による、五蘊(体と心のはたらきと認知形成のしくみ)の観察の方法、その結果もたらされる五蘊(体と心のはたらきと認知形成のしくみ)の変化に関して考察してみる、ということになります。阿含経で、釈迦が教示していることが、私たちの今現在の体と心にどのように生起していて、釈迦の方法論を実践することによって、私たちの体と心はどのように変化してゆくのだろうか、ということを考察すること、とも言い換えられるでしょう。釈迦の方法論は、マインドフルネスとして心理療法に取り入れられていますが、釈迦の方法論の基礎となる認知論は、悩み苦しみつらさの生まれる原因を、人のありのままの認知形成(体と心のはたらきと認知形成のしくみ)に求めています。釈迦の認知論に基づく方法論は、仏教的には、悩み苦しみつらさを生み出す、人のありのままの認知形成のあり方(体と心のはたらきと認知形成のしくみ)を観察により自覚し、悩み苦しみを生み出さない認知形成のあり方(体と心のはたらきと認知形成のしくみ)に改変してゆけば、悟り、解脱に至るということができるという教学となるのかもしれませんが、このプロセスは、「悟り、解脱に至ることができる」という部分を除外するならば、心理療法の進展プロセスであると言えます。釈迦の認知論に基づく方法論はそんなに難解なものではないと思います。ただし、ヴィパッサナー瞑想により観察力、集中力を養い自分の「体と心のはたらきと認知形成のしくみ」を観察考察することが前提になります。無自覚(無意識領域で)に行われている体と心のはたらき(五蘊)観察し、認知形成のしくみ(五蘊)を考察するならば、どのようにして悩み苦しみつらさが生まれてくるのかということを知ることができるだろう、無自覚に(無意識領域で)認知形成している状態(五取蘊)を放置していれば、悩み苦しみつらさが生まれてくることは無くならない、ならば、悩み苦しみつらさを生み出さないようにするには、無自覚に(無意識領域で)認知形成している状態(五取蘊)をなせばい、とも説明できます。釈迦の認知論に基づく、ヴィパッサナー瞑想を心理療法としてとらえるならば、その方法は次のようなものになります。観察力を高める訓練を行い、高度なリラクセーションを実現したのち、現在における悩み苦しみの生起を知り、集中力を高めその悩み苦しみを観察することを意図すると、高度な観察眼考察眼(尋と伺)が現れ、これが悩み苦しみなのだな、ということを正面から受け止めるようになります。「これが苦しみなのだな、ということを正面から受け止める」ことが、『ただ事象のみが存在する』(大念処経)という認知とともに行われるときに、「四聖諦」が起動すると考えています。なぜならば、苦しみをもたらす原因を自己の外部にあると認識していたり、苦しみの解消を「求めても得られない」(大念処経)ことに求めてたのでは、自力で解決することはできないからです。苦しみをもたらすものを自己の外部にあると認識したのでは、自己の外部のことは自己の力の及ぶ範囲外ですから(自己の力の及ぶ範囲内であるならばそもそも、苦しみにはなりません)、自分にはどうすることもできません。苦しみの解消を「求めても得られない」ことが実現することに求めても、「求めても得られない」のですから、それは実現しません。自己に生じる苦しみが『ただ事象のみが存在する』ものであるならば、それは、自己に生じる苦しみは「体と心に生まれる認知できる出来事(そしてそれは自分の思うままにならないこと)」として生じるのですから、意識して、苦しみである『体と心に生まれる認知できる出来事」が生まれないように、くるしみの発生原因をなくせば、苦しみは生じることがありませんから、苦しみはなくすることができる、ということになります。つまり、「これが苦しみなのだな、ということを正面から受け止める」ことが、『ただ事象のみが存在する』という認知とともに受け止められるとき、自分の力で、苦しみの生起を自らの力によって止めることができることを自覚することになります。苦しみの生起を自らの力によって止めることができることを自覚することによって、悩み苦しむより、悩み苦しみがないほうがいい、悩み苦しみをなくしたい、という、人に本来備わっている機能と言える「四聖諦」が起動して、高度な観察眼考察眼(尋と伺)が、現在の悩み苦しみを手掛かりに、記憶をさかのぼり、現在の悩み苦しみを形成している過去の原因を特定します。この状態は、感情の記憶とかかわる偏桃体系のはたらきとは分離された、脳の高次機能系の働きが活性化している状態と考えられます。この状態が、仏教的には、如実知見、物事をありのままに見ることができる状態であると思います。過去の原因が特定できたならば、高度な観察眼考察眼(尋と伺)によって、その原因をなくす(例えば過去の苦痛や苦悩の体験と形成された理解、解釈をし直す、修正する、書き換えること、釈迦の教示では遠離、執着をなくす)によって、現在における悩み苦しみがなくなる(偏桃体系による苦痛や恐怖などの記憶の再現が抑制される)ならば、それが悩み苦しみをなくす方法であるのであると知ることとなり、その方法方を実践すれば悩み苦しみはなくなる、という理解に至ります。この状況は、仏教的には、智慧の発現により悩み苦しみをなくす方法を知る状態であると思われます。「過去の苦痛や苦悩の体験と形成された理解、解釈」は中核信念やスキーマとされるものだと考えてい良いでしょう。釈迦が中核信念やスキーマと言いう概念は持っていなかったでしょうが、釈迦は、生きるとは、五蘊が出現し認知領域を獲得すること、死ぬとは五蘊を破壊し身体を放棄すること(大念処経)、と説いていますから、「過去の苦痛や苦悩の体験とその体験を理解、解釈し保持すること」すること、すなわち中核信念やスキーマを形成することは、生に伴う本源的な機能(体と心のはたらきと認知形成のしくみ)によるものであると捉えていたと考えてよいと思います。釈迦の苦悩をなくすための方法論は、脳の高次処理系が関与されずに機能するとされる、感情の記憶を保持す扁桃体系の働きを、高度な観察眼考察眼(尋と伺)という、脳の高次処理系が制御している状態、制御する回路(認知形成のしくみ)を脳に構築する、と考えていいように思います。釈迦は、念身経で、身体にむけた注意に習熟することで、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気を克服できると説いてますから、感情の記憶を保持する扁桃体系の働きを、脳の高次処理系が制御する(回路を脳に構築する)という考えとは整合的です。今回は、釈迦が到達した『悩み苦しみつらさを生み出す、人のありのままの認知形成のあり方(体と心のはたらきと認を知形成のしくみ)』について考察してゆきます。釈迦の方法論を、「仏教の修行」としてではなく、「認知論アプローチによる心理療法」という観点から考察してみます。釈迦は、自らの悩み苦しみから解放される方法を探求する過程で、自らの体と心の観察によって、自らの体と心のはたらきと認知形成のしくみが、悩み苦しみを生み出すことが原因だと知り(認知論)、悩み苦しみを生み出す原因を滅する方法に到達(方法論)し、その方法(ヴィパッサナー瞑想、四念処による五蘊の観察、四聖諦など)を説いたのですから、心理療法ととらえて問題ないと思います。心理療法、と言っても心理的な困難を抱える人のためのもの、ということではなく、心理的な困難がない方であっても効果はあると思います。心理療法と言っていいというのは、釈迦の方法を簡潔に言い表すならば、「自己の認知形成機能の徹底した観察によって、自己の認知形成機能の自覚に至り、自己の認知形成機能を改変する方法」なので、心理的困難を抱えている人が、自己の認知形成機能の徹底した観察によって心理的困難の原因の自覚に至るならば、認知形成機能を改変することによって心理的困難の原因をなくすことができるでしょう、と考えられるからです。また、心理的困難を抱えていない人も、感情の生成を抑制する(扁桃体のはたらきを大脳皮質のはたらきで抑制すると考えられます)ことにより、好悪の感情や嫌悪感、恐怖と言った感情から解放されて物事を見て、理解し、意思決定することができる、つまりスッキリと考え行動できるようになるでしょう。「好悪の感情や嫌悪感、恐怖と言った感情から解放されて物事を見て、理解し、意思決定することができるようになること、によって、感情の生成が穏やかになり、ものごとを考えるときに感情に引きずられないようになり、結果として思考の回転が速くなる、的確な状況の把握や適格な言語化が可能になる、思い悩んでもどうにもならないことに思い悩まなくなる、などの効果が期待できるでしょう。また、人の重要な能力と考えられる、今ある事実から概念的に事態を把握する、将来を予想する、対策を立案する、将来の姿を構想して計画するのなどを可能とする、想像する、概念化する、予測するといった、今ここにはないことを作り出す脳の高次機能が、自分が客観的に物事を見ているつもりでも自分の願望を投影してしまっている(愛執、欲の生起)ことがあること、結果としてありのままに物事をみたり考えたりしていないことや、自分の心に生まれた不安や懸念、恐怖を自ら増幅させていることがある、などのことも自覚できるようになるでしょう。簡単に言えば、ヴィパッサナー瞑想を継続することにより、確実に頭のはたらきは良くなり、的確に物事をとらえられるようになります。ただし従前の自分と比べて、という意味であり、他者との比較によって確認できる性質のものではありません。そもそも、無自覚に比較するという認知形成行為自体が、比較して、優れている(明確な根拠は無くても、それは好ましい、得意な気分になる)、劣っている(明確な根拠は無くても、それは嫌だ、そうなりたくない)という認知を生み出すのですから、比較を行うならば、それは目的を理解して自覚的に慎重に行う必要があります。ヴィパッサナー瞑想においては、他者との比較は瞑想進展の妨げになることはあっても、促進することはなりません。ヴィパッサナー瞑想、四念処による五蘊の観察は、自分の体と心のはたらき、認知形成のしくみを徹底的に観察して自覚すること、観察して自覚すること、自覚することにより、自分の体と心のはたらき、認知形成のしくみ改変することを可能とするための能力を開発するプロセスです。自分の体と心のはたらき、認知形成のしくみとは「人格」とらえてよいでしょう。通常では自覚していない、自分の体と心のはたらき、認知形成のしくみ=「人格」(気質を前提とした経験と感情、身体感覚の記憶とその解釈により形成された価値観を含む信念体系、ただしここでは類型による診断のような外部基準による本人の傾向把握は人格に含みません)を観察し自覚するための能力を開発するのですから、自分に悩み苦しみつらさがあるのであれば、悩み苦しみを生み出す原因には必然的に到達します。自分の体と心のはたらき、認知形成のしくみを観察し、自分の悩み苦しみつらさを生み出すものに到達したらならば、その悩み苦しみつらさを生み出すことが、早期決断(幼児決断)や人生脚本(交流分析)、非機能的な中核信念と媒介信念(認知行動療法)、中核的感情欲求の不充足による早期不適合スキーマ(スキーマ療法)などと説明されるものであるかもしれません。ヴィパッサナー瞑想は、人が認知を形成する「体と心のはたらきと認知形成のしくみ」を観察し自覚しつつ、自己の「人格」すなわち「気質を前提とした経験と感情、身体感覚の記憶とその解釈により形成された価値観を含む信念体系」を観察し自覚するものですから、現代の心理療法が説明する悩み苦しみの形成モデルと、矛盾はしません。現代の心理療法が説明する悩み苦しみの形成モデルと、矛盾しませんから、ヴィパッサナー瞑想は、悩み苦しみを生み出す自己の認知形成のあり方にアクセスし、多少の時間はかかるもののそれらを修正することができます。J.ティーズデールさん、M.ウィリアムズさん、Z.シーガルさんが、マインドフルネスに認知療法とを統合した、マインドフルネス認知療法を創始しましたが、ヴィパッサナー瞑想の方法論自体が、釈迦の認知論に基づく心理療法であるといえます。マインドフルネスとされることもあるヴィパッサナー瞑想の方法論と釈迦の到達した認知論は、コインの表裏という関係です。釈迦の認知論から始めることは、一見遠回りのように思われるかもしれませんが、ヴィパッサナー瞑想による高度なリラクセーション状態を実現するためには、確実な方法です。釈迦の方法論は、極めて革新性に富むものであったと思われます。革新性に富むものであったという理解は、仏教的には悟りや解脱に至るものととらえている瞑想実践とは、釈迦がとらえた人の体と心のはたらき、言い換えれば釈迦が到達した認知論を、瞑想を通じて体験的に学ぶものであり、かつ瞑想実践により、体と心のはたらきに転換をもたらし、苦悩の生成を含む認知形成のあり方に転換をもたらすための方法、すなわち今日の認知論アプローチによる心理療法よりも精緻な方法であったと(私には)考えられるからです。釈迦の認知論と方法論は、現代の心理学や生理学、心理療法とも衝突はしませんし、むしろ符号するといっていいと思います。ヴィパッサナー瞑想の方法論と、その前提となる釈迦の認知論は、阿含経で教示されています。釈迦は、今日の私たちがとらえる思考や感情の生成などとは別のとらえ方(特徴的なのは、自己に生まれる様々な認知に対する愛執に執着すること、欲という考え方)をしていますが、それは私たちが感覚しているものと同じものを、別の見方によってとらえたということにすぎず、体と心がどのように機能して認知を生成しているのか、という観点から見るならば、釈迦の認知論、方法論と、今日の心理学や心理療法とも矛盾しません。釈迦が教えを説いた人々の多くは文字が読めなかったかもしれない、ということも想定に難くありません。それゆえ、釈迦は、自らの教示を文字化することなく、革新性に富む内容を、誰にでもわかりやすいように、あえてパーリ語を選んで、平易に教示したたのかもしれません。パーリ語は平易であるがゆえに、語彙数も少なかったでしょう。それに加えて、釈迦自身が、概念化、抽象化することを注意ぶかく避けて教示したように思われ、概念化、抽象化に慣れた現代人にはかえって「なにをいっているのかわからない」とい印象をあたえているのではないか、と私には思われます。しかし、釈迦の教示は、ヴィパッサナー瞑想を実践しているものには、あの時の瞑想の変化はこういうことだったのか、と瞑想による自分の変化が説明されていることに気付くとともに、その符合に驚きます。このことは、二つの点で注意を促すように思います。1つ目は、人が悩み苦しみを生み出し、それに苦しめられることの原因を、釈迦は、人には概念を作り出す(想像して作り出す)能力があるがゆえに、人は物事のありのままを観ることをせず、物事を見て概念化抽象化して作り出した物事の見方考え方にとらわれる(執着して保持する)がゆえに、悩み苦しみを生み続け、苦しみ続ける、と考えたのではないかと私には思われることです。2つ目は、釈迦入滅後、釈迦の教えを受けた人々は、釈迦なきサンガ(僧団)を安定的に維持するため、釈迦の教えを解釈し体系化し、保持するための努力を行ったようです。当然それによって、今日私たちが阿含経に触れることが可能となったわけですが、釈迦の教えを、解釈し体系化する過程で、釈迦が避けた概念化抽象化する(想像して補強する、作り出す)ことが行われ、教学化され、釈迦の説いたこととは少し異なるものとなったのではないか、という印象が私にはあります。そのような事情(後世における概念化抽象化による釈迦の教示の解釈)があるがゆえに、かえって、私たちは、釈迦が平易に説いた釈迦の認知論(阿含経)を容易に理解できないことになっているのではないか、という感覚が私には捨てきれません。釈迦の教えを説く阿含経は平易なものであったため、長らく軽んじられてきたようです。増谷文雄先生が、筑摩書房「阿含経典第一巻」で、阿含経が軽んじられることに大きな影響力を持った、天台大師の「五時の教判」について説明している個所と、パーリ語による阿含経の研究が進展した契機となった出来事について抜粋します。「釈尊は、かの菩提樹下において大覚を成就すると、そのまま樹下にあって三七日のあいだ、その悟得せられしままの高遠崇厳なる教えを説いた。それが『華厳経』の内容であった。だが、世の無知純根の人々は、一切これを理解することができなかった。これを「華厳時」とする。そこで釈尊は、それより十二年の間は、ずっとその程度を下げて、純根無知の人々にも判るように、卑近にして具体的な教えを説かれた。それがかの「四阿含」の内容とするものであり、その時期の説法を、鹿野苑における初転法輪にちなんで「鹿苑時」とするのである。(中略)だが、近年にいたるに及んで、さしもの「五時の教判」も、ようやく、その圧倒的な影響力をうしない、いまでは、もはやそれを顧みるものもなきにいたった。その他方、この「阿含」と称せられる経典群こそが、根本仏教すなわち釈迦所説の仏教の原初的な姿を知るべきもっとも貴重な資料であることが知られてきたのである。」(中略)「まず申し上げたいことは、いわゆる南伝仏教との出会いである。それまでわたしどもの仏教は、いわゆる三国伝来の仏教、すなわち、インド・中国そして日本へと伝えられた仏教であって、これをいま南伝に対していえば北伝の仏教であった。そして、南伝の仏教については、ほとんど知るところがなかった。それが、近年にいたって、わが国の仏教研究者たちの注目する処となったのは、ヨーロッパの東洋学者たちの刺激によるものだった。」(中略)「一八八二年のこと、リス・ディヴィッズ(T.W.Rhys-Davids)、ファウスベル(V.Fausböll)、オルデンベルグ(H.Oldenberg)などの学者たちによって、「パーリ聖典協会」(ThePaliTextSociety)なるものが設立された。」「そもそもインド学の成立の過程において、まず取り上げられた言語はサンクリットであった。しかるに原始仏典の文献はパーリ語でしるされている。したがってパーリ語研究の道が大きく開かれるのでなくては、インド仏教の研究の道が開かれることができない。」(引用以上)ちなみに、リス・ディヴィッズ(T.W.Rhys-Davids)さんは、「パーリ聖典協会」設立の前年に英訳した阿含経のパーリ語「sati」に、「mindfulness」マインドフルネスという訳語を当てた方です。わたしが引用している春秋社版の原始仏典の底本は、上記パーリ聖典協会のものです。(原始仏典では「パーリ文献協会」とされています。)北伝仏教(大乗仏教)から、小乗と貶称され、現在まで続く上座部大寺派(テーラワーダ)は、(サンスクリット語によって書かれている)大乗仏典は釈迦直伝ではなく(大乗非仏説)、釈迦はパーリ語で語ったのであり、パーリ語で書かれたものが正当な釈迦の教えである、との立場を取り、パーリ語経典の正典化を図りました。(馬場紀寿先生「初期仏教 ブッダの思想をたどる」岩波新書赤1735)上座部大寺派(テーラワーダ)によって聖典化されたパーリ語経典が、19世紀になって海を渡りイギリスで、パーリ語の聖典として刊行され、現代の日本でもそれを使って阿含経への日本語訳を行っている、ということはご理解いただいておいた方がよいでしょう。阿含経に説かれる釈迦の方法論(ヴィパッサナー瞑想、四念処)とその前提となる釈迦の認知論は、ヴィパッサナー瞑想の実践によって釈迦が教示したことを体験的に確認する(証得する)のが本来の方法です。その一方で、釈迦の認知論、方法論は、交流分析の禁止令や早期決断、Beckの認知モデルの自動思考や中核信念、スキーマ療法の中核的感情欲求や早期不適合スキーマなどの概念と矛盾するものではないように感じています。ですから、これらの概念を参照し活用することによって、釈迦が教示していない、悩み苦しみつらさを生むありのままの体と心のはたらき、瞑想実践による体と心のはたらきの変化、認知形成変容のプロセスやメカニズムを、言い換えれば釈迦が説いたことの「余白」の部分を、考察することができ、ヴィパッサナー瞑想の実践をより効果のあるものにしてくれるように思います。ただし、釈迦の認知論、方法論は現代の心理学や生理学、心理療法の考え方と符合するとは考えていますが、その反面、西欧由来の心理学や心理療法とは根本的に異なる「人」についての見方があると感じています。それは、最終的に、釈迦が苦悩の原因とした「五取蘊」に結実されているのではないかと思います。五取蘊とは、五蘊である色、受、想、行、識への無自覚な信頼による執着、捕われと解釈できます。色、受、想、行、識は、人の認知を成立させる体と心のはたらき、認知形成のしくみと言い換えられます。人は生きている限り、認知することを止めることができず、それゆえ人は色、受、想、行、識つまり五蘊のはたらきによって生み出されては消えてゆく認知に、無自覚に愛執を生み執着する「五取蘊」が常態となっており、消えてゆく好ましいもの楽しものという認知に執着し、厭い嫌うものを避けるために様々な想像(認知)を生み出し、それらに愛執を生み執着している、だから悩み苦しみつらさを生み出すのは当然なのだ、と釈迦はとらえたようです。釈迦の教示が、少しとっつきにくい、受け入れがたいと感じるのは、認知する機能が休まずはたらき、認知し続けていることを、通常の私たちの意識状態では認識できていないこと、しかし釈迦は高度な瞑想状態での観察によって、認知する機能が休まずはたらき、認知し続けていることを把握していた地点から教示をおこなっていたからであろうと思います。「五蘊のはたらきによって生み出されては消えてゆく認知に、無自覚に愛執を生み執着する「五取蘊」が常態となっており」という認知、とらえ方の前提として、もしくは不可分に、「無我」すなわち、私が認知するもの(体と心にうまれる認知できる出来事)は、本来的に「生み出されては消えてゆく」のだから永遠不変のアートマン(自我)ではなく、また、わたし(そのもの)でもなく、さらには、わたしのものでもない=わたしの思うままになるものではない(=無自覚に愛執を生み執着する「五取蘊」が常態)、という理解が成立するようです。釈迦は、人の認知形成機能は、ありのままでは苦しみを生み出すようにできている、と考えたことになります。幼児の感情の分化が主として、特有の欲求や価値判断を持った別個の人格としての養育者との関係の中で、不快の情緒から恐れ、怒り、嫌悪などの情緒が分化され、快の情緒から得意や愛情、喜びなどの情緒が分化され、さらに、それら分化された情緒が他者との付き合いについて判断基準となる価値観や善悪判断などの信念に影響を及ぼすのであれば、人の認知形成機能は、「特有の欲求や価値判断を持った別個の人格としての養育者」の影響のもとで、快、不快の情緒から分化した好悪や恐怖の感情の制約を受ける(幼少期の環境において適合的であった「この人から嫌われたら生きてゆけない」「この人に良くも思われることはとても良いこと」という認知が、成長後において、他者から嫌われることを恐れ嫌悪し良くないことだとする認知や、人に好かれることに過度に気にするなどの認知の形成につながる等)と考えることができます。成長しても、幼少時に学習した好悪や恐怖の感情の制約を受けることを前提にするならば、幼少時に学習した好悪や恐怖の感情の制約は、成長後に遭遇する事態に対して自由に物事を観察し考察することを妨げ、幼少時に学習した好悪や恐怖の感情の制約に駆動されて物事を判断するならば、無自覚に、自らへの束縛を生みだすことなりますから、結果として「人の認知機能は、ありのままでは苦しむようにできている」ということには説得力が生まれます。このような情緒の分化を考えるならば、誰でも、大なり小なり、認知行動療法(認知療法系)の非機能的な中核信念や、スキーマ療法の早期不適合スキーマが(生活上支障を生じるものであるか生じないものであるかの違いはあるものの)、形成されていると考える方が自然です。ジェフリー・E・ヤングさんは「早期不適合スキーマは、一般の健常母集団にもみられるが、それが臨床母集団においてはより明確な形で現れる」といっています。(「スキーマ療法」金剛出版)釈迦の認知論、方法論は、外部の観察者(研究者、医師、心理学者など)が、規準を設定して、観察対象である心理的困難を抱えた人を診察、観察し、規準から大きく外れていて、悩み苦しむなら、その規準に戻してあげれば悩み苦しみはなくなるはずだ、という考え、方法ではありません(規準を設定している方法の効果を否定しているわけではありません)。そもそも釈迦の認知論は、自らの体と心のはたらき(五蘊)の観察考察をおこない、自らの体と心のはたらきについての自覚に到達することによって、悩み苦しみの生成原因に到達し、自らが原因をなくすことで悩み苦しみを解消する方法論です。(それゆえ、釈迦の方法論を僧団の中で実践する人々の教えを、大乗は、自分を救うだけで、たくさんの人を救えない「劣った教え」(漢訳で「小乗」と訳された)と攻撃したのでしょう。)釈迦の教えは、「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずあれ」(大般涅槃経)というものですから、釈迦の教示に基づく自己の観察考察により到達した自覚、物の見方考え方、わかりやすく言えば、釈迦の方法により自らの内に培った「スキル」以外に「たよりと」なるものは在りません。釈迦は、釈迦が説いたことを信じなさいと言ったのではなく、釈迦の教え「よりどころとして」実践して自らの「体と心のはたらき」「認知形成のしくみ」自覚して、そこから生み出される悩み苦しみをなくしなさい、その過程で得た自分の知見(言い換えれば「スキル」)を「たよりと」しなさいということを説いたと私は理解していますから、この場合の「法」は、「釈迦の教え」ということではなく、釈迦の教えを実践して、自らが証得したこと、言い換えれば、みずからが「体と心のはたらき」「認知形成のしくみ」を観察して、悩み苦しみを解消するため自らに発現させた如実知見、智慧、四聖諦など(のスキル)を、「法」であると考えて、「法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずあれ」と理解するのが妥当だと思います。どんなに有用な教えであっても、自分の役に立つ、つまり自分でスキル化できなければ、自分の悩み苦しみはなくなりません。釈迦の教えがある、それを理解した、ということと、自ら(をたよりとして)、釈迦の教えを(よりどころとして)実践して、釈迦の教え(如実知見、智慧、四聖諦など)を自らに実現した、ということは別のことです。釈迦の教えによって自動的に悩み苦しみがなくなるわけではなく、釈迦の教えもとづいて、自ら実践して、自らの悩み苦しみを生み出す「体と心のはたらき」「認知形成のしくみ」を自覚し、悩み苦しみをなくすことができるよ、と釈迦は説いたのでしょう。上記の考えを、今日の心理療法に当てはめるなら、心理療法、例えば「ある人」がベックの認知モデルで説明可能な状態であれば、ベックの認知モデルで説明可能な状態に至った経緯は、「ある人」に特有の事情によりますから、「ある人」が「ベックの認知モデルで説明可能な状態に至った「ある人」に特有の事情を振り返り、「ベックの認知モデルで説明可能な状態に至った」原因を、ベックの認知モデルを「たよりに」特定し考察し対処することによって、心理的困難が解消したならば、「ある人」は、同じような心理的困難が生じたら、今度は、ベックの認知モデルに基づいて自分がやって得た知見を「たよりに」すればよいよね、ということが可能になるでしょう。(釈迦が説いたことを「法」として、法を信じなさい、敬いなさい、となれば宗教となるでしょう。釈迦が説いたことを、自らの悩み苦しみをなくすための、各自が実践するための方法論と考えれば、釈迦の説いたことは、「釈迦の人間理解=認知論に基づく心理療法」でもある(100%心理療法であるとまでは言うつもりはありません。)と言えるでしょう。)釈迦の認知論に到達する方法は、自らの体と心のはたらきの観察考察を徹底して、自らの体と心のはたらき(五蘊)を自覚したならば、その自覚によって他者の体と心のはたらき(五蘊)も観察してみなさい、両者が合致するなら仏教で言うところの「法」、春秋社版では「事象」「真理」と訳されることもある「体と心にうまれる認知できる出来事」が理解できるでしょう、そこまで到達すれば悩み苦しみつらさの生まれる原因も自覚でき、(瞑想実践によって好悪や恐怖の感情の制約を受けることは克服しているので)悩み苦しみつらさをなくす方法もおのずと開示されるでしょう、方法が開示されたならそれを実践すれば悩み苦しみはなくなりますよね、というものです。すごく平俗的な言い方をすれば、他者の言うことを無自覚に信じるのではなく、自分の体と心のはたらき(五蘊)の観察考察によって得られた自覚を、他者の観察というスクリーニングを経て、物事をありのままに見る能力を養い苦しみをありのままに知り、苦しむより、苦しまない方がいい、自己の苦しみつらさをなくそうという、人が本来持つ機能(四聖諦)を起動し、智慧を発現させ、物事を判断しなさい、ということになるようです。釈迦は、自らの体と心のはたらき(五蘊)の徹底した観察と考察から、自己と他者との比較などの「規準」を自らの内に生み出し(概念化して作り出し)、ものごとを判断する認知形成のしくみそのものが、悩み苦しみを生み出す原因と考えているようにも思われます。(後記、「自己意識(慢)」参照してください。)釈迦の認知論、方法論は、西欧由来の心理学、心理療法の前提である(と私には思われる)、自我を想定した意識的な思惟による認知形成、形成された概念に信頼を置くことと対局にある(概念を信頼することが概念による束縛を受けると考えていた)ように思われます。釈迦の認知論とそれに基づく方法論は、人が、自らの「野放し状態の」認知形成機能を、信頼する、確かだと思うことによる執着が、悩み苦しみつらさを生むという、人の認知形成機能そのものに対する不信感があり、それゆえ悩み苦しみつらさを生む人の認知機能を、徹底的に観察して自覚して、野放しにしなことによって、悩み苦しみつらさを生み出さないようにすることができる、というものととらえられます。その過程で、観察考察への高度の集中によって、観察対象としての自己は希薄化もしくは消失し、自己があるとは認められない、認知形成機能は「野放し状態」なのだから、認知形成機能それ自体も「自分のもの=自分のおもいのままになるもの」ではない(だから悩み苦しみも生み出す)、という理解に至ったのではないでしょうか。自分ではなく、自分のおもいのままにもならない、ことを仏教では「無我」と言うようです。釈迦は、瞑想による、人の体と心のはたらき、認知形成のしくみと言える色、受、想、行、識の徹底的な観察考察によって、色、受、想、行、識のはたらきにによって、無自覚に生み出され消えてゆく認知(最終的には釈迦は「事象」(春秋社版)と認識したようです)を、好いもの楽しいものと感じて執着してしまう(執着したものが得られなければ怒りうらみを生む)ことによって、物事をあるがままに見ることが妨げられ、物事をありのままに見ることが妨げられているから、あり得ないことも自ら生み出し欲求し執着してしまい、悩み苦しみつらさを生み出してしまう(求不得苦と説明されます)と捉えたようです。そして上記のような状態が、人の体と心のはたらき、認知形成のしくみと言える色、受、想、行、識のありのままの野放し状態「五取蘊」であり、「五取蘊」の状態が悩み苦しみつらさを生み出す、との認識に到達したようです。人は生きている限り、認知することを止めることができず、それゆえ、無自覚に自分を拘束して物事をありのままに見ることを妨げる様々な解釈、概念、見解を生みだし(そこには幼少時に形成された信念、スキーマなども含まれます)、悩み苦しみつらさを生み出す、そのような認知形成のしくみと言える色、受、想、行、識のありのままの野放し状態である「五取蘊」によって、さらに、生み出された悩み苦しみつらに色、受、想、行、識が無自覚に反応することで新たな悩み苦しみを生み出す、というのであれば、それは苦の生成の無限ループのようなものです。生きることが、苦の生成の無限ループだとするならば、どこかで断ち切るしか対処法はありません。釈迦は、人は、ありのままの状態では苦しみを生み出し続けることが不可避なのだ、との認知に到達した上で、さらに瞑想によって、自らが苦しんでいることを「ありのままに」認識することによって、苦しいより楽な方がいい、楽な状態を実現しよう、という体と心に本来備わっている機能を起動すること、すなわち、人が必然的に生み出してしまう悩み苦しみつらさをなくすための、人の体と心のはたらきと認知形成のしくみの転換方法である「四聖諦」に自らの体験から到達したと考えています。「自らが苦しんでいることを「ありのままに」認識すること」とは、言い換えれば、「自分の外部(他者など)が変われば、このつらさはなくなるだろう」という考えは成り立たず(求めても実現しないから苦しみになる)、自らの内に「体と心に生まれる認知できる出来事」として苦しみが生まれている、と自覚することと言えるでしょう。簡単に言い換えれば、自分の中に形成された悩み苦しみをなくす方法として、自分以外の何かが変わることに期待しても、それは実現しない可能性が高い、全く可能性がないわけではないが、自分の中に形成された悩み苦しみをなくす方法としては確実ではない、と自覚すること、となるでしょう。このような自覚に至れば、自分で、『自らの内に「体と心に生まれる認知できる出来事」として苦しみが生まれている』ことを解決するしか、悩み苦しみをなくす方法はありません。四聖諦は、自分で、『自らの内に「体と心に生まれる認知できる出来事」として苦しみが生まれている』ことを解決するしか、悩み苦しみをなくす方法はないのだという、一見悲観的とも思える認知を形成することによって、「それをするしか悩み苦しみをなくす方法はない」という認知に到達したのだから、「それをするしか悩み苦しみをなくす方法はない」という方法を実践すれば、自分自身が、自分の外に解決策を求めることなく、自ら悩み苦しみを解消することができる、という希望と予測を生み出す方法、言い換えれば智慧を発現させる方法と言えるでしょう。消去法という、解決策を否定した結果、残った方法が、それしか選択肢がないのだから、それをやるしかない、という状況です。否定された解決策が、仮に、自分の欲求に影響された願望に基づく希望的観測としての解決策であったらどうでしょうか。自分の欲求に影響された願望に基づく希望的観測としての解決策を否定してゆく能力が、如実知見だととらえてよいように思います。(釈迦の認知論方法論を明確にするのは、自己の欲求を離れて(離欲)悩み苦しが生まれる原因を観察する、自己の欲求を手放す(離欲)ことに依って、悩み苦しみを生む原因を手放す、「離欲」であると考えられます。)「自分で、『自らの内に「体と心に生まれる認知できる出来事」として苦しみが生まれている』ことを解決するしか、悩み苦しみをなくす方法はないのだ」、という認知が形作られれば、『自らの内に「体と心に生まれる認知できる出来事」として苦しみが生まれている』ことを解決するための方法、悩み苦しみをなくす方法を探索して実行すればよいことになります。釈迦は、『色、受、想、行、識のはたらきにによって、無自覚に生み出され消えてゆく認知(最終的には釈迦は「事象」と認識したようです)を、好いもの楽しいものと感じて執着してしまう(執着したものが得られなければ怒りうらみを生む)ことによって、物事をあるがままに見ることが妨げられ』ているから、自分が苦しんでいるということも自覚できない、物事をあるがままに見ることができ、自分が苦しんでいるとありのままに自覚することができる状態、仏教でいうところの「如実知見」が実現されれば、「四聖諦」を起動させることができ、「智慧の発現」によってによって悩み苦しみを解消する方法が開示されると理解したことから、自らが「四聖諦」を認識するに至った瞑想方法を、物事をありのままに見る能力を開発する方法として四念処として再構成し、弟子たちに教示したものが、ヴィパッサナー瞑想による四念処、四念処による色、受、想、行、識の観察考察という方法論であったと理解することが可能なように思います。仏教のおける「四聖諦」の理解とは異なりますが、「四聖諦」は、以下のような、認知行動療法のBecKの認知モデルと同様な「心理的なメカニズム」として理解することが可能だと思っています。(1)「気分の低下という苦しみが生まれたことを知った(苦聖諦)」(2)「気分の低下という苦しみを嫌悪することなく観察したところ、気分の低下に先行して、非機能的な自動思考が生成されていることが原因であることを知った(苦集聖諦)」(3)「そこで、気分低下の原因である非機能的な自動思考を検討し、合理的なものに修正したところ気分の低下が解消したことを知った(苦滅聖諦)」(4)「気分の低下という苦しみは、気分の低下の原因となる非機能的な自動思考を修正することによってなくすことができるから、気分が低下した時には非機能的な自動思考の修正を実践すればよいということを知った(苦滅道聖諦)」ただし、ヴィパッサナー瞑想の本質的な効力は、表層の意識で起こる非機能的な自動思考の検出、修正という局面においてよりは、七覚支の6番目の定覚支において、それまでに養ってきた観察力が「尋」と「伺」という高度な観察眼考察眼(脳の高次機能のはたらき)として現出し、苦しみを認識し、その苦しみの原因を認識することによって、苦しみをなくす方法を自覚するという「四聖諦」が起動することによってもたらされます。「尋」と「伺」が現出し、「四聖諦」が起動することによって、(非機能的な中核信念や早期不適合スキーマなどがある場合には)非機能的な中核信念や早期不適合スキーマ形成の原因となった経験の記憶へアクセスし、非機能的な中核信念や早期不適合スキーマ形成の原因と、現在において生起する悩み苦しみつらさとの連関を自覚することによって、非機能的な中核信念や早期不適合スキーマ形成の原因となった経験についての自らの解釈とその時の感情身体感覚の記憶を、手放すこと(相応の時間と労力が必要になります)によって、現在において生起する悩み苦しみつらさをなくす、という局面において本領が発揮され、さらにその先にある絶対的な心の平静(解脱)に至ることも可能とする方法と考えた方がよいでしょう。「感情の記憶を、手放す」とは、「尋」と「伺」による観察考察=脳の高次機能系の働きによって、感情の記憶をつかさどる偏桃体系の働きを抑制すること、もしくは偏桃体系の働きを抑制する回路を構築する(新たな認知形成の仕組みの構築)であろうと推測されます。ジェフリー・E・ヤングさんたちの「スキーマ療法」(金剛出版)には、幼少期の外傷体験によって早期不適合スキーマが形成され、大人になって早期不適合スキーマが刺激される脳内の現象について以下のような引用、考察があります。「例えばLeDoux(1996)は以下のように書いている。外傷体験の学習は、2つのシステムを通じて行われる。1つは海馬とそれに関連する大脳皮質によって構成されるシステムで、こちらは記憶の意識的側面と関連する。もう1つは、偏桃体によって構成されるシステムで、こちらは記憶の無意識的側面と関連する。この2つは並行して機能し、そうれぞれ異なる種類の情報を蓄積する。個体は後になって外傷体験に関連する刺激を受けると、2つのシステムはそれぞれ異なる種類の情報を蓄積する。偏桃体系の記憶検索の結果は、危険に対して身体を構えるといった形で表出される。一方、海馬系の記憶検索の結果は、過去の記憶が意識に上るといった形で表出される。(p.239)LeDouxによれば、外傷体験にまつわる強い感情をともなう記憶を符号化したり、保持したり、検索したりする脳機能は、記憶を意識的に処理する脳機能とは異なるということである。また感情を処理する脳機能と認知を処理する脳機能も異なるということである。偏桃体は感情的な記憶を銘記し、海馬と新皮質は認知的な記憶を銘記する。感情的な反応は、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)が全く関与することなく生起する。」(中略)「我々は前述のとおり、早期不適合スキーマを、幼少期をめぐるテーマ(例:見捨てられ、虐待、ネグレクト(養育放棄)、拒絶)を中心とした記憶、感情、身体感覚、認知による構成体であると定義している。脳生物学からスキーマを以下のように概念化できるかもしれない。偏桃体系に貯蔵された感情と身体感覚は、上に挙げた様々な特徴を有する。ある人が、早期不適合スキーマ形成の発端となった幼少期の出来事を連想させる刺激に遭遇したとする。すると出来事に関連した感情と身体感覚が偏桃体系によって無意識的に活性化される。たとえその後その人が活性化された感情と身体感覚を認知することになるとしても、それより前にそれらの感情と身体感覚は偏桃体系を通じて活性化されてしまう。」上記を踏まえて、「尋」と「伺」と「四聖諦」を考察してみます。「尋」は「粗い考察」(大念処経)、「概念的思考」(双考経)、「伺」は「微細な思考」(大念処経)、「精緻な考察」((双考経)などと訳されますが、わたしの経験上では一体として現れるようであり、明確に区別が付きませんので、「尋」と「伺」双方の特徴としてご説明します。「尋」と「伺」は、大念処経では、「苦しみに消滅にいたる道というすぐれた真理」である八聖道を修習することにより、「様々な欲望を離れ、善くないことがらから離れ、粗い考察と微細な考察とをともない、遠ざかり離れることから生ずる喜びと楽しみの瞑想の第一段階(初禅)に達しているのである。」とされ、初禅で発現されるものとされています。経験からは、『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)が始動し、「身体が安らいで幸せな人の心は集中する。」(治意経)という、意図的に集中力を高める事が可能な状態になり、集中力を高めて、心に生じた違和感や苦痛なことを観察しようと意図すると、「尋」と「伺」が現れてきて、下記に引用する「実況中継」のような観察考察が始まります。しかし、下記引用のように第二禅では、「尋」と「伺」を伴いません。「粗い考察と微細な考察とを静めることから内心が清浄になり、心を統一して、粗い考察と微細な思考とをともなわない精神統一から生じる喜びと楽しみの瞑想に第二段階(第二禅)に達しているのである。」これは、「尋」と「伺」の、考察しようという「意図」「意欲」と、考察するという心のはたらきが、心の平静を妨げることが理由と思われます。「尋」と「伺」は、心の平静を得るための川をわたる「筏」であり、対岸に渡り役割を終えたなら「筏」を捨ることによって、第二禅の精神統一に到達できる、ということであろうと思われます。このような考えは、釈迦の方法論の特徴と思われる「離欲」と対応するものである考えられます。悩み苦しみの生成原因にたどり着いたなら、その生成原因が維持さていることには理由があり、その理由とは、なんらかの利益があるから、もしくは利益があると誤解しているからかもしれない(不適切なコーピングを取り続ける理由)、であればその利益を求めることをを捨てれば=「離欲」すれば、悩み苦しみの生成自体がなくなるよね、役に立つ方法でも目的を達したらなら、役に立つ方法から「離欲」して、棄ててゆきなさい、ということなのでしょう。私の経験からご説明しますと、瞑想において、七覚支の「『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)」(治意経)が始動すると、意図的に集中力を高めることができることが実感でき、「身体が安らいで幸せな人の心は集中する。比丘たちよ、身体が安らいで幸せな人の心が集中するとき、比丘には『精神集中という悟りの支分』(定覚支)が始動している。」ということが理解できる状態になります。定覚支を始動させ、心に生じた苦悩を観察してみようという意図を持って瞑想に入ると、アルボムッレ・スマナサーラ先生が「実況中継」と形容する状態が現出します。よどむことなく実況中継がなされ、今自分が、身体感覚を伴い苦悩と感じていることが、過去の体験とその時の感情、身体感覚の再現であること、その時の自分の状況と状況をどのように自分が解釈した(中核信念の原型)のか、そして体験が極めて強いものであったため、その解釈が否定されることなく解釈を変更しながらも今に至るまで保持されていること、保持されているこによって、その後の両親との関係、他者との関係の解釈に影響し、少しずつあらたな経験によって修正されながらも否定されることなく概ね維持されてきたこと、維持されてきたことの要因としては、両親に対する怒り(憎悪)があり、その怒りが「その状況の解釈」を保持させ、その「その状況の解釈」を保持することが怒り(憎悪)を維持する相互関係であったことなどが、一気通貫に自覚できました。ただし当時の苦痛苦悩が再現されることはありませんから、ヤングさんらの「スキーマ療法」(金剛出版)からの引用にあるような、「ある人が、早期不適合スキーマ形成の発端となった幼少期の出来事を連想させる刺激に遭遇したとする。すると出来事に関連した感情と身体感覚が偏桃体系によって無意識的に活性化される。たとえその後その人が活性化された感情と身体感覚を認知することになるとしても、それより前にそれらの感情と身体感覚は偏桃体系を通じて活性化されてしまう。」という状態にはなりません。「尋」と「伺」が発現される前に、念身経に説かれる、好き嫌い、嫌悪、恐怖と怖じ気の克服(偏桃体のはたらきの抑制)が一定程度できているからでしょう。抽象的な理解ではなく、あの時、こう感じた、こう考えた、それがのちのあの時にはこういう発言になった、「こう考えた」ことはこの時、姿を変え保持されてきた、という具体的な記憶の再現となって、自分のことであるのに他者の出来事であるかのように実況中継されます。私は、瞑想時に、初めてこのような状態を体験したときに、これが「尋」と「伺」であろうと考えました。概念的な考察部分を「尋」とし、概念的な考察部分を裏付けとなる具体的な記憶の再現による考察を「伺」としてもいいのかもしれません。私の場合は、幼少時に放心状態になり「もうこんなの嫌だ、やりたくないことばっかりやらされるのは嫌だ、消えてなくなりたい」という体験が、現在に続く希死念慮の原型となったようです。釈迦は、大念処経で、「苦しみの原因のすぐれた真理」として「生存の消滅への愛執」をあげています。私の「消えてなくなりたい」という衝動は、「生存の消滅への愛執」の原型なのかもしれません。この希死念慮の原型は、その後の幼少期を通じて自分の想像の中で維持され強化され、母親との関係の中で、自分の無力感、無能力感、この人にとって自分は無価値なのだという感覚を強く感じ、それが保持され(交流分析の人生シナリオとなり)、そこから厭世観が作られることによって、苦しみを生み、苦しみが記憶され、その後の社会生活では、「死ねばこの苦しみから逃れられられる、そもそも自分なんていてもいなくてもこの世に大きな違いはないのだから」という無価値感を前提とした希死念慮となり、潜在的に維持され続けたようです。また、現在、抱いている希死念慮「死ねばこの苦しみから逃れられられる、そもそも自分なんていてもいなくてもこの世に大きな違いはないのだから」は、五蘊で説明するならば、「想」:「選択肢として心に生じるイメージとして思考」であり、選択肢としての「想」の実現を意欲し実行する「行」に至っていないために、死を選択し実行せずに生きている、といううことも理解できます。ここまでが、おおむね「四聖諦」の「『これは苦しみである』とありのままに知り」(大念処経)に該当すると考えています。そして、次のような認知が生まれると、「四聖諦」が起動するとはこういいことか、と感じるようになります。母親の生い立ちを考えたとき、あのようなキツイ性格になるのも当然であったかもしれない、思うようにならない人生であったのだろう、私が感じた悲しみ辛さと同じもの、もしかしたらそれ以上につらい思いをしながらそれに耐えながら生きてきたのだろう、という想いが生まれてきます。自分が悲しい思いをしている、この悲しみをなくしたいと感じるならば、あの人も悲しみを感じながら(あまりに怒りが強いあまり、それを自覚していないかもしれません)生きてきたのだろう、であれば、あの人の悲しみもなくなることを願おう、と考えるときこれが四無量心の「悲」なのだろう、との思いも生まれます。悔悟は生まれてきません。なぜなら五蓋の「悪作」(おさ)、後悔することは、苦しみなくすことにならないことが、ヴィパッサナー瞑想により了解されている(認知形成のしくみとして定着している)からのようです。掉挙また、「悪作」(おさ)は、掉挙・悪作(じょうこ・おさ)と一括されていますから、悪作は、後悔に加えて、過去の経験時になされた強い感情に基づいた決意、過去の体験の解釈として、現在においても心理状態を不安にする(苦しみを生む)掉挙(心が落ち着かないこと)をもたらす認知と言えるかもしれません。過去の経験時になされた強い感情に基づいた決意であるならば、交流分析の早期決断、過去の体験の解釈は、非機能的な中核信念もしくは早期不適後スキーマということになり、いずれも心が深い平静状態に入ることを妨げるでしょう。私自身は、掉挙(心が落ち着かないこと)を感じ、瞑想状態が進展しないことを感じたときに、自分がここにいてはいけない感覚、ここに存在することを許されていない感覚を感じ取り、それをきっかけに早期不適合スキーマがあるようだということを自覚しました。現在において悪作、後悔が生まれないのは、ヴィパッサナー瞑想の、思考や感情生成を「放す」訓練によって、後悔という「想」(イメージとしての思考)とそれに反応して行為する「行」(自分を責めるなど)を生成しないことにより、結果として、感情(後悔への執着)が生成されないことに加えて、早期不適合スキーマ自体へアクセスができており、早期不適合スキーマに苦しめられていたということを知り、早期不適合スキーマを形成した体験への解釈と言える信念の書き換えを行うことにより、不安や恐怖、苦痛の身体感覚などから解放さるであろうという希望などから、後悔を起こさないことにつながっているのであると思います。人目をはばかってきれいごとを言うこと、人に理解されたい、支持されたいという欲求から物事を考えること、またその反対に、こんなことを考えていると知られたら、私は周囲の人から拒絶されるという恐ろしい目にあうだろうという不利益の予想(恐怖)をはなれて、自分の苦しみの原因が、母親に対する怒りと憎悪、母親に対する怒りと憎悪が対人関係の理解に影響し、対人関係の理解の根底に不信感を持つ(不信感が実現した時には容易に怒りが生成される)こととなったのであれば、母親に対する怒りと憎悪、対人関係の理解の根底にある不信感を捨てることが、希死念慮を生成する原因となった認知を希薄化し、結果として苦しみをなくすことになるであろうとの理解に至ります。(「人に理解されたい、支持されたいという欲求」を持つこと、「周囲の人から拒絶されるという恐ろしい目にあうだろうという不利益の予想(恐怖)」をすることは、人の育ち方、すなわち、養育者に見捨てられたら生きてゆけない無力な自分という認知を前提として、養育者から恐怖を与えられて、してはいけないことを学習するという生育過程から、誰でも多かれ少なかれ、他者から支持されないこと、拒絶されることは良くないこと怖ろしいこと(怖ろしいこと、という意識を認知することは不快なので抑圧され自覚されないことが多いように思います)、と考える傾向はあるでしょう。)これですべてではありませんが、「『これは苦しみの原因である』とありのままに知り」ということになります。「『これは苦しみの原因である』とありのままに知り」ということになっても、苦しみの原因は、そんなに簡単になくすことができることではないので、自分について感じる無力感、無価値感という認知が厭世観となり、厭世観が希死念慮をへとつながるようであるため、瞑想の継続によって無力感、無価値感と厭世観を地道に「つぶしてゆく」ことが必要であること、どのようにしてそれをつぶしてゆくのか、ということも、ああこうすればいいのか、これが厭世観という川をわたる「筏」なのだな、という想いとともに現れてきます。少し話がそれますが、「筏」は、「四聖諦」の起動を説明する時には、重要であると思われますので、紹介します。「筏」どのようになものなのでしょうか。厭世観をもたらす、無力感、無価値感という認知を捨てることは可能でしょうが、そもそも無力感、無価値感は欠乏の認識により成り立っていますので、あれが欲しい、これが欲しい、という認知ではありませんから、あれが欲しい、これが欲しい、からの「離欲」では退治できません。「ないんだから仕方ないでしょ」という認知だからです。「ないんだから仕方ないでしょ」という認知によって「得られるもの」もあります。たとえば「うまくできなくたって仕方ないでしょ、だってそれをする能力がないんだから」といった言い訳を他者に対しても自分に対しても準備するといった具合に。母親の私に対する攻撃は、暴力に続く二言目には「バカだ、愚図だ」でした(この言葉を発するときの母は、私に憎しみを感じていたように思えました、事実とは多少異なるものであるかもしれませんが、子どもの私の「認知」したことであり、その「認知」に基づいて解釈が行われます)から、それに対する防衛策として「うまくできなくたって仕方ないでしょ、だってそれをする能力がない(バカで愚図な)んだから」という言い訳を、自分対しても母親に対しても、心の中に用意していたようです。そしてそれは、社会に出てからは、周囲や上長から期待される役割を果たせないかもしれないと自分が予想し、「期待される役割を果たせないかも」という考え(想)が兆したときに、期待される役割を果たせなかったときに、自分に生起するであろう苦痛をに対して、「うまくできなくたって仕方ないでしょ、だってそれをする能力がないんだから」という自分を納得させる方法として、保持されたように思います。周囲の評価をいつも気にしていたこと、人生の選択のような場面でも、ここは一発勝負に打って出よう、という行動にはつながらなかったことにも納得がゆきます。言い換えれば、不適切なコーピング(対処法)であっても何かが得られる、もしくは得られると誤解するから採用するのでしょうから、その不適切なコーピングによって「得られるもの」を放棄する、というやり方も「筏」として当然に想定されます。不適切なコーピングによって「得られるもの」を放棄する、とは、もはや自分に対しても母親に対しても、周囲の誰に対しても「うまくできなくたって仕方ないでしょ、だってそれをする能力がないんだから」という言い訳(母親の「バカだ、愚図だ」攻撃にさらされている時には相応の必要性はあったものの)、もはや必要はないこと、むしろ「うまくできなくたって仕方ないでしょ、だってそれをする能力がないんだから」という考え方(解釈、信念)を持っていること自体が、自分の能力を制限し、体と心の負担であり、悩み苦しつらさを生むということを知り、それを形成した時に抱いた感情(怒り、憎悪)とともに、自分の解釈(信念)を手放す(書き換える、修正する)という作業になるでしょう。これは、認知行動療法における、適応的な信念への書き換え、という方法になるでしょう。この考え方は、うつの反芻や非機能的な自動思考が生成される動機を理解し、それを放棄する手掛かりになるように思います。別の方法として、わたしには力がある、わたしには価値があると信じ込む、という方法がありますが、釈迦の認知論に立つならば、これには大きな落とし穴があるように思います。それは、「わたしには力がある、わたしには価値がある、と信じ込む、という方法」は、無力-有力、無価値-有価値という評価尺度を維持したまま、自分の位置を無力から有力へ、無価値から有価値へと移動することとらえられますから、依然として無力、無価値によって判断するという概念は維持され、無力、無価値という概念を自分に適用しなくなるだけで、自分に適用しなくなることによって、他者へ無力、無価値という概念を投影し、自分をその対極に位置付けることによって有力、有価値ということを確認しようという意図を生みかねません。また、「わたしには力がある、わたしには価値がある、と信じ込むという方法」は、「わたし」という概念を強化することにもなるでしょう。「わたし」という概念が強固であることが悪いわけではありませんが、好悪の感情、恐怖などの感情がなくなれば「わたし」という仕掛けを使う必要性が少なくなることを考えれば、「わたし」という仕掛けは、「自己の感情の満足を追及するための仮構」、なのではないかとの考えにも至ります。すなわち「無我」という認知が生まれてきます。好悪の感情、恐怖などの感情(心に生まれる認知できる出来事)は、わたしではなく、「わたしのもの」=「わたしのおもうまままになるもの」でもないのであれば、好悪の感情、恐怖等の感情が生まれなければ、それらをわたしであるとも、「わたしのもの」=「わたしのおもうまままになるもの」という認知が生じる必要は、好悪の感情、恐怖等の感情についてはなくなります。そのように考えるならば、『「わたしには力がある、わたしには価値がある、と信じ込む、という方法」は、「わたし」という概念を強化』することになり、そのことは「自己の感情の満足を追及するための仮構」とも考えられる「わたし」という意識を強化し、感情の満足の追求を強化し、そのことは感情の生成、野放し状態といえる五取蘊を抑制する方向には向かわないように思われますから、そもそも悩み苦しみを減少、低減する方向には進まないと思量されます。(当然、自我意識は、個人が社会の構成員として権利義務の主体であり、個人の自由意思による決定を前提して、社会の構成員としての責任を果たすことが要請されるという、近代社会を成立させるために基本的な考え方、という側面もあるでしょう。無我とは次元を異にすることではありますが。)『釈迦は、自らの体と心のはたらき(五蘊)の徹底した観察と考察から、「規準」(という創作物)を自らの内に生み出し、ものごとを判断する認知形成のしくみそのものが、悩み苦しみを生み出す原因と考えているようです。』という立ち場に立つのであれば、「わたしには力がある、わたしには価値がある、と信じ込む」という方法は、力のあるなし、価値のあるなしという「規準」(という創作物)の存在を前提にしていますから、あまり好ましい結果を生まないように思われます。※このように私がヴィパッサナー瞑想において考察しているとき、上記「スキーマ療法」で説明される「偏桃体は感情的な記憶を銘記し、海馬と新皮質は認知的な記憶を銘記する。感情的な反応は、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)が全く関与することなく生起する。」ということが本来の脳の機能であることを前提に、私はヴィパッサナー瞑想の「尋」と「伺」によって「脳の高次処理系(思考、推論、意識など)」を活用して、偏桃体の「感情的な反応」を抑制することを一定程度可能にしている、という理解が成り立つでしょう。このことは言い換えれば、認知形成機能の野放し状態といえる五取蘊の抑制を図っているともとらえられます。また、ついでに言えば、「感情的な反応は、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)が全く関与することなく生起する。」ということは、自分が携わる分野で業績をあげた人が、権限を有する地位についた時に、優秀な人であるのにもかかわらず、不適切な言動等をとってしまい、場合によってはその地位を失うことにもなるのはなぜか、と考えた時に答えを与えてくれそうです。答えは、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)をフル活用して、権限を有する地位につくことはできたが、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)は、感情的な反応を抑えることができないのだから、大きな権限を得たことによって増大した(自分に快をもたらす)、自己の欲求、衝動など(の感情の充足への欲求)を、当人が大きな権限を持つ地位に到達することを可能とした、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)の活用方法では、それらの欲求、衝動を抑えることができないから、ということになりそうです。もし、権限を有する地位につくことの動機、原動力が、自己を誇示したいという欲求や、人の上に立ち権力を行使したいという欲求であり、その実現のために脳の高次処理系(思考、推論、意識など)をフル活用したのであれば、増大した(自分に快をもたらす)、自己の欲求、衝動など(の感情の充足への欲求)を抑えることは、期待する方が無理という理解にいたります。このように考えると、ヴィパッサナー瞑想は、アンガーマネジメントにも活用できそうです。ヴィパッサナー瞑想によるアンガーマネジメントは、対症療法的に怒りを抑えるではなくて、怒りを生起させる認知形成のあり方自体を変革するのことにより実現される、と考えられます。そもそも、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)の活用が得意な方であれば、外部から強要されるのではなく、「尋」と「伺」を現出させ、自らの考察として、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)を活用して、偏桃体の「感情的な反応」を抑制しようとすることは、方法としては難しいことではないでしょう。(とはいえ、自己を誇示したいという欲求や、人の上に立ち権力を行使したいという欲求を満たして満足している人が、このようなことに取り組むとは考えにくいですが。)人の認知形成のしくみを理解するためにはわかりやすい事例であったとおもいますが、少し話がそれてしまいましたので、お話を「筏」に戻します。「筏」として、ヴィパッサナー瞑想中に「尋」と「伺」から指し示されることは次のようなことです。無力感、無価値は、「無いんだから仕方ないでしょ」という考えであり、「やってもうまくできないだろう」「それを手に入れようと思ってやってみても手にはいらないだろう」「人生は思うようにならない、好いことなどない」という考え方(厭世観)と親和性があり、それらの考えを生みだすのだろう、それらを打ち破るには「離欲」とは反対の手段、つまり何か役立つものを欲求することが必要となりそうだ。川を渡ったら捨ててゆけばよいのだから、無力感、無価値、厭世観という川を渡り、希死念慮を克服するための「欲」という「筏」を作る必要があるのではないか。それでは、私にとっての「欲」という「筏」とは何であろうか。(今まで長らく自分がやりたいことをする、ということからは無縁に、他者からよく評価されることが良いことと考えてはたらき、そのことが結局厭世観を強めていたという自覚から)「やりたいことをやりつづけるため」の努力なら、義務感とは無縁に、「欲」によって駆動され、継続することができるだろう、社会生活の中で身に付けた、「こうすることが良いこと、こうすることが人から敬意をしめされるなどの概念(価値観)」によるのではなく、自分自身がそれをするなら労を厭わない「やりたいこと」を選び、「やりたいことをやりつづけるための努力」をするということであれば、無理なく続くだろう。ヴィパッサナー瞑想は、「こうすることが良いこと、こうすることが人から敬意をしめされるなどの概念(価値観)」を持つから、それに拘束されて苦しむのだ、という認知(智慧)を生み出すようだ。それは価値観が万能ではなく、(非機能的な中核信念と同様に)便宜上、自らが体験したことから無自覚に作り出した適応範囲の狭いものであるから、価値観は、容易に自己を取り巻く環境から生み出される新たな課題と齟齬(そご)をきたし、対応できない、という状況を用意に生み出す、それゆえ苦悩を生みだされるのだろう。(「便宜上、自らが無自覚に作り出した適応範囲の狭い」価値観に束縛されない方法は、釈迦が到達したように、生起する認知は「体と心にうまれる認知できる出来事(ただしそれは自分のおもいのままになるももではない)」にすぎない、という自覚に到達したうえで、「脳の高次処理系(思考、推論、意識など)」を活用して、偏桃体の「感情的な反応」を抑制し、感情に影響されない合理的な選択を行う、ということになるのだろう)義務感とは無縁に、「やりたいことをやりつづけるため」の努力がなされるならば、その努力は、「努力を始めた人には混じりけのない喜びが生じる。」(治意経)という「喜覚支」が始動するだろう。(自分では)「尋」と「伺」が始動していると考えられるので、「軽安覚支」「定覚支」は起動しているはずであるが、性格上「喜覚支」の育成は、「瞋性(しんしょう)であるため苦手である。それでも「定覚支」には到達し、「尋」と「伺」は始動する、ということのようだ。「喜び」の涵養により、「喜覚支」もしくは「四無量心」の「喜」の瞑想ができるようになれば、(経験の解釈としての信念とともに保持されてきた)両親に対する怒り、憎悪とそれが他者に投影された結果生まれる他者への不信感、敵意による「苦の感受(不安状態、緊張状態、厭世観をもたらす)」もなくなるだろう、そのことはとりもなおさず、自分、人への解釈の仕方を改変することとなり、自分の体と心の反応パターン、すなわち性格がかわる、ということをもたらすだろう(性格が変わると、どうなるのだろうかと楽しみにする感覚も生じる)。【補足説明始まり】「喜覚支」の育成が苦手、ということは、私が、テーラワーダでは「瞋性」とされる性格であることによるようです。テーラワーダでは、現在では行われていないようですが、師が新弟子に瞑想の課題をあたえるときに、最適な瞑想課題を与えるために、弟子をかなり長期間にわたって観察し(釈迦は、ヴィパッサナー瞑想により自分の体と心のはたらき、認知形成のしくみを観察するだけでなく、他者のそれも観察して自覚を高めなさいと説いていますから、ヴィパッサナー瞑想の一環として行われるのかもしれません。)、弟子の性格を判定するのだそうです。その一つの「瞋性」という性格は、四無量心の瞑想対象となる「慈」「悲」「喜」「捨」のうち、「悲」の瞑想は理解できるものの、「喜」の瞑想はできない、とされているそうです。(アルボムッレ・スマナサーラ先生、藤本晃先生「釈迦の実践心理学第七巻」サンガ)私自身、「喜」の瞑想を1週間ほどやってみたのですが、はかばかしい進展はありませんでした。そもそも私の場合には、長らく(自覚しないまま)両親への怒り、憎悪を抱き続けている状態であったことから、怒り、憎悪が「喜び」という心の自由な活動を妨げていた、ということはいえるでしょう。心の奥底に、「(自覚しないまま)両親への怒り、憎悪を抱き続けている状態」であったのですから、外部からの刺激は、怒りや憎悪の発現を刺激する、すなわち怒りやすく、他者を恨みやすい(他責)性格(後にご説明する瞋恚図眠)であったといえます。今では別に両親と普通に付き合っていますが、体と心のはたらき、認知形成のしくみに、怒り、憎悪による反応が自覚なく習慣化している、ということはあるでしょう。意識上は怒り、憎悪がなくとも、怒り、憎悪による従前の反応が自覚なく行われるということには思い当たるところがあります。このように考えると、体と心のはたらきと認知形成のしくみを一体不可分のものと考えたとしても、怒りや憎悪、悩み苦しみなどが「認知される領域」と、怒りや憎悪、悩み苦しみなどの「生成の原因を包蔵しそれらを生成する領域」は異なるようにも思われます。わたしのような場合には、ヴィパッサナー瞑想に加えて、(慈しみの心憐みの心を養う)慈悲の瞑想が役に立ちそうです。慈しみの心憐みの心について多く考えれば、「もうなんでも、比丘達よ。比丘がそれについて多く思い考えるほど、ますます心は傾く。」(双考経)ということになりそうです。【補足説明終わり】(私には)『両親に対する怒り(憎悪)があり、その怒りが「その状況の解釈」を保持させ、その「その状況の解釈」を保持することが怒り(憎悪)を維持する相互関係であったことなどが、一気通貫に自覚できました』という状況なのだから、「瞋性」として人生の大半を過ごしてきたといえる。自分が「瞋性」であると考えると、『両親に対する怒り(憎悪)』を捨てる(遠離する、離欲)ことは、自分の性格を変えることになるだろう。【補足説明始まり】そのように考えると、自分の生きてきた人生には理解がゆく。釈迦が教示した(後に説明します)「瞋恚随眠」を養ってきたとも言える。特にやりたいこともこれといってなかったので、職業生活を通じて、(それは衡平の観点からみておかしいという)怒りを作ることによって、活動のエネルギーに変えてきたところもありました。だからと言って、ここでも虚しい、という考えは起こりません。先にご説明したように悪作(おさ)、すなわち後悔は役に立たないということが経験的に自覚されているからでしょう。むしろ「自覚」できてよかったくらいに感じています。ここでは「育ててもらった恩をわすれて親を怨むなんてひどい人だ」という価値観に基づく認知形成は、自らを苦しめることとなり、自分を、悩み苦しみつらさから解放することの役に立たない、ということがご理解いただけると思います。釈迦の方法論の特徴は、離欲であり、「自らを苦しめること」となるのであれば、『「育ててもらった恩をわすれて親を怨むなんてひどい人だ」という価値観』であっても捨てなさい、というものであると理解してよいでしょう。『「育ててもらった恩をわすれて親を怨むなんてひどい人だ」という価値観』を捨てたからといって、親を怨むことにならず、逆に親を怨むということから「離欲」できます。逆に、他者が指摘、説得もしくは強制する時には、「育ててもらった恩をわすれて親を怨むなんてひどい」ことなのだから、心を入れ替えなさい、という論理を使う可能性が高いでしょう。阿含経には「世俗的な思考」というものが出てきますが、釈迦の説く「悪作(おさ)」の意味を考えるならば、私には、上記のような論理も「世俗的な思考」であり「悪作(おさ)」を作り出すものであると思います。心を入れ替えなさい、反省しなさい、というのは「自分の考え価値観」(ある程度他者にも共有されているとはいえ自ら作り出した概念)を他者に強要することにほかならず、自分が価値観に縛られていることになり、釈迦の到達した境地は、価値観など(ある程度他者にも共有されているとはいえ自ら作り出した概念)で自分を律しなくても、他者への敵意や害意は自分を苦しめることとなることを知り、欲を滅しているのだから起らない、ということなのではないでしょうか。そもそもヴィパッサナー瞑想は、自分の苦しみは、自己の「体と心に生まれた認知できる出来事」であって、それを他者がなくすことはできないのだから、自らの五蘊(体と心のはたらきと認知形成のしくみ)の観察によって得た自覚だけを頼りに、生きてゆきなさいという「思想」ととらえてもいいかもしれません。「それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他の者をよりどころとせずにあれ。」(大般涅槃経)(この場合の法は、先の説明とは少し表現は異なりますが、釈迦の教えを実践して「自らの五蘊(体と心のはたらきと認知形成のしくみ)の観察によって得た自覚」と考えてよいと思います。)また大般涅槃経で、釈迦は、自らについて、このようにも語っています。「しかし向上につとめた人は『わたしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは、『修業僧の仲間はわたしに頼っている』とか思うことがない。」誰かから指導したり指南されることなく、『自分が悲しい思いをしている、この悲しみをなくしたいと感じるならば、あの人も悲しみを感じながら(あまりに怒りが強いあまり、それを自覚していないかもしれません)生きてきたのだろう、であれば、あの人の悲しみもなくなることを願おう、と考えるときこれが四無量心の「悲」なのだろう、との思いも生まれます。』というのですから、私は「悲」の瞑想は理解できているようです。「四聖諦」は、「『これは苦しみである』とありのままに知り」(大念処経)で始まりますから、「『これは苦しみである』とありのままに知り」という状態、「『これは苦しみである』と認知しない人には(きわめて逆説的ですが)、四聖諦は起動せず、次の「『これは苦しみの原因である』ありのままに知り」という状態に至れないと考えられます。そして「『これは苦しみである』とありのままに知り」の中には、自分の悲しみを認識することも含んでいるのでしょう。自分が悲しんでいるのだ、ということを知るから、悲しみをなくそうと思い、他者にも自分と同じ悲しみがあるのだろうか、多分あるのだろう、あの人の行動は悲しみゆえであったかもしれないと思いたるなら、自分の悲しみをなくしたいし、他者の悲しみもなくなって欲しい、と感じることが自然です。これが四無量心の「悲」のひな型であろうと考えます。実際の四無量心は、ひな形を育てる努力を行うことで育成されるようです。四無量心の「悲」は、道徳観という概念によってもたらされるものでもなく、道徳観を養うことによって育成するものではないと考えています。道徳観が好ましくないと考えているわけでは、当然にありませんが、あらゆる状況おいて妥当だと判断できる道徳観は想定できませんし、道徳観それ自体が、共有されている部分はあるとはいえ、自己の創造物であり、道徳観という概念に束縛されることとなるならば、物事をありのままに見て、適切な判断をすることを妨げるでしょう。それ故、釈迦は、道徳観という、自己の創造物である概念を自己の一部と無自覚考える「自己意識(慢)」を滅している、と説いたのでしょう。(火バッチャ経)四無量心は、「『これは苦しみである』とありのままに知り」によって起動する「四聖諦」からもたらされるものであると考えます。大乗では、慈悲を自らの内に観て、それを育てるという小乗の瞑想修行に変えて、自己の外部に救済者としての仏を想定し、仏が慈悲をもって救ってくださる、という論理になったのかもしれません。【補足説明終わり】私にとって、『無力感、無価値、厭世観という川を渡り、希死念慮を克服するための「欲」という「筏」を作る』ということは、『「やりたいことをやりつづけるため」の努力』によって、日々、喜びを発生させ自覚し、集中力を涵養し、それにより無力感、無価値感を打ち消す効力感、生への活力を涵養する生き方をする、という「筏」ということになりそうだ。努力(に集中すること)による「喜び」は、欲望を充足させることによる「喜び」と、「喜び」において同質でも、「喜び」という報酬の獲得の方法が異なる、のだろう。双方ともドーパミンなのどの脳内麻薬分泌による「喜び」の獲得であるのだろうが、『欲望を充足させることによる「喜び」』は、達成したという概念的認知をともなう「喜び」だから、達成への欲求を高めるだろう。しかし『欲望を充足させることによる「喜び」』の、そのしくみに無自覚であるならば、欲望を充足させること、欲望へ執着する性向を強化する方向にはたらくであろう。すなわち『欲望を充足させることによる「喜び」』を養成することは、釈迦の教示する方法「離欲」とは反対の方向ということになりそうだ。『努力(に集中すること)による「喜び」』は、努力と集中への欲望を高めるだろう。こちらも欲望ではあるが、『努力(に集中すること)による「喜び」』の欲望は、努力を持続させ、集中力を強化し、集中力の強化は、瞑想による観察考察を進展させ、集中力によって、外界からの刺激に対する体と心のはたらきの反応パターンを変化させることも可能にするだろう。【補足説明始まり】J.カバットジンさんは、『「マインドフルネス瞑想法」は、”注意集中力”を高めるためのトレーニングを体系的に組みたてたものです。』(「マインドフルネスストレス低減法」北大路書房)と言っています。集中力を開発することは、迂遠(うえん、遠回りなこと)なことのように感じられるかもしれませんが、この「筏」を使うことは、(後でご説明しますが)『出来事に対する自己の体と心に「定着している」反応パターンを、ヴィパッサナー瞑想によって得た自覚から「選択した好ましい」自覚的な反応に切り替えてゆく』ことにほかなりませんから、すぐに効果があらわれる、というものではありませんが、コンプリートせずとも、やり続けることで効果は持続されるであろう思っています。ヴィパッサナー瞑想は、継続することによって、日々のかすかな変化への気付きがあらわれます。ヴィパッサナー瞑想を継続するためには、自己の体と心のはたらき、認知形成のしくみが、日々すこしずつではあっても変化することを確認することが重要であるように思います。言い換えれば、日々すこしずつではあっても変化していることを確認できるようになる観察力を養うことによって持続でき、持続するが効果を発現させることになる、と言っていいのかもしれません。『ヴィパッサナー瞑想によって得た自覚から「選択した好ましい」自覚的な反応に切り替えてゆく』ことが日々すこしずつであっても確認できることは、喜び、効力感の育成となり、一定期間経過後には大きな変化をもたらすように思います。このように「筏」を活用して地道に、「苦しみの原因」を、すこしずつでも「つぶしてゆく」ことを自覚することが、「『これは苦しみの消滅である。」とありのままに知り」、「『これは苦しみの消滅にいたる道である』とありのままに知るのである。」ということになります。定覚支の状態で、集中力を高めると、こいうことなのかなぁ、というのが目のまえに現れてきてそれを観察すると、こうすればよいのだな、という考察となって現れてくるので、それを称して、わたしは、「四聖諦」が起動する、と言っています。こいうことなのかなぁ、こうすればよいのだな、と聞くと、その程度なの?って思われるかもしれません。でもその程度です。そもそも「尋」と「伺」があらわれて「四聖諦」が起動しても、「自分の中のなかにないこと」は出てきません。釈迦の方法論は、認知論ですから、自分の外から、自分が持ち合わせていない解決策を持ってこようとする方法ではなく、自分の中にある解決方法を探し当てる智慧を起動する、という方法論です。こいうことなのかなぁ、こうすればよいのだな、という認知と自覚に触れると、自分で作った自己概念で自分を認知していて、その自己概念が無自覚と欲望にもとづいて理想化拡大化された、等身大の自分を超えている創造された認知(仏教でいうところの増長慢)であったり、自分が抱える問題を、自分の頭の中で「深刻に概念化している」認知形成のしくみがあるから、悩み苦しみつらさが拡大するのかな、という思いも生まれます。理想化拡大化された自己概念や、「深刻に概念化している」ことに気付き自覚し、それを手放して、悩み苦しみつらさを手放すことになるのであれば、心の平静をもたらすとされる捨覚支の入り口なのかもしれません。【補足説明終わり】以上の経験と考察を踏まえて、ヴィパッサナー瞑想の方法論を、ヤングさんらのスキーマの定義を参照して考えてみます。「スキーマ療法」(金剛出版)からの引用を再掲します。「我々は前述のとおり、早期不適合スキーマを、幼少期をめぐるテーマ(例:見捨てられ、虐待、ネグレクト(養育放棄)、拒絶)を中心とした記憶、感情、身体感覚、認知による構成体であると定義している。脳生物学からスキーマを以下のように概念化できるかもしれない。偏桃体系に貯蔵された感情と身体感覚は、上に挙げた様々な特徴を有する。ある人が、早期不適合スキーマ形成の発端となった幼少期の出来事を連想させる刺激に遭遇したとする。すると出来事に関連した感情と身体感覚が偏桃体系によって無意識的に活性化される。たとえその後その人が活性化された感情と身体感覚を認知することになるとしても、それより前にそれらの感情と身体感覚は偏桃体系を通じて活性化されてしまう。」ヴィパッサナー瞑想では、「尋」と「伺」が現れ、「四聖諦」が起動する状態となっていると、恐怖や嫌悪感や苦痛などの感情、身体感覚は生起することはないようです。つまり「四聖諦」が起動する状態に到達していれば、過去の『例:見捨てられ、虐待、ネグレクト(養育放棄)、拒絶』について記憶を想起させても、その時の苦痛な感情、身体感覚は生まれない、ということです。ただし、『例:見捨てられ、虐待、ネグレクト(養育放棄)、拒絶』を経験し、早期不適合スキーマを形成することとなった人が、ヴィパッサナー瞑想によって「尋」と「伺」が現れ、「四聖諦」が起動する状態にまで至るのは、不可能ではありませんが、簡単でもないでしょう。感情、身体感覚が生起することがないのは、ヴィパッサナー瞑想の実践により、念身経に説かれる「身体にむけた注意」に習熟することにより、好き嫌い、嫌悪感、恐怖心と怖じ気が克服されていること、受(体もしくは心(意識)に生まれる苦、楽、不苦不楽の感覚)、想(言語化される以前のイメージとしての思考)、行(選択肢としての想に対して、意欲し行動する(行動を選択する)こと、言語化して認識することを含む)を生起させないことによって体と心の平静状態といえる軽安覚支、定覚支に到達しているため、「尋」と「伺」により、識(記憶を意識的、無意識的に参照し、比較対照する機能および参照される記憶を保持する機能)を参照し、過去の「例:見捨てられ、虐待、ネグレクト(養育放棄)、拒絶」などの記憶を再現しても、恐怖心や嫌悪感が生起しない、言い換えれば偏桃体系が活性化することが抑制されている状態で、観察考察を行うことが可能となっているから、ではないかと考えています。釈迦の認知論では、楽の感受、苦の感受、不苦不楽の感受は、身体的、非身体的に、想に先行して生起すると捉えられているようです。受に関して、六六経では、「苦の感受を受けているときに、人が、愁い、悲しみ、嘆き、胸を打って泣き、迷妄におちいるなら、かれのなかに怒りうらむ性向(瞋恚随眠)が潜在する。」と教示されています。「出来事に関連した感情と身体感覚が偏桃体系によって無意識的に活性化される。たとえその後その人が活性化された感情と身体感覚を認知することになるとしても、それより前にそれらの感情と身体感覚は偏桃体系を通じて活性化されてしまう。」ことを、苦の感受の生起ととらえるならば、次のように考えることが可能でしょう。上記の六六経の教示は、「苦の感受を受けているとき」は「出来事に関連した感情と身体感覚が偏桃体系によって無意識的に活性化される」ことを示し、「人が、愁い、悲しみ、嘆き、胸を打って泣き、迷妄におちいる」ことは、行(選択肢としての想に対して、意欲し行動すること、言語化して認識することを含む)によって、偏桃体系の活動による感情と身体感覚の生成を活性化させている状態(すなわち認知形成機能の野放し状態としての五取蘊)と考えてよいように思います。六六経では、上記教示に続いて以下のように教示していますから、偏桃体系の活動による感情と身体感覚の生起を抑制することは可能であるという前提で、偏桃体系の活動を抑制することの必要性を釈迦は説いていると考えてよいでしょう。(楽の感受による貪随眠、不苦不楽の感受による無明随眠の教示部分ついては省略して引用します。)「苦の感受のために怒りうらむ性向を除去しないで、(中略)それでいて、現世において、かれに苦しみの終滅がおとずれるというようなことは、道理としてあり得ない。」「苦の感受のために怒りうらむ性向を除去」し、瞋恚随眠をなくす=偏桃体系の活動を抑制する方法論は「四聖諦」なのですが、その「四聖諦」を起動するのは、すでにご説明した下記の3条件が成就されている必要があるだろうと考えられます。(1)念身経にとかれる「身体にむけた注意」に習熟すること等により、好き嫌い、嫌悪感、恐怖心と怖じ気が克服されていること。(2)ヴィパッサナー瞑想の実践により、下記の認知形成機能を生起させないことによって体と心の平静状態といえる軽安覚支、定覚支に到達した状態を実現していること。①受:体もしくは心(認知)に生まれる苦、楽、不苦不楽の感覚②想:言語化される以前のイメージとしての思考)、③行:選択肢としての想に対して、意欲し行動する(行動を選択する)こと、言語化して認識することを含む④識:記憶を意識的、無意識的に参照し、比較対照する機能および参照される記憶を保持する機能(3)(脳の高次機能系の働きと考えられる)「尋」と「伺」により、恐怖や嫌悪感なく(偏桃体の活動を抑制している状態)、いま生じている悩み苦しみを観察考察し、保持された記憶としての「識」を観察考察し、生じている悩み苦しみを生みだす原因としての、悩み苦しみを経験した過去の経験とその解釈に到達すること。「偏桃体の活動を抑制する」とは、「手段としての「筏」とは」でご説明しましたが、以下のようなことが脳内で起っていると推測できると思います。「※このように私がヴィパッサナー瞑想において考察しているとき、上記「スキーマ療法」で説明される「偏桃体は感情的な記憶を銘記し、海馬と新皮質は認知的な記憶を銘記する。感情的な反応は、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)が全く関与することなく生起する。」ということが本来の脳の機能であることを前提に、私はヴィパッサナー瞑想の「尋」と「伺」によって「脳の高次処理系(思考、推論、意識など)」を活用して、偏桃体の「感情的な反応」を抑制することを一定程度可能にしている、という理解が成り立つでしょう。このことは言い換えれば、認知形成機能の野放し状態といえる五取蘊の抑制を図っているともとらえられます。」ヴィパッサナー瞑想の大きなメリットは、早期不適合スキーマを形成した経験の記憶とその経験によって形成された解釈に、恐怖や嫌悪などの感情や苦痛と言える身体感覚を伴わずにアクセスできること、「尋」と「伺」の発現によって、経験の記憶とその経験によって形成された解釈を観察考察すること、書き換えることによって、脳の高次処理系を活性化して、脳の高次処理系による偏桃体の活動の抑制に道を開く(回路の構築)、ということと言えそうです。「尋」と「伺」が発現するならば、ヤングさんらが下記のように説明する「自らのスキーマに言葉を用いて接近する」ことは可能になるように思います。「多くのスキーマは言語が発現する前に形成され始める。つまり子供が言葉を理解し話すようになる頃には、いくつかのスキーマはすでに形成されているのである(患者が自らのスキーマに言葉を用いて接近するのを手助けすることが、セラピストの仕事である)。」(「スキーマ療法」金剛出版)ただし当然に、「尋」と「伺」が発現するための前提条件を満たしていること、すなわちヴィパッサナー瞑想の四念処による五蘊(体と心のはたらき、認知形成のしくみ)の自覚(観察力の涵養)、集中力の涵養などを経由して、軽安覚支(高度なリラクセーション状態)へ到達することが前提です。釈迦自身は、『人は、ありのままの状態では苦しみを生み出し続ける』と考えたのであれば、それはありのままの認知形成機能それ自体が苦しみを生み出し続ける、ということになります。ではなぜありのままに認知形成機能が苦しみを生み出し続けるのか、ということを、釈迦は当然に、観察考察したでしょう。釈迦が観察考察してたどり着いた、『人は、ありのままの状態では苦しみを生み出し続ける』原因は、生への執着により、生を大事なもの失いたくないものと考えること(想)に執着することと表裏一体の、この生を失うことはとても恐ろしいこと(今考えていることによって確認できている自分というものが無くなってしまうことを想像することへの恐怖)という(無自覚な)認知からもたらされる不安があるからではないか、この生を失うことはとても恐ろしいことという認知(想=考え)から逃れたいと無自覚に欲求(欲望)して、色、受、想、行、識により野放図に無自覚に、この世にある生を脅かす沢山のものから逃れるための「求めても得られることのない欲求(認知)」を作り出し、それに執着することによって、この生を失うことはとても恐ろしいことという認知から逃れられると誤解するからではないか、そしてそのことが、「求めても得られることのない欲求(認知)」を作り出す五蘊のはたらき、認知形成のしくみに執着し、野放し状態ともいえる「五取蘊」を招来し、結果として苦しみを生み出し、苦しみ続けることになる、というものであったのかもしれません。先のヤングさんらの「スキーマ療法」では、このような記載があります。「最近の研究で分かってきたのは、脳内の感情システムは1つではなく複数に分散されているということである。個々の感情は個々の生存機能と関連しており(例:危険に反応する、食物を探す、性交する、仲間を見つける、子どもの世話をする、社会的関係を形成する)、それぞれが個別の脳内ネットワークによって媒介されているようである。」私の考える「この生を失うことはとても恐ろしいこと(今考えていることによって確認できている自分というものが無くなってしまうことを想像することへの恐怖)」は、多くの人が抱くことはあっても、本来的に人類に共有されているもの、本来的に人類に共有されているから誰でもそのような恐怖をいだく、といった性格のものではないように思います。社会という環境の中で、概ね近似した価値観を持つ人に育てられ、概ね近似した環境で教育を受けれ、おだやかに個性化した特性のある集団の中で労働すれば、概ね人々の価値観や信念は、社会性のあるものになってゆくでしょうから、「この生を失うことはとても恐ろしいこと(今考えていることによって確認できている自分というものが無くなってしまうことを想像することへの恐怖)」とは、それらとは別の、その人に特有の、生きる上で経験され形成された恐怖に基づき、自己の解釈により生み出された、生きることへの期待を挫く認知、という意味になります。「その人に特有の、生きる上で経験され形成された恐怖に基づき、自己の解釈により生み出された、生きることへの期待を挫く認知」は、小さな子供が(特定の個人です)、この人に見捨てられたら生きていけない、この人に嫌われてはいけない、この人の嫌われることはとても恐ろしいことだ、という無意識の判断を生成することとなった出来事を体験し、その体験とともに生成された強い恐怖と、「経験され形成された恐怖」に基づき、将来においてその恐怖が再現されることが予想されることに対する懸念(不安)などに由来して、拡大的に形成されるものであるように思います。釈迦は、生まれることとして「〔個人存在を構成する〕要素が出現し、認知領域を獲得すること」、死ぬこととして「〔個人存在を構成する〕要素が破壊し、身体を放棄すること。」(大念処経)と教示していますから、釈迦は、生きるとは認知し続けることと考えていたと捉えてよいように思います。それゆえ、出来事を解釈して、その解釈を保持する(執着する)ことは人にとって不可避である反面、出来事の解釈に執着し保持し続けることが、本来生まれては消えてゆく人の認知形成のしくみをゆがませ、悩み苦しみを生む(五取蘊)と考えたのかもしれません。ジェフリー・E・ヤングさんたちは、「多くのスキーマは言語が発現する前に形成されはじめる。つまり子どもが言葉を理解し話すようになる頃には、いくつかのスキーマはすでに形成されいるのである。」(「スキーマ療法」金剛出版)とのことですから、人は、言語発現前の幼少期から「出来事を解釈してその解釈を保持する(執着する)こと」を、無自覚に行っていると考えられます。二度とあんな経験はしたくない、という無自覚な欲求から、「その体験と恐怖の解釈」によって、恐怖に対する予見性を高めることを意図したものかもしれませんが、予見性を成立させたいという意図は、「二度とあんな経験はしたくない」ことの記憶に基づきますから、「その体験と恐怖の解釈」によって予見性を求める限り、「二度とあんな経験はしたくない」という恐怖の感情が保持され記憶され続けることになります。「その体験と恐怖の解釈」と「二度とあんな経験はしたくない」ことの記憶の保持は不可分一体、コインの表裏の関係であろうと思います。上記のように考えると、釈迦の説く「五取蘊」「離欲」を理解できるように思います。予見性を高め、恐怖(不安)を回避したいという欲求があるがゆえに、出来事と恐怖を解釈して予見性を獲得することによって、回避したい恐怖の記憶を保持しつづける(意図せず執着しつづける)ことになるという、まったく自分にとって矛盾する、自分にとって好ましくない状態となり、それをもたらす認知形成のしくみが「五取蘊」と解釈でき、「まったく自分にとって矛盾する、自分にとって好ましくない状態」を回避するには、「恐怖の記憶」と「あの恐怖を回避したい」という動機と、予見性を成り立たせる解釈から「離欲」すれば、「回避したい恐怖の記憶を保持しつづける(意図せず執着しつづける)ことになる」必要性はなくなり、「まったく自分にとって矛盾する、自分にとって好ましくない状態」からは離脱できますよね、という理解が成り立つからです。人が、恐怖を感じるようになったのは、恐怖を感じることにより、自分を危険にさらす状況から素早く逃れるため脳の機能として進化した、という説明を前提にしても、それは恐怖を感覚して危険と察知する回路が(配線されたが通電していない状態の)器質として脳に用意されたということにすぎず、ブリッジェスさんが言うように新生児には興奮しかなく、興奮から快不快が、不快から、恐怖や嫌悪という情緒が分化されるのであれば、危険な行為をしたことに対して叱るなどの行為によって、幼児にこのようなことをすると怖い目にあうから、してはいけない、ということを学習させることにより、恐怖や嫌悪という情緒を分化させ、恐怖を感覚して、危険を回避する回路が(通電によって)機能するように仕向けるのは、猛獣でもなく敵対する部族でもなく、幼少期の大けがなどの事例を除いて、大多数は養育者もしくは周囲の環境にいる他者が与えた恐怖という体験によると考えるのが妥当だと思います。人の脳は、恐怖を感じ危険を感知する構造になっている、脳には、恐怖を感じ危険を感知する回路がある、ということは人類に共通するのでしょうが、その回路が実際に使われて機能するようになるのは、各個人の体験を通じて恐怖を感じるからだと考えられ、このことを前提とすると、恐怖を感じ危険を感知する回路が、その人においてどのように使われて機能しているのか、ということはその人の恐怖の体験を通じて規定されている、と考えた方が自然だと思います。恐怖体験それ自体が「その人に特有の生きることへの期待を挫く認知」になるのかもしれませんが、人には五蘊により想像する予想する(現実的でないことも考えだす)という機能があるため、恐怖への予感(不安、疑心暗鬼)を生むことと親和性のある、他者は私のことなど顧みないという認知(他者への不信感、猜疑心、将来への不確実性、自己の無価値感)、自分には事態を打開する力が無くどうすることもできないという認知(絶望感、無力感、不確実性)などの無自覚に生み出され増幅される認知(想)を、「その人に特有の生きることへの期待を挫く認知」ととらえる方が、わたしには説得力があります。そのように考えると、大念処経で、釈迦が以下のように教示していることへの示唆が得られるような気がします。「〈苦しみ〉の原因のすぐれた真理とはなにか。(中略)すなわち、現世の欲望にたいする愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執である。」そもそも人には、「生存への愛執」があり、「生存への愛執」と表裏一体の、生を失うことへの恐れがあることを釈迦は認識したのかもしれません。祖父母や、父親、身近な人の死を経験することは、当然に「自分も死ぬのだ」ということを理解し、死ぬとはどのようなことなのかと考えるでしょう。死ぬとは、今、死を考えている自分のこの意識が永遠になくなることであり、この意識がなくなることは、「わたし」があること(自己意識)を前提に、わたしが感じること考えることに抱いている愛執、感じたこと考えたことに抱いている愛執、自分がつくりだした「わたし」という自己意識にも抱いている愛執を、全て永遠に失うことでである。それゆえ、死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと、という無自覚的な認知を成り立たせるのではないかと思います。釈迦は、四念処の五蘊の観察考察によって、わたしが私だと思ってることは、自我(永遠不変のアートマン)ではなく、わたしの体と心に生じるすべての(私という認知も含めて)認知は、わたしそのものでもなく、わたしのものでもない(=私の思うままになるものではない)と自覚することによって、「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」だと考えるから、死を免れたいという欲求「生存への愛執」が生まれる、という自覚に至ったのではないかと思います。そして、釈迦は、「生存への愛執」をなくすためには、自己の体と心のはたらきと認知形成のしくみと「体と心にうまれた認知できる出来事」への愛執をなくすこと、すなわち、体と心のはたらきと認知形成のしくみである五蘊へ、無自覚に愛執を抱き、無自覚な愛執の捕われている状態である五取蘊をなくすこと、という結論に達したのではないかと考えます。「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」から生まれる恐怖、不安を紛らわせようとして、「現世の欲望にたいする愛執」を生み出して、「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」ことをまぎらわし、恐怖や不安を忘れようとする。しかし「現世の欲望にたいする愛執」からもたらされる欲求を満足させれば、脳の報酬系から報酬が得られるが、それによって「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」がなくなるわけではない。「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」であるならば、自己の再生があるという考え方、そして自己意の再生があるという考え方を信じることは、「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」を和らげると期待するでしょう。そして、自己の再生のためには、神々への祈りの儀式や捧げものが必要であるということであれば、神々への祈りの儀式や捧げものをするでしょう。結果として、自己の再生のために、神々への祈りの儀式や捧げものすることは、「生存への愛執」を増大させ、同時に無自覚的に、「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」なのだ、だから私は、自己の再生のために、神々への祈りの儀式や捧げものをしたから安心だ、と考えるでしょう。しかし「自己の再生のために、神々への祈りの儀式や捧げものをしたから安心だ」と考えたとしても、それは「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」という認識の裏返しにしかすぎず、「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」はなくなりません。時には、「生存への愛執」の強さから、自己の体験から自己(五取蘊)が生成した「生きることへの期待を挫くその人に特有の認知」から、強い苦痛や苦悩がもたらされ、死ねばこの苦痛や苦悩から逃れられという考え(想)すら生まれ、「生存の消滅への愛執」さえ抱く。人が、時に周囲の人との不和、不仲、離反が深刻な心の悩み苦しみとなるのは、人が幼少期に、養育者から叱られたり養育者が不機嫌になることから、やっていはいけないこと、しない方がいいことを、不快の情緒から恐怖心や嫌悪感を分化させながら学習することを前提とするならば、人が成長に従って、概念化、抽象化したり想像、予測する能力を育てるることによって、他者との不和、不仲、離反は恐怖心や嫌悪感(偏桃体の活動)を刺激し、さらに想像や予測する能力を活用して、より好ましくない事態となることを予想、想像するならば、恐怖心、嫌悪感(偏桃体の活動)はさらに増大されるでしょう。増大された恐怖心、嫌悪感は、「生存への愛執」の裏返しとして、(生存したいけれども)自分ではこの恐ろしく嫌悪すべき状況をどうすることもできないという認知を生みだすならば、その認知は「生きることへの期待を挫くその人特有の認知」となるかもしれません。逆に、幼少期に「人に親切にすること、人と仲良くすることはいいことだと、養育者から言い聞かされ、人に親切にしたことや仲良くしていることを褒められることによって、快の感情から喜びや得意という情緒を分化したならば、成長に従い、概念化、抽象化したり想像、予測する能力によって、「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観」を養うことになるでしょう。そして、人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観に基づいて行動すること、その価値観に基づく好ましい状況を作ることは、その人に喜びや得意の感情をもたらし、「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観」を強化し、その価値判断、価値観に基づいて行動によって、喜びを得られる行動、得意の感情を得られる行動を促進するでしょう。釈迦にとっては、「生きることへの期待を挫くその人特有の認知」は、恐怖心や嫌悪感を、概念化、抽象化、想像や予測ということによって増大させた好ましくない認知形成のしくみ(五取蘊)によるものであり、同様に、喜びや得意などの感情をもとめて(駆動されて)、概念化、抽象化、想像や予測により「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観を養う」ことも、好ましくない認知形成のしくみ(五取蘊)によるものと捉えたように思います。このような状況を、釈迦が教示した五取蘊、すなわち自己の認知形成のしくみに対する無自覚、野放し状態として理解してもよいように思います。釈迦は、五取蘊という「人の認知形成のしくみに対する無自覚、野放し状態」というしくみを駆動する燃料が、「現世の欲望にたいする愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執」であると考えると、「〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素(五取蘊)は苦しみである。」という教示と、「〈苦しみ〉の原因のすぐれた真理とはなにか。(中略)すなわち、現世の欲望にたいする愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執である。」(大念処経)という教示が、カチリと音を立てて、とまでは言いませんが、噛み合います。それでは、なぜ「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観を養う」ことも「好ましくない認知形成のはたらき(五取蘊)によるものと捉えた」と私は考えるのでしょうか。その理由は3つあります。1つ目は、双方とも、感情の充足を欲求した行為であることから、随眠を促進し、怒り怨む性向、執着する性向を強化し、それは(釈迦の認知論によれば)結局悩み苦しみを増大することになるから、というものです。六六経で釈迦は、随眠について以下のように教示しています。「楽の感受を受けているときに、人が、喜び、歓喜し、それに執着し続けるなら、彼の中に執着する性向(貪随眠)が潜在する。また、苦の感受を受けているときに、人が、愁い、悲しみ、嘆き、胸を打って泣き、迷妄におちいるなら、かれのなかに怒りうらむ性向(瞋恚随眠)が潜在する。(中略)かれが、楽の感受に執着する性向を捨てないで、苦の感受のために怒りうらむ性向を除去しないで、苦でも楽でもない感受についての愚かさという性向を根絶しないで、無知を捨てないで、智慧を生じさせないで、それでいて、現世において、かれに苦しみの終滅がおとずれるというようなことは、道理としてあり得ない。」2つ目は、釈迦は、聖道経で、「徳行のひとつではあるが、結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩を伴った正しい思考」を教示しており、「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者に賞賛される)善い事という価値判断、価値観を養うこと」は、「徳行のひとつではあるが、結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩を伴った正しい思考」の要件を欠く、から。引き続き聖道経から引用します。「誤った思考とはなにか、欲をともなった思考、敵意をともなった思考、害意をともなった思考-比丘たちよ、これがあやまった思考である。では、比丘たちよ、正しい思考とはなにか。比丘たちよ、正しい思考もわたしは二つ説く。比丘たちよ、『徳行のひとつではあるが、結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩をともなった正しい思考』があり、比丘たちよ、『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』がある。」「『徳行のひとつではあるが、結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩をともなった正しい思考』と何か。欲を離れた思考、敵意のない思考、害意のない思考-比丘たちよ、これが『徳行のひとつではあるが、結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩をともなった正しい思考』である。」「『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』とはなにか。比丘たちよ、心が神聖で、心に煩悩がなく、聖道に達し、聖道を修めている人の思索、熟考、思案、思いを向け、思いを致し、思いを凝らすこと、言語活動-比丘たちよ、これが『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』である。」「喜びや得意などの感情をもとめて(駆動されて)」「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観を養う」ことは、「敵意のない思考、害意のない思考」ではあるかもしれませんが、「喜びや得意などの感情をもとめて(駆動されて)」であるならば「欲を離れた思考」であるとは言い難く、『徳行のひとつ』としての要件を欠きますし、結果として六六経に説かれる「貪随眠」を潜在させますから、「〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩をともなった正しい思考」とされるでしょう。3つ目として、人が、幼少期において養育者から、養育者がやってはいけないと考えること、養育者の価値判断に合致しないことをした時に、叱られる、場合によっては罰をうける、養育者が不機嫌になるなどによって、子どもは不快の情緒から、恐怖や嫌悪、怒りなどの情緒を分離しながら、養育者がやってはいけないと考えること、養育者の価値判断に合致しないことをしてはいけない、と学習することを通して、他者との共存できる価値観を形成してゆくと考えられることを前提にすると、なんらかの事情により他者との不和や他者からの仲間外れにされたという事態が発生した場合、自分に何か落ち度があったのかもしれないと、予想する能力や想像する能力という認知形成機能があるがゆえに、恐怖をより深刻かつ強度なものととらえてしまった場合、「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観」を抱くことは、自らが自らが形成した価値判断、価値観に反したという認知を形成することになり、「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観」がない場合よりも、より強い悩み苦しみつらさを生み出す可能性があるでしょう。「予想する能力や想像する能力という認知形成機能があるがゆえに、恐怖をより深刻かつ強度なものととらえてしま」う、認知形成機能を野放し状態で維持したまま、無自覚に「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観」持ち続けるならば、体と心に相当な負担を生むでしょう。予想する能力や想像する能力という自らの認知形成機能が生み出した認知と、自らの認知形成機能が生み出した価値判断、価値観が合致しないことにより、自分を苦しめるていることになります。幼少時に、養育者の価値判断に合致した行動をとり、養育者から承認やご褒美が与えらたことによって、「喜びや得意などの感情をもとめて(駆動されて)」「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観を養う」ことになるのであれば、この場合は「喜びや得意などの感情をもとめて(駆動されて)」いるのですから、貪り執着する性向を強めるでしょうし、価値判断、価値観という概念に縛られてしまい、ものごとをありのままに見るという智慧の発現を妨げることも予想されるでしょう。どちらの場合であっても、「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観を養う」ことに執着し依存する状態となり、場合によっては、他者にそのような自己の価値観を適用して、他者がそれに従うことを求める、もしくは自己の価値観を前提として他者の行動の是非を判断したり攻撃したりすることになるかもしれません。釈迦は、「好ましくない認知形成のはたらき(五取蘊)」があることの根底には、「現世の欲望に対する愛執、現世の生存への愛執、生存の消滅への愛執」(大念処経)があるからと考え、「好ましくない認知形成のはたらき(五取蘊)」を自覚によって止滅し、「現世の欲望に対する愛執、現世の生存への愛執、生存の消滅への愛執」を滅尽することによって、『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』を可能にしたのであろうと考えています。そして、釈迦の「現世の欲望に対する愛執、現世の生存への愛執、生存の消滅への愛執」を滅尽することを可能にする方法は、眼、耳、鼻、舌、身体(触覚)、意識の6領域それぞれの色(身体器官)と、認知形成機能の受(感受の形成)、想(イメージとしての思考の形成)、行(意欲と意欲による行為の形成)、識(参照、比較、検討機能)が機能する時に生じる、「好ましいもの、楽しいもの」という認知と、その認知によって生じる愛執を滅するということであったようです(大念処経)。誤解しないでください。釈迦の認知論方法論は、「世俗的な思考」ではなく、釈迦の精緻な「体と心のはたらきと認知形成のしくみ」の観察から生み出された、完全な「離欲」によって、悩み苦しみを滅尽する方法であるため、世俗的に好いこととされていても、完全な「離欲」による悩み苦しみの滅尽に到達していない限り、「結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩をともなった正しい思考」というところに帰着するようです。『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』を目指すべきであるとか、そこまで到達しないと意味がない、とかいうつもりは、全くありません。この世(働いて生計を成り立たせて、社会の維持に関わって、喜びを求めて我々が生きているこの世)に生きている限り、「徳行のひとつではあるが、結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩を伴った正しい思考」に到達するのも大変ですし、さらに『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』に到達するのは至難の業です。そうであっても、釈迦の認知論は、『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』に到達した釈迦が、『完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は存在しない。」(大般涅槃経)という観点から、釈迦自らが得たことを隠すことなく、すべて教示されたものであり、『完全な「離欲」による悩み苦しみの滅尽に到達』する方法として説かれた、ということを理解することが必要になります。ですから、釈迦が説くところは、私たちは容易に到達しえない場所です。釈迦は、認知形成機能を残したまま、悩み苦しみ(恐怖や嫌悪)はもちろん、最終的には喜びや安楽まで放棄していますから、「体と心にうまれる認知できる出来事」に「好ましいもの、楽しいもの」(大念処経)という愛執やそれに伴う感情や欲望を生起させることを止滅した、もしくは、愛執やそれに伴う感情や欲望という「体と心にうまれる認知できる出来事」を生起させることなく、ものごとを見て、判断し、発言し、行為することができるような認知形成のはたらきを確立した、ととらえられそうです。「愛執やそれに伴う感情や欲望という「体と心にうまれる認知できる出来事」を生起させることなく、ものごとを見て、判断し、発言し、行為することができるような認知形成のはたらきを確立した」ことは、五取蘊を克服した状態、と解釈してもよいように思います。釈迦の教示は、全て上記のような、釈迦が到達した地点から、釈迦が到達した地点に到達していない人に対して、釈迦が到達した地点へ到達する方法を教示したものとして、解釈し理解する必要があります。ただし、理解しても、私たちには容易には到達できない、ということも併せて理解すべきです。しかし、釈迦の方法論による「高度なリラクセーション状態」は、『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』に到達するための釈迦の方法論にもとづき、そこに至る中間点に位置するということはご理解いただいた方がよいでしょう。「高度なリラクセーション状態」にとどまってもメリットは十分にありますし、さらに先に進むことも、もちろん可能です。「高度なリラクセーション状態」からさらに進んで、四聖諦という「心理的なメカニズム」を起動することによって、生に伴う根源的な不安を観察考察することができ、自分が日常において行っている認知とは階層を異にすると考えられる認知である「現世の欲望に対する愛執、現世の生存への愛執、生存の消滅への愛執」を自覚できるのであれば、非機能的な中核信念や早期不適合スキーマの原因へと到達し、それらを手放すことは、さほど困難をともなうことではない、と言っていいでしょう。ただし、概念的に『「現世の欲望に対する愛執、現世の生存への愛執、生存の消滅への愛執」があるから、生に伴う根源的な不安が生まれる』と理解することだけでは、四聖諦という「心理的なメカニズム」を起動することにはならないと考えます。自らの体の動きの観察から始めて、体と心が感じる感受を観察し、心の状態を観察し、それらを修習することにより、体の感受(受)や、心に起こる思考(想)に反応しない(行、識を生起させない)ことによって、嫌悪や恐怖を含む感情の生成を抑制し(随眠の抑止、感情の生成に反応して、考えたいという欲求による脳の報酬系の抑制と言えるかもしれません)、観察力を育て、集中力を養い、観察による解明という喜びを発現させ、喜びによって体と心の安楽を実現し、集中力をさらに高めることで、養ってきた観察力が「尋」と「伺」という高度な観察眼考察眼として現出し、「如実知見」という状態が実現し、「四聖諦」が起動し「智慧の発現」となるようです。そこまで自力で到達する必要があります。上記のように考えると、その自力で到達する方法として、釈迦は、自覚しないままの自分の体と心のはたらきと認知形成のしくみ、野放し状態の五蘊を、ヴィパッサナー瞑想によって徹底的に自覚しなさい、というものであるという説明も可能なようです。しかしながら、「如実知見」「四聖諦」「智慧の発現」を実現する方法論といえる、ヴィパッサナー瞑想による「四念処」は、苦行ではありません。苦行ではありませんから、無理なく過度の負担無く、体と心のはたらきに転換をもたらし、苦悩の生成を含む認知形成のあり方に転換をもたらす方法であるということも、革新的であったといってよいと思います。苦行ではなく、無理なく過度の負担無く、と言っても、全く負担がない、というわけではありません。「体と心のはたらきに転換をもたらし、苦悩の生成を含む認知形成のあり方に転換をもたらす」とは、出来事に対する自己の体と心に「定着している」「無自覚な反応パターン」を自覚し、ヴィパッサナー瞑想によって得た自覚から「選択した好ましい自覚的な反応」に切り替えてゆくことと言い換えられますから、地道な努力の継続が必要ですし、今まで「あたりまえであった=無自覚であった」反応の仕方を変えてゆくことですから、体と心に相応のストレスは生み出します。わたしたちは、出来事に対する自己の体と心に「定着している無自覚な反応パターン」に基づいて物事を認識し、感情を生成し、思考し、行動を決定していると考えられますから(その意味において自分が思っているほど自分は自由ではありません)、出来事に対する自己の体と心に「定着している無自覚な反応パターン」を、ヴィパッサナー瞑想によって得た自覚から「選択した好ましい自覚的な反応」に切り替えてゆくとは、例えて言えば、家はそのままに家の基礎を作り替えてゆくようなものです。(「定着している無自覚な反応パターン」は、五蘊の「識」により包蔵され、出来事を認知することにより無意識に参照され、「定着している無自覚な反応パターン」が繰り返されるのではないかと考えています。)ヴィパッサナー瞑想は「わたしのもの」(思うままになるもの)と思っている体、体と心に生じる感受、心のはたきを観察することによって、体、体心に生じる感受、心のはたきを「対象化」しますが、変えるのは、観察している対象としての自分ではなくて、観察している主体としての『自己の体と心に「定着している」反応パターン』なのですから、簡単なことではありません。「「選択した好ましい自覚的な反応」」に変えてゆくことは簡単ではありませんが、自分にしかできません。『「選択した好ましい自覚的な反応」に変えてゆくこと』とは、自己の体と心のはたらき、感情をふくむ認知形成のしくみを制御することにほかなりませんから、ヴィパッサナー瞑想は、自己の体と心のはたらき、感情をふくむ認知形成のしくみを制御する力を開発する、と言ってもいいように思います。釈迦の方法論は、瞑想によって観察力、集中力を涵養し、その観察力、集中力により自分の体と心のはたらきにより自己に内に形成される認知を自覚して、その自覚に基づき、『出来事に対する自己の体と心に「定着している無自覚な反応パターン」を自覚し、「自己が選択した好ましい自覚的な反応」に変えてゆくこと』ですから、意識的、自覚的な努力の継続が必要です。考想息止経では、「意識的、自覚的な努力」によって、『出来事に対する自己の体と心に「定着している無自覚な反応パターン」を自覚し、「自己が選択した好ましい自覚的な反応に変えてゆくこと』について、このように教示されています。「兆相」は、人の体と心のはたらき、認知形成しくみである「五蘊」の色、受、想、行、識であり、悩み苦しみつらさを生み出す認知形成のしくみとなっている状態と考えられます。「その兆相に出会って」とは五蘊のはたらきが生起したと自覚したならば、と理解すればよいと思います。「その兆相に出会って、その兆相に意を注ぐと、もろもろの思い、不善の、欲を伴いもし、瞋(いか)りを伴いもし、癡(おろ)かさを伴いもする思いが生起するのであれば、比丘達よ、その比丘はその兆相とは別の、善をともなう兆相に意を注ぐべきである、その〔比丘〕がその〔悪い〕兆相とは別の、善を伴う兆相に意を注ぐならば、もろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、瞋(いか)りを伴いもし、癡(おろ)かさを伴いもするそれらの思いは捨てられ、それらは消滅して行く。」「歯をもって歯に置き、舌をもって上顎を抑え、心を持って心を強く抑え込み、強く圧迫し、強く苦しめると、およそ悪い、不善の、欲を伴いもし、瞋(いか)りを伴いもし、癡(おろ)かさを伴いもするそれらの思いは捨てられ、消滅して行く。」「比丘達よ。この比丘はもろもろの思いが成り行く道に関して自在者である。〔かれは〕およそ望む思いであればその思いを思い、望まない想いであればその思いを思わないであろう。〔かれは〕渇愛を断ち切って除去し、正しく自意識(慢)を止滅させて、苦を終わらせた。」(少し考察しておきます。)「不善の、欲を伴いもし、瞋(いか)りを伴いもし、癡(おろ)かさを伴いもする思い」とは、仏教では貪瞋痴(とんじんち)とされていることです。釈迦の認知論では、体と心の平静を乱すこと、欲望を生み出すことの根底には、貪瞋痴(とんじんち)があって、例えば、自らの欲望を満たすことに執着し、さらに欲望を募らせて他者と衝突したり、怒りが生まれたことによって、その怒りに任せて、何かをしようと決心し行動した結果さらに怒りを募らせたり、それらのことを自覚せず同じことを繰り返しているなら「痴」であり、それらによって、悩み苦しみを生み出すことになるでしょう、と考えます。さらに、貪瞋痴(とんじんち)を放っておいたのでは、悩み苦しみつらさをなくすための「四聖諦」が起動する前提条件としての、治意経の「努力を始めた人には混じりけの無い喜びが生じる」という「喜覚支」にも、「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ。」という「軽安覚支」にも至れませんから、体と心の平静な状態の「高度なリラクセーション状態」には至れませんから、「尋」と「伺」による観察考察、如実知見は実現できず、悩み苦しみつらさをなくすための智慧も発現しません。貪り、怒りから悩み苦しみつらさを生み出しつづけ、それを自覚しないのだかから、悩み苦しみつらさを生み出すことから脱却できませんよね、ということに行き着いてしまいます。そうであるならば、上記の教示は、悩み苦しみつらさを生み出す五蘊のはたらき(野放し状態の五蘊)が生起したならば、野放し状態の五蘊が生み出した認知に乗っからずに、別のことを考えて、貪瞋痴(とんじんち)を自覚して回避して、悩み苦しみつらさを生み出す認知形成のしくみが起動することを回避しなさい、ということであると理解できます。「心を持って心を強く抑え込み、強く圧迫し、強く苦しめると、およそ悪い、不善の、欲を伴いもし、瞋(いか)りを伴いもし、癡(おろ)かさを伴いもするそれらの思いは捨てられ、消滅して行く。」ということですので、野放し状態の五蘊のはたらきを修正するには、相応の労力と時間がかかると考えた方が良いようです。しかし、その結果は、「およそ望む思いであればその思いを思い、望まない想いであればその思いを思わないであろう。〔かれは〕渇愛を断ち切って除去し、正しく自意識(慢)を止滅させて、苦を終わらせた。」というものですから、大きな成果と言えます。「考えないほうがいいとわかっていても、どうしても考えてしまう」とか、「このように考えるのは良くないとわかっているけど、つい考えてしまう」という、誰しもが経験するであろうことを克服できる、ということになります。「自意識(慢)を止滅させて」は、仏教で言われる「無我」の実現と理解するよりは、「苦を終わらせた。」のですから、「自意識(慢)」は、「わたし」があるという意識の上に成り立つ、苦を生み出す五蘊の野放し状態としての「わたしの認知形成のしくみ」である「自意識(慢)」を、苦を生み出さない「認知形成のしくみ」に変換した、と理解した方がいいでしょう。苦を生み出さない認知形成のしくみに変換する、ということは、わたしがそれを欲望する、わたしがそれに怒っている、わたしが欲望し怒っていることを自覚していない、という貪瞋痴(とんじんち)の状態を脱することを意味しますから、「わたし」という意識(仕掛け、仮構)の必要性は希薄になるでしょう。「わたし」という意識(仕掛け、仮構)の必要性は希薄になるならば、「わたし」ってないんじゃない?って考えも生まれます。ただし、『「わたし」ってないんじゃない?』って考えは、表面上は、自由意思をもって自分の行動を決定し、権利を有し義務を負うという「わたし」という存在がある、という今日の考え方と、それを前提にキチンと責任ある行動をよってよね、という社会の要請と相反する、とまではいわないものの、釈迦が教示する「自意識(慢)」 についての理解と、「自由意思をもって自分の行動を決定し、権利を有し義務を負うという「わたし」という存在がある、という今日の考え方と、それを前提にキチンと責任ある行動をよってよね、という社会の要請」があるということとの整合性を、各個人の中で図ることは必要となるでしょう。少し話がそれましたが、前記教示の意味するところを、認知行動療法の非機能的な自動思考や反芻への対処などに即して説明してみます。ここでも、非機能的な自動思考や反芻は、「体と心に生まれる認知できる出来事」であって、「わたしのもののではない=わたしのおもうままになるものではない」という認識が前提になります。また「わたしのおもうままになるものではない」という認識には、「体と心に生まれる認知できる出来事」を「わたしがおもままにかたちづくることはできない」し、「体と心に生まれる認知できる出来事」の「生成を止めることもできない」、と考えた方が良いようです。ネガティブで自分の気分を下げてしまう「定型的否定的」なフレーズ、たとえば「わたしなんて・・・」という考え、つぶやき(自動思考)が、繰り返し生起する場合、「わたしなんて・・・」ということによって生起する考えや想いとは別のこと(無力化できるものであることが理想的)を、意図的に考えることによって、「わたしなんて・・・」を無力化することができると、釈迦は説いていることになります。ネガティブで自分の気分を下げてしまう「定型的否定的」な「わたしなんて・・・」という考え、つぶやき(自動思考)が生まれてしまうのは、それが不快なものであっても、それによって何かを得ようとする「必然性(欲求)」もしくは「期待」があって生じている(しかしその自動思考は、不快なものだから、自分の気分を下げてしまうという効果をもたらす)と考えられますから、別のことを意図的に考えることによって、その「必然性(欲求)」もしくは「期待」を弱めることができる、ということなるのでしょう。また釈迦は、双考経ではこのように教示しています。「もうなんでも、比丘達よ。比丘がそれについて多く思い考えるほど、ますますそのように心は傾く。」釈迦の方法論は、自己の体と心の観察によって、体にも心にも生じる感覚や認知は、本来生起しては消えてゆくもの、その消えてゆくものに執着し、おしとどめようとするから欲望が生まれて、苦しみとなる、という認知が根底にあるようです。考想息止経の教示は、認知行動療法でいえば、意識の表層にあらわれる非機能的な自動思考や反芻を修正するよりも、非機能的な自動思考や反芻(五蘊の想、行に相当)へ反応しないで、別のことを、より大量に考えることによって、非機能的な自動思考や反芻を引き起こす媒介信念、中核信念が活性化することを抑え込み、結果として反芻と媒介信念、中核信念との牽連性を断つ、という対処方法であるように感じます。この場合、肝になるのは、「非機能的な自動思考や反芻(五蘊の想、行に相当)」の生起をしっかりと検知する、観察力(マインドフルネス、注意集中力の育成)になります。「〔筏は〕渡るために〔あるのであって〕、取っておくために〔あるの〕ではない〔ということを〕。修行僧たちよ筏の譬えをあなたたちは理解した。あなたたちは、もろもろの教えといえども捨て去るべきである。いわんやもろもろの悪い教えについてはなおさらである。」(蛇喩経)役立つ教えであっても役割を終えたなら捨ててゆきなさい、ということのようです。この考え方の背景には、人の認知のしくみは、悩み苦しみつらさを生み出す見解や妄想を生み出し執着するものだという考えが前提にあり、役に立つ教えと言えども、それに執着して保持することは、悩み苦しみつらさを生み出す原因である執着するという性向を加速する方向にはたらく、川をわたるために役立つ「筏」によって川を渡った=目的とすることが実践し身についた(スキル化された)なら、役立った「筏」であっても捨ててゆきなさい、ということを教示したのではないかと思います。釈迦は、悩み苦しみをなくすために、今現在の状況に適した手段(筏)を使い、段階的に離欲し執着を手放す、ということを方法論の基礎に置いたように思います。考想息止経の教示は、蛇喩経に説かれる、筏の譬えの具現化であるとの考えも生まれます。すでに考察した、考想息止経の教示による、認知行動療法の非機能的な自動思考や反芻への対処に、筏の譬えを当てはめて考察してみます。「ネガティブで自分の気分を下げてしまう「定型的否定的」な「わたしなんて・・・」という考え、つぶやき(自動思考)が生まれてしまう」のであればそれに意識を向けるのではなく、「ネガティブで自分の気分を下げてしまう「定型的否定的」な「わたしなんて・・・」という考え、つぶやき(自動思考)が生まれてしまう」ことの「必然性(欲求)」を川に見立てて、その川を渡る(克服する)ためには、「別のことを意図的に考える」という「筏」を使いなさい、という教示、言い換えれば、「別のことを意図的に考える」ことによって、「ネガティブで自分の気分を下げてしまう「定型的否定的」な「わたしなんて・・・」という考え、つぶやき(自動思考)が生まれてしまう」「必然性(欲求)」もしくは「期待」を無力化し、無くしてしまう(川をわたる、克服する)、という方法の教示であると思われます。手段としての「筏」が生まれるのは、「ネガティブで自分の気分を下げてしまう「定型的否定的」な「わたしなんて・・・」という考え、つぶやき(自動思考)が生まれてしまう」ことを、「『これは苦しみである』とありのままに知」(大念処経)ることによって四聖諦が起動し、四聖諦の起動によって、これが苦しみであるならば、苦しみをなくすための手段が必要である、それは何か、という探索が始まるからであると考えています。四聖諦の起動となる認知「『これは苦しみである』とありのままに知り」とは、主体的に苦しみながら苦しんでいることを自覚しない=「苦しみ」という「体と心にうまれる認知できる出来事」が生起していることを自覚していない、という自己の認知のあり方から、苦しんでいる自分を知る、苦んでいる自分を自覚する、苦しんでいる自分を第三者として観る=「苦しみ」という「体と心にうまれる認知できる出来事」が生起していることを自覚する、という態度への転換によって到達できる認知です。「苦しんでいる自分を知る、苦んでいる自分を自覚する、苦しんでいる自分を第三者として観る」ことを可能とするものが、ヴィパッサナー瞑想の四念処における五蘊の観察です。四念処における五蘊の観察によって観察力を養うことによって、ネガティブで自分の気分を下げてしまう「定型的否定的」な「わたしなんて・・・」という考え、つぶやき(自動思考)に反応して無自覚に考え続けることは、「主体的に苦しみ、苦しんでいることを自覚しない」という状態だから、「苦しんでいる自分を知る、苦んでいる自分を自覚する、苦しんでいる自分を第三者として観るという態度」に転換したならば、「別のことを意図的に考える」という筏を使って、「ネガティブで自分の気分を下げてしまう「定型的否定的」な「わたしなんて・・・」という考え、つぶやき(自動思考)が生まれてしまう」という川を渡る(克服する)ことができるだろう、という「智慧」が発現します、という説明になります。釈迦の方法論を特徴づけるものは「離欲」だと考えられますが、釈迦は、「離欲」一辺倒ではないように思います。筏の譬えの筏は、「悩み苦しみつらさを生み出す認知形成のしくみ」という川をわたる(=克服する)ためには、「悩み苦しみつらさを生み出す認知形成のしくみ」生み出すことを止める手段=「筏」を用いなさい、という方法論であると思います。「離欲」を一辺倒に説くのではなく、「離欲すべきこと」の力を打ち消す、もしくは弱める効果のあることを「筏」として使い、「離欲の対象」から「離欲」することを可能と死なさい、という方法であると考えています。「筏」の典型的なものは「喜び」「安楽」や「尋」と「伺」という、「新たなものを作り出すことのよって川をわたる=克服する」という方法であるように感じます。ただし、ここでいう「喜び」は、欲求(=欠乏感)を生み出し、その欲求(=欠乏感)を充足することによって、脳の報酬系を刺激して、快感という報酬を得るという「喜び」ではないと理解した方がいいように思います。欲求(=欠乏感)を生み出し、その欲求(=欠乏感)を充足することによって、脳の報酬系を刺激して、快感という報酬を得るという「喜び」をえるのでは、欲求を充足することを求め続ける性向を養いますから、「離欲」とは真逆の方法ということになってしまいます。例えばタバコを吸う方には申し訳ないのですが、自己の体験と理解からお話します。初めて吸った時には、「こんなまずいもの」と感じましたし、うまいから吸いたいとは思いませんでした。それでも吸い続けているうちにニコチンの刺激とともに安楽の感覚を味わえるという条件付けがなされ、ニコチンの欠乏に対してニコチンを補給することで安楽の感覚が得られると感じるようになりました。このことはすなわち、ニコチンに馴化する(ならされること)によってニコチンによる体の抵抗感がなくなり、逆にニコチンの欠乏感によりニコチン摂取への欲求をつくり、ニコチンを摂取することで欲求が満足を得て、脳の報酬系から報酬が与えられる、というメカニズムであると理解しています。「筏」の典型的なものとしての「喜び」は、ヴィパッサナー瞑想による観察考察という努力を続けること(集中力の涵養)よって得られる「喜覚支」の養成による「喜び」、もしくはサマタ(集中)瞑想による四無量心(慈悲喜捨)の「喜」の瞑想によると考えた方がよいでしょう。仏教の修行という文脈から離れたとしても、何かをすることに集中することによってえられる「喜び」は誰でも育成可能です。七覚支と4つの禅定に基づいて説明するならば、「喜び」の発現により「喜覚支」を養成し、「喜覚支」により「軽安覚支」による「安楽」を実現し、安楽状態の中でより集中力を加速させ「定覚支」に至り、「尋」と「伺」を発現させ初禅に至ります。「尋」と「伺」による観察考察により、心の平静を得たならば、「尋」と「伺」を止めて第二禅にいたり、「喜び」を捨てて第三禅に至り、楽しみ(安楽)を捨てて第四禅に至るのですから、「喜び」「安楽」や「尋」と「伺」は、川を渡り終わった(=より高次のここ平静を得た)なら、もはや不要であり、筏のように捨て去られることになります。「悩み苦しみつらさという川」を渡るために、「喜び」「安楽」や「尋」と「伺」といった「筏」を作って、「悩み苦しみつらさという川」を渡って、渡り終わったら、「喜び」「安楽」や「尋」と「伺」といった「筏」は、役割を終えたのだから捨ててゆきなさい、「尋」と「伺」を、捨ててゆくことは観察考察して悩み苦しみの原因を探り当てようという意欲すなわち欲を捨てること、「喜び」「安楽」を捨てることは、「喜び」「安楽」という「好ましいもの、楽しいもの」への執着を捨てること、そうすれば完全な心の平静、完全な離欲に至るでしょう、ということであるようです。『出来事に対する自己の体と心に「定着している」反応パターンを自覚し、「自己が選択した好ましい自覚的な反応」に変えてゆくこと』に至る道が、過度な負担とならないための手立ては講じられています。例えば、釈迦は、念身経で、ヴィパッサナー瞑想による四念処の『身体にむけた注意』を確立することの利益に第一に、好き嫌い、嫌悪感の克服を上げ、利益の第二に、恐れと怖じ気を克服できるようになると教示しています。また、「尋」と「伺」が発現し、悩み苦しみの生起の原因に到達する前に、七覚支の「努力を始めた比丘に混じりけのない喜びが生じる」喜覚支、「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ。」軽安覚支を実現することも、過度な負担とならないための手立てと言えるかもしれません(治意経)。(喜覚支、軽安覚支を実現することは、本来的には、体と心が安らぐ状態(体が安楽で、思考や感情の生成を停止した状態)を作ることで、悩み苦しみが認知される意識とは別の領域に所在する、悩み苦しみを生成する原因をとらえやすくするためであると考えられます。喩て説明するならば、川の水量が多い時は川床の石は見えませんが、水量が少なくなれば川床の石(悩み苦しみの原因)は姿を現します。)子どもは一般に、不快の感情の分化を先行させるそうです。これは、養育者が、やってはいけないと考えることを子どもがしたときに、叱る、親が不機嫌になるなどによって、子どもに恐れの感情、嫌悪感を味合わせる=不快の感情の分化を促すことによって、それはやっていはいけなことだと学習させるからではないかと考えています。良いこと好きなことは、養育者がよろこぶことや、褒めるなど、子どもが心地よいと感じる報酬をあたえられることによって学習されるでしょう。即ち、幼児は、怖い、嫌いという不快な感情も、自分という存在が喜ばれているという快の感情も、養育者を通して獲得します。好き嫌い、嫌悪感、恐怖や怖じ気などの情緒は、養育者の働きかけによって分化、育成されるのであれば、物事の判断を、他者に好かれるか嫌われないか、嫌われるのは怖いこと、という観点から行うことになったとしても不思議ではありません。マインドフルネス認知療法原著第二版(北大路書房)には、FreidmanRS,さんとFosterJさんの研究として「暗黙の情動の手がかりについての研究にひよって、わしたちはほとんど時間で、快適か、不快か、どちらでもないかに基づいて、入ってきた刺激に反応することが解っている。」とのことですから、他者に嫌われると予想される(五蘊の想:言語化されていない思考の生起)のであれば、不快を感じて避けようとする、と考えても違和感はありません。他者に好かれるか嫌われないかを考えること、嫌われるのは怖いこと、という観点から物事を観ていたのでは、自分が悩むこと苦しむことをありのままに考察できないでしょう。釈迦は、悩み苦しむのは、悩み苦しみを正面から考察しないからであり、悩み苦しみを正面から考察しないのは、悩み苦しみを正面から考察することによって、心に、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が生まれることを避けたい気持ちが働くからだ、と認識したのかもしれません。さらに、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が克服されれば、悩み苦しみを正面から考察し、過去において心に苦痛や苦悩をもたらした出来事(例えばトラウマ)を正面から見つめたとしても、心に、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気は生まれない、ということになります。過去において心に苦痛や苦悩をもたらした出来事が、現在の自分の環境の中にないにもかかわらず、現在においても、過去において心に苦痛や苦悩をもたらした出来事に起因する苦痛や苦悩が生まれるのであれば、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が心に生まれることを克服することは、過去において心に苦痛や苦悩をもたらした出来事に起因して、現在も生まれる苦痛や苦悩を正面から見つめ、克服することに取り組む(過去の出来事を観察し考察し、現在生まれる苦痛や苦悩の原因となっていることについての自分の解釈を書き直す)ことに大きな力を与えるでしょう。好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気を克服することが、「苦行ではなく、無理なく過度の負担無く、体と心のはたらきに転換をもたらす方法論」であることを下支えする構造になっている、と言えます。釈迦の中核的な方法論である、「四聖諦」は、「『これは苦しみである』とありのままに知り」(大念処経)から始まります。「『これは苦しみである』とありのままに知り」という「自覚」が生まれないならば、苦しみの中にいて苦しみつつ、苦しんでいるという「自覚」なく苦しみ続けるということもあり得ます。ヴィパッサナー瞑想によって、感覚を研ぎ澄まし感受性を高め観察考察することによって、これは苦しみなのだ、と知ることができるからこそ、苦しいより楽な方がいい、この苦しみを何とかしたい、無くしたい、という心の機能が起動する、と理解することができます。Beckの認知モデルに基づき考察するならば、非機能的な中核信念があったとしても、非機能的な中核信念が活性化しない状況では、日常生活に著しい支障が生じるわけではありませんが、幼少時の心的外傷ともいえる体験により形成され潜在している非機能的な中核信念を、検知した日常的に感じる不快の感覚を、「感覚を研ぎ澄まし感受性を高め観察するから、これは苦しみなのだ、と知ることができる」ことによって、活性化していない非機能的な中核信念を検出することが可能になるでしょう、と説明してもよいように思います。四聖諦は、四聖諦の考え方に基づき意識して努力しなさい、という教示ととらえるよりも、「悩み苦しみをなくすことに到達するための、四聖諦という、物事を自己概念(嫌悪感や恐怖の認知形成を含む)に基づく制約なく(如実知見)観察考察する、好ましい認知形成のしくみを起動させること」ととらえた方が適切だと考えています。四聖諦は、交流分析の「小さな教授」「リトルプロフェッサー」の「大人版」を起動させること、と説明できるかもしれません。「小さな教授(小教授)」について、杉田峰康先生の説明を引用します。「英語でリトルプロフェッサーといい、LPと略される。Ⓒの自我状態の中で直観と生存の知恵に富む部分をいう。生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力で、幼児はこれで問題の解決にあたる。また、人生脚本のもとになる「幼児決断」は小教授が行うと考えられている。構造分析の二次的モデルによると小教授の位置は次のようになる(P2、A2、C2は成人の自我状態を示す)。」(創元社 「新しい交流分析の実際」)杉田峰康先生は、上記のように説明されたうえで、C2の構成として、上部にP1=”魔法の親”が、下部にC1=”身体的な子供”が位置し、両者の間にA1=”小さな教授(LP)”位置する図が提示されています。幼児は、「ブリッジェスによると、情緒はだいたい二歳頃までに著しい分化をとげ、恐れ、嫉妬、快、不快、喜びなど、基本的な情緒が出そろい、さらに分化を重ねて、およそ五歳に成人に見られる情緒がひととおり出そろうといわれています。」(上記杉田峰康先生著書)幼児の時点では、大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念は形成されていないでしょうから、「自己制約」が希薄です。自己制約が希薄ですから、養育者から叱られたり、褒められたりして分化させた情緒「恐れ、嫉妬、快、不快、喜」などを刺激される体験について、「生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力で、幼児はこれで問題の解決にあたる」のでしょう。解決にあたるといっても、幼児は養育者に依存した存在、自己の力を認識できない状態ですから、「養育者に依存した存在、自己の力を認識できない状態」を前提に、自分なりの解釈によって『人生脚本のもとになる「幼児決断」』を行うことになるでしょう。「大人版」の「小さな教授」「リトルプロフェッサー」の「生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力」は、大人になる過程での学習を踏まえており、「養育者に依存した存在、自己の力を認識できない状態」ではありませんから、ヴィパッサナー瞑想による自己の体と心の観察考察によって、「養育者に依存した存在、自己の力を認識できない状態」ではない自己を前提として、「生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力」の発現を妨げる、自分のなかの「大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念、自己制約」を自覚し離れることによって、「生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力」を発現させること、と考えると、釈迦の認知論、ヴィパッサナー瞑想によって「四聖諦を起動させる」という考え方と整合的な理解ができるように感じます。『「大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念、自己制約」を自覚し離れることによって、「生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力」を発現させること』を、釈迦は「ヴァッチャよ、如来は見解にとらわれるということを脱却している。」(火バッチャ経)と言ったのではないだろうかと考えます。釈迦は、火バッチャ経で、ヴァッチャに対して、自らはとらわれることはない「見解」として、『世界は永遠である。これだけが真理である。他は虚偽である。』『世界は永遠ではない。これだけが真理である。他は虚偽である。』『生命と身体とは同一である。これだけが真理である。他は虚偽である。』『生命と身体とは別個である。これだけが真理である。他は虚偽である。』(火バッチャ経)などをあげています。釈迦にとって、これら「見解」は、五蘊(認知形成機能)の野放し状態(五取蘊)であることを原因として、「想像」「概念の操作」により作り出したことであり、ヴィパッサナー瞑想の五蘊(認知形成機能)の観察によって、五蘊(認知形成機能)の野放し状態(五取蘊)を克服した釈迦からは、『「想像」「概念の操作」により作り出したこと』ことにとらわれることは無い、という宣言であろうかと思います。「大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念、自己制約」のすべてが、『「想像」「概念の操作」により作り出した』こととまでは言えないのかもしれませんが、釈迦が「見解」にとらわれないと語ったの2600年ほど前、今日とは異なる、たとえば永遠不変の自己と宇宙との合一を説くような、今日では神話的とも考えられる世界観を前提にした「見解」であったであろう、ということも考えておく必要があります。しかし、時代的な違いを差し引いてなお、今日「大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念、自己制約」が、『「想像」「概念の操作」により作り出したこと』である可能性は十分にあり得ます。反面的な説明ですが、ベックさんの認知行動療法における「適応的な信念」の記述は、「私はそこそこ有能で」「私はまあまあ人に愛され」「私はまあまあ価値ある存在で」などで始まり、きわめてモデレート、中庸です(認知行動療法実践ガイド:基礎から応用まで 第3版)。このことは、モデレート、中庸な信念でない、非機能的な信念(適応的な信念からはかけ離れた極端と思われる信念)を持つことによって、気分の低下が起こされ、さらに活動の停滞まで引き起こしてしまうのだから、適応的でモデレート、中庸な信念へ修正することによって、「このくらいのことはできて当然」という、『「想像」「概念の操作」により作り出した』理想化、願望化された自己概念から、「できることもあるができないこともある」という現実的実用的な自己概念を形成することで、「こんなことができないなんて」という認知の生成による気分の低下を減少させる、という効果を生むでしょう。そのように考えるとき、大なり小なり「大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念、自己制約」が、『「想像」「概念の操作」により作り出した』、現実的実用的なものでないもの、現実的実用的なものでないものであるがゆえに、悩み苦しみを生み出す原因となるもの、ありのままに物事を見ることによって悩み苦しみの解消に至ることを阻害するもの、である可能性は十分にあり得ます。『「想像」「概念の操作」により作り出した』ことである「見解」』を排除し、瞑想による色、受、想、行、識の徹底的な観察考察による経験的合理的な自覚に到達し、苦悩を観察し考察することで、仏教でいうところの物事をありのままに観る「如実知見」が実現し、智慧の発現によって、苦悩の解消のしくみがはたらき始める=「苦しいよりも楽な方がいい、この苦しみを何とかしたい、無くしたい、という心の機能が起動する」と言い換えてもよいように思います。四聖諦は、意図して行う方法論ではなく、自分が形成してきた「大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念、自己制約」にとらわれることから解き放たれ、「生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力」を起動させること、ととらえたほうが本質的な理解に到達できるような気がします。「道徳観や善悪判断」にとらわれることから解き放たれる、ということは傍若無人になることでもなく、社会規範を無視してやりたい放題をやるということにもなりません。(釈迦の認知論、方法論を考えるときに、釈迦の生きた時代に道徳観や善悪判断は当然にあったでしょうが、(認知論アプローチをとるならば)人々が抱く(認知する)道徳観や善悪判断は、今日の基本的人権などの概念とはリンクせず、神々や自己の再生、永遠不変の自我(アートマン)とリンクしたものであった可能性は念頭に置く必要があります。)なぜならば、「大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念、自己制約」にとらわれることから解き放たれる、とは、念身経に教示される『身体にむけた注意』を確立することの利益である、好き嫌い、嫌悪感の克服、恐れと怖じ気の克服によって、下記のような無自覚な価値判断を離れることであると考えられるからです。 ① 好き=好ましいこと楽しいこと=体験したいこと接近したいこと≒善いことと感じる価値判断=執着する ② 嫌悪感、恐れ 怖じ気=好ましくないこと楽しくないこと=回避したいこと≒悪いことと感じる価値判断=嫌悪する「生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力」を起動させること、とは、初禅において現れるとされる「粗い考察」(尋)、微細な考察」(伺)の発現によってもたらされる観察眼考察眼がその状態であると考えています。釈迦は、火バッチャ経で、五蘊、色、受、想、行、識のあり方、生起と消滅について知り尽くし、「それゆえ如来はあらゆる妄想、あらゆる顚倒、あらゆる自我があるという見解(我見)・自分のものであるという見解(我所見)・自己意識(慢)・潜在的煩悩(随眠)を消滅し尽し、離欲し、滅し、捨て、捨て去ったことにより、執着がなくなり、解脱したとわたしは説く」と教示しています。「自己意識(慢)」、すなわち『「想像」「概念の操作」により作り出した』「わたしとはこのようなものだという「大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念、自己制約」は、「生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力」、仏教でいうところの「如実知見」の発現を妨げる、ということなのかもしれません。「わたしとはこのようなものだ(好き嫌い、嫌悪感、恐怖、善悪判断・・・信念、スキーマ)」という概念が社会規範を取り入れて形成され、社会への適応をもたらすと考えると、悟り、解脱は、自らが形成し保持して来た「わたしとはこのようなものだ(好き嫌い、嫌悪感、恐怖、善悪判断・・・信念、スキーマ)」をなくすことであり、「わたしとはこのようなものだ(好き嫌い、嫌悪感、恐怖、善悪判断・・・信念、スキーマ)」をなくすことは、周囲の人々と共有されている「世俗的に信じられている、融和的ではあるが自分を苦しめることともなりかねない社会規範や考え方」との軋轢をもたらすことも想定できますから、社会とのかかわりから離脱する出家の方が、悟り、解脱の実現に関しては適応的な環境である、ということはいえるでしょう。もっとも出家者集団は、出家者集団として、『「想像」「概念の操作」により作り出した』我々はこのようにあるべきなのだ、という、集団的自己概念があるのかもしれません。嫌悪感なく恐怖心なく「『これは苦しみである』とありのままに知り」ということを可能とするための巧妙な仕掛けがあります(セーフティネットとしてすでにお話はしています)。(1)念身経に説かれる『身体にむけた注意』を確立することの利益である、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気の克服(2)集中による「喜び」の開発(喜覚支の始動)、「喜び」による安楽の開発(軽安覚支の始動)「苦しいより楽な方がいい、この苦しみを何とかしたい、無くしたい、という心の機能が起動する」には、四念処への集中による「喜び」の開発(喜覚支の始動)、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気の克服の後、到達すると思われる、高度なリラクセーション状態状態、すなわち、「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ」という状態である『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)に到達していることが前提であるように思います。(治意経)好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が克服され、「喜び」が開発されているから、「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ。」という状態が到来し、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が生起することなく、自分の身体と心の安らぎを妨げている原因を観察考察することの準備ができている、ということであると思います。この状態が私が言う「高度なリラクセーション状態」です。そして、さらに、『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)の次の段階である、「身体が安らいで幸せな人の心は集中する」という「精神集中という悟りの支分」(定覚支)にいたり、精神集中により、粗い考察、微細な考察とされる「尋」と「伺」が現れて、『「わたしとはこのようなものだ(好き嫌い、嫌悪感、恐怖、善悪判断・・・信念、スキーマ)」という概念』を離れて、苦悩の発生プロセス、原因を観察考察することが可能になります。ここまで至れば、「悩み苦しみをなくすことに到達するための、四聖諦という、物事を自己概念に基づく制約なく(如実知見)観察考察する、好ましい認知形成のしくみを起動させること」は、確実になされていると考えられます。そこに至る過程で、火バッチャ経の「如来は見解にとらわれるということを脱却している」ことや、五蓋(ごがい)と言われる瞑想の進展を妨げる、心のはたらきを取り除くこともおおよそ完了し、「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ」ことが実現し、それらの成果が相まって、「この苦しみを何とかしたい、無くしたい、という心の機能が起動する」のでしょう。五蓋は、瞑想の進展、智慧の発現を妨げる5つの「蓋」という意味で、心に生まれる瞑想の進展、智慧の発現を妨げる障害、ということになるでしょうか。①欲望 ②怒り ③ものうさとぼんやりした鈍さ ④ざわつきと後悔 ⑤疑い の五つを指します。五蓋は全てなくすことが望まれますが、ひとつご説明すると④ざわつきと後悔、漢訳で「掉挙・悪作(じょうこ・おさ)」とされる「悪作」、後悔することを止めることがあります。すでにお話しましたが、私の場合は、④ざわつきと後悔(掉挙・悪作)の、ざわつきによって、瞑想状態が進展しないことにより、早期不適合スキーマが形成されていることを自覚しました。その時の状態は、瞑想状態が深まってはいるものの、そこにもっと心の平静があるはずなのに、そこにゆけない、という感覚とともに、心がざわつくことが感じられました。心のざわつきの理由が、自分がここにいてはいけない感覚、存在することが許されない感覚に起因しているようだと自覚したことで、自分には早期不適合スキーマがあるようだと自覚しました。その自覚から、無力感、無価値感、厭世観、希死念慮の自覚に行き着くまでに約6か月かかりました。その経験から言うと、瞑想状態が深まることによって、心の平静を妨げるであろう早期不適合スキーマや非機能的中核信念がある場合には、それらが活性化していない状態においても、④ざわつきと後悔(掉挙・悪作)として検知することができるようです。そのように考えると、後悔、悪作は、強い悔悟の情(後悔)であるとともに、交流分析の早期決断や早期不適合スキーマや非機能的な中核信念など、過去の体験に起因して、現在においても身心の平静を乱す心理的メカニズムととらえたほうがいいのかもしれません。釈迦の苦悩が、幼少期の体験に基づくものであった場合には、そのように考えても全く不思議はありません。仏教の教学には、早期決断や早期不適合スキーマ、非機能的な中核信念などの概念はありませんから、④ざわつきと後悔(掉挙・悪作)を、交流分析の早期決断や早期不適合スキーマや非機能的な中核信念などと、解釈したり訳したりする方はいらっしゃらないでしょうが、心理的なメカニズムから考えるならば、瞑想実践により体と心を落ち着かせてなお生じる、④ざわつきと後悔(掉挙・悪作)を、早期決断や早期不適合スキーマや非機能的な中核信念の影響によるものとしても何らおかしくはありません。そして、「尋」と「伺」により、早期決断や早期不適合スキーマや非機能的な中核信念の影響を知り、それらの影響を排除することができるなら、もはや「尋」と「伺」は不要となり、「尋」と「伺」を停止しして、さらなる心の平静と集中による第二禅にいたる、という説明も妥当なものであると感じます。ちなみに、惛沈・睡眠と漢訳されてきた、③ものうさとぼんやりした鈍さは、気分が沈んだ状態を指すようですが、私は、うつ状態と理解してもよいのではないかと考えています。悪作を、後悔として考察するならば、あの時こうしていたら、こんなことをしなかったら、と考え悔やんでも、現在の自分にはなんら利益がない、ということを知りなさい、ということであるようです。(この記述による心理的な状態は、意識的、無意識的ということ別にすれば、後悔にも早期決断や早期不適合スキーマ、非機能的な中核信念無意識的にも形態的には合致します。)あの時に戻ってこうしたい、それをしないでおこう、ということは願っても実現することはありません。「あの時に戻ってこうしたい、それをしないでおこう、ということは願っても実現することは」ないと考えるならば、後悔とは、「心の中で作り出した実現しないこと」を規準として、それをしなかったこと、してしまったという事実を対比し、それをしなかった自分、してしまったという自分を責めることだと理解できますから、後悔は、「心の中で作り出した実現しないこと」に基づいて、絶えず悩み苦しみつらさを作り出していることに他なりません。色、受、想、行、識の徹底的な観察考察による物事をありのままに見る能力から、苦悩を観察し考察するならば、『後悔は、「あるとは認識できない作り出された概念」に基づいて(後でご説明する「識」の比較検討機能によって)、絶えず悩み苦しみつらさを作り出していること』だと容易に理解できるでしょう。釈迦は、「あるとは認識できない作り出された概念」にもとづいて望むことによって、絶えず悩み苦しみつらさを作り出していることを、求めても得られない苦しみ、求不得苦と言いました。「あるとは認識できない作り出された概念」を規準にすること自体が、物事をありのままに観ることを妨げますから、「あるとは認識できない作り出された概念」にもとづいて、絶えず悩み苦しみつらさを作り出してしまう、人の体と心のはたらき、認知形成のしくみを、よくよく理解する(自覚する)ことが重要になります。人の体と心のはたらき、認知形成のしくみを、よくよく理解する(自覚する)方法が、ヴィパッサナー瞑想だと理解していいただいてもよいでしょう。ただし、自分の理想や目標などは、「あるとは認識できない作り出された概念」で「いまはないこと」ですが、どう見ても無謀、というものでない限りは、実現に向けた行為、努力によって実現させようとすることを前提として、つくられるものですから、「あるとは認識できない作り出された概念」のすべてが、絶えず悩み苦しみつらさを作り出している、ということではありません。自分の理想や目標などまで、無効化してしまったのでは、現実に生きることに返って支障が生じます。自覚すべきは、人の体と心のはたらき、認知形成のしくみが、自分の理想や目標を作り出すのと同じように、「あるとは認識できない作り出された概念」も無自覚に作り出してしまうことだといえます。嫌悪感なく恐怖心なく「『これは苦しみである』とありのままに知り」ということは、「苦しみを観察すること」によりもたらされますから、「苦しみを観察すること」を可能とするために設計された瞑想法が、ヴィパッサナー瞑想による「四念処」であると考えられます。釈迦は、「人が、日常、自分のしていること、心に生起することの多くをスルーしているのは、それが「楽な状態」だからでしょ、でも、その「楽な状態」が、『これは苦しみである』という自覚なく、苦しむことを招来しているのだから、観察力を養って「『これは苦しみである』とありのままに知り」、苦しみをなくして「楽な状態」を実現した方がいいよね、ありのままに知る方法が「四念処」、苦しみを無くす方法が「四聖諦」の起動だよ」という観点から、観察瞑想と言われる、ヴィパッサナー瞑想を教示した、ということだと理解してもあまり外れた理解ではないと思います。釈迦在世時には、さまざまな修行に励む方が、相当数いたようで、釈迦もその様な方について瞑想を学んだようです。そこで、釈迦は、高度な瞑想技術を身に付けたようですが、それらの瞑想や境地には満足せず、それらの方の元を去ったようです。マハーサッチャカ経には、アーラーラ・カーラーマの教えについて、「『この教えは厭い離れることに導かず、貪りを離れることに導かず、〔煩悩を〕滅することに導かず、寂静に導かず、証知に導かず、正しい目覚めに導かず、ニッバーナに導かない。〈何もないという境地〉に達するのみである』と。」同じく、ウッダカ・ラーマプッタの教えについては、「『この教えは厭い離れることに導かず、貪りを離れることに導かず、〔煩悩を〕滅することに導かず、寂静に導かず、証知に導かず、正しい目覚めに導かず、ニッバーナに導かない。〈想いがあるのでもなく、ないのでもないという境地〉に達するのみである』と。」釈迦は、〈何もないという境地〉〈想いがあるのでもなく、ないのでもないという境地〉への到達では、満足しなかったことになります。〈何もないという境地〉〈想いがあるのでもなく、ないのでもないという境地〉とは、集中力を高め、サマディーを実現するサマタ瞑想であったのかもしれません。〈何もないという境地〉〈想いがあるのでもなく、ないのでもないという境地〉について、Beckの認知論から考察してみます。気分の低下を生み出す非機能的な自動思考などの、意識の表層にあられる思考の生起をなくして無念無想と言われる状態にいたれば、〈何もないという境地〉〈想いがあるのでもなく、ないのでもないという境地〉は実現するかもしれません。しかし、非機能的な自動思考を生みだす非機能的な中核信念もしくはスキーマが意識の深層に形成されている人であれば、非機能的な中核信念もしくはスキーマを「厭い離れること」、「貪りを離れること」、「〔煩悩を〕滅すること」、をしなければ、一時的に、〈何もないという境地〉〈想いがあるのでもなく、ないのでもないという境地〉は実現しても、将来において非機能的な自動思考の生成による苦しみは生まれ続ける可能性がありますよね、という理解になります。私の経験では、非機能的な中核信念やスキーマがある(私の)場合には、瞑想状態が進展しても、瞑想状態が進展するがゆえに認知できる瞑想進展の妨げ、釈迦が説く五蓋(ごがい)の「掉挙・悪作(じょうこ・おさ)」という、心がざわつき落ち着かない状態になるようです。さらにその「心がざわつき落ち着かない状態」を観察してゆくと、非機能的な中核信念もしくはスキーマ(早期不適合スキーマ)を生成したであろう、幼少期の体験と、その時の自分の体験の解釈が現れてきます。下記の大念処経の教示で、釈迦は、今ある欲望だけでなく、将来生じるであろう欲望についても言及しています。このことは、意識の表層に、今、現れている苦しみをなくすことによって心の集中状態、平静状態を実現するだけでは悩み苦しみをなくすことはできず、表層に現れる苦しみを生み出す深層にある原因を知り、その原因=「執着、欲、愛執による束縛」をなくすことによって悩み苦しみがなくなるならば、「執着、欲、愛執による束縛をなくすこと」が、将来において悩み苦しみを生み出さない方法ということになり、「執着、欲、愛執による束縛をなくすこと」をコンプリートすれば、「すでに滅ぼされた欲望が未来に生じることがない」から、将来において悩み苦しみを生み出さないよね、と教示していると理解することが可能になります。釈迦の認知論は、(体および意識のレベルに)悩み苦しみが現れ、(体と意識とは別のレベルに)その悩み苦しみを生み出す原因があること、(意識とは別のレベルにある)原因によって悩み苦しみが生み出されることを防止するとともに、悩み苦しみを生み出す原因をなくさないなら将来において悩み苦しみが発生し、悩み苦しみからは解放されない、と考えていたことになり、ベックの認知モデルなどと相似の苦悩発生のとらえ方と言っていいのではないかと思います。下記の釈迦の教示は、あくまでも一体の認知形成機能(五蘊)を想定したうえで、悩み苦しみ欲望などを認知する場があり、悩み苦しみ欲望を認知する場に悩み苦しみ欲望が認知されなくても、悩み苦しみ欲望を生み出す原因は潜在している、と認識したのではないかと理解した方が良いようです。六六経で釈迦は、人が認知すること考えることは、生まれては消えてゆくものであることを理由に、人が認知すること考えることは、常在不変の我=アートマンではない、という教示をしていますから、悩み苦しみ欲望などの認知を生み出す原因は潜在していても、常時悩み苦しみ欲望が発生し認知されるわけではない、悩み苦しみ欲望を生み出す原因が潜在していて悩み苦しみ欲望を生み出すが、悩み苦しみ欲望は生まれては消えてゆくことを繰り返す、ということであるならば、釈迦の認知に対する姿勢は六六経でも大念処経でも一貫しています。「ここに、修行僧たちよ、修行僧は『これは苦しみである』とありのままに知り、『これは苦しみの原因である』とありのままに知り、『これは苦しみの消滅である』とありのままに知り、『これは苦しみの消滅にいたる道である』とありのままに知るのである。」(四聖諦と言われます)「内に欲望があるときに、『わたしにの内には欲望がある』と知り、内に欲望がないときに、『わたしの内には欲望がない』と知るのである。」「また、いまだ生じていない欲望が生じるままにそれを知り、すでに生じている欲望が滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた欲望が未来に生じることがないということを知るのである。」(以上大念処経)「楽の感受を受けているときに、人が喜び、歓喜し、それに執着し続けるなら、かれのなかに執着する性向(貪随眠)が潜在する。」「苦の感受を受けているときに、人が、愁い、悲しみ、嘆き、胸を打って泣き、迷妄におちいるなら、かれのなかに怒りうらむ性向(瞋恚随眠)が潜在する。」※瞋恚:しんに、怒りのことです。「苦でも楽でもない感受をうけているときに、人が、その感受の生起と没滅、その感受の楽しさと危険性、その感受からの遠離、それらをあるがままに知ることがないなら、彼のなかには愚かさという性向(無明随眠)が潜在する。」(以上六六経)「欲望」が沢山出てきますが、上記で教示される「欲望」は、私たちが概念的に認識している「欲」ではなく、個人の認知形成に伴って生起する個別具体的な「愛執に執着していることにより自分が束縛されている状態」と考えるとよいように思います。概念的抽象的な「欲望」の理解では、釈迦の教示を理解することは進展しないように感じます。相応部経典には、このような記載があります。「いったいなにがあると、何を執取し、何に執着して、執取と取著という結びつけるもの・牽縛(けばく)が生じるのか」(春秋社 原始仏典Ⅱ相応部経典第三巻)釈迦の答えは、身体、感受、知覚、自己形成力、認識、すなわち五蘊の色、受、想、行、識があると、それらに「執取し」、「執着して」、「執着と取著という結びつけるもの・牽縛(けばく)が生じるのである。」というものです。上記相応部経典から、「認識」についての釈迦の教示を掲げておきます。「認識があると、その認識を執取し、その認識に執着して、執着と取著という結びつけるもの・牽縛が生じるのである。」執取し、執着するとは、それをいいと思い、それから離れたくないという気持ち、と理解して「愛執」と解釈してみます。取著は、取を考慮して、自分がからめ取られる、もしくは自分に取り込み強い思いをもつこと、ということだと解釈し、牽縛は、「それをいいと思い、それから離れたくないという気持ち」愛執から、「自分がからめ取られる、もしくは自分に取り込み強い思いをもつこと」へ変化させること、変化すること、いいかえればより「愛執への執着によって欲望が生まれ欲望に束縛されること」と理解してもよいかもしれません。「もうなんでも、比丘達よ、比丘がそれについて多く考えれば考えるほど、ますますそのように心は傾く。」(双考経)本来は離欲や、怒りなき思考、悩害のない思いを育成する方法を説いたものですが、「多く考えれば考えるほど、ますますそのように心が傾く」のは欲についても当てはまるのかもしれません。執取、執着、取著牽縛ということについて、仏教では明確な概念があるのかもしれませんが、仏教の学習ではないので、認知論からは、「それをいいと思い、それから離れられなくなること」を愛執と理解し、「自分がからめとられること、もしくは自分のものとしてより強い思いをもつこと」を執着と理解して、「愛執へ執着していることにより自分が束縛されている状態」と理解すればよいのではないかと思います。各個人に生起する個別具体的な「愛執へ執着していることにより自分が束縛されている状態」ですから、概念的に認識している(=見解としての)「欲」として理解するのではなく、各人がヴィパッサナー瞑想によって、自らの体と心のはたらき、認知形成のはたらきから生まれる「愛執へ執着していることにより自分が束縛されている状態」として把握しなければ、釈迦が教示する「欲望」を理解することはできないように思います。そしてこれが、『私たちが概念的に認識している(=見解としての)「欲」』とは根本的に異なる性質なのですが、「愛執へ執着していることにより自分が束縛されている状態」は、不適切な認知、すなわち自分を苦しめることとなる認知に対しても生まれると考えてもいいようにおもいます。各個人が把握しなければならない、ということを前提に、「愛執へ執着していることにより自分が束縛されている状態」を、現在の心理学の概念を活用して理解しようとすると、「何らかの欠乏感を充足しようと(期待)して不適切なコーピング(対処方法)をとり続けている状態」ともとらえられると感じます。「何らかの欠乏感を充足しようと(期待)して不適切なコーピング(対処方法)をとり続けている状態」は、「不適切なコーピング(対処方法)」であるがゆえに、「何らかの欠乏感」が、充足されることはありません。むしろ「不適切なコーピング(対処方法)」をとり続けている」ことによって、自分の意識はますます欠乏感にフォーカスされ、欠乏感がますます強く意識されるでしょう。「何らかの欠乏感を充足しようと(期待)して不適切なコーピング(対処方法)をとり続けている状態」へ「愛執へ執着していることにより自分が束縛されている状態」がありうることを想定したうえで、釈迦の方法論を特徴づけるものが「離欲」であると考えると、「離欲」の意味するところの理解が進むと思います。釈迦は、「欲求へ執着していることにより自分が束縛されている状態」から「離欲」するための方法として、「求めても得られないということも苦しみである」(大念処経)と教示し(求不得苦)、求めても得られないことを求めても、そもそも得られることは無く苦しむだけなのだから、求めても得られないことを求めないようにすること、すなわち「離欲」によって、求めても得られない苦しみをなくすことができる、と教示しました。「何らかの欠乏感を充足しようと(期待)して不適切なコーピング(対処方法)をとり続けている状態」は、『不適切なコーピング(対処方法)」であるがゆえに、「何らかの欠乏感」が、充足されることはありません。』から、「求めても得られないということも苦しみである」という状態を招来します。「離欲」は、釈迦が、事象(≒認知)を生み出す(=形成する)体と心のはたらきと、自分の体と心に生まれる本来価値中立的なものである事象(≒認知)について自覚していないから、自分の体と心に生まれる本来価値中立的なものである事象(≒認知)に対して、自覚することなく好き嫌い、好いこと悪いこと、という判断を生じさせ、好きなこと楽しいことに愛執をうむ性向が、執着や欲望を生み出し、結果として執着、欲望が自分を束縛し、束縛されることによって、望んでもかなえれられることのないことを望んで、結果として苦しみを生み出す原因になっている、という認知形成のしくみを把握したことによって、苦悩をなくすためには愛執、執着、欲望を生み出す性向を無くす「離欲」によって愛執、執着、欲望による束縛をなくし、望んでもかなえれられることのないことを望むことをなくせばよい、そうすれば本来価値中立的なものである事象(≒認知)をありのままに受けて止め、愛執や執着や欲望を生み出し、束縛され苦しむことはなくなるだろう、と認識したためであると考えています。「望んでもかなえれられることのないことを望むこと」は、「何らかの欠乏感を充足しようと(期待)して不適切なコーピング(対処方法)をとり続けている状態」と言い換えても、上記の考察は成り立ちます。釈迦は、このような認知に、ヴィパッサナー瞑想による自己の体、感受、心の状態の観察により、人の体と心のはたらき、認知形成のしくみ(下記火バッチャ経引用の色、受、想、行、識)を把握したことによって到達したと考えられます。これらの実践が「四念処」です。「心の観察」ではなく、「心の状態の観察」としているのは、大念処経などに説かれる心随観によって観察する心が、心に生起する思考や感情ではなく、瞑想している今現在の「心の状態の観察」であることからです。釈迦は、アーラーラ・カーラーマさんとウッダカ・ラーマプッタさんに師事し、心の表層の意識活動を止滅することにはすでに習熟していたと考えられます。次のように理解することはできるのではないかと思います。釈迦が観察したのは、意識の表層に現れる、Beckの認知モデルの「非機能的な自動思考」ではなく、非機能的な自動思考を生み出す非機能的な中核信念(あわせて媒介信念もしく推論の誤り)もしくスキーマに相当するものであった想定すると、苦悩を生みだす「非機能的な中核信念(あわせて媒介信念もしく推論の誤り)もしくスキーマ」への愛執執着、欲望から「離欲」することによって、アーラーラ・カーラーマさんとウッダカ・ラーマプッタさん教えに足りなかった「『この教えは厭い離れることに導かず、貪りを離れることに導かず、〔煩悩を〕滅することに導かず、寂静に導かず、証知に導かず、正しい目覚めに導かず、ニッバーナに導かない。」ことを克服した。非機能的な中核信念やスキーマが、単なる「歪んだ認知」で片づけれられるものではなく、それを形成した当時の自らがおかれていた環境(自分では環境を変えることができないという状態)の中で、何とか環境と折り合いをつけるために、自分への説得、事態の解釈を行ったものが、あまりに強固であったことにより保持されつづけ、その後の出来事の解釈にまで及んでいて、現在自らがおかれている環境を解釈するには不適切になっている、と考えるならば、非機能的な中核信念やスキーマは、その生成時においては必然性があって生まれたと言えます。非機能的な中核信念やスキーマが、「その生成時においては必然性があって生まれた」がゆえに、非機能的な中核信念やスキーマへの「愛執へ執着していることにより自分が束縛されている状態」が継続し、「現在自らがおかれている環境を解釈するには不適切になっている」にもかかわらず維持されていることになっている、と考えてもおかしくはありません。このように考えるならば、非機能的な中核信念やスキーマからもたらされる状況不適合からもたらされる苦しみをなくすため、「離欲」は一つの方法です。非機能的な中核信念やスキーマは、幼少時に体験した悩み苦しみつらさに耐えるために形成された、筏の譬えの「筏」であり、川を渡ってなお捨てることなく、現在まで担いできているがゆえに、現在において苦悩という負担を生じているのだから、「捨ててゆきなさい」、すなわち「離欲」しなさいと理解してもよいのかもしれません。「あなたたちは、もろもろの教えといえども捨て去るべきである。いわんやもろもろの悪い教えについてはなおさらである。」(蛇喩経)(人はゼロから自らの考えを形成しない、なんらかの教えがあってそれに基づき自らの考えを形成すると考えるのであれば、この教示は極めて重要です。)釈迦の認知論からか考えると、形成時には必然性があって生まれた非機能的な中核信念やスキーマであっても、成長した今となっては「不要な筏」だと認識して、執着、欲、愛執を断ち切って、つまり離欲によって、非機能的な中核信念やスキーマを滅尽することができる、ということ理解してもよいと思います。釈迦は、火バッチャ経でこのように説いています。「ヴァッチャよ、『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』というのは見解に捕らわれることであり、見解の密林、見解の難路、見解の見せ物、見解の狂躁、見解の結縛であり、苦をともない、困惑をともない、悩みをともない、〔世俗的なものへの〕嫌悪、欲情から離れること、煩悩の消滅、こころの静けさ、すぐれた智慧、正しいさとり、涅槃のために役立たない。ヴァッチャよ、わたしはこのような過失を洞察して、このようにすべての見解に依らない」「ヴァッチャよ、如来は見解にとらわれるということを脱却している。ヴァッチャよ、如来は『このように物質(色)がある。このように物質の原因がある。このように物質の消滅がある。このように感受がある。このように感受の原因がある。このように感受の消滅がある。このように表象(想)がある。このように表象の原因がある。このように表象の消滅がある。このように形成力(行)がある。このように形成力の原因がある。このように形成力の消滅がある。このように意識(識)がある。このように意識の原因がある。このように意識の消滅がある』と見る。それゆえ如来はあらゆる妄想、あらゆる顚倒、あらゆる自我があるという見解(我見)・自分のものであるという見解(我所見)・自己意識(慢)・潜在的煩悩(随眠)を消滅し尽し、離欲し、滅し、捨て、捨て去ったことにより、執着がなくなり、解脱したとわたしは説く」これは、釈迦が、悩み苦しみを生み出す原因となる体と心のはたらきと認知形成のしくみを観察し、悩み苦しみを生み出す原因となる認知=見解を脱却したこととがコンパクトにまとめられた教示だと思います。コンパクトなのですが、ヴィパッサナー瞑想の経験がない方にとっては、何言ってるのかわからない、というのが正直なところだと思います。「悩み苦しみを生み出す原因となる体と心のはたらきと認知形成のしくみ」と言える、「物質(色)」(眼などの器官)」「感受」「表象(想)」「形成力(行)」「意識(識)」について(上記教示では「見る」と教示していますが、意味するところは)観察し知り尽くし、観察し知り尽くすことによって、悩み苦しみを生む、「妄想」「顚倒」さまざまな、「見解」を「消滅し尽し、離欲し、滅し、捨て、捨て去ったことにより、執着がなくなり、解脱した」ということになります。上記教示の意味するところは、釈迦は、五蘊=色、受、想、行、識の徹底した観察考察によって、人のありのままの「体と心のはたらきと認知形成のしくみ」は、無自覚に「妄想」「顚倒」「見解」を生み出す(五取蘊の状態なのだ)ことによって、無自覚に悩み苦しみを生むのだから「人のありのままの体と心のはたらきと認知形成のしくみ」を自覚して、無自覚に「妄想」「顚倒」「見解」を生み出さすことから脱却して、解脱に至った、ということになりそうです。火バッチャ経は、大念処経のように弟子に対して教示されたものではなく、バッチャが持つ「見解」を釈迦に対して質問し、釈迦が回答した後、「見解」を脱却しているということについて説明したお経なので、大念処経などと比べるとあっさりとしています。そではは、「見解」とは何かというと、五蘊=色、受、想、行、識=「体と心のはたらきと認知形成のしくみ」の徹底的な観察考察によってもたらされた物事をありのままに見る能力(如実知見)からは、「あるとは認識できない作り出された概念」といった内容になりそうです。「色」は、五蘊=色、受、想、行、識の「色」であり、「眼や手触り肌触りなどで感知する対象としての物質」と「物質としての身体」の双方を示すようです。火バッチャ経には、ヴァッチャに対して、「物質として如来を認知する者は、如来にはその物質は捨てられており、根を絶たれたターラ樹の幹のように消滅し、未来に再び生じないものであることを認知するであろう。」との教示があり、以下同様の教示がなされます。「感受として如来を認知する者は、如来にはその感受は捨てられており・・・」「表象(想)として如来を認知する者は、如来にはその表象は捨てられており・・・」「形成力として如来を認知する者は、如来にはその形成力は捨てられており・・・」「意識として如来を認知する者は、如来にはその意識は捨てられており・・・」上記の教示は、大念処経にある「〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素(五取蘊)は苦しみである。」を前提にして、如来である釈迦は、認知形成機能である五蘊の野放し状態であるといえる五取蘊を克服している、という理解でいいと思います。五取蘊を克服した、と言っても、釈迦は解脱してなお、遊行の旅を続け、説法を続けたのですから、身体や認知する機能、行為する機能をなくしてしまった、というわけではありません。眼、耳、鼻、舌、肌、意識をとおして「体と心に生まれる認知できる出来事」を把握するものの、それらに「好しいもの、楽しいものである」(大念処経)という愛執を生まない認知形成機能を確立した、ということと理解したらよいと思います。言い換えると、「認知形成機能である五蘊の野放し状態であるといえる五取蘊」を観察し考察し自覚し、「認知形成機能である五蘊の野放し状態であるといえる五取蘊」を駆動する燃料ともいえる「現世の欲望に対する愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執」(大念処経)を断つことによって、悩み苦しみつらさ、欲望、執着、愛執を生み出す認知形成機能を止滅した、と説明できるかもしれません。冒頭で引用した教示の境地に、釈迦が至ることを可能としたのが、ヴィパッサナー瞑想による四念処と考えられ、四念処は身体の随観を行いますから、「物質(色)」は、「身の随観」の対象として「身体」ととらえてよいと思います。釈迦は、「このように物質(色)がある」については、四念処の身体の随観で、身体の動き、構造、要素の観察を教示しています。「このように物質の原因がある」については、人が生まれることについて教示しています。大念処経では、生まれることの説明に、「〔個人存在を構成する〕五つの要素が出現し、認識領域を獲得すること」とされていますから、釈迦は、生きるとは認知し続けること、生きている限り人は認知することから解放されず、そして解放されない認知する機能に無自覚であるがゆえに「五取蘊」という苦しみが発生すると認識したのでしょう。「このように物質の消滅がある」については、人が死ぬこと、死後身体が腐敗し、骨になり骨が砂になることを観察することを身随観で教示していますから、上記の「物質(色)」は身体とするのが妥当だと思います。大念処経では「〔個人存在を構成する〕要素が破壊し」と教示してます。「物質(色)」としているのは、人の認知の対象としての物質ということも含んでいるのかもしれませんが、釈迦の方法論が(仏教の教学とは異なる)認知論に基づくものであると考えると、体と心のはたらきによって認知が形成されるので、「物質(色)」は、認知を成立させる要素としての「身体(色)」を観察すること、と考えた方が良いと思います。「物質(色)」は、「存在」という意味を含むものとして使われているのかもしれませんが、四念処に「物質(色)」の随観というものは在りません。最終的に釈迦が到達した認知は、認知の対象である「物質(色)」も含めて、四念処によって到達した『ただ事象のみが存在する』ということの意味を、事象を「認識できる出来事」とするならば、『「認識できる出来事」のみが存在する』という解釈になります。釈迦の方法が認知論であった、という立場からは、認知を成立させる物質(色)的な要素としての「身体(色)」の方が適切であるように考えます。「感受」は、五蘊=色、受、想、行、識の「受」とされるもので、体と心が感じる「楽の感受」「苦の感受」「不苦不楽の感受」があり、大念処経「肉体的」「非肉体的」な三種の感受が教示されています。四念処では、体の動きの随観に接続して「受随観」を行います。「楽の感受」「苦の感受」「不苦不楽の感受」について、こういうものですよ、という事細かな説明はありません。釈迦は、人の体と心のはたらき、認知形成のしくみついて教示しますが、人の体と心のはたらき、認知形成にしくみに基づいて、認知(事象)が形成されるのは、瞑想する各個人の体と心のなかなのですから、「受随観」を通じて、自分の体と心に生起する「楽の感受」「苦の感受」「不苦不楽の感受」を自分で突き止めなさい、という教示スタイルを取ったのではないかと考えます。この教示スタイルは、釈迦の教示全体を貫くものであり、釈迦の教示スタイルの特徴であると考えています。この教示スタイルは、裏返せば、自分の中に生まれる苦しみなのだから、自分で突き止めない限り、自分の苦しみが生まれる原因にはたどり着けませんよ、ということになります。受随観ができるようになると、楽しいことの「想」が生起しなくても、嫌なことの「想」が生起しなくても、楽の感受、苦の感受が生まれることが理解できます。「受」は、「想」により生じることもあるようですが、「想」に先行して感受されるようです。先のヤングさんらの「スキーマ療法」金剛出版から引用します。「・扁桃体系は無意識的である:感情的反応は、刺激を意識的に処理することなしに扁桃体において形成される。Zajonc(1984)が10年以上も前に主張したように、感情を認知は別々の系である。」「・扁桃体系は迅速である:危険信号に関する情報は、視床を経由して扁桃体と大脳皮質の両方に到達する。しかし速度が異なる。皮質に到達するよりも先に、危険信号は偏桃体に到達する。つまり皮質が危険信号を察知する頃にはすでに、偏桃体は危険信号に対して反応し始めている。Zajonc(1984)が主張したとおり、感情は認知より先に生じるのである。」※ここでの「認知」は私の使い方とは別で、大脳皮質で生起する「認知」(=想?)です。上記を参照すると、「想」は、大脳皮質によって生成され感知するものであるのに対して、「受」は、「肉体的」「非肉体的」(大念処経)とされていることからも、外部の刺激に反応して、大脳皮質での生じる「想」とは別系統の、大脳皮質での生じる「想」に先行して、扁桃体で生じる感情的な反応およびスキーマを構成する「身体感覚」と考えてよいと思います。釈迦の時代に、大脳新皮質、扁桃体という知見はなかったでしょうが、釈迦は瞑想状態により、大脳皮質のはたらきに先行して、扁桃体が反応し、苦、楽という現代でいえば感情や身体感覚を生成させるということを観察していたようです。不苦不楽については、不苦不楽の無明随眠についての教示で、「その感受の楽しさと危険性」とされていることから、楽の感受、苦の感受とともに発生する、興奮状態および興奮状態の継続によって感覚が鈍磨した状態と、私はとらえています。K.M.B.ブリッジェスさんによると新生児の情緒は未分化の興奮しかなく、生後3か月後くらいになると快、不快の情緒がはっきりと分岐してくるとのことですから(「新しい交流分析の実際」杉田峰康先生 創元社)、楽の感受、苦の感受ととともに興奮状態が現れると考えてもよいように思います。六六処経には、「受」の生起について、概略以下のように教示されています。人には、認識を成立させる六つの内的な場として、眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、意処の六内処があり、認識の対象である、認識を成立させるための六つの外的な場として、色処、声処、香処、味処、触処、法処の六内処があり、六つの認識の集まりとして、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識身があり、六内処と六外処と六識身体の接触によって、眼触、耳触、鼻触、舌識、身識、意触の六触身生じ、六触身が生じることによって、六つの「感受」、六受身が生じるとされています。そして「感受」が生まれると、六つの欲望のあつまり、色愛、声愛、香愛、味愛、触愛、法愛の六愛身(すなわち欲望)が生じるとされています。マインドフルネス認知療法原著第二版(北大路書房)には、以下のような記載があります。「ある経験がどのようにして「快適」あるいは「不快」として感じられるのか、そしてどれほど思考と気分が解釈を付け加えるのかにもっと十分に気付くようになるには実践が欠かせない。異なる状況と(大なり小なりの)出来事が身体感覚、感情、思考に影響を与えるすべての影響に気づくことは簡単ではない。」(中略)「暗黙の情動の手がかりについての研究[85]によって、私たちはほとんどの時間で、快適か、不快か、どちらでもないかに基づいて、入ってきた刺激に反応しいていることがわかっている。これは、そこを境にして、物事を変えたいと思い始めたり、思考の流れに迷い込んだり、反すうの引き金になるポイントであり、このエササイズの目的はこれらの、重要な瞬間に気づけるようになることである。このような瞬間にマインドフルな気付きを活用すれば、ずっと続けばいいと願う、あるいはなぜもっと頻繁におこらないのか知りたいなどの余計な思考を加えずに、瞬間をあるがままにただ経験し、評価することができる。」[85]FriedmanRS,FosterJ.Inplicitaffectivecuesandattentionaltuning:Anintegrativereview.PsychologicalBulletin2010;136:875-893.(引用以上)「ずっと続けばいいと願う」ことは、釈迦の認知論から言えば、無常という観点から、「それはかなわないこと」だけれども、愛執が生まれている状態を記述し、「なぜもっと頻繁におこらないのか知りたい」は、体と心に起こる現象(事象)は、「自分の思いにままにならない」という意味での「無我」を記述しているのではないか、との思いが生まれます。上記と類似のことを、釈迦は、上記引用の「潜在的煩悩(随眠)」として教示しています。マインドフルネスが、釈迦の認知論に基づく方法論であることを考えれば、釈迦と同様のことを、2600年の時を経て、ティーズデールさんたちは述べています、というべきでしょうか。釈迦は、六六経の中でこのように教示しています。「楽の感受を受けているときに、人が喜び、歓喜し、それに執着し続けるなら、かれのなかに執着する性向(貪随眠)が潜在する。」「苦の感受を受けているときに、人が、愁い、悲しみ、嘆き、胸を打って泣き、迷妄におちいるなら、かれのなかに怒りうらむ性向(瞋恚随眠)が潜在する。」※瞋恚:しんに、怒りのことです。「苦でも楽でもない感受をうけているときに、人が、その感受の生起と没滅、その感受の楽しさと危険性、その感受からの遠離、それらをあるがままに知ることがないなら、彼のなかには愚かさという性向(無明随眠)が潜在する。」「かれが、楽の感受に執着する性向を捨てないで、苦の感受のために怒りうらむ性向を除去しないで、苦でも楽でもない感受についての愚かさという性向を根絶しないで、無知を捨てないで、智慧を生じさせないで、それでいて、現世においてかれに苦しみの終滅がおとずれるというようなことは、道理としてあり得ない。」感受は、肉体的、非肉体的双方あるとされていますが、ゾクゾクする感じ、ゾッとする感覚(スキーマを構成する「身体感覚」)を想定するとわかりやすいと思います。ただ通常では認知されない感受もあるようです。受の随観は、通常では認知されない感受を、感じ取るようにすることによて、随眠を起こさない訓練と言えるでしょう。不苦不楽の感受は、例えばSNSやゲームに夢中になっていて、なかなかやめられない状態などを想定していただくとわかりやすいと思います。脳の興奮状態の継続により感覚が鈍磨していて、やめた方がいいという考え(想)は生まれるものの、やめられない(やめるという意欲と行為である「行」が生じない)、という状態であれば、「その感受の楽しさと危険性」という教示はドンピシャです。楽の感受が生まれているときに、喜び、歓喜という「表象(想)」=情報が生じ、その情報に基づきその情報を具現化したいという欲求にもとづき、喜びを表現する言葉を発したり行為したりすることが「形成力(行)」と仮定すると、「楽の感受」➡「表象(想)」➡「形成力(行)」が一気通貫で行われた時には、貪随眠が潜在するということだと理解できます。このようなとらえ方は、悲しいから泣くのではない、泣くからから悲しいのである、というジェームズ・ランゲ説と、感情の生成についての原因と結果については同様のとらえ方といえるようです。釈迦は、脳による認知と言える「表象(想)」に先行して、五感による体験により、体に「楽の感受」が起こり、楽の感受に呼応して、喜び、歓喜という「表象(想)」が生じ、それを表出したいという欲求にもとづき、言葉を発したり行為したりすることによって、喜び、歓喜という感情が生じ、喜び、歓喜へ執着する性向が潜在する、と説明したことになります。また、また貪随眠は、楽の感受、「表象(想)」、「形成力(行)」が一気通貫で行われることを、欲求を生じ、欲求を充足することによって、脳の報酬系が活性化して、脳から快感という報酬があたえられることによって強化される性向、と説明することもできるように思います。マインドフルネス認知療法においても、釈迦の認知論においても、快適か/楽の感受、不快か/苦の感受、どちらでもないか/不苦不楽の感受は、人の認知形成の方向性に影響を与える、という観点は共通しています。五蘊=色、受、想、行、識の「想」と「行」です。「想」は、「表象」と言われているように、一瞬のうちに「心に生まれるイメージとしての思考」を生成する機能、およびその機能により生成された「心に生まれるイメージとしての思考」だと考えています。「想」は、Beckの認知モデルでいえば、気分の低下を感知した時(≒「苦の感受」が生じそれを感知した時)、「いま私は何を考えただろうか」と自問し、気分の低下をもたらした非機能的な自動思考を、「ことば」によって把握しようとする、言葉で明確に把握されていない状態の自動思考、もしくは自動思考を含む認知と考えてもらっていいと思います。先に「スキーマ療法」(金剛出版)から引用した、「多くのスキーマは言語が発現する前に形成され始める。つまり子供が言葉を理解し話すようになるころには、いくつくかのスキーマはすでに形成されているのである。」とのことですから、これを考え合わせれば、「想」は、言語獲得前の幼児にも認知形成され、スキーマを形成することに関与している、と考えてよさそうです。釈迦の認知論では、「想」は、次の「行」を刺激し、「行」は「想」を受けて、「意欲し」その意欲によって「行為」する機能をもたらすと考えます。「楽の感受を受けているときに、人が喜び、歓喜し、それに執着し続けるなら、かれのなかに執着する性向(貪随眠)が潜在する。」という教示が意味するところは、楽の感受を受けているときに、「ああこれは嬉しいことだ」という「想」を形成し、その「想」に基づき、人「喜び、歓喜し」、「これはいいことだ、またこのような気分になりたい」という「想」を形成し、「それに執着し続ける」なら、あなたには、「執着する性向(貪随眠)が潜在」することになりますよ、ということになろうかと思います。瞋恚随眠、無明随眠も同様と解してよいでしょう。「行」が、「意欲」によって「行為」を形成する「形成力」ととらえられていますから、「想」は、「心に生まれるイメージとしての思考」いわば行動の前提となる情報であって、情報としての「想」が、「意欲」を形成せず、その結果としての「行為」が形成されない、ということもあり得ます。その様に考えると、「想」は、「行」との関係では、「行」によって「意欲」「行為」が形成される前段階の、「選択肢として」「心に生まれるイメージとしての思考」ということになります。「想」を「選択肢として」「心に生まれるイメージとしての思考」と考え、「選択肢として」「心に生まれるイメージとしての思考」に反応して、「行」によって「意欲」が形成され「行為」が形成されると考えると、アンガーマネジメントが可能になります。「選択肢として」「心に生まれるイメージとしての思考」が、「怒りという感情を想起させるもの」であった場合でも、それはあくまでも自分に取っての「選択肢」にすぎず、怒りという意欲も行為を選択しないことも可能なのだと自覚し、「行」によって「怒り」の表出を「意欲」として形成せず、「行為」として形成しなければ、怒りは生まれないことになります。ジェームズ・ランゲ説でいえば、腹が立つから怒るのではない、怒るから腹が立つのである、という実践、方法論です。「喉が渇いた」という「選択肢として」「心に生まれるイメージとしての思考」が「想」、「喉が渇いた」から、「何か飲もう」という「意欲」と「行為」を形成する機能と形成された「意欲」「行為」が「行」ということになります。通常は、「想」が生じると、「意欲」という、ああしよう、こうしよう、こうしたい、という意欲、意図、衝動が生まれるということになります。意欲、意図、衝動は、行動に結実すると脳の報酬系を刺激します。痒いと感じて、掻きたい、掻いて痒みを取りたいと意欲して、痒みを掻くだけで脳の報酬系は活性化される、つまり「快感」というご褒美をもらうことができます。それゆえ、ヴィパッサナー瞑想では、痒いと感じたら、「私は痒いと感じている」と認識するのではなく、「体に痒みが生じた」と認識し「痒み」と言葉で確認し、痒いところを掻かないことによって、脳の報酬系から「快感」というご褒美をもらうことを抑制します。このようにするには、大きく3つの意味があるように思います。1つ目は、「体に痒みが生じた」という情報としての「想」と、「掻きたい」という意欲と行為である「行」を区別できるようにするため。さらに「想」と「行」を識別することによって観察力を強くするため。このような微細な観察が、「如実知見」を可能にする「尋」と「伺」という観察眼考察眼を養うことになります。2つ目は、痒いと「感じる主体としての自己」から、痒みを「観察する主体としての自己」へのシフトを促すことにより、無自覚的に認知し行動することから、自覚して認知し物事を行うよう導くこと意図しているから。「痒ゆい」と感じている自分に対して、「痒み」という言葉が、「観察する主体としての自己」へのシフトを先導する、ととらえられます。3つ目は、「行」を識別できることによって、「行」による「意欲」の生成を制止することができ、「意欲」の生成を制止することにより、脳の報酬系の刺激、活性化を抑えることができ、瞑想による体と心の平静状態を高めることができること。「想」が起こっても、「想」に触発されて「考えたい」とか「何か考えて対処しなければ」という意図、意欲、衝動である「行」が起らなければ、「想」を手放すことは極めて容易です。瞑想経験を重ねると「行」による「意欲」の生成が、心の平静を妨げることが理解できるようになり、さらに心の平静が進展すると、何かをしようという「意欲」の生成そのものが、心を煩わせるものであり、疎ましくなる感覚が形成されます。「行」による「意欲」が、心の平静を妨げることが理解できるようになると、釈迦が、六六経で説かれれる、五感と意識が物事を認識する(感受がうまれる)と欲望が生まれると説く「六愛取」や、大念処経で説かれる「なんであれれこの世のなかには好ましいもの、楽しいものがあり、そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕留まっているのである」ということが体験的に理解できるようになります。「感じる主体としての自己」から「観察する主体としての自己」へのシフト、「意欲」することを抑止することに、念人経に説かれる、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が克服されることが加わると、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気に関しては、「感じる主体としての自己」の必要性は希薄となりますから、「自己がある」という意識も希薄になってゆくでしょう。「感じる主体としての自己」が希薄になり、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が克服され、「観察する主体としての自己」の観察力が強化され、体と心の平静状態が高まれば、『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)に到達し、その状態で集中力を高める事によって、『精神集中という悟りの支分』(定覚支)が発現し、自己のことであっても、第三者のことであるかのように観察し考察できる「尋」と「伺」が発現し、それによって「『これは苦しみである』とありのままに知り」、「この苦しみを何とかしたい、無くしたい、という心の機能が起動」し、四聖諦が働き始めると考えられます。五蘊=色、受、想、行、識の最後の「識」です。私は、「識」の本質的な機能は、比較対照、参照する機能と、参照される記憶(記憶を参照することにより、記憶が再現され「事象」として把握される)と考えています。そして、参照機能は無意識的無自覚的になされれる場合もあり、記憶を呼び戻そうとするように意識的になされる場合もあると考えています。意識的になされ場合、例えばあるアイディア「想1」が生まれたとします。そのアイディアを即実行に移す場合もあるでしょうが、多くの場合は、そのアイディアがどの程度効果が見込めそうかという観点(想2)との「比較対照」や、実行するにはどのくらいの労力や費用が必要なのかといった観点(想3)などから「比較対象」をしたりして、そのアイディア「想1」を検討すると思います。場合によっては、記憶にある過去の類似のケースの成功経験あるいは失敗体験(識)などを参照して検討することもあるでしょう。これらは、そのアイディアとしての「想1」を、そのアイディアとしての「想1」とは異なる観点の「想2」「想3」と比較対照し、記憶にある過去の「識」参照して、そのアイディアを実行するかしないか検討することなので、私は「識」を、比較対照、参照する機能と参照される記憶と考えています。すでにご説明している五蓋の「悪作」についても、『後悔とは、「心の中で作り出した実現しないこと」を規準として、それをしなかったこと、してしまったという事実を対比(=比較対照)し、それをしなかった自分、してしまったという自分を責めることだと理解できますから、後悔は、「心の中で作り出した実現しないこと」(を参照すること)に基づいて、絶えず悩み苦しみつらさを作り出していることに他なりません。」と理解できますから、比較対照、参照機能が働いていると考えられます。「比較対照、参照する機能」「参照される記憶」双方を想定しないと、悩み苦しみつらさの発生が説明できません。「スキーマ療法」(金剛出版)からの下記引用のうちの「2つのシステムはそれぞれ異なる種類の情報を蓄積する」は、「参照される記憶」の構築、「偏桃体系の記憶検索」「海馬系の記憶検索」は、無意識的無自覚的な「比較対照、参照する機能」という理解と整合的であると思います。「外傷体験の学習は、2つのシステムを通じて行われる。1つは海馬とそれに関連する大脳皮質によって構成されるシステムで、こちらは記憶の意識的側面と関連する。もう1つは、偏桃体によって構成されるシステムで、こちらは記憶の無意識的側面と関連する。この2つは並行して機能し、そうれぞれ異なる種類の情報を蓄積する。個体は後になって外傷体験に関連する刺激を受けると、2つのシステムはそれぞれ異なる種類の情報を蓄積する。偏桃体系の記憶検索の結果は、危険に対して身体を構えるといった形で表出される。一方、海馬系の記憶検索の結果は、過去の記憶が意識に上るといった形で表出される。(p.239)」四聖諦の、私には悩み苦しみつらさがあると知った、悩み苦しみつらさの原因を知り、原因をなくしたら悩み苦しみつらさがなくなった、これは悩み苦しみつらさをなくす方法であると知った、この方法を実践することにより悩み苦しみはなくなる、という苦悩滅尽の方法論の前提には、生起し滅してゆく認知(事象)に執着し、その認知(事象)を押しとどめ、その認知に取りつかれるから、悩み苦しみつらさが生まれるのである、という認識が、釈迦にはあったのでしょう。生老病死については、それらが無ければいいのに、という考え「想」が生まれ、『それらがなければよいのに、という考え「想」』への執着によって、求めても得られない苦しみが発生しますから、『それらが無ければいいのに、という考え「想」』を参照して、『それらが無ければいいのに、という考え「想」』へ執着することを「原因」として苦しみが生まれる、と言い換えられます。大念処経で教示される苦しみ「憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶え」について考察するならば、①悩み苦しみつらさを引き越した経験 ②その時の悩み苦しみつらさ記憶 ③経験と悩み苦しみつらさの概念的解釈 が「識」として記憶され保持されていることを前提に、外部からの刺激によって、それらの記憶である「識」を「参照」し、②の記憶が再現されることを「原因」として、「憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶え」が生まれると考えられます。また、貪随眠、瞋恚随眠、無明随眠は、これらの性向が潜在すると説明されていますから、潜在したものが、悩み苦しみつらさを生み出すならば、貪随眠、瞋恚随眠、無明随眠に対して、「記憶の中にあることを参照することにより再現される」(記憶というデータベースにアクセスする)ことを想定しないと、潜在したものが、貪りや恨みや怒りなどの悩み苦しみつらさを生み出すことの説明が付きません。過去において、悩み苦しみつらさを自己の内に形成した体験とその時の感情、トラウマを記憶していない(参照すべき悩み苦しみの感情とそれを生み出した経験の記憶としての「識」がない)のであれば、現在において、トラウマによる悩み苦しみつらさは生まれないでしょう。ただし、トラウマを記憶していないということが、トラウマが生起させる苦しみつらさを回避するため意識しないようにしている、ということであれば記憶を参照することを禁止する、という強い負担を抱えることになります。悩み苦しみつらさの体験を、幼少期に解釈し、悩み苦しみつらさを和らげようとしたものが、非機能的な中核信念、早期不適合スキーマであると考えるならば、非機能的な自動思考が生成されるには、非機能的な中核信念、早期不適合スキーマを「参照する機能」と、「参照される記憶(記憶の中にある出来事、つらさ)」としての非機能的な中核信念、早期不適合スキーマの、双方を想定しないと、悩み苦しみつらさが発生する説明が付きません。この「比較検討、参照する機能」「参照される記憶(記憶の中にあること)」という心のはたらきは、釈迦の認知論では、多くの人は、このような心のはたらきを理解しておらず、自覚しておらず、自覚していないがゆえに、自分でコントロールしていない、自分でコントロールでしていないから、知らず知らずのうちに、悩み苦しみつらさを生み出している、という理解とセットになっている、と考えた方がいいように思います。釈迦は、大念処経のなかで、「苦しみのすぐれた真理とは、いったいなにか」として、生老病死は苦である、求めてもえら得ないということ、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えも苦しみであると教示した後、「要するに、〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素(五取蘊)は苦しみである。」と教示しています。釈迦の認知論では、識に限らず、五蘊自体のはたらきが自覚できていないから、無自覚に五蘊(五蘊のはたらきと生み出される認知)に執着して悩み苦しみつらさを生み出してしまうのだ、五蘊を自覚して、悩み苦しみつらさを生み出さない認知形成のしくみを確立すれば、悩み苦しみつらさは生み出されない、という認識を前提に、五蘊の働きを自覚しないこと、五蘊の働きを自覚しないことによって、五蘊への無自覚な執着である「五取蘊」が生まれるから、人はありのままでは、悩み苦しみつらさを必然的に生み出してしまう認知形成のしくみになっているのだ、ということなのではないかと感じています。もしかすると、釈迦は、認知論を超えて、少しづつ変化する(死に向かって老化する)体をもち、認知する機能をもち生まれては消える認知を絶えることなく生み出す(常一でない)人の存在そのものが、人に安楽もたらすことのない「苦」の原因である、というところまで認識するに至っていたのかもしれません。妄想とは、五蘊の観察考察によって得た経験的合理的な自覚から「あり得るとは言えない」「合理的とは言えない」認知ということになるでしょうか。なぜそのような認知が生まれるのか考察してみると、「こうであったらよいのになあという」と考えたい願望に影響されてているからということが考えられr、その願望が、釈迦の説く愛執や執着、欲ということになるのでしょう。人の認知形成のしくみには、『五蘊の観察考察によって得た経験的合理的な自覚から「あり得るとは言えない」「合理的とは言えない」認知』を作り出してしまう機能がある、ということになりますから、厄介です。五蓋のところでご説明した、「悪作」後悔をひきおこすのも、実現しなかった、選択しなかった過去を、「ああしていればよかった」と「想像」して、しなかった自分と(識の機能により)比較して悔やむことが後悔ですから、「人の認知形成のしくみが、無自覚に無いことを想像によって作り上げた」妄想が、後悔という悩み苦しみつらさを生み出しているといえます。また、妄想は、例えば自分に、こうでありたいという姿や将来到達したい目的点があるいっぽうで、それを実現できない、できそうもないと考えるときなど、想像の世界のなかでそれを実現することによって、この世の現実、事実と考えられる事柄が自分に突きつけられることで、無自覚的に生み出される悩み苦しみつらさを解消しようとするために生成されるということもあるようです。釈迦の認知論には、現実、事実という考えは無いようです。釈迦の認知論にあるのは、あくまでも体と心のはたらきと認知形成のしくみにより、形成され認知される出来事があり、それに愛執を抱いて執着し、消えてゆくものが継続することを願い、心に保持し続ける(執着する)という出来事が生まれ、やがて消滅して行く出来事に嫌悪感を抱いて怒りを覚えて保持し苦しむ、という出来事が起こる(このような状態が、苦しみを生む、五蘊の野放し状態としての五取蘊だと考えられます)、というふうにとらえているようですから、現実や事実という考えはなく、形成され認知される出来事とそれに対する執着や嫌悪が生まれ、思うようにならないがゆえに、苦しみつらさという出来事を生み出すという認知形成のはたらきがあるだけだと、考えているようです。釈迦の方法論は、欲しいものがあっても手に入らない、それをしたくても実現できそうもないという認知(現代でしばしば「現実」といいかえられます)が生じたときに、事実として実現できそうもないことを想像の世界で実現して、自分を慰める、実現できないという認識がもたらす苦しみつらさを和らげる、という方法は採用しません。それは妄想として否定されます。そのような方法は、苦しみやつらさを一時的に和らげるための対症療法にしかならず、苦しみやつらさを生み出す原因を滅尽せず、悩み苦しみつらさの生成を継続させるから、ということなのでしょう。ヴィパッサナー瞑想では、座ってする瞑想では、呼吸に伴う体の動きを観て、ラベリングする、もしくは出入息観を行いますが、想が生まれると、想に妄想とラベリングして、手放します。座ってする瞑想では、今ここで、生起しては消えてゆく呼吸と呼吸に伴う体の動きがあるだけ、と観察します。ですから、瞑想中に、明日は会議があるとか、昨日は楽しかったな、とかは、今ここにはありませんから、その内容を理解したならば、今ここにないのだから、妄想と「ラベリング」して、手放すようにします。手放すとは、引き続いて考えないことで、行=意欲、意図、衝動を起こさないようにすること、手放すことが「執着しない訓練」となり、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気などのいわゆる感情の生成を抑制することになるととともに、心の平静を実現し観察力を高めることになるからです。何か外で音がしたならば、それは今自分が認知していることですから「音」などと「ラベリング」して同様に手放します。この「妄想ラベリング」の効果は相当に強力です。呼吸と呼吸に伴う体の動きという、今ここで生起し消滅している体と心のはたらきに対して、「人の認知形成のしくみが、無自覚に無いことを想像によって作り上げた」妄想でいっぱいだということに、否応なしに自覚することになるからです。四聖諦が起動していれば、妄想があるからかえって苦しむのだ、とか、妄想は自分の苦しみつらさの解決にはならないのだ、という自覚が生まれ、妄想があるからかえって苦しむのだ、妄想は自分の苦しみつらさの解決にはならないのだと自覚できていれば、さらに悩み苦しみつらさを解消する方法が開示されることになりますから、それを実行すればよいでしょう。悟りや悩み苦しみからの完全な解脱のためには、欲しいもの実現したいことを生み出す愛執、欲望に焦点をあて、欲しいもの実現したいことを生み出す愛執、欲望の一切から離欲することのよって、欲しいもの実現したいことが無くなれば、苦しみつらさはなくなるよね、というのが釈迦の方法論の基礎にあります。しかしながら、自分の目標や到達したい地点としての理想などをもつことは、自分の努力によって到達できる可能性がありますし、また目標や理想を持つことが好ましいという側面もあります。私たちは出家者ではなく、労働して生活の糧を稼ぎ社会参加し、自らの人生をより充実したものにするため生きている、という側面がありますから、「人の認知形成のしくみが、無自覚に無いことを想像によって作り上げた」ものでなく、社会生活上必要に応じて、自覚的に「無いことを想像によって作り上げた」ものが妄想類似のもものであっても一概に否定されるべきものではないでしょう。妄想は無いに越したことはないのでしょうが、一律に妄想をなくせばいいのだ、ということではないように考えます。自分を慰める、実現できないという認識がもたらす苦しみつらさを一時的なものであっても和らげることができる、というのであれば、ほかに方法がないのであれば、妄想にも相応の効果はある(=押し寄せる苦しみつらさという川に飲み込まれないために、一時避難的に使用する「筏」)、ということも考えられるからです。釈迦の認知論、方法論は、釈迦が至った境地から、釈迦が至った境地に至る方法として、釈迦が得たことのすべてが教示されているので、妥協がありません。すこしくらいならいいよ、という教示は当然ありません。そもそも、交流分析の早期(幼児)決断がなされたり、認知行動療法の非機能的な中核信念が形成されることの理由は、幼児期の、養育者に依存し事態を改善する力を持たない自分であるという認識を前提に、苦痛で不快な事態を、自分なりに解釈し理解し、苦痛不快ではあっても「どうにもならないのだ」と納得することにより、苦痛不快に耐えるためであると思われますから、成人した後に「自分を慰める、実現できないという認識がもたらす苦しみつらさを和らげる」ために「あり得るとは言えない」「合理的とは言えない」認知といえる妄想を作りだすことは、人間に本来的にそなわっている認知形成機能とさえ言えます。だからこそ、ありのままの五蘊のはたらきを自覚せず、自由放任にしていたのでは五取蘊という、五蘊への盲目的な信頼、形成された認知への無自覚な執着をうみ、結果として悩み苦しみつらさを招来する、と釈迦は考えたのでしょう。釈迦は、五取蘊を克服したのですから、当然にそのような妄想や顚倒は滅尽していたでしょう。釈迦が説いたことは、釈迦の方法を受け継ぐ、出家者という、悟りを求め、悩み苦しみからの完全な解脱を目指す人々が、コンプリートすべき「フルセット」として教示されている(釈迦は自らが得たことは隠さず教示した)ということの意味はしっかりと考えなければなりません。私たちが、悟りや悩み苦しみからの完全な解脱を目指していないのであれば、釈迦の教示を無理やり完全にコンプリートしようとする必然性は低いように思います。釈迦の方法論の特徴は「離欲」であろうということはすでにご説明しましたが、「離欲」は、自分から「離してゆく」ことで、言い換えれば「捨ててゆく」ことですから、釈迦の方法論を理解するときには、無理やり「捨ててゆく」ことをコンプリートしなければならない、とは考えず、自分はこの世で生きてゆくことを前提として、どこまで「捨ててゆく」ことができるのか、という観点から理解することが大事だと考えています。瞑想が進展し、四聖諦が起動すれば、すべきことはおのずと開示されるでしょうし、妄想や顚倒を克服する手段としての「筏」(方法)も開示されるでしょう。「自我」は、この場合、今日的な「自我」ではなくて、釈迦在世時のウパニシャッド哲学におけるブラフマン(梵)、アートマン(我)の、「アートマン(我)」「永遠不変の個人の本体」(六六経註)のことでのようです。自我がある、ないについて、釈迦は、遍歴行者ヴァッチャゴッタから質問されても、黙して答えませんでした。「アーナンダよ、遍歴行者ヴァッチャゴッタに「我はあるのだろうか」と問われて、もし、わたしが「我は存在する」と答えるならば、アーナンダよ、常住論を唱える修行者・バラモンたちと同じになってしまう。アーナンダよ、遍歴行者ヴァッチャゴッタに「我はないのだろうか」と問われて、もし、わたしが「我は存在しない」と答えるならば、アーナンダよ、断滅論を唱える修行者・バラモンたちと同じになってしまう。アーナンダよ、遍歴行者ヴァッチャゴッタに「我はあるのだろうか」と問われて、もし、わたしが「我は存在する」と答えるならば、アーナンダよ、わたしは、「すべてものは無我である」という智慧の生起に随順していることになるだろうか。」(春秋社 原始仏典Ⅱ相応部経典第四巻)釈迦が、黙して答えなかったのは、『「我は存在する」と答えるならば、アーナンダよ、わたしは、「すべてものは無我である」という智慧の生起に随順していることになるだろうか。」』ということが一番大きかったのであろうと推測されます。「すべてものは無我である」を「諸法無我」とらえるならば、「諸法」とは、春秋社版阿含経では「法」を「事象」と訳していることがありますので、『ただ事象のみが存在する』(大念処経)というときの「事象」は「法」、「事象」とは、認識できる出来事ですから、「すべての認識できる出来事は無我である」ということになります。ヴィパッサナー瞑想は観察する瞑想ですから、上記のアーナンダへ語ったことの裏には、観察しても「我」は観察できない、「生起しては消えてゆく体と心の現象を観察考察し自覚している」ということは了解されている、言い換えれば「観察し考察して認知している機能としてのわたし」は了解されているのではないかと思います。そして「無我」とは、下記の相応部経典の教示から、「自分の思いのままにならないもの」ということになり、「すべてものは無我である」とは、「すべての認識できる出来事は(無我=)自分の思いのままにならないものである」ということになります。「自分の思いのままにならない」ということのなかには、愛執が生じたことによって生まれる「この状態がづっと続けばよいのに」という「自分の思い」のままにはならない、という意味が含まれているように感じます。『「修行僧たちよ、一体何がある時、何をとらえて、何に執着して、このように見解が生じるのか。〔すなわち〕これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの我(自分の思いのままになるもの)である、と」。』(春秋社 原始仏典Ⅱ相応部経典第三巻)『「我は存在する」と答えるならば、アーナンダよ、わたしは、「すべてものは無我である」という智慧の生起に随順していることになるだろうか。」』の意味するところは、「我は存在する」と答えたならば、瞑想の四念処によって五蘊の働きを観察考察することによって生まれた智慧、すなわち、五蘊のはたらきによって体と心に生起する「すべての認識できる出来事は(無我=)自分の思いのままにならないものである」という智慧に随順するだろうか(たぶんしないだろう)、ということになります。一般に「無我」と言われていますが、六六経で釈迦は、自我は無い、とは言っておらず、私たちが自我だと思っていることは自我ではない、と教示しています。(春秋社の原始仏典および原始仏典Ⅱでは、訳者間の用語の統一を行っていないため「非我」とされる訳者もおられます。)釈迦は、「私たちが自我だと思っていることは自我ではない」ということについて、私たちが認知できる、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識と、それぞれの6つの働き(六内処、六外処、六識身、六触身、六受身、六愛身)のいずれも、(認知ですから、認知は)生まれては消えてゆくものである、生まれては消えてゆくものを「永遠不変の個人の本体」というのはおかしいではないか、だから、私たちが認知できる視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識と、それぞれの6つの働き(六内処、六外処、六識身、六触身、六受身、六愛身)のいずれも自我ではない、としています。「私たちが自我だと思っていることは自我ではない」としたうえで、私たちが認知できる視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識と、それぞれの6つの働き(六内処、六外処、六識身、六触身、六受身、六愛身)を、これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの自我である、とみなすことを「自己の身体の生起に向かう道」と説いています。さらに、私たちが認知できる視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識と、それぞれの6つの働き(六内処、六外処、六識身、六触身、六受身、六愛身)を、これはわたしのものではない、これはわたしではない、これはわたしの自我でない、とみなすことを「自己の身体の止滅に向かう道」であると説いています。「これはわたしのものでない」とは、先の相応部経典から引用どおり、わたしの所有物ではないという意味を超えて、「わたしの思いのままになるものではない」と解釈するのが妥当だと思っています。「これはわたしのものでない」を、「わたしの思いのままになるものではない」ととらえると、「私の私たちが認知できる視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識と、それぞれの6つの働き(六内処、六外処、六識身、六触身、六受身、六愛身)」は、「わたしの思いのままになるものではない」ということになります。「わたしの思いのままになるものではない」ということは、それを止めることもできないし、わたしが好いと思うことだけ生起して、嫌なことは生起しないでもらいたい、ということは通用しない、ということになるでしょうか。「私の私たちが認知できる視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識と、それぞれの6つの働き(六内処、六外処、六識身、六触身、六受身、六愛身)」のなかには、「意識」もありますから、私たちが感じる感覚、考えること、生起する感情、感情への反応、生み出される悩み苦しみつらさも、「わたしの思いのままになるものではない」ということになります。これが、釈迦が「五取蘊」と言っている状態とニアリーイコールと考えていいと思います。「わたしの思いのままになるものではない」という「体と心のはたらき」と、それに影響される「認知形成のしくみ」を自覚せず、野放し状態に置いた状態が「五取蘊」であり、「五取蘊」は「わたしの思いのままになるものではない」のですから、悩み苦しみつらさを生み出し続けますよね、ですから、「五取蘊」を自覚して、悩み苦しみつらさを生み出さないように意識して努めれば、悩み苦しみを生み出すことを止滅することができますよね、ということを釈迦は説いているのでしょう。「自己の身体の生起に向かう道」「自己の身体の止滅に向かう道」とは、「色(肉体)がある時、色をとらえて、色に執着して、このように見解が生じる。〔すなわち、〕これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの我である、という〔見解が生じる〕。(前記相応部経典第三巻)ことを参照すると次のようになります。「自己の身体の生起に向かう道」とは、「これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの我である、という〔見解が生じる〕」ということになり、このことは、すなわち、「これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの思いのままになるものである、という〔見解が生じる〕」道、「自己の身体の止滅に向かう道」とは「これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの我である、という〔見解が生じる〕」ことがない道、ということでありそうです。体は、ある程度自由に動かせはしますが、完全に意のままになりとは言えませんし、時とともに変化してゆき、自分が望む状態にとどまることはあませんし、自分がわからないところで具合がわるくなったり、病気になったりしますから、「わたしの思いのままになるものではない」ということなのでしょう。ただし、それは「五取蘊」という好ましくない認知のあり方として、身体(色)を、「これはわたしの思いのままになるものである」と思うことが不適切な認知なであると教示しているのであって、「わたしの思いのままにならないもの」だから、どうにでもなれ、わたしがどうこうすることはできない、ということではなく、釈迦が説くところとしては、身体(色)も、「私の思いのままにならないもの」ということを自覚して、物事を考え、注意して、生きてゆきなさい、ということになるのでしょう。上記のように解釈せず、「身体は、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自我でもない」ということで終わらせてしまったら、何を言っているのか訳が分からず、富永仲基が言ったように「仏教の特徴は、幻術である。」(翁の文 中央公論社 日本の名著18)ということになってしまうでしょう。これらの教示に続いて、すでに引用視している「貪随眠」「瞋恚随眠」「無明随眠」が教示され、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識と、それぞれの6つの働き(六内処、六外処、六識身、六触身、六受身、六愛身)を厭い離れ、貪りを離れ、貪りを離れるとによって、解脱すると教示します。私たちは、厭い離れ、貪りを離れ、貪りを離れることで解脱する、ということに至らずとも、念身経で説かれる、好き嫌い、嫌悪感、恐怖心と怖じ気を克服できた場合には、好き嫌い、嫌悪感、恐怖心と怖じ気について、「私はそれが好き、私はそれが嫌い、私はそれに嫌悪感がある、私はそれが怖い」という認識は薄れる、もしくはなくなりますから、「私=好き嫌い、私=嫌悪感、私=恐怖心と怖じ気」という自覚なき同一視の関係が、「私≠好き嫌い、私≠嫌悪感、私≠恐怖心と怖じ気」という関係に変換され、「わたし」という意識の必要性が低くなるであろうことはご理解いただけるでしょう。大山泰宏先生は、「改定新版 人格心理学」(NHK出版)の中でこのように言わています。「考えてみると、「わたし」とはひとつの虚構、おそらくは人類が手にした最大の虚構であるともいえる。誰もが私を「わたし」といい、またどのにような状況にあっても、私は「わたし」である。あらゆる人格とあらゆる状況に通用するがゆえに、「わたし」とはそれ自体では意味内容をもたない空虚なものであるとさえいえよう。しかし、こうした空虚な一点を媒介としてこそ、私たちは記憶はイメージをつなぎ合わせ、「わたし」というアイデンティティを構成するのである。」釈迦は、人は『「わたし」とはそれ自体では意味内容をもたない空虚なもの』ということを埋めようとして、五取蘊(=自己の認知機能とそこから生み出される認知への執着)が生まれるのだ、人は、自分の思いのままにならない「自己の認知機能とそこから生み出される認知への執着」を自覚して、執着から離れない限り、悩み苦しみつらさから離れることできない、という認知に到達していたようです。「わたし」という認知が成立すれば、五蘊の機能として、「わたし」と「他者」を「比較」し「優劣という見解」を生み出し、「わたし」を他者に対抗できる存在にしたい、という意図も生まれるでしょう。『「わたし」とはそれ自体では意味内容をもたない空虚なもの』という認識からもたらされる、漠然とした欠乏感や不安感から逃れるために、欲望、執着という、何かを自らの内に取り入れたいという心理が生み出されるのであれば、欲望、執着は、人の生存に伴う根源的なものであることになります。欲望、執着が、人の生存に伴う根源的なものであるならば、釈迦が、大念処経で、「〈苦しみ〉のすぐれた真理とはなにか」として「すなわち、現世の欲望に対する愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執である」と教示したことの説明もつきますし、納得もできます。「自己意識(慢)」は、現代の言い方で把握すると、あなたをあなたとして存在させている「人格」「パーソナリティ」についての、あなたの認識ということになりそうです。そうすると、「人格」「パーソナリティ」について認識することは、好くないことなのか、という疑問が生まれます。結論から言うと、釈迦は好ましくないと考えたのでしょう。(ただし釈迦が生きた2600年前と現代では、自己意識の内容に違いがあることは考慮する必要があるでしょう)。「自己意識(慢)」を、ないものを想像によって作り出した概念ととらえ、概念によって作り出した「わたしとは、このような人である」という考えに、好いことへの執着から「このようなことは善いことである(そのように私は考え、そのよう行動する私を好い人である感じ愛執を抱く)」、嫌悪を感じることへの執着から、「このようにすることは善くないことである(そのように私は考え、そのようなことを私はしないようにしている、そのようにしない私は好い人であり、善くないことをする他者は好くない人であり、そのような人に私は罰を与えるべきである)」というものを付加したならば、苦悩はなくなりませんし、遭遇する出来事に対してありのままを観て適切に判断すること、すなわち仏教の如実知見を妨げる、と考えたのでしょう。それでは、自己を律する価値観や道徳観は不要なのか、それでは傍若無人な人になってしまうではないか、という危惧が生まれるかもしれません。釈迦は、人の認知形成機能によって「わたし」という概念を作ること、さらに「わたし」という概念に、自分の好悪の感情と結びついた善いこと悪いことという道徳観、価値判断という概念を付加して「わたし」と認識したなら、それは、認知形成機能の野放し状態である「五取蘊」の結果による、「愛執への執着により自分が束縛されている状態」を作り出していることであり、そのような「自己概念(慢)」は滅しなければ、悩み苦しみを生み続ける、と考えたのでしょう。当然に善いこと悪いことは指し示されており、大念処経の八聖道では、「正しい思考」として「出離への思考、怒りのない思考、傷害のない思考」を、「正しいことば」として、「偽りのことばから離れること、中傷のことばから離れること、粗暴なことばから離れること、無意味な飾ったことばから離れること」を、「正しい行動」として、「生き物を殺すことから離れること、与えられないものを取ることから離れること、淫らな行いから離れること」をあげているのみです。最初はこれらが「戒」となり、していないけないこととされ、次第に戒律として増えていったようです。現代では、生きものは、重要なたんぱく源ですから、生きものを殺さないことははほぼ不可能です。自分で殺さなくても、殺された生きものを食べているのであれば、だれかに殺してもラったものを食べているので、殺していることと同意になるでしょう。定住、耕作によって穀物の生産が増大し、穀物の生産によって人口増加をもたらしたこと、気候変動等の不作によって、増大した穀物生産で養っていた人口を養うことができなくなったことによって大規模な飢餓が発生したことなどを考えれれば、現代において生きものを殺さないことは飢餓をもたらすことと同意になります。聖道経では、「誤った思考とはなにか。欲をともなった思考、敵意をともなった思考、害意をともなった思考」とされていますから、これと紐づけられる言葉、行為が好ましくないもの考えればよいように思います。同様にこれと紐づけられる、道徳観、価値判断や自己意識は好ましくないものとされるでしょう。すでにご説明したように、釈迦が到達した認知論では、「これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの自我である」と考えているものは、わたしのものでもなく、わたしでもなく、わたしの自我でもないので、「自己意識(慢)」は、五蘊のはたらきが作り出した、大山先生が言われる、『「わたし」とはひとつの虚構、おそらくは人類が手にした最大の虚構』ということになります。「わたしのものでもなく、わたしでもなく、わたしの自我でもない」のですが、「わたしは無いのだ」とは明確に、釈迦は教示していませんから、「自己意識(慢)」という虚構を作り出す五蘊のはたらきを理解したうえで、「自己意識(慢)」を「消滅し尽し、離欲し、滅し、捨て、捨て去った」ということになるでしょう。「自己意識(慢)」を捨て去っても、認知し、思考し、説法し、行為する主体である釈迦はいなくなるということではありませんから、「自己意識(慢)」を捨て去ってさったとは、「欲をともなった思考、敵意をともなった思考、害意をともなった思考」を生み出す「愛執に執着していることにより自分が束縛されている状態」を滅した、ということと理解してもいいのではないかと思います。慢には、仏教では7つあるとする考えもあるようですが、後の仏教の教学であるかもしれません。増長慢と卑下慢という自己意識について、認知論から考えてみます(したがって仏教の考え方ではありません)。増長慢は、自分を拡大視し、他者より優れたものであると考えること、卑下慢は、自分を縮小視し、自分に価値がなく人に劣後するものと考えること、と説明できるでしょうか。(残念なことではありますが、ある人が自分を拡大し、自己を優越視することへの強い欲求をもち、立場的に下位にある人や反撃してこない人反撃できない人を、自分に対して劣位にある人と位置づけ、その人を自分の意思に従わせることで、自分の拡大視、優越視への欲求を満たし、満足していて心地よさを感じる(愛執がうまれる)状況にいて、そのことを自覚しないとしたら、ハラスメントはいけません、いじめはいけません、という規範を提示しても、その人は自分の行為を簡単には規制できない可能性があります。「それはいけないことだけど、自分はいけないことはしていないよ(いけないことをしていると自覚できていない)」、と認識しているわけですから。)増長慢の対局に卑下慢があり、卑下慢がある(卑下慢を成り立たせる概念的思考がある)から増長慢があり、増長慢がある(増長慢を成り立たせる概念的思考がある)から卑下慢があると理解した方がよさそうです。すなわち、自分について増長慢という自己意識を持ったときには、他者は自分に劣後すると無自覚的に認知することによって、自分は他者に優越すると認識することが可能となるように思います。言い換えれば、優越-劣後という自分独自の尺度を想定して(作り出して)、自分を優越の側に置き、他者を劣後の側に置く(そのような尺度を作り出すこともあるでしょう)ことによって、自分は他者に優越するという無自覚的な認知が成立する、と言えるのではないかと思います。よりこの考えを進めるならば、自分を優位の側に置くことができる尺度をつくりだす、ということなのかもしれません。他者は、自分に劣後するポジションにあると明確に意識していなくても、自分一人で生きているのではない以上、自分が優越するという認知は、比較対照される他者が存在して容易になりますから、自分に劣後する存在を想定しない限り、自分が優越するという認知は成立しないように思います。このように考えることによって、誹謗中傷などのように、他者を攻撃して貶めようとすることには、他者を比較対象物と見立てて攻撃して貶めることによって、(自分の意識の中に限定されるとはいえ)自分が優位に立つことができると無自覚的に想定している(錯覚している)、もしくは、自分が優位に立ちたいという飢餓感と飢餓感を解消する期待があるからではないか、という解釈へ道を開きます。このような状態が、後で説明しますが、釈迦の教示する「五取蘊」が招来する状態、言い換えると「認知形成のしくみである五蘊」の野放し状態であり、自己の認知形成と認知に基づく行為を自覚できていない状態、すでにご説明した概念でいえば、潜在していた無明随眠が顕在化して行為を促進している状態、と説明できるように思います。また、歯止めが利かなくなることの説明は、自分が優位に立ちたいという飢餓感は、自分が優位に立ちたいという欲求と表裏一体ですから、他者への誹謗中傷によって、自分が優位に立つことができると無自覚的に想定している(錯覚している)ならば、誹謗中傷を行うことによって、自分が優位に立ちたいという欲求が(錯覚とはいえ)充足され、脳の報酬系から報酬が与えられることにより、歯止めが利かなくなる、という説明も可能となるでしょう。脳の報酬系から与えられる報酬への欲求から、歯止めが利かないということであれば、誹謗中傷により他者を攻撃して貶めようとすることの防止を、理性に訴える規範や規則、罰則の周知を徹底することによって行うことは、あまり効果が期待できないと考えられます。根本的な原因をなくすには、『「五取蘊」が招来する状態、言い換えると「認知形成のしくみである五蘊」の野放し状態』『自己の認知形成と認知に基づく行為を自覚できていない状態』を脱する必要があることになります。しかし、「五蘊により好き勝手に認知形成をすること行為することへの執着」は、多くの場合、自覚されていないのですから、啓蒙啓発活動により、誹謗中傷により他者を攻撃して貶めようとすることを抑止しようとすることに、大きな効果は期待できないでしょう。卑下慢は同様に、自分と他者を比較対照して、自分には価値がなく人に劣後するものと考え、他者を自分より大きく、優れたものであると無自覚に考えることにより認知されるでしょう。増長慢が、自分を拡大視し、他者より優れたものであると考えること、卑下慢は、自分に価値がなく人に劣後するものと考えることとしても、他者より全ての点で絶対的に優れている、他者よりすべての点で絶対的に劣っている、ということは想定できませんから、どちらの考え方も「的確な判断」とは言えないでしょう。つまり、増長慢も、卑下慢も、釈迦の認知論から判断するならば、『無自覚的な思惟によって生み出され、色、受、想、行、識の徹底的な観察考察による経験的合理的な知見によって妥当とは判断できない概念である「見解」』ということになります。他者との比較によって自分の優劣を判断すること、言い換えれば「私は優秀だ」「私は劣っている」という考え「想」を生み出し、それに執着することは適切な認知ではない、ということは少し考えてみればわかります。優秀とみられる人がすべての点において他者より優れているわけではないでしょう。優秀とみられる人にもできないこともあるでしょう(しかし、本人は、私は他者よりすべてにおいて優越している、という無自覚な意識を持つことはあるでしょう)。できることもある、できないこともあるにも関わらず、自分を拡大視し、他者より優れたものであると考えることはどう見てみても、適切に事実を把握しているとは考えられません。客観的に、事実に即して合理的に人の能力を記述しようとするならば、優秀であると本人が思っている場合でも、他者に劣後すると考えていた場合でも、その人には、これとこれはできる、これとこれはできない、という個別の事実を把握することによってのみ、その人の能力の適切な記述が可能になる、ということになります。この事実を無視して、増長慢や卑下慢を持つこと、「私は優越している」「私は劣っている」という考え「想」を生み出し、それに執着することは適切な認知ではなく、明らかに非合理ですから、やはり「見解」です。以上のように考察してみると、「自己意識(慢)」は、Beckの認知モデルの「適応的な信念」「非機能的でネガティブな信念」「認知の偏り」と重なり合う考え方でもあり、それら三つを総合すると理解しやすいと感じます。ただし、釈迦の認知論は徹底的なので、(思考、意思決定、行為の主体は否定しないものの)、好き嫌いや恐怖等の感情と欲望に影響され駆動される「自己概念」を滅したと考えてもいいようで、そのような状態では「適応的な信念」「非機能的でネガティブな信念」「認知の偏り」も消尽されている、ととらえた方がいいでしょう。「適応的な信念」として、『「有能である」に関わる中核信念』『「愛される」に関わLる中核信念』『「価値がある」に関わる中核信念』「非機能的でネガティブな信念」として、『「無力である」に関わる中核信念』『「愛されない」に関わる中核信念』『「自分には」に関わる中核信念』「認知の偏り」として、「全か無か思考」「破局視(未来の予言)」「ポジティブな側面の否定や割引」「感情的な理由づけ」「レッテル貼り」「拡大視/縮小視」「心のフィルター(選択定抽出)」「読心術」「過度の一般化」「個人化」「ねばならない」「べき」思考「トンネル視」(「認知行動療法実践ガイド:基礎から応用まで 第三版」星和書店より)釈迦の認知論が徹底的なものであり、かつ西欧由来の心理療法と異なるのは、Beckの認知モデルの「非機能的でネガティブな信念」はもちろんのこと「適応的な信念」による自己意識であっても、「自己意識(慢)」として悩み苦しみつらさを生み出すものと考え、その「自己意識(慢)」の中には、自己の認知形成のあり方を含む五蘊への執着状態である「五取蘊」すなわち、悩み苦しみつらさを生みだす認知形成のしくみ(状態)をも、「自己意識(慢)」に含むものと考えられます。Beckの認知モデルの「認知の偏り」をも包含する状態が「五取蘊」であるとも言えます。釈迦の認知論が徹底的なもの、ということは、「優秀であると本人が思っていてもいなくても、他者に劣後すると考えていてもいなくても、その人には、これとこれはできる、これとこれはできない、という事実を把握する必要がある」ということを前提にするならば、「自分は優秀だと思う人」が「私は優秀だ」という概念(想)を抱きそれに執着したならば、「これはできる」を拡大視し、「これはできない」を縮小視する傾向を生み、行動を促進し、促進された行動によって欲求が充足されるなら、貪随眠を生むでしょう。例えば公職にある方が、不適切行為に及んでしまうことを、『「これはできる」を拡大視し、「これはできない」を縮小視する傾向を生み、行動を促進し、促進された行動によって欲求が充足され』続けるならば、促進された行動により欲求が充足され、脳の報酬系が活性化し、報酬をたくさん受け取ることとなり、欲求の充足に歯止めをかける(自制する)ことができず、ついには不適切行為にまで及んでしまう、と説明することができます。逆に、「自分は他者に劣後すると考えている人」が「私は劣っている」という概念(想)を抱きそれに執着したならば、「これはできる」は縮小視し、「これはできない」を拡大視する傾向を生み、行動への萎縮を生み、そのことによって自分らの境遇を、なげくなら瞋恚随眠を生むでしょう。結果としてどちらも適切な概念(想)ではなく、物事をありのままに見ることを妨げ、結果として悩み苦しみつらさを生み出すことになります。ただし、Beckの認知モデルにおける、例えば「有能である」に関わる中核信念は、上記に引用した「認知の偏り」の影響を排除した内容であり、私たちが、非機能的な中核信念(「自己意識(慢)」)に起因する、非機能的な自動思考の修正によって、悩み苦しみつらさを生み出さないようするときに利用するには穏健妥当なものになっていることに留意しなければなりません。「認知の偏り」の影響を排除した内容、というよりも、うつ等を発症したクライエントが「認知の偏り」を排除した機能的(現実において有用)な中核信念を形成するためのものとして例示されているため、結果として下記のように中庸なものになっている、と考えた方がいいでしょう。『「有能である」に関わる中核信念』(前掲書より)「私はそこそこ有能で、機能的で、物事をコントロールし、成功し、役に立ってる」「私はたいていのことはまあまあちゃんとできる。自分を守れるし、自分の面倒を見ることができる」「私には強みと弱みの両方がある(有能性、生産性、達成という視点において)」「私はまあまあ自由でいられる」「私はだいたいにおいて人並みだといえる」釈迦の方法論は、「有能」「無能」や「愛される」「愛されない」、「価値がある」「自分には価値がない」という認知自体が、「自分が作り出したもの」であって苦悩を生む原因であり、それは必然的なものではない、という認識を前提に、「有能」「無能」や「愛される」「愛されない」、「価値がある」「自分には価値がない」という認知自体が悩み苦しみつらさを生み出すものであるから、それら認知の総体である「自己意識(慢)」自体なくせばよいのである、ということであるようです。なにゆえそのように考えるのかというと、釈迦は大念処経で、悩み苦しみつらさを滅したであろうと考えれれる状態として、以下のように教示しているからです。「楽しみを捨て、苦しみを捨て、以前に経験した快さと憂いとを滅しているために苦しみもなく、楽しみもない、心の平静と気をつけることによって浄められている瞑想の第段階(四禅)に達しているのである。」(中略)「そして、知ることの〔増えていく〕程度にたいし、自覚の〔増えていく〕程度にたいすると同じ程度に、『ただ事象のみが存在する』という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、何ものにも執着しないのである。」釈迦は、「楽しみを捨て、苦しみを捨て、以前に経験した快さと憂いとを滅しているために苦しみもなく、楽しみもない」状態によって、「なにかに依存するということがなく、この世のなかで、何ものにも執着しない」状態に至ったと考えられますから、そこではもはや、『Beckの認知モデルの「適応的な信念」に依存することもなく、そもそも自己意識すらない、もしくは必要としない(でも自ら認知し、意思決定し、行為する主体は残存した)、という状態と言えます。上記から考察すると、釈迦は、悩み苦しみつらさを生み出す認知形成のしくみ(五取蘊)によって形成された「自己意識(慢)」だけでなく、「自己意識(慢)」を生み出す認知形成のしくみそのものを、「消滅し尽し、離欲し、滅し、捨て、捨て去った」と解釈できると考えます。ただし、上記に引用する、釈迦の到達した認知論は、釈迦が到達した悟りの最終段階と思われますから、私たちがこの世に生きるに際して、例えばBeckの認知モデルの「適応的な信念」の有用性を否定するものではなく、また否定する必要性もありません。また、ここで考察している釈迦の認知論、方法論は、解脱に向けた修行に専念している出家者に教示された「フルセット」であることを考えおくことも必要でしょう。釈迦は、大般涅槃経で「完き人の教えには、何ものかを弟子にかくするような教師の握拳は、存在しない。」と言っています。釈迦が、「フルセット」の認知論、方法論を教示することによって、釈迦の認知論、方法論が(多少の改変等はあるにせよ)今日に受け継がれることになりました。出家者でない我々は、釈迦の認知論を理解することは大事ですが、方法論の実践において、釈迦が教示した最高到達地点を目指す必要はないのではないか、と考えています。釈迦が到達した悟りの最終段階では、「楽しみを捨て、苦しみを捨て、以前に経験した快さと憂いとを滅しているために苦しみもなく、楽しみもない」という状態ですから、蛇喩経に説かれる「筏の喩」の、悩み苦しみつらさという川を渡るための筏はもう必要ない段階です。そこに至っていない私たちは、自分を取り巻く環境との関係性の中から(自分が生み出してしまう)悩み苦しみつらさという川を渡るために、Beckの認知モデルの「適応的な信念」という有用な「筏」を使うことは、釈迦の方法論とも矛盾しないと思います。ヴィパッサナー瞑想の方法論、釈迦の認知論を学ぶときに、注意しなければならないことは、私たちは出家者(日本のそれではありません)、すなわち布施によって生活を維持し、労働に従事せず修行に専念し解脱に至っても、その生活を続ける人間ではない、ということです。もちろん出家する自由もありますし、出家しなくても解脱に至ることは可能かもしれません。しかしながら、いわゆる俗世において、解脱に至ることは、物事に対する認知形成のあり方を根本的に変えてしまいますから、それによって周囲の人とのコミュニケーションや協働に、軋轢を生み出すことも想像に難くありません。そのように考えるならば、釈迦の認知論、方法論の全体像を理解したうえで、ある程度のところで止めておく、という判断も必要になるように思います。特に釈迦の方法論の特色は、「離欲」「遠離」ですから、自分はどこまで「離欲」「遠離」できるのか、わかりやすく言えば、自分の悩み苦しみやつらさをなくすために、「自分はどこまで捨てられるかの」ということを考えて取り組む必要があります。この世で、労働して生活の糧を得て、社会の維持に貢献している人にとって、必要なことは、この世の中で、悩み苦しみつらさを感じることなく(少なく)、この世に適合的に、喜びを感じながら生きることでしょうから、むりに解脱をありがたがる必要はないと思います。わたしは、いわゆる俗世に生きているのであれば、ちょうどよいところとして、初禅を目標として、初禅に留まることでよいのではないかと思っています。その理由は、大きくは次の4点です。①初禅は、高度なリラクセーション状態(軽安覚支)の実現を前提としていること。②高度なリラクセーション状態(軽安覚支)において、集中力を発揮すれば(定覚支の状態)、粗い考察(尋)と微細な考察(伺)が発現し、悩み苦しみつらさを生み出すことの原因を自覚することができ、原因を自覚することができれば、おのずと悩み苦しみつらさをなくす方法は開示され、四聖諦という悩み苦しみつらさをなくす認知形成のしくみが起動するから。③仮に早期不適合スキーマや心的外傷によって、現在の悩み苦しみつらさが生まれているのであれば、スキーマ療法等によっても、一朝一夕には、悩み苦しみつらさが生まれることを停止することはできないようですから、そのような場合でも、粗い考察(尋)と微細な考察(伺)が発現し、四聖諦が起動することによって、ヴィパッサナー瞑想を継続することで、継続的持続的に悩み苦しみつらさの低減に向かう動きが維持できます。④悩み苦しみつらさを低減することができれば、悩み苦しみつらさを抑圧したり、耐えることに注がれていたエネルギーを解放することとなり、より生産的な他のことに振り向けることのできるエネルギーの余剰が生まれます。また、利用できる脳のリソースを増やすことにもなり、このことは脳のはたらきを良くするでしょう。身体と心を健やかに保つことができ、様々なメリットを享受することができるでしょう。ざっくりいえばストレス低減、ということになるでしょう。ヴィパッサナー瞑想は、「楽しみを捨て、苦しみを捨て、以前に経験した快さと憂いとを滅しているために苦しみもなく、楽しみもない」という第四禅の状態に至ることも可能としてしまう、認知形成のしくみを転換する強力な効果をもつこと、また、今日的な(西欧由来の)権利義務の基礎となる自由意思をもち自己決定する自我概念とは、表面上相いれない認知論ととらえられる恐れがあり、心理療法においては、ヴィパッサナー瞑想を全面的に活用することには、クライエントから抵抗を招いたり、指導に困難を伴うことが予想されます。釈迦の認知論は、ヴィパッサナー瞑想によって、自らが証明し体得することによってしか理解することでしかできませんから、ヴィパッサナー瞑想の実践なしに、概念的な学習による理解、いわゆる頭で理解しようとすると、「権利義務の基礎となる自由意思をもち自己決定する自我概念とは、表面上相いれない」と誤解される可能性はあるでしょう。すでにご説明の通り、釈迦は、「わたしだと私たちが考えていることは、わたしではない」と言っていますが、自我(ただしアートマンとしてですが)があるともないとも言っていません。少し考えればわかることですが、わたしがある、という意識が無くても、感覚し、認知し、意思決定し、行為する主体を「わたし」とするならば、「わたし」は否定できません。釈迦の方法論は、最終的には、認知論から認知論に基づく行為として実践する八聖道に至りますが、観察考察する機能を通じて認知する「わたし」は否定しきれませんし、行為を選択する主体としての「わたし」を否定してしまったのでは、認知論に基づく行為を選択する主体がないことになりますから、「わたしはない」という意味での「無我」は適切な理解ではないと考えています。「わたしはない」という意味での「無我」は適切な理解ではないと考えていますから、さらにそれを進展させたと思われる「空」という概念は、概念上の創造物、すなわち後世つくられた「見解」であると考えています。色即是空 苦即是色 受想行識亦復如是 と言ってしまったら、釈迦が四念処によって五蘊のはたらきを解明して(五蘊という機能を認識し、教示して)、人は生きる限り認知すること(五蘊の機能)を止めることはできない、止めることのできない五蘊のはたらきを自覚せず野放し状態(五取蘊)にするから苦しみを生み出すのだ、という教示は無力化されてしまうように感じます。釈迦は、五蘊の機能は維持しつつ、五蘊に無自覚に執着して悩み苦しみを生み出す五取蘊を克服したと考えていますから、五蘊のはたらきは『ただ事象のみが存在する』、私の解釈では「体と心に生まれる認知できる出来事」として存在すると考えれるのが妥当だと思います。ヴィパッサナー瞑想もしくは釈迦の認知論の「一部活用版」としての「マインドフルネス」を、セラピスト等の関与のもと心理療法に活用する、ということは妥当な方法であるとも感じます。ただし、その一方で、念人経に説かれる、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気の克服によって、現在においても悩み苦しみつらさをもたらす過去の出来事と感情の記憶へのアクセスを容易にする機能、「尋」と「伺」による苦悩の原因、発生プロセスの観察考察(四聖諦の起動)によって、非機能的な中核信念や早期不適合スキーマの記述を書き換えること、四無量心、慈悲の瞑想によるポジティブな感情、性向の育成などによる、「体と心のはたらき」の転換、「認知形成のしくみ」の転換という機能、そしてそれらを実現するために「喜び」を開発し「身心ともに安楽な状態」(高度なリラクセーション状態)を実現して能力を開発するという方法論は、特筆すべき効果であるといえるように思います。アルボムッレ・スマナサーラ先生によると、テーラワーダ(上座部仏教)では、釈迦は「尋性(じんしょう)」という性格であったであろうとされているそうです。(「ブッダの実践心理学 第七巻 共著者藤本晃さん サンガ刊)「尋性」の特徴について、スマナサーラ先生の記述を引用させていただきます。『論じる、議論する、考える、妄想する、などで頭が支配されているのです。理解する、結論に達する、という目的を中心にするよりも、目的に達する過程である「論じること」を重視するのです。結論に達しても、「一件落着」と喜ぶのではなく、どのような論理過程でそこまで達したのかということを面白がるのです。』尋性が、『論じる、議論する、考える、妄想する、などで頭が支配されている』『結論に達しても、「一件落着」と喜ぶのではなく』という性格なのであれば、『何でもかんでも、解釈し自分が納得する説明ができなければ満足しない』性格ととらえることも可能ですから、自分を納得させたり自分に悲しみがあったならば悲しみを埋めるために、時には事実に基づかない想定、すなわち妄想に慰めを求めたこともあったかもしれません。妄想に慰めを求めたとするならば、自己を納得させたり、なぐさめたりということの目的を果たせない可能性が高いですから、結果として大きな苦しみも生まれたでしょう。大きな苦しみが生まれても、認知機能は「わたしのものではない=わたしの思うままになるものではない」のですから、止めることはできません。(妄想に慰めを求めたとするならば、自己を納得させたり、なぐさめたりということの目的を果たせない可能性が高い、ということの意味するところは、非機能的な中核信念やスキーマが生成される必然性と、それが機能的でないがゆえに、自分が本来求めていることを得ることができない、という特性と整合的であるように思います。そのように考えるならば、釈迦の中核的な方法論である「離欲」は「自分が本来求めていることを得ることができない」自分の認知形成(欲求、行動)から離れなさい、という教示と理解され、その有効性が理解できます。)この状態は、想像をはたらかせ、自己を納得させたり、なぐさめたりということを一生懸命やるということによって、大脳新皮質の活動を活性化させていることと理解してもよいのかもしれません。それでも、想像をはたらかせ、自己を納得させたり、なぐさめたりということを一生懸命やったとしても、結果として自分を納得させることができない、なぐさめるどころか、空しさがつのるばかりで無力感を大きくし、より大きな悩み苦しみつらさを生み出す状態におちいってしまった、と言った方がいいかもしれません。釈迦は、その性格(尋性)の特性である「論じる、議論する、考える、妄想する」をフル活用して、結果として、より大きな悩み苦しみつらさを生み出すこととなっていたのかもしれません。すでにお話しましたが、釈迦は大念処経で、苦しみのすぐれた真理として「生存の消滅への愛執」もあげています。釈迦の認知論は、四念処による五蘊の観察にもとづき形成されたものですから、釈迦が「生存の消滅への愛執」を生起させていた、ということも当然に想像されるでしょう。五蓋の中に、大念処経では「ものうさとぼんやりとした鈍さ」と訳されるものがありますが、これを念処経では「うつ気と眠け」、沙門果経では「沈鬱と眠気」と訳(解釈)されています。釈迦が教示したことですから、釈迦は「ものうさとぼんやりとした鈍さ」「うつ気と眠け」「沈鬱と眠気」と解釈されることを経験していたことになります。「ものうさとぼんやりとした鈍さ」「うつ気と眠け」をどのように解釈すべきか、ということは別にして、自分の経験から解釈するならば、睡眠不足や疲労によって合理的肯定的な思考が退潮して、特定の認知生成(想)をきっかけに体と心に「苦の感受」が発生して、否定的な思考(想)が支配的になり著しく気分が低下する状態、と説明することができます。この状態は「うつ状態」(うつ病の発症ではありません)と言ってもいいと思います。ちなみに「うつ気と眠け」と訳している念人経の注釈では、注釈書による「うつ気と眠気」の防止策として、以下のことがあげられています。注釈書は、釈迦が説いたことを後世において解釈して成立した仏教の教学と考えられますので、釈迦が、「うつ気と眠け」をどのように体験したか、ということとは別ですが、参考までに掲げます。私自身の経験から言うと、身体を観察し集中力を高める念覚支が養成され、四念処の観察に集中する択法覚支が養成され、精進覚支によって喜覚支が養成(現れる)されるにようになれば、「うつ気と眠け」は克服できるようです。また、出入息観の練習も役立つようです。①過食を止める②行住坐臥の姿勢を正す③光明への思いに意を注ぐ④屋外に住む⑤友が善友であること⑥適切な話(頭陀支に依った話)を聞く上記を、Beckの否定的認知の三徴、「自分自身に対して、また周囲との関係に対して、そして将来に対して、否定的に考えるようになった状態です。」(大野裕先生「初めての認知療法」講談社現代新書)と対比してみます。自分自身に対して否定的に考えるようになった状態は、ヴィパッサナー瞑想による四念処を進展させませんから、「①過食を止める」「②行住坐臥の姿勢を正す」ことによって、体(内臓)への負担を減らし、かつ腹式呼吸を容易にすることにつながり、それによってリラクセーション状態が進展することとなり、身体面での改善から、ヴィパッサナー瞑想を進展させることにつながります。これは三徴すべてに対する抑止策になるでしょう。将来に対して否定的に考えることを抑止するためには、将来における「③光明への思いに意を注ぐ」ことが役立つでしょう。周囲との関係に対して否定的に考えることを抑止するためには、「⑤友が善友であること」が役立つでしょう。釈迦は尋性という性格であったがゆえに苦しみを生み出し、尋性という性格であったがゆえに、色、受、想、行、識の徹底的な観察考察によれば妄想と言い換えられる『無自覚的な思惟によって生み出され、色、受、想、行、識の徹底的な観察考察によって得られた、物事をありのままに見る能力によって「あるとは認識できない作り出された概念」といえる「見解」』を生み出し、「見解」に自らがとらわれる(執着する)から、悩み苦しみつらさが生まれているのだ、という認知に、到達したのではないかとは容易に想像できます。釈迦は、自らの認知形成のしくみである五蘊は、自覚せず放っておいたのでは、どんどん「何でもかんでも、解釈し自分が納得する説明」を作り出し、「何でもかんでも、解釈し自分が納得する説明」に執着を生み、執着によって欲望を生み、欲望が物事のありのままを認識することを妨げ、悩み苦しみつらさを生み出し続ける、それゆえ、「自らの認知形成のしくみである五蘊」の野放し状態を、五蘊の機能と五蘊が生み出す認知に執着し欲望を生みだし悩み苦しみつらさを生み出す状態である「五取蘊」として、「五取蘊」を悩み苦しみつらさを生み出す根本原因と位置付けたように感じます。その一方で、釈迦は、大念処経で、生まれることとは、「〔個人存在を構成する〕要素が出現し、認識領域を獲得すること」と教示していますから、人とは認知する機能、生きるとは認知し続けることだと捉えたようにも思われます。極めて高度な瞑想状態にいたり、自分の体と心のはたらきと、留まることない認知形成のしくみを自覚した時、釈迦は、生きるとは認知し続けることだだとするならば、生きるとは認知を形成し続ける拷問のようなものだ、と感じたのかもしれません。そのように考えると「体と心に生まれる認知できる出来事のみがあるが、それは思うようにならない出来事である」と考えたようだ、ということに納得がゆきます。「〔個人存在を構成する〕要素」とは、同じく大念処経で「〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素(五取蘊)は苦しみである。」とされていますから、「五取蘊」です。人とは認知する機能、生きるとは認知し続けることだと捉えるならば、生きるとは、ありのままでは『「認知形成のしくみである五蘊」の野放し状態、すなわち「五取蘊」の状態にあることになり、「五取蘊」の状態にとどまっている限り、悩み苦しみつらさは滅尽されないという理解に、釈迦は到達したわけですから、生きることは苦しむこと、という理解は成り立ちます。生きることは苦しむこと、という理解に立つと、無常が苦である、とされたことを理解をすることにも道を開きます。自分の体は刻々と変化し老化し、死に向かって進んでいて、今この状態にとどまることはない、好いこと楽しいことは、心に生起するけれどもやがて消えてゆく、そのような認識に至ったならば、今この身体の状態にとどまって欲しいという五蘊のはたらきによってごく自然に生まれる考え、その考えに執着し欲望すること、好いこと楽しいことを感じこの状態がずっと続いて欲しいという五蘊のはたらきによってごく自然に生まれる考え、その考えに執着し欲望することは、そもそも実現しないのだから、そのような欲求を持つことは苦しみを生むことになる、すなわち、生きるとは認知し続けることとらえるならば、生きるとは、五蘊のはたらきによってごく自然に生まれる「今この瞬間をおしとどめたい」という考えに執着し欲望するという、そもそも実現しないことを望むことなのだから、望むことが実現しないという苦が生まれるのは当然であり、そのことを理解しない限り、生きるとは苦しみと同義になる、すなわち無常を理解しないから生きることは苦しみになるのだ、という理解に行き着きます。そのような理解に行き着くと、『ただ事象のみがある』ということを理解するヒントになりそうです。ヴィパッサナー瞑想は、観察する考察するという「意図」とそれに基づく「はたらき」がありますから、瞑想の集中状態としては、比較的低い状態の瞑想だとされています。すでにお話したことを前提として考えると、集中状態の低い、観察考察することに特化したヴィパッサナー瞑想が開発されたことは、必然性があり、もっともなことだと思います。観察考察することに特化したヴィパッサナー瞑想によって、釈迦が到達した認知は、次のようなものであったようです。「『もろもろの事象のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの〔増えていく〕程度にたいし、自覚の〔増えていく〕程度にたいすると同じ程度に、『ただ事象のみが存在する』という念いが、かれにはあらわれてくるのである。かれは、何かに依存するということがなく、何ものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにしてものもろの事象すなわち四つのすぐれた真理について事象を観察するのである。」(大念処経)釈迦は、「ものもろの事象すなわち四つのすぐれた真理について事象を観察する」、すなわち四聖諦を観察する(起動させている)という行為の中で、『ただ事象のみが存在する』という念い=認知に至り、それによって「何かに依存するということがなく、何ものにも執着しないのである」という認知形成のしくみに至った、ということのようです。この状態は、マハーサッチャカ経の〈何もないという境地〉〈想いがあるのでもなく、ないのでもないという境地〉とは異なるものと言えるでしょう。「『ただ事象のみが存在する』という念いが、かれにはあらわれてくるのである。かれは、何かに依存するということがなく、何ものにも執着しないのである。」という観察が行われており、これは、大六処経で説かれる「かれには、心の動きの停止と智慧による観察(止・観)という二つのことがたがいに関連しておこる。』状態と解釈してよいでしょう。「事象」は、仏教では「法」といわれているものですが、「事象」を「出来事」と考えると、認識できる出来事は「事象」ですが、認識できない出来事は、そこに在るとは認識できませんから「事象」としてとらえられない、と考えてよいと思います。火バッチャ経で、バッチャ族の遍歴行者から「『世界は永遠である、これだけが真理である。他は虚偽である』という見解を持っているかと問われ、「いいえ、ヴァッチャよ、わたしは『世界は永遠である、これだけが真理である。他は虚偽である』という見解を取っていない」と答えたのは、そのような見解は、そこに在るとは認識できない、すなわち真偽判断ができないことがらであり、「事象」としてとらえられないことだから、ということなのでしょう。釈迦にとって、『世界は永遠である、これだけが真理である。他は虚偽である』ということは、ヴィパッサナー瞑想による四念処での五蘊の観察によって到達する物事をありのままに見る能力によって認識できない出来事、「事象」ではない、ということになります。釈迦は、四念処による瞑想経験によって五蘊のはたらきと認知形成のしくみを理解したことによって到達した、物事をありのままに見る能力に基づいいて、自己の認知論、方法論を構築したと考えられます。しかし、釈迦の真意は、上記のようなヴァッチャの形而上学的な「見解」を打ち破ることにあるのではなく、四念処による瞑想経験によって五蘊のはたらき、すなわち人の体と心のはたらきと認知形成のしくみを理解したことによって到達した、物事をありのままに見る(如実知見)能力によって物事を観察考察するならば、人の体と心のはたらきと認知形成のしくみによって日々生成される非合理な「見解」が、「想像により作り出された存在するとは認識できないこと」であり、「想像により作り出された存在するとは認識できないこと」であるにもかかわらず愛執を生み欲望を生みだすが、「想像により作り出された存在するとは認識できないこと」が現実には起こりえないのであるから欲望が満たされることはないから苦しむことになると認識した時の、苦悩を生み出す原因となる、人の体と心のはたらきと認知形成のしくみを、「五取蘊」として教示することにあったのではないか、との理解が私には生まれます。そのように考えると、釈迦が説いた、仏教で言うところの「法」とは、「体と心にうまれる認知できる出来事」であって、その「体と心にうまれる認知できる出来事」とは、認知されたままの出来事、そして認知されたままの出来事に対して愛執を生み執着するという出来事、愛執を生み執着することによって形成された認知という出来事、記憶を参照したり比較参照したり、見解や妄想を作りだす出来事など、五蘊のはたらきのすべてであり、五蘊のはたらきのすべてを「体と心にうまれる認知できる出来事」として認知することによって、その野放図なはたらきによって苦しみを生み出す「五取蘊」を認識することができ、「五取蘊」を認識することによって、苦しみをうみだす自己の認知形成のしくみを克服することに道を開いたのではないかと思います。観察瞑想とされる、ヴィパッサナー瞑想により、徹底的な観察によって到達することが可能となった認識と言えるでしょう。言い換えれば、六六経に教示される、眼や耳などの六内処と、物や音、声などの六外処、視覚や聴覚などの六識身の3つが、接触して六触身が生じた段階における純粋な事実に対する認知であり、楽の感受や苦の感受、不苦不楽の感受を生起させる六受身と、六つの欲望である六愛身すべてを等価に観察し、六受身、六愛身を生起させない、もしくはとらわれない認知形成のしくみに転換することで、悩み苦しみつらさを生み出す根源(欲望)を断つことができる、ということを理解したのではないかと思います。その前提で、「『ただ事象のみが存在する』という念いが、かれにはあらわれてくるのである。」ということを考察してみます。すでに考察したように、「すべてものは無我である」とは、「すべての認識できる出来事は、(無我=)自分の思いのままにならないものである」ということのようです。「すべてものは無我である」を諸法無我とし、「法」を「事象」とすると、『ただ事象のみが存在する』とは、「ただ体と心で認知できる出来事のみが存在するがそれは自分の思いのままにならないことである」となります。さらに「思いのままにならない」ということに、愛執や執着が生じることによって「ずっとこの状態をおしとどめたい」という欲望を抱くから苦しむのだ、それは、体と心に生起する認知は、生まれては消えてゆくものだからだ、という観点を反映すれば、「ただ体と心に生起しては消えてゆく(=おもいのままにならない)認知できる出来事のみが存在する」ということになります。「体と心に生起しては消えてゆく」という「体と心のはたらき」は、釈迦の認知論に基礎を提供している重要な認知と言えるように思います。好いこと楽しいことも、つらいこと苦しいことも、体と心に起こり消えてゆく認知できる出来事にすぎない、であるにもかかわらず、好いこと楽しいことに愛執を抱き、執着するから、好いこと楽しいことが消えてゆくこと、続かないことを苦痛と感じる、つらいこと苦しいことという認知できる出来事も、体と心におこった現象なのだから起ったならば消えてゆくのに、ずっと続くと認知して苦痛を感じ、嘆き怒るという「認知形成のしくみ」があるから悩み苦しみつらさが無くならないのだ、ということではないかと思います。念人経で説かれる、「『身体にむけた注意』を習い、養い、強化し、操り、基本とし、繰り返し、完全に集中熟する」ことによる利益の三番目には、以下のようなことがあげられています。「寒さ、暑さ、飢え、渇き、虻・蚊・風・熱・蛇との接触や辛辣で不愉快な発言に耐え、身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえられるようになる。」「身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえられるようになる。」は、カバットジンさんが、マインドストレス低減法において、慢性疼痛患者の方に対して実現したことです。「マインドフルネスストレス低減法」(北大路書房)から引用します。「次は、七十代前半の、足に激しい痛みをもったある男性の話です。彼が最初にクラスにやって来たときには車いすを使っていました。(中略)最初の日に、彼は、クラスの人たちに向かって、足を切り落としてしまいたいほど痛みがひどいとはなしていました。(中略)おそらく第一回目の授業で何かをつかんだにちがいありません。早くも二回目の授業へは車椅子ではなく、松葉杖でやってきました。やがて彼は、ステッキだけで来るようになりました。私たちの目の前で、みるみるうちに車椅子から松葉杖、そしてステッキに変わっていったのです。しかし、最後の彼が話してくれたところによると、決して痛みがなくなったわけではなかったというのです。ただ、痛みに対する彼の態度が大幅に変わっただけだというのです。瞑想法を始めてから、痛みにもっと耐えられるはず感じ、このように感じ始めると、足の問題もそれほど深刻なものではなくなってきたそうです。」アルボムッレ・スマナサーラ先生は、著書「大念処経」(サンガ)の中で、ヴィパッサナー瞑想が緩和医療に活用されていることを紹介されたうえで、苦痛の緩和のメカニズムについて次のように言わています。「感覚を客観的に観る訓練をすることで、心に客観性が生まれて、痛みが出ても混乱しないで「あ、それぐらいか」と落ち着い対処できるのです。瞑想がいくらかできる人になると、痛みが身体の全体に出て、自分自身が落ち込んで手もあげられないような状態になると、その痛みを客観化するのです。集中力をどんどん痛みを感じている部分に持っていくのです。大ざっぱに「痛い、痛い」と悩むのではなく、どこが痛いのかと、厳密にそのスポットに集中するのです。ここに痛みを感じる」と確認する。ただ、痛みを淡々と客観的に確認して、湧き上がってくる主観的な感情は放っておくのです。そうすると、「痛みはあるけれど、別に大丈夫だ」ということで落ち着くのです。」釈迦の認知論の中核にある、釈迦が観察によって得た知見を想像するならば、「すべての認知できることは、ただ体と心に生起しては消滅する現象である、現象が起こったと知り、消滅して行くということを自覚し、好いこと楽しい現象に執着せず、悩み苦しみつらさという現象を嘆かず怒りを起こさなければ、悩み苦しみ生まれることはない、すべては体と心に生起しては消滅する現象にすぎないのだから」ということであるように思います。このように考えると、マインドフルネス認知療法が、「思考は事実ではない」という態度によって、反芻への執着から離れる訓練をおこなうことは、釈迦の認知論由来の簡略版、もしくは独自に到達した釈迦の認知論類似のものであることが理解できます。ヴィパッサナー瞑想では、「すべての認知できることは、ただ体と心に生起しては消滅する現象である、現象が起こったと知り、消滅して行くということを自覚し、好いこと楽しい現象に執着せず、悩み苦しみつらさという現象を嘆かず怒りを起こさなければ、悩み苦しみ生まれることはない、すべては体と心に生起しては消滅する現象にすぎないのだから」という見方、認知を養うためしなうため(と想定されます)、例えば見たものに「見た」とのみラベリングして、見たものに愛執を生むこととなる、「選択肢としての」「心に生起するイメージとしての思考」である「表象(想)」を生起させず、「表象(想)」に反応して、「意欲」を形成し「行為」を形成し、それによって貪随眠を潜在させることなる「形成力(行)」を起こさない認知を心がけます。では、見たものが危険なものだったらどうするの、「見た」とのみラベリングしているどころじゃないでしょ、逃げなきゃって、思われるかもしれませんが、見たものを「見た」とのみ認識できる状態は、観察に集中している(マインドフルな)状態なので、危ないものには、危ないから離れなければ、という判断は意図せずとも出てきます。歩行の瞑想をしていると、このことはよくわかります。むしろ危険なのは、自分の感情や欲求にどっぷり浸って考え事をしていて、外部に注意が払われないでいる時です。この時は、目の前のことが目に入っていても、それを自覚していません。釈迦は、「自分の感情や欲求にどっぷり浸って考え事をしていて、(自分の身体を含む)観察対象に注意が払われないでいる時」は、感情への愛執、欲求への愛執にとらわれている状態であり、感情への愛執、欲求への愛執にとらわれている状態が、知らず知らずのうちに悩み苦しみを生み出し、知らず知らずのうちに悩み苦しみを生み出すことを自覚することができない(五取蘊の状態)、だから観察に注意を向けることによって、感情への愛執、欲求への愛執から離れることが、感情や欲求の生成を抑制し、感情への愛執、欲求への愛執から離れて物事を観察できる(如実知見)ようになるのだ、教示したのでしょう。であるならば、特定のタスクがなく、自由に気持ちのおもむくままに思考し、感情を生成する、いわば思考と感情の野放し状態といえる、デフォルトモード・ネットワーク時はまさしく「知らず知らずのうちに悩み苦しみを生み出すことを自覚することができない(五取蘊の状態)」状態といえます。「楽の感受や苦の感受、不苦不楽の感受を成立させる六受身」については、ヴィパッサナー瞑想では、受の随観によって観察考察するという方策を取ります。釈迦は、人は認知する機能、生きるとは認知し続けることと考えた一方で、認知する機能は、Beckさんの「認知の偏り」と同類の考え方から、そもそも求めてても実現しないことを求めて執着したり、適切な認知とはいえないこと(いわゆる妄想)に執着したりするから、苦しみを生み出すのだ、自己の認知形成のしくみである「五取蘊」を良く自覚して、そもそも求めてても実現しないことを求めて執着したり、適切な認知とは確認できないこと(いわゆる妄想)に執着したりすることを止めれば、苦しみが生まれることは無いのだ、との認知に到達したのでしょう。それを可能にしたのがヴィパッサナー瞑想による四念処であり、四念処による五蘊の観察考察であり、念人経に説かれる、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気の克服による感情生成機能の抑制、「表象(想)」を生起させず、「表象(想)」に反応して、「意欲」を形成し「行為」を形成し、それによって貪随眠を潜在させることなる「形成力(行)」を起こさない等の訓練によって、脳の報酬系への刺激を抑えること、観察力と集中力の涵養による「尋」と「伺」の発現による四聖諦の起動(四聖諦による観察考察の実現)などの、離欲を可能にする過程を踏み、さらには「尋」と「伺」の働きも鎮め、喜び、安楽も手放し、完全な離欲による心の平静にいたった、というふうに私は理解しています。釈迦の方法論は、認知論アプローチである、と考えると理解がより容易になります。認知論は仏教による理解ではありませんから、仏教としての釈迦の教えの理解ではありません。釈迦が、ヴィパッサナー瞑想による、五蘊(体と心のはたらき、認知形成のしくみ)の観察考察にもとづく経験的合理的な思惟に基づき、自己の認知論、方法論を構築した、ということを前提として、釈迦が教示した苦悩をなくす方法を考察してみます。釈迦は大念処経で、「苦しみのすぐれた真理とは、いったいなにか」として次のように教示しています。「生まれることは苦しみであり、老いることは苦しみであり、〔病気になるということは苦しみであり〕、死ぬことは苦しみであり、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えは苦しみである。求めても得られないというということも苦しみである。要するに〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素(五取蘊)は苦しみである。」(以下特記ない限り大念処経から引用)続けて、生まれることとして、「それぞれの生きものが、それぞれの生きものの群れに、生まれること、発生し、入胎し、再生し、〔個人存在を構成する〕要素が出現し、認識領域を獲得すること」としています。「〔個人存在を構成する〕要素が出現し、認識領域を獲得すること」については、すでにお話しました。この教示を前提にすると、人とは認知する機能、生きるとは認地し続けることと考えることも可能となり、人が自分の体と心のはたらきと認知形成の幾仕組みと言える五蘊を自覚していない状態、言い換えれば五取蘊という認知機能の野放し状態では、いろいろな考えを生み出し執着し苦しむことになるのだから、そもそも人は、ありのままでは苦しむようにできている、と理解することは難しくありません。上記のように解釈すると、「要するに〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素(五取蘊)は苦しみである。」という教示と整合的です。釈迦は、生まれることに続いて、老いること、死ぬこことについて説明し、これによって「物質(色)」としての身体の生起と消滅について説明していることになります。死ぬことについては、「〔個人存在を構成する〕要素が破壊し、身体を放棄すること」とされ、「身体を放棄すること」については註に『Bmではそれに加えて、jīvitindriyass'upacchedo「生命機能の断滅」と付される』との記載があります。死ぬことは、五蘊、すなわち認知する機能が破壊されること、と理解したようです。続けて、「憂い、とはいったいなにか」、「悲しみとは、いったいなにか」、「苦痛とは、いったいなにか」、「苦悩とは、いったいなにか」、「悶えとは、いったいなにか」について教示しています。わたしの印象としては、こちらの悩み苦しみをなくすことが、釈迦の本筋であったのではないかと思います。生まれること、老いること、病気になること、死ぬことが苦しみである、というのは、これらは誰も逃れることができないが故に、誰であっても反論できないことであり、誰にも起こることであり、反論できないからこそ、釈迦の論理をわかりやすく説明できるから生老病死は苦であると冒頭においたのではないないか、という感じがします。この点については「求めても得られないというということ」で説明します。生まれることが苦しみである、ということは現在としては理解しにくいことです。自分では理解できないけど、釈迦がそのように言ったのだから真理なのだ、という理解も可能でしょうが、そのように考えるならば信仰の領域になってしまいそうですから、認知論アプローチによって考察してみます。釈迦にとっては、悩み悩み苦しみつらさから、悩み苦しみつらさをなくすための修行に入り、五取蘊が苦であるとの認識にいたるとともに、その苦しみを克服するまでは、悩み悩み苦しみつらさが継続したわけですから、四念処に基づく五蘊の精緻な観察考察によって、ありのままでは苦しみをうみだすという五蘊の在り方(=五取蘊)を自覚したならば、悩み苦しみを生み出さない認知形成のしくみに転換するまでは、人は苦しみを生み出すように生まれ育っているという考え方が自動的に成り立ちますから、生まれて、育つことは苦しみを生み出すことと同義になり、生まれることは苦しみの人生が予定されている、すなわち生まれても悟り、解脱に至らない限りは苦から解放されないから、生まれることは苦しみ、ということは言えるでしょう。釈迦が、生まれることが苦しみ、としたのは、釈迦にとっての悩み苦しみつらさは、釈迦が尋性という性格であったこと、今日では希死念慮ととえられられる「生存の消滅への愛執」を「〈苦しみ〉の原因のすぐれた真理」のひとつとしてあげていること、五蓋に「昏沈」という、うつ状態と解することも可能な身心の状態を上げたことなどから、悩み苦しみつらさは、自らの認知形成のしくみからもたらされるものであると把握したことによって、人は自らの内に根源的に悩み苦しみを生みだす認知形成のしくみを持って生まれてくる(成長に伴って発現させてゆく)のだから、生まれてくることは、苦しむという性質を潜在させて生まれてくることなのだ、ということを強く認識したからではないかと思います。「それぞれの生きものが、それぞれの生きものの群れに、生まれること、発生し、入胎し、再生し、〔個人存在を構成する〕要素が出現し、認識領域を獲得すること」の「再生し」ということの意味は何なのでしょうか。永遠不変の自我であるアートマンの存在を前提とした(自分が)再生産されることであるのか、それとも子孫をなすことによる「再生産」であるのかは、これだけではわかりません。しかし釈迦は、ヴァッチャゴッタとの対話で、自我はあるとも、ないとも言っていない一方で、私たちが、自我(アートマン)であると(五取蘊という認知機能の野放し状態であることにき起因して)思っていることは自我ではない、と言っています。釈迦にとっては、自己の再生産がある、自己の再生産がないということは、五蘊の観察から得た経験的合理的な知見からは知り得ることではない、ということであったから、どちらともいえないし、どちらとも判定する必要もないことであると考えたように、わたしには感じられます。念身経には、「『身体にむけた注意』を習い、養い、強化し、操り、基本とし、実行し、繰り返し、完全に習熟すると次の十の利益が期待される。」として、再三紹介している、好き嫌い、嫌悪感、恐れと怖じ気を克服できることなどとともに、神足通(通販会社みたいですね)、天耳通、他心通などとともに、「前世での多種多様な生活を思い出す(宿命通)。」があげられています。リチャード・ドーキンスさんのいう利己的な遺伝子によって、私たちの体は遺伝子を運ぶためのヴィークルにすぎないのだ、ということを考えると、親の人生を記憶した遺伝子が、親の体というヴィークルから、生殖行為によって子供の体、さらに子孫の体というヴィークルに乗り換えたと考えると、遺伝子が記憶した前世の記憶にアクセスすることも、きわめて高度な精神集中によってもたらされる瞑想状態に至った人には可能であったかもしれない、という考えも生まれます。「前世での多種多様な生活を思い出す(宿命通)。」と言われてもにわかには信じがたいのですが、来世を見通すことができるということは、教示されていないようであることには留意した方がいいかもしれません。永遠不変の自我の存在による、自己の再生ということであれば、死んだ人の数だけ新しく生まれることになりますから、人口が増えることとは齟齬(そご)を生じます。生前の不行状によって生まれかわれない人が相当数いるのであれば、人口減少社会に突入します。仮に生まれ変わりについて、釈迦は当否を判断はしないものの、事実として自己の再生があると信じている人がいて、自己の再生への欲望が苦しみを生むのだ、という考え方があるのであれば、自己の再生を否定するのではなく、自己の再生があろうとなかろうと、自己の再生へ欲望をなくせば、苦しみはなくなるではないか、ということが釈迦の認知論アプローチとして、とり得る方法になります。新しい命が生まれる「再生」を好ましいものとしないのでは、社会は成り立ちませんから、「再生し」とは、親や親族にとっての子孫の再生産、つまり新しい生命が「生まれること」ととらえた方が良いように思います。出家者は子をなしませんから、出家者にとっては、子孫の再生産は原理的にありません。再生を自己の再生産としても、解脱により自己の再生産である輪廻から解脱したことになりますので、出家者にとっては、修行の成果として、自己の再生産が行われるサイクルから「解脱」したのだ(それは修行に依って成し遂げられたのであるから、修行しないものは到底到達できるものではないのだ)、という教説の方が、自分たちの立場を宣揚する(もちあげる)効果はあるといえます。認知論の立場から考察するならば、ですが。再生が幅広く信じられていたことを考慮して、再生をあえて否定せず(一度だけ天上界に生成することは説いているようです)、再生を信じ再生に心を悩ます人々も対象とするために、釈迦のとった方法が、後のお坊さんにとっては、自己の修行の成果、自分たちの優位をするための論理へと転化してしまったように感じます。そう考えると、自分たち(出家者)は五取蘊を滅し苦を滅し解脱したから再生はないけど、五取蘊を滅していない解脱していない人々は、過去世の無明により行が生じ、現在世での識、名色、六入、触、受、取、有が生じて、来世での生と老死という苦しみに至るのですよ、という十二支縁起が作り出されることもなんとなく納得できます。解脱とは無縁な私、仏教徒でない私からすると、余計なお世話だよ、という感じですが。釈迦は、五蘊の観察から得た経験的合理的な知見からは、再生(自己のうまれかわり)があるかないかは、知り得ることではない、と考える一方で、自己の再生があると信じ自己の再生を願い、そのため祭祀を行う人や、自己の再生について心の悩ませる人がいる、という事実の方が重みをもったのではないでしょうか。すでにお話しましたが、釈迦が次のように考えたのであれば、自己の再生について心の悩ませるのも、現世において苦しみを生み出すのも、「生存への愛執」があるからという原因に帰着しますから、自己の再生があるないは釈迦にとっては重要な事柄ではなく、重要なことは「生存への愛執」をなくせば、それによって「認知形成のしくみに執着する状態である「五取蘊」の状態」を解消することにつながり、自己の再生を巡って苦しむ人であっても、現世における苦悩によって苦しむ人であっても、悩み苦しむことは無くなる、との認知に至った、と結論しても問題ないように思います。「『人は、ありのままの状態では苦しみを生み出し続ける』のは、生に伴う根源的な不安があるがゆえではないか、生に伴う根源的な不安から逃れたいと欲求(欲望)して、『無自覚的な思惟によって生み出され、色、受、想、行、識の徹底的な観察考察による経験的合理的な知見によって妥当とは判断できない概念である「見解」』を生みして、それに執着して生に伴う根源的な不安から逃れてたいからではないか、そしてそのことが五蘊のはたらき、認知形成のしくみに執着する状態である「五取蘊」の状態を招来し、結果として苦しみを生み出し、苦しみ続けることになる」。そして、「生存への愛執」を断つことは、生存を断つことではなく、生存を断たたれることへの根源的な不安を断つ事であるから、生存を断たれることへの根源的な不安を断つことによって、己の再生があると信じ自己の再生を願い、自己の再生について心の悩ませる人も、再生など信じておらず、今ある悩み苦しみつらさに耐えかねて「生存の消滅への愛執」を持っている人も、生存を断たれることへの根源的な不安から「この世の欲望に愛執」を持つ人も、「生存への愛執」を断つことによって、この世での悩み苦しみつらさをもたらす根源から解放されるのである、ということであったのではないでしょうか。ただし、いずれにしても、釈迦の方法論は、釈迦の教示する体と心のはたらき、認知形成のしくみを、自己の体と心の観察により証明し体得し、そのうえで、自らが自らの内に生まれる悩み苦しみつらさを滅してゆくという個人的な作業ですから、自分がどのように釈迦の教えを解釈して、自分の悩み苦しみつらさを滅してゆくか、ということは本人の認知に委ねられているものと解釈できます。その意味で上記の解釈は、あくまでも私の解釈、私の認知ということになります。釈迦は、「求めても得られない苦しみとは、いったなにか」として、以下のように教示しています。「生まれるという性質をもつ生きものにとって、このような欲求が起こる。『ああ、わたしたちに、生まれるという性質がなければよいのに。わたしたちに、生まれるということがやってこなけれがよいのに』と。しかし、このことは望んでも起こりえない。これもまた求めても得られない苦しみである。」以下同様に、老いること、病気になること、死ぬことについて教示され、次のように教示されます。「憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えという性質をもつ生きものにとって、このような欲求が起こる。『ああ、わたしたちに、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えという性質がなければよいのに。わたしたちに、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えということがやってこなけれがよいのに』と。しかし、このことは望んでも起こりえない。これもまた求めても得られない苦しみである。」生まれることについては、多分当時の階層社会においては、下層階級は過酷な生活環境であったとも想定でき、生まれることは苦しむことだという考え方も支持を得たのかもしれませんが、老いること、病気になること、死ぬことについては、誰も反論できず、釈迦の教示には異論をはさむ余地はなかったでしょう。釈迦は、異論をはさむことのできない、誰にでも訪れる生老病死について、「起らないことを望んでも、それは起こりえないこと」という教示を最初に行い、納得させたうえで、その教示を、各人個別の原因によって生じる憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えへと適用範囲を広げるという論法、教示方法を取ったのではないでしょうか。憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えは、各人個別が受ける外的な要因にそれら苦悩の発生原因があるのではなく、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えについて、起らないことを望むことによって「望んでも起こりえない。これもまた求めても得られない苦しみ」が生まれるからである、と教示することによって、各人個別が受ける外的な要因によって、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えが生まれるのではなく、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えが起こらないことを望むから、求めても得られない苦しみを生みだして、苦悩しつらい思いを生み出すのだ、という人の認知形成のしくみが苦悩やつらさを生み出す原因なのだ、という視点を持つことを促す、という認知論アプローチを取ったのではないかと考えます。そして、次に「〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素は苦しみであるとは、いったいなにか。」として、「すなわち、物質的なものという執着の要素(色取蘊)、感受作用という執着の要素(受取蘊)、表象作用という執着の要素(想取蘊)、潜在的形成力(想取蘊)という執着の要素、識別作用という執着の要素(識取蘊)、修行僧たちよ、これらが要するに〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素と言われるものである。修行僧たちよ、これが苦しみのすぐれた真理といわれるのである。」私は、認知論によって釈迦の説いたとことを解釈しようとしているので、五取蘊が「個人存在を構成する」という考えは取っていません。仏教的には、釈迦が五取蘊を説いたから、五取蘊という真実があるのだ、ということなのかもしれませんが、五蘊、もしくは五取蘊は、現在の心理学や心理療法のモデルでも説明可能な機能だと思っていますので、釈迦が、体と心のはたらきと認知形成のしくみを把握し、説明するためのツールと考えています。ただし、現在の心理学や心理療法のモデルと釈迦の認知論が根本的に異なるのは、釈迦はあくまでも、生きることは認知が生まれ続けることであり、その認知とは、体と心に生起し消滅する現象であり、生起し消滅する現象に愛執を生み、執着し、欲望することによって、苦悩が発生すると捉えたことであると思います。愛執を生み、執着し、欲望するのは、人の認知が生起し消滅することを理解しないこと、生存への愛執が、生存が永遠に続くことを無自覚に望むからであろうかと思います。人の認知が生起し消滅するものであるにもかかわらず、生存が永遠に続くことを無自覚に望むことによって、「歓喜と愛欲をともない、ここかしこで歓楽するような愛執」(大念処経)が生じるのでしょう。「歓喜と愛欲をともない、ここかしこで歓楽するような愛執」が生じた結果生じることを、心理療法では、不適切なコーピングととらえているように思います。そのように考えますので、五蘊は、自分自身に生じては消えてゆく現象としての認知を把握するための、筏の喩の筏、すなわちツールなのではないかと考えています。五蘊というツールにより、自分自身に生じては消えてゆく現象としての認知を把握すること(択法覚支の始動)により観察力が養われ、やがて発現するであろう「尋」と「伺」を準備し、身体にむけた注意の確立により好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気の克服により、好き嫌いの感情や恐怖感をなくし、精進覚支とあいまって、喜覚支が始動し、軽安覚支が始動して、心随観が可能となり、集中力を高めると「尋」と「伺」が現れ、悩み苦しみをありのままに(好き嫌い嫌悪感、恐怖と怖じ気なく)観察できるようになることで、苦しんでいるなら、苦しみがないほうがいい、苦しみをなくそう、という生命の持っている本能的な欲求ともいえる「四聖諦」がはたらきだす、そして自分の眼、耳、鼻、舌、身体、意識の機能への無自覚な信頼と、無自覚な信頼によって形成される不合理な認知に無自覚に執着することが悩み苦しみつらさが生まれてくる原因だと認識することができる、というふうに考えると、五取蘊は、人間存在を構成する、というよりも、自己の体と心のはたらきと、認知形成のしくみを、悩み苦しみつらさを生み出さないようにするためのベンチマーク、規準としてとらえることができるように思います。私たちにとっては、五取蘊は、自己の体と心のはたらきと、認知形成のしくみを、悩み苦しみつらさを生み出さないようにするためのベンチマーク、規準としてとらえるほうが、現実的かつ説得力があり、受け入れやすいと思います。同じく「〈苦しみのすぐれた原因のすぐれた真理とはなにか」として次のように教示しています。「それは再び迷いの生存に戻すものであり、歓喜を愛欲をともない、ここかしこで歓楽するような愛執である。すなわち、現世の欲望に対する愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執である。」「この愛執はどこで生じ、どこでとどまっているのだろうか。なんであれこの世のなかには好ましいもの、楽しいものがあり、そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕留まっているのである。」「では、この世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものとはなにか。」として、六内処:眼、耳、鼻、舌、身体(触)、こころ(意識)は、「この世の中における〔、好ましいもの、楽しいものである。そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕留まっているのである〕。」六外処:色かたち、音声、香り、味わい、蝕知できるもの、こころの対象について同様に考察され、引き続いて、六識身:眼による識別、耳による識別、鼻による識別、舌による識別、身体による識別、心による識別六触身:眼による接触、耳による接触、鼻による接触、舌による接触、身体による接触、心による接触六受身(受取蘊):眼による接触から生じる感覚的感受、耳による接触から生じる感覚的感受、鼻による接触から生じる感覚的感受、舌による接触から生じる感覚的感受、身体による接触から生じる感覚的感受、心による接触から生じる感覚的感受五蘊の想(想取蘊):色形の表象作用、音声の表象作用、香りの表象作用、味わいの表象作用、蝕知できるものの表象作用、こころの対象の表象作用五蘊の行(行取蘊):色かたちへの意志作用、音声への意志作用、香りへのへの意志作用、味わいへの意志作用、蝕知できるものへの意志作用、こころの対象への意志作用色取蘊:色かたちへの愛執、音声への愛執、香りへの愛執、味わいへの愛執、蝕知できるものへの愛執、こころの対象への愛執粗い考察(尋)への愛執:色かたちへの粗い考察、音声への粗い考察、香りへの粗い考察、味わいへの粗い考察、蝕知できるものへの粗い考察、こころの対象への粗い考察微細な考察(伺)の愛執:色かたちへの微細な考察、音声への微細な考察、香りへの微細な考察、味わいへの微細な考察、蝕知できるものへの微細な考察、こころの対象への微細な考察それぞれについて「この世の中における〔、好ましいもの、楽しいものである。そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕留まっているのである〕。」と教示され、「これが、修行僧たちよ、苦しみの原因というすぐれた真理といわれるのである。」と締めくくられます。五蘊の「識」「識取蘊」は無く、粗い考察(尋)への愛執、微細な考察(伺)の愛執が教示されていますから、この教示は、粗い考察(尋)、微細な考察(伺)が現れる初禅において理解、体験できることが前提であること、粗い考察(尋)、微細な考察(伺)は「識」が高度化し、如実知見を可能としたものととえられると考えられます。上記の内、六内処は、五蘊の色、すなわち身体であると認識して良いように思います粗い考察(尋)、微細な考察(伺)は「識」とみなすと、眼、耳、鼻、舌、身体(触覚)、意の6つの認識領域における、五蘊の色、受、想、行、識に対して、愛執が発生して、そこに愛執が留まっていることが、苦しみの原因である、と教示していることになります。六識身、六触身は五蘊には含まれませんが、はたらき、機能としては色、すなわち身体において生まれるものに含めてもいいのかもしれませんが、あまり厳密にとらえることに意味はないかもしれません。現代の考えから言えば、受、想、行、識のはたらきも神経と脳のはたらきですから、つきつめれば体のはたらきということになりますから。釈迦は、体と心のはたらき、認知形成のしくみ(五蘊)そのものに「この世における〔、好ましいもの、楽しいものである。」と感じて、「そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕留まっているのである〕。」から、「苦しみの原因というすぐれた真理といわれる」と教示していることになります。その前提にあるのは『ただ事象のみが存在する』という自覚であり、『ただ事象のみが存在する』の意味内容は、「ただ体と心に生起しては消えてゆく(=おもいのままにならない)認知できる出来事のみが存在する」ということになり、それにもかかわらず「体と心に生起しては消えてゆく(=おもいのままにならない)認知できる出来事」を、「この世における〔、好ましいもの、楽しいものである。」と感じて「そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕留まっているのである〕。」(五取運)であるから、「苦しみの原因」となるのだ、という論理になりそうです。このことは、苦しみの原因である「現世の欲望に対する愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執」を断つには、生きている限り止めることができない人の体と心のはたらき、認知形成のしくみ(五蘊)によって生み出される、「ただ体と心に生起しては消えてゆく(=おもいのままにならない)認知できる出来事のみが存在する」ことに対して、「この世における〔、好ましいもの、楽しいものである。」と感じて「そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕留まっているのである〕。」(五取運)という状態を、見る聞く嗅ぐ味わう肌触りを感じるという認知の根本から、自己意識を形成するような大脳新皮質の高度な情報処理に至るまで、残すところなく、滅尽すればよい、というこのようです。「苦しみの消滅のすぐれた真理とはなにか。それはこの愛執にたいし、残りなく欲を離れ、滅し、棄て、解き放たれ、執着のよりどころとしないことである。」(大念処経)愛執は、好ましいもの楽しものという感情、感覚をともない、欲によって「増殖する」のだから、見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、感触すること、考えること、人の体と心のはたらきと認知形成のはたらきの全域において、愛執を残すことなく滅しつくす必要がある、ということなのでしょう。当然、この状態は、釈迦の説く方法論の「上がり」の状態であるということは理解しておく必要があります。私たちが何が何でも目指さなければならない地点ではない、ということです。釈迦の認知論の根本的には、考えるから欲求がどんどん強まる、ならば悩み苦しみを生み出す原因(欲望、怒り、悩害)となることを考えるのではなく、自覚して、意識して、悩み苦しみを生み出さないことを考えればよい、という方法論があるようです。「もうなんでも、比丘達よ。比丘がそれについて多く思い考えるほど、ますますそのように心は傾く。比丘達よ。もし比丘が離欲の思いを多く思い考えると、欲望の思いを捨てて、離欲の思いを募らせて、かれのその心は離欲の思いに傾く。比丘達よ。もし比丘が怒りなき思いを多く思い考えると、怒り離の思いを捨て、怒りなき思いを募らせて、かれのその心は怒りなき思いに傾く。比丘たちよ。もし比丘が悩害無き思いを多く思い考えると、悩害の思いを捨て、悩害なきなき思いを募らせて、かれのその心は悩害なき思いに傾く。」(双考経)「すべての認知できることは、ただ体と心に生起しては消滅する現象である、現象が起こったと知り、消滅して行くということを自覚し、好ましい現象楽しい現象に執着せず、悩み苦しみつらさという現象を嘆かず怒りを起こさなければ、悩み苦しみ生まれることはない、すべては体と心に生起しては消滅する現象にすぎないのだから」ということが自覚できるまで瞑想を行う必要がありそうです。五蘊の考え方が、現代のおいても有意であるのは、釈迦が教示する、人の体と心のはたらきと認知形成のしくみによって、愛執が生じて、悩み苦しみが生成されるプロセス、悩み苦しみが生起する原因を自覚するためには、きわめて有効であるという点だと思います。その観点から、私は「五蘊」は、釈迦の認知論を、自己の体と心のはたらきと認知形成のしくみをとおして理解し、愛執が生じて悩み苦しみが生成されるプロセス、原因を自覚するための「思考分析ツール」として、きわめて有用であると考えています。釈迦の方法論を、認知論ととらえて、ヴィパッサナー瞑想により、観察力を養い、集中力を養い、自分が何をどのように認知しているのか、なぜそのような認知になるのか、ということを徹底して自覚する方法、と考えると、ヴィパッサナー瞑想の理解を促進します。ヴィパッサナー瞑想は、認知論の立場から考えるならば、「自己理解を促す最強ツール」であるといっていいと考えています。「自己をわするるとは、萬法に証さるるなり」は、仏法が主、私は従という構造を想起させますが、仏教の観点を離れ、釈迦の方法論を、心理療法としてとらえるならば、自らが意思をもって、釈迦の認知論と方法論を、(ありのまでは苦悩を生み出す)「自己の体のはたらきと認知形成のしくみ」を、苦悩を生み出さない「自己の体と心のはたらきと認知形成のしくみ」に転換するための手がかりを見つける方法、と言い換えてもよいように思います。それを言い換えれば「(苦悩を生み出すことも含めた)自己理解を促す最強ツール」という理解が成り立ちます。ツールとはすなわち、川を渡るために使う道具、筏であり、釈迦は、川を渡ったら筏を捨ててゆく人は正しいことをしたと説いた(蛇喩経)のですから、ヴィパッサナー瞑想を、自分の体と心のはたらき、認知形成のしくみに対する無自覚という川を渡るためのツールととらえても問題ないと思います。ヴィパッサナー瞑想を、認知論アプローチによる心理療法と考えた時に、心理療法との一番違いは、ヴィパッサナー瞑想では、他者が介在しないことによって、他者の存在を意識することなく、他者からの評価を一切気にすることなく、(知り得る限り)100%の自己開示が、自分に対してなされる方法であることだと思っています。とはいっても、他者が介在する心理療法は、独力では自己の現状を好ましい方向に変えられないクライエントにとっては、他者であるセラピストとの対話や支援によって自己理解を促進し、自己が抱える問題、課題に気づき、問題、課題の解消を目指すものですから、当然有為なものです。クライエントが自己理解を促進し、自己が抱える問題、課題に気づき、問題、課題の解消を目指すことに、挫けてしまいそうになった時に、援助者であるセラピストがいることは大きな意味を持ちます。援助者という観点から見ると、ヴィパッサナー瞑想は、救いを想定せず、自己を観察考察し自覚に至ることによって苦悩をなくすという、極めて孤独かつ冷徹な方法です。極めて孤独かつ冷徹な方法であるがゆえに、「善き友情をもち、善き仲間をもち、善き交遊を有するということは、これは聖なる修行のなかばではなくして、そのすべてである。」(増谷文雄先生「阿含経典第三巻」「道相応」より 筑摩書房)と釈迦は教示したのでしょう。釈迦は、善き友情、善き仲間、善き交遊によって、釈迦の実践論、行為論といえる八聖道が進展するという文脈で教示されていますが、その根底には、孤独かつ冷徹な方法であるがゆえに、自分と同じ目的を持ち、自分と同じ孤独かつ冷徹な方法に取り組む善き仲間がいることが、孤独かつ冷徹な方法をコンプリートする励ましとなるであろう、ということではないかと思います。「(知り得る限り)100%の自己開示が、自分に対してなされる」というのは、おかしな言い方ですが、解説します。ヴィパッサナー瞑想は、体と心に生じたことを、生じたと知り、それを知って(観察して)も、心に押しとどないという態度を一貫して訓練します。(「すべての認知できることは、ただ体と心に生起しては消滅する現象である、現象が起こったと知り、消滅して行くということを自覚し、好ましい現象楽しい現象に執着せず、悩み苦しみつらさという現象を嘆かず怒りを起こさなければ、悩み苦しみ生まれることはない、すべては体と心に生起しては消滅する現象にすぎないのだから」という自覚にいたるためです。)それ等の訓練によって欲求の生起を抑制し、欲求の生起の抑制が好悪の感情や恐怖心を低減します。このメカニズムは、貪随眠、瞋恚随眠、無明随眠の潜行をなくするという方法で説明できます。また、欲求の充足によって脳の報酬系を刺激することを抑制するという理屈でも説明できるように考えています。上記訓練を通じて、体と心に安楽状態(軽安覚支)を作出し、その状態で集中力を高める(定覚支の状態)ことで、観察の訓練によって養ってきた観察力が、より高度化した「尋」と「伺」という観察考察能力(脳の高次機能の活性化状態)として現出し、「自分が見たくない、知りたくない」と考え、「自分が見ることをさけていたこと、知らないでいようとしたこと」にたどり着き、嫌悪感や恐怖を伴わず「自分が見ることをさけていたこと、知らないでいようとしたこと」にたどり着くことによって、現在において、過去の出来事の体験とその解釈に起因して苦悩が生起することまで一気通貫で自覚することができ、さらに、どのようにしたら現在の苦悩をなくすことができるか、ということについてもヒントを受け取ることでき、ああそういうことか、わかってよかった、ということになります。ヴィパッサナー瞑想を継続してゆくことで、ああそういうことか、わかってよかった、ということはより深まってゆきます。ただし、ああそういうことか、わかってよかった、という自覚に至っても、現在において苦悩が生起するメカニズムは基本的に維持されているということには留意が必要です。そもそも、ヴィパッサナー瞑想によって、『「自分が見ることをさけていたこと、知らないでいようとしたこと」にたどり着くことによって、現在において苦悩が生起する理由まで一気通貫で自覚することができ、どのようにしたら現在の苦悩をなくすことができるか、ということについてもヒントを受け取ることでき、ああそういうことか、わかってよかった』となるのですから、自分に対して何ら隠す必要性がありません。自分に対して何かを隠すのであれば、自らは苦悩しながら、苦悩の原因を知ることはできないでしょう。自分に対して何かを隠さないことによって、悩み苦しみの原因への自覚がより深まり、そのことを実感できます。だから「(知り得る限り)100%の自己開示が、自分に対してなされる」よね、という理解になります。好き嫌い、嫌悪感、恐怖心や怖じ気を克服することのメリットは、精神的負担を和らげるだけでなく、価値判断や他者からどう思われるかを心配することを払拭し、自分の体と心のはたらき、認知形成のしくみを、自由に、捕われなく、ありのままに観察考察できることにあります。あくまでも「(知り得る限り)100%」です。瞑想の進展度合いはその人次第です。嫌悪感や恐怖心などの苦悩を生む体験とその体験時の感情、その解釈といった「見たくない」と抑圧していること、例えば希死念慮であっても、嫌悪感や恐怖心を克服もしくは抑制することによって、「見たくない」ことも苦痛なく(全くない、というわけではありません、見たら見たでどうしよう、という苦悩は生まれます)見ることができ、「見たくない」ことが現在の苦悩や生きることのつらさの遠因になっていることまで、一気に理解が進みます。ヴィパッサナー瞑想は、観察力、集中力を養い、嫌悪感や恐怖心を克服したうえで、自由に自分の体と心のはたらきと、生まれては消える認知を観てゆくことによって、悩み苦しみのありかと、その根源にせまるという自分が自分のために行う個人作業ですから、人に告げることは不要です。むしろ、人に告げることによって、自分のやっていることが良いことだと同意してもらいたい、その人から自分を支持してもらいたい、という感情、欲求を持つならば瞑想の進展を阻害することになるでしょう。そのような感情、欲求もふくめて釈迦は「離欲」によって、悩み苦しみを生み出す原因へアクセスすることができ、悩み苦しみが「何かを求めていること」に起因して生起していることが自覚できるならば、その「何かを求めていること」からの「離欲」によって、悩み苦しみはなくなりますよね、というふう把握したようです。人に告げることが不要なのは、そもそも、苦しんでいるのはあなたですよね、苦しんでいてもそれを苦しんでいると自覚しないのもあなたですよね、苦しんでいることを自覚することにより、それを解消したいと欲求するのもあなたですよね、という考え方であるからでしょう。それゆえ、釈迦の苦しみをなくす方法「四聖諦」は、これは苦しみであるとありのままに知る、というところから始まります。苦しみがあなたの心の中に形成されるものであるならば、あなたの心の中に形成された苦しみを無くすことはあなたにしかできませんよね、という方法論ですから、苦しみを人に告げ理解してもらっても、苦しみの一時的な軽減にはなっても、本質的に苦しみをなくすことにはなりませんよね、むしろ苦しみの本質に向き合うことを阻害しますよね、ということになるからです。「これは苦しみであるとありのままに知ることにより、自分の願いとして、この苦しみをなくしたい、この苦しみから抜け出したい、この苦しみから抜け出そうという自覚をもった」ことによって、瞑想が進展した場合には、人に理解してもらいたい、という欲求はなくなります。自分で自分の悩み苦しみつらさをなくす方法が自覚でき、それを実行すれば自分の悩み苦しみつらさがなくなるだろうと自覚できるのですから、他者に相談して理解しもらう必要もありませんし、それらの自覚に至ったことが、「尋」と「伺」という観察考察能力による如実知見によって実現したのならば、そのプロセスを説明してもすんなりと受容し理解できる人は少ないでしょう。(今に伝わる阿含経は、弟子たちが伝えたものですから、釈迦の教えが、周囲の人たちから相手にされなかったという記述は少ないようです。釈迦の教示が、「そのプロセスを説明してもすんなりと受容し理解できる人は少ない」という状況の中で、説かれた(それゆえ平易に語ったのでしょう)ものだと想像すると、釈迦の決意の大きさ払った労力に敬意を表さざるをえません。)ましてや、自分が五取蘊の状態であると自覚し、悩み苦しみを生む認知形成のしくみである五取蘊から脱しようとしているならば、五取蘊を野放しにしている他者に相談して、理解してもらうことや助言をもとめること自体が無意味だと思えるようになるでしょう。自らが苦しみと向き合い、苦しみをありのままに知り、苦しみの原因を無くさない限り苦しみはなくならないのだ、という方法論を招来したのは、あくまでも想像ですが釈迦が、幼少時に周囲の他者は、自己の欠乏感や欲求を理解してくれない、自己の苦悩を解消してくれない、と感じたからかもしれません。親と言えども子供とは別の個体であり、親は子どもとは別の欲求と意図を持っていると仮定すれば、「この人は自己の欠乏感や欲求を理解してくれない、自己の苦悩を解消してくれない」存在であると、子どもの心に映った考えても、私には大きな違和感は生まれせん。もちろんすべての子供が、「この人は自己の欠乏感や欲求を理解してくれない、自己の苦悩を解消してくれない」存在であると考えるわけではありませんし、そのように考える子供の方が、少数派でしょう。加えて釈迦は、生後すぐに生母をなくしたという生い立ちに加えて、尋性とされる性格であったと考えられているそうですから、周囲の他者は、自己の欠乏感や欲求を理解してくれない、自己の苦悩を解消してくれない、と感じたならば、(幼少であることから、何らかの他者への働きかけにより苦悩を解消する方法は限られているでしょうし、例えば生母の死に関わる苦悩であれば解消はそもそも難しいでしょうから)自己の「望んでも起こりえない」想像の中で、苦悩を解消しようとしたと想像することもできます。長じて、釈迦が、「望んでも起こりえない」想像の中で、自己をなぐさめ、苦悩を解消しようとしていたことを自覚し、まさにそのような「望んでも起こりえない」ことを形成する自己の性向、認知のあり方そのものが、悩み苦しみを生むのだ、との認知にいたったならば、釈迦にとって、それはまさにコペルニクス的転回です。そのように考えると、釈迦の徹底した認知論、方法論が案出されたことに、私は納得がゆきます。悩み苦しみの原因の所在が、自己の認知形成のあり方にあるとの認識に至るなら、悩み苦しみをなくすには認知形成のあり方とを改変する必要があるという、常人では到底考え及ばない方法論に到達します。それも医学や神経科学、心理学のない2600年前において、です。ヴィパッサナー瞑想は、片方に自己の悩み苦しみを載せ、もう片方にその解決策載せる天秤のようなものなのかもしれません。自己の抱える悩み苦しみが、意識の深層での記憶に関わる深く大きいものならば、そこに到達するのに時間もかかるでしょうし、悩み苦しみの原因を滅尽するにも多大な労力と時間を要するでしょう。自己の抱える悩み苦しみの原因が、例えば、比較的近時に体験した出来事から形成された、認知行動療法の「推論の誤り」のようなものに依るのであれば、悩み苦しみの原因をなくすことは比較的容易でしょう。ヴィパッサナー瞑想は、自己の体と心のはたらきと、記憶を含む自己が形成した認知しか自覚することはできません。言い換えれば、記憶を含む自己が形成した認知と、それによって影響を受けている自己の体と心のはたらきと認知形成のしくみへの影響度の大きさによって、自覚すること(自覚の対象物としての悩み苦しみつらさの原因)の大きさが変わるということだと理解してよいでしょう。それゆえ、釈迦は、四念処による結果が期待できる修習期間として、「このように七年間修めるひとはだれでも」と説き始め、「七年はともかくとして」と順次期間を縮めてゆき、最終的には「誰であっても、このように七日間修める人は」というところにまで短縮しています。(大念処経)ヴィパッサナー瞑想は、ある種冷徹な方法だといえますが、苦行ではなく、嫌悪感や恐怖心を克服するというセーフティネットを準備することによって、幼少時や過去に形成され現在に至るまで記憶され保持され、今現在の自分を苦しめている過去の恐怖体験などを想起しても、嫌悪感や恐怖心が生起することを抑制し、過去の恐怖体験の克服にも道を開きます。苦行では継続することができません。だからこそ、注意力を養うこと(念覚支)から始め、注意力をもって体の動きの観察から始めて自覚を開発(択法覚支)し、自覚のための努力が継続され(精進覚支)、努力の継続によって喜びが生まれ(喜覚支)、喜んでいる人は身体も安らぎ心も安らぐという安楽な境地(軽安覚支)、すなわち高度なリラクセーション状態を実現してから、高度な観察眼考察眼(尋と伺)を現出させ、悩み苦しみの原因を自覚するのです。安楽な境地(軽安覚支)とは、意図や意欲をおこす心のはたらきを鎮静化することであり、意図や意欲をおこす心のはたらきを鎮静化した安楽な境地を体験するから、安楽な境地を妨げる、心のはたらきとしての自己の苦しみの存在を、あぶりだすように感じ取ることが可能になり、さらに集中力を高める(定覚支)ことで「尋」と「伺」という、第三者的な観察考察力を開発することで、悩み苦しみの根源、原因(非機能的な中核信念や早期不適合スキーマ等が想定されます)に迫ることができます。この状態になれば、悩み苦しみがあることを自覚したのであれば、悩み苦しむより悩み苦しみがないほうがいい、悩み苦しみをなくしたいという、人に本来的にそなわっている能力の起動と考えられる「四聖諦」が起動し、悩み苦しみの根源、原因に迫ることによって、悩み苦しみを無くす方法は、おのずとあきらかになります。信頼されるセラピストであっても、クライエントは、(知り得る限り)100%の自己開示はしないでしょう。この人は信頼できる、と感じても、自分とは別の、自分が知り尽くすことができない独立した人格である、という前提は消し去れません。かえって信頼しているからこそ、この人はいい人だから好かれたい(少し違うがこのように言っておこう)、こんなことを言ったら何と思われるだろうか、嫌われないかな(言わないでおこう)、という意図が生じてもおかしくありません。そもそも人は、養育者という他者から、これをすると自分にとって影響力ある人(養育者)から悪く思われるという体験によって、やってよくないことを学び、好く思われるという体験から、やってよいことを学び、他者と協調的な関係を築いてゆく方法を学習してきたのですから、(自分でも自覚せずに)他者の反応を気にすることは致し方ないことです。クライエントに、セラピストは、支援という機能をはたす、独立した別個の人格ととらえてもらえなければ、セラピーは実り多いものにはなりませんから、セラピストの信頼性の問題ではなく、第三者が介在するセラピーに内在する本質的な問題ということになります。アドラーが、人の悩みは結局対人関係の悩みに行き着く、といったように、自分の苦悩を向き合うときでも、セラピストという他者との関係を意識し、セラピストとの関係それ自体が問題になる、ということは十分にあり得るでしょう。ナーバスになっていればいるほど、その人が自分の言うことを受け入れてくれる人かどうか(安心できる人かどうか)を査定する、という傾向はより強いかもしれません。婚活でも、お相手を「少しわがままを言うことによって、自分の言うことを受け入れてくれる人かどうかを査定する」と思われる行動をとる人はいらっしゃるようです。野狐禅という言葉があります。師につかない座禅は、悟っていないのに、悟ったと勘違いすることを、狐にばかされることに喩えて野狐禅と言うようです。野狐禅というときには、悟ったことを価値あることと考える価値観を前提に、悟ったという価値あることに到達したことを他者に認めてもらい、自己を誇りたい承認してもらいたいという欲求があるから、悟っていないのに、悟ったと勘違いすることを、悟っている人の立場の人が評価した言葉であろうと考えられます。自己の悩み苦しみについて、これは苦しみであるとありのままに知ることにより、自分の願いとして、この苦しみをなくしたい、この苦しみから抜け出したい、この苦しみから抜け出そうという自覚をもった時には、悟ったことを価値あることと考える価値観を前提に、悟ったことという価値あることに到達したことを他者に認めてもらい、自己を誇りたい承認してもらいたいという欲求は起こらないでしょう。つまり、人に告げるたいという欲求や人に承認してもらいたいという欲求が生じる余地がありません。ヴィパッサナー瞑想は、「こんなことを言ったら何と思われるだろうか、嫌われないかな(言わないでおこう)」「いい人だから好かれたい(少し違うがこのように言っておこう)」などの「意図」を、欲、愛執、執着と考え、欲、愛執、執着があるから悩み苦しみを生み出すのだから、そのような「意図」自体を希薄化することを通じて、自分の苦悩と苦悩の原因のありようを観察考察できるようにする、という方略を取ります。ただし、「(知り得る限り)100%の自己開示」を可能とする釈迦がとらえた、体と心のはたらき、認知形成のしくみはそんなに単純ではありません。単純ではなかいからこそ、脳は自分の体と心に生起していることに無自覚を貫きとおして、スルーしているのでしょう。体と心のはたらき、認知形成のしくみについて、釈迦の教示することが親切丁寧であればあるほど、釈迦尾の教示は煩瑣、ややこしいと感じるものになります。でもその煩瑣、ややこしいものが自分の体と心のはたらきなのだと自覚するしかありませんし、ヴィパッサナー瞑想を通じて、釈迦の教示する体と心のはたらきが自覚でき、ああこうすれば苦悩がなくなるのだな、と自覚できたことを「悟り」といい、その方法をコンプリートしたことを「解脱」と言ったのでしょう。今回は『釈迦が到達した「認知」論』というお話でしたが、「その方法をコンプリート」する手段として、釈迦は行為論も説いています。釈迦の行為論は、八聖道と言われる実践論です。認知療法が行動療法の方法と取り入れ、行動療法が認知療法の方法を取り入れ、認知の修正と行動変容の双方へ介入することで、より効果性を高めようとして認知行動療法となったように、釈迦は、認知論を行為論に落とし込むことを説いています。また別の回でおお話します。前回「高度なリラクセーション状態の作り方(2) https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/182503/
これから「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ」(治意経)という高度なリラクセーション状態を実現する瞑想の説明をします。「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ」という、高度なリラクセーション状態は、(1)単にリラックスするという状態ではなく、(2)集中力を高め、(3)体と心を観察し、観察力を高め(4)観察して得た情報(気付き)を活用して、(5)体と心に負担が生まれない状態を作ることによって実現します。釈迦の教示を引用しますが、布教の意図はありませんのでご安心ください。あくまでも高度なリラクセーション状態を実現した釈迦の認知論、方法論に学んで、高度なリラクセーション状態に到達するメカニズム、方法を理解するという観点から引用するものです。釈迦は2600年前に、悩み苦しみやつらさを無くす方法を人々に説きました。その方法は、今日でいう認知論、すなわち人々の心の中の認知、さらには認知のあり方を改変することにより、悩み苦しみやつらさを無くす方法であったようです。その方法は、(1)体と心の動きへの観察に集中することを通して集中力、観察力を高め、(2)感情の活動を静め高度なリラクセーション状態を実現し、(3)高度なリラクセーション状態の中で、高めた集中力、観察力をフル活用して、(4)悩み苦しみやつらさの原因にたどり着くことによって、(5)悩み苦しみやつらさを生み出す認知を転換することを通して、(6)悩み苦しみやつらさを生み出さない認知のあり方を確立する、という方法でした。釈迦は、生まれること、老いること、病気になること、死ぬこと、私たちに起こる、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えは苦である説きました。その上で、私たちは、これらのことが起らなければよいのにという「欲望」が生じる、しかしそのようなことは望んでも起こらないから、望むことによって、求めても得られないという苦しみが生まれるのだ、と説きました。さらに、ではなぜ、望んでも起こらないことを望むという「欲望」が起きてしまうのか、それは人の体と心のはたらき、認知形成のしくみがそのようにになっている(仏教では五取蘊と言います)ことを自覚しないからだ、人の体と心のはたらき、認知形成のしくみを観察して自覚し、注意して、望んでも起こらないことを望むという「欲望」を生み出さないような認知形成のしくみに転換すればよい、と説きます。釈迦の説くところは、欲を無くしなさいという道徳論ではなく、自分の心に起こる、悩み苦しみつらさの根源に、そもそも望んでも起こりえないことを望む「欲望」があることが理解できたなら、その「欲望」を無くすことで、悩み苦しみつらさがなくなるなら、その「欲望」をなくし、「欲望」を生み出す認知形成プロセス改変すれば、「欲望」は生まれなくなり悩み苦しみつらさがなくなるのではありませんか、というものです。例えばスキーマ療法では、幼少期に本来充たされて当然の欲求である中核的感情欲求が満たされないことから、早期不適合スキーマが生成される考え、治療的再養育法によって中核的感情欲求を充足するという方法をとるようです。釈迦の方法論では、「幼少期に充たされて当然の欲求である中核的感情欲求が満たされない」ことを原因として、現在においても幼少期に充たされなかった中核的感情欲求の充足を求めている、ということが悩み苦しみつらさの根源なのだと理解したならば、『現在においても幼少期に充たされなかった中核的感情欲求の充足を求めている』ことは、大人になった今となっては、『そもそも望んでも起こりえないことを望む「欲望」がある』ことを原因として悩み苦しみつらさが生まれるのだ、と自覚し、『そもそも望んでも起こりえないことを望む「欲望」がある』ことから「離欲」することになります。セラピストが、中核的感情欲求の充足への欲望を、望んでも起こりえないことだから「離欲」しなさい、と言ったのでは「虐待」になります。しかし、釈迦の方法論は、自ら瞑想実践を通して、悩み苦しみつらさを生み出す原因にたどり着きなさい、原因を無くして悩み苦しみつらさがなくなるなら、それが悩み苦しみつらさをなくす道なのだから、それを実践して悩み苦しみつらさをなくしなさい、という方法論です。自らが、瞑想実践により、中核的感情欲求の充足への欲望を、望んでも起こりえないことであり、悩み苦しみつらさの原因であるというところに、自らが到達したのであれば、離欲は有効な方法になります。実際には離欲だけでなく、ヴィパッサナー瞑想により、嫌悪感や恐怖心が克服されるという効果を発現させ(セーフティネットとしての軽安覚支の状態を実現)、その上で、大人となった現在から幼少期の自分を観察して、その時の体験と感じたこと、解釈したこと(中核信念)を観察し、幼少期の自分であれば、その時感じたことと、その解釈は(自らの苦痛を理解し和らげるという欲望を充足するためのものとしては)当然のことであったと理解したうえで、価値判断なくすべて受容し、一方でそれらを理解しない親がいたけれども、今現在から考察してみれば、「その時の体験と感じたこと、解釈したこと(中核信念)」が、今の自分の悩み苦しみつらさにつながっているのであれば、もう手放してもよのだ、ということを考察してゆくことになるでしょう。釈迦の方法論では、ヴィパッサナー瞑想により、「嫌悪感や恐怖心が克服されるという効果」が発現していれば、「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ」(治意経)という状態である、軽安覚支(悟りに至るための七つの支分の5番目)が実現されていると考えられます。このブログでは、この「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ」(治意経)という状態である、軽安覚支の実現をたーげとに置いています。軽安覚支の次の状態が、「身体が安らいで幸せな人の心は集中する」(治意経)とされる「定覚支」です。定覚支に至り、高い集中力を実現すると、「粗い考察」=「尋」、「微細な考察」=「伺」(大念処経)という高度な観察眼考察眼が始動します。「粗い考察」=「尋」、「微細な考察」=「伺」は、「定覚支」に至り集中力を高めると半ば自動的に表れ、「大人となった現在から幼少期の自分を観察して、その時の体験と感じたこと、解釈したこと(中核信念)を観察し、幼少期の自分であれば、その時感じたことと、その解釈は(自らの苦痛を理解し和らげるという欲望を充足するためのものとしては)当然のことであったと理解したうえで、価値判断なくすべて受容し、一方でそれらを理解しない親がいたけれども、今現在から考察してみれば、「その時の体験と感じたこと、解釈したこと(中核信念)」が、今の自分の悩み苦しみつらさにつながっているのであれば、もう手放してもよのだ、ということを考察してゆく」が可能となります。そして、「粗い考察」=「尋」、「微細な考察」=「伺」による観察考察を継続してゆくことにより、「もう手放してもよいのだ」ということを実践することができます。「(自らの苦痛を理解し和らげるという欲望を充足するためのものとしては)当然のことであった」ことを、「もう手放してもよのだ」と考えるなら、「離欲」になります。釈迦の方法論で頻出する、欲望、執着、愛執とは、知らず知らずに内に自己に形成され自覚せず保持(=欲望、執着、愛執)され、それに束縛されることで、悩み苦しみつらさを生み出す原因という観点から理解すべきもののようです。ヴィパッサナー瞑想により、このようなことを体験してゆくと、釈迦が説いたことは、宗教というよりは、今日の心理療法と言ってよいような内容だったと感じます。釈迦の方法論が上記のような認知の転換、認知形成の転換をもたらす認知論であったため、今日の認知療法系の認知行動療法と相似性が認められます。心理療法家にも、釈迦の方法論と認知療法の相似性に気づき、釈迦の方法論の現代版ともいえるマインドフルネスに、認知療法を統合した方々がいました。マインドフルネス認知療法の創始者の1人、ジョン・ティーズデールさんらです。ティーズデールさんは、アメリカ生まれの仏教僧Ajahn Sumedhoさんの講演を聞き、このように感じたそうです。「Jhonは、Sumedhoが述べた仏教による苦悩の分析の核心部にあるアイデアと認知療法の基本的仮説の類似性に衝撃を受けた。両方のアプローチが、私たちを不幸にするのは経験そのものではなく、(仏教分析では)私たちの経験との関係または(Beckの分析)私たちの経験の解釈であることを強調していた。また、仏教のマインドフルネス瞑想の中核が、思考として(つまり「真実」や「私」としてではなく精神的事象として)思考と関係していくことの習得を含むことも明白であった。」(マインドフルネス認知療法原著第二版 北大路書房)Sumedhoさんがどのような方か、私は存じ上げないのですが、上記のティーズデールさんが話したであろうお話、「(つまり「真実」や「私」としてではなく精神的事象として)」から推測すると、Sumedhoさんは、日本に伝来した大乗と自称した仏教とは別系統の、東南アジアに伝わり現在も信仰されている、部派仏教から続くテーラワーダ仏教のお坊さんであろうと推測されます。テーラワーダ仏教が、伝持して来たお経が、下記でご紹介する「阿含経」です。ティーズデールさんたちのマインドフルネス認知療法をきっかけに、マインドフルネスの研究が一気に加速したようです。そのため、多くの心理療法が、マインドフルネスを技法として取り入れ、認知療法の創始者であるBeckさんの後継者であるジュディスさんも、技法としてマインドフルネスを取り入れており、マインドフルネスが、新たな心理療法の開発にアイディアを提供しているようです。また、釈迦の方法論は、「悩み苦しみを生み出さない認知のあり方を確立する」方法でしたので、脳の認知や意思決定のあり方に改変をもたらし、悩み苦しみやつらさを生み出さないものにする、という状態を最終到達点に置きました。釈迦は、脳科学者ではありませんから、脳の認知方法や意思決定の方法が改変されることについて、今日のような科学的な根拠を示してはいませんが、心理療法たとえば、「Beckの認知モデル」などを下敷きにして考察すると、釈迦が認識し、人々にもたらすことを目指した「脳の認知方法や意思決定の方法が改変される」ということがおおよそ理解できます。高度なリラクセーション状態は、釈迦の方法論のなかでは、「脳の認知や意思決定のあり方に改変をもたらし、悩み苦しみやつらさを生み出さないものにする」ことの前提条件として必要なものと位置付けられる状態です。高度なリラクセーション状態を、日常的、継続的に経験することも価値があるといえますが、高度なリラクセーション状態に到達すれば、さらにその先の状態である「脳の認知や意思決定のあり方に改変をもたらし、悩み苦しみやつらさを生み出さないものにする状態」に到達することを選択することもできます。例えば、強い欲求(欠乏感)とその不充足、怒り、不安、強い嫌悪や恐怖(=感情)などは、心に大きな振れ幅(大きな波を想像してください)をもたらし、体と心に負担をかけます。厄介なのは、強い欲求(欠乏感)とその不充足、怒り、不安、強い嫌悪や恐怖(=感情)は、不快なので、それらを避けたいという気持ちが働いて、自分自身で十分に把握できていないことです。そして、「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ」という、高度なリラクセーション状態を経験することによって、自分が体と心に負担をかけていたことを、初めて体感的に理解することができます。このことは、川の流量が多いとき川底の石は見えませんが、流量が減ると川底に横たわる石が見えるようになる、というイメージで理解していただくとよいでしょう。言い換えれば、「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ」という、高度なリラクセーション状態を体験していない人は、自分が体と心に負担をかける脳の使い方、体の使いかたをしていることを自覚できていない、とも言えます。大きな振れ幅は、エネルギーを大量に消費し、脳の活用できるリソースの多くを感情の生成もしくは抑制に使うことになります。感情に基づいた行動を行うと、脳はさらに大量の感情を生成する傾向を助長します。このメカニズムを釈迦は、潜在的な傾向を助長する、という意味で「随眠」と説明しました。脳のリソースを大量に、自分の感情にフォーカスすることに使っているのですから、自分の感情以外のことに意識を向ける脳のリソースが不足して、状況を的確に把握し判断することができず、うまくゆかない行動をとってしまう傾向が強まります。音楽やドラマも感情を刺激しますから、比較的大きな振れ幅をもたらすでしょうが、音楽やドラマと分かっているので、視聴が終了してしばらくたてば振れ幅は基に戻るでしょう。喜びは、強い欲求とその不充足、怒り、不安、強い嫌悪や恐怖より、はるかに小さな振れ幅を心にもたらします。安らぎは、喜びよりも、おだやかな振れ幅を心にもたらします。小さな振れ幅、おだやかな振れ幅は、エネルギーも脳のリソースもあまり使いません。エネルギーを大量に使わないので、喜びと安らぎは、疲れた脳を休める「休息」になります。脳のリソースを大量に使わないので、脳のリソースの多くを、今現在のあなたの体と心を観察し考察することに活用することができます。そのことを釈迦は「身体が安らいで幸せな人の心は集中する。」(治意経)と説明しています。ヴィパッサナー瞑想は、多くの脳のリソースを、今現在のあなたの体と心の感覚を観察し、心の状態を観察し、感じ取ったことを、リラクセーション状態を高めることに活用します。そして、今現在のあなたの体と心の感覚を観察し、心の状態を観察する(感じ取る)訓練をつづけ、集中できるようになることで、自分の感情にとらわれることが抑制されるようになります。生まれてくる感情を、意思で抑制するのではありません。瞑想対象に集中することは、あれこれ心に浮かんでくる想いに反応したい=考えたい、想像したい、という欲求を手放すことで可能になりますから、自分の感情の生成を抑制することになります。感情の生成が抑制されれば、合理的に考え行動できる可能性が高まります。釈迦は念身経のなかで、身体に向けた注意を養成すると、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が克服されると説いています。自分の心の動きの観察が進み、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気は、自分の心の中に生成されるのだ、ということが観察できれば、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気の克服はより強固なものになるでしょう。好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が克服されると、大きなメリットが生まれます。大きなメリットとは、『厄介なのは、強い欲求(欠乏感)とその不充足、怒り、不安、強い嫌悪や恐怖(=感情)は、不快なので、それらを避けたいという気持ちが働いて、自分自身で十分に把握できていないことです。』という状態を脱して、自分が嫌悪感や恐れていることであっても、第三者的な視点から観ることができるようになることです。つまり自分について「ありのままの自分を知る」ことができるようになります。自分の外の出来事が自分を苦しめていると認識しているのであれば、苦しみを無くすには外部の出来事をなくす必要があります。外部の出来事に刺激されて自分の中に苦しみが生まれるのだと認識すれば、それは「自分で自分の心の中に苦しみを生み出している」ことになりますから、外部の出来事に刺激されて自分の心が苦しみを生み出しているプロセスを徹底的に観察すれば、どのようにして苦しみが生まれるのか理解でき、どのようにして苦しみが生まれるのか理解できれば、苦しみを無くす方法はおのずと明らかになります。このプロセスが「ありのままの自分を知る」ということの具体的な内容であり、釈迦の方法論の基礎かつ中核的なものです。心に生まれる大きな振幅をしずめ、小さな振れ幅、おだやかな振れ幅が実現され、脳に休息状態がもたらされる一方で、集中状態が保たれた状態が、高度なリラクセーション状態だと考え下さい。高度なリラクセーション状態は、いったん経験すると体と脳が覚えます。体も脳も楽な方が良いですから、楽な状態、つまり高度なリラクセーション状態を実現しようとします。そうすると高度なリラクセーション状態に入るためのリードタイムはどんどん短縮されてゆきます。このことは極めて重要であると考えています。何故ならば、人は「体も脳も楽な方が良いですから、楽な状態」を目指します。高度なリラクセーション状態を体験する前は、自分の体や心のはたらき、体や心に起こっていることを「サボって」自覚しないようにして、「楽な状態」を維持しています。『自分の体や心のはたらき、体や心に起こっていることを「サボって」自覚しないようにして、「楽な状態」を維持して』いるのですから、自分の体と心のはたらきから、悩み苦しみつらさを生み出していることにも気付くこともできません。それゆえ、釈迦の方法論、ヴィパッサナー瞑想は、自分の体と心のはたらきから、悩み苦しみつらさを生み出していることに気付き、自覚する能力を養うために、四念処と呼ばれる、体へ注意を向ける訓練、体と心に生まれる感受へ注意を向ける訓練、心の状態へ注意を向ける訓練をします。マインドフルネスは、釈迦の認知論を省略して、「注意を向ける訓練」にフォーカスしたものとも言えます。「楽な状態」を実現しようとする方向性をきちんと管理する、と言い換えられ、方向性をきちんと管理すると現れるのが「四聖諦」であると考えています。それゆえ、私は、「四聖諦」を「教えとして保持すること」ではなく、釈迦が教示したヴィパッサナー瞑想により実現することができる「好ましい体と心のはたらき」、言い換えれば、体と心にビルトインされた「楽な状態」を実現しようとする性向を好ましい方向に発現させたもの、ととらえています。ヴィパッサナー瞑想を継続し、集中状態が保たれ、高度なリラクセーション状態が実現してもよいはずなのに、何か心がざわざわ、ソワソワして落ち着かない、と感じるならば、それは心の深層にある、例えば交流分でいえば早期決断や禁止令、認知行動療法(Beckの認知モデル)でいえば非機能的な中核信念、スキーマ療法でいえば中核的感情欲求の不充足からもたらされる早期不適合スキーマなどとされるものであるのかもしれません。このような場合でも、ヴィパッサナー瞑想を続けてください。好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が克服されていれば、仏教で、「尋」と「伺」と言われた観察眼考察眼が現れてきます。瞑想中に心に浮かんだこと、心に引っ掛かりを感じたことに、注意を集中して見てみよう(=観察考察してみよう)という意思を作ってください。さらにそれを「観察」してください。そうすると、ああそういうことか、あの時自分はこういう想いを感じ、自分を納得させるために、こう自分に言い聞かせた、それが今でも心の中にあるんだ、それが今のつらさやイライラになっているんだ、と、すぅーっと理解できます、これが「考察」です。「あの時自分はこういう想いを感じ、自分を納得させるために、こう自分に言い聞かせた、それが今でも心の中にあるんだ」というものが、現代の心理療法で説明するならば、交流分析の早期決断や禁止令、認知行動療法でいえば非機能的な中核信念、スキーマ療法でいえば中核的感情欲求の不充足からもたらされる早期不適合スキーマなどに該当するでしょう。ここまで観察考察できれば、悩み苦しみを無くす方法はおのずとあなたに開示されます。このように苦悩の本質(瞑想中に心に浮かんだこと、心に引っ掛かりを感じたこと)を知り、苦悩の本質を知ることで原因にたどり着き、その原因を無くして苦悩を無くす、というプロセスが、釈迦の中核的な方法論である「四聖諦」であると考えています。仏教の説明では、四聖諦を、苦しみが生まれるのは、生存への渇望があることに原因があり、生存への渇望を無くせば、苦しみはなくなる、生存への渇望を無くし、苦しみを無くす道を実践せよ、ということと説明することもあるようです。仮に、四聖諦の実践が、苦しみが生まれるのは、生存への渇望があることに原因があり、生存への渇望を無くせば、苦しみはなくなる、生存への渇望を無くし、苦しみを無くす道を実践せよ、というものであったとしても、その方法論を学習し修習することによって、最終的には、一人一人が感じる悩み苦しみつらさを解消するための方法論へと行き着く、というものと理解しています。例えば、非機能的な中核信念があることによって、外部からの刺激に触発されて媒介信念もしくは推論の誤りを通じて、非機能的な自動思考が生起して、気分の低下を招く、ということを、四聖諦の方法論によって観察、考察するならば、気分の低下という苦しみが発生したことを認識することから開始し、気分の低下という苦しみを観察してみた、すると気分の低下という苦しみをもたらした原因が、気分の低下に先行して自分が無意識のうちに生起させた非機能的な自動思考が「原因」であると知った、非機能的な自動思考を修正したら気分の低下が改善したので、非機能的な自動思考を修正することが気分の低下という苦しみを無くす方法であるということに気付いた、というプロセスになります。この例は、これが四聖諦なのかと、私が体験した出来事が、後にベックの認知モデル(非機能的な自動思考の修正によって気分の低下が改善される)によっても説明できることを知った、という私の実体験です。非機能的な自動思考の生成を苦しみであるとみるならば、非機能的な自動思考という苦しみを生みだす原因が、自分が過去の生育暦において経験した「特定の出来事」から味わった苦悩や苦痛の感情と、その解釈のために自らが(苦悩や苦痛の感情の原因を解消する力のない子供であることを前提に)形成した非機能的な中核信念に原因があるという理解とともに、「特定の出来事」が想起され、それによって非機能的な自動思考の生成を抑えることに道を開く人間の認知機能、言い換えれば、悩み苦しみつらさを、包み隠さず正面から見つめることによって、この悩み苦しみつらさを無くしたいという、「楽な状態」を実現しようとする「体と心のはたらき」が「四聖諦」である、ととらえてもいいと思います。四聖諦は、釈迦が、「人の認知形成のしくみ」を観察して導きだした、きわめて汎用性の高い「心理的な苦痛の根源の探索方法」であると考えてよいでしょう。ちなみに、小さな振れ幅、おだやかな振れ幅であっても、振れ幅ですから、心の振れ幅を無くすためには、喜びを手放し、安らぎを手放す必要があります。喜びを手放し、安らぎを手放すと、もうこれ以上手放すものがない状態、完全な平静である第四禅へ至るとされています。私たちはそこまで行く必要はないと思っていますし、そこまで行くことが良いことと言える環境にも生きていないと思います。楽しみたい喜びを得たいという欲望を持ち、恋愛したいという欲望を持ち、家庭を持ち労働し、より稼ぎたい豊かになりたいという欲望を持ち、消費したいという欲望を持ち、社会はその欲望を満たすことで成り立っているのですから、欲望を滅尽してしまえば、社会的には不都合が発生します。高度なリラクセーション状態を実現するためには、今の自分の心の振れ幅を知る必要があります。今の自分の心の振れ幅を知るためには、集中力と体と心の観察力を養うことが必要です。ヴィパッサナー瞑想は、集中力と体と心の観察力を養います。「呼吸の瞑想」は、呼吸を意識して行う訓練です。呼吸を意識して行う訓練をして、呼吸を意識しながら活動できるようになると、心を落ち着ける(心の振れ幅を小さくする)呼吸ができるようになり、それに伴い脳のリソースに余裕が生まれますから、集中力、観察力が増します。当然、婚活にも仕事にも私生活でもメリットが生まれます。「呼吸の瞑想」の具体的な行い方の説明の前に、ヴィパッサナー瞑想の前提となる釈迦の認知論について、説明を行います。ヴィパッサナー瞑想は、釈迦が到達した認知論に基づいて設計され、釈迦の到達した認知論を確認する(=証得する)ことで進展してゆく(=脳の機能が改変される)ように設計されていると考えています。このような進め方は、Beckの認知療法(現在では認知行動療法)が、認知行動療法の考え方や進め方を、心理教育として実施して、認知行動療法の考え方や進め方を理解してもらってから、セラピーを開始する、という方法論と基本期には同じです。※マインドフルネスと脳の機能の変化や脳の休息については、久賀谷亮先生の「世界のエリートがやっている最高の休息法」ダイヤモンド社をご参照ください。只管打坐(ひたらすら座禅する)の影響が大きいマインドフルネスストレス低減法(MBSR)、MBSRのメソッドを活用したマインドフルネス認知療法とは異なり、ヴィパッサナー瞑想は、釈迦の到達した認知論を確認し、証得することを通じて、脳の認知機能に改変をもたらし、それにより苦悩からの解放をもたらすという実践方法ですので、釈迦の到達した認知論を学びながら実践するのが本筋です。ヴィパッサナー瞑想は、テーラワーダ(釈迦在世時に成立した仏教教団のひとつの上座部)仏教の、悟りに至る(釈迦が至ったのと同じ境地、認知)ための修行法として実践されてきたものですが、私たちにも実践できますし、実践することで、釈迦が至った境地、状態に至ることはできないとしても、釈迦のが教示した、悩み苦しみやつらさを無くす効果を享受することは十分に可能です。テーラワーダは、(テーラワーダ)仏教は、釈迦の説いた方法を実践すれば、釈迦が至ったのと同じ境地、認知に至ることでが出来る、これによって釈迦の教えを誰でも証明できるのだから、証明できないことを信じなさい、という「宗教」ではない、という主張をされることもあるようです。このような主張が、マインドフルネスが心理療法と結びついたことで、神経科学によってマインドフルネスの脳に及ぼす効果の研究が加速し、マインドフルネスがブームともいえるような状況を呈していることにつながってもいるようです(エヴァン・トンプソン「仏教は科学なのか」Evolving刊)。マインドフルネスの科学的研究については、前記 久賀谷亮先生の「世界のエリートがやっている最高の休息法」をご参照ください。釈迦の到達した認知論とはどのようなものなのか、どのようにして釈迦が到達した認知論に私たちが到達できるのか、ということも阿含経に説かれています。『釈迦の到達した認知論を確認し、証得することを通じて、脳の認知機能に改変をもたらし、それにより苦悩からの解放をもたらすという実践方法』の中間地点に「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ」という高度なリラクセーション状態があります。「阿含経」の釈迦の説法を引用して説明しますので、引用する阿含経を記載しておきます。大念処経 : 春秋社 原始仏典第二巻所収治意経 : 春秋社 原始仏典第七巻所収念身経 : 春秋社 原始仏典第七巻所収六六経 : 春秋社 原始仏典第七巻所収大六処経 : 春秋社 原始仏典第七巻所収聖道経 : 春秋社 原始仏典第七巻所収蛇喩経 : 春秋社 原始仏典第四巻所収等誦経 : 春秋社 原始仏典第三巻所収大般涅槃経 : 春秋社 原始仏典第二巻所収火ヴァッチャ経 : 春秋社 原始仏典第四巻所収三明ヴァッチャ経 : 春秋社 原始仏典第四巻所収双考経 : 春秋社 原始仏典第四巻所収マハーサッチャカ経: 春秋社 原始仏典第四巻所収布咜波〇経 : 春秋社 原始仏典第四一巻所収(〇は木偏に婁)念処経 : 春秋社 原始仏典第四巻所収考想生止経 : 春秋社 原始仏典第四巻所収私は仏教徒ではありませんので、仏教の布教の意図はありません。仏教徒ではありませんから、釈迦入滅後に発展した仏教の教学にこだわることなく、自己の瞑想経験と心理療法のモデルや方法論などを手掛かりにして阿含経を解釈することによって、仏教の修行法としてではなく、釈迦が到達した、悩み苦しみつらさを無くす方法を理解できると思っています。大乗仏教の教学もしくは、釈迦入滅後に発展した部派仏教の教学で、大乗仏教が生まれる前、部派仏教の教学が発展する前の、釈迦の方法論を解釈したのでは、釈迦の方法論は読み解けないように思います。ただし、釈迦が教えを説いた時代は、現在私たちが生きている時代とは異なりますから、釈迦の教示がなされる前提となる「釈迦が教えを説いた時代の特性」については注意を払わなくてはならないでしょう。釈迦のおこなった教示は、後世におこなわれた仏教の教学化、仏教の「概念化」とは性質が異なるものであるように感じています。釈迦は、瞑想による観察考察によってもたらされる経験的合理的な判断を超越した、作り出された概念である「見解」への捕らわれを回避するため、注意深く概念化をさけて平易に、具体的に、人の体と心のはたらきと認知形成のしくみを語ったのではないかと感じています。ヴィパッサナー瞑想を実践している弟子たちに向けて、(あくまでも、悩み苦しみつらさを無くすのは弟子たちですから)瞑想を進展させ弟子たちが進みゆく方向について、釈迦の体験経験に基づいた教示を行ったものですから、釈迦入滅後の教学は釈迦の教示には含まれまず、阿含経に記載されていることから読み解くことが必要だと考えています。阿含経は、出家僧が聞いた、釈迦の説法や釈迦と出家僧との対話などを、口承で保持されたのちに文字化されてたものであるため、「比丘よ」「修行僧は」「在家的な記憶と思考」などの表現があります。それらの表現はあまり気にしないでください。阿含経は、出家僧がその伝持を担ってきたため、出家することや出家者を賞賛する傾向、在家者は出家者に劣後するともとられかねない、出家者至上主義ともとれるような傾向があるようです。ただし、釈迦は、全ての人が出家するわけにもゆきませんから、在家者を軽視していたということではないようです。出家者の方々が釈迦の教えを守り伝えてきたことによって、出家者の方々が自らの立場を強固にするための仏教教学を構築してきたのであれば、仏教教学に拘束される必要はないと考えています。自らの立場を強固にするための仏教教学を構築し、自らが解脱することに専念する出家者の在り様を、維摩経(ヴィマラキールティの教え、大乗仏典)は揶揄したのかもしれません。しかしながら、阿含経が、釈迦が説いたことを完全に伝えてはいないとしても、また釈迦入滅後に発展した部派仏教の教学の影響を受けているとしても、釈迦の認知論、方法論は阿含経に依って学ぶしかありません。釈迦は、「このようにして、学ぶことによって、ある心理作用が生じ、他のある心理作用が消滅するのです。これが学ぶことなのです。」と説いてます。(布咜波〇経 〇は木偏に婁)上記、春秋社版は、お経ごとに訳者が異なり、訳者間で用語の統一を行っていません。それゆえ訳者によって、同じことがらでも訳語が異なります。担当した訳者がパーリ語原典の内容をどのように解釈しているのか、という観点から多角的に考えることができる、というメリットがあります。高度なリラクセーション状態の作り方(3)URL https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/182669/
お見合や交際のご報告を拝見すると、ストレスを抱えていらしゃったり、少し元気をなくしていらっしゃるようだ、と感じることが多々あります。報告で拝見する会話の内容からもうかがえますし、お見合いやデート中の対応や対処などからも推測されます。私は、人はもともとストレスを作り出すように育てられている、と思っています。なぜならば、人は成長とともに快、不快の情緒を分化させ、分化させた快、不快の情緒を幼少期から刺激されて育つからです。社会的に好ましいとされる行動は、快の感情を刺激することによって好ましい行動を取るように考え方や行動をしつけれられます。社会的に好ましくないとされる行動は、叱られたり懲罰を与えるなど不快な感情を刺激し、好ましくない行動をとらないように、考え方や行動をしつけれられます。好ましくないとされる行動が、叱ったり懲罰を与えたりする側に怒りを生じさせ、その怒りを好ましくない行動をとった本人にぶつけることもあるでしょう。当然叱られ懲罰を受けた側はその怒りを感知します。その怒りは恐怖を生むかもしれません。これらの結果、人は、常に出来事に対して情緒(快・不快)を発生させ、その情緒(快・不快)を参照して(影響されて)考え、判断し行動するという性向を養うことになります。このような性向が養われると、快を得ること(=脳の報酬系が働き報酬を得ること)は良いことという性向が支配的になり、人は快を得るために、脳の報酬系から報酬を得ようとして欲求=不充足を作り出し、その欲求=不充足を満たすことで脳から報酬(快感物質)を得ようとします。欲求=不充足がその人の行動によって充足できるものであれば、問題はありませんが、なかなかうまくゆかないと、人は様々に考える(想像する)能力がありますから、いろいろなことを考えます。自分の欲求をめぐって、うまくいく、うまくいかない等と、いろいろと考えることは、感情を激しく刺激します。結果として、人は、感情を酷使し心理的身体的に疲弊しやすい心の使い方をしている、と考えてよいようです。K.M.B.ブリッジェスさんの乳幼児の情緒の発達(情緒の分化)による理論によると、新生児には興奮しかなく、生後3か月位から快と不快の情緒が分化し、快と不快から私たちが感じる情緒に分化してゆくそうですから、感情への刺激は、情緒の分化を促すとともに、分化された情緒を利用して行う社会に適合するための訓練ともとらえられます。新生児の情緒は興奮しかなく、生後3か月位から快と不快の情緒が分化し、空腹や満腹などの刺激から次第に親の顔などの人的刺激にも反応するようになるそうです。一般に、不快の感情の方が早く分化するするそうです。情緒はだいたい2歳ころまでに著しい分化を遂げ、恐れ、嫌悪、怒り、嫉妬、快、不快、喜びなど基本的な情緒が出そろい、さらに分化を重ねて、およそ5歳頃に成人に見られる情緒が一通り出そろうと言われているそうです(創元社 杉田峰康先生「新しい交流分析の実際」より)。養育者や周囲の大人が好ましいと考える子どもの発言や行動には、褒めることや何か褒美をあげるなどして、子どもの発言や行動を是認し、子どもに快を感じさせることにより、養育者や周囲の大人が好ましいと考える子どもの発言や行動を促進させるでしょう。逆に、養育者や周囲の大人が好ましくないと考える子どもの発言や行動には、叱ったり懲罰を与えたりすることによって、子どもに不快感や恐怖を感じさせることで、養育者や周囲の大人が好ましくないと考える子どもの発言や行動を制限しようとするでしょう。快の刺激を与えて行動を促進し、不快な刺激を与えて行動を制止されるのですから、快を求めて行動し、不快を避けて行動するようになるのは当然といえるでしょう。叱られたり懲罰を受けたときに、子どもは拒絶感や自分という存在が承認されていないという感覚を持つかもしれません。親や教師はあなたの行動を好ましくないものとして叱り懲罰を与えたのかもしれませんが、子どもがどのように感じるかということは、親も教師もコントロールできませんから、拒絶感や自分という存在が承認されていないという感覚を持つことは十分にあり得ます。もし、拒絶感や自分という存在が承認されていないという強烈な感覚を体験した場合には、その体験とその時にもった感情は記憶され、成人後も本人が意識しないままその感情は再現されその人を苦しめるでしょう。早期不適合スキーマです。早期不適合スキーマがある場合には、「本人が意識しないままその感情は再現されその人を苦しめる」ことから逃れるために、何かべつのことを求め(欲求を作り出し)それに執着し、依存という状態を作り出すかもしれません。依存とまではゆかずとも、なんとなく感じる不安や空しさから逃れるために、何かに没頭しようとする、ということは比較的多くの方が体験することかもしれません。なんとなく感じる不安や空しさから逃れるために、何かに没頭しようとする行為は、没頭するという欲求とその充足によって、脳の報酬系からの報酬を得るための、人間の工夫であるかもしれません。不快から逃れるために一生懸命快を作り出そうとして、快の獲得に失敗して不快になるのであれば、感情の奴隷とも例えられる状態と言ってもいいかもしれません。マインドフルネス認知療法原著第二版(北大路書房)には、このような記載があります。「暗黙の情動の手がかりについての研究[85]によって私たちはほとんどの時間で、快適か、不快か、どちらでもないかに基づいて、入ってきた刺激に反応していることがわかっている。これは、そこを境にして心が物事を変えたいと思い始めたり、思考の流れに迷い込んだり、反すうの引き金となるポイントであり(中略)このような瞬間にマインドフルな気付きを活用すれば、などの余計な思考を付け加えずに、瞬間をあるがままにただ経験し、評価することができる。」[85]FriedmanRS,FosterJ.Implicitaffectivecuesandattentionaltuning:Anintergrativereview.PsychologicalBulletin2010;136:875-893人の心に何気なく起こる「ずっと続けばいいと願う、あるいはなぜもっと頻繁に起こらないのか知りたい」と感じること(釈迦の認知論では「想」が生じること)について釈迦は次のように説いています。「〈苦しみのすぐれた真理とはなにか。それは(中略)歓喜と愛欲をともない、ここかしこで歓楽するような愛執である。」「心の対象への愛執はこの世の中における、好ましいもの、楽しいものである。そこから愛執が生じ、そこで〔愛執〕が留まっているのである。」(大念処経 春秋社 原始仏典第二巻所収)うつの「反すう」は「そこで〔愛執〕が留まっている」ことの典型と言えるように思います。自分を苦しめる「反すう」であっても、自らが十分に把握できていない自分を脅かす不安から逃れるために、「反すう」が「心の対象への愛執」になってしまっているからこそ、「反すう」が止められないのでしょう。そのように考えると、「自らが十分に把握できていない自分を脅かす不安」を生み出すものとしてのスキーマに注目し、スキーマへの働きかけを行うスキーマ療法が生まれて来たことも必然であるように思います。六六経で、釈迦は愛執への対処の在り方を次のように説いてます。「思考されるものを『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と)みなすことである。思考的認識を『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と)みなすことである。」(六六経 春秋社 原始仏典第七巻所収)マインドフルネス認知療法では表現は異なりますが「思考は事実ではない」という心理的態度の習得を目指します。また、六六経において、釈迦は、快適(楽)、不快(苦)、どちらでもない(不苦不楽)、という三種類の感受を説いて、それらに執着して行為することから苦悩の原因が蓄積すると説いています。「感受には、楽の感受・苦の感受・苦でも楽でもない感受がある。楽の感受を受けているときに、人が、喜び、歓喜し、それに執着し続けるなら、かれのなかに執着する性向(貪随眠)が潜在する。また、苦の感受を受けているときに、人が、憂い、悲しみ、嘆き、胸をうって泣き、迷妄におちいるなら、かれのなかに怒りうらむ性向(瞋恚随眠)が潜在する。また、苦でも楽でもない感受を受けているときに、人が、その感受の生起と滅没、その感受の楽しさと危険性、その感受からの遠離、それらをあるがままに知ることがないなら、かれのなかに愚かさという性向(無明随眠)が潜在する。」(前記六六経)釈迦が説く「苦でも楽でもない感受」をブリッジェスさんのいう「興奮」、FriedmanRS,FosterJ.さんが言う「どちらでもない」ととらえ、それを、我を忘れて何かに没頭し自分が何をしているか知らない状態(ヴィパッサナー瞑想により気付き滅されるべき状態)、と考えると「無明随眠」の理解が進みます。マインドフルネス認知療法原著第二版の心のはたらきの記述と、六六経で釈迦が説くところの心のはたらきは、かなりの部分相似です。そもそも「マインドフルネス」が、阿含経の中で釈迦が瞑想について説いた中の「sati」(注意の集中とそれによってもたらされる気付き)に当てた言葉なので、マインドフルネスの効果もしくはマインドフルネスによって到達するところが、釈迦の説いたところに類似するのは当然と言えば当然です。人は快適なものを無意識のうちにもとめ、不快なものを嫌い回避したいという性向を刺激され(そのようにしつけられて)育てられているわけですから、快適だと自分感じ自分が求めていることを得られず、得られる見込みもないと考えて落ち込んだり、そのことを言葉(認知行動療法の非機能的な自動思考など)にしたり、不快で嫌いなものから避けられないと考えて、そのような考え方を否定できる材料が見つけ得ることができず、自ら環境を変える力がないと考え、嘆くならば、怒りや絶望感を強化して、そして時に終局感を味合うことになります。そしてこれらの過程に対して、多くの場合人は無自覚です。無自覚ゆえに苦悩に対処できず、ますます無自覚に苦悩を増幅させてしまう、ということになります。人は「無自覚ゆえに苦悩に対処できず、ますます無自覚に苦悩を増幅させてしまう」と考えるならば、2016年発行の世界精神保健調査(WorldMentalHealthSurvey;WMHS)において、日本の精神疾患の生涯有病率が20.3%と報告されていること(EpidemiolPsychiatrSci2016;25:217-229)は、もっともなことだと納得がゆきます。釈迦の方法論は、簡略化していえば、注意の集中により観察力を高め、自己の体に生じた感覚、心の状態を観る集中力を観察力を養いつつ、自己の体に生じた感覚、心の状態を観察し、釈迦の説いた「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を自らの心を対象として実証し自覚し、心に生じる欲求と苦悩を知り、苦悩を無くすことを知り、苦悩を無くすことを実践する、というものです。認知療法やスキーマ療法は、臨床研究から認知モデルやスキーマ概念によって生み出された認知モデルやスキーマという概念によって、人の心が苦悩を生み出すプロセスと原因を説明し、認知やスキーマの修正に取り組みます。釈迦の方法論でもスキーマは対象とされているように思います。大念処経に「五つの蓋についての事象の観察」という説法があります。瞑想の進展を妨げ智慧の発現に「蓋」をするものがあり、それらを取り除けば瞑想が進み智慧が発現するという考えから、貪り、瞋恚(怒り)、掉挙悪作、惛沈睡眠、疑い、を「五つの蓋」「五蓋(ごがい)」と言います。五蓋について詳しい説明はここでは致しませんが、例えば「瞋恚(怒り)」の観察について釈迦は次のように説いています。「あるいは内に怒りがあるときに、『わたしの内には怒りがある』と知り、内に怒りがないときに、『わたしの内には怒りがない』と知るのである。また、いまだ生じていない怒りが生じるままにそれを知り、すでに生じている怒りが滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた怒りが未来に生じることがないと知るのである。」(大念処経 春秋社 原始仏典第二巻所収)この方法論は、瞋恚(怒り)の発生を、「根底にあるスキーマ」 ⇒ 「外界からの刺激によってスキーマが活性化」 ⇒ 「スキーマが非機能的な自動思考を誘発」 ⇒ 「非機能的な自動思考から怒りが生じる」というプロセスを自覚することによって、スキーマを修正し、非機能的な自動思考を修正もしくは除去し、「すでに生じている怒りが滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた怒りが未来に生じることがないと知るのである。」という結果を招来すると説明せざるを得ません。当然、釈迦の説いた瞋恚(怒り)の発生と瞋恚(怒り)を滅ぼすプロセス、方法は、「色受想行識」の五蘊や「止・観」のはたらきや「四正勤」という方法論によって説明できます。釈迦の方法論も認知療法もスキーマ療法も、対象は苦悩する体と心の救済であり、釈迦は注意の集中と体と心の観察で苦悩の発生源にたどり着き、認知療法やスキーマ療法は臨床研究から認知モデルやスキーマ概念によって苦悩の発生を説明しますから、方法は違っても対象とするものは苦悩の発生と苦悩からの救済と言えますから、釈迦の方法論も認知療法もスキーマ療法も同じものとは言えないものの、行き着く先はは同じところを目指している、とはいってもよいでしょう。人は快不快の情緒を刺激されて育てられ、それゆえ快を求めて欲求を生みだし、欲求が充足されなければ苦悩が生まれ、不快なものから逃れられないと考えればこれまた苦悩が生まれますから、そもそもストレス感じるように育てられている、と考えてよさそうです。人は快不快の情緒を刺激されて育てられ、それゆえ快を求めて欲求を生みだし、欲求が充足できなければ苦悩が生まれ、不快なものから逃れられないと考えれればこれまた苦悩が生まれますから、そもそも人はストレスを感じる、苦悩するように育てられているのだと仮定すると、釈迦の説く悟りや解脱の意味するところがおぼろげながら理解できそうです。それゆえ、一時的なリラクセーション体験では効果は限定的ということになり、人がストレスを感じる(生む)メカニズムを知りそれを抑制もしくは弱体化する「高度なリラクセーション」であれば、ストレス対処についての持続的な効果が認められるだろう、ということになります。ヴィパッサナー瞑想は、『感情を酷使し心理的身体的に疲弊しやすい心の使い方をしている』在り方を改変する、と考えてもらってよいと思います。ヴィパッサナー瞑想によって、4-1 体の動きの観察(注意の集中)を行い、4-2 釈迦の説いた法=「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を通して自分の体の感受の観察、自分の心の観察を行うと、4-3 体に感受(楽、苦、不苦不楽の3つ)が生じてているとき、思考・概念である「想」(≒認知行動療法の自動思考)が生まれており、「想」が「行」≒意図・衝動・意欲が起こっていることが観察できるようになり、4-4 「想」と「行」を、瞑想中において止滅することができると「軽安覚支」の状態に至ることができます。4-5 軽安覚支は、『喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ』(春秋社 原始仏典第7巻 治意経」)と説明されている「高度なリラクセーション状」です。仏典からの引用は、あくまでもストレス対処のための、瞑想による「高度なリラクセーション状態」の実現が目的ですので、仏教を推奨する意図、修行を推奨する意図はありませんのでご安心ください。「高度なリラクセーション状態」と言っているのは、下記の通り注意集中により、体の状態をモニタリングし、モニタリングした状況を基にリラクゼーション状態を意図的に作出することができるからです。4-6 集中力と注意力をともなった脳の覚醒状態のもとで実現される『喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ』状態であるから。4-7 『喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ』状態になると、思考が生じること(想)によって感情が生起(行)し、感情の生起によって、体に微細な緊張が生じる(受)ことを覚知できるようになりますから、日常的生活で緊張状態を敏感に感じ取り、緊張状態を意識的に緩和することに道を開くことになります。4-8 「軽安覚支」に至ると、 『身体が安らいで幸せな人の心は集中する。』(定覚支、同上治意経)という次のステージへ移行することができ、精神集中により「尋」と「伺」という、ヴィパッサナー瞑想特有の観察と考察があらわれます。4-9 「尋」と「伺」があらわれると、色、受、想、行、識によって自分自身に生起する悩み苦しみのプロセス、原因と誘因を認知することができ、それへの対処方法が明らかになります。この状態に至ると、高度なリラクセーション状態のなかで、自らが自らの心を診断し、自らのもつ非機能的な中核信念や早期不適合スキーマなどが、心が平静になることを妨げている原因(欲求=欠乏感・飢餓感)であることが認識できます。4-10 認識できたものは除去、修正することができます。除去・修正は瞑想の原理に基づきますが、別のステージになります。4-11 ただし、上記のプロセスは、一時的な苦脳の深まりや、身体への負担の増加(体調の悪化等)を招くことがあります。癒しを感じ続けられるとか苦悩がどんどんなくなる、といったイメージは抱かない方が良いでしょう。苦悩を無くすには苦悩の生起のプロセス、苦悩の原因と誘因を知ってそれらを無くす必要があります。苦悩が深ければ深ければ深いほど、苦悩の生起のプロセス、苦悩の原因と誘因を知ることは、心にも体にも一時的な負担の増加をもたらします。4-12 その観点からも「軽安覚支」が重要であるように思います。軽安覚支は、自らの苦悩の生起のプロセス、苦悩の原因と誘因を知ることによっても、喜びと安らぎによって「心が挫けない」状態と理解してください。4-13 自らのもつ非機能的な中核信念や早期不適合スキーマが修正もしくは除去できれば、外的な刺激によって非機能的な中核信念や早期不適合スキーマが刺激され、自らを苦しめる思考と感情を生成することがなくなり、身体と心の喜びと安らぎが妨げられることもなくなります。4-14 上記4-8および4-9の状態は、「高度なリラクセーション状態」から一歩進んだ「自己治癒」「セルフ・ヒーリング」のステージであると言えるでしょう。ちなみに治意経は、出入息観、つまりマインドフルネスでも取り組む「呼吸の瞑想」の方法について説いたものです。「釈迦入滅後に発展した仏教の教学」から阿含経を読むのではなく、心理療法の方法論を念頭におきながら阿含経を読むならば、ヴィパッサナー瞑想は、「自己治癒」の方法論であると解釈できます。認知行動療法やその発展形であるスキーマ療法等の方法論などを念頭に阿含経を読むと、ヴィパッサナー瞑想そのものが、これら心理療法が対象とする、生育過程もしくは過去の経験により形成された感情や概念的理解が、記憶される保持されて続けることにより、現在においても反復継続的にもたらされる心理的な「つらさ」を、高度なリラクセーション状態のなかで、瞑想による集中力と注意力をもって自らが把握し、心理的な困難をもたらす原因を除去(遠離というようです)することで癒してゆく方法論であるとの理解が成り立ちます。釈迦が阿含経で説いた、一般的に「法」と呼称される内容は、釈迦が到達した、「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」であるように思われます。ヴィパッサナー瞑想を「自己治癒の方法≒心理療法」ととらえると、釈迦が説いたとされる「法」は、心理療法に先立って行われる「心理教育」に該当します。セラピスト(心理療法者)を「援助職」ということがあります。セラピー(心理療法)に主体的に取り組むのはクライエントであり、セラピストは、あくまでもクライエントの援助者(心理教育の実施もその役割の一つ)にすぎない、そのようなセラピーの態勢が実現できなければセラピーの効果は期待できない、という考えから、セラピストを援助職と呼ぶようです。阿含経の中で釈迦は以下のように説いています。「自己を洲とし、自己を依処として、他人を依処とすることなく、法を洲とし、法を依処として、他を依処とすることなく住するがよい。」(筑摩書房 増谷文雄先生 原始仏典第三巻「2病」)私には、釈迦が説かれていることは、自らの意志と法を頼りに、自らが主体となって、自らのつらさや苦しみを取り除き自らの人生を歩みなさい、ということであるように感じます。釈迦の生きた時代は、現在とは大きく異なる「神話的世界観」、言い換えれば、自らの意志によらず再生を含めた生死などが決まってゆく、という思考が支配的であったようです。そのような時代にあって、「再生への欲望を断つならば、再び生まれ変わって苦しむことは無くなる」という、自らの意志によって再生への欲望を断つことにより「神話的世界観」に依存した思考・行為・生き方を打破し、自らの主体的選択により、来世ではなく今ある生をより良いものとして生きる方法を説いた、というのが釈迦の方法論であろうと考えています。現代において釈迦の生きた時代と同様の「神話的世界観」を抱いている方は多くはないないのでしょうが、それでも「自分がなぜそのように考えるのか感じるのか」ということを突き詰めることもなく明確に自覚することもなく、過去に経験した感情や概念の記憶を(無意識的に)参照して日々考え、感感情を生成し行為している、ということは釈迦の時代とあまり変わらないように思います。そこに現代においてもヴィパッサナー瞑想に取り組む価値があるでしょうし、マインドフルネスが心理療法に取り入れられている理由があるように思います。釈迦の方法論は、自分自身と、釈迦の説いた「法」=「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を拠りどころとして行う「自己救済=自己治癒」のための方法であると考えても、あながち的外れではないと思います。「法」を「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を説明した心理教育ととらえれば、釈迦は、自らをよりどころとして、釈迦が説いた「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」=「心理教育」をよりどころとして、自己治癒に励みなさい、と言っていることになります。釈迦の方法論は、大乗仏教とは異なり、救済者としての仏は説かれておらず、自分のつらさや苦しみは自分で癒す、という立場です。ヴィパッサナー瞑想が、自己治癒の方法であるとの前提にたち、『悟りに至る七つの支分』を援用します。ただし、悟りに至ることを推奨する意図はありません。苦悩は、人の体と心を疲弊させます。体と心が疲弊した状態とは、いわゆるストレス状態です。体と心を疲弊させないためには、苦悩の生じるメカニズムを理解して、苦悩を生じなくさせる、もしくは苦悩が生じても体と心が過剰に反応しない状態を作る必要があります。マインドフルネス認知療法(MBCT)において目指す「思考は事実ではない」という心理的な態度の養成は、苦悩を生む思考が生じても、「思考は事実ではない」という心理的態度を養うことで、「体と心がネガティブな思考に反応しないようにする」ことによって、体と心を疲弊させないための取り組みであると考えています。苦悩が生じるメカニズムを知るためには、仏教で「智慧」と言われる観察眼である(と思われる)「尋」と「伺」を発現させる必要があります。人は好きなことは接近し手に入れたい(執着)、不快なこと(嫌いなこと)には怒りや恐怖を覚え回避したい(見たくない考えたくない)という性向があります。それゆえ人の思考は、通常、好きなことには執着したい、不快なこと(嫌いなこと)には怒りや恐怖を覚え回避したいという感情に大きく影響されると考えられますが、「尋」と「伺」は、これらの感情に影響されない考察であり、それゆえ物事をありのままにとらえること、いわゆる如実知見が実現すると考えられます。よりわかりやすい言い方をすると、好きなことに引きずられることなく、嫌なことを回避しようとすることなく、過去の恐怖体験におびえることなく、自らの心の在り方、思考過程を観ることができれば、それは物事をありのままに観る、ということですよね、ということになろかと思います。念身経というお経は、「身体にむけた注意」と日本語訳されていますが、「身体にむけた注意」を養成すると10の利益があると釈迦は説いており、その第一は、「好き嫌いを克服できるようになる」であり、第二の利益は「恐れと怖じ気を克服できるるようになる」です。ちなみに、10の利益の第三番目に挙げられている、「身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえられるようになる」は、J.カバットジンさんが、慢性疼痛患者に対して、マインドフルネスストレス低減法(MBSR)により、現代において提供している利益です。4番目になって「現世で気持ちよく過ごすことのできる、雑念を離れてすっきりした四つの禅定を、思うままに得、難なく得、苦労なく得られるようになる。」とされています。(春秋社 原始仏典第七巻 所収「念身経」より)「四つの禅定」を悟りとするならば、悟りの状態に至る前に、好きなことには執着したい、不快なこと(嫌いなこと)には怒りや恐怖を覚え回避したいという性向を無くすることができて、あなたはより自由になることができます、さらに瞑想を重ねてゆけば4つの禅定に自由に出入りできるようにだってなりますよ、ということになります。『悟りに至る七つの支分』に基づいてヴィパッサナー瞑想を実践することにより、悟りに至らずとも、自己治癒のためのツールである「尋」と「伺」を発現させることできると考えてよいと思います。軽安覚支は、『悟りに至る七つの支分』、言い換えれば悟りに到達するために養うべき7つの要素(もしくは到達すべき段階)のうち、5番目の状態です。目的は、「ストレス低減のための高度なリラクセーション状態の実現」であって、悟りを目指すわけではないので、七覚支のうち6-1から6-5を行って「高度なリラクセーション状態の実現」を目指します。しかしながら、6-5『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)によって『喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ。』状態を作ることによって、『身体が安らいで幸せな人の心は集中する』こととなり、『身体が安らいで幸せな人の心は集中する』ことによって、6-6『精神集中という悟りの支分』(定覚支)に至るとされていますから、6-5『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)至った場合には、すでに養っている集中力が高まり、6-6『精神集中という悟りの支分』(定覚支)に至ることが可能になります。経験からも軽安覚支にいたると、心の状態を観ること、集中力を意図的に高める事が可能になり、集中力を高めることによって「尋」と「伺」を起動させることが可能になるようです。6-1 『注意力という悟りの支分』(念覚支)6-2 『物事の解明という悟りの支分』(択法覚支)6-3 『努力という悟りの支分』(精進覚支)6-4 『喜びという悟りの支分』(喜覚支)6-5 『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)6-6 『精神集中という悟りの支分』(定覚支)6-7 『平静という悟りの支分』(捨覚支)(春秋社 原始仏典第7巻 治意経」より) 『物事の解明という悟りの支分』(択法覚支)の「物事の解明」は、仏教では「法」といわれているものようですが、内容は実質的には「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」と考えてください。「法」として説かれる、例えば五蘊や五蓋、六外処、六内処などはいずれも認知に関わる内容です。「物事の解明」とは「自分の体と心のはたらきと認知のしくみ」の解明と考えてくださって結構です。釈迦の考え方は、人とは、外界(六外処=認識対象)を身体器官と感覚(六内処)を通じて認知する機能であり、認知する機能を自覚していないから、自覚せずに認知した外界の認知や意識が、外界の認知だけにとどまらずに、つらさ(という認知)を生んだり苦悩(という認知)を生み出し、体にも苦を生ずる、というものであったように考えています。体に苦が生じる(苦の感受)という釈迦が到達した認知は、苦の感受を自覚しないと、やがて身心の活力を失いそれ自体が苦そのものになる、と考えるならば、うつによって行動のエネルギーが失われ行動が停滞するという症状を想起させます。釈迦はこのように説いています。「比丘たちよ、なにおか一切とするのであろうか。それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香りとである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)である。比丘たちよ、これらをなずけて一切というのである。」(筑摩書房 阿含経典第三巻 増谷文先生、南伝 相応部経典 三十五 二十三 一切、漢訳 雑阿含 十三 十七 生聞一切)眼、耳、鼻、舌、身、意を六内処といい、色(物体)、声(音)、香り、味、触、法を六外処といいます。「法」とは、釈迦が到達した法則性広範性のある「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」ととらえ、人は外界の出来事=六外処を、感覚器官とその感覚=六内処によってしか把握できず、六内処を通じて把握された六外処が認知を形成する、と考えれば現代のA.T.ベックの認知療法やエリスの理性行動感情療法などの認知論的アプローチと、根本的には同じです。認知論アプローチとしての共通性があるがゆえに、J.ティーズデールさん、M.ウィリアムズさん、Z.シーガルさんたちは、仏教瞑想を源流とするマインドフルネスに、認知療法を統合できたのでしょう。「軽安覚支」は、人が喜びを感じる下記の『脳の報酬系の刺激』による報酬獲得とは異なる方法によって、『喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ』という状態(前記治意経)状態を実現すると考えています。脳の報酬系の働きと五蘊(色受想行識)7-1 「不充足の認知=欲求の発生」➡想、場合によって苦の感受の発生7-2 「不充足解消への意欲と行為」➡行7-3 「不充足解消の認知」➡識、不苦不楽の認知の発生7-4 「満足=報酬系による報酬獲得」➡楽の感受の発生「満足=脳の報酬系からの報酬獲得」は、釈迦が六六経で説く「楽の感受を受けているときに、人が、喜び歓喜しそれに執着し続けるなら、かれのなかに執着する性向(貪随眠)が潜在する。」傾向を強めるのではないかかと考えています。(六六経 春秋社 原始仏典第七巻所収)この考察は、釈迦が「報酬系の刺激(欲求の発生と充足)による報酬獲得」という脳の機能を野放図に容認せずに、制限、抑制すれば、欲求の発生を抑制できて、求不得苦につながる欲求=「求めても、そもそも充足できない欲求を持ち続けて、欲求が充足されないことに苦しむこと」はなくなるよね、と認識していたからであるように思います。ここにおいても釈迦の生きた時代の人々が、「神話的世界観」すなわち、自己に意志によってコントロールできない再生について、宗教的な儀式などを通じて「願う」という行為を通じて「欲求」を充足させていた可能性があること、現代とは少し事情が違うことは考えておいてもよいと思います。その一方で、2600年前の人々であっても現代の人々の間であっても、釈迦の説く「法」=「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」に大きな変化はないように思います。「高度なリラクセーション状態」とは、『脳の報酬系の刺激』による報酬獲得とは異なる以下の方法、7-5 観察と集中によって、瞑想中において、7-1 「不充足の認知=欲求の発生」と、7-2 「不充足解消への意欲と行為」を止滅することで、7-6 体に生じる微細な緊張、心に生じる欠乏感・飢餓感を止滅し、脳の機能の発揮そのものによる「体と心の快」(喜びと安楽の状態)を実現すると考えていただいてよいと思います。「軽安覚支」に至る過程で、想と行を瞑想において止滅することにより『脳の報酬系の刺激』による報酬獲得を弱めることとなり、『脳の報酬系の刺激』を抑えることによって、釈迦が念身経で説いている、好き嫌いがなくなる、恐怖を克服できるようになる、という効果をもたらすようです。6-5『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)に到達した段階では、好き嫌いがなくなる、恐怖を克服できるようになっており、その状態において集中力を高める6-6『精神集中という悟りの支分』(定覚支)の状態になることで、好き嫌い、恐怖や不安といった感情を離れた観察眼、考察である「尋」と「伺」が実現すると理解してよいと思います。これが瞑想の第一段階(初禅)とされるようです。方法論としては、マインドフルネスストレス低減法を創始した、J.カバットジンさんの説明が参考になります。『「マインドフルネス瞑想法」とは"注意集中力"を高めるためのトレーニングを体系的に組み立てたものです。』(マインドフルネスストレス低減法 北大路書房)ただし、ヴィパッサナー瞑想の主要な機序(メカニズム)は、8-1 釈迦の説いた「法」=(私の理解では)「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を学び、「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を参照して自分の体の感覚と心の状態を観察し続けることによって、「尋」と「伺」を潜在的に養ってゆき、8-2 観察対象への注意集中により、感情そのものと感情の主体である「わたし」という意識を希薄化することによって、好悪の感情や恐怖を弱体化する。注意集中力について解説すると、注意:対象に意識を向けてよく観ること(観察すること)、よく観ることによってそこにあること、生じた変化に気付くこと自覚すること集中力:注意を持続する能力を高めること、より微細な変化に気付く能力、知る能力を養うこと上記の注意と集中力が、マインドフルネス(mindfuiness)の意味する内容であり、パーリ語の原語である「sati」が示す内容と考えてよいと思います。パーリ語は、アルボムッレ・スマナサーラ先生によれば「行為」を現す言語だそうですから、「sati」は、「注意する、集中するという行為」から、「注意する、集中するという行為」によってもたらされる「より微細な変化に気付く能力、知る能力を養うこと」という効果までを視野に入れた概念ととらえた方が瞑想を行う際には、より適合的であるように思います。ちなみに日本では「sati」を、漢訳の「念」として受容し、「心を一点にとどめて決意することを「念」(sati.SKt.smrti)という。」としています(rの下には.が付きます。春秋社 原始仏典第二巻 大念処経の註より)。それゆえ、5-1 『注意力という悟りの支分』(念覚支)は、注意力を育成するため、心を一点にとどめる行為を行うことととらえ「念覚支」と漢訳されたのでしょう。前記大念所経で釈迦は、8-3 「正しい念とは、いったいなにか」として、『身体』、『感受』、『こころ』、『もろもろの事象』を『観察し、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて貪欲や憂いを除去すべきである。』と説いています。これらの行為を「正しい念」としています。8-4 初禅に至る道筋、初禅から第二禅に至る道筋、第二禅から第三禅に至る道筋、第三禅から第四禅にいたる道筋を説明し、「これが(中略)、正しい念と言われるのである。」と説いています。瞑想の境地を進める心の使い方を「正しい念」としています。「もろもろの事象」とはすでにお話した通り、私の理解では「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」です。「貪欲」とは「脳の報酬系を衝動的に刺激すること」=「私にはそれがない、それが欲しい=私にはそれが必要だ、それを手に入れよう➡それを手に入れることはわたしにはよいことだ(脳から報酬が与えられる)」という考えと意欲が生じること、ととらえても差し支えないように思います。「衝動的に刺激すること」と説明したのは、釈迦の認知論「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」、では、人の心に生起する感受や欲求はやがて滅没するものだと説明されていることから、没滅することに気付かずに生起した感受によって意欲を刺激して行為し「「脳の報酬系を衝動的に刺激すること」によって、執着する性向(貪随眠)や、手に入らないという認知から怒り嘆くという行為によって怒りうらむ性向(瞋恚随眠)、自覚のない性急な判断を行うことから愚かさという性向(無明随眠)が潜在することになる(春秋社 原始仏典第七巻 六六経)、と解釈できるからです。それゆえ「正しい念」すなわち、「『身体』、『感受』、『こころ』、『もろもろの事象』(=人の体と心のはたらきと認知のしくみ)を『観察し、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけ」ることによって、『脳の報酬系』を衝動的に刺激することを抑制できる、と私は理解しています。8-3の「正しい念」は、四念処を行うこと、つまりヴィパッサナー瞑想によって「『身体』、『感受』、『こころ』、『もろもろの事象』(=人の体と心のはたらきと認知のしくみ)を、『観察し、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて貪欲や憂いを除去」すること、ということになります。8-4の「正しい念」は、四念処を実践することにより、「より高度な変化に気付く能力、知る能力を養うこと」によって、より高度な瞑想状態に至り、苦しみの生起とその原因と誘因を知り、原因と誘因をなくすことで快と不快を無くし、「尋」と「伺」を無くし(観察・考察するという意図が生じているから)、苦しみを滅し、喜びを捨て、安楽を捨てて第四禅に至る、ということを指し示していると思われます。ヴィパッサナー瞑想の指導者の方は、「sati」を「気付くこと」「知ること」という意味で使われることがあるようです。「sati」という言葉は、以下の訳文の原典にはないようですが、以下の訳文の「知る」は、「よく観ることによってそこにあること、生じた変化に気付くこと自覚すること」なのではないかと思います。8-5 「あるいは内に怒りがあるときに『私の内には怒りがある』と知り、内に怒りがないときに、『わたしの内には怒りがない』と知るのである。」8-6 「また、いまだ生じていない怒りが生じるままにそれを知り、すでに生じている怒りが滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた怒りが未来に生じることがないということを知るのである。」(前記大念処経より)ヴィパッサナー瞑想の経験のない方には、何を言っているのかわからないと思いますが、釈迦の説いたところを解説するのはとても気が引けるのですが、あえて解説すれば、8-5について、高まった集中力で心に注意(≒観察)をむけることができるならば、あなたは自分の心に怒りがあるときには怒りがあることに「気付くこと」「自覚すること」ができ、怒りがないときには怒りがないことに「気付くこと」「知ること」ができるだろう。8-6について、高まった集中力で心に注意(≒観察)をむけることができるならば、心に生じていない怒りが生じる原因と誘因に「気付くこと」「自覚すること」ができ、あなたが、怒りが生じる原因と誘因に「気付くこと」「自覚すること」ができれば、すでに生じている怒りを滅ぼすことができることに「気付くこと」「自覚すること」ができ、すでに滅ぼされた怒りが未来に生じることがないということに、あなたは「気付くこと」「自覚すること」ができるだろう。ということになります。このプロセスが、釈迦の方法論の中核ともいえる「四聖諦」であると思います。また、ベックの認知モデルおよびスキーマに関する理解があることが前提とはなりますが、このプロセスは、自分に早期不適合スキーマや非機能的な中核信念があるのであればそれらがあることを、それらが活性化したとき(心理機的危機時)には、非機能的な自動思考を誘発し、気分の低下を招き、怒りなどの苦悩を生起させるということを観察する(気付くこと知ること)が可能になります。ヴィパッサナー瞑想は、心理的危機をも観ますから、釈迦が念身経で説いた第二の利益「恐れと怖じ気を克服できるるようになる」という状態となっていることは極めて重要であると考えられます。心理的危機を観ても恐れも怖じ気も生じないならば、それは心理的危機にはなりません。第一の利益「好き嫌いを克服できるようになる」、第二の利益「恐れと怖じ気を克服できるるようになる」が実現されているからこそ、心理的危機を、恐怖感なく見ることが可能になるのでしょう。ここに好悪や恐怖を離れた観察眼考察眼である「尋」と「伺」を作出することの大きな意味があります。方法論としての「四聖諦」や「気付くこと」「自覚すること」「尋」と「伺」の作出に至るためには、体と心(の状態)を注意深く見守ることのできる注意集中力を養う、6-1 『注意力という悟りの支分』(念覚支)からスタートしますよ、ということになります。ヴィパッサナー瞑想は、観察瞑想とも言われるように、下記のような段階を踏んでゆくことが予定されています。予定されている、というのは、大念処経などを学びヴィパッサナー瞑想を行うと、(順番は前後しても)誰でもこのような段階を昇ってゆくようであると考えられるからです。自分の努力がすべての出発点ですが、努力を継続していると「法に証される」=「釈迦の説くことが理解できるようになる」ということが実現するようです。例えば、私は「喜び」を感じにくい性格であるようで、慈悲の瞑想の原型である四無量心の「慈の瞑想」はできましたが、「喜の瞑想」はうまくできませんでした。ですから「喜覚支」も希薄であったようですが、「軽安覚支」に達して初めて、遅ればせながら「喜覚支」とはこういうもであるようだ、とうっすらと感じることができました。アルボムッレ・スマナサーラ先生によると、テーラワーダでは、新たに出家した修行僧を、どのような瞑想によって解脱に導くのか、ということを師匠が考え、新たに出家した修行僧に最も効果的だろうと考えられる瞑想法を示して指導していたそうです。その時に、新たに出家した修行僧を、3つの大分類による性格と、さらにそれぞれを3つの小分類による性格に分けて考え、最も効果的だろうと考えられる瞑想法を与えるのだそうです。3つの大分類の性格のひとつの瞋性(しんしょう)という性格は、慈悲喜捨と言われる四無量心の瞑想では、喜の瞑想は不適とされているそうです。瞋性は、簡単に言うと、他者との共通点をあまり重視せず、自分独自の考え方を重視する(価値あることとみなす)性格とされているそうです。七覚支の育成もしくは進展の段階9-1 観察(≒注意)によって集中力を高め、6-1『注意力という悟りの支分』(念覚支)を養成することから開始し、9-2 観察によって、6-2『物事の解明という悟りの支分』(択法覚支)を養成し、9-3 「法」による物事の解明=「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」によって自分の体と心に起こっていることを知って理解し、6-3『努力という悟りの支分』(精進覚支)(=自分の体と心のはたらきを解明してゆくという努力)を養成し、9-4 努力することによって、5-4『喜びという悟りの支分』(喜覚支)に到達し、9-5 6-5『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)を実現します。9-6 『身体が安らいでいる人の心は集中する』という6-6『精神集中という悟りの支分』(定覚支)に至り集中力により観察し、9-7 この辺りから「大まかな思考や細かい思考が残っている、遠離から生じる喜びと安楽からなる第一の禅定に達する。」ようです。9-8 さらに大まかな思考細かい思考(尋と伺)を停止し、喜び、安楽、苦しみを除きさって『平静という悟りの支分』(捨覚支)に至る。(春秋社 原始仏典第七巻 治意経 念身経より)瞑想を織物に例えると、身体、感受、心、法(=人の体と心のはたらきと認知のしくみ)を瞑想(考察)対象とする四念処が横糸、七覚支を縦糸として瞑想が進展する説明できます。6-2『物事の解明という悟りの支分』(択法覚支)においては、五蘊、五蓋などの、釈迦が説いた「法」つまり「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を学び、自己の「体と心のはたらきと認知のしくみ」を解明することを内容とする、6-3『努力という悟りの支分』(精進覚支)を養成してゆくことになります。自己の「体と心のはたらきと認知のしくみ」を理解してゆく過程を通じて、自己に生起する具体的な悩み苦しみについて「気付くこと」「知ること」になります。注意集中力を起点として、以下のようなメカニズムで「尋」と「伺」を育成すると考えられます。9-9 「体と心のはたらきと認知のしくみ」に即して「自己の体と心のはたらきと認知のしくみ」について理解してゆくことで、体と心への注意力(観察力)を養う9-10 瞑想対象に意識を向け続けることで、瞑想において好き嫌いや恐怖を生起させる「想」と「行」を心から排除する訓練を行うことで、好き嫌いや恐怖に影響されない「尋」と「伺」を潜在的に育成する言い換え得れば、好き=執着する、嫌い恐怖=回避する、という性向があったのでは、物事をありのままに考察する「尋」と「伺」は発現しない、ということのようです。10-1 座ってする「呼吸の瞑想」治意経に説かれた出入息観による座ってする「呼吸の瞑想」をメインに行います。「呼吸の瞑想」は、呼吸に伴う体の動きを観察し、体が感じる感受を観察し、心の状態を観察し注意集中力を高め、法の観想=釈迦が説いた「法」言い換えれば「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を通して、高まった注意集中力で「自分の体と心のはたらきと自分の認知のしくみ」を観察することです。「自分の体と心のはたらきと自分の認知のしくみ」を理解することにより、心のはたらきを観察考察して、自分の気分を下げる考えや自分のやる気を挫く考えがどのように生まれてくるのか、どのようなことを原因として生まれるのかを知ることができ、知ることができれば対処することができます。対処することができれば、高度なリラクセーション状態が実現します。早期不適合スキーマもしくは非機能的な中核信念などが強固である場合には、6-5『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)を完全に実現するのは容易ではないと思います。私の場合は、心がソワソワしてなかなか落ち着かないことの原因は、第一領域の早期不適合スキーマにあったようです。6-5『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)がなかなか実現できないと感じる方は、早期不適合スキーマもしくは非機能的な中核信念があることを予期した方が良いかもしれません。早期不適合スキーマもしくは非機能的な中核信念は、非機能的な自動思考(≒心をざわつかせる「想」)を生み出し続けます。非機能的な自動思考の生成を、釈迦の認知論「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」で説明するならば、五蘊の「想」および「行」の働きによって自分を苦しめる「想」を形成され、それに基づく意図衝動意欲である「行」を生じさせ欲求、執着を生み出し、心の辛さ、苦しみの原因を生み出し続けることになります。釈迦の認知論「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」には、スキーマや中核信念に直接該当する機能もしくは存在には言及されていませんが、識別機能とされる「識」が、識別のために参照する対象としての「識」がスキーマや中核信念を含む記憶とみなしてよいかもしれません。また五蓋の「悪作(おさ)」は後悔とされ、後悔することが瞑想進展の妨げになると教示されています。「悪作(おさ)」、後悔は、過去の自分の行為の記憶(≒「識」、現在においてはどうにもならないこと)から、現在において悔悟の気持ち「想」を生起させることであり、認知行動療法(ベックの認知モデル)の、過去に形成され現在も有効な非機能的な中核信念により、現在において非機能的な自動思考が生成されるというとらえ方は、まったく同一ではないものの、過去の行為や体験により形成された認知が維持され、現在においても自分を苦しめる思考(≒想)を発生させる、というとらえ方は相似型だといえます。ヴィパッサナー瞑想の心随観では、「心のなかで生起してくる現象を観察し、また、心のなかで消滅する現象を観察し、また、心のなかで生起し消滅していく現象を観察するのである。」(大念処経)とありますので、心随観は、心のはたらきとしての想、行、識と、心に生まれ滅してゆく現象としての想、行、識の認知を観察してゆくものと理解するならば、認知行動療法に即して、観察に徹し、非機能的な自動思考が生起したなら、生起したこととその内容を観察するのみで、心を反応させず放っておけばやがて自動思考は消滅してゆく、という説明になります。「心を反応させず放っておけばやがて自動思考は消滅してゆく」という態度を継続することが、自分が生成した自動思考がたとえ非機能的=「自分を苦しめるもの」であったとしても「好ましいもの、楽しいものである。」(大念処経)と認識し愛執を抱いても、「そこでその愛執が捨てられ、そこで〔愛執〕が滅ぼされるのである。」(大念処経)という態度、すなわち苦悩を減少もしくはなくすことにつながる心の在り方を、長期的に養成することにつながるのでしょう。「わたしが感じたこと考えてたこと」について、六六経において説かれる(苦しみを生む考え方である)「『これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの自我である』とみなすことである。」という状態であるならば、「わたし」という概念への愛執は、「自分が生成した自動思考」がたとえ非機能的=「自分を苦しめるもの」であったとしても、「わたしが感じたこと考えてたこと」への愛執へ、容易に、無意識に転化するでしょう。このことは、なぜ自分を苦しめ、うつの再発につながる反芻を止めることができないのか、ということを考えるときに示唆を与えてくれるように思います。心に生起したことを生起したと知っても、心に過剰な反応をさせない態度は、マインドフルネス認知療法MBCTの、マインドフルネスによって「思考は事実ではない」という心理的態度を養成し、反芻に対して過剰な反応をしない心理的態度を導くという対処方法と軌を一にするものと感じます。ヴィパッサナー瞑想について、ここで大事なことは「観察」とは、心に生起したことを知るけれども、心は反応させない(行≒意図衝動意欲を起こさない)ことであり、観察の対象は2つある、ということではないかと考えます。観察の対象の1つめは非機能的な自動思考≒想が生起したこと、観察対象の2つめは、生起した非機能的な自動思考≒想がどのようなものであったか、ということ。2つ目は、非機能的な自動思考≒想が、感情に関連するものであった場合、身体の不調が感情の抑圧に起因することもありますから、感情は感情として「受け取り」かつ、心を反応させず、感情を受けとってもその感情について考えないで放してゆく、という態度で、怒りであれば怒りであることを「受け取り」(知り)、悲しみであれば悲しみであることを「受け取り」(知り)、欲であればよくであることを「受け取り」(知り)、そして考えないで放っておく(考えるたいという欲を放棄する)ことで、感情が消えてゆくことを知ることになる、ということを釈迦は説いているのではないでしょうか。喩ていえば、意識を水面と見立て、水面を静かに保ち、水面に注意を集中して、水の中から何か(自動思考≒想)が浮かび上がってきたなら、手ですくいあげ、その内容を観た=知ったならば、手から放してそのことについては考えない、というイメージで説明できると思います。ヴィパッサナー瞑想を継続することによって、ヴィパッサナー瞑想の観察する機能により、非機能的な自動思考≒想を、六六経で説かれる「『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない〕と』みなすことである。」という認知をもたらすことにつながり、また、大念処経で説かれる、(非機能的な自動思考≒想は)「好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで〔愛執)が滅ぼされるのである。」が実現される(簡単ではありませんが)と考えられます。このような観察を重ねてゆけば、必然的に自動思考≒想=苦の原因、を生起させる早期不適合スキーマもしくは非機能的な中核信念(釈迦在世時にそのような概念はなかったとしても、幼少時の体験からその後にまで適用される信念を形作るという人の認知のしくみはあったでしょうから)の存在に気付く(sati)可能性も当然あるでしょう。早期不適合スキーマもしくは非機能的な中核信念があるからといって、それによって必然的に日常生活に破綻をきたすわけではありません。むしろ日常生活に破綻をきたさない方の方が多いでしょう。日常生活に破綻をきたさないから、非機能的な自動思考によるつらさは感じながらも、根本的な治癒の必要性を認識することなく、早期不適合スキーマもしくは非機能的な中核信念が温存されたまま時を重ねているという側面もあるのでしょう。※想、行、識は、心の機能であり、同時に心の機能によって生成される認知もしくは心の機能によって参照される認知(記憶)、との理解により上記の文章は作成されています。現在の思考、感情の生成、意思決定などの心のはたらきが、過去の記憶にも影響されるという一体性混在性を考えると、想、行、識を心の機能として見ると同時に、機能により生成される認知そのもの、機能により参照される認知(記憶)と考えても違和感はないように思っています。10-2 「呼吸のエクササイズ」「呼吸の瞑想」を効果的におこなうためには、体と心がリラックスした状態で、ある程度深く長い呼吸ができるようになる必要があるので、呼吸を深く、スムーズに行うための「呼吸のエクササイズ」を行います。ヴィパッサナー瞑想の「呼吸の瞑想」では、「治意経」に説かれる「出入息観」とは少し異なりますが、呼吸に注意を集中させながら体の動きに「ちじみ、ちじみ」「ふくらみ、ふくらみ」と言葉をあてて確認してゆくという方法(ラベリング)があります。「ちぢみ、ちぢみ」「ふくらみ、ふくらみ」は、腹の動きについての言葉での確認ではなく、呼気つまり肺から空気が排出されることにより胸部を中心とした上半身がかすかに縮むこと、吸気により肺に空気が取り込まれることにより胸部を中心とした上半身がかすかに膨らむことを確認するラベリングです。深く長い呼吸ができるようになると、呼吸によって胸部を中心とした上半身がかすかに縮むこと、かすかに膨らむことを容易に認識できるようになります。体がかすかに縮むこと、かすかに膨らむことが実感できる「感受性」=「観察力」=「注意力」を養うことができると、体の感受の観察は容易になり、体の感受の観察が容易になると、自然と心の状態の観察ができるようになります。体の微細な感受の観察ができる状態は、体も心も落ち着き「楽」もしくは「安楽」を感じている状態です。努力から生じる喜びに加えて、体も心も落ち着き「楽」もしくは「安楽」を感じている状態は、「悟りに至るために七つの支分」(七覚支)の「軽安覚支」に該当します逆に言えば、体も心も落ち着かず、努力から生じる喜びが生まれず、「楽」もしくは「安楽」を感じることができない状態では、体の微細な感受の観察は進まず、体の微細な感受の観察が進まなければ、心の観察には進むことはできない、ということのようです。体の微細な感受の観察は、自分の体に「今現在生じていること」を観察することです。自分の体に「今現在生じていること」を、観察できないのは、自分の注意が「今現在生じていること」ではなく「別のこと」に向かっているからです。釈迦は、注意が「今現在生じていること」ではなく「別のこと」に向かい、「別のこと」に執着し愛執をいだくことを、「欲」「欲望」と説いたようです。「欲」「欲望」は、人が五感を通じて認知したこと、意識によって生まれる認知に対して「好ましいもの、楽しいものである。そこで愛執が生じ、そこで〔愛執〕が留まっているのである。」(大念処経)という状態を指します。注意が、「今現在生じていること」ではなく「別のこと」に向かっているのは、「別のこと」に、「好ましいもの、楽しいものである。そこで愛執が生じ、そこで〔愛執〕が留まっているのである。」という状態、ということになります。これが釈迦が到達した心理学=「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」の基礎です。自分の注意を「今現在生じていること」に向かわせることが、瞑想における「注意集中」の本質です。経験から言うと、自分の注意を「今現在生じていること」としての心の状態向にかわせるこことができる感じ始め、「軽安覚支」の状態をこのような感じでなのだろうか、と理解し始めると、集中力を意図的に高めることができるようなり、意図せずとも「尋」と「伺」が発現するようです。集中力を意図的に高めることができるようなると「定覚支」も体験できるようです。10-3 並行して念身経による「歩行の瞑想」を行います。「歩行の瞑想」は、6-1『注意力という悟りの支分』(念覚支)の養成には大きく役立ちますし、6-5『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)を養成するためにも役立ちます。日常生活での、例えば昼休みのウォーキングとして行ことなどが考えられます。通勤時は時間の制約がありますからゆっくりと歩くことの集中するには不適ですし、カバン等を持っていますので、体の微細な感覚を感じ取るには適さないかもしれません。また、腰の筋肉を意識して階段を上ることにも効果があります。座ってする「呼吸の瞑想」は、安定した姿勢を一定時間取り続ける観点から、腰の筋肉の強化が必要となりますので、腰の筋肉を意識して階段を上ることには効果があります。また、腹式呼吸は、腹筋を使い下腹部をへこませる時に、腰および尻の筋肉が腰側から押し返すことによって内臓を圧迫し、肺から空気を押し出す呼吸法であり、腰の筋肉を使用しますので、腰の筋肉を意識した階段上りは、有効です。10-4 釈迦の認知論の学習「呼吸の瞑想」と「歩行の瞑想」によって、自分の体と心のはたらきを的確につかむために、釈迦の認知論=「体と心のはたらきと認知のしくみ」を学び、2つの瞑想の中で考察します。10-5 集中力を養う「慈悲の瞑想」集中力を養う訓練として、「呼吸の瞑想」時に、「慈悲の瞑想」行います。「慈悲の瞑想」は、瞑想文を唱える瞑想であり、瞑想文に注意を集中するために、ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)の冒頭に行うことが推奨されています。瞑想文に集中するということは、「瞑想文を唱える以外の、欲求や意図、衝動に基づく思考を排除する」ということです。日本における「sati」の受容である「念」「心を一点にとどめて決意すること」と言えます。「瞑想文を唱える以外の、欲求や意図、衝動に基づく思考を排除する」ということを通じて、恐怖の情動と関連する偏桃体などの大脳辺縁系の感情的反応という働きを抑制する効果があるようです。10-6 報酬系の抑制「呼吸の瞑想」「歩行の瞑想」「慈悲の瞑想」を通して、瞑想中に起こった衝動や意図、欲求が生起したことを知り(自覚し)、その上で衝動や意図、欲求を放し、心を瞑想対象への注意集中に戻す、ということを繰り返し行います。「瞑想中に起こった衝動や意図、欲求」の多くは「考えたい」もしくは「痒みを掻きたい」というものですが、「これは嫌だ、回避したい(恐れと関連すると思われます)」というものもあるでしょう。これらの「瞑想中に起こった衝動や意図、欲求」を自覚し、放棄することによって、「欠乏感の認識➡欲求充足の衝動意図欲求➡行為➡欲求充足=報酬の獲得(欲求の受容と充足による報酬の獲得)➡欲求の強化」という脳への報酬系の働きを抑える効果がもたらされ、結果として、念身経に説かれる「身体にむけた注意」を確立することの、10の利益の第一番目と第二番目の、好き嫌いを克服できる、恐怖と怖じ気を克服できる、という効果がもたらされると考えられます。『衝動や意図、欲求が生起したことを知り(自覚し)、その上で衝動や意図、欲求を放し、心を瞑想対象への注意集中に戻します』という瞑想で行うことの内容は、すでに引用したマインドフルネス認知療法原著第二版(北大路書房)の下記の記述のうちの下線部分と同内容と考えてよいと思います。「暗黙の情動の手がかりについての研究[85]によって私たちはほとんどの時間で、快適か、不快か、どちらでもないかに基づいて、入ってきた刺激に反応していることがわかっている。これは、そこを境にして心が物事を変えたいと思い始めたり、思考の流れに迷い込んだり、反すうの引き金となるポイントであり(中略)このような瞬間にマインドフルな気付きを活用すれば、ずっと続けばいいと願う、あるいはなぜもっと頻繁に起こらないのか知りたいなどの余計な思考を付け加えずに、瞬間をあるがままにただ経験し、評価することができる。」好き嫌いや恐怖心が無くなれば、物事の見方、考察の仕方、判断から、好き嫌いや恐怖などの感情の影響が排除されます。言い換えれば思考が自由になります。ヴィパッサナー瞑想は、「尋」と「伺」という観察能力、考察能力を起動させるために、心の動きを止め、「尋」と「伺」による観察、考察をおこないますから、マインドフルネスにおける「余計な思考を付け加えずに、瞬間をあるがままにただ経験し、評価する」とは、「尋」と「伺」が発現している状況であるかもしれません。仏教もしくは宗教勧誘の意図はありません。また、私は仏教徒でもありません。仏教徒でもありませんから、ここでお話することは仏教ではありません。阿含経を引用するのは下記の理由からです。ヴィパッサナー瞑想は、釈迦が悟りに至った瞑想とされ、釈迦の説法などを伝える「阿含経」に、その方法論と瞑想の進展状況などが説かれています。また、釈迦が到達した「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」が説かれています。「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を学びながら、ヴィパッサナー瞑想で、自らの体、感覚、心を観察してゆくことで、自らに苦悩、苦痛が発生する過程、原因を知ることができ、苦悩苦痛の発生原因を無くしてゆけば、苦悩苦痛はなくせる、さらに喜びや安楽も手放せば、絶対的な平静世界である悟り、解脱に至る、とされています。つまり、悟り解脱に至らずとも、その手前で苦悩、苦痛はなくすことはでき、さらにその先に行けば悟りにいたる、という構成になっています。それゆえ、マインドフルネスという、ヴィパッサナー瞑想に起源をもつ瞑想法が、苦痛苦悩を除去する方法として、MBSR(マインドフルネスストレス低減法)やMBCT(マインドフルネス認知療法)に取り入れられ、さらにそれらを超えて心理療法に取り入れられているのだと思っています。しかし、仏教徒ではなく、釈迦入滅後に発展した仏教の教学に影響されることのない私には、阿含経に説かれるヴィパッサナー瞑想は、それ単体で心理療法たりえるものであると考えています。阿含経は、前記七覚支ほか、一般に「法」と呼称される内容により、こうするとこうなる、こういうことを知るだろう(sati)というプロセスが明示されていることなどから、ヴィパッサナー瞑想に取り組みながら学んでゆくと理解がどんどん進み、阿含経で釈迦が説いていることは、自分のこういう変化を言っているだなと理解できるようになります。またその様になって行くことを確認することで、瞑想の進捗状態を自ら知ることもできます。マインドフルネスついて、私は、その主な担い手である欧米の方々が、「禅仏教を一種の合理的神秘主義として」提示した鈴木大拙さん(エヴァン・トンプソンさん「仏教は科学なのか」Evolving)の影響を色濃く受けているのではないかとの印象を持っています。加えて、カバットジンさんが、「参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちいず、ただし打座して身心脱落することをおえよ」(正法眼蔵 弁道話)という、道元禅師の只管打座の禅に私淑し、そこから注意集中力の養成というエッセンスを抜き出して、ヴィパッサナー瞑想由来の訳語である「マインドフルネス」という名称を冠した瞑想法を構成したことにより、マインドフルネスが阿含経由来の「sati」の訳語であるにもかかわらず、阿含経に説かれるような「法」=「体と心のはたらきと認知のしくみ」についての方法論を欠いたものになった、言い換えれば「仏教色」がないものであったがゆえに欧米でマインドフルネスが広く受容されるようになったのかもしれません。別の言い方をすると、マインドフルネスは、阿含経を読みヴィパッサナー瞑想をしてきたものからすると、釈迦が説いた瞑想の機序(メカニズム、成果が出る過程)を明示していない、少し説明不足な印象がある、ということになります。釈迦の下記の説法に触れると、釈迦の説いた方法論を援用しないことはとても、もったいないことのように感じます。『アーナンダよ、比丘僧伽がわたしに何を期待するのであろうか。アーナンダよ、わたしは、内外の区別なく法を説いた。アーナンダよ、如来の教法には教師の握拳はない。」(筑摩書房 増谷文雄先生 阿含経典第三巻)釈迦が得たもので隠していて教えていないものは何一つない、ということです。阿含経が、釈迦の完全な言行録ではないのかもしれませんが、釈迦が得たものを知るには、阿含経に頼るしかありません。大乗仏教では「妙法蓮華経」「新解品」の「窮子喩(ぐうじゆ)」に、釈迦一代の説法を「五時」に分ける考え方があり、それに基づく天台大師の五時の教判が影響力を持ったことなどから、阿含経は長らく顧みられることがなかったようです。(前記増谷先生 阿含経典第一巻)春秋社版の阿含経は、「sati」にマインドフルネスという言葉をあてたリス・ディヴィッズさんたちが、1882年イギリスに設立した「パーリ聖典協会」が出版しているパーリ語阿含経の日本語訳です。日本では、春秋社および大蔵出版から現代語訳が出版されています。高度なリラクセーション状態の作り方(2)12 座ってする「呼吸の瞑想」の説明 https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/182503/
考え方が合わないとか、価値観が合わないなどを理由としてお断りをいただくことがあります。ご本人のお考え100%尊重いたしますが、そもそも最初から考え方が合う人とか価値観が合う人なんているのでしょうか?私はいないと思います。その理由は?というと、親が条件付きの愛情しかもっていない、ということではありません。親は、子どもが言葉を理解したり、親が微笑んだらそれをみて嬉しそうにした子供に、嬉しいという感情を返します。子どもが少し大きくなって、親の言うことを聞かないと叱ります。子どもが、道路に飛び出したりして命の危険を招くような行為をしたら、そのようなことをしないように叱ります。もし交通事故になりそうだったら大声をあげて叱るかもしれません。友達を殴ったり、突き飛ばしたり、友達のものを取ったりしたら、それも叱ります。親が好ましいと思う行動には、感情的な慰撫による承認という報酬を与えます。ものを報酬として与える場合もあるでしょう。親が好ましくないと考える行動や、社会的に是認されない行動には、叱るなどの感情的な威迫をともなった懲罰を与えます。物事の理非(やってよいことわるいこと)がわからないうちは、感情的な慰撫や感情的な威迫によってやってよいこと、やってはいけなことを学習させるしかないからです。叱る、は言い換えれば「そのよう行動をするあなたを承認しませんよ、許しませんよ」、ということを感情的に理解させることです。親の伝えたいことは、「あなたのその行動を承認ませんよ、許しませんよ」であって、「あなたを承認しませんよ」ということではないのですが、子どもがその違いを理解するかどうかは、難しいところです。K.M.B.ブリッジェスさんによると、新生児の情緒は興奮しかなく、生後3か月頃になると快・不快の情緒が分化し、新生児では空腹や満腹などの生理的刺激によって情緒が引き起こされてきたものが、次第に親の顔や声といった刺激にも反応が起こるようになり、一般に不快の情緒の方が早く分化するそうです。2歳くらいまでに著しい分化を遂げ、5歳くらいまでに成人に見られる情緒がでそろうそうです(創元社 杉田峰康先生「新しい交流分析の実際」より)。新生児の生理的な刺激から引き起こされる情緒から、成長するするにしたがって人(親)からの感情による刺激にって情緒を分化させて育ってゆくと言えます。感情を刺激して育てられることは、褒められる行動をして褒められるという報酬を得ること、叱られる行動をして恐怖や嫌な気持ちになることを回避することにつながります(親もその様な効果を本能的に期待しています)から、人は結果として、脳の報酬系の機能(欲求を充足して心地よいという「報酬」を得たいという性向)や、恐怖と関連する偏桃体の機能(それは怖いこと嫌なことだから回避しようという性向)を強化することになると考えられます。当然、親や教師からは好ましくないとされる行動を、あえてとることによって、脳の報酬系の機能(欲求を充足して心地よいという「報酬」を得たいという性向)をはたらかせる、ということも起こり得ます。悪いことばかりをする、という行動を、親の無関心に対して、「叱られる」ことが、親の関心が自分にむけられる「報酬」になると感じるのであれば十分に考えられます。つまり人は、合理的、理性的な検討を経た判断よりは、自分が満足できる(報酬系から報酬が与えられる)だろうという予想、自分が満足しない(報酬系から報酬が与えられない)だろうという予想、こうなるのは嫌だ(≒怖い)からそれは避けようという判断が、大きな影響力を持つように育てられていると考えらえる、ということです。どのような育て方が良いとか悪いとか言いたいわけではありません。親の考え方や、考え方に基づく良いこと良くないことの判断や子供への接し方(誉め方叱り方)は千差万別ですから、人の考え方、考え方に基づくこれは好ましいこと、これは嫌なこと、という、いわゆる「価値観」は千差万別になるでしょう。同じ趣味を持ち、同じ趣味の中で好きなものが同じだから、価値観が同じ、ということも言えるかもしれませんが、同じ趣味を持ち、同じ趣味の中で好きなものが同じだから結婚してもうまくゆくはず、と考える人は少ないでしょう。さらに、出会って日の浅い人に自分の「価値観」について、「私はこういう価値観を持っています」と説明する人もいないでしょうし、説明できる程度に自分の価値観を明確に把握している人も少数派でしょう。心理学では「自己開示」に対して「自己呈示」という概念があります。「自己開示」が、「自分が自分について真実と感じていることを開示する」ことであるのに対して、「自己呈示」は、「自分の利益をはかるために自分をよく見せようとする」ことと言えます。人が、『合理的、理性的な検討を経た判断よりは、自分が満足できる(報酬系から報酬が与えられる)だろうという予想、自分が満足しない(報酬系から報酬が与えられない)だろうという予想、こうなるのは嫌だ(≒怖い)からそれは避けようという判断が、大きな影響力を持つように育てられている』とするならば、他者から、自分を良い人や魅力的な人と見られることが『自分が満足できる((報酬系から報酬が与えられる)だろうという予想』が働き、その一方で、この人とは交際したくない思われることは、自己概念を著しく傷つけることが予想されますから『こうなるのは嫌だ(≒怖い)からそれは避けようという判断』が働くでしょうから、出会って日が浅い段階においては、「自己開示」ではなく、「自己呈示」「自分の利益をはかるために自分をよく見せようとする」がなされるのではないでしょうか。また「自己開示」「自分が自分について真実と感じていることを開示する」ことによって、開示した内容がお相手から拒絶を受ける結果となった場合には、自己概念を著しく傷つけられ、もしくは自己を否定されたと感じるかもしれませんから、出会って日の浅い人、その人が自分を真摯に受け止めたくれる人だという確信が持ていない段階では、「自己開示」は通常は控えるでしょう。仮に、出会って日の浅い人から、自己開示として「私の価値観はこうです、あなたの価値観は?」と言われたら、多くの人は「引いて」しまうでしょう。認知行動療法(認知療法系)では、人の意識の表層に現れる自動思考が「非機能的な」ものである場合には、気分の低下をもたらし、気分の低下が継続すると心理的な困難を生むと考えます。「非機能的な」ということの意味は、「現実的でなく、自分に気分の低下をもたらす」という意味です。たとえば失敗して落ちこんでいる人の話を聞いて、あなたが「その状況ではあなたの責任ばかりとは言えないよね、その失敗は不可避だったかもしれない、全部が自分の責任だと考えなくてよいのでは」と考えたとして、落ち込んでいる人が「私の能力がないから失敗した」と考えて落ち込んでいたら、「私の能力がないから失敗した」という考え方は「現実的でなく、自分に気分の低下をもたらす」から「非機能的な」自動思考だよね、ということになります。自動思考という名前の通り、非機能的な自動思考は自動的に生じて、苦悩や心理的な困難もたらしますが、通常は意識していません。通常意識していない自動思考を意識するため、「気分の低下」を感知して、「今私は何を考えただろうか」と自問して自動思考を特定し、非機能的なものから機能的なものに修正するという作業に取り組みます。さらに認知行動療法では、自動思考を引き起こすものとして、生育暦を通じて形成された中核信念と中核信念と自動思考を媒介する媒介信念を想定します。表層の自動思考ですら、完全に把握している人は少ないので、中核信念、媒介信念となればほとんど人が把握していません。これらのことから言えることは、出会ったばかりで、共に過ごした時間が少ない人同士が、相手の「価値観を理解する」ことは、まず無理、ということです。出会ったばかりで、共に過ごした時間が少ない人同士が判断できるのは、両親や社会からから刺激され続けてきた「快と不快から分化した情緒による判断」、わかりやすくいえば好き嫌いという判断、ということになります。もちろん、好き嫌いという判断は、当然に尊重されるべき判断です。「価値観が合う」という「概念」はあっても、「価値観が合うかどうか」は、容易には判断できません。共に過ごす時間を重ねて、相互に価値観が理解できても、ご自身の価値観とお相手の価値観が合致する、ということは無いでしょう。当然、あなたの価値観をお相手に強制することもできませんし、お相手もあなたに強制適用することもできません。つまり、「価値観が合う人に出会う」といのは「概念上(想像の上で)は成り立っても」、たぶん現実にはあり得ないことだと考えた方が、悩まなくてすむように思います。例えて言えば「価値観が合う人に出会う」というのは「おとぎ話」くらいに考えた方がいいように感じます。もちろん「価値観が合う人に出会う」こ可能性が、まったくない、ということではありません。育った環境も、就業環境も違い、就業環境が違えば、どのような行動や考え方がその就業環境において好ましいのか、という「行動の判断」の前提として形成される「価値判断」も異なるでしょう。そのような前提に立てば、結婚相談所の婚活においては、お相手が、あまりに自分が考える好ましいマナーや行動規範と著しくずれていて不快、という場合を除けば、その人が、「一定程度自分の希望する条件に合致するか」ということと、「考え方・価値観をすり合わせてゆくことができる人か」「自分も譲歩するし相手も譲歩してくれて相互に受容し合える関係が築ける人」だろうか、ということがお付き合いを深めるか、お断りをするかの判断に際しては考慮すべきこと、ということになります。当然、「自分も譲歩するし相手も譲歩してくれて相互に受容し合える関係が築ける」状態になるには、相互の信頼関係つまり、趣味趣向が同じ、というレベルでの話ではなく、「自己開示」「自分が自分について真実と感じていることを開示する」ことができる人であると、相互に認め合えることが必要になります。また、「自分も譲歩するし相手も譲歩してくれて相互に受容し合える関係が築ける人」という観点から結婚を考えるなら、一般的に若い年齢層の方が有利になるでしょう。年齢が若いほうが、相手に合わせて自分を変える柔軟性があると考えられること、自分のライフスタイルを変えて、結婚後のライフスタイルへ統合することへの抵抗が少ないと考えられるからです。一般論として、社会へ出て経験を重ねるにしたがって、経験から学び自己の業務分野に習熟してゆくというメリットが蓄積する一方で、自分が経験していないことへの対応力などの柔軟性は失われてゆくと考えられます。そのように考えると、下記コラムの結婚の最頻値年齢26歳27歳を、社会や仕事に適応し安定な状態に入りつつあり、なおかつ結婚生活への柔軟性を備えた年齢ととらえるならば、一般的な理解として「結婚適齢期」とみなしても合理的、ということになります。もちろん人の成長や成熟度合には個人差がありますから、「結婚適齢期」は各人の成長や成熟度愛によることになります。「男女共同参画局」コラムから引用します。『一般的には、「平均値」を基準に物事を考える人は少なくない。しかしながら、上記の図のとおり、「平均値」は、大きな値や小さな値(外れ値)に引っ張られるという特徴があるため、必ずしも実際の姿を正確に表しているわけではないことには留意が必要である。例えば、「令和2(2020)年の女性の初婚年齢の「平均値」は29.4歳であった」と聞くと、30歳前後で結婚した人が多かったように感じるが、実際に令和2(2020)年の女性の婚姻件数の年齢別の状況を見ると、婚姻が最も多かった年齢(初婚年齢の「最頻値」)2は26歳であり、27歳以降は、年齢が上がるごとに婚姻件数が大きく減少している。男性についても同様の傾向が見られ、令和2(2020)年の初婚年齢の「平均値」は31.0歳、初婚年齢の「最頻値」は27歳であり、初婚年齢の「平均値」と、初婚年齢の「最頻値」の間に女性は約3歳、男性は約4歳の差があった。』「平均値と最頻値考察~「平均初婚年齢」と「初婚年齢の最頻値」の間には3歳から4歳の差~」より引用 https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r04/zentai/html/column/clm_01.html 他者との比較は、学校の成績や、会社での業務の遂行状況の評価という、特定の評価基準という、きわめて限定的な条件の下で成り立つものですから、自分の生き方の実現の一部である結婚においては、他者や統計データとの「比較」で判断することはあまり意味がありません。「最頻値からは離れるにしたがって結婚はしにくくなる」とか、「平均初婚年齢を超えると結婚は難しくなるようだ」とか、ということは考えない方が良いと思います。そのように考えても、あなたには何のメリットもありません。なぜならば、統計上の結婚最頻値(年齢)が男性27歳、女性26歳、平均初婚年齢が男性31.0歳、女性29.4歳であって、あなたが仮に35歳であって結婚をしたいと希望するならば、あなたが今できることをする以外に、結婚に至る方法ありませんから、「最頻値からは離れるにしたがって結婚はしにくくなる」とか、「平均初婚年齢を超えると結婚は難しくなるようだ」とか考えることは、「あなたが今できることをする」という行動を妨げることにつながる可能性がありますから、あなたの害になっても利益になることはありません。「最頻値からは離れるにしたがって結婚はしにくくなる」とか、「平均初婚年齢を超えると結婚は難しくなるようだ」とか考えることは、「相当苦労するだろう」「できないかもしれない」・・・結婚をあきらようか・・・という方向にはたらく可能性もあるでしょう。あなたがこれらの年齢を超えているのであれば、26歳の自分も27歳の自分も29.4歳の自分も31.0歳の自分はもはやどこにもないのですから、統計値と現在の自分を比較することに意味はなく、比較することによってあなたの結婚への意欲をくじくのであれば、統計値と自分との比較は害毒です。あなたにが仮に35歳であれば、あなたには35歳の現在の自分があるだけなのですから、35歳の自分ができることをする以外にできることはありません。なぜこんなことをくだくだとお伝えするかというと、すでにお話したように、人は『感情を刺激して育てられることは、褒められる行動をして褒められるという報酬を得ること、叱られる行動をして恐怖や嫌な気持ちになることを回避することにつながります(親もその様な効果を本能的に期待しています)から、人は結果として、脳の報酬系の機能(欲求を充足して心地よいという「報酬」を得たいという性向)や、恐怖と関連する偏桃体の機能(それは怖いこと嫌なことだから回避しようという性向)を強化することになると考えられます。』ので、人から良く思われること、つまり自分がしたいことではなくて、人から良く思われることを通じて、『脳の報酬系の機能(欲求を充足して心地よいという「報酬」を得たいという性向)』を刺激してしまうことがあるからです。「人から良く思われること」を無意識に求めていると、「この年で婚活して失敗したら恥ずかしい」という「非機能的な自動思考」も生まれます。致し方ありません。人の目を意識して、人から良く思われることによって『欲求を充足して心地よいという「報酬」を得たいという性向』を、人は心に植え付けられて、育つのですから、人の目を意識することは、人が育つ過程で人の心にビルトインされている、と言ってよいでしょう。
お見合や交際の振り返りを拝見する中で、少ないながら、他者(お相手)との互恵的な関係構築、つまり双方にとって快適な関係をつくることが苦手な方なのかもしれない、と感じることがあります。とはいっても、全ての人と良好な関係をきずかなければならない、というわけでは当然にありせん。フィーリングが合わない、考え方や価値観が合わない等のお断り理由をいただくこともありますが、お付き合いのご報告から察するに、お相手との互恵的な関係構築が苦手、ご自分のご要望と相手のご要望をうまく共存させ得る良好な関係づくりに苦戦されるているようだ、と感じるケースが相当数あります。フィーリングが合わない方、考え方価値観が合わない方でも、交際してみなさい、ということを言っているのではありません。フィーリングが合わない、考え方価値観が合わない方と出会うことの方が奇跡でしょう。フィーリングや考え方価値観は少しずつ、お互いに理解してゆくものではないでしょうか。そのためには、良好な関係作りができることが前提になります。お相手との互恵的な関係構築に苦戦することの根底には、「ご自身の他者への反応パターンが、お相手との互恵的な関係構築に関しては機能的でないこと」があるかもしれません。反応パターンの前提にある『経験から構築された自分や他者、自分と他者を総合した世界への一般化された概念的理解=出来事を解釈し先行きを予想し、自分が遭遇する環境への適用のガイドライン』のようなものに影響されます。これがスキーマや中核信念と呼ばれるものです。「スキーマや中核信念」に、例えば「私は人に好かれない(親が自分に関心、愛情をを示さなかった)」「男(女)は信用できない(過去に手痛い経験をした)」というものがあったとしたら、「スキーマや中核信念に基づいた他者への反応」は、あまり効果的であったり信頼関係を築くことには障害となる可能性があります。「スキーマや中核信念」+「スキーマや中核信念に基づいた他者への反応」を合わせると「性格」ということになります。「性格」=「あなたそのもの」ではない、という前提で、他者との効果的な関係作りが苦手な方は、性格に課題を抱えている方なのかもしれません。性格に課題を抱えている、ということは、性格が悪いとかいうことでは全くありません。「スキーマや中核信念」は、その人のおかれた幼少時の環境からの刺激や経験に対処して作られ、もし環境からの刺激がその人に対して苦痛をもたらすものであったとすれば、出来事を自分なりに解釈し、理解し、納得しようとすることによって苦痛を和らげよう、という欲求の元に行われるだろうと考えられるからです。苦痛を和らげる方法が、苦痛を与える人に対して、抗議する、自分への接し方を改善するよう要求するという「働きかけ」ができるのであれば、あまり問題は生じません。抗議する、自分への接し方を改善するよう要求するなどの「働きかけ」できなければ、自分の中で苦痛を和らげようとするしかなく、「出来事を自分なりに解釈し、理解し、納得しようとする」しかありません。「(殴られたり冷たくされるのは)私が悪いからだ」とか、「みんな私に意地悪する」「人はみんな意地悪だから周りの人には気を許してはいけない」などの、あまり機能的でない信念を形作り、自分を納得させようとするかもしれません。幼少期のように「働きかけ」て、自分のおかれている状況を改善したり環境を変える能力がなく、そのように考えるしか、自分がなぜそのような苦痛を受けるのかという疑問を納得させる方法がないならそれは合理的です。誰もそれを批判できないでしょう。機能的でない信念、という意味は、幼少期では機能的(苦痛を和らげるため一定の効果がある)であっても、成長し自らの行為によって、抗議する、自分への接し方を改善するよう要求することができるようになっていれば、「私が悪いんだ(だから殴られても仕方ない)」とか、「みんな私に意地悪する」「人はみんな意地悪だから周りの人には気を許してはいけない」という信念は、現在のあなたにとっては機能的ではないですよね、という意味です。スキーマや中核信念は、私はこういう人、他者とはこういう考え方をして行動をする人、私と他者との集合体としての外界・社会・世界とはこういうものという理解で、自らの体験を消化するときや、他者とのかかわり行動を考え行動する時に参照するものですから、だれでも持っています。しかしながら、いじわるな人はいてもすべての人がいじわる、ということはありませんから、「みんな私に意地悪する」「人はみんな意地悪だから周りの人には気を許してはいけない」というスキーマや信念は機能的ではありません。機能的ではないとは、あなたの行動を、他者との関係で不適合なものにしてしまう、という意味です。少し大変なのは、「みんな私に意地悪する」「人はみんな意地悪だから周りの人には気を許してはいけない」という考え方が、意識の表層に現れる自動思考(無意識のつぶやきのようなもの)であれば、比較的容易に検知できますが、自動思考よりは深奥にあるスキーマや信念であった場合は、自動思考とは別の検知のための方法が必要です。後にご説明しますが、スキーマや信念を検知するには、生育暦や現在の機能的でない(他者との関係で不適合な)行動などから「概念化」することで把握します。スキーマや信念は、自分の体験を解釈し判断し、時に体験をいわゆる自我に統合し、または統合を拒否し(ゲシュタルト心理学では未完の仕事などと言われます)、考え行動する時など、あなたの感じ方考え方のすべてをふるい分ける「フィルター」というイメージで考えてもらうといいでしょう。ですから、あなたが何かを感じるとき考えるときには、スキーマや中核信念の影響を受けています。誰でも持っていますが、まったく同じではありません。それは、各個人の体験をもとに、体験時点での個人の感じ方に基づいて、各個人が作り上げるからです。ですから、「完全完璧なスキーマや中核信念」というものは無く、また「完全完璧なスキーマや中核信念」を想定することも無意味です。標準型がないのですから、誰のものであれスキーマ・中核信念は多かれ少なかれ歪んでいる、言い換えれば、だれでも多かれ少なかれ性格に課題を抱えているといっていいと思っています。その歪みを個性と言ってもいいでしょう。性格が、「スキーマや中核信念」+「スキーマや中核信念に基づいた他者への反応」だとするならば、あなたの態度、行動をAさんは、Aさんのスキーマ・中核信念を参照して好ましく感じ、同じあなたの態度、行動をBさんは、Bさんのスキーマ・中核信念を参照してあまり好ましく感じない、ということも起こりえます。私自身性格は、少なからず課題を抱えていると思っています。どうやらスキーマ療法でいうところの早期不適合スキーマを温存、すなわち自分で気づかないように抑圧して生きて来たようです。この方は互恵的な関係構築に苦労されれているのではないか、と私が感じるのは、・多少なりとも自分の性格に問題を抱えている、と認識している私が、・互恵的な関係構築に苦戦される方々に自分との共通点を観ているような気がして、・この方はたぶんこう感じてこういう行動をとっていて、それをご自分でも意識せず、・お相手にも理解されないからからかもしれない、と感じるから、ということであるように思います。私が抱える性格上の課題を、認知行動療法で行う「概念化」という技法により簡単に説明すると、1.幼少期両親(特に母親)との関係から、私は無力感・無能力感・無価値観、厭世観、希死念慮(スキーマ)を抱いた。2.しかしスキーマの形成時及びその後を通じて、スキーマについて十分には認識できていなかった。3.社会人となって大過なく仕事はこなしてきたが、スキーマは修正されることなく維持されてきた。4.強度のストレス時には、無力感・無能力感・無価値観は、厭世観、希死念慮などをもたらすということを体験から理解した。5.上記のスキーマは、認知行動療法およびスキーマ療法の考え方+ヴィパッサナー瞑想によって自ら知ることとなったものです。スキーマ自体は、修正しない限り、生育、成長とともになくなるものではないようです。むしろ様々な経験を重ねる中で、スキーマに合致する出来事をより強く認識することで、スキーマが維持強化されることもあるようです。自分にとって苦痛をもたらすスキーマは、高ストレスでない状態では、通常抑え込まれており、あまり不都合を感じませんが、高ストレス状態となると抑え込むことができなくなり、危機的な心理状態をもたらすようです。私の場合、無力感・無能力感・無価値観は、強度のストレスがない状態では、厭世観や希死念慮を生み出しませんが、力がない、能力がない、価値がないという「自己認知」は、「欠乏感・飢餓感」を生み出し、「欠乏感・飢餓感」を解消したい(=欲求を充足したい)という欲求を生み出しますから、心が落ちつくことがなく、ありのままの自分が今ここにいてもよいのだ、という感覚を持つことができません。ただし通常はこのような感覚には気付きません。私は長らく気付いていませんでした。気づいたのは認知行動療法やスキーマ療法を学んだ後にヴィパッサナー瞑想によってです。そして、力がない、能力がない、価値がないという「自己認知」は、私に、力がある人と見られたい、能力があると認められたい、ありのままの自分を受容されたい(=自分にはその価値がある)という欲求を生み出し、他者との関係のなかその欲求で満たそうとし、そのような欲求に基づく行動が、状況によっては他者との互恵的な関係作りを妨げること(過度に自己主張をしてしまうなど、またそれが自己嫌悪にもなり得る)につながる、ということが自分自身の性格上の課題であると感じています。多かれ少なかれ、人は自分の持っている欲求を、他者との関係の中で満たそうとするのでしょうが、自分の持っている欲求が強すぎると、他者との互恵的な関係構築を阻害してしまうようです。ですから、このブログは、・「私は性格に課題を抱えていない人」と思っている人が、・あなたを「性格に課題を抱えている人」だと判定したり、・ここを直しなさいとか指摘するものではなく、・「私=性格に問題をかかえる人」が、・「自分が抱えている性格上の課題にどう対処してゆくか」ということを考え悪戦苦闘していることが、・お相手との互恵的な関係作りに苦戦されているかもしれない方に、多少なりとも役に立つかもしれない、という観点からお話するものです。自分が抱えているのと同じ悩みを他者にも見てしまうのは、ヴィパッサナー瞑想をしてきた結果であるように思います。ヴィパッサナー瞑想の方法論は、まず自分の心のはたらきを観て自分の心(悩み苦しませているもの)を知り、自分の心(悩み苦しませているもの)を知ったら、その眼で他者を観てみて、ああ同じように悩み苦しみを抱えているのだな、と理解したらその理解は「法」、つまり、あなたにも他者に共通する人の心のはたらきと認知のしくみなのだ、とわかりますよね、というヴィパッサナー瞑想(マインドフルネスの源流)の方法論によります。例えて言えば、自分が知ろうとしなかった自分、知らなかった自分の心の中に分け入って「心の探検記録」を作り、その「心の探検記録」と他者の行動を照らし合わせてみなさい、他者の行為が「心の探検記録」と合致するのであれば、それはあなたにも他者にも役立つ「心の探検記録」、つまり法則性のある規律、「法」=ダンマですよね、ということになるでしょう。誤解しないでいただきたいのですが、ヴィパッサナー瞑想をつらい修行のようなものととらえないでください。解脱を目指す出家者であれば、修行としての厳しさはあるのかもしれませんが、私たちは出家者ではありません。むしろ、ヴィパッサナー瞑想は、体と心が喜び安心安楽な状態を実現するために行う、と言っていいと思います。体と心が喜び安心安楽な状態が実現されるから、嫌悪感や恐怖や不安を感じることなく、自分自身を見つめ、自分にとって効果的でない、つまり自分の役に立たない考え方と体と心の反応パターンを捨てる、ということができるようになります。役に立たない考え方と体と心の反応パターンを捨てるということによって、自らを癒し苦悩を低減することができます。自分を観てその目で他者を観るという方法論は、ヴィパッサナー瞑想を説いた釈迦によって、次のように説明されています。『内に〔自分自身の〕心に関して心を観察し、また、外に〔他人の〕心に関して心を観察し、あるいは内と外〔、自分自身と他人の〕心に関して心を観察してゆくのである。』(春秋社 原始仏典第2巻 第22経「大念処経」〔〕は訳者渡辺研二さんの補足。)阿含経の大念処経や六六経、大六処経、治意経、念身経には、釈迦が「心のはたらき」「認知のしくみ」をどのようにとらえ、どのように悩み苦しみが生じて、それを無くすにはどうしたらよいと考えたかが説かれています。ちなみに、阿含経は、大乗仏教から小乗、つまり劣った教えと呼ばれた仏教教団が、釈迦から教えを受けた人々が釈迦の教えとして守り伝えてきた経典です。日本の仏教は大乗仏教が伝来しましたので、阿含経は重要視されてきませんでした。マインドフルネス(mindfilness)という言葉は、イギリスのリス・ディヴィッズさんという方が、パーリ語(阿含経はパーリ語です)のサティ(sati、漢語訳「念」)を英訳する際に当てた言葉です。その後、マインドフルネスは、注意集中であるという考えが定着し、心理療法分野で、MBSR(マインドフルネスストレス低減法)やMBCT(マインドフルネス認知療法)などが考案され、その影響は他の心理療法などにも広がっているようです。釈迦が阿含経で説く方法論を参考にして、瞑想によって自分の心のはたらきを理解してゆくと、自分の中に悩み苦しみが生じるプロセスや原因を知ることができます。難しいこと(小難しい概念)が書いてあるわけではなく実践論として、「こうしてみなさい」、「そうすればこうなるよ」、というスタイルで書かれており、瞑想を続けていると、「こうしてみなさい」と「そうすればこうなるよ」との間を自分で埋めることができ、ああなるほど釈迦はこういう心のはたらきやしくみをいっているのだな、と理解できます。そして釈迦の言うことを理解することを通して、自分の「心のはたらき」「認知のしくみ」を理解してゆくことができます。当然、釈迦の説いた「法」=「体と心のはたらき認知のしくみ」は、認知療法や信念、スキーマといった心理学やそれら概念の無い時代に、深い瞑想によって自らの体と心の観察と考察から、人の体と心のはたらき、認知のしくみについて説いたものだと考え得ています。釈迦が瞑想により到達した「体と心のはたらきと認知のしくみ」は、認知療法、行動療法や信念、スキーマといった心理学やそれらの概念と矛盾しません。矛盾しないのですから、認知療法やスキーマ療法に取り組むのであれば、マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)に取り組み、自分の体の感覚、心の状態を知り、認知療法やスキーマ療法の枠組みで、自分の心が落ち着かない理由、苦悩している理由を考えることも可能です。釈迦の説く法は(私の理解では)、「体と心のはたらき認知のしくみ」、つまり今日言う「認知論」であって、森羅万象を説明するような類のものではないように思います。また、認知論ではあるのですが、下記にご説明するように、「体と心のはたらき認知のしくみ」を自らの心の観察と考察によって理解し、自らの心に生まれる認知を知ったならば、苦しみが生まれる原因を知ることもでき、次に段階では、苦しみが生まれないようにする行為を自ら選び取り生活することも説いていますから、行為論も説いています。釈迦の方法論を受けついだ方々は、どうも認知論では満足せず、釈迦は、この世のすべての真実を解き明かしたのだと考え、釈迦の語ったことを、釈迦の語っていないことへと「法」の適用範囲を広げた印象を持ちます。後に引用しますが、グレゴリー・ベイトソンさんが言われるように人は、足を踏まれてもそれを人は直接体験できない、という立ち場から考えると、人は外界も他者の行為も直接体験できず、体(感覚受容器官)から受け取った情報を基に、脳内に形成されたイメージによって外界も他者の行為も把握(=認知)する、ということになり、人にとっては認知しうることがすべて、認知しうるのものはこの世に存在すると認知し、認知できないものはこの世に存在しないと認知する、ということになります。そして私は、釈迦の説く「体と心のはたらき認知のしくみ」は、人は体と心を通して外界を認知するが、その認知方法は、事実と考えるには支障がある認知も生じる(それが苦しみであり苦しみの原因)、というものであったと理解しており、グレゴリー・ベイトソンさんの認知についての指摘、認知療法の前提となる、人は事実によって苦しむのではなく、事実によって形作られたその人の認知によって苦しむのだ、という考え方と基本的には同じものだと考えています。そのような前提に立つと厄介な問題が出てきます。それは、かなり自由に、実際には「ないこと」も頭の中では作り出すことができて、それを事実ととらえて物事を考える、ということです。釈迦は、人は心地よいことに魅了され執着する性向があるから、ありえないことや実現できなことも心の中で作り出して、それを自分だと思って気持ちよいと感じて執着し、逆に心地よくないことに怒りを覚えてしまい、そのような体と心のはたらき認知のしくみに気がつかないから、自らを苦しめているのではないですか?と言っているように感じます。大念処経や六六経、大六処経、治意経、念身経を読み、ヴィパッサナー瞑想を行っていると、釈迦は以下のようなことを言っているのではないか、という思いが生まれます。・人とは認知する機能であり、体は眼や耳など認知を成立させる要素であり、なおかつ認知(感受)の対象でもある・人とは認知する機能であって、存在するものではない・生きるとは、認知し続けることであり、認知は休むことなく行われている・認知する器官、感覚、認知した対象、心に生じた想いや欲求を「わたし」であると考えているがそれはわたしでもなくわたしのものでもない・わたしではなくわたしのものでもない認知する器官、認知する感覚、認知した対象、心に生じた想いや欲求を心地よいと感じ執着する性向がある・人は心地よいと感じることが獲得できかったり不快なもののに遭遇すると怒り、うらむ感情が発生し人を苦しめる(体に苦受が発生する)・認知する機能はコントロールできず、今ここに無いこと、不可能なことも心の中では生まれつづける、そして人はそのことを意識しない・コントロールできず意識もしないから、悩み苦しみをもたらす認知も生じる(認知療法の非機能的な自動思考に類似するとらえ方)・自分の体の動きを注意して行い集中力を養い、体が感じていること、心に生じたことの観察することにより(釈迦の説く七つの段階(七覚支)の第一段階、ここでの出来事にフォーカスするのがマインドフルネス)・観察への集中によって欲求(こうしたい)と欲求に基づく意図(こうしよう)を止滅させると、好き嫌いや恐怖心を抑制できる(欲求や意図の生成を止めることによって脳の報酬系、偏桃体への刺激を抑制するようです)(「好き嫌い」「怖い」とい感情が無くなれば「わたし」という意識は希薄化します。)・好き嫌いや恐怖心がなくなると、喜びと安らぎが生まれ、喜びと安らぎが生まれるとさらに集中力が高まる・高まった集中力で観察すると、好悪や恐怖を感じることなく悩み苦しみをもたらす自分の認知を知ることができる(スキーマレベルでの理解)・どのようにして悩み苦しみをもたらす認知が生まれるのかは自分で知るしかない(他者は自分の代わりにやってくれませんから)・悩み苦しみの正体(原因と誘因)がわかったら、悩み苦しみの原因を断てば悩み苦しみはなくなることを理解できる(四聖諦=釈迦が説いた苦しみを無くす4ステップ、1ステップは、悩み苦しみを正しく知ることなので、少しつらくなるかもしれません)・あなたが行った行為はこの世であなた返ってくるのだから、悩み苦しみを生む誘因を断つ行為を選択すれば、あなたは悩み苦しまなくてすみます(「心のはたらき認知のしくみ」の活用による苦しみの把握から苦しみを無くす実践論=行為論の段階)釈迦の方法論は、最終的には自らの意志によって行為を選択することに行き着きます。これは行動療法と同様の考え方だと言えるように感じます。出来事による刺激を受けて発生した自らの認知が悩み苦しみをもたらす、という考え方は認知療法類似の考え方です。釈迦が説いた「法」=ダンマは、人の「体と心のはたらき認知のしくみ」であり、釈迦の説いた「法」を頼りに弟子たち(そして現在の私たち)は、自らの心を探求し、悩み苦しみを生み出す原因、プロセスを識り、悩み苦しみをなくすのですから、法は、釈迦が弟子たちに行った心理教育です。悩み苦しみをもたらす認知がどのように生まれるのかを知ることは、スキーマレベルでの気づきをもたらすでしょう。このように考えるがゆえに、釈迦が創始したとされるヴィパッサナー瞑想(マインドフルネスの源流に一つ)は、マインドフルネスの源流とされますが、ヴィパッサナー瞑想それ自体が心理療法であるように感じます。自らの体と心を癒すために、体の動き、体の感受(感覚)を観察し、集中力と観察力を養い、高度なリラクセーション状態(愛着や嫌悪、恐怖の無い状態)で心を自由に観察し考察し、自らの(自らを苦しくするという意味での不適合)スキーマを識り手放すことを可能にします。「認知する器官、感覚、認知した対象、心に生じた想いや欲求を「わたし」であると考えているが、それはわたしでもなくわたしのものでもない」⇒わたしでもなく、わたしのものでもないと気付き、それが体験的に理解できれば、自分の他者への反応パターンを「手放すことへの抵抗」はないことになります。「高まった集中力で観察すると、好悪や恐怖を感じることなく悩み苦しみをもたらす自分の認知を知ることができる」⇒それをいいとか悪いとか考えず、恐怖も感じないのですから自由に知り考えることができます(仏教でいう如実知見)という点は、ヴィパッサナー瞑想がスキーマの一部除去、修正に対して持つ優れた点であると感じます。ヴィパッサナー瞑想はスキーマ療法類似の効果があると感じています。ヴィパッサナー瞑想は、心の集中から始めて、すこしづつ上記のような階段を上ってゆくようなものだと思います。自分の経験から言えば、一段上るのにすごく時間がかかることもありますし、時には一気に数段登れることもあるようです。また、先に「性格」=あなたそのものではない、と言いましたが、釈迦は、阿含経の六六経の中で、眼や耳などの感覚する器官と感覚する機能、生じた感覚(感受)と、見たものや聞いたものなど認知したこと、それらに基づいて生じた欲求を、わたしのものではない、わたしではない、わたしの自我ではない、とみなすことの必要を説いています(春秋社 原始仏典第7巻 第148経「六六経」)。ここでの自我とは、現在の自我とは異なり、釈迦在世時のインドで支配的であったウパニシャッド哲学による、永遠不滅の自己であるアートマンを指しているようですが、ここでの「わたし」は、現在の自我概念にも通じると思います。よく「無我」と言われますが、それはわたしでは無い、と解釈した方が良いと思います。わたしたちがわたしだと思っているもの、それはわたしではなく、わたしのものでもない、つまり、それはわたしではない=「非我」と解釈した方が適切であるように思います。「非我」と説明される方もいらっしゃいます。釈迦は、自己は存在するとも存在しないとも言わなかったようです。『アーナンダよ、私が遍歴業者ヴァッチャゴッタに「自己は存在するのか」と問われたときに、もし私が「自己は存在する」と答えるならば、アーナンダよ、これはかの永遠を説く行者・祭官の側になってしまう。またアーナンダよ、遍歴行者ヴァッチャゴッタに「自己は存在しないのか」と問われたときに、もし私が「自己は存在しない」と答えるならば、これは、かの断滅を説く行者・祭官らの側になってしまう。(馬場紀寿先生「初期仏教ブッダの思想をたどる」 岩波新書1735)。少し話が変わりますが、釈迦は、「一切」として以下のように説いています。『比丘たちよ、なにおか一切となすのであろうか。それは眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。比丘たちよ、これらを名づけて一切というのである。』(筑摩書房 阿含経典第三巻 増谷文雄先生)大念処経(春秋社 原始仏典第二巻)ではこのように説いています。『身体のなかで生起してくる現象を観察し、また、身体のなかで消滅する現象を観察し、また身体のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの〔増えていく〕程度にたいし、自覚の〔増えていく〕程度にたいすると同じ程度に、『ただ身体のみが存在する』という念いが、かれには表れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、何ものにも執着しないのである。』『感受のなかで生起してくる現象を観察し、また、感受のなかで消滅する現象を観察し、また感受のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの〔増えていく〕程度にたいし、自覚の〔増えていく〕程度にたいすると同じ程度に、『ただ感受のみが存在する』という念いが、かれには表れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、何ものにも執着しないのである。』『心のなかで生起してくる現象を観察し、また、心のなかで消滅する現象を観察し、また心のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの〔増えていく〕程度にたいし、自覚の〔増えていく〕程度にたいすると同じ程度に、『ただ心のみが存在する』という念いが、かれには表れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、何ものにも執着しないのである。』『もろもろの事象のなかで生起してくる現象を観察し、また、もろもろの事象のなかで消滅する現象を観察し、またもろもろの事象のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの〔増えていく〕程度にたいし、自覚の〔増えていく〕程度にたいすると同じ程度に、『ただ事象のみが存在する』という念いが、かれには表れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、何ものにも執着しないのである。』私は上記「もろもろの事象のなかで生起してくる現象」とは、「身体のなかで生起してくる現象」「感受のなかで生起してくる現象」「心のなかで生起してくる現象」と、「身体のなかで生起してくる現象」「感受のなかで生起してくる現象」「心のなかで生起してくる現象」を引き起こす対外世界(自分の認知の対象)の把握、ということであると考えています。「ただ身体のみが存在する」「ただ感受のみが存在する」「ただ心のみが存在する」という認知を通じて「ただ事象のみが存在する」と認知するに至るのであれば、それは、身体、感受、心の存在を前提して、事象が存在すると宣言していることになりますから、事象は身体、感受、心(思うこと考えること)のはたらき、つまり「体と心のはたらき、認知のしくみ」ということになると思います。いやそうではなく、釈迦はこの世の出来事全てを理解したのであるから「事象」は、「この世のすべての出来事、森羅万象」であると主張するとするならば、この世のすべての出来事は、「ただ身体のみが存在する」という認識(考えること)による身体と、「ただ感受のみが存在する」という認識による感受と、「ただ心のみが存在する」という認識による心のはたらきによって把握されると考えるのが妥当ですから、「この世のすべての出来事」は身体、感受、心が把握したこと、ということになります。それゆえ私は、釈迦が説いた「法」は、「人の体と心のはたらき、認知のしくみ」つまり現在の認知論アプローチであると考えています。釈迦は、眼や耳などの感覚する器官と感覚する機能、生じた感覚(感受)と、見たものや聞いたものなど認知したこと、それらに基づいて生じた欲求を一切とする一方で、わたしのものではない、わたしではない、わたしの自我ではない、としたうえで、認知する機能の担い手としてのわたしは否定しようがなく、苦しみの根源を知った後には、苦しみを生み出さない行為を自らの意志によって選択し実践することを説いていますから、意思によって行為を選択するという機能の担い手としてのわたしは存在すると考えるほうが整合性があります。それゆえ釈迦は、わたしをあるともいわず、無い、とも言わなかったのだろうと感じています。見方を少し変えれば、人は、認知する機能、意思により選択し行為する機能であるのだから、ヴァッチャゴッタの「自己」が存在するかどうかという質問には(自己とは機能なのだから、物質のような存在を前提にした質問には)、答えないことが最も適切、ということであったかもしれません。釈迦の方法論を心理療法と考え実践するのであれば、仏教の理解に従う必要はありません。私が仏教徒でなく、仏教徒になれない理由です。「わたし」について、このような見解もあります。『人は状況に応じて異なる行動をとり異なる感情を持つが、それら異なる自分の姿を通じて、なおかつ一貫して存在する「わたし」を仮定するようになるのである。考えてみると、「わたし」とはひとつの虚構、おそくらは人類が手にした最大の虚構であるともいえる。』(大山泰宏先生、改定新版人格心理学 NHK出版)。『わたしのものではない』というのは、自分でコントロール(意図)することなく生じるから「わたしのものではない」し、「わたしのものではない」のだから、自分だと思っている自分で作ったもの(経験により虚構としての「わたし」として構築されたもの、そこには「識」「スキーマ」などが構築要素になる)に執着して苦しむなら、それを手放すことに抵抗する理由はないではないか、というふうに釈迦は言われているように感じます。現代でも、多くの人は中核信念やスキーマ、早期決断や禁止令と言った概念は持ち合わせておらず、それらが自分の認知に影響するという理解はないでしょう。通常自分ではこれらに気付くことはできません。例えば飲み会に誘われなかったという出来事をどう認知するかは、中核信念やスキーマ、早期決断や禁止令といった概念で説明される「心のはたらき」に影響されるでしょう。たとえば誘われなかった方が「存在してはいけない」という禁止令を持っていたとすれば、誘われなかった方は「存在してはいけない」という禁止令に基づく認知(私なんかいないほうがいいんだなど)を形成して、さらに「存在してはいけない」という禁止令を強化してしまうことになります。さらに苦痛なことは無かったことにする、というコーピング(対処策)を使って気付かない、考えないようにして対処せざるを得ないでしょう。禁止令に限らず中核信念やスキーマは、幼少期の自分が感じた特定の苦痛(苦痛を感じる体験)を和らげるために、幼少期の自分が受けた特定の苦痛を理解もしくは解釈して、自分を納得させるために作り出したものと考えてよいと思います。極端な例ですが、虐待を受け続けていれば、子どもは「自分は悪い存在なんだ、自分はいない方がいいんだ」と考えて、虐待されることに自分なりの説明をつくりだし、それによって納得して虐待に耐えようとする可能性は十分にあります。幼い子供にとっては、自分より圧倒的に力のある存在(親や養育者)に対抗する力はありませんから、「自分が受けた特定の苦痛を理解もしくは解釈して、自分を納得させる」ことでしか自分を慰めることができません。成長して、自分が親や養育者に対抗する力を得たならば、親を攻撃するようになる可能性も生じるでしょう。憎悪は攻撃ととらえてよいでしょう。しかし、親を攻撃しても本人が「自分は悪い存在なんだ、自分はいない方がいいんだ」という信念もしくは「存在してはいけない」という禁止令に気付き、無力化しない限り、本人の苦しみは続くことになります。親や養育者に対する攻撃は、木に縁りて魚を求む、状態です。求不得苦の文脈で理解してもよいように思います。親を攻撃しても、「自分は悪い存在なんだ、自分はいない方がいいんだ」という信念もしくは「存在してはいけない」という禁止令がもたらす苦しみはなくなりませんから、苦しみを無くす効果は得られません。ですから深刻なのは、「自分は悪い存在なんだ、自分はいない方がいいんだ」という信念や自分自身が「存在してはいけない」という禁止令をもっている、ということを意識していないことです。「自分は悪い存在なんだ、自分はいない方がいいんだ」という信念や「存在してはいけない」という禁止令をもっている、ということを意識していないのであれば、その信念や禁止令が、自分の外界の理解に反映され自らを苦しめ続けることも当然意識できません。この場合の苦しみは、いつもソワソワしていて安らぐことがない、満足した感覚がない、私はここにいては良くないのではないか、という感覚などを感じることが手掛かりになります。釈迦が、眼や耳などの感覚する器官と感覚する機能、生じた感覚(感受)と、見たものや聞いたものなど認知したこと、それらに基づいて生じた欲求を、わたしのものではない、わたしではない、わたしの自我ではないと捉えたのは、中核信念や禁止令が自分の欲求を形成するにもかかわらず、どのようにしてそのような欲求が生まれるのか、あなたは把握できていないでしょ(釈迦は当然把握できるようになったのでしょう。釈迦の説く欲や執着がそれを示していると考えています。)、把握できていないのだから、それをコントロールすることもできないよね(その状態を「痴」というようです。)、ということを言っているように思います。そのように考えると四聖諦は、スッキリ理解できます。四聖諦は、概ね(その通りにすすむわけではないこともあるという意味で概ねといっています)、初禅で現れる粗い考察、微細な考察で心の随観を行い①②③の理解に至り、④を行為として実践することで苦しみはなくなるという、釈迦が説いた方法論です。④においては集中力を用いて、苦しみの原因と誘因を捨離(遠離=自分から放)し、それに代わって自分に好ましい性向を定着させるという方策を取るようです。「マインドフルネス」はパーリ語の「sati」の英訳で、一般に注意集中とされるようですが、日本語(漢訳)では「念」をあて、意識を集中して自分の中に好ましい性向を作り出す、ということを指すようです。春秋社の「原始仏典第2巻第22経大念処経」の註では「心を一点にとどめて決意することを「念」(sati.Skt.smrti)という。」とされています(rは下に「.」が付きます)。「集中力を用いて、苦しみの原因と誘因を捨離(遠離=自分から放)し、それに代わって自分に好ましい性向を定着させる」という局面はまさしく「念」です。苦しみを特定し早期不適合スキーマが苦しみ(自分、他者への不適応)の原因であれば、早期不適合スキーマを遠離します。早期決断が苦しみ(自己、他者への不適応)の原因であれば、早期決断を遠離します。禁止令が苦しみ(自己、他者への不適応)の原因であれば禁止令を遠離します。①これが私の苦しみだと特定できれば ②その苦しみが起こること観て原因と誘因が特定できる③原因が特定出来たら原因と誘因を除去すれば苦しみをなくすることができる④苦しみの原因と誘因を遠離(捨てる)することを行い、苦しみを遠離するさらに、釈迦は、生じた感覚(感受)には、「楽の感受」(気持ちよいと感じる)、「苦の感受」(不快に感じる)、「苦でも楽でもない感受」があり、「楽の感受」をうけているときに喜び、歓喜し、それに執着し続けるなら、「執着する性向」が潜在し、「苦の感受」をうけているときに、愁い、悲しみ、嘆き、泣き、迷妄におちいるなら、「怒りうらむ性向」が潜在し、「苦でも楽でもない感受」をうけているときに、その感受の生起と滅没、楽しさと危険性、その感受からの遠離、それらをあるがままに知らないなら「愚かさという性向」が潜在する、と説いています(前掲春秋社 原始仏典第7巻 第148経「六六経」)。人には上記のような性向があるがゆえに、「楽の感受」も「苦の感受」、「苦でも楽でもない感受」も「わたしのものではない」と認識することによって、喜びや歓喜、愁いや悲しみに反応してそれに執着することを止め、苦でも楽でもない感受の生起と滅没を観察してゆけば、観察力が向上し、「執着する性向」、「怒りうらむ性向」「愚かさという性向」が潜在することを止めることができ、悩み苦しみをありのままに知ることができますよね、ということであると思います。このように考えると、想起されるのは、マインドフルネス認知療法のプログラムが到達したいと考える地点、ゴールとの類似性です。気分が低下した時に、気分を下げる思考が生まれ「反芻」が継続すれば、ますます気分が低下し「怒りうらむ性向」が潜在する、ことになるでしょう。マインドフルネス認知療法では、気分の低下➡気分を低下させる思考の生起➡気分を低下させる思考の反芻➡さらなる気分の低下、活動への活力の喪失➡うつの再発、というサイクルを断つことを目指して、思考している自分を冷静な目で見る態度を養い、「思考は真実ではない」と考える態度を養うことで、気分を低下させる反芻の影響を和らげることを目的としています。「思考している自分を冷静な目で見る態度」は、「体と心は認知を成立させる要素でもあり認知(感受)の対象でもある」ということを、体や呼吸へ注意を向け、自分の心に生じた思考や感情を注意の対象とするマインドフルネスによって体験的に理解するならば、比較的容易に到達できるでしょう。「自分のものだと思っているが実はしっかりと観察したことがない」体の動きや感受を観察して体への感受性を養うことが、「自分のものだと思っているが実はしっかりと観察したことがない」心(思考、感情)の観察能力の向上へととつながるのでしょう。また、観察を通して、観察する主体と観察される対象が別々ではなく、人は、観察する主体と観察される対象が同居している、ということを知ることにもなるでしょう。ちなみに、マインドフルネス認知療法原著第二版(北大路書房)には、以下のような記述があります。『暗黙の情動の手がかりについての研究によって、私たちはほとんどの時間で、快適か、不快か、どちらでもないかに基づいて、入ってきた情報に反応していることが解っている。」「楽の感受」「苦の感受」「苦でも楽でもない感受」と、それらについて注意深く観察することなく心に生じた感情のままに反応すると、「執着する性向」「怒りうらむ性向」「愚かさという性向」が潜在する、という釈迦の観察は、2600年前に上記の研究やマインドフルネス認知療法の方法論を先取りしているように思います。また、K.M.B.ブリッジェスさんという方が、発達段階と情緒の分化について、以下のようにとらえているそうです。『一般に、新生児の情緒は未分化の興奮にすぎませんが、生後三か月頃になると快・不快の情緒がかなりはっきり分化してくるといわれます。(中略)一般に不快の情緒の方が早く分化してきます。ブリッジェスによると、情緒はだいたい二歳頃までの著しい分化をとげ、恐れ、怒り、嫉妬、快、不快、喜びなど、基本的な情緒が出そろい、さらに分化を重ねて、およそ五歳頃に成人に見られる情緒がひととおりでそろうといわれいます。』(杉田峰康 「新しい交流分析の実際」創元社)。恐れ、怒り、嫉妬は不快から分化します。不快な感情、嫌いという感情は、多分に恐れ、怒り、嫉妬を内に含んでいるかもしれないと考えてみてください。そうすれば自分に悩み苦しみをもたらす思考を理解しやすくなります。それをすることができないのは「嫌だと感じる」からではなく「恐怖がある」からかもしれません。心に思い浮かんだ言いたい一言を飲み込んでしまうのは、それを言ったら周囲の人から嫌われ仲間外れにされるかもしれないという「恐怖」が一瞬にして生じたからかもしれません。「楽の感受」は快と快から分化した情緒からもたらされる感受、「苦の感受」は不快と不快から分岐した情緒からもたらされる感受、「苦でも楽でもない感受」を快も不快もたらさない興奮によって冷静に判断できない感受と理解しても差し支えないと思います。また、五蓋(ごがい、5つのフタ)という、瞑想による平静に至ることを妨げる5つの要素のなかに、「掉挙(じょうこ)」というものがあり、心が落ち着かずソワソワすること、ざわつくこととされていますが、これは快でもなく不快でもなく、心が興奮して落ち着かない状態ととらえると、ブリッジェスさんの論と整合的です。無理に整合させる必要もありませんが、人の感情、情緒はつまるところ3種類で考えることができる、ということはいえるかもしれません。念のため申し上げておきます。私は仏教徒ではありませんし、上記のような理解を仏教理解としてご紹介するものではありません。ましてや宗教の勧誘や布教の意図はありません。私は、釈迦の方法論は、釈迦が自らの悩み苦しみを無くす試みにより到達した、自分で自分を癒す心理療法であると考えています。悩み苦しみを知り悩み苦しみが生まれる原因をしり、その原因を取り除くという心理療法を実践しつくした先にあったのが、喜びと楽の感覚も手放した絶対的な平安のころろの状態である解脱、悟りであった、ということではなかったかと思います。そのように考えるがゆえに、働き生計を維持し家庭を持っている(これから持ちたい)方が解脱を目指す必要は毛頭なく、自分に早期不適合スキーマのような(他者との互恵的な関係を築くことに苦戦することなど)、生きづらさを生み出す原因があるのであれば、それを無くす方法として取り組めばよいと思っています。不安も怒りも恐怖も執着もない絶対的な平安のころろの状態に至った人が、絶対的な平安のころろを妨げることとなるかもしれない状況に身を投じるでしょうか?意欲的に労働するでしょうか?結婚したいと思うでしょうか?頑張って業績あげて昇進するぞ、給料上げて豊かな生活をするぞ、家族を幸せにするぞということに意欲的になるでしょうか?悟りとはそういう欲求や意図を捨てた先にあるもののように思いますので、私たちは目指す必要のないものだと思っています。悟りは出家者にとっては至高の価値、究極の到達点かもしれませんが、私たちが悟りを至高の価値、究極の到達点と考える必要はないと思います。例えて言えば、出家していない人が解脱を目指すのは、医学部に入学しておらず医学の知識を体系的に勉強していな人が、医師国家試験合格を目指すようなものだと思います。医師になるために必要な知識も技術も身に付けていない人が、医師国家試験合格を目指すのは無謀、というより明らかに愚かなことです。目的地に到達するには、目的地に到達するためのルートを通らなければなりません。適合的なルートを通らなければ目的地には到達できません。ヴィパッサナー瞑想を修行として行ってきたテーラワーダ仏教のお坊さんは、ヴィパッサナー瞑想を解脱を目的として行うべき、いう主張をされるかもしれませんが、解脱を目的地として出家した人の方法論を、出家していない人に要求するのは、無理がありますから、仏教徒でない私は、ヴィパッサナー瞑想を、解脱を目的として行うべきとは考えません。もちろん、医学部に入学していなくても医師国家試験合格を目指す、出家していなくても解脱を目指す、という自由はあなたに留保されています。「性格に課題をかかえている人」と思われる人は「悩みを抱えている人」であり、悩みを抱えているのは、「過去に強烈なつらい思いをした」ということの結果であると考えています。「過去に強烈なつらい思い」をして、それが理不尽であって、自らの力で対処し改善できなかったとすれば、「過去に強烈なつらい思い」を、私が悪いのだ、と解釈し自分を納得させようとするか、理不尽なことを強いた人や環境をうらみ、他者に対して心を許さないようになるかの、どちらかの道を選択するでしょう。誰も積極的に問題を抱え、悩みたい人はいないでしょうから、このように考えざるを得ません。人は成長の過程で自己、他者、世界についての理解=信念(スキーマ)を形成して、他者を解釈して自分の身を処して他者に対処し、自分の生きている世界で起こる出来事を解釈しようとします。過去に強烈なつらい思いをすれば、なぜそうなったのかという解釈を自己、他者、世界についての理解=信念(スキーマ)に織り込むでしょう。めぐり合わせや偶然でそうなった、とは幼いこどもは思わないでしょうから、自分を攻撃(例えば親からの懲罰や叱正、他者からの暴力や威圧)した他者が悪いと思うか、それとも自分が悪いから攻撃を受けたのだと解釈することになるでしょう。そのスキーマを形成した時点では、状況を自ら改善できない無力な自分が、幼い思考力判断力で状況を解釈し、親からの懲罰や叱正、他者からの暴力や威圧による恐怖に対処しようとして形成されたものがスキーマだと考えられます。その観点から言えば、早期不適合スキーマは環境に、幼い子供が精一杯適応するための方策と言えます。両親に養われている幼少期においては、両親が絶対的な力を持っていますから、親に怒りを感じても、親の庇護をうけるためそれを抑圧して親に受け入れられる道を選択し、自分が悪かったのだ、という解釈をするかもしれません。私の場合はそうでした。注意していただきたいのですが、親が悪い、周囲の大人が悪いと言っているのではありません。親子の関係や周囲の人々との関係の中で、子供は親や周囲の人が意図していない感情を形成し、それを理解する(こうだからこうなった)ためにスキーマを形成するのですが、それが自分が悪いから、ということであったり、お父さんお母さんは私のことが嫌いなんだ、それは私が・・・だから、ということになることもあり得る、ということです。交流分析でいうところの、私のリトルプロフェッサー(子どもの英知、と理解していください)は、この人たちのすることは(自分から見て)少しおかしいと感じ、怒りを感じていたようです(それゆえ高校生のときに「お前たちを信用していない」と言ったことがあります。)。それゆえ両親と同居している間は、一生懸命怒りを抑え、両親の元を離れたとたん怒りと憎悪が私を支配するようになりました。そしてその解釈は、親だけでなく他者との関係の前提となる他者理解にも影響を与えました。両親に対して形作られた信念(スキーマ)、不信感が両親を超えて他者に対して適用されれば、効果的で互恵的な人間関係を築くことを阻害するでしょう。問題は、幼少期に『状況を自ら改善できない無力な自分が、状況を解釈しこの後の行動を環境適応的なものにしようとして作り出した』スキーマが、自己の成長に伴い、理解力判断力が向上し、自らの裁量で行動を決定することができるようになっても、『状況を自ら改善できない無力な自分が、状況を解釈しこの後の行動を環境適応的なものにしようとして作り出した』スキーマが維持されてしまった場合です。当然、周囲との関係に支障をきたします。アルバート・エリスさんという心理学者・心理療法家がいます。一般的にはあまり有名な方ではありませんが、1982年のアメリカの臨床心理学者へのアンケートでは、カール・ロジャーズについで、2番目に心理学に大きな影響及ぼした心理学者とされています。このアンケートではフロイドが3位であったことからも、1982年当時アルバート・エリスさんが心理学に大きな影響を与えたと認識されていたようです。現在の認知行動療法につながる認知療法を創始したアーロン・ベックさんとともに、心理療法において、人の認知に焦点をあてる認知的アプローチを確立した人です。私はアルバート・エリスさんの「神経症者とつきあうには」(国分康孝監訳、川島書店 1984年第1刷)を、書店で見つけ、「母親は神経症者であたかもしれない、母親との付き合い方について何か役に立つかもしれない」と思って読んでみみました。私は、同居中は母に恐怖と嫌悪(怒り)を抱きつつそれらを抑圧し、同居解消後、母は私の憎悪と怒りの対象となっていました。あらためてページをめくってみると、神経症者についての、こんな記述があります(抜粋です)。現在では神経症という診断名はなく、より細分化されているようです。『〈神経症者〉の行動は、しばしば不決断や躊躇や疑念をともなう。彼らは何かをしたくても、自分の目や人の思惑を気にして、失敗を恐れる。』『事実、全ての〈神経症者〉は、何かをわけもなく恐れている。(中略)なによりも、彼らが恐れているのは、人がどう思っているかである。たとえば、人に愛してもらえないとか、自分を認めてもらえないという恐れがある。』『多くの〈神経症者〉の行動には、敵意や恨みがともないがちである。自分自身も憎むけど、彼らは他人をも憎みがちである。世の中は自分を不公平に扱っていると感じているので、それならこちらも同様に、仕返ししなければならないと思っている。概して自分も不合理な行動によって、欲求不満になっているにもかかわらず、社会や世の中の人が欲求不満の源泉だと思い込んで、攻撃性を向けるのである。』全くその通り、という方は少ないでしょうが、少しはそういう傾向あるかもしれない、という方はいらっしゃるでしょう。私は、上の3つは少なからずあります。自分(私も含めて)の中に、上記のような傾向が(多かれすくなかれ)あれば、他者と効果的で互恵的な関係を築くには多少の障害を抱えることになるでしょう。通常人は、自分の性格に問題があるとは思いたくない(周囲には自分を良く見せたほうが、他者との良好な関係が築けて安心できるから)でしょうから、自らの性格に問題があるとは思いませんし、思いたくありません。人は自分に心地よいことを好むので、心地よい思考を選択します。自分に問題があると考えると苦痛なのでそうは考えたくないのです。自分が恐怖に感じたことや嫌悪を感じた体験は不愉快極まりないことなので、できるだけ思い出さないようにしますから、それらの体験の自分の解釈やそれらの体験を想起させるであろうと予測する行動は抑制し、そのことが返って不適切なコーピング(対処方法≒行動)となることもあります。そうなると、あなたの行動は、他者に違和感を与えることになる(他者が、あなたはこのように反応するだろう(そうするのが当然という考えから)しという行動をあなたが取らなかったら、周囲の方は違和感を抱く)かもしれませんが、あなたは自分の行動が他者に違和感を与えているとは思わないかもしれません。結果、あなたは、誤解を受けたり行き違いが生じたりして、時々落ち込むことや嫌な気分になることはあっても、社会的には支障なく生活できているから、性格に課題があるなどは思うことなく、ときどき少し辛い気持ちになるけれども、大きな問題とは考えていない、ということになるのだと思います。その苦しさは、あなたのものであり、他者には理解できません。私は、早期不適後スキーマとして、漠然とした恐怖・不安がありその恐怖不安は、他者に対する無力感無能感(防御できない、対抗できない)、他者に対する無力感無能感から自分が望むことはできず、望まないことをしなければならない、こんな人生は嫌だという厭世観、厭世観から、死ねばそんな人生を終わりできるという希死念慮を抱いているようです。これはごく幼少期の他者、つまり両親(特に母)との関係での中で自分、他者、人生ついて、自分が作り出した理解もしくは解釈であり、自分が作り出した理解もしくは解釈を無意識のうちに参照して、他者との関係に反応し、他者に対応しています。交流分析の理論から言えば、早期決断、人生脚本と理解されるでしょう。私に希死念慮があると言っても、両親には理解できないでしょう。理解したくないという欲求が先に立つでしょう。私に希死念慮があると言っても、知人友人は信じないし理解しようとしないでしょう。苦しみとは、人知れず自分の中で苦しみの原因が維持されるがゆえ、苦しみも維持されているものです。そして人に理解してもらえば消えてなくなるという性格のもでもありません。私を嫌っている(と私が思う)人、私に嫌がらせをする(と私が思う)人に、私の気持ちを分かってもらって、その人が私を嫌うことを止め、嫌がらせをすることを止めてくれれば一件落着です。しかし、私を嫌っているわけでもなく、私に嫌がらせをしているわけでもないにもかかわらず、私の心の信念やスキーマが、外界の出来事をとらえて、『私を嫌っている(と私が思う)』、私に嫌がらせをする(と私が思う)』ことを作り出しているとすれば、『(と私が思う)』ことを何とかしないと性格の課題は解決しません。つまりあなたのお悩みは解決しません。希死念慮に気付いた時に、ロジャーズ派のカウンセリングを受けたことがあります。強い希死念慮により自死または他傷の恐れがある等の場合は警察への通報による保護や医師の受診をするめることがカウンセラーの倫理上求められますが、私の場合は自傷他傷の恐れがないと判断されたのでしょう、そのため当然通報も継続カウンセリングの勧めもなく、結果として私には何も得るものがありませんでした。つまり、話は聞くけど積極的に対処したくない(希死念慮ですからかなり重い事案でありカウンセリングの対象ではあるでしょうが)、現状では自傷他傷のおそれはないが、面接を継続して悪化して自殺に至った場合、カウンセラーの責任問題になりかねないから面接を継続したくない、ということかもしれないと理解しました。私の話を、カウンセリングを職業とするものとして理解はしても、希死念慮を感じたことのない人(それはそれで幸せなことです)には、希死念慮の生じるメカニズムは理解できないでしょうから、カウンセリングの見立ても難しかったのかもしれません。逆に言えば、希死念慮を自分の中に観るということは、相応に瞑想の効果が出ている、ということです。自分で過去に作り出して、それを捨離、遠離して(捨てて)いないのですから、「ない」のではなく、心の奥底にあって気付かない、見ないようにしているだけだからです。事実、私が希死念慮を観たのは、疲労に加え、飲酒と喫煙後約5時間程度後のアルコールとニコチンが抜け始めた状態での気分の下降状態(一時的なうつ状態です)の中で、かなり嫌な気分になったので良いチャンスだからヴィパッサナー瞑想で観てみたところ、自分には幼少期に経験した「もういやだ、消えてなくなりたい」という体験が、アドラーの言うところの「当てつけ自殺」を想像して自分を慰めていたことへとつながり、希死念慮が明確に認識されないまま(死にたいという希望があることは怖いことですから見ないようにしてきたのでしょう)、維持されてきたのだと一気に理解できました。ジェフリー・ヤングさんらは、「スキーマ療法 パーソナリティの問題に対する統合的認知行動療法アプローチ(金剛出版)」の中で、つぎのように言っています。『彼/彼女らの自滅的なパターンは、あまりにも「自分であることそのもの」なので、それを変えるということ自体、想像することが難しいのだろう。性格上の問題は患者のアイデンティティの中核にあり、したがって性格上の問題を変えようとすることは、自分のアイデンティティを放棄するのに等しい。つまり患者にとっては自分が変わるとは、自分が死ぬこと、少なくとも自分の一部を殺すことでもある。そこでセラピストが治療を通じて患者のパターンを変えようとしても、患者は頑なに、そして反射的に、そしてときには攻撃的に、自らのアイデンティティや世界観に固執しようとする。』これを引用したのは、まさしく自分がこのようであったからです。ここで生じるのは感情的な抵抗です。それゆえスキーマ療法は「感情に焦点化した技法を用いること」(前掲書)も強調しています。ヴィパッサナー瞑想では、初禅の段階に至ると、好悪や恐怖の感情を離れて尋と伺という思考によって、自分の心の状態を観ることができますから、心が平穏にならない原因を観て考察してゆけば、必然的に早期不適合スキーマを形成した出来事やそれについての自分の解釈、過去に体験した心理的危機の体験等にたどり着きます。初禅の段階では、好悪の感情にもとづく善悪判断や恐怖の感情が生起することなく、早期不適合スキーマや心理的危機の体験を観ることができますから、早期不適合スキーマや心理的危機の記憶によって、自分にどのような思考や感情が生起し悩み苦しみをもたらすのかというメカニズムを、好悪の感情や恐怖を感じることなく正体を知り、その原因と悩み苦しみが生起する誘因を遠離する(自分がそれにしがみついていることを止める)ことで、心の平穏を得ることができるだろう、という知見に至り、それを実践することとなります。そもそもヴィパッサナー瞑想は、自らが作り出し自らを苦しめる認知、価値の体系(心地よい=良いこと、したいこと欲しいこと、不快、恐怖=良くないこと、したくないこと)を無力化することが、ありのままに物事見て自分の苦しみの源泉を知ること=これらのことを如実知見によって実現することとするならば、悟りとは、自らの、自らを苦しめる認知、価値の体系の解体にほかなりません。すでにご紹介しましが、(私が考える)釈迦の認知論(体と心のはたらき認知のしくみ)は、以下のようなものですから、ヴィパッサナー瞑想によって、釈迦の認知論の理解に至れば、ヤングさんらが言う『性格上の問題を変えようとすることは、自分のアイデンティティを放棄するのに等しい。つまり患者にとっては自分が変わるとは、自分が死ぬこと、少なくとも自分の一部を殺すことでもある。』『反射的に、そしてときには攻撃的に、自らのアイデンティティや世界観に固執しようとする。』これらの抵抗を和らげることができると考えています。・人とは認知する機能であり、体は眼や耳など認知を成立させる要素であり、なおかつ体は認知(感受)の対象でもある・人とは認知する機能であって、存在するものではない・生きるとは、認知し続けることであり、認知は休むことなく行われている・認知する器官、感覚、認知した対象、心に生じた想いや欲求を「わたし」であると考えているが、それはわたしでもなくわたしのものでもない・わたしではなくわたしのものでもない認知する器官、認知する感覚、認知した対象、心に生じた想いや欲求を心地よいと感じ執着する性向がある・人は心地よいと感じることが獲得できかったり不快なものに遭遇すると怒り、うらむ感情が発生しそれが蓄積し人を苦しめる・認知する機能はコントロールできず、今ここに無いこと、不可能なことも心の中では生まれつづける、そして人はそのことを意識しない・コントロールでできず意識もしないから、悩み苦しみをもたらす認知も生じる(認知療法の非機能的な自動思考に類似するとらえ方)・自分の体の動き、体が感じていること、心に生じたことの観察に集中することにより(釈迦の説く七つの段階(七覚支)の第一段階、ここにフォーカスするのがマインドフルネス)・瞑想によって欲求(こうしたい)や意図(こうしよう)を止滅させると、好き嫌いや恐怖心がなくなる(欲求や意図の生成を止めることによって脳の報酬系、偏桃体への刺激を抑制するようです)(「好き嫌い」「怖い」とい感情が無くなれば「わたし」という仕掛けの必要性は希薄化します)・好き嫌いや恐怖心がなくなると、喜びと安らぎが生まれ、喜びと安らぎが生まれるとさらに集中力が高まる・高まった集中力で観察すると、好悪や恐怖を感じることなく悩み苦しみをもたらす自分の認知を知ることができる(スキーマレベルでの理解)・どのようにして悩み苦しみをもたらす認知が生まれるのかは自分で知るしかない(他者は自分の代わりにやってくれませんから)・悩み苦しみの正体(原因と誘因)がわかったら、悩み苦しみの原因を断てば悩み苦しみはなくなることを理解できる(四聖諦=釈迦が説いた苦しみを無くす4ステップ、1ステップは、悩み苦しみを認めることなので、少しつらいかもしれません)・あなたが行った行為はこの世であなた返ってくるのだから、悩み苦しみを生む誘因を断つ行為を選択すれば、あなたは悩み苦しまなくてすみます(「心のはたらき認知のしくみ」の活用による苦しみの把握から苦しみを無くす実践論=行為論へすすむ段階)阿含経の念身経には、今では不適かつ不可能な死体を見ることによる観想なども説かれていますが、出入息観や身体の所作(動作)の自覚による修習(ヴィパッサナー瞑想です)によって、身体にむけた注意を確立すると10の利益がもたらされると説かれています(以下春秋社「原始仏典第7巻第119経」より。)その利益の1番目は、『好き嫌いを克服できるようになる。彼は嫌悪感をものともせず、生じてくる嫌悪感を打ち負かし続ける。』2番目は、『恐れと怖じ気を克服できるようになる。かれは恐れと怖じ気をものともせず、生じてくる恐れに怖じ気を打ち負かし続ける。」『生じてくる恐れと怖じ気』であることに留意してください。人とは認知する機能である、と考えれば、恐れも怖じ気も認知されること、つまり心に生じるもの、ということになります。心に生じるものならば、ヴィパッサナー瞑想によって心の観察ができるようになれば、『恐れと怖じ気を克服できるようになる。』ということには合理性があります。また軽安覚支に至り心と体が喜び安らぐ状態になれば、恐怖とは無縁の状態ですから、次第に恐怖とかかわるとされる大脳辺縁系の偏桃体のはたらきを抑制することにより、命を危機にさらす危険とは異なり、命を危機にさらさない恐怖は、危険から逃れるという恐怖に基づく本能的な行動による利益もないのだから、感じなくてよい、ということに帰着するのかもしれません。3番目は、『寒さ、暑さ、飢え、渇き、虻・蚊・風・熱・蛇との接触や辛辣で不愉快な発言に耐え、身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえられるようになる。』現在とは環境が違いますので多少注意が必要です。誹謗中傷が問題視されています。現代の基準に照らして誹謗中傷とされるものには誹謗中傷している人への対応が必要です。そのうえで、『辛辣で不愉快な発言』についても、辛辣で不愉快な発言が苦しみを生むのではなく、辛辣で不愉快な発言によって、自分の持っている自分についてのイメージが壊されることを想起して心に危機意識が生じる、もしくはわたしはそんな風にとらえていたんだ、仲間から孤立するかもしれない、と恐怖を感じるとすれば2番目の利益で克服できます。そして『身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえられるようになる。』といことは、J.カバットジンさんが、MBSR、マインドフルネスストレス低減法で、慢性疼痛患者さんに対して実現したことです。4番目が、『現世で気持ちよく過ごすことのできる、雑念を離れてすっきりとした四つの禅定を、思うままに得、難なく得、苦労なく得られるようになる。』です。四つの禅定、つまりは初禅に至る頃には、1番目から3番目までの利益は得られると考えてよいと思います。経験からもその様に思います。5番目以下は、神足通、天耳通、他心通、宿命通、天眼通、漏尽通と言った、少し神がかった能力なので、もしかしたら釈迦のような極めて高度な悟りにいたったら得られるのかもしれませんが、私たちは目指す必要もないように思います。1番目から3番目までは、瞑想において好悪の感情や恐怖心がなくなることは、ヴィパッサナー瞑想を継続すれば体験できますし、3番目はMBSRで実現されていることからも、説得力があります。ちなみに、死体を見ることによる観想は、大念処経」で説かれている『〈苦しみ〉のすぐれた真理とはなにか。それは再び迷いの生存に戻すものであり、歓喜と愛欲をともない、ここかしこで歓楽するような愛執である。すなわち、現世の欲望に対する愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執である。』(春秋社「原始仏典第2巻 第22経 大念処経」)で説かれている、『生存への愛執』を断ち切るためのものであるようです。釈迦在世時のインドでは、永遠不滅の我=アートマンが想定され、人は再生すると考えられ、どのように生まれ変わるかに人は心を悩ませ、再生の祭祀をつかさどるバラモンが権威をもっていたようですから、釈迦は再生はない、とは言わず『生存への愛執』を無くせば、再生に心を悩ませることもなく『再び迷いの生存に戻す』こともなくなって、今ある生をすこやかに生きることができるでしょう、という論法を取ったのではないでしょうか。もちろん再生があるとお考えになるのは個人の自由の領域に属します。そして死体を見ることによる観想によって、『生存への愛執』を無くしても、それによって命がなくなるわけではなく、『生存への愛執』による苦しみから解放されるだけであり、『生存への愛執』とは別に『生存の消滅への愛執』も挙げていますから、死んだらこの苦しみから逃れられる、つまり死への希求、希死念慮も苦しみの真理であるとし、釈迦の説く苦から解放される方法は、希死念慮からの解放も視野に入れている、ということになります。死体を見ることによる観想は現在ではできませんし、何よりも釈迦在世時と現在では死生観が大きく異なりますから、やる必要もメリットも大きくないように思います。私は、仏教徒ではありありませんので自由に解釈しています。前世現世来世にまたがる十二支縁起も、釈迦が再生はない、と言わず、『生存への愛執』を無くせば『再び迷いの生存に戻す』ことは無くなると説いたことから後世、釈迦入滅後の理論後世されたものではないかと思っています。そのまま放置すれば出血や器官の損傷により命を危険にさらすかもしれない外傷の痛みは、医療措置が必要です。同様に苦悩が再構成されたイメージにより覚知したものとは言え、心の痛みがハラスメントやいじめ暴力によるものであればそれらには、痛みを感じる原因であるハラスメントやいじめ、暴力を排除することが必要であることはいうまでもありません。人が恐怖を感じるのは、人類の歴史の中で、危険な動物や危険な状況に対して恐怖を感じ、恐怖を感じることで危険と感じる状況を素早く避けて自分を守るため、と説明されることがあるようです。脳の構造として、記憶の形成保持に重要な役割をする海馬の先に情動に関する中心的な役割を果たす偏桃体があり、偏桃体は「生命の維持のためにはまずもって重要な危険を察知するための情動である恐怖の感情と深く結びついていることが知られている。」(改定新版人格心理学 大山泰宏 NHK出版)そうです。人は、恐怖という感情を作り感じることによって危険を察知して身を守る、という脳の構造を作ってきた、ということになります。人は恐怖を覚えることによって身も守る行動をとるようになっているのであれば、恐怖を感じるようにできている、とも解釈できます。しかしながら、恐怖を感じて危険と判断し、身を守る行動につなげるという脳の構造が出来がった、とはいっても、現代では、人が恐怖という感情を感じそれを記憶するのは、人を捕食する猛獣や敵対する部族などではなく、圧倒的に親を含む周囲の人間からであると思います。親は、子供が自らの生命を危険にさらす行動をしたり、言うことを聞かなかったりするときには叱ったり、場合によっては怒りをぶつけます。つまり言葉、場合によっては暴力による感情的な威迫や強制によって、そういうことをしてはいけない、ということを学習させようとします。子供は、理性的合理的に親に言うことを理解して何が自分の命を危険にさらすか(道路へ飛び出すことなど)、してはいけないこと十分に理解できないのですから、感情的な威迫・強制により行動を制御しよとすることは合理的です。そして感情的な威迫は、時に子供に恐怖や嫌悪を生み出します。これが私のケースです。逆に、親が好ましいと感じること、嬉しいと感じる行為を認めた場合には、言葉や視線、接触によって肯定的な感情を向けて、その行為を定着させようとします。私は母親からやさしい言葉をかけられた記憶も、やさしい視線を感じたこともないように記憶しています。もしかしたら、母親はやさしい言葉をかけたのかもしれませんし、やさしい視線を向けられたのかもしれませんが、怒っている母のイメージが強いためそれらの記憶を押しのけているのかもしれません。母はいつも眉間にしわを寄せて険しい顔をして不機嫌で、いつも遠くを見ているような感じでした。人は、学校でも感情的な威迫と慰撫の中で育てられ学習してゆきます。そして感情的な威迫と慰撫は、親の養育期間や、学校での教育期間が終了しても企業や生活のそこかしこで遭遇しますから、人は恐怖や嫌悪、欲求とその不充足により不快感を、充足により満足を感じる(脳の報酬系が働く)などにより、毎日感情を刺激し続け、気分を上げ下げしながら生きていることになります。宗教でも地獄を説いたり(精神的な威迫効果)、地獄からの救済を説いたり(精神的な慰撫効果)します。人は、本能的に感情への威迫と慰撫で人を動かそうとする、ということがデファクトスタンダード、人の本能だと考えてよいのかもしれません。人は、本能的に感情への威迫と慰撫で人を動かそうとする、と考えると、交流分析(TA)でいう「禁止令」が形作られることもごく自然なことであると理解でき、納得がゆきます。禁止令とは、『人が脅迫的(自分で止めようと思っても不可能なこと)に演出する人生のプログラム、無意識のうちにつくりあげる人生計画を脚本といいます。(中略)運命脅迫的な出来事も、客観的に見ると、幼少時の外相体験(トラウマ)など、親を中心とする周囲の影響のもとで生じ、その後の対人関係や他の人生体験によって強化されたプログラムであることが解ります。』『脚本では、幼少時に親の©から子供の©へと、言語的あるいは日言語的に伝えられた教本の基礎メッセージを、禁止令と呼びます。』『たとえば、親から「おまえさえいなければ、お母さんは離婚できたのに」と聞かされたり、息が詰まるほどの虐待を受けて育ったとすると、子供は「依存するな(あまえてはいけない)」、あるいは「生きていてはいけない」という破壊的なメッセージを受けることになります。』『これを受けて、子どもが「私はいつか死のう。そうすれば母は私を愛してくれるだろうから」といった決意をすると、親の禁止令は子供の人生すべてに支配力を発揮することになると考えられるのです。』(以上、創元社 杉田峰康先生「新しい交流分析の実際」より)私の場合は、幼少時、「もうこんなのはいやだ、この世から消えてなくなりたい」という感情によって放心状態になったことがあります。その感情が記憶され続けて、その後には「死んだ自分を想像して、母親が自分に泣いて謝罪している場面」を想像(希求)していました。後にアドラーの「当てつけ自殺」という概念を知るにおよんでやっと、死んだ自分を想像することの意味が理解できました。相当な怒り嫌悪を抱えていたようです。国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センターの「こころの情報サイト」では、「生涯を通じて4人に1人がこころの病気にかかるともいわれています。こころの病気は特別な人がかかるものではなく、誰でもかかる可能性のある病気といえるでしょう。」との記載があります。感情への威迫と慰撫で育てられ、社会に出ても威迫と慰撫で人を動かそうとする環境(人の本能的な行動)にさらされており、なおかつ人の心は休むことなく思考し、楽しい嬉しいと感じればそれを追い求め手に入れようとし、手に入れば喜び、手に入らなければ怒り落胆し、怖いこと嫌なことを感じれば嫌悪の情を起こし、怒りやうらみを生み出します。感情に威迫を受け、感情の慰撫を受けて育った人間が、子どもを含む他者に感情の威迫と感情の慰撫によって人を動かそうとするのは、自然なことです。感情を刺激する環境の中で、自らも感情を激しく動かして心を酷使するのですから、心はひと時も休まることがありません。こころの病気にならずとも、悩み苦しみ生まれても当然でしょう。そう考えると、心が疲弊するのは至極当然のことのように思われます。加賀谷亮さんの「世界のエリートがやっている最高の休息法」(ダイヤモンド社)には、マインドフルネスの研究などを踏まえ、くつろいだ状態でもたらされる脳のデフォルトモード・ネットワークの状態が、くつろいでいるはずなのに、脳のエネルギー消費は意外と大きく、実は休息になっていない、ということが述べられています。くつろいでいる状態では、就業中に目の前の業務に集中して、それゆえ感情の生成が制限されるという状況とは異なり、自由にいろいろなことを想像(夢想?)することによって感情が自由に発生する状態となり、気分を上げ下げすることになり、脳はエネルギーを大量に消費し(たくさん働い)て休息にならない、ということのようです。ヴィパッサナー瞑想は、悟りや解脱に至らずとも、集中力を高め体への観察力(感受性)を高め、七覚支の5番目、軽安覚支(心がよろこび体が安らぐ段階)にいたれば、思考や感情の生起を止め、あれをしたい、これをしようといった欲求や意図がない状態(高度なリラクセーション状態の実現)が実現され、脳をリフレッシュすることが可能になるように思います。これは、多くの人にとって大きなメリットになるでしょう。また、さらに初禅の段階にいたれば、好悪の感情や恐怖感を感じることなく、尋と伺(私は観察と考察と理解しています)で、自分の心をこうありたいとか、こうなるのは嫌だ、怖いという感情なく観察し考察できます。好悪の感情や恐怖感を感じることなく観察し考察できる、ということは思考の「制約」「制限」「自己規制」がなくなるということです。こんなことを考えていると知られたら周囲の人は私を避けるのではないか(という恐怖)がなくなる、ということですから、思考が自由になり、それは創造性開発にもつながるように思います。思考の「制約」「制限」「自己規制」がなくなったら、行動に歯止めが利かなくなって、善くないこともしてしまうのではないか(という恐れ)、とお感じになるかもしれませんが、そのようにはなりません。善くないことをしてしまうのは、善くないことをしたいと欲求しているわけではなく、自分が欲していることを知らないがゆえに欠乏感、飢餓感にさいなまれ、欠乏感、飢餓感から逃れたいとの欲求からやっているので、思考の「制約」「制限」「自己規制」がなくなるころには、欠乏感、飢餓感の正体がわかっている(いわゆる智慧が生じている)状態であろうからです。自分の欠乏感飢餓感(欲と執着)に気付く程度には瞑想によって集中力、観察力(注意力)が養われているから、好悪の感情や恐怖感を感じることが抑制されるのでしょう。人が感情的な威迫と慰撫によって育てられることを考えれば、人が恐怖や嫌いなことだけでなく人からの評価が下がることも不快(良くないこと、または仲間外れを予感して恐怖)と感じ、他者から良く思われることで安心もしくは快感(自分は人に好かれるいい人=攻撃を受けない、安心だ)を求めるようになるのは自然なことです。そのように考えれば、先に引用したエリスの〈神経症者〉の心理と行動のような傾向を持つようになる素地を育成されながら人は育つことになります。人は子供を良い方向に導くために叱ったり褒めたりして子供を育て、学校教育を行っていると考えますから、感情的な威迫と慰撫を正当な教育方法と認識します。ですから感情的な威迫と慰撫による負の側面は考えませんし、そもそも感情の威迫を多用して他者をコントロールしようとする人も、まれにはいます。逆に、感情的な威迫を強烈に受け、恐怖と敵意を感じ、その恐怖と敵意を「自己、他者、世界についての理解=信念(スキーマ)」に織り込んだとするならば、エリスの言うように「敵意や恨みがともないがちである。自分自身も憎むけど、彼らは他人をも憎みがちである。世の中は自分を不公平に扱っていると感じているので、それならこちらも同様に、仕返ししなければならないと思っている。概して自分も不合理な行動によって、欲求不満になっているにもかかわらず、社会や世の中の人が欲求不満の源泉だと思い込んで、攻撃性を向けるのである。」という傾向になるかもしれない、と考えるのはごく自然です。私の母親は、このような信念(エリスさんは、不合理な信念、イラッショナル・ビリーフと言っています。)を持っていたようです。そして悲しいかな、私自身も母親の自分に対する態度に恐怖を覚え、また一方では怒りを覚えながらもそれを一生懸命抑圧し、自分の苦悩を避けるための不適切なコーピング(対処方法)によって、性格に課題を抱えるようになっていたようです。また、交流分析の考え方のとおり、私の子供の自我状態Ⓒは、母親の子供の自我状態Ⓒを受け継いでしまったようです。母親に恐怖を覚えるがゆえに、母親の考え方、態度を取り込んで、恐怖を克服しようとしたのかもしれません。怒りっぽいところ、眉間が緊張する(眉間に力が入る)などは母親そっくりです。このような考え方は、仏教の「業」の考え方を想起させますが、交流分析ではこのように説明されています。『脚本分析では、ある種の筋書き通りに生きる人々が対象になります。親子二代(ときには三代)にわたって事故死、倒産、薬物依存、離婚などを繰り返す人びとなどがその例です。こうした運命脅迫的なできごとも、客観的に見ると、幼少時の外傷体験(トラウマ)など、親を中心とする周囲の影響のもとで生じ、その後の対人関係や他の人生体験によって強化されたプログラムであることがわかります。』(創元社 杉田峰康先生「新しい交流分析の実際」)私が幼少期に抱えた性格上の問題は、母親(ときに父から)からの感情的な威圧や暴力によって、自己に対する無価値感・無力感、無価値感・無力感からくる怒りの抑圧、生きることへの嫌悪感による厭世感、こんな嫌なことばかりの世界から消えてなくなりたいという希死念慮を形成し、それらを心の奥に抱えながらそれを解消することなく成長し、現在に至っている、ということのようです。しかし、ひどい親であった、ということではなかったと思います。両親の特定の行為が、わたしに対して強い恐怖を与えたがために、両親が私にしてくれた良いことを覆い隠して、私の中に自己に対する無価値感・無力感、厭世観や希死念慮とともに両親に対する憎悪を形成させたと思われます。父の母は、父が幼いころに、亡くなりました。祖母は再婚せず、父には妹と弟がいましたから、父はヤングケアラーであり、通常期待される家庭の温かさ、というものは体験できなったようです。母は、父を見たことがありません。父(私の祖父)は、母が祖母のお腹の中にいるときに召集を受け大陸で戦死したそうです。その後祖母は再婚し、弟二人と妹二人が生まれたようですが、私は、母方の再婚した祖父を記憶しておらず、遺影でのみ知っています。母からは義理の祖父の話を聞いたことはなく、実父については靖国神社にいる、としか聞かされませんでした。父から、母の祖父(義父)とはちみつ取りを取りに行ったときに、祖父が蜂に刺されたという話を聞いたことがあるくらいでした。その時の印象では、義父は悪い人ではなかったようです。はちみつは腐らないので、物置の壺の中に保管されていた黒いドロッとしたはちみつ見つけたときに父が話してくれたように記憶しています。田舎ですから、異父兄弟であることは周囲の話から知るでしょうし、母と姉は、一家を支える義父と、そのことに感謝しながら年の離れた弟と妹を大切せざるを得ない母を見て育ち、それが少なからず母の性格に影響を与えたのかもしれません。母の弟、私の叔父からの話では、弟たちに対しては、母は私に対するような振る舞い(口ではなく手をあげる人)であったと聞いています。母の私対する接し方は、弟たちへの接し方をそのまま私に適用したためかもしれません。そのように考えると、父も母も本来感じる家庭の温かさ、というものを知らずに育ったことにも思い至ります。学校卒業後、母は近くの町に住み込みで働くようになり、着付けや社交ダンスも習い(大学入学時に大学生になったんだから社交ダンスくらいできるようになりなさい、と言われたことがあります。)、小さな田舎町とはいえ、高度経済成長期の青春を謳歌していたようです。ところが、です。実家の近くの有力者が仲人となり、母は父のもとに嫁ぐこととなりました。母の口癖は、M(仲人)さんに「結婚させられた」でした。農家に嫁ぐ(酪農家でしたらから休みはありません。)のが嫌だったのかもしれませんし、謳歌していた青春を捨てたことが嫌だったのかもしれません。加えて、同居する祖父との折り合いが相当悪かったようです。祖父も子供三人を残し妻に先立たれたのですから、運命を恨んだかもしれない、と考えると、相当に気難しくなっていた可能性があります。私の記憶の中では、家の実権は父に移り、父はいつも祖父にその日の農作業を指示しており、祖父の腰がいたいとか足が痛いとかいう不満を受け入れはしませんでした。素朴な頃の私は、「とうちゃんはなんで、あんなにおじいに他人みたいな口を利くの?」と聞いたことがあります。後に、父が、親戚と昔話として話してい他ことから、祖父が祖母の死によってあまり働かなくなったこと、祖父が嫌なことは父にやらせていたことなどを知りました。祖父のうっぷんが母に向いたのかもしれません。いつも眉間に寄せて険しい顔をしていたように記憶しています。いつもそうではなかったのかもしれませんが、記憶の中の母はそんな印象です。母は、幼少期の私にとっては、いつ怒りだすか予測不能(怒る理由がわからない)なので、怒られないように叩かれないように、いつもびくびくしているという状態でした。ごく幼少期の記憶ですが「ああなったら困る」ということを母が頻繁に口にしていたように思います。不安感情が強かったがゆえに自分の抑制がきかなかった、むしろ不安感情が強いがゆえにそれを紛らわすために、わたしに感情をぶつけたのかもしれません。おさいないころ「自分は母の感情のゴミ捨て場だ」という考えが心に浮かんだこともあります。成長するにつれて、そのような母の予測不能性が、母への不信感となり怒りを募らせ、その一方で怒りを爆発させたら養ってもらえない、という恐怖から怒りを抑圧していたようです。その反面、自分が死んだら母は半狂乱になって悲しむだろうな、死んだら自分はもう苦しまない、人が死んだら死んだ人ではなく、残された者が苦しむのだな、と感じたこともあります。この考えも、死んだら今あるこの苦しみはなくなる、という希死念慮を温存することにつながったのだと思います。性格上の問題を形成した生育暦については、親や育て方が良いとか悪いとか、幼少時の経験にこだわっている本人が悪いとか考えても、何の解決策にもなりません。本人の心に形成された信念、スキーマが、今なお自分に対して有効であるから、今の自分を苦しめる、であるならば、どうやってそのスキーマを修正したらよいかとということに焦点をあてるべきでしょう。本来は、性格上の問題に対処するのはヤングさんらのスキーマ療法が最適なのでしょう。ただしスキーマ療法を実施できるセラピストは限られているようです。ヴィパッサナー瞑想では、自分の感覚(苦しみは体に影響します)、自分の心を観察して「苦しみが生じた」と識り、それが生じたプロセス、原因は何だろうかと考察します(これが釈迦がといた悩み苦しみをなくす4ステップ、四聖諦の1番目2番目です。)。瞑想への集中が一定程度進んでいると苦しみが生じたことを識るとともに、それがなぜ生じたかを識ることができます。ヴィパッサナー瞑想では、苦しいと感じる自分に浸りきる、それを当然のこととするのではなく、これは好きこれは嫌いという感情の生成を停止する訓練を行うことによって、自分の心を観察の対象として、自分に苦しみが生じた、と素直に、その思いを良い悪いと判断することなく、ありのままに観察できる心の在り方、つまり好き嫌いを離れ恐怖を感じない心で物事を観る心の在り方を養います。その段階が初禅と言われるようです。初禅では、過去に恐怖を引き起こした体験を想起しても、恐怖を感じることなく観察し考察することができます。恐怖を感じるのであれば、その体験を想起することはしたくありませんが、恐怖を感じなければ、その体験を想起してどのように恐怖を感じたのかを「恐怖を感じることなく」理解できるようになります。そして恐怖を感じなくなると、過去の恐怖を感じた体験がどんどん想起されるようになり、恐怖を感じた体験を、現在の私がそれを恐怖と感じる必要はないのだ、ととらえ直すことも可能になります。そこで必要になるのが漢語の「念」「心を一点にとどめて決意すること」という方策です。人は、自分がありのままの自分でいることが許されていない感覚(親から受容されていないと感じた経験)、ここにいてはいけない感覚(自分が親や周囲の人に喜びを与えていない経験、歓迎されていない経験)などを生み出す早期不適スキーマであっても、それを手放すことには、すでに引用しましたが、大きな抵抗を生むようです。もともと不適合スキーマが、無力で自己のとれる行動が極めて限られた子供が、その時の環境に適応するために形成した、つらさを自分なりに解釈して何とか納得しようとして出来上がった理解であれば、それが現在の環境に不適合なものとなったとしても、長年拠り所、自分を納得させる手段と感じてきたのですから、手放すのは簡単ではありません。手放すことに恐怖を感じるのは自然なことでしょう。さらに手放すことが、自己以外から強制されたものならば、その恐怖と抵抗は想像に難くありません。初禅の状態に至ることは、その様な状況に大きな援助を与えます。恐怖を感じない、言い換えれれば、過去に恐怖を感じた体験を想起しても、恐怖を生起させることのない観察と考察が可能になるので、早期不適合スキーマを手放すことの必要性を自然と理解し、早期不適合スキーマを手放すことでより心の平静が得られることを理解するので、恐怖を感じ、抵抗することは無いようです。だからと言って、ヴィパッサナー瞑想によって、すぐに早期不適合スキーマを手放し、修正することができるわけではありません。わたしはヴィパッサナー瞑想を仏教の「修行」であるとは考えていません。そもそも釈迦は、自らの苦しみを無くす方法を探求し、自らたどり着いた苦しみを無くす方法を説いたと理解しています。とはいえ、手順と実践の積み重ねによって、自分の瞑想のスキル、技量を上げてゆかなければ、早期不適合スキーマを手放し、修正することはできないと考えています。ヴィパッサナー瞑想と並行して、交流分析、認知行動療法(認知療法系)、スキーマ療法などを学び、自分の悩み苦しみがどこにあるのかを知る手がかりを得ることも効果があると思っています。釈迦の説くところと大きく矛盾はしません。実際私はそうでした。不適合なスキーマ(自分の建設的な行動につながらないスキーマ)は、成長とともに自然となくなるという性格のものではないようです。なぜならば、スキーマに合致する事柄をより敏感に感知することによって「やっぱり自分の考えていた通りなんだ」といった認知が生じることによって、スキーマはより強化され維持される性格のものだからかです。不適切なスキーマは、それを検知して修正もしくは捨てない限り、年齢を重ねてもなくなりません。例えば私が幼少期に形成してしまった(そして現在も維持され私を苦しめる)早期不適合スキーマは、自己に対する無価値感・無力感、無価値感・無力からくる怒りの抑圧、生きることへの嫌悪感による厭世感、死んでしまえばすべて終わりにできるという希死念慮です。他者にとって私は価値がなく、他者(幼少時において両親)は私の言うことや要望を聞き入れることは無いだろう、という「無力感」は、仕事でも交遊関係でもうまくゆかなかったことを経験することにより強化されます。「無力感」があるので、うまくゆかなかったことに敏感になり、そのことが「無力感」を強化する方向に作用するからです。釈迦はこのことと同様の心のはたらきを、六六経で『「苦の感受」をうけているときに、愁い、悲しみ、嘆き、泣き、迷妄におちいるなら、「怒りうらむ性向」が潜在』する、と説きました。このような心のはたらきは、私は無力であり好ましくない状況を変えることができず、このままずっと苦しい気持ちに耐えなければならない、解消できない苦痛が続くこの世界にいるのは嫌だという「厭世感」を強めたのでしょう。疲労や失敗続きなどで精神的につらい気持ち(気分)がたかまると「希死念慮」つまり、死んだらこのつらい気持ち(気分)から逃れられるのだろうな、そもそも自分の人生脚本(交流分析の概念)自体が(アドラーの言うところの両親に対する)当てつけ自殺(死んであなたがたに復讐してやる、私が死ねばあなた方が私にしたことがどんなにひどいことなのかあなた方は知るだろう)なのだから、死んでもそれは自分のシナリオ(行き着く先)通りで、それが自分の望みなのだから死を回避する必然性もないのだ、という考えが現実感をもって迫ってきます。予期しない事故や病気で死んでも、それは自分で希望し引き寄せたものなのだから抵抗しなくてもよいのではないか、という考えも浮かびます。そもそも、そういう「想像の世界」自体が現実とのつながりを失っている結果もたらされるものなのですが、疲労や心理的な負担が強くなると、それこそが真実なのだという感覚になります。この状態になると、かなり危険です。ヴィパッサナー瞑想が観察を行うのは、観察を通して集中力注意力を養い、観察によって「想像の世界」を知り、「現実感覚」を取り戻すため、とも言えます。スキーマの修正が簡単ではないのは、私自身の世界観自体(スキーマ)が「無力感」「厭世感」「希死念慮」という影響力のあるピースが、建築の「構造部材」として組み立てられているようなものであり、「無力感」「厭世感」「希死念慮」を修正するということは、私自身の世界観(スキーマ)とその世界観に基づいた体と心の反応パターン全体を修正しなければ、「構造部材」である「無力感」「厭世感」「希死念慮」を修正することにはならない、とと考えられるからです。エリスさんの言う『多くの〈神経症者〉の行動には、敵意や恨みがともないがちである。自分自身も憎むけど、彼らは他人をも憎みがちである。世の中は自分を不公平に扱っていると感じているので、それならこちらも同様に、仕返ししなければならないと思っている。概して自分も不合理な行動によって、欲求不満になっているにもかかわらず、社会や世の中の人が欲求不満の源泉だと思い込んで、攻撃性を向けるのである。』という人は、長年そのような行動の源泉となるスキーマを維持しており、体と心の反応は、そのスキーマを前提としたものになっているので、スキーマを変えようとすると心と体の反応は混乱し抵抗するでしょう。体と心は、「えっ、今までと違うやり方にするの?長年それでやってきたからそのままがいいなぁ、変えると僕ら(体と心)は、新しい反応の仕方がわからなくて不安だから、今までと違うやり方に変えるのは嫌だな」と抵抗する(体調が悪くなったりする)、といったところでしょうか。会社や団体、集団でも新しいリーダーが、一方的に、唐突に、やり方を変えるぞ、改革するぞ!と号令してやり方を変えようとしたら、反発し抵抗しますよね。人は慣れ親しんだ考え方、その考え方に基づく反応の仕方、やり方を変えることは好きではなく、今までのやり方に固執する性格が強いようです。釈迦は、『〈苦しみ〉の原因のすぐれた真理とは何か。(中略)歓喜と愛欲をともない、ここかしこで歓楽するような愛執である。(中略)この愛執はどこで生じ、どこでとどまているのだろうか。なんであれこの世の中に好ましいもの、楽しいものがあり、そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕とどまっているのである。』(春秋社 原始仏典第二巻 大念処経)と言っています。人は、いったん愛執が生じると、それが何であれ手放せなくなる(そこで〔愛執が〕とどまっている)ようです。自分にとってはそれが効果的でなく、苦しみを生み出す原因(早期不適合スキーマなど)であっても。釈迦の苦悩を無くす方法論では、心と体の反応パターン全体を修正するため、体の感覚の観察を行います。心に自分をつらくさせる想いを起こさないようにする方策も必要ですが、心はかなり自由に、つまり、眼や耳などを通じて感知した刺激に、識(無意識のうちに蓄えられた記憶)が反応して、瞬時に心が勝手に自分をつらくさせる想いを作り出すということに長年親しんでいますから、体の感覚の観察によって、わかりやすく言えば高度なリラクゼーション状態を実現して、心が勝手に自分をつらくさせる想いを瞑想中とはいえ停止し、高度なリラクゼーション状態を維持できれば、それは苦の状態ではないよね、高度なリラクゼーション状態になれば、楽な状態だから苦悩も苦悩の原因もあぶりだせるよね、という方策を取っているように感じます。瞬時に心が勝手に自分をつらくさせる想いを作り出しても、体がそれに反応して苦の感受(緊張状態)を作り出さなければ、次第に、心は自分をつらくさせる想いのを作り出さなくなるでしょう。体からの反応つまりフィードバックがなくなりますから。心理療法におけるアクセプタンス&コミットメントの考え方と同様であると思います。心に生じたとのみ認識し、体がそれに反応することを遮断して体に負担が生じなければ、体はすこやかです。MBCTで目指す態度「思考は事実ではない」ということへの習得へ近づきます。心が勝手に自分をつらくさせる想いを作り出して、体が反応して緊張状態(負担)を作り出せば、作り出された自分をつらくさせる想いは、体に緊張状態という「事実」を生み出しますが、体が反応して緊張状態(負担)を作り出さなければ、体に緊張状態という「事実」を生み出しません。思考は事実ではないのではないか、と考えることの妥当性を提供するでしょう。例えて言えば、心が勝手に自分をつらくさせる想いを作り出しても、体のとっては、暖簾に腕押し、糠に釘の状態です。高度なリラクゼーション状態とは、思考を停止し気分を上げる想いも気分を下げる想いも作り出さないことによって、「体と心が喜び、体と心が安心安楽である状態を実現すること」と理解して下さい。言い換えれば、自分についてこれは良いあれは悪いとか考えず、ああなったらいやだなとかいう想いを起こさないようにすることを通じて、「自分に徹底的にやさしくすること」です。自分を追い込んで自分を変えるという態度ではありません。「性格上の課題を解決する」とは、多くの場合、自分を苦しめているのですが長年慣れ親しんできた考え方や心と体の反応を手放すことです。長年慣れ親しんできた考え方や心と体の反応を手放すことには不安を覚え、抵抗し恐怖を感じます。それゆえ、「自分に徹底的にやさしくすること」、「体と心が喜び、体と心が安心安楽である状態を実現すること」が必要になります。「体と心が喜び、体と心が安心安楽である状態を実現する」から、自らの意志によって「変えてみようか」という気持ちになるのです。考え方(表層の意識)が大事、という立場はとらず、体と心の相関関係の中で、体と心のはたらき方を変えてゆく、と理解したようがいいように思います。釈迦は、生老病死は苦であると言いましたが、生老病死を克服して永遠の生命を得たわけではありません。ちなみに生が苦とされているのは、生きるということは概ね苦であるから、生まれるから苦しむのだ、という認識と当時支配的であった再生を前提にして、生まれ変わって苦しむ、ということを意味しているようです。生老病死は避けられないものだから、それを避けようと欲求すれば、求不得苦で苦しみ続ける、だから生老病死を不可避とみとめ(認知論)、さらに体に苦受(神経の興奮や体の緊張による不快感)が生じず、体と心が常に喜び安らかな状態を実現し、維持できれば(行為論)、それは苦ではない、ということであると捉えたようにも感じます。高度なリラクゼーション状態を維持できれば、それは苦の状態ではないよね、という方策は、具体的には釈迦が説いた、悟りにいたるための7つの段階のうちの5段階目、漢語でいう軽安覚支によって実現されるようです。『喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ。比丘たちよ、喜んでいる比丘の身体が安らぎ、心も安らぐとき、比丘には『安らぎという悟りの支分』軽安覚支)が始動している。(中略)身体が安らいで幸せな人の心は集中する。』(春秋社 原始仏典第7巻大17経 治意経)ちなみにここでいう『喜んでいる』というのは、あれが欲しい(欲求=欠乏状態)⇒行為して欲求を充足させよう(意欲)⇒欲求が充足された(欠乏状態が解消された、脳の報酬系が刺激されて快を感じる)という、欲求⇒充足⇒満足という快とは、別の喜びだと思われます。ここで釈迦が説いている喜びは、瞑想への集中、観察によって物事を解明(理解)してゆくことによってもたらされる脳の「機能快」と考えられます。また、「体と心が常に喜び安らかな状態」とは恐怖とは無縁ですから、「体と心が常に喜び安らかな状態」の反復もしくは継続的な実現は、恐怖とかかわる大脳辺縁系の偏桃体のはたらきを弱める効果もあるのかもしれません。感情を刺激し気分を低下させ思い悩むという脳の働かせ方ではなく、感情を刺激せずに、物事を解明し、なるほどそういうことかと理解するという、脳にとって気持ちの良い働かせ方を実現することと思われます。大脳辺縁系の働きを抑制し大脳をよりはたらかせること、かもしれません。集中するとは、対象のみに意識をむめ、その他には意識をむけないことですから、心にとって好ましい対象を選定して、意識をむけ集中しているときには、欲や恐怖が心に想起されることは無く、そのような状態を継続することで欲や恐怖は鎮まり、やがてなくなる、という効果をもたらすからでしょう。体の感覚の観察は、無意識的におこる脊髄反射による神経の興奮を鎮め、神経に興奮による筋肉の緊張を解く、という効果をもたらすと考えています。心に不安が生じても、それは心に生じた不安であって、神経を興奮させ筋肉を緊張させて、危険に対する防御や迎撃態勢をとる、ということによって得るメリットな何もありません(うつの反芻によって気分が低下し、さらに活動のエネルギーも枯渇してしまい活動が停滞してしまうことを考えてると納得がゆくと思います)から、自分の心をつらくする想いが生じても、体には苦の感受を発生させないようにする、ということには大きな意味があるように思います。自分をつらくする想いは、自分が無意識的に蓄積した、釈迦の概念では「識」を参照して生まれ、スキーマ療法の考え方では早期不適合スキーマにより生まれますから、自分を苦しめる識や早期不適合スキーマがあるとして、それらを表層の意識で否定しても、識や早期不適合スキーマ世とその世界観に基づいた心と体の反応パターンは長年寄り添ってきたのですから、そう簡単には変えられません。むしろ早期不適合スキーマや中核信念を、強力に変えようとすることは、体の不調や心の混乱を招くでしょう。なぜならば、例えばエリスさんの言う『多くの〈神経症者〉の行動には、敵意や恨みがともないがちである。自分自身も憎むけど、彼らは他人をも憎みがちである。世の中は自分を不公平に扱っていると感じているので、それならこちらも同様に、仕返ししなければならないと思っている。概して自分も不合理な行動によって、欲求不満になっているにもかかわらず、社会や世の中の人が欲求不満の源泉だと思い込んで、攻撃性を向けるのである。』という性向の人は、そのような信念体形の中で、人々の発言や行動、社会一般を理解していますから、体と心の反応「受」「想」は、その様な信念体形を前提にして自動的に発生します。私の経験からも、瞑想が深まるたびに、体に不調があらわれます。深まった瞑想状態がもたらす、新たな認知(識もしくはスキーマの修正)に体が追い付こうとして、体のバランスが一時的に崩れ、それがストレスになるのだと感じます。信念体形をさあ変えるぞ、といっても、従前ある信念体形になじんできた体と心の反応は簡単には変わらないでしょう。従来からある信念体形の下で体は健康を維持するよう努めてきたのですから、信念体形を変えるならば、体調が一時的に悪化する可能性は十分に考えられます。むしろ従来の信念体形になじんできた体と心の反応をじっくりと変える必要があるように思います。そのような時に、効果的なのが体の感覚を観て、心の状態を観て、心と体が喜び安らぐ状態である「軽安覚支」(リラクセーション)の状態を作出することであると思います。「軽安覚支」は、体と心が喜び安らぐことで高い集中力を生み出すことを可能にするとされていますから、高い集中力をもって初禅に至ることで、好悪の感情や恐怖に影響されない「粗い考察」「微細な考察」があらわれ、「粗い考察」「微細な考察」によって自分の苦悩の原因を理解し、苦悩の原因を取り除くことに意識をむけるとともに、苦悩の原因がすぐに除去できなくても、心と体が喜び安らぐ状態である「軽安覚支」(リラクセーション)を維持することができれば(初禅では、好悪の感情、恐怖の感情はコントロールできるようになりますからこの面からも苦痛の軽減は可能です)、苦悩の原因はなくならなくとも心と体が喜び安らいでいる状態を実現することも可能になります。自分を苦しめる「想」に、体と心が反応しない状況をつくることで、苦の感受を発生させないという方略です。「苦悩(想)の原因を無くして苦悩を発生させない」というこ方略とともに、「苦悩(想)が発生しても体には苦を発生させない」という状況を作ることによって、苦悩(想)の影響を低減するという方略です。これは、アクセプタンス&コミットメントの考え方と同様だと思います。このようなプロセスを作出するのが、ヴィパッサナー瞑想であると考えています(ここではマインドフルネスではなくてヴィパッサナー瞑想です。)。概略を説明すると、以下のような手順を取ります。ヴィパッサナー瞑想によって体の動きを観察(例えば座ってする瞑想で呼吸に伴う体の動きに言葉をあてて確認します)することによって、これをしたい(欲求)、あれをしよう(意図)という思いを鎮めてゆきます。ただし、欲求、意図を鎮めるのは少し経験を積んだのちです。つまり考えないことによって欲求や意図という感情を抑えることになり、体が今感じている感覚への観察に集中することができます。体が今感じている感覚への集中力と観察力が養われると、必然的に心の状態を観ることができるようになります。心の状態を観ることができるようになるとは、考えていることや感じていること、それらが生じたこと(今の状態)を識ることも含みますが、これをしたい(欲求)、あれをしよう(意図)という欲求をを追いかけない訓練をしていますから、それを考える=追いかけるということをしません。これをしたい(欲求)、あれをしよう(意図)という欲求を追いかけないことのよって、心の表層(=意識)における平静が訪れますが、ヴィパッサナー瞑想によってを継続することによって、より深い集中力と観察力を養うと、これをしたい(欲求)、あれをしよう(意図)という欲求を追いかけないでいても、心が落ち着いていないと感じるようになります。ここで直面するのが早期不適合スキーマです。釈迦は、人の体と心のはたらきを五蘊で説明しました。五蘊は、「体と心の機能」であるとともに「体と心の機能によって」「自分の体と心に生じたことそのもの」をも指すと理解してください。瞑想で自分の体と心を五蘊で理解すると自分の体と心のはたらき、認知のしくみを理解できるからです。早期不適合スキーマは、下記の「識」の中に形成された、自分、他者、世界についての一般的法則性としての理解のうち悩み苦しみを生じさせるもの、と考えてよいと思います。「識」についての考察は後に、唯識(法相宗)という研究に発展しました。「体と心の機能」を理解したうえで、瞑想を通じて「自分の体と心に生じたことそのもの」を知ることがヴィパッサナー瞑想の中核的な方法論です。『瞑想を通じて「自分の体と心に生じたことそのもの」を知ること』だけ取り出せば、マインドフルネスとほぼ同内容となると思います。「体と心の機能」「体と心の機能によって」「自分の体と心に生じたことそのもの」を識ることが、「尋」と「伺」を少しづつ潜在的に形成してゆくように感じています。これはヴィパッサナー瞑想の大きなメリットです。色:一般に物質を言うそうです。五蘊の色は、人の認知を成立させる目や耳などの体を指します。体は五感と意識を通じて認知を成立させる要素であるとともに、認知の対象(つまり観察の対象)でもあることから、人にとっての体は、外界に存在する物質と同等物としての性格ももつ、と釈迦はとらえたのでしょう。受:体が感じる楽、苦、不苦不楽の感受。釈迦は、想、行、識に苦が生じるとはしておらず、苦は体に生じるとしているようです。例えば、ウクライナや中東で大規模な武力紛争が起こり、映像でそこで起こる凄惨な出来事を知り、体調が悪なる方も多いそうです。凄惨な出来事を目にすることで心が苦しむのかもしれませんが、現実に生じるのは体調が悪くなる、という体に生じる苦です。凄惨な出来事を目にすると苦しくなるけれどもそれは、心が苦しんでいると自分では思っている(想が生じる)けれども、心で思ったこと(想)自体が苦しみではなくて、心に生まれた想や行(想の言語化、概念化)が、体を苦しめてあなたは苦を認識するのですよ、ということのように思います。アルボムッレ・スマナサーラ先生は、心は体じゅうにあると言われています(ブッダの実践心理学 サンガ)。足がつるのは、足の腱が、誤って本来必要のない筋肉収縮の指令を脊髄に対して出すからだそうです。そのように考えると体中のセンサーが脊髄や脳に情報を送ってそれによって脊髄や脳の反応が起こることになります。養老孟先生は「中枢は抹消の奴隷」と言っていますから、体が感じる楽の感覚、苦の感覚、楽でも苦でもない感覚が生じてから、次に説明する「想」が認識されると考えるのが妥当かと思います。私の場合は、苦の感受として、独り言を発した後に顔にこわばり(緊張が生じる状態)が出ることがあります。他者からの指摘ではなく、受の随観が進展していった結果、たどり着いた認識です。こわばりが出た後に、言わない方がいいことを言ってしまったな、ということ(=想)が認識されます。意識が、言わない方がいいことを言ってしまったな、と認識する(想が生起する)前に体は反応するようです。釈迦の認知論では、人の心に生じる欲求は、わたしでもなくわたしのものでもない、と説いていますから、好きだから手に入れたいという欲求(想)(手に入らないと苦しむ)、嫌だから遠ざけたいという欲求(想)、それは怖いから回避したいという欲求(想)が生じたとしても(命にかかわるものでなければ)、それら欲求(想)は、わたしでもなく、わたしのものでもないとするならば、それら欲望(想)は、心に起こっただけで、体に楽の感受を発生せて欲望を強化する必要も、苦の感受を発生せて体の活力を無くす必要も、感受を自由に野放しにする必要もないのだから、受の随観をしっかり行って、楽、苦、不苦不楽の感受を発生させなければ、体をいつもすこやかに保てるよね、ということになります。「うつ」が心の元気だけでなく体の活力も奪ってしまうことを考えると、釈迦の方法論は極めて意味があると思います。MBCTも、「思考は真実ではない」という態度によって、うつの反芻思考が体へ及ぼす悪影響を避けるという機序と理解することもできるように思います。他者の体調が悪そうだと感じるのは、顔の表情や体の動きから、体がつらそうだと感じて、体調がわるいのではないかと推測するからでしょう。逆に元気な時は、顔の表情や行動から、やる気に満ちていると理解し同時に、体に生まれている活力を感じいているのではないでしょうか。瞑想での体験から説明すると、瞑想開始直後は、例えば手頸や肩の「脱力」を先に感じます。力んでいる➡力みを取ろう➡力みを取った、ではなく、力みを抜いた➡力んでいたことを知る、という順番になります。このことは、瞑想で体の力、力みを抜くということことを常時心がけているがゆえに、体が力みを感知して、脳の指令を受けずに脊髄反射で力みを抜いて、力みを抜いたことを脳が認識するという順序になるようです。このことはとても重要だと思います。体は、心の集中状態(瞑想)で、適切に指示をだせば、指示した内容を、脊髄反射を通じて自動的に行ってくれる、ということを意味すると言えるでしょう。逆に言えば、脳は、脊髄反射で自分がしていることを認知していない、ということです。瞑想状態が進展して注意力(観察力)が高まってくると、力みを感知➡力を抜く(という意図の発生)➡力を抜くという行為の順序で観察できるようになります。これは「力を抜く(という意図の発生)」を観ることができる、ということです。この状態になると心の随観(心の観察)ができるようになります。「ああ、いま、心はこんな状態だ」という感じです。瞑想を通じて自分の「受」を理解する訓練をすることは極めて重要だと思います。想:イメージ、明確な形をとっていない思考ととらえています。嫌な感じとかウキウキする気分をもたらす想いととらえればよいでしょう。グレゴリーベイトソンさんは「精神と自然(思索社)」の中でこう言っています。「誰かに足を踏まれてたとき、私が経験するのは”彼による私の足の踏みつけ”そのものではなく、踏まれてからややあって脳に届いた神経報告をもとに再構成された”彼による足の踏みつけについての私のイメージ”に他ならない。」踏みつけを感知して神経報告をおこなうのは足、それを痛みと認識するのは脳ということになります。それゆえベイトソンさんは「痛みすら、正真正銘の創り出されたイメージである。」(前掲書)と言っています。ただし、ここで注意しなければならないのは、痛みを認識するは脳であって踏みつけられた足ではないとしても、足は踏みつけに反応し、足が感じ取った情報を脳に送り、脳がその情報を処理して痛みを感じている、ということです。足が情報を送らなければ脳はイメージを形成できません。足は脊髄、もしくは脳に送るべき情報を判断しているといえるでしょう。釈迦の認知論では、体に苦の感受が生じるとしていることから、究極的な知見、最終的に至る認識としては、心は本来苦しまない、心は自ら苦しんでいるという想を作り出し、それと同時に体に苦の感受が発生し、苦を感知するから、心が苦しんでいると感じる、でも実際に苦を感じているのは体なんですよ、だから心は苦しんでいるという想を作り出さないこと、体は苦の感受を生まないこと、双方必要ですよね、ということであるように思います。心は苦しんでいるという想を作り出さないこと、体は苦の感受を生まないことによって、喜びと安楽が生じた状態が、「七覚支」の「軽安覚支」と言えると思います。行:「行う」つまり意図して行為するという意味での意図とその結果とられる行為と考えるとよいでしょう。想を言葉にして把握すること、それによって行為しようとすること、行為することを含みます。「たわしたちが体験したことは、大脳で意味的な処理をされる以前に、いったんこの海馬にしばらくの間蓄えられる。」(大山泰宏さん前掲書)。行は、大脳での意味的な処理が行われる前の行為(脊髄反射のような行為は「受」に分類される)と言ってよいでしょう。釈迦が生きた時代の人々は、現在の私たちから見れば「神話的世界観」の中で生きていたと思われますから、「神話的世界観」を否定することとなる「大脳での意味的な処理」をする人はほとんどいなかったのでしょう。釈迦は「大脳での意味的な処理」をフル活用して「神話的世界観」から脱した、と理解することもできると思います。現代の私たちは少なくとも釈迦の生きた時代の「神話的世界観」を持ってはいないでしょうが、心のはたらきとしては根本的には変わっていないと思います。体が感じた楽の感受に接続して「意図」「衝動」「意欲」を起こし行為すること(=行)によって、貪る性向が潜在し、苦の感受に接続して「意図」「衝動」「意欲」を起こし行為すること(=行)によって、怒りうらやむ性向が潜在し、不苦不楽の感受に接続して「意図」「衝動」「意欲」を起こし行為すること(=行)によって、愚かさという性向が潜在するとされています。(春秋社 原始仏典第七巻 六六経)釈迦の認知論を敷衍(ふえん)すると以下のように説明できるかもしれません。他者が怒りを感じたとあなたは感じました。その人には、怒りが生じて、体に苦の感受(強い不快感)が生じる考えられます。そしてその人は、体の苦の感受(強い不快感)から、その人は不機嫌になったり、何かに当たり散らかしたり、怒鳴ったりするかもしれません。その人は怒りが生じると同じ行動を繰り返すかもしれません。それは体が感じる苦の感受と結びついているがゆえに、意識しただけでは同じ行動を繰り返すことを止めることができないのかもしれません。苦の感受に接続して「意図」「衝動」「意欲」を起こし、行為すること(=行)によって、怒りうらやむ性向が潜在しているという理解の実例と言えるかもしれません。このことは、苦の感受(強い不快感)を行動として発散しようとして、不機嫌になったり、何かに当たり散らかしたり、怒鳴ったりするという行動を取り、その一連の反応を体が(脊髄反射として)記憶しているがゆえに、繰り返され、不機嫌になったり、何かに当たり散らかしたり、怒鳴ったりするという行動を止めようと意識しただけでは、それらの行為を制御できない、と解釈できるかもしれません。そのように考えると、釈迦が大念処経(春秋社 原始仏典第二巻所収)で、次のように説いていることに納得がゆきます。「苦しみのすぐれた真理とは何か」「身体による識別はこの世のなかにおける〔、好ましいもの、楽しいものである、そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕留まっているのである。」「苦しみの消滅というすぐれた真理とはなにか」「身体による識別はこの世のなかにおける〔、好ましいもの、楽しいものである、そこでその愛執が捨てられ、そこで〔愛執〕が滅ぼされるのである」識:識別作用と説明されます。自分の経験、知識を参照してそれを良いと判断してたり良くないと判断したりする機能というところでしょうか。行為の後に「まずことをした」と識別されれば体に苦の感受が生じ、後悔や報復を予感する想が生じるでしょう。ちなみに後悔することを「悪作」(漢訳です)といって、心を乱すことであるとされています。普段は意識しないけれども、想を生じさせ、行(想を言葉にして把握すること、それによって行為しようとすること、行為すること)に際して参照される経験に基づく知識の体系、つまりスキーマと考えてよいでしょう。そして早期不適合スキーマとされるものがあると、心が落ち着かないということに気付きます。そしてそれが基本的感情欲求が満たされなかったことによって、基本的感情欲求を満たされることを求めて、場合によっては何かに依存することによって基本的感情欲求を満たそうとしている、しかし何かへの依存によって基本的感情欲求が満たされることは無いため、いつも飢餓感欠乏感を感じているのだ、と気づきます。釈迦は的確にこのことを言い著しました。「求不得苦」です。この場合の求不得苦は、求めても得られはずがないことを求めているから苦しむのだ、という意味です。今現在の私には母親から、苦痛となる罵りも体罰も与えられていません。しかし幼少期の苦しみが心に記憶され、苦しみに対する体の反応(受)が記憶され、苦痛から逃れたいという欲求が生じていますが、幼少期に戻って、こうされたくはなかった、こうして欲しかった、自分はこうすればよかった、という欲求を満たすことはできません。できないことを心が勝手に(自ら意識せず、明確な意思によらず)想像して(想を生じて)、飢餓感欠乏感を感じて、飢餓感欠乏感の充足を求めて、あれこれ想像して気を紛らわそうとしても、自分が心奥底に持っている飢餓感欠乏感が満たされることは無いから苦しむのだ、という考えに至ります。私の場合は、母親が非常に攻撃的(私の理解では)であったので、母親に恐怖心を抱くあまり、母親の私に対する否定的な思考を自分の中に取り込むということで母親に対する恐怖を和らげようとした結果、自らが自らを母親のように批判、攻撃するようにもなっていたようです。これは、母親の私に対する攻撃の理由を理解して「もうわかったからいじめないで」という言い訳をするために、(私が幼少期に理解した)母親の私に対する否定的な思考(幼少期私はそのように理解していました)を自分の中に取り込んだ結果であったように思います。心理学でいう不適切なコーピングです。子供ですから致し方ありません。不適切なコーピングを修正しなかったことが、今の苦しみの誘因となっているようです。スキーマ療法では、治療的再養育法により、飢餓感欠乏感を理解し認めてあげることで苦痛を減らし、早期不適合スキーマを修正への閾を下げるるようです。ヴィパッサナー瞑想は、先ほど説明した、これをしたい(欲求)、あれをしよう(意図、双方和わせて「欲」と考えてください)を追いかけない訓練を続けることで、好悪の感情、恐怖が心に生じることを止滅させます。瞑想中は、痒いと感じても、「痒い」ととらることをせず、「痒み(が生じた)」とラベリングして、体を観察の対象にして、痒みをそのままにしておきます。痒い部分を掻くと脳の報酬系が刺激されるそうですから、痒いと感じても、掻きたいという欲求を起こさず、掻こうという意図も起こさなければ報酬系は刺激されません。ヴィパッサナー瞑想を創始した釈迦は、欲求、意図を発生させないことで、欠乏感飢餓感を発生させないようにし、それによって報酬系の活動を抑制することができて、感情の生成を抑制できる、感情の生成が抑制できれば、あるがままを観ることができる、ということを深い瞑想の中でつかんだのではないかと感じます。そこから、求めて得られるものを求めていれば苦にはならないが、それを求めてもそもそも得られることのない過去の出来事の修正(後悔しつづけること)を求めていたら実現しないのだから苦しむだけ、そのことに気付いて(ありのままに見て)欲求と意図を止滅すれば欲求不充足の状態は発生せず、苦しみも発生しないと理解したのではないかと、と私は感じます。釈迦が説いた初禅の状態「さらに比丘たちよ、比丘が欲望を斥け、不善の事柄を斥けて、大まかな思考や細かい思考が残っている、遠離から生じる喜びと安楽からなる第一の禅定に達する。かれはこの身体に遠離から生じる喜びと安楽を流し込み、巡らせ、満たし、ゆきわたらせる。かれの身体中どこをとっても、遠離から生じる喜びと安楽が行き届いていないところはない。」という状態になると、感情が止滅して好き嫌いや恐怖は感じない状態となり、なおかつ大まかな思考や細かい思考で、物事を観て考察できるようになります。この状態では、好悪の感情や恐怖がありませんから、思考が好悪の感情や恐怖を感じることなく苦しみを見ることができるようになります。ありのままに苦しみをみるのですから、苦しみが生じるメカニズムを知り、どこをどう修正すれば苦しみがなくなるのかを考察して回答を得ることもできます。釈迦は、人を突き動かすものとして、欲や執着、怒りをあげ、欲や執着、怒りに突き動かされて貪りを起こし、手に入れられないことを嘆いたりして苦が発生する、そのことを自らが知らないことを痴とし、ヴィパッサナー瞑想によって苦の発生原因やプロセスを知り、正しい(苦を生じさせない)行為を選択することで苦を無くす方法を説きましたが、後に瑜伽行派と呼ばれる人々が、末那識、阿頼耶識という深層心理を提唱し、それらに欲や執着を帰属させる唯識が成立したようです。ご参考までに私がどのように瞑想をしているのかをお話します。歩行の瞑想は、1回30分~45分をめどに、軽安覚支を養うことを意識して(軽安の状態にあることを意識し続け歩行に意識をむけて)歩行しています。瞑想の第一歩は、集中力の涵養(念覚支)になります。瞑想は念覚支の涵養から始まります。ですから歩行の瞑想も、最初は歩行自体に意識を向け続けること、歩行に伴う感覚(例えば足の裏の接地感)に意識を向け続けるなど、集中力を養うことから始めました。この段階では、集中力を高める瞑想であるサマタ瞑想の効果をねらっているとお考えてよいと思います。座ってする瞑想は、座ってすぐに軽安を作り出すように意図しています。座禅を10年ほどやり、ヴィパッサナー瞑想を20年やっていますので、軽安を意図することで軽安覚支には容易に入れます。軽安覚支に入る過程で、体に生じている力みは感知できますから(受の随観)、それを取りながら、今ここにいることを感じ、何かを意図する必要はないことを念じています(体と心に指示をだす)。体を観察し観察に言葉をあてることで、欲求とそれに基づく意図(考えたい、考えること)を止めます。体の観察は、呼吸を観ながら、縮み、ふくらみとラベリングしながら行っています。縮み、は腹式(丹田)呼吸によって肺から空気が押し出されると、胸がしぼみ肩が少し落ちてくること、ふくらみは、息を吸い込むことで胸が膨らみ方が微妙に上がってくることを感じてラベリングします。この観察は、①椅子に座り、楽に呼吸できる自重で自立する姿勢を取ること、この姿勢の維持に必要な腰の筋肉への入力とそれ以外の力を抜き去ること②腹式呼吸による長呼吸が無理なくできる(力むことなく煩わしいと感じることなく腹筋と背筋を使った呼吸ができる)こと③微細な体の感覚を感じ取れる程度の注意力(観察力)が養われていることが前提になります。逆に、縮み、ふくらみを観察する練習をして、この観察ができるようになれば受の随観は進展し、自然と心の随観へとつながってゆきます。呼吸を観る瞑想を行って、喜びと安らぎが生じていることを確認します(軽安覚支)。喜びと安らぎの状態になると、喜びと安らぎを妨げるもの、つまり自分の心を悩ませ苦しませていることが、浮かんできますから、それを考察の対象にします。考察の対象は、瞑想の初めで浮かぶこともあり、集中力を高めた後に浮かぶこともあります。大抵は、自分が早期不適合スキーマとして把握しているものと関連します。早期不適合スキーマが自分を悩ませ喜びと安らぎを阻害しているからこそ、喜び安らぎを作出することで、早期不適合スキーマがあぶりだされるのでしょう。そのうえで、集中力を上げるために、「慈悲の瞑想」か「集中の瞑想」をします。「慈悲の瞑想」は、四無量心の瞑想の簡易版であり、ヴィパッサナー瞑想の開始時に集中力を上げるために推奨されている「サマタ瞑想」です。「集中の瞑想」は、私がそういっているだけですが、これは釈迦が治意経で『「心を集中させながら息を吸おう」と練習し、「心を集中させながら息を吐こう」と練習し』と説いている呼吸の訓練法です(春秋社 原始仏典第7巻 第118経 出入息観ー治意経)。慈悲の瞑想の瞑想文もしくは息を吸うこと、吐くことに集中し、集中対象以外の意図を排除して集中力を高めます。この段階になると、自分が考察しているのではなく、自然と「こういうことだろう」といった感覚で考察が進展してゆくようになります。尋と伺が生じているからだと思われます。自分ではない何か=尋と伺、が現状を察知して、どうしてそうなっているのかを考察してくれているという感覚です。ヴィパッサナー瞑想によって観察し、気付いた対象を放す(執着しない、思考をしない)訓練により、尋と伺による考察がもたらされることが、ヴィパッサナー瞑想の本質であろうと思います。欲(あれが欲しいこれが欲しいという欲求とそのためにこうしたいという意図や意欲)にフォーカスしない訓練をしてきているので、こうであったらいいなあ、という欲に影響されない考察が生じ、喜びと安らぎという快を味わっているので、体と心が快を阻害していること(早期不適合スキーマなど)に敏感になっており、快を阻害することを突き止め解消しようとしているのではないかと思います。このような状態になることが、軽安覚支とその先にあるとされる定覚支(集中状態)のであると感じています。このような状態では、以下のような考察がなされます。受容と承認への渇望については、『どうやら私には受容されたい(自分のままの自分を受け入れてもらいたい)承認されたい(自分を肯定的に認めて欲しい)という欲求、渇望、飢餓感があり、それを無意識に他者にも向けているようだ。』『その欲求、渇望、飢餓感は、子どものころに母親から罵声とも取れる叱声を浴び暴力を受けたこと、自分は母親に受容し承認して欲しかったし、親とはそうあるべきだと考えて、母親に受容して欲しかった承認してほしかったという渇望が現在あるがゆえに、他者へ承認と受容を求めている(渇望が生まれている)ようだ。』『しかしながら、母親から罵声とも取れる叱声を浴び暴力を受けたということは過去のことであって今ここにはない。』『今ここにあるのは、記憶の中の、こうであってほしかったという渇望の記憶である。』『幼少時に戻って母親に受容し承認してもらいたいという渇望を持つったとしても、昔に戻ることはできないのだから、それが叶うことは無いし、他者に受容と承認を求めてそれを得ることができても、それは母からの受容と承認ではない。』『叶うことが無いことを願うならそれは、その願いは満たされることは無く、かなえられない苦しみ、つまり求不得苦を生むだけである。』『叶うことが無いことを願うのは、自分の飢餓感と渇望が作り出した願望と願望への執着ゆえ、といえるだろう。』『自分の飢餓感と渇望が作り出した妄想は叶えられることがないのだから、捨離することで、妄想によってかきたてられた渇望と、渇望による苦悩はなくなるだろう。』このような知見に至るには、釈迦の説いた「体と心のはたらき認知のしくみ」といえる「法」によって、例えば先に説明した識受想行識(五蘊)や五蓋等によって、自分の体と心のはたらきを観ることができるようになっていることが必要なように思います。ただし、ここでは説明するために、言い換えれば、読んでいただいている方に理解してもらうために言葉にしていますが、瞑想の中では言葉による「回りくどい」把握ではなく、直接的な知見が生じます。釈迦の説いた「法」は、心理療法における心理教育と同様の位置づけといえますが、自律的に心理療法を進展されることができる、という意味ではより強力で実践的な心理教育だと言えます。ただし、自分が観たくないものを見ることになるので、恐怖心は生じないものの、一時的な混乱があることも理解していただいた方が良いと思います。気づけばスッキリして自分が変われる、というのは自分が勝手に作り出した願望、すなわち妄想と考える方がいいでしょう。自分の無価値感無能感については、『自分自身が感じる無価値感無力感は、母親が自分をやさしく扱わず拒絶的に扱ったことに対する、想像の中で復讐もしくは自分を慰めるために「死んでいる自分の遺体に取りすがって私に謝っている母親」という想像(妄想)を作り出すために必要なものであったからではないか』『母親が自分をやさしく扱わず拒絶的に扱ったことにより、無価値な自分という認知が形作られ、母親が自分をやさしく扱わず拒絶的に扱ったことに自分は何ら対処できなかったことにより、無力な私無能力な私という認知が形作られた』『希死念慮により現在に至るまで、「死んでいる自分の遺体に取りすがって私に謝っている母親」という想像(妄想)が、意図的に捨てられることなく記憶の中に維持されてきた』『「死んでいる自分の遺体に取りすがって私に謝っている母親」という想像(妄想)が維持されるためには、無価値な自分という認知、無力な私無能力な私という認知の維持が必要であったのだろう』『つまり無価値な自分という認知、無力な私無能力な私という認知は、「死んでいる自分の遺体に取りすがって私に謝っている母親」という想像(妄想)を記憶の中に維持し続けるために必要な「仕掛け」であり、「死んでいる自分の遺体に取りすがって私に謝っている母親」という想像(妄想)が記憶の中に維持される(意識して捨離しない)限り、なくならない「仕掛け」としての性格を持っていたのだろう』『無能感を有能感に置き換えることも意味はない。なぜならば無能感を自分と同一視しているように、有能感を作れば今度は有能感を自分と同一視し、自分が思ったようにできなかったときに、自分と同一視した有能感とのギャップにより自分をダメなやつだと感じ、うまくゆかなかったことを受け入れることに抵抗と苦しみを感じるだろう。無能感も有能感も結局のところ、今のここにいる自分ではなく、架空の自分、つまりどこにもない自分を作っているだけだ。』このような知見が生じると、少しはスッキリします。自分が劇的に変わるということはありませんが、確実に心の負担が少なくなることは感じます。この状態は、釈迦の説いた「法」、つまり「体と心のはたらき認知にしくみ」によって自分の心を解明(択法覚支)し、自分の心の解明に努力すること(精進覚支)、努力することと努力によって悩みの原因が解明される喜びが生じている状態(喜覚支)ではないかとと感じています。上記のような知見が生じたら、『母親に承認し受容して欲しかったという渇望の記憶』『「死んでいる自分の遺体に取りすがって私に謝っている母親」という想像(妄想)』を捨離する』『無力な私、無能力な私、無価値な私という認知を捨離する』、ということを念じます。ここでの「念じる」は、まさしく、satiについての日本における解釈、「心を一点にとどめて決意することを「念」(sati.Skt.smrti)という。」(春秋社「原始仏典第2巻第22経大念処経」註(3))です。自分を悩ます心の中にとどまっている想い(釈迦の方法論は心に思いをとどめないことをその方法としています)、記憶(価値判断のために参照される識)を「捨離する」ということが捨覚支であり心の平静を得る段階とされる、七覚支の最終段階であるようだ、という理解に体験的に到達します。毎日の瞑想において、この一連の流れを実施してゆくことが、少しづつ「自分の体と心のはたらき認知のしくみ」を変えてゆくことになる、と考えています。尋と伺による考察は、集中力を養い、注意力を持って釈迦の説いた「体と心のはたらき認知のしくみ」によって、自分の体と心のはたらきを観て、「体と心のはたらき認知のしくみ」理解すること(択法覚支)に加えて、欲求を離れる=ああしたいこうしたい、このように行動して欲求を満足させて報酬を獲得しようという報酬系の働きを弱めることによってもたらされるものだと思います。この説明の中で、瞑想の力を養う方法、目安といえる七覚支(念覚支、択法覚支、精進覚支、喜覚支、軽安覚支、定覚支、捨覚支)を説明しました。七覚支の内容とそれによって何がもたらされるのかを理解して、各覚支の習得に努めてゆけば、初禅に至ることはそう難しいことではないと考えています。ただし、七覚支は順序を追って段階的に出てくるものではないようです。効果は感じられなくても、それぞれの覚支が影響し合いながら、すこしづつ進展してゆくようです。すこしづつ進展してゆき、あるとき何かが変わったと気付くもののようです。そのようにして初禅に至れば、好悪の感情、苦しみや恐怖を感じることなく、自分を悩ませていることを考察して、どのようにすればその悩みを無くすことができるのかを識ることができます。識ったら実行することできます。実行したら、やがて体と心の反応が変わってくるでしょう。体と心の反応が変われば、性格が変わっているでしょう。ヴィパッサナー瞑想の指導者の方は、ヴィパッサナー瞑想は、物事を「概念」による把握からありのままを観ることへと転換する、ということ言われることがあります。一方前項でお話した私の取り組みは、認知行動療法の「中核信念「スキーマ」について「概念化」を行っています。「無力感」「無能力感」「無価値観」「厭世感」「希死念慮」は、自分の体と心に生起する、体の反応(苦の感受)、想、行、識を、概念で把握したもの、ということになります。矛盾するではないか、ということにはならないと思います。釈迦の説く「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」に、「中核信念」や「スキーマ」という概念はなくとも、釈迦が、現代では概念化により把握される「中核信念」や「スキーマ」に基づく「無力感」「無能力感」「無価値観」「厭世感」「希死念慮」を、生きることに伴う苦しみであると考えたとしてもおかしな説明にはなりません。大念処経(春秋社 原始仏典第二巻所収)で、釈迦は以下のように説いてます。「苦しみのすぐれた真理とは、いったいなにか。生まれることは苦しみであり、老いることは苦しみであり、〔病気になることは苦しみであり、〕死ぬことは苦しみであり、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えは苦しみである。求めても得られないということも苦しみである。要するに〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素(五取蘊)は苦しみである。」「〈苦しみ〉の原因のすぐれた真理とはなにか。(中略)すなわち、現世の欲望に対する愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執である。」仏教的観点からは、「生存への消滅への愛執」をどのようにとらえているのかは、私は不案内ですが、上記2つの引用の文脈の中で、心理学や心理療法を踏まえるならば「生存の消滅への愛執」は、この苦しさから逃れたい、死ねばこの苦しさから逃れられるという「希死念慮」としか私には、理解できません。釈迦が生きた時代は、再生が当然とされる時代であったため、生きること概ね苦なのだから、「生存の消滅への愛執」によって自殺しても生まれ変わって苦しむのですよ、だから再生への欲望を断ち切って再生しないようなれば、生まれ変わって苦しむことはありませんよね、という論法を、釈迦は取ったのではないか、ということは考えておく必要があるとは思います。そのように考えたとしても、「〈苦しみ〉原因のすぐれた真理」として「生存の消滅への愛執」を説いていたということは、人には、死によって今ここにある苦しみから逃れたい、という死への希求があると釈迦はとらえていた、とは言えると思います。「五取蘊」は、五蘊すなわち色、受、想、行、識の機能により、自分の体と心に認知された色、受、想、行、識(の内容そのもの)への執着を言います。また、出家者でなく、労働に従事する私たちは、『物事を「概念」による把握からありのままを観ること』という能力を開発することには意味がありますが、完全に『概念による把握』を無くすことはできないでしょうし、完全に『概念による把握』を無くしたとしたら、労働に支障が生じるでしょう。他者と協働して何事かを成し遂げる(労働)には、概念による意思疎通、概念によって問題を把握して問題を解決することなど「概念化」脳の力が不可欠だからです。上記のプロセスが生じると体の負担は増すようです。私の場合は、胃に不調をきたし体調は悪化します。心は理解しても体は、「古いスキーマ」の下で、例えば「私なんていなくたって、何の支障ない(無価値感)」「状況を変える力がない(無力感)のだから、ずっと嫌な人生がつづくのだ(厭世観)、もう生きることを止めたい、そうすれば復讐にもなる(無力感厭世観を前提とした怒りや他者への憎悪、希死念慮)」という信念のもとで、体の健康を維持してきたのですから、「古いスキーマ」を捨ててしまうことは、例えて言えば、家の基礎の一部を除却、取り除くようなものですから、家が傾くのと同様に、体が混乱し苦痛を感じるのは無理からぬことだと理解できます。「無価値感」、「無力感無能力感」、「厭世観」、「無力感厭世観を前提とした怒りや他者への憎悪」、「希死念慮」は、自分に苦痛をもたらすものであっても、長年連れ添ってきた自分の欲求であり、そのような欲求でもって自分を慰め、支え、何とか今まで生きて来たと考えるならば、簡単に手放せるものではない、つまり自分に苦しみをもたらす信念であったと理解しても、それを手ばなくすことは簡単ではない、言いかえれば「自分に苦痛をもたらすものであっても、長年連れ添ってきた自分の欲求」であっても執着は生じる、ということになります。釈迦は、六六経「自己の身体の止滅に向かう道」の中で次のように説いています。「止滅」であって「死滅」ではありませんで、死んで滅するということではなく、身体がもたらす認識(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意=意識)への執着の「止滅」へと向かう道、ということのようです。「意を『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と〕みなすことである。思考されるものを『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と〕みなすことである。思考的認識を『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と〕みなすことである。『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と〕みなすことである。意における接触を『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と〕みなすことである。感受を『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と〕みなすことである。欲望を『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と〕みなすことである。」(春秋社 原始仏典第七巻 六六経)「わたし」と「自我」並置されていますが、自我は、当時、存在するとされていた永遠不滅の自我であるアートマンを指しているようです。なかなか釈迦が説くようには実践できません。「愛執」「執着」は極めて強固であると感じます。体の負担が増したと感じた時には、軽安覚支を作出し、意図しないという瞑想を行うようにしています。今は何も意図しなくてよいのだ、今私はここにいるだけでよいのだと自分に指示して、体の動き、感覚を観察することに集中して、意図することを排除することで、体に負担を与えないよう心がけます。このような時には、治意経に説かれている以下のような出入息観の養成方法が参考になります。「『全身を感じ取りながら息を吸おう』と練習する。『全身を感じ取りながら息を吐こう』と練習する。」「『身体の活動を鎮めながら息を吸おう』と練習する。『身体の活動を鎮めながら息を吐こう』と練習する。」「『喜びを感じながら息を吸おう』と練習する。『喜びを感じながら息を吐こう』と練習する。」「『安楽を感じながら息を吸おう』と練習する。『安楽を感じながら息を吐こう』と練習する。」「『心の活動を感じながら息を吸おう』と練習する。『心の活動を感じながら息を吐こう』と練習する。」「『心の活動を鎮めながら息を吸おう』と練習する。『心の活動を鎮めながら息を吐こう』と練習する。」「『心を感じとりながら息を吸おう』と練習する。『心を感じとりながら息を吐こう』と練習する。」「『心を喜ばせながら息を吸おう』と練習する。『心を喜ばせながら息を吐こう』と練習する。」「『心を集中させながら息を吸おう』と練習する。『心を集中させながら息を吐こう』と練習する。」「『心を解き放ちながら息を吸おう』と練習する。『心を解き放ちながら息を吐こう』と練習する。」(春秋社 原始仏典第七巻 治意経)身体を感じることも、身体の活動を鎮めることも、心を喜ばせることも、心を集中させることも、心を解き放つことも練習により可能になるということが説かれていますから、自分の状態に合致した方法を選択することができます。「粗い考察」「微細な思考」は、軽安覚支により集中力を高めたうえで「意図」を働かせることですから、「『安楽を感じながら息を吸おう』と練習する。『安楽を感じながら息を吐こう』と練習する。」「『心の活動を感じながら息を吸おう』と練習する。『心の活動を感じながら息を吐こう』と練習する。」「『心を喜ばせながら息を吸おう』と練習する。『心を喜ばせながら息を吐こう』と練習する。」「『心を集中させながら息を吸おう』と練習する。『心を集中させながら息を吐こう』と練習する。」という練習が効果的と言えます。「粗い考察」「微細な考察」は、集中力が高まっている状態で行う、心の深奥での考察であるゆえに、心の状態の変化を促す力が大きく、必然的に体に与える負担も大きくなるように感じます。そのように感じると、「粗い考察」「微細な考察」を使うことや「念」じることで、早期不適合スキーマを修正もしくは書き換えしようとしても、早期不適合スキーマに慣れ親しんできた体が対応できず苦しみを感じているのだから、今は体を休めるときだ、という考えに至ります。そんな時には「『心を解き放ちながら息を吸おう』と練習する。『心を解き放ちながら息を吐こう』と練習する。」ことが効果的だと感じます。おもしろいのは、それを2、3日続けていると、「無価値感」、「無力感無能力感」についてさらに考察が進み、「無価値感という感覚はその裏で、価値ある存在でありたいという欲求を生み、そのためには他者から良い人であるとか、能力のある人であるとか、受容されたい、という欲求が生まれ、その欲求が満たされないと自分が感じるがゆえに自分を苦しめている。」「無力感無能力感は、自分が無力ということと同時に、力への渇望を生み、人から見下されたと感じることによって、力への渇望が満たされないことにより怒りが生じるのだろう。そして怒りは、自分の無力感無能力感をより強く意識させるがゆえに、苦しみを生むのだろう。」「念人経において、釈迦が『身体にむけた注意』を養成することの利益のなかで、『辛辣で不愉快な発言に耐え』られるようになると説いたのは、無価値感や無力感無能力感の裏返しとして、自分が価値ある存在、力のある存在であると他者から認められることを渇望しているがゆえに、『辛辣で不愉快な発言』がその渇望を挫くがゆえに苦しみを生むのだろう。自分が価値ある存在、力のある存在であると他者から認められることを渇望することを止めれば、『辛辣で不愉快な発言に耐え』られるようになるのだろう。」(念人経 春秋社 原始仏典第七巻所収)という考察が意図せずとも生まれてくることです。体と心が喜びと安らぐとともに「粗い考察」「微細な考察」があらわれると、意図せずともヴィパッサナー瞑想を行うと「粗い考察」「微細な考察」が働いてくれ、自分を苦しめる自分の思考をあぶりだしてくれるようです。白隠禅師は、猛勉強(根をつめる、ということでしょうか)がたたり体調が悪化した時に、内観と軟蘇の法で体調を取り戻したとされることを思い出します。軟蘇の法は、座禅時に、滋養に富むとされる軟蘇を頭上に置くことをイメージし、さらにその滋養が体に染みわたることをイメージする方法です。内観は、具体的な方法は不明なようですが、現在でも仰臥禅として実践されているようです。仰臥禅においては、座禅と同様に調身、数息観などにより、「放下著」みんな放り出してしまいなさい、ということを実践し身心ともにリラックスさせることだそうです(大蔵新書 「夜船閑話」荒井荒雄さん)。仰臥禅には曹洞型と臨済型があるようですので、道元禅師に私淑したカバットジンさんが仰臥禅に触れた可能性もあるように思います。仰臥禅がボディスキャンの原型ではないか、との思いがあります。ヴィパッサナー瞑想は、自らの体が苦しんでいる時には、今は少し休むとき、と識ることにも導くと思っています。というよりも、体が苦しんでいることを識ることができず、瞑想することは良いことだからといって、体に負担をかけ続けながら精進するのであれば、苦しみを自ら生み出していることにほかなりませんから、それはヴィパッサナー瞑想ではありませんし、ヴィパッサナー瞑想が開発する智慧による判断でもないと思います。そんなことを言っていたら悟りに至れない、というのは修行僧の方には通用するのかもしれませんが、私にもあなたにも不適合です。『道元禅師(永平寺開祖)は『学道用心集』という本の中で、「有所得の心をもって仏法を修すべからざること」と述べられております。「健康になりたい」とか、「出世したい」とか、「ノイローゼを治したい」とか、何かの利益を得ようと思って、禅を行なってはいけないというのです。禅では、「悟り」さえ求めてはいけないというのです。」(荒井荒雄さん前掲書)。「何かの利益を得ようと思って、禅を行なってはいけない」というのは、脳の報酬系を刺激しない、という観点からはもっともなことです。あれを手に入れたい(今それをもっていない)➡手に入れた➡満足した(報酬系から報酬が与えられた)、という脳の回路を使用し続ければ、あれを手に入れたい、という欲求を作ることによって、報酬系からの報酬がえらるという見込みを強化し、そのことは欲求を作ることを強化する方向に働きますから、修行の支障になるどころか、修行自体が無意味になるでしょう。もっぱら修行して悟りに至ることを目指す出家者は、道元禅師の言われる通りですが、出家者でない方は悟りを求めているわけではありませんから、禅や瞑想に「何らかのメリット」があるからやるのでしょう。出家者のやり方を、在家(出家していないひと)にまで、強引に適用する必要はないでしょう。とは言っても、在家であっても報酬系への刺激を繰り返していたのでは、「何らかのメリット」に到達することはできませんから、あまりあれが欲しい、こうなりたい、と考えない方が「何らかのメリット」に到達することはできるでしょう。カバットジンさんは、「何らかのメリット」と「何かの利益を得ようと思って、禅を行なってはいけない」ということをうまく両立しています。カバットジンさんは、「マインドフルネスストレス低減法」(邦訳北大路書房 春木豊さん訳)で、「マインドフルネス瞑想法」の基本的な態度として「(1)自分で評価を下さないこと」、「(5)むやみに努力しないこと」などをあげています。一生懸命やった(努力した)のだから成果が出るはずだとか、成果が出ないのは「マインドフルネス瞑想法」が効果がないからだとか、評価しない方がいいということでしょう。成果が出る出ないという判断は、何らかのゴール(漠然とした、こうなりたい、こうであったらいいな=想)があり、ゴールに近づいているかいないかを評価尺度として参照することで可能となりますが、通常はこのことを明確に意識していません。禅や瞑想は、それらゴールや評価尺度を持っている自分の暗黙の思考や執着に気付くということを手段もしくは内容としますから、強固な目的意識があって、そこに至ることを求めて(執着して)いると、ゴールや評価尺度を持っている自分の暗黙の思考と執着に気付くことは難しいでしょう。そして、自分の暗黙の思考と執着に気付くことができなければ、自分の暗黙の思考によるゴールや評価尺度を満足させることができないことで、あなたは苦しみ、苦しみの原因に気付くことができません。それゆえ、ゴールを設定し、そのゴールに近づいているかどうかという評価尺度を参照して成果が出ていると満足したり、成果が出ていないと落ち込んだりしたのでは、禅や瞑想は「何らかのメリット」をもたらさないでしょう。カバットジンさんは、「(1)自分で評価を下さないこと」、「(5)むやみに努力しないこと」を実践したうえで「(2)忍耐づよいこと」「(3)初心を忘れなこと」「(6)受け入れてること」を実践すれば、そのうち(少し無責任ないいかたですが、個人差があるのでそのようにしか言えません)、向こうから成果がやってきますよ=自ら変化を感じることができるようになりますよ、だから成果が無いように思えても「(4)自分を信じること」を忘れずに続けてください、と言っているように思います。(1)から(6)は、カバットジンさんが、道元禅師の方法を消化し吸収し、慢性疼痛などに苦しむクライエント(当然出家者ではありません)の方に、道元禅師の方法の本質を分かりやすく伝えるために考え出した方法論だと感じます。慢性疼痛は、完治できない、反復継続的に生まれる痛みだそうですから、カバットジンさんの「マインドフルネスストレス低減法」でも完治できません。「マインドフルネスストレス低減法」は、慢性疼痛がありつつも、人生の質(QOL)を向上させることを目的としています。そもそもスキーマ自体が悪さをするという性格のものではなくて、スキーマは、人が社会性を身に付けたり様々なことを学習したりする過程で、経験をどのように解釈し理解し、将来において、自分がどう考え振舞ったら適合的にふるまえるかという学習の結果の体系として形成されるものです。不適応なスキーマが形成されたとしても、それは自分が受けた苦痛を自分なりに解釈し理解し、苦痛を和らげるために選択されたと考えられます。なぜならば、幼少期においては、両親を含む環境を自らが変える力を持っていませんから、できることは自分の頭の中で、自分が受けた苦痛を自分なりに解釈し理解し、苦痛を和らげるしか方法がないからです。子どものころに、強烈な苦痛を伴う体験により形成されたスキーマは、子供のころの環境にはある程度適合的であったとしても、大人になって自らの意志で物事を決め、社会の中で、自らに周囲が期待する役割を果たして適合的に生きてゆくのには、ふさわしくないものである可能性があります。アルフレッド・アドラーさんは、このように言っています。アドラーの「ライフスタイル」は、スキーマと読み替えても通用するように思います。『人はライフスタイルを10歳くらいまでに自分で完成させる。そしてそれを一生使い続けるのだ。』『使い続けたライフスタイルが支障をきたしても人はそれを変えようとはしない。現実をねじ曲げてでも、自分は正しいと思い込むのである。』『ガミガミと叱られ続けた者が暗い性格になるとは限らない。親の考えを受け入れるか、親を反面教師にするかは「自分の意志」できめられらるのだから。』 『幸せな人生を歩む人のライフスタイル(=性格)は必ず「コモンセンス」と一致している。歪んだ私的理論に基づく性格では、幸せになることはできない。』『自ら変わりたいと思い努力をすれば、ライフスタイルを変えることは十分に可能だ。性格は死ぬ1~2日前まで変えられる。」(「人生に革命が起きる100の言葉」小倉広 ダイヤモンド社より)と考えて差し支えないように思います。ですから仮にあなたが「性格に問題をかかえている」かもしれない、と考えたとしても、それはあなたが異常であるとか、病気であるとかではなく、あなたがあなたを取り巻く環境に適応した結果であって、あなたに異常があるということでありません。人は苦しいことやつらいことは避けたい性向をもっており、自分が味わった苦しみやつらさを解消するために、苦しみや辛さの体験を解釈して理解してそれらを避けようとします。その解釈し理解したものがスキーマであり、幼少期に自分が苦しみやつらさを味わったとすれば、自分に原因があったから、自分は悪い子で好かれないから攻撃されたのだと考えるかもしれませんし、攻撃した人は自分をいじめる悪人だと思うかもしれません。このようなスキーマを、スキーマ療法では、早期不適合スキーマと言います。幼少期は親に保護してもらえないと生きてゆけ(生きて行けなくなるという恐怖)ませんから、攻撃した人が親であった場合、親を悪い人だと思うことを抑圧し、意識しないようにします。意識しないようにすることにより、自分が自分の早期不適合スキーマや早期不適合スキーマに基づく感情に気付く機会がないまま、スキーマは温存され成長し、社会人となった後もスキーマに合致する事実が取り上げられスキーマは強化されます。ですから、仮にあなたが早期不適合スキーマを持っていたとしても、現在大きな支障なく働き、生活を維持しているのであれば、それは正当に評価されるべきことではあっても、「性格に問題がある」と他者から責めらたり低く評価される性格のものではありません。あなたの人生はあなたのもの、あなたしか生きられませんから、他者があなた人生を評価したりする性質のものではないのです。(しかし人間は、脳の構造上、エリスさんからの引用にあるように、自分に都合の良い理屈を作ることができ、自分に都合の良い理屈を作って人を攻撃することができます。)苦しいことやつらいことから何とか逃れようと、幼少時の智慧を振り絞って苦しいことつらいことに耐えるために早期不適合スキーマ(と言われる)解釈や説明をつくりだしたのですから、それを誰も責めることも評価することもできないでしょう。だから仮にあなたが少し悩みながら生きていて、他者との互恵的な関係作りが苦手だとしても、以下のように声をかけるべきだと思っています。あなたは過去のつらい体験にもかかわらずよくやっています。本当に大変だったでしょう。早期不適合スキーマを少し修正して楽になりましょう。
マインドフルネスを始めるなら、歩行瞑想からが良いでしょう。多くの方は毎日歩いていますから、それを利用して瞑想するのが良いと思います。そして、歩行の瞑想をしっかりやって、歩行に集中できるようになる(集中力を養う)と、座ってする呼吸の瞑想を行う際の、呼吸への集中が容易になります。歩行瞑想は、マインドフルネスの源流となった、ヴィパッサナー瞑想=観察瞑想の、初歩であり、基礎となる瞑想です。ヴィパッサナー瞑想は、大まかに下記の手続き、段階を踏みます。①観察と気づきの段階②観察に基づいた気づきを自覚に高める段階③自覚に基づいて、自分の意志として行為を選び取り実践する段階歩行の瞑想は、『①観察と気づきの段階』の初歩であり、基礎となります。マインドフルネスの源流の一つとされるヴィパッサナー瞑想は、釈迦が悟りを得た瞑想と言われています。悟りを推奨しているわけでも、仏教の布教をしているわけでもないのでご安心ください。釈迦の悟りは、阿含経で勉強してみると、宗教的な色彩はあまりなく、以下のようなものであったように考えられます。①当時支配的であった「生まれ変わりがある」という考え方を前提として、「良い生まれ変わりへの渇望」が未知の将来への不安をもたらしているのであれば、「生まれ変わりへの渇望」それ自体を断つことによって、苦悩がなくなり、今生きている「生」の充実がもたらされる。②人の心のはたらき、認知のしくみを知って、現在発生している苦しみを克服した。③上記を経て、最終的に安楽(な状態)も喜び(喜びも心の平静を乱す)もない、心の平静状態に至った。①については、釈迦在世時の人々の精神世界に配慮した便法だと思っていますし、現代人にはあまり必要がないように思っています。「生まれ変わりがある」ということを多くの人が信じていて、生まれ変わりのための祭祀を行う神官が有力な社会階層に位置付けられれているのであれば、「生まれ変わりはない」と説くのは、釈迦にとって教えを説くためには得策ではありませんし、迫害の危険すらあります。そうであるならば、「生まれ変わりがある」けれども、修行によって「生まれ変わりへの渇望」それ自体を断つこととができれば、生まれ変わりに心を悩まされることなく、この世での今ある「生」を精一杯生きることにつながるではないか、「生まれ変わりへの渇望」を断つことが、今生きている自分の苦しみから脱却する方法(迷妄を脱する方法)だ、と説くことになるでしょう。「生まれ変わりがある」と考えるか、「生まれ変わりはない」と考えるかは、現代においても個人の自由ですが、概ね「生まれ変わりがある」ことを前提にはされていない方が多いようですので、現代においては、「生まれ変わりへの渇望を断つこと」は、このブログでの、マインドフルネスの目的からは外して良いでしょう。また、現在の自分の生は父母がいたから自分がいるのですから、生まれ変わりを、「遺伝子を媒介とした再生の連鎖」ととらえれば、生まれ変わりはあることになります。釈迦は、悟りに達すると、宿命通といわれる、前世での生活を思い出す能力が生まれる説いていますが、将来を見通せる能力は説いていないようです。人が生まれることを、「遺伝子を媒介とした再生の連鎖」ととらえれば、祖先の遺伝子を受け継いだ自分には、祖先の遺伝子による記憶があると考えることもできます。しかし、その反面、自分の遺伝子を受けて継いだ子供は、自分が受け継いだ遺伝子による記憶の範囲外であること、将来とは現時点においては実現していない、または生じてはいないことですから、遺伝子に記憶されている過去はわかっても、将来はわからない、ということだと考えると、宿命通については、なんだか妙に納得がゆきます。第四禅にまで至れば、遺伝子レベルでの記憶もわかるのかもしれません。第四禅に到達した人しかわからないことです。「遺伝子を媒介とした再生の連鎖」を前提として、「生まれ変わりへの渇望」を、自己の子孫を残すこと、ととらえると、『「生まれ変わりへの渇望」を滅すること』は、「自分の子孫を残さないこと」となってしまい、現代日本では、はなはだ都合が悪いことになってしまいます。釈迦は、自分の教えを実践し悟りに至るためには出家者でなければ難しい考え、出家者の教えを説き、その教えの保持伝承を託した、とも考えられますが、釈迦の教えが、主として出家者によって保持されてきたために、後世のおいて、釈迦の教えが、次第に出家者に最適化されてきたのではないか、という側面も考えた方がいいように思います。出家者は、子をなしませんので、「生まれ変わりへの渇望」を無くして、私は解脱したのだ、と堂々と宣言できます。出家者の考え方、やり方を、出家者でないものがまねしない方が良いと感じる理由の一つです。ヴィパッサナー瞑想の方法を網羅的に説いた大念処経等では、「瞑想の第四段階」とされ最上位に位置付けられるようですから、個人として目指される方は目指してください、というきわめて高度な領域になります。ただし釈迦が教えを説いた相手は、主として出家者(出家者が出家者に説かれた内容を伝承した結果かもしれません)でしたので、出家者はもっぱら修行に専念できる、という環境を前提に考えた方がいいように思います。どういうことかというと、欲について言えば、出家者は身の回りのわずかなもののみを所有し、家族の元を離れて出家しますから、渇愛や渇望を刺激するものに接することについては、きわめて少ない状態に身を置いていることになり、渇愛や渇望を滅することには適した環境にいた、と言えます。また、心の平静に至ることを妨げるであろう心理的な外傷、例えば幼少時の両親からの粗暴な扱いによって、「非機能的な」信念やスキーマが形成されていたということを想定した場合であっても、僧団という特殊な環境の中で、①「安全と感じられる環境」が提供され、②「非機能的な」信念やスキーマが呼び起こされる経験をすることがなく、③それによって「非機能的な」信念やスキーマが刺激され、強化されることのない環境であれば、④瞑想によって、快不快、好悪や恐怖の感情を克服することによって、⑤「非機能的な」信念やスキーマを消滅させること、が比較的容易であろうと考えられるからです。瞑想の最上位の段階は、特殊な環境でのみ到達可能なところであるかもしれない、ということは考えておいた方が良いと思います。そうすると必然的に『②人の心のはたらき、認知のしくみを知って、現在発生している苦しみを克服した。』という部分にフォーカスして、ヴィパッサナー瞑想を説いた、釈迦の方法論から学んでやってみれば、多くの成果がえられるだろう、ということになります。心理療法では、「心理教育」ということが行われます。例えば認知行動療法では、実践するのはあくまでもクライエントですが、セラピストは「協働的実証主義」という考え方のもと、「心理教育」を行い、クライエントの状況の理解の促進、クライエントのどのような価値の実現に向けて、どのようにセラピーを進めてゆくのか、ということについて理解を得て、進め方に合意した上で、クライエントとセラピストが「協働的」にセラピーの取り組み、セラピーの進み具合を「実証」しながら進めてゆく、という方法を取ります。釈迦の方法論を「心理療法」と考えると、釈迦が阿含経の中で説いたことは、釈迦がおこなった「心理教育」であるととらえることも可能です。マインドフルネスの源流が釈迦の説いた瞑想法である、ということを前提にするならば、マインドフルネス(歩行瞑想)に取り組むときに、釈迦が説いたことを知ることは、予め自分にマインドフルネスの「心理教育」を行うことになります。ヴィパッサナー瞑想についての釈迦の説明という観点からは、「大念処経」が取り上げられることが多いのですが、ここでは、前記「身体に向けた注意」とされるものからご説明します。ただし、このお経は、「身体に向けた注意」の行い方と、その利益を説くことが中心であり、釈迦が到達し説いた「人の心のはたらきと認知のしくみ」が、十分に説かれていませんので、「人の心のはたらきと認知のしくみ」については別のお経を参照する必要があります。上記春秋社版「身体に向けた注意」では、翻訳者出本充代さんによる、下記のような「標題」が付されていますので、内容の説明のために引用させていただきます。〔出入息観による修習〕〔所作の自覚による修習〕〔身体の構造による修習〕〔死体の観想による修習〕〔四禅定による修習〕〔「身体にむけた注意」を養成する効果〕〔「身体にむけた注意」を養成する利益〕上記のうち、〔出入息観による修習〕は、呼吸の瞑想ですので、改めて別のブログご紹介します。歩行の瞑想は、〔所作の自覚による修習〕に含まれます。含まれる、というのは歩行の瞑想以外の、さまざまな体の動作について注意を向けることが説かれているからです。前記春秋社 原始仏典第7巻 第119経「身体にむけた注意ー念身経」から一部を引用します。「歩いているときに『わたしは歩いてる』と知る。立っているときに『わたしは立っている』と知る。座っているときに『わたしは座っている』と知る。また自分の身体がおかれている状態のとおりに、そういう状態であると知る。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、収束し、集中する。このようにしても、比丘たちよ、比丘は『身体にむけた注意』を養成する。」さらに、戻ったり進んだり、前をまっすぐ見たり、見まわしたり、(体を)曲げたり伸ばしたり、外套や鉢(お茶碗)、上衣を持つこと、食べたり飲んだり、トイレも意識して行うこと、歩いたり立ったり、眠ったり目覚めたり、話したり黙ったり、つまり生活全般を意識して行うことが説かれています。つまり「身体にむけた注意」によるヴィパッサナー瞑想は、どのような行動であろうともできる、ということです。しかし、出家して修行に専念できるわけではない人が、一日の行動すべてに「身体にむけた注意」を行ったのでは、仕事や生活に支障をきたします。歩行でなくても構いませんが、特定の行動を選んで集中的に行う方が現実的だと思います。ちなみにアルボムッレ・スマナサーラ先生は、これらのヴィパッサナー瞑想を1日14時間、2週間行うと初期の悟りに到達する、と言われています。「身体にむけた注意」によるヴィパッサナー瞑想は、きちんと取り組めば効果は強力、ということであろうと思います。また、「内に心が安定し、落ち着き、収束し、集中する」というフレーズは覚えておいてください。歩行の瞑想を、毎日きっちりやるようになると、やらなかった日は「内に心が安定し、落ち着き、収束し、集中する」ことが弱くなることが、明確に感じ取れるようになります。「内に心が安定し、落ち着き、収束し、集中する」ということは、七覚支という、悟りいたる七つのステップで説明すると、わかりやすいのですが、七覚支まで説明するとかなり分量が多くなってしまいますので、別の機会にあらためてご説明します。〔身体の構造による修習〕は、〔死体の観想による修習〕とともに後に「厭逆観想」と言われた瞑想法です。〔死体の観想による修習〕だなんて、おぞましいもののように感じますが、「生まれ変わりがある」とされ、「生まれ変わりへの渇望」が強固にあった時代にあっては、〔身体の構造による修習〕〔死体の観想による修習〕によって、自分の身体への渇望(こだわり)を滅し、自分も死をむかえ、死体となって物質として滅失してゆく運命を免れないのだ、という認識を徹底することによって、「生まれ変わりへの渇望」を滅し、生まれ変わりに心を悩まされることなく、今ある生に集中するという意識をもたらしたと思われますから、現代では多く方には不要と思われますし、〔死体の観想による修習〕はそもそも、現在では行うことが不可能です。現代人の多くの方が抱いているであろう死生観からは、わざわざ死体を想起して行う必要性も、乏しいように思います。これについては、下記の「初禅を目指すとよいと思います」で説明いたします。効果については、以下の2つを上げ、たとえによって説明する、弟子たちとの対話が記載されています。「比丘たちよ、誰であれ、『身体にむけた注意』を養成し、強化した人は、悟りの智慧の一部であるあらゆる善いことがらをあわせもっている。」「比丘たちよ、誰であれ、『身体にむけた注意』を養成し、強化した人は誰であれ、神通によって直接体験できることがらのひとつに対して神通によって直接体験しようと心傾けると、その基盤があるときはいつもそれを直接体験できるようになる。」神通については、すでにご紹介した、神足通、天耳通、他心通、宿命通、天眼通、漏尽通などと言われる、悟りを得た後に得られるとされる特殊な能力を指すのでしょう。悟りに到達しなくても苦悩は解消されるようです。釈迦の説いた「身体に向けた注意」という説法からご説明します。身体にむけた注意は、呼吸や、身体そのものの観察、「歩行」を含む身体の動き(所作)の自覚による修習が説かれています。そこには、悟り(四つの禅定)に至ることよりも先に、苦悩を克服できるよ、ということが説かれています。春秋社 原始仏典第7巻 第119経「身体にむけた注意ー念身経」から引用します。「比丘たちよ、『身体にむけた注意』を習い、強化し、操り、基本とし、実行し、繰り返し、完全に習熟すると、次の十の利益が期待される。十とはなにか。1.好き嫌いを克服できるようになる。かれは嫌悪感をものともせず、生じてくる嫌悪感を打ち負かし続ける。2.恐れと怖じ気を克服できるようになる。かれは恐れと怖じ気をものともせず、生じてくる恐れと怖じ気を打ち負かし続ける。3.寒さ、暑さ、飢え、渇き、虻・蚊・風・熱・蛇との接触や辛辣で不愉快な発言に耐え、身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえらえるようになる。4.現世で気持ちよく過ごすことのできる、雑念を離れてすっきりした四つの禅定を、思うままに得、難なく得、苦労なく得られるようになる。」カバットジンさんは、マインドフルネスストレス低減法で、慢性疼痛に苦しむ方に対して「身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえらえるようになる」方法を提供しました。好きなことができないことは苦悩を生むでしょう。嫌なことをしなければならないことも苦悩を生むでしょう。現在の恐怖はもちろんそれ自体が苦痛であり苦悩ですが、記憶にある恐怖が呼び覚まされて苦痛が再現されることも苦悩をでしょう。辛辣で不愉快な発言は、特にSNSの中では深刻です。適切に対応できないと深刻な事態を招きかねません。5番目以下は、神足通、天耳通、他心通、宿命通、天眼通、漏尽通などと言われる、悟りを得た後に得られるとされる特殊な能力です。これらの能力については、にわかには信じがたいのですが、第四禅に到達してみないことには真実であるともないとも言えません。宿命通については、簡単にご説明しました。恐怖感が無くなれば、前世については簡単ではないとしても、自己の過去の記憶にアクセスすることは容易になるでしょう。恐怖感が再現されることを避けたいがために、恐怖を感じた体験の記憶を、意識しない記憶の領域に押し込めている、と考えるならば、恐怖感が無くなれば、自由に体験の記憶にアクセスすることができます。恐怖心の克服としては、逆のルートを取るのかもしれません。「恐怖を感じた体験の記憶」へアクセスすることによって、なぜそのような恐怖を感じたのか、その恐怖の原因や正体がなんであったのかということを知った(ヴィパッサナー瞑想によって観察した)ならば、恐怖の克服ができるのではないでしょうか。「恐怖の原因や正体」を知るという方法論は、痛みがあるなら痛みに注意を集中してみなさい、痛みに注意を集中したら、痛みの状態や本質が解るでしょう、痛みの状態や本質が解れば、痛みがあなたの人生を、決定的に破壊するものではない、という理解につながるでしょう、というカバットジンさんの方法論と同様です。カバットジンさんの、マインドフルネスストレス低減法は、道元さんの影響を深く受けたものだという印象がありますが、苦脳や恐怖を観察して知り克服するというヴィパッサナー瞑想の方法論と同様なものであると考えています。〔四禅定による修習〕は、瞑想により到達する四つの段階を示しています。こちらも春秋社前掲書から抜粋させていただきます。四禅定を簡単に説明しておきますが、とりあえずの目標は、「歩行瞑想で集中力観察力を養い、座ってする呼吸の瞑想で初禅の状態に入ること」におくとよいと思います。初禅の段階は、西欧から輸入されたマインドフルネスでいえば、かなり習熟した状態、と言っていいと思います。初禅では、思考を停止し、思考の停止により感情(渇愛)の生成を停止したうえで、喜びと安楽を感じながら、感情に影響されない「尋」「伺」と言われる観察があらわれますから、「尋」「伺」によって、自分の苦しみを、苦痛を排して客観的に観ることができるからです。「大念処経」では、「初禅」は、「八聖道」という実践の最終段階で、漢語では「正定」と呼ばれる、正しい精神統一によってもたらされるとされていますが、「八聖道」を前提にする必要もないように思います。ただし、「八聖道」は、釈迦の到達した「人の心のはたらきと人の認知のしくみ」に接続する「釈迦の行為論」を具現化したものであるようですので、苦悩を無くす上での示唆に富みます。また、「八聖道」は、認知行動療法の行動療法的技法との位置づけと、とらえてよいとも思っています。『欲望を斥け、不善の事柄を斥けて、大まかな思考や細かい思考が残っている、遠離から生じる喜びと安楽からなる第一の禅定に達する。』「欲望を斥け」というのは感情的な反応、好き嫌い、好きなことが得られないこと嫌なことをしなければならないことへの怒りや嫌悪と考えればよいでしょう。思考することを停止することによって感情の生成が停止しますから、観察に徹する(観察した体の動きや感覚に言葉をあててゆく)ことで、比較的容易に「欲望を斥け」の状態に至ることはできます。西欧由来のマインドフルネスは、思考の停止を意図することなく、思考や生じた感情を主体的に考え感じているという態度から、思考をしている自分、感情が生じている自分を観察する態度へ移行する訓練であると、私はとらえています。禅由来のカバットジンさんのマインドフルネス瞑想法によるマインドフルネスと、釈迦の教えによるヴィパッサナー瞑想の違いであるように思います。「不善の事柄」は、前記「八聖道」や、釈迦が到達した「人の心のはたらきと認知のしくみ」にヒントを求めることになりますが、別の機会にあらためてご説明します。「八聖道」は、本来は、瞑想を行う中で「ああこういうことを釈迦は説いたのだな、確かにこれが完全にできれば苦悩はなくなるだろう」と感じ取ってもらいながら実践する性格のものであると理解しています。「遠離から生じる喜びと安楽からなる」という感覚は、今までに体験したことのない「負担を感じない状態」、「今まではなんて大変な状態だったのだろう」と感じる状態を体験すること、と理解してください。初禅は、座ってする呼吸の瞑想では、①姿勢が安定して(40分~1時間くらいは苦痛を感じず座っていられる姿勢が取れている)、②腹が苦労なく自由に動き、③少し長い穏やかで安定的な呼吸ができるようになった状態で、④呼吸を意識を向けて、⑤呼吸に伴う腹の動きの感覚に「ちぢみ、ちぢみ、ちぢみ、ふくらみ、ふくらみ、ふくらみ」と言葉をあててゆき、⑥言葉と腹の動きの感覚がシンクロする(思考は停止され、思考の停止により感情が生成されない状態に至る)と、比較的容易に到達できるようです。「大まかな思考や細かい思考が停止して内面が鎮まった状態、心が統一された状態である、大まかな思考も細かな思考もない、精神集中から生じる喜びと安楽からなる第二の禅定に達する。」「喜びが冷めた後に静観しつづけ、注意して、意識しながら、安楽を身体で感じとる。〔すなわち〕『〔その禅定にある者は〕静観し、注意しながら安楽に住す』と聖者たちが表現する第三の禅定に達する。」「安楽を捨て、苦しみを捨てたあとに、それ以前に快・不快が消滅しているので苦しみもなく安楽もない、平静さによって注意力が澄みわたった状態である第四の禅定達する。」第三禅で「喜びが冷めた後に静観しつづけ、注意して、意識しながら、安楽を身体で感じとる」とされていますので、喜びのない安楽を感じ取り、「注意しながら安楽に住す」ので、喜びによる心の波立ちすらも負担と感じる安楽の境地が実現されるのでしょう。さらに第四禅では、その「安楽」という感覚すらも放棄して平静さと注意力を獲得する、ということのようです。上記第四禅で「平静さによって注意力が澄みわたった状態」とされいますから、悟りの状態とは、人に潜在的に備わっている注意力が、最高度に発揮された状態である、ということになります。また、カバットジンさんが、著書である「マインドフルネスストレス低減法」(北大路書房)で以下のように語っていますので、ヴィパッサナー瞑想においても、西欧で発展したマインドフルネスにおいても、「注意力」は共通する中核的な要素であると言えます。「『マインドフルネスストレス低減法』というのは、”今”という瞬間に完全に注意を集中するという方法です。これは、仏教における瞑想の中核と言われており、禅宗をはじめとして、そのほかの仏教宗派でも非常に重んじられているものです。」通勤通学などのため、最寄りの駅、バス停への歩行時に行うことも可能ですが、例えば昼休みや、家の周辺で、遊歩道や広い歩道など、ゆったりと歩ける環境で、ゆったり歩く方が効果は上がります。方法は簡単です。すこしゆっくり目に歩き、歩行へ意識を向けるため、「歩いている歩いている」と心の中で唱えながら、歩いている感覚へ意識を向けてください。下を向かず、あまり遠くを観るのでもなく、きょろきょろせず目線を固定して「歩くために」歩いてください。ゆっくり歩くのですが、歩いていることを自覚することによって集中力を養う訓練なので、「ていねいに歩く」「優しく歩く」「注意深く歩く」などのことを心がけてください。30分くらい、目線を固定して、目の前のものを見るでもなく見ないでもなく、ゆっくりていねいに歩きながら、「歩いている歩いている」と心の中で唱えながら、歩いている感覚へ意識を向け続けていると、歩いていることに集中していることが意識できるようになります。また、それに先立って、軽く、ごくかすかに脳がしびれるような感覚もしてきます。確たることはいえないのですが、脳内麻薬が分泌されているのかもしれません。歩行に集中できるようになると、目の前のものを、見るでもなく見ないでもなく見ているのですが、目の前の景色が、鮮やかにビビッドに感じられるようになります。人間は、考えたり考えることによって感情が刺激され(いいなとかいやだなとか感じ)ると、目の前にあることが目に入ってこないようです。歩行に集中するとは、体の動き、動きに伴う体の感覚に意識を集中することで、思考を排除することになるため、視覚や聴覚、嗅覚から入ってくる刺激への感受性が高まります。歩行の瞑想では、極めて大事なことなのですが、心を軽くして安らぎを感じながら歩くことを心がけていください。心を軽くして安らぎを感じながら歩くことで、集中力が高まります。ただしウキウキしながら歩くことではありません。ウキウキするというのは、感情を刺激することですから好ましくありません。「ていねいに歩く」「優しく歩く」「注意深く歩く」ことを心がけながら、心を軽くして安らぎを感じながら歩くようにしてください。呼吸法を説いた「治意経」(春秋社 原始仏典第7巻 第118経「出入息観」)から、心を軽くして安らぎ感じること、についての効果を引用します。「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ。比丘たちよ、喜んでいる比丘の身体が安らぎ、心も安らぐとき、比丘には『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)が始動している」「身体が安らいで幸せな人の心は集中する。比丘たちよ、身体が安らいで幸せな比丘の心が集中するとき、比丘には『精神集中という悟りの支分』(定覚支)が始動している。」悟りを推奨するわけではありませんが、苦悩の低減もしくは滅尽は、悟りへと向かう途上でもたらされるもののようなので、悟りの「パーツ」もしくは「ステップ」ともいえる「支分」を心がけてください。今の私は喜べる状況ではない、とか、身体が安らいで幸せを感じる状況ではない、と感じられるかもしれません。現代に生きていれば、そのような状態に陥ることもあります。しかし、これらの支分が実現しないと、高度な集中力は表れません。後世の方は、釈迦の教えを「こうすればこうなるという厳然たる事実」であると自分たちで体験して認識したから、釈迦の教えを「法」と言ったのでしょう。つらくても、心を軽くして安らぎを感じながら歩く気分にならなくても、歩行の瞑想中だけは、これらの支分を実現する、または、最初は1分間だけでも実現する、というところから始めてください。少しづつ時間が延ばせれば、確実にご自身の中に変化を感じ取ることができます。また、歩行の瞑想において、軽安を意識し心がけることができれば、座ってする呼吸の瞑想での集中がぐんぐん進みます。歩行から意識がそれてしまったり、歩行へ意識を向けることが持続しなくても、あまり気にしないでください。こんなこともできないのか、なんて考えると「軽安覚支」も「定覚支」も遠ざかってしまいます。歩行から意識がそれたら、また意識を歩行にもどすことによって、意識を戻す訓練をしている、と割り切ってください。歩行から意識がそれるのは、それが釈迦が到達した「人の心のはたらきと認知のしくみ」だからです。新奇なものには「なんだろう」、「聞き覚え」「見覚え」「経験のある香り」には、「ああ〇〇だ」と、聴覚、視覚、嗅覚を働かせて確認する(そこに心地よさが発生する)という、心のはたらきがあるからです。自然なことなのですが、これをそのままにしていると、「聞き覚え」「見覚え」「経験のある香り」から、ああ、あの曲聞きたいなあ、とか、元カレ元カノとの思い出がよみがえるとか、ああしたいなあという欲求やできない不満、不快な経験の記憶から不快感などが生じる(想といいます)ことがありますから、例えば何かの音楽に意識向かったら、自分の心に起こったことを感じ取り、「〇〇(曲名)」や、その曲から起こった感情を「悲しい」とか「懐かしい」と言葉で確認して、意識を歩行に戻してください。「自分の心に起こったことを感じ取」るとは、体に生じた心地よい感覚であるか、不快な感覚であるか、どちらでもない感覚(受といいます)に、相前後しておこった、言葉によって把握される前のイメージや沸き起こった感情(想といいます)を、知って「言葉」によって把握し、「自分の心に起こったことを感じ取」ることです。そのような作業の後に意識を歩行に戻します。最初は意識して、次第にそれが自然にできるようになると、集中力が向上します。歩行瞑想で集中力を養い、座ってする呼吸の瞑想に取り組めば、比較的容易に以下のような状態が実現します。「〔身体という〕世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識して、注意しながら、身体を身体として観察しているのである。」(春秋社 原始仏典第7巻 第118経)「マインドフルネスとは意図的に、今この瞬間の体験に、判断を加えることなく注意を向けることである」(カバットジン、日本評論社「マインドフルネスー基礎と実践」)「マインドフルネスとは注意の領域に生起してくる一つ一つの思考、感情、感覚がそれとして認識され、ありのままのあり方で受け入れられるような、判断を入れず(non-judgemental)、現在の瞬間に中心をおいた(present-centered)、気付き(awareness)である」(Bishopetal 2004)(同上書)これらの訓練をすることによって、集中力が高まります。屋内や、他の歩行者に支障のない環境で、ごくゆっくり歩き、足の動きに言葉をつけてゆきます。例えば、「右足離れる」「右足運ぶ」「右足着いた」、「左足離れる」「左足運ぶ」「左足ついた」を繰り返します。これを、例えば10分間やるのは、初めてやる方にはかなり苦痛です。上記の歩行の瞑想を行う中で、公園等があればやってみてください。人目があると少し恥ずかしい動きですので、部屋の中でやっても構いません。かなり苦痛、ということは、筋トレでいえばかなりの負荷がかかっているということですから、脳トレとしては効果が上がります。集中して取り組めば「内に心が安定し、落ち着き、収束し、集中する」ことが体験できます。遊歩道や公園であれば、ゆっくり歩いて、「かかとが地面に付いた感覚」「体重が乗り足裏に圧がかかる感覚」「体が前に移動し足が離れる感覚」に、例「着」「圧」 「離」 といった言葉をあてて、意識を集中する方法もあるでしょう。足が着地した感覚に意識を向けて「ついた」「ついた」という言葉で確認することもありだと思います。足が地面についている感覚に意識をむけるなら「ついている」「ついている」という言葉で確認したらよいでしょう。体の感覚に意識を集中することは、心のはたらきに意識を集中し、心のはたらきに対する感受性(観察力)を高めることにつながります。それゆえ、ヴィパッサナー瞑想では、①身体の動きの観察による集中力の強化②身体の感覚の観察による感受性(観察力)の強化③心の状態の観察④心のはたらき認知のしくみの観察と理解⑤理解に基づく行為の選択と実践というステップを踏んでゆきます。
マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)は、集中力をもって観察を続けることによって効果が出てきます。効果が出るということは、次第に集中力と観察力が維持される状態になってゆく、ということなのですが、いわば完全に”上がり”の状態である「解脱」や「悟り」の状態に至れば、苦悩や苦痛は発生しないのでしょうが、そうでない場合には、時には、集中力と観察力が維持されるということが負担になります。そもそも「解脱」や「悟り」を推奨するつもりもありませんし、私も「解脱」や「悟り」を求めてマインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)に取り組んではいません。苦悩や苦痛が発生しなくて、生活の質が上がればよいのです。苦悩や苦痛が発生しない、といっても超能力を得るとか、全くの別人格になるとか、そういうことではありません。マインドフルネスのメカニズムを、慢性疼痛に伴う苦悩の改善を例にとってご説明します。九州大学の安野広三先生の、マインドフルネスストレス低減法と、アクセプタンス&コミットメントセラピーについてのご説明からの引用です。「ボディスキャンや座瞑想のワークでは、自ら積極的に痛みの感覚に対する暴露を行いながら、なおかつその体験に対して破局的な、認知・情動的反応、即時的な行動を起こさないという在り様が繰り返し訓練される。それを通じて、痛みに対する恐怖などの感情的苦痛や破局的思考、非適応的な行動反応が減少し、痛みに対するアクセプタンスが促進される。また、瞑想の中で移りゆく思考や記憶、感情をマインドフルな気づきのなかで観察することを続けることで、思考や記憶、感情を現実とは区別して、単なる心の出来事してとらえるという在り様(脱中心化)も発展する。それにより痛みに反応しておこるネガティブな解釈や予想、不安や恐怖などを客観的に距離を置いてとらえられるようになり、それからくるネガティブな影響を減少させることにつながる。」「慢性疼痛のような当面は避けることのできない痛みの感覚やそれに必然的に随伴するつらい思考や感情をコントロール・回避しようとする努力は、かえってそれらに関連する苦悩を拡大させる。さらに、そのようなコントロールと回避のための格闘に日常の労力と時間を消費し続けることで日々の生活は痛みに支配され、有意義でいきいきとした生活から遠ざかってしまう。痛みやそれに伴う心理的苦痛をありのままに体験することで、それらとの格闘から派生する苦悩の拡大から自由になることができる。そして痛みとの格闘に日々の労力を使うのではなく、痛みがあっても、自分の人生の価値に沿った活動に取り組み続けることに全力を尽くし、価値のある日々を送られるようにすることをめざす。」(日本評論社「マインドフルネス-基礎と実践-」)慢性疼痛等の方は相当な痛みに苦しめれられていて、医療的には完全に疼痛を治癒することができないようです。それゆえ、「痛み」と「痛みに反応した悲観的な思考や感情」を分離できれば、痛みはあっても人生を前向きに生きられる方向性が見えてきます。マインドフルネスによって到達したい所、そこに到達する方法論、メカニズムが見えていますから、マインドフルネスとしては「適用しやすい分野」と言えるでしょう。特段の苦悩がない、または苦悩の自覚のない方が、マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)を行うとどうなるでしょうか?今まで見えなく、なんとも思わなかったことが見えてきて、それが気になったり、気になっていることの正体がわかったりします。カウンセリングでも同様のことはあり、悩みや苦悩と感じることの原因に、悩みや苦悩を生み出す自分の思考、過去の思い出したくないような出来事とその時の感情によって、悩みや苦悩が発生しているのだ、気付いたとすれば、今ある悩み苦しみから開放されるには、ご自身の思考や、出来事に対するその時の感情をケアして、癒したり考え方を変えたりする必要があります。もともとの原因は他者がもたらしたものであったかもしれませんが、今現在の悩みや苦悩は、あなたの心の中の出来事として発生しているからです。今現在の悩みや苦悩や、その原因に向き合うことはつらいことではありますが、人には回復力がありますから、今現在の悩みや苦悩や、その原因を、自己の中にきちんと消化して不快な経験が過去にはあったとしても、現在の悩みや苦悩とはならない方向が実現される、と考えられています。ゲシュタルト心理学でいう、本人にとっての「未完結の仕事」を完結させ、自己に統合する心理的な作業を行うことで、苦悩からの解放もしくは低減がもたらされる、と説明するとわかりやすいかもしれません。人間が、この世におぎゃーと生まれて来た瞬間から、生きるとは、欲求と欲求が満たされないことによる怒りと、自分の欲求を社会生活の中で調和的に満たしてゆくことのせめぎ合いなのでしょう。そこには当然に苦悩が発生します。愛情を注がれ育てられたとしても、子供の欲求とその充足、社会性の獲得のが、完全な調和をもって進展するわけではないでしょうから、そこには多かれ少なかれ必然的にギャップが生じます。フロイドの自我の概念を継承し発展させた自我心理学に接すると、その思いをより強くします。それゆえ、支障なく社会生活を送っていても、苦悩の原因となる幼少期の記憶は多かれ少なかれ、誰しも抱えていると考えられます。マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)は、集中力が高まり自分の心のうごき、心のはたらに対する観察力が高まると、苦悩の原因が見えてくる、ということもあります。あまり、息抜きになりませんね。幸いなことに、ブログ等で出版社さんからお声がけいただき、本を出しませんか、などと言ってもらっているのですが、例えば、「マインドフルネスで理想の結婚を手に入れる」というようなタイトルが示されることもあります。マインドフルネスは婚活に対しては「促進的」であるとは考えているものの、魔法や超越的な能力を手に入れるものではないので、このようなタイトルでは本は書けません。むしろ、心理療法分野で活用が広がっているように、苦悩との「付き合い方」を変えることによって「心理的な負担を減らす」、場合によっては、活動に支障をもたらすような苦悩をなくせる、というとらえ方をしてもらえば、婚活に対しては「促進的」なものになる、とはいえます。これに対しては、マインドフルネスの方法論から言うと、1.願望を強くする、ということは、感情的な欲求を強化することになるので、良い結果にはつながらない可能性が高い。2.むしろ感情的な反応を抑制する訓練をすることで、合理的な思考に基づく行動が促進されるなら成婚には近づくだろう。1.の場合、強い願望が、行動につながるのであれば、願いが叶う確率が高くなるでしょう。しかし、願望が強いために、期待も高くなってしっまった、という状況の中で、頑張ってみたけど、結果が出ず「うまくいかない」という状態になってしまった場合はどうでしょうか。気分は、だだ下がりしますから、行動への意欲が失せる可能性が高くなります。そもそも感情を刺激すること自体は、疲労感や無力感を招く、というふうに釈迦は自らの瞑想から気付いたのではないかと思います。それゆえ、ヴィパッサナー瞑想は、欲や怒りといった感情を停止した瞑想状態を作り出し、欲や怒りの感情がなければ、ああなったらいいなあ、とか、こうなるのは嫌だ、といった感情に影響されずに物事を観て判断することができますから、そうすれば、おのずと、どのように行動したらよいのかわかるよね、という方法を取っていると考えられます。それゆえ、私は「ポジティブ思考」は、あまり万能ではないと思っています。婚活に対してネガティブになっていて、活動が停滞しているのであれば、必要なことは「活動の促進」であって、ポジティブになるって安心することではありません。ポジティブになって、心が楽になっても活動が促進されなければ、結婚への願望があるならば、早晩ネガティブになってしまします。ネガティブであっても、活動を継続して、活動を振り返り、うまくいったことは、うまくいったと自分をほめてあげて継続する、積極的にやる、うまくいかなかったことは改善する、という活動の中から、ポジティブになってゆく方が自然ですし、持続的であり効果的です。ポジティブ思考は、心理学では、合理的ではないが心の健康に役立つなどの状況では「ポジティブ幻想」などとも言われます。一定の効果がありますが、目的がある場合には、目的に到達する行動の促進につながらないと結果が伴わないことになりかねません。ヴィパッサナー瞑想の方法論は以下のプロセスを取ると考えています。1.瞑想(歩行瞑想、座ってする呼吸瞑想等)において、思考をするのではなく観察に徹する2.観察を徹底し、思考が停止すれば感情が生起しない3.感情の生起が停止すれば、自分の在り方に気づくことができ、気づきがあればそれを自覚に高めることができる5.自覚に高めたら、意志によって「行為」を選択する6.「行為」を実践することによって解脱(心が迷って定まらないことからの脱出)が確かなものになるこの方法は、婚活への取り組み方についても参考になると思います。婚活への応用するために上記をアレンジするとこうなるでしょう。1.瞑想(歩行瞑想、座ってする呼吸瞑想)で、思考ではなく観察に徹する訓練をする2.観察を徹底する訓練をすると、思考が停止して感情が生起しない3.感情の生起が停止すれば、嫌になった、とか、こうなったら嫌だとか、こうでありたい自分に気づき、気づきを自覚に高めることができる4.自覚に高めたら、自覚に基づいて自分の意志を固め、意志によって、何をするのかという「行為」を選択する5.「行為」を継続することによって、成婚への確立が高まる例えば、プライベートな時間に、スマホで婚活を検索して、「こうすすればうまくゆく」という類の投稿を読んで、気分が上がったり、下がったりしている状態は、脳が「デフォルト・モード・ネットワーク」の状態にある、と言えるようです。「デフォルト・モード・ネットワーク」は、プライベートな時間など、くつろいでいる状態で、執務中などとは異なり課題に集中していない脳の状態を言うそうです。課題に集中していない脳の状態なので、脳の休息になりそうですが、近年の研究によると、実はエネルギーをかなり消費し、あまり休息にはなっていないそうです(久賀谷亮さん「世界のエリートがやっている最高の休息法」ダイヤモンド社)。上記の「2.観察を徹底する訓練をすると、思考が停止して感情が生起しない」という状態を経験すると、感情が揺れ動くと、疲れるよね、ってことは体験的に理解できます。この場合の「疲れる」は、どうしたらいいかわからなくて気力がなくなった、って感覚です。うまくいきそうだと期待を高めたり、期待は高まったもののうまくゆかず悲観的になったりすると、感情が動き回って、疲れる、ということです。ですから、願望にフォーカスして、あまり期待を高めたりせず、コツコツとやるべきことをやって、一喜一憂しない、ということが正攻法になります。釈迦は、すごいなと思うのは、徹底的に人の心のはたらき、認知のしくみを観察し、苦悩の発生する原因を知り、苦悩を無くす方法を見つけ、それにとどまらず最終的には「行為論」によって苦悩を無くすことの仕上げをしたことです。釈迦は、2600年前にあって、認知療法アプローチともいえる、徹底的に人の心のはたらき、認知のしくみを観察し、苦悩の発生する原因を知り、苦悩を無くす方法を見つけ、さらには、行動療法アプローチともいえる「行為論」によって苦悩を無くすことの仕上げをした、と言えるように思います。釈迦の方法論は、認知療法アプローチに、行動療法アプローチを接続して完成したように、私には思えます。私の理解になりますが、釈迦の行為論とは、あなたの心に起こっては消える、思考や思考に伴って生まれる感情に対して反応していたのでは、あなたは苦悩を無くして、心が平静を獲得して幸せになることはできないでしょうあなたが、自分についての観察を徹底し、気づきを得て、それを自覚に高め、自覚に基づく意志によって選択された行為を行うならば、あなたは心の平静を得て苦悩(迷い)から解放されるでしょうということになります。馬場紀寿先生の「初期仏教ブッダの思想をたどる」(岩波新書1735)では、「行為」について以下のように説明されています。「仏教」と言われていますが、「初期仏教」をさしますので、釈迦の説いたところ、と考えていただいていいように思います。「また仏教は、意思の自発性を否定する見解を認めなかった。仏典は、すべてが「前世で行われたことを原因とする」という運命論、全てが「主宰神による創造を原因とする」という主宰論、全てに「原因もなく条件もない」という偶然論をみな斥ける(『増支部』三・六一『外教処経』)。(中略)「その論理的帰結として、自らの心を正すことによって、自らの行為を正すことが目指される。それは、あくまで自分で自分の行為を律することだから、共同体の秩序に従うとか、神の命令に従うといった他律ではない。そのような外部の規範を受け入れるのではなく、意思の発現として他者に及ぼす行動が自己に折り返してくる結果にもとづくという点で、自身で生み出す規範である。」馬場先生がご説明される、「外部の規範を受け入れるのではなく、意思の発現として他者に及ぼす行動が自己に折り返してくる結果にもとづくという点で、自身で生み出す規範である。」は、先に引用した九州大学の安野広三先生の、アクセプタンス&コミットメントセラピーについてのご説明の、「自分の人生の価値に沿った活動に取り組み続けることに全力を尽くし、価値のある日々を送られるようにすることをめざす。」というご説明と、「自分が選び取るもの」という性格において基本的に同じものであると感じています。釈迦は、2600年前に、今日の心理療法がさししめしている地点を、説いていたことになります。「あなたが善きご縁にめぐりあえますように」ちなみに、これはおまじないではありません。一般的に「慈悲の瞑想」と言われる、自分の心の中に好ましい態度を育てるために、自分に願い、同じ気持ちを他者に向けるという、マインドフルネス瞑想のアレンジです。私が言っているので「あなたが善きご縁にめぐりあえますように」となりますが、ご自身で行うならば、「私が善い縁にめぐりあいますように」となります。言い換えれば「善い縁にめぐりあえ」る行為を自らが理解して、それを行なえば、あなたは「善い縁にめぐりあえ」る可能性がたかまる、ということを前提、自ら「善い縁にめぐりあえ」る行為へと向かわせる瞑想、ということになります。やり方を具体的と効果の経路を説明します。座ってする呼吸の瞑想などによって、呼吸と呼吸に伴う体の動きや感覚に注意を集中することで、心を落ち着けたうえで(集中力を高めて)、願望はいったん脇に置いておいて、自分に、私はこうするのだ、という指令をあたえて、心の中に定着させ、自分の行為、行動が発現されるよう促すことにより、自らを「善い縁にめぐりあえ」る行為へと向かわせる瞑想、といえるでしょう。
難しいことはしません。簡単なことを、根気よく続けてゆくだけです。筋トレをイメージしてください。そんなに複雑なことをするわけではありませんよね。筋力を養成するのが筋トレ、自分の考え方の仕方を少し変えて苦しい感じを少なくするトレーニングが、マインドフルネスだと、ざっくり考えてくださってかまいません。説明のベースにあるのは、ヴィパッサナー瞑想です。たぶんヴィパッサナー瞑想って、初めて聞く方の方が多いと思います。ヴィパッサナー瞑想は、観察瞑想と言われています。座ってする「呼吸を観察する瞑想」では、呼吸を観察することへの意識の集中(集中瞑想)により思考を停止し、思考を停止することで感情の生起を一時的(瞑想中)に止めて、心を落ち着かせることもできます。私の経験からの感覚なのですが、一時的にでも感情の生成が停止された、と感じることは、脳のはたらきに変化をもたらすようです。感情の生成が停止されると、「なんでこんなに楽な状態になったの」「今まではなんて重荷を負った状態だったのだろうか」と感じます。「なんでこんなに楽な状態になったの」「今まではなんて重荷を負った状態だったのだろうか」という状態を体験すると、それは感情の生成が(一時的であっても)停止され、感情の生成による負担から解放されて楽になったのだ、体験的に理解できます。感情の生成、特にネガティブに考えることによって生成される大量の不安感情は自分を疲弊させる、ということになります。脳にとっても「楽な状態」は良いことですから、脳は楽な状態を実現しようとします。しかし、そう簡単には、「楽な状態」は実現しません。なぜならば、これからお話しいたしますが、脳には釈迦が説いたように、あれがいい、これは嫌だ(という考え)に執着する性向があるからです。感情の生起を停止すると、恐怖や好き嫌いといった感情に影響されない思考が現れます。このことを釈迦はこう言っています。「心の動きの停止と智慧による観察(止・観)という二つのことがたがいに関連して起こる。(春秋社 原始仏典第7巻 第149経)智慧(感情に影響されない思考)によって、自分を観ること(ヴィパッサナー瞑想、観察瞑想)によって、自分の心のうごきへの観察能力が向上し、瞑想終了後の日常生活であっても、自分が考えたこと、感じたたこと、気分の低下を察知し、その原因を理解する能力が向上します。さらには、瞑想状態の中で、尋、伺という感情に影響されない思考を活用することによって、あれが欲しい、これがいい、それは嫌、といった感情によって突き動かされた意欲ではなく、意志によって自らが選択した行為を取ることができるようになります。集中状態を作出するためには呼吸が重要ですので、朝晩の瞑想の前に簡単なエクササイズをします。目的は、③「呼吸を観察する瞑想」の効果を上げるため、です。①気道をまっすぐにする姿勢を理解すること、これにより無理なく呼吸ができます。②吐息を吐ききり、体の力を抜くことで呼気を呼び込む感覚を体験すること③腹式呼吸の方法を理解し、日常的にできるようにすること④通常の呼吸より長く、かつ穏やかな呼吸ができる練習することこれらを体験し、身に付けることによってリラクゼーション効果が期待できます。瞑想におけるリラクゼーションとは、「くつろぐ」ことではありません。瞑想におけるリラクゼーションとは、「心身が安静な状態での覚醒」と考えてください。心身はくつろいでいながら、頭は冴えている状態と考えていただくとよいかもしれません。息を吐くときに副交感神経、息を吸うときには交感神経が働いているそうです。副交感神経により、心身がくつろぐ状態を、交感神経により、頭が冴えている状態を、それぞれ作り出すことに寄与していると言えるかもしれません。ゆっくりと滑らかに息を吐ききり(副交感神経優位)、吐ききったら体の力を抜き自然に息を吸い込みます(交感神経優位)。この呼吸法を呼主吸従と言います。このようにすると呼気は長くゆったり、吸気はゆったりと短くなります。呼気を長くゆっくりとすることで副交感神経の働きを優位にし、安静効果が得られるように感じます。実際、息をゆっくりおだやかに吐いているときには、安らぎを感じ、吸気によりそのやすらぎは中断されることを感じることができます。私はその様な感覚を感じますが、やってみて確かめていただくのが本来の瞑想の在り方ですし、それが確かめれられるようであれば、瞑想の効果は表れている状態になっているでしょう。呼主吸従により、心にやすらぎを作り、酸素摂取量を増大し、観察によって思考を停止し、心身が安らぎながら「今現在の自分の体をリアルに感じ取る」ことができる状態に到達します。「今現在の自分の体をリアルに感じ取る」ことができる状況では、ゆったりとした呼吸と意識の流れが合致している感覚がもたらされます。仏教瞑想でもマインドフルネスでも、「呼吸を観察する瞑想」は中核的な方法です。呼吸を観察した時点で、日常的な「無意識な呼吸」ではなくなっていますから、瞑想時の呼吸は「意識して最適な呼吸(楽な呼吸)をする」ことが必要です。酸素摂取量が少ないより、多いほうが身体は賦活(いきいき)されます。呼吸法と酸素摂取量の関係については、村木昌弘先生が「大安般守意経に学ぶ釈尊の呼吸法」(柏樹社)などで説明されています。身体が賦活(いきいき)されるということは、脳の活動も活発化するということです。脳の活動が活発化した方がより集中力、観察力は強化されると考える方が自然です。課題は、体がリラックスした(力まない)状態と、酸素摂取量を増やす、ゆったりとした長めの呼吸(筋肉の動き)をどのように両立させるか、ということになります。ご自身で、体の状態を観察しながら、最適な状態を探ってゆくことになります。「体の状態を観察しながら、最適な状態を探ってゆくこと」ことによって、呼吸を観察する瞑想が、必然的に体の動きと体の感覚を観察する瞑想へと深まってゆきます。「身体が安らいで幸せな人の心は集中する」(春秋社 原始仏典第7巻 第118経) 釈迦の言葉です。身体に緊張が生じない状態、思考と感情の生成の停止により、不安などが生まれてこない状態をつくれば、おのずと集中することが容易になり、集中により苦悩を生み出す自己の心のはたらきを観察することが出来るよ、ということを釈迦は言われているようです。多くの方は毎日歩きますから、これを生かして「歩行の瞑想」をします。やることは「歩いている」ことに集中し、「考えない」「想像しない」ようにすることだけです。歩行に集中することは退屈な作業になります。ですが継続すれば効果がある瞑想です。退屈であるがゆえに、歩行の瞑想に10分間集中して取り組めるようになると、③の「呼吸を観察する瞑想」への集中が容易になり、「呼吸を観察する瞑想」を10分間持続することが、極めて容易になります。人は、考えながら歩いたり、いいことであっても悪いことであっても想像しながら歩いていると、外界への注意力は極めて少なくなっています。考えること、いいことであっても悪いことであっても想像することは、脳のリソース(資源)を大量に使用し、外界への注意へ払うリソースを減少させてしまうようです。不思議なことかもしれませんが、考えながら歩くこと、いいことであっても悪いことであっても想像しながら歩くことを止めて、歩いている自分の体の動きや感覚に注意を向けている時には、目の前の光景や音をリアルに、いきいきと感じることが出来ます。目の前の光景や音をリアルに、いきいきと感じるけれども、感じるだけで意識が引き付けられない、という状態が持続できるようになれば、歩行への集中力が高まっていると言えます。このような状態になっている時には、歩行への集中が無理なく行えて、かすかな快感も感じますから、脳内で快感物質が分泌されているのかもしれません。このような状態を経験すると、③「呼吸を観察する瞑想」への集中は容易になります。また、歩行の瞑想は、外で行い、視覚、聴覚や嗅覚などの刺激にさらされますから、歩行への意識が何かの別のものに向かった場合、自分の意識がどこに向かったのか、その時に何を感じたのか、ということを感じるとることが出来ます。「その時に何を感じたのか、ということを感じるとることができる」とは、「観察力が養われた」状態、ということになります。認知行動療法の「モニタリング」や「非機能的な自動思考」の内容を知ることが容易になります。ただし、気分の低下も容易に感知することが出来るようになりますので、苦痛や苦悩も感じやすくなることを意味します。これは悪いことではなく、苦痛や苦悩を感じやすくなるということは、つらいけれども、苦痛や苦悩を注意ぶかく観察して、どういうことなのかを理解すれば、苦痛や苦悩を解消するヒントが見つかる、ということでもあります。これは、心理カウンセリングが進展するプロセスと同じです。心理療法では、体の状態への気付きが、心への気付きを促す、とも言われいます。自分に苦痛や苦悩をもたらしていることを突き止めなければ、言い換えれば、苦痛や苦悩がなにによってもららされているのか、という探求に向き合わなければ、苦痛や苦悩を解消する方法は見つかりません。また、「非機能的な自動思考」というとらえ方と、釈迦が得た「人の認知のしくみ」である「五蘊」(色受想行識)のうちの、「受」もしくは「想」は重なり合うように感じます。釈迦が得た「人の認知のしくみ」では、外界での出来事を感覚すると、人には、楽の感受、苦の感受、楽でも苦でもない感受(感覚)が生じるとされます。この感受は体にも現れます。これが「受」です。「想」「saññā」は、以下のように説明されます。①「表象作用」(春秋社 原始仏典第2巻 第22経)②「五根に情報がふれた瞬間に起こるイメージ」(アルボムッレ・スマナサーラ先生、「釈迦の実践心理学アビダンマ講義シリーズ第7巻」サンガ)(五根は感覚器官、情報は外部からの刺激)と説明されることもありますが、行動との関係でみると「一瞬のうちに生じて、その内容が明確に認知されずに行動に影響する感情的な反応」ととらえてもよいと思います。「非機能的な自動思考」が、「想」のはたらきによって「一瞬のうちに生じて、その内容が明確に認知されずに行動に影響する感情的な反応」であり、それによって「苦の感受」が生じる、もしくは「苦の感受」が強化されると考えると、「非機能的な自動思考」が気分を低下させる、という認知行動療法の考え方と整合的です。気分の低下が生じた時=「非機能的な自動思考」が生じたときには、「今何を考えただろうか?」と自問して、「非機能的な自動思考」の内容を特定しようと意図すること、言葉として把握することが「行」(それをしようという意欲と意欲に基づく行動)のはたらきと言えます。ここまで読んでいただいた方は、「細かい説明でめんどくさいな」という印象をお持ちだと思います。ヴィパッサナー瞑想を行うことで、「細かい説明でめんどくさいな」という「想」の生起、人の認知作用を把握できるようになります。「受」が先行して「想」を生じるとすると、「苦の感受」の発生 ⇒ 気分を下げる「非機能的な自動思考」の生起 ⇒ 「苦の感受」が再発生し強化される、となるのかもしれません。しかし、心の中で起こることは、プロトコルのように手順に沿って進められるもの、というとらえ方よりも、混然一体となっている中で、Aという変化がおこるとBを引き起こし、Bが引き起こされると、Aに影響を与え、その時々に起こった心の動きが強く感知される、というとらえ方のほうが理解を促進するように思います。「なんであんなこと言ってしまったんだろう」という後悔する行動があった場合、その発言に先行して「想」によって、「もし私がこういうふうに相手から誤解されているかもしれない、仲間外れにされるかもしれない(恐怖、危険)、回避しよう」という、「一瞬のうちに生じて、その内容が明確に認知されずに行動に影響する感情的な反応」が生じて行動や発言に影響を及ぼしていたからかもしれません。「想」を「一瞬のうちに生じて、その内容が明確に認知されずに行動に影響する感情的な反応」と仮定すると、「過去の不快な経験により記憶された過去の出来事とそれによって引き起こされた感情と、そこから形成されたものごとの判断基準としての信念」が呼び起こされて行動に影響を与えると考えると、「非農的な自動思考」よりは深層にある「非機能的な中核信念またはスキーマ」によって引き起こされる、ととらえることもできるように思います。「想」が生じたことを感じ取ることができて、その内容を知ることができるようになると、「非機能的な自動思考」よりも深い心の領域にあるスキーマや信念を明らかにすることができる、ということになります。また、「一瞬のうちに生じて、その内容が明確に認知さずに行動に影響する感情的な反応」が、危険を回避したいというものであった場合、記憶を蓄える海馬の先にある、『危険を察知するための情動である恐怖の情動と深く結びついている』偏桃体による(大脳による処理を経ていない)反応であると理解してよいかもしれません。(『』内 改定親版人格心理学 大山泰宏さん NHK出版 より引用)歩行の瞑想に集中することは、視覚、聴覚や嗅覚などの刺激にさらされても、そちらに意識を向けない、という訓練になりますから、見たい、知りたい、考えたいという瞬間的に発生した感情的な反応を制御することになります。脳の機能として、感情的なはたらきは大脳辺縁系が担い、理性的な情報処理は大脳が担うとされていますから、「見たい、知りたい、考えたいという瞬間的に発生した感情的な反応を制御」して「感情的な反応をおさえ」ることが、大脳辺縁系の活動を抑制し、大脳が働くリソースを確保する、と考えると、大脳の前頭前野は『視覚情報の制御と処理、短期記憶(作業記憶)の貯蔵、感情の制御、行動の計画と企図などが担われているほか、脳のそれぞれの分野の情報を統合することがわかってきており、自我あるいは意識の座とも言われている。』ので、「意志を強くすること、自己効力感の増大につながる」という理屈には一定の説得力があるように思います。(『』内 改定親版人格心理学 大山泰宏さん NHK出版 より引用)また、後に紹介しますが、釈迦は「身体に向けた注意」、つまりヴィパッサナー瞑想によって、期待できる利益の一番に、好き嫌いの克服、2番目に恐怖心の克服と説いています。「瞬間的に発生した感情的な反応を制御」することで、感情的な反応を抑える訓練(偏桃体を中心とする大脳辺縁系の活動を抑制する)、大脳による情報処理(前頭前野による感情の抑制、行動と計画の企図などを担う)を促進すると仮定すると、感情に突き動かされるのではなく、合理的な検討を経た行動、つまり意志による行動が促進されると考えられる余地はあるでしょう。「瞬間的に発生した感情的な反応の制御」が、なぜ意志の強化や自己効力感の増大といった効果をもたらすのか、ということを理解するためには、人は瞬間的に欲求(愛着)を生んでしまうという釈迦が認識した「人の認知のしくみ」を理解するとよいでしょう。釈迦がとらえた「人の認知のしくみ」である「五取蘊」を簡略化して説明すると、人は五感が刺激を感受して意識が働くと、物体としての体や、認識の各段階である色、受、想、行、識(器官⇒感受⇒表象⇒意欲⇒識別)に愛着が発生し、愛着が発生することに気付かずに、喜びを感じたり怒りを感じて行為すると、その愛着はますます強くなって、その結果として苦悩をもたらす認識方法が強化されるよね、だから自分の認識をよく観察して、愛着が発生しないようにすれば、苦悩の発生原因をなくすることができるよね、というものです。(春秋社 原始仏典第7巻 第148経 「六六経」)このような「人の認知のしくみ」を前提にすると、歩行の瞑想や呼吸を観察する瞑想によって、感覚⇒知覚⇒認知⇒判断に対する観察力を養うと、この「物体としての体や、認識の各段階である色、受、想、行、識(器官⇒感受⇒表象⇒意欲⇒識別)に愛着が発生」することに気付くことが出来るよ、気付くことが出来ればそれを防ぐことが出来るよね、ということになります。歩行の瞑想は、屋外でおこなうため、室内で行う「呼吸を観察する瞑想」と比べて、視覚、聴覚や嗅覚などに対する刺激にさらされることが多く、それらに刺激されて歩行への意識の集中がそれたときに、「その時に何を感じたのか、という」自分の体験を通して、釈迦が到達した「人の認知のしくみ」の理解を深める契機ともなります。※執着の対象としての「五蘊」が「五取蘊」です。)足を組んで、行うことが原則ですが、修行者ではないので椅子で行います。朝晩行います。仏教瞑想でも中核的な瞑想法ですし、マインドフルネスでも中核的な瞑想法です。釈迦は、呼吸の瞑想についてこのように言っています。「比丘たちよ、呼吸にしっかり想いを凝らすことは、感覚のうちのひとつであるといえる。それゆえ、比丘たちよ、そのとき比丘は世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、感覚を感覚として観察しているのである。」(春秋社 原始仏典第7巻第118経)最低でも10分~15分くらいは必要です。最低でも10分~15分くらいは必要な理由は、リラクゼーション効果を目的とした場合でも、呼吸が安定してリラクゼーションが感じられるまでに、10~15分はかかるからです。ちろん個人差があります。時間が取れるなら45分~60分くらいを目指すとよいと思います。自己探求という観点から、自己への気付きに至るには相応の時間が必要です。しかし長時間やったからいい、というものでもないようです。長時間やっても、呼吸を整えると落ち着いてくるので、考えたり想像したりし始めるとどんどん進んでしまいます。ここで役立つのが、歩行の瞑想で養った、意識を歩行に引き戻すトレーニングです。時間よりも集中力が重要になってきます。しかし集中力の高まりは、最初は自覚できませんし、高まってもすぐになくなってしまします。それらを注意深く観察することも呼吸の瞑想では必要になります。同じに見える状態に、より注意深く見てゆこうという「細かい観察」を注いで、違いが感じられる状態になれば、集中力と観察力はついてきています。瞑想は、できるだけ空腹時に行ってください。その方が腹式呼吸が容易になりますし、体の感覚も感じ取りやすくなります。就寝前に行う場合は、眠くなったら瞑想を止めて寝てください。眠けを乗り越えて、サマディー状態に入ると、眠りが浅くなります。出家者の方の修行であれば、眠いなどと言ってはいられないのかもしれませんが、出家者でない私たちには、明日の仕事ややるべきことがありますから、睡眠に入るきっかけ(眠くなること)を逃すことは避けるべきです。健康のためには、良質な睡眠の確保を心がけてください。良質な睡眠をとった翌日の方が瞑想の質は高まります。集中力が高まっていることは、「耳が聞こえなくなる」体験をすることで確認できます。完全に聞こえなくなるわけではなく、近くで聞こえていた音が、突然遠くの音のように感じられるようになります。ワールポラ・ラーフラ師が書かれた、英語圏で一番読まれているという仏教概説書の日本語訳「ブッダが説いたこと」(岩波文庫青343-1)にも、そのような記載があります。私自身も経験しました。現在では、カチッと、しずかにスイッチがはいった感覚で感じ取れます。さらに継続すると、姿勢が安定し、安定的に深い呼吸ができるようになり、姿勢の維持に必要な筋力以外の筋力の力(力み)を抜くことが出来るようになります。そして、体全体の感覚や、部分的に緊張が生まれた(力がはいった)ことが、ありありとリアルタイムで経験できるようになると、集中力の高まりと、リラクゼーションを経験することができます。この状態になると、次のような釈迦や、マインドフルネスの指導者による説明が体感的に理解できるようになります。「〔身体という〕世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識して、注意しながら、身体を身体として観察しているのである。」(春秋社 原始仏典第7巻 第118経)「マインドフルネスとは意図的に、今この瞬間の体験に、判断を加えることなく注意を向けることである」(カバットジン)「マインドフルネスとは注意の領域に生起してくる一つ一つの思考、感情、感覚がそれとして認識され、ありのままのあり方で受け入れられるような、判断を入れず(non-judgemental)、現在の瞬間に中心をおいた(present-centered)、気付き(awareness)である」(Bishopetal 2004)「マインドフルネスとは、受容(acceptance)を伴う、現在の経験への気づきである」(Siegel 2010)(カバットジン~Siegel 2010まで、マインドフルネス ー基礎と実践ー 日本評論社より)UCLAでも取り入れられているそうです。(「世界のエリートがやっている最高の休息法」久賀谷亮さん ダイヤモンド社)この瞑想を行うこととした場合、この瞑想も椅子に座って朝晩行います。この瞑想でも、「呼吸の訓練」によって呼吸を安定させること=長めで深い呼吸が穏やかにできること、が前提になります。一般に言われている「慈悲の瞑想」(定型版)は、四無量心の瞑想の簡略版です。簡略版は、マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)導入時に、集中力を上げるサマタ瞑想として行うことが推奨されています。本来のやりかたは、四無量心と言われる下記の4つから、どれか一つを選んで行います。「慈無量」慈しみの心を養う(自らに優しくする心を養いそれを他者にも向ける)「悲無量」憐みの心を養う(自らの悲しみの克服を願いその願いを他者にも向ける)「喜無量」喜びの心を養う(自らの内に喜びを育て他者にも喜びを願う)「捨無量」心の平静を妨げるこだわりを捨てる自分の中に生み出せない心は、育てられませんから、どれか一つ、自分の性向に合致していて、効果があがるものを選択して行います。「慈しみ」が一番取り組みやすく、「捨」が一番難しいとされています。サマディー(心の集中状態)の到達点「第三禅」では、「喜」を離れて、心の平静を得るようです。(春秋社 原始仏典第2巻 第22経)出家者でない方は「捨」には取り組まない方がいいでしょう。「喜び」の瞑想は、日常的に、些細なことで、たとえばうまくできた、と感じて、心が軽くなった瞬間の気持ちを記憶しておいて、それを瞑想の中で育てることだとらえればよいと思います。認知行動療法の思考記録表は、「非機能的な自動思考」の生起による「気分の低下」を察知して、「非機能的な自動思考」の内容を明らかにして、修正を行いますが、その反対のこと、つまりポジティブな感情をとらえて、瞑想の中で育ててゆくことと考えればよいと思います。ただし、「喜び」の瞑想は、瞋性という性格に該当する方はできない(取り組まない方が良い)とされています。英語の「mindfulness」とされる「sati」を、日本では、「心を一点にとどめて決意することを「念」(sati.Skt.smrti)という。」(春秋社 原始仏典第2巻 大22経「心の専注の確立」大念処経の註)としています。慈悲の瞑想は、「心を一点にとどめて決意すること」という「念」の説明に近い瞑想だと思います。「セルフコンパッション」という、自分に優しくし、必要以上に厳しい態度を取らないことで、気分の低下を防ぐという方法があります。たとえば「自分に対して厳しく、ネガティブなとらえ方をする傾向がある」「他者の自分に対する考えが気になって不安を感じる」方は、「呼吸を観察する瞑想」に代えて、「慈しみ」の瞑想を行うとよいと思います。この場合、「慈しみ」の具体的な内容は、ご自身の考え方や物事の受け止め方を理解したうえで、自分に優しくできるようになってゆく内容であることが必要です。「慈しみの瞑想」について、私の事例でご説明します。心理カウンセリングの講座の中で、自己理解が一番難しくかつ重要であると、繰り返し繰り返し指導されました。日常生活で、些細なことでも、うまくいかない出来事に遭遇したとき、自分に対して「失敗した」と半ば無意識につぶやいていたり、舌打ちしたりなどに気付くことで、自己理解が一番難しくかつ重要であることを実感しました。なぜならば、このようなとらえ方や行動は、「自分がしたことを自分で正確に理解せず」、「自分で自分を攻撃していた」ことになるからです。つまり、自分がしていることを「自己理解」していなかったのです。「自分がしたことを正確に理解せず」、とは、手順を間違えた、または本来の手順を飛ばしたために、自分が期待した結果にならなかった、という事実を認識することなく、失敗したと、きわめて大雑把に、感情的に反応していただけだった、からです。「自分で自分を攻撃していた」、とは、「失敗した」となかば無意識につぶやいていたことや舌打ちしていたことです。カウンセラーの、自分自分に対する態度や行動は、クライエントへの共感や理解の仕方、かかわり方(かかわり行動といます)にも影響します。そのように考えると、カウンセラーは、自分の態度や行動を「自己理解」して、自分に対する不適切な態度や行動を改善してゆくことが極めて重要になります。それゆえ、自分を「やさしくていねいに注意深く見てゆく」という態度、自分を「やさしくていねいに注意深く扱ってゆく」という行動を養い、その態度と行動を、他者(クライエント)に向けてゆけゆくことを意図して、「慈しみ」の瞑想を行っています。「慈しみ」の瞑想は、自分自身を慈しむ心(心理的な態度)を育てて、その心を他者にも向ける瞑想です。「慈しみ」の瞑想は、アサーショントレーニング(主張訓練)と併用すると、良好な対人関係を築くことにも役立つと思います。ということは、結果として、あなたの印象や話し方の改善を通じて、お見合いや交際においても良好な対人関係を築くことにも役立つだろう、ということがいえそうです。アサーショントレーニング(主張訓練)は、自分の考えを尊重し、他者も尊重しながら、自分の意見を効果的に主張する(伝える)訓練です。一見無意味と思われるようなことをするので、効果が実感できないとバカバカしくなって、やりたくなくなります。人間は、意味やメリットを感じないとなかなかやる気になりません。最初は、「無意味なことに一生懸命集中すると集中力が養われる」と割り切って継続するしかないと思います。集中力をつける訓練をしないと、マインドフルネス(瞑想)は進展しません。集中することが瞑想の中核的な効果を生み出します。なので、脳の筋トレ、認知能力の筋トレと考えてください。見ているだけ、理解しているだけでは筋トレになりませんよね。筋トレは、見方を変えれば、「今ある筋力の発揮」です。「今ある筋力を発揮する」から、筋力が維持され増強されます。瞑想の筋トレは、集中力の養成=「今ある集中力を発揮する」つまり、歩行や呼吸の観察に集中することから始めます。「使う筋肉は発達する、使わない筋肉は衰える」のと同様に、マインドフルネス(瞑想)は、「今ある集中力を発揮する」ことによって、集中力を養うことによって、脳の情報処理方法を改変することにつながると考えています。加賀谷亮さんが書かれた前掲書「世界のエリートがやっている 最高の休息法」(ダイヤモンド社)には、マインドフルネスによる脳の機能の変化についての研究が紹介されています。また、日本評論社 「マインドフルネスー基礎と応用ー」には、心理療法分野でのマインドフルネスの活用や効果が紹介されています。研究は、「マインドフルネスをやった人」と、「マインドフルネスをやらなかった人」の比較で行われますが、ご自身で取り組まれる方は、他者との比較ではなく、「マインドフルネスをやる前の自分」と「マインドフルネスに取り組んでからの自分」に、どのような変化があったか、という観点でとらえてください。「マインドフルネスをやると、ほかの人よりも、○○の能力が上がる」と考えたり期待したりするのは、マインドフルネスの効果の発現を阻害します。瞑想経験者は、瞑想を通じて、ああこうなるのか、という「変化の体験」をとおして、瞑想の効果を理解してゆくのですが、当然これから始めようとする方には、「体験」がないので、この方法では理解はできません。理解できないとやりたくなりません。これは「概念的な理解力を養っている」現代人には致し方ない側面ではあります。それゆえ、「マインドフルネス瞑想法」によるストレス対処プログラム(MBSR)をつくりだした、カバットジンさんは、「マインドフルネス瞑想法」に、これから取り組む人に対して、こう言っています。①自分で評価をくださないこと②忍耐づよいこと③初心をわすれないこと④自分を信じること⑤むやみに努力しないこと⑥受け入れること⑦とらわれないこと(「マインドフルネスストレス低減法」北大路書房)しっかりとマインドフルネスの効果や機序(メカニズム)を理解して、やるかやらないか考えますよ、というのは、「概念的な理解力を養っている」現代人にとっては、もっともな戦略です。効果や機序(メカニズム)は、ある程度は説明できますが、瞑想により観察力が高まった状態で、自分の感覚や心を観察した時に初めて、ああそいうことか、と理解できるものです。それゆえ、説明しきれない部分があります。瞑想の機序を理解するヒントになるのは、釈迦の解説、つまり阿含経に説かれた瞑想についての記述であろうと思います。しかし、釈迦の方法論は、高次の、不可逆的な覚醒状態(悟り)に至った釈迦が、覚醒状態(悟り)に至っていない弟子たちに対して、不可逆的な覚醒状態(悟り)に到達できるように、①瞑想の前提となる「人の認知のしくみ」②「このようにしてみなさい」、そうすると「こうなる(苦悩からの解放)」から、「自分でやってみて確かめなさい」という方法論で説いたものであったようですので、「人の認知のしくみ」と「このようにしてみなさい」と「こうなる(苦悩からの解放)」の間のメカニズムは、「自分でやって、なるほどこうなるのかと確かめ」ることになります。自分でやってみて、ささいなことであっても、変化を自分で感じる、ということが、マインドフルネスの本質であると感じています。
マインドフルネスを「自己探求に基づく意志による行為への転換」プロセスであると思っています。心理学や心理療法、カウンセリング、脳科学などというものの無い時代に、釈迦は、自らの心のうごき、はたらきを観て苦悩の性質、苦悩の発生とそれを滅する方法を、瞑想のみによって解明したのですから、釈迦の知見は役に立ちます。さらに、今日の私たちには、自らの苦悩を知ることについて、釈迦は持っていなかったツールがあります。それは、心理学や心理療法、カウンセリングの方法論とその前提となるモデル、つまり、一定の効果性が認められた心理療法やカウンセリングの前提となる「自分の心の理解のためのモデル」がある、ということです。「自分の心の理解のためのモデル」を参照しつつ瞑想することは、限られた時間の中で瞑想に取り組まなければならない現代人にとっては、有効な手掛かりになります。心理療法の本を読み、心がざわつき「なんだか自分にも(この本にかいてあることが)ありそうだな」と感じた日の瞑想もしくは数日の内に、「ありそうだな」と感じたことが「これだったのか」ということは何回も経験しています。マインドフルネス瞑想法を創始したカバットジンさんに、大きな影響を与えた道元さんはこのように言っています。「佛道をならうとは、自己をならう也」(正法眼蔵・現成公案)それゆえ「参見知識のはじまりより、さらに焼香・礼拝・念仏・看経をもちいず、ただし打座し身心脱落することおえよ。」(正法眼蔵・弁道話)道元さんの座禅は、釈迦が創始したとされるヴィパッサナー瞑想とは別系統ですが、お二人瞑想に対する考えは、自分の心のはたらきを知ることが行き着く先だよ、という点で共通しているように思います。釈迦が教えを説き始めた当時には、今日私たちが「仏教」というものからイメージするような儀式も、教義もしきたりもありませんから、道元さんは場所と時間を超えて、釈迦が説いた教えの中核的な境地へと到達したように感じます。マインドフルネスについて、あまり語られることのない部分だと思います。この方法論は、教義に基づく修行として行うらならば、きわめて効果を発揮しますし、「心理療法」ととらえた場合には、とても理にかなっています。ヴィパッサナー瞑想で「行うこと」と、ヴィパッサナー瞑想を「行うことによってもたらされる心の変化」は以下のようなものだと考えています。①釈迦の認識した「人の心のはたらき」を知る②「人の心のはたらき」を確認するために「自分の観察に集中する」③集中力と観察力が高まると「人の心のはたらき」について「自分への気付き」があらわれる④「自分への気づき」があらわれたら「自分への気づき」をもって「他者を観察する」⑤「他者を観察する」ことを通して「自分への気づき」を、「人の心のはたらき」への「自覚」へと高める⑥「自覚」にもとづき、(好悪の感情に影響された)欲求に突き動かされる「人の心のはたらき」を排除し、自らが「意志」により選択した「行為」を行うちなみに『自らが「意志」により選択した「行為」を行う』という考え方は、現代の心理療法において『クライエントの価値観に基づいた行動をとることを支援する』方向性、方法論と、同じ性質を持つように感じます。例えば、ジュディス・ベックは、「認知行動療法実践ガイド:基礎から応用第3版」星和書店で、リカバリー志向の認知療法CT-Rについて、以下のように語っています。「従来の認知行動療法とCT-Rでは、時間の方向性に対する視点の違いがある。従来の認知行動療法では、過去の1週間に起きた問題について話し合い、それらの問題に対して認知行動療法の技法を用いる傾向がある。一方、CT-Rではこれからの1週間において、クライエントの願い、価値、目標に向かって新たに踏み出すステップに着目する。そうしたステップを踏んでいこうとするときに直面する困難や妨害を乗り越えるために、従来の認知行動療法の技法を用いるのである。」釈迦の方法論は、「こうであらねばならぬ」というものではかなったようです。また、「③集中力と観察力が高まると「人の心のはたらき」について「自分への気付き」があらわれる」ということのなかには、現在の心の平静を妨げる、過去の出来事の記憶、信念やスキーマも含まれると考えています。集中力が高まれば、必然的に「現在の心の平静を妨げる、過去の出来事の記憶、信念やスキーマ」へと意識が向かうでしょうし、それらを解消することで、さらに集中状態が高まると考えられるからです。上記のプロセスを知るには、釈迦の説法である阿含経を読む必要があります。現代では釈迦が説いたとされる阿含経が、読みやすい日本語版で手に入ります。心理療法で代表的な位置を占めている(と思っています)認知行動療法では、心理療法に取り組む前に、認知行動療法が前提とする心理モデル(人のこころのはたらき)について「心理教育」を行います。心理教育を行うことで、クライエントに安心感を持ってもらったり動機付けしたりする(できそうだと感じてもらう)ことを通じて、効果を上げるためです。釈迦は、まず説法によって「人の心のはたらき」についての心理教育を行い、それを自分で確かめる方法(ヴィパッサナー瞑想)を説き、「自分への気づき」を得たなら、「自分への気づき」をもって、他者を観察してみなさい、そうすれば「人の心のはたらき」がおのずと理解できるだろうと説き、さらに、『「人の心のはたらき」がおのずと理解できる』段階に至っていれば、『(好悪の感情に影響された)欲求』に影響されない心の働き(智慧)が発現しているのだから、智慧に基づく「意志」よって好ましい(迷いや苦悩を生み出さない)行為を選択しなさい、そうすれば迷いや苦悩がうみだされることはなくなるよ、という方法論であるように感じています。釈迦は、このような境地を自らが得、かつそれを説くために、死の直前まで説法を行い、自らの得たところを余すところなく伝え続けるという自らの「意志による行為」を貫徹したように感じられます。ヴィパッサナー瞑想(ここでは『身体にむけた注意』といっています)による利益として、好悪の感情、欲求に突き動かされなくなる、ということを釈迦は明確に語っています。「比丘たちよ『身体に向けた注意』を習い、養い、強化し、基本として、実行し、繰り返し、完全に習熟すると、次の十の利益が期待される。十とはなにか。1.好き嫌いを克服できるようになる。彼は嫌悪感をものともせず、生じてくる嫌悪感を打ち負かし続ける。2.恐れと怖じ気を克服できるようになる。かれは恐れと怖じ気をものともせず、生じてくる恐れと怖じ気を打ち負かし続ける。3.寒さ、暑さ、飢え、渇き、虻・蚊・風・熱・蛇との接触や辛辣で不愉快な発言に耐え、身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえられるようになる。4.現世で気持ちよく過ごすことのできる、雑念をはなれてスッキリした四つの禅定を、思うままに得、難なく得、苦労なく得られるようになる。(以下省略)(春秋社 原始仏典第7巻 第119経)「辛辣で不愉快な発言」は、現代ではハラスメントに該当するかもしれず、「耐え」るよりもしかるべき方法によって救済を求めるべきことです。しかしながら完全な救済がもたらされるとは言えませんから、自衛策は重要です。「身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚」は医療によって対処すべきことですが、2600年前の時代では法による救済も、医療による対処も限定であったであろう、ということを前提に理解する必要があります。現代の医療によっても治癒できない慢性疼痛、「身体に身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚」に対して効果を上げたものが、カバットジンさんの、マインドフルネス瞑想法に基づくマインドフルネスストレス低減法(MBSR)です。「2.恐れと怖じ気を克服できるようになる。かれは恐れと怖じ気をものともせず、生じてくる恐れと怖じ気を打ち負かし続ける。」は、現代人にとっても多大なメリットをもたらすと思います。それは、心理的苦悩の発生のしくみ、例えば、過去の出来事により自己の内に形成された認知行動療法の「中核信念」や、スキーマ療法の「早期不適合スキーマ」には、過去の出来事による「恐怖の記憶」が関連している、言い換えれば「恐怖の記憶」に触れることを回避したいがための方策であるように思われるからです。幼少時に体験したことからもたらされる「恐怖の記憶」が温存され再現されると仮定するならば、今現在において幼少時と同じ経験をした時に、感じる恐怖は、現在の大人になった自分が感じる今現在の「恐怖」ではなく、幼少時に感じ記憶された「恐怖の記憶」が再現されるということになります。現在の大人の自分には、親の庇護をうけずとも、自分で事態を打開する力がありますが、自分だけでは生きてゆけない幼少時に感じ記憶された「恐怖の記憶」が再現されるということになると、現在の大人の理性的な判断によって認知の表層における再構成、修正だけでは、『幼少時に感じ記憶された「恐怖の記憶」が再現される』ことは、容易には克服できない、ということになります。このような「心のはたらきのしくみ」に、気付き、自覚にまで高まれば、『幼少時に感じ記憶された「恐怖」が再現される』ことを克服する道が開かれれるように思います。それゆえでしょうか、ヴィパッサナー瞑想では、マインドフルネスとは異なり、今現在の感情を観察する、という方法を取りません。思考を止め、感情の生成を停止し(初禅の段階に至り)、感情に影響されない「尋」と「伺」により、感情の影響を排除して、心を観る心の随観へと進むのだと考えられます。これは恐怖という感情の生成を停止したうえで、瞑想状態において、心の随観によって、苦悩の原因となっている幼少期の「恐怖の記憶」(「恐怖の記憶」に基づく自分自身の他者や世界への解釈の方法=中核信念、スキーマ)が、現在の苦悩を生み出していることに気付き、『幼少期の「恐怖の記憶」』を修正、無力化するならば、現在の苦悩の発生原因を克服することができる、ということではないかと思います。上記の考え方は、私がすでに認知行動療法やスキーマ療法を学習したことによる影響が多大にあるようにおもいます(認知行動療法やスキーマ療法からヴィパッサナー瞑想の方法論を解釈している)ようにおもいますが、逆に言えば、認知行動療法やスキーマ療法と、マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想の方法論)は整合的、ということが言えるように思います。スキーマ療法のおいて、早期不適合スキーマの修正は、チャイルドモードへのアクセスし、治療的再養育法により、チャイルドモードをヘルシーアダルトモードへと成長させ統合させてゆく、という方法をとるようですが、ヴィパッサナー瞑想において、幼少期の「恐怖の記憶」が克服できるのであれば、個人でも同様の効果を得ることができるかもしれません。全て人に適用できる方法というわけではありませんが、ヴィパッサナー瞑想によって早期不適合スキーマを克服するのは、以下の手順によって可能となるのでなないかと考えています。多少時間と労力がかかります。スキーマ療法も年単位ですから同様かもしれません。1.歩行の瞑想によって基礎的な集中力を養う2.座ってする呼吸の瞑想により「初禅」の段階を実現する3.初禅の段階は感情が生成されないので、恐怖心を感じることなく早期不適合スキーマと向き合える4.早期不適合スキーマの生成の原因となった出来事を観察する(「ヘルシーアダルトモード」から考える、ともいえる)5.愛情欲求があったこと、それを満たされないことに欠乏感を感じそれに伴い恐怖を感じていたことなどを識る6.欠乏感や恐怖を前提に、傷ついている自分(不完全な自分)という自己概念が生じ、現在も維持されていることを識る7.しかその自己概念は、自分でもなく自分のものでもないと識り、その自己概念を放念する上記の「自己概念」は、釈迦の到達した「人の心のはたらきと認知のしくみ」では、一般に「無我」と言われるものですが、釈迦は、「私」というものはない、とは言っていないようです(六六経)。釈迦の、苦悩をなくすための方法論は、「自らが苦悩をなくすための好ましい行為を選び取り、行為によって苦悩をなくす」ことによって完成すると考えられますから、「私はない」と言ってしまったら、好ましい行為を選び取る主体としての「私はない」となってしまい、苦悩をなくすことは完成しないことになってしまいます。それゆえ「私だと思っているのは私では無く、私がコントロールできる私のもの」でもないよ、と言われたのでしょう。「私」だと思っているものは、私ではないのですよ、自分がコントロールできないままに苦しみを生じさせるのだから、自分のコントロール下にある私のものであるとは言えないでしょう、苦しみが生じるのであれば「私」という、自分でつくりあげた「自己概念(にまつわる記憶)」を観察してみて、手放したらたらどうですか?ということのようです。現代の自我観からすると、破壊的とも感じられるかもしれません。でも、自我観がなくなれば、よく言わる如実知見、物事をありのままに見るという智慧は表れるでしょう。虐待を受けたからこうなった、という事実は事実として、虐待してはいけない、愛情深く育てるべきであったのにそうしなかったのだから虐待した者の責任だ、と自分が考えているならば、原因はそのとおりですが、今自分に生じている苦しみを無くすことにはつながらす、苦しみをより激しくする方向に向かうでしょう。今自分の心に生まれる苦しみは、私という概念にまつわる記憶(=識)から生まれるのだから、苦しみをなくすのは原因追及ではなく、私という概念にまつわる記憶を、一部放棄(全部放棄することは現実的ではありません)することによってなされることになります。そこでは、「虐待してはいけない、愛情深く育てるべきであった」ということは社会的に極めて妥当な考え方あるものの、自分にとってはそれらは提供されなかったのですから、過去において提供されなかった愛情(架空のもの)にこだわり、それを基準にして、今現在の私が苦しむのは割に合いませんから、「虐待してはいけない、愛情深く育てるべきであった」という考え方は放棄した方が、自分の苦悩の低減につながります。必要なことは、そのような認知に至るだけの集中力と観察力を得る段階=初禅にまで到達できるかどうか、ということなりそうです。『考えてみると「わたし」とはひとつの虚構、おそらくは人類が手にした最大の虚構であるともいえる。」(大山泰宏先生「新版新版人格心理学」NHK出版)「わたし」という虚構をつくって、その虚構の上に、知らず知らずのうちに苦悩を生み出しているのが「人の心のはたらき、認知のしくみ」なんですよ、ということが釈迦の説いているところであると考えています。一定の集中力と観察力(自分の体、感覚などに対する感受性)が養えれば、自分の行動の前に、外部からの刺激をうけて、自分が一瞬のうちに想像したこと(イメージ)、を知ることができるようになります。「外部からの刺激をうけて、自分が一瞬のうちに想像したこと(イメージ)」を知ることができるようになると、自分の感情の悪化や、「言わなきゃよかった」とか「しなきゃよかった」という行動を回避することができます。「外部からの刺激をうけて、自分が一瞬のうちに想像」する心のはたらきを、「想」と言います。「想」につづいて生まれる心のはたらきが「行」です。「行」は、「想」によって刺激された「こうしよう」「こうしたい」という意欲と、その意欲によってもたらされる行動です。「行」によって、「言わなきゃよかった」とか「しなきゃよかった」といった認知が自覚されれば、さらに「想」がうまれます。さらにうまれた「想」を、「行」によって、言葉にしてみたら「嫌われたかもしれない」ということであったりするかもしれません。人はどうやら、言語で明確に認識する前に、一瞬のうちに、イメージによって事態を把握もしくは推測しているようなのです。「想」も「行」も、ヴィパッサナー瞑想の基礎となる、釈迦がとらえた「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」です。認知行動療法に置き換えれば、「想」は、「非機能的な自動思考」になります。「行」は、気分の低下を察知して「私は今何を考えただろうか?」と自問(意欲+行動)して、「非機能的な自動思考」の内容を「知る」こと「修正」することです。ヴィパッサナー瞑想の方法論によって、自分の心と体の感覚(感受または受といいます)に対する観察力を養うことで、認知行動療法の認知再構成のための、「気分の低下」の察知が容易になります。さらに、心の平静と集中が実現できると、自分の心の状態(思考や感情ではありません)を観察して、自分の感じ方に影響している過去の出来事の解釈、やその時の感情の記憶に到達し、悩み苦しみを無くすヒントを得ることができます。そもそも釈迦が苦悩を滅するために自分の心を観察することから、生み出された瞑想法なのですから、しっかりやればそうなるのは自然です。このメカニズムは、「恐怖の克服は多大なメリットがある」でもお話しました。これはあまり期待してもらうと逆効果(瞑想の仕組みから、強い願望=欲求を持つとうまくゆかない仕組みになっています)なのですが、瞑想には、心を落ち着ける(思考をいったん止めて、感情が刺激されないようにする)ことによって、脳の情報処理を促進する効果があるように思います。よく、ぐっすり眠った次に日には、昨日悩んでいたことが「なんだったんだろう」ってこともありますよね。脳がキチンと情報処理をしてくれたことになります。瞑想によって、それに加えて、「ああそういうことか」とか「こうすればいいんじゃない」ってのが出てくる確率が高まります。体の動きや感覚などの瞑想対象に意識を集中することを一定時間続けると、「想像の世界」に入り込むことが少なくなります。ここでいう「想像の世界」とは、すでにご説明している「想」が活性化している状態です。そして、この「想」がネガティブなものであった場合には、たびたび引用させていただいている大野裕先生の「想像は現実よりもずっと苛酷です。空想の中では、現実以上の状況が広がります。」という状況をもたらすこともあります。(「初めての認知療法」講談社現代新書)大野先生の言われる状況は、心の働きによって生まれる、『ネガティブな「想」に執着している』状態、と考えられます。釈迦のとらえた「人の心のはたらき「人の認知のしくみ」では、「生じては消えてゆくものに喜びを見出し執着を感じれば苦悩の原因を生み出す」という心のはたらきによって、『ネガティブな「想」に執着している状態』と考えます。人はネガティブな「想」、自分を苦しめる「想」であっても、「想」を生みだすこと自体に執着してしまうようです。このような状態を、アルボムッレ・スマナサーラ先生はこのように記述しています。「想」に執着した状態である「想取蘊」の状態を、「妄想」と「概念」という言葉をつかって説明されています。」「妄想の回転は苦しいものです。生きる力がなくなるのです。好きなことばかりを妄想することはできません。頭の中で勝手に概念が回転します。悪い概念が回転し始めたら、どんどん苦しくなってゆくのです。昔の失敗を考えると、受けた被害を考えると、過去の苦しみが再現されて人を苦しめるのです。これを知っておいても、概念の勝手な回転をストップさせることはできません。この苦しみから逃れられないのです。」「概念の回転も自然法則なので放っておけばよいのです。」(以上「大念処経」サンガ より)ヴィパッサナー瞑想では、このような時には、『ネガティブな「想」に執着している』ことを知って、『ネガティブな「想」に執着している』ことを手放す、「放っておく」ということを心がけます。自分の体の動きであっても自分の体の感覚であっても、瞑想対象に集中している時には、「想像の世界」は思考から排除されますから、自分の体の動きや自分の体の感覚に集中することによって『ネガティブな「想」に執着している』ことを手放すこととなり、また手放す訓練にもなります。「現実よりもずっと苛酷」な「想像」「空想の中」にいると気付いたら、自分の体の動きや感覚に意識を向けることを、一定時間行えば、「想像」「空想の中」から脱出するきっかけになる、ということになります。「想像」「空想の中」から脱出できれば、現実的な解決策を考えることもできるようになるでしょう。続編「マインドフルネス何をするの」: https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/161710/ ヴィパッサナー瞑想は、しっかりとやれば効果が強力なので注意が必要です。一般に言われるマインドフルネスは、「自己の思考との付き合い方の態度」訓練的なものであり、ヴィパッサナー瞑想から比べるとかなり、マイルドなものだと感じています。ヴィパッサナー瞑想は、解脱を到達点として組み立てられた瞑想の体系(ただしステップ・バイ・ステップで進展するわけではないようです)なので、いったん感情を止滅して観察を行う、といったかなり遠回りな方法をとりますが、効果は強力なようです。効果が強力というのはどういうことかというと、ヴィパッサナー瞑想は、概念的な理解を排除して、体と心への感受性を高めるので、今までは少し嫌だなと感じても意識に上ることなくスルー出来たことが、簡単にスルー出来なくなる可能性があります。スルーしないこと自体が「気づき」だからです。スルー出来なくなることによって、これは苦悩なんだと気付くわけですが、このことが返って負担に感じることにつながる可能性もあります。さらに瞑想が進展すると、自分が自分の心(記憶)の中に、押し込めて感じないようにしている理解(信念やスキーマ)や感情の記憶に気付くことににもつながります。釈迦は、大念処経のなかで、以下のように説いています(原始仏典第2巻 第22経 春秋社)「〈苦しみ〉の原因のすぐれた心理とはなにか(中略)、歓喜と愛欲をともない、ここかしこ歓楽するような愛執である。すなわち、現世の欲望に対する愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執、である。」ただし、ここで注意していただきたいのは、「生存の消滅への愛執」とは、「死への欲求」とは異なるもの、ということです。釈迦の説いた「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」から判断すると、人は知らず知らずのうちに出来事や体験から、自分が明確な意識をもたないまま、「いなくなりたい」「死んでしまいたい」という想念を作り出し、それを「愛執」の対象することを「生存の消滅への愛執」と説いている、と考えられるからです。ですから、「死への欲求」ではなく、自分が作り出した「生存の消滅」という想念への愛執なんですよ、ととらえたのだと思っています。釈迦は、ヴィパッサナー瞑想により、自身を観察することにより自らが到達した知見に至る方法を弟子たちに説きました。その弟子たちに説いた方法は、まず自分を観察しなさい、自分の観察によって知見を得たなら、その知見をもって他者も観察してみなさい、自分と他者との観察による知見が一致するならばそれは、それは人に対する普遍的な法則(仏教でいう「法」)だよね、というものであるようです。そのような方法論を前提とすると、釈迦は自分の中に「生存の消滅への愛執」を持っていたことを知り、他者の中にもそれを観たうえで、自ら克服した、ということになります。釈迦が生誕のち、間もなく生母はお亡くなりになったようです。長じて、生母と会うことできなかったことを知った釈迦は何を感じたのでしょうか。自分が生母と会えなかったこと、会うこともかなわないこと、また、生まれ変わりが当然とされていた時代であれば、どこかに生まれ変わっているなら会いたいと感じたかもしれませんし、僕を置いてどこに生まれ変わったのかと寂しさや恨みを募らせたかもしれませんし、貧しい家に生まれ変わって苦るしまないように心ひそかに祈ったかもしれません。このようなことを考えると、釈迦が自分の中に「生存の消滅への愛執」を持っていたことには、私は違和感がありません。日本では昨年(2025年)において、約19,000名の方が自殺していることなどからも、「生存の消滅への愛執」に抗しきれず、自ら命を絶つという行動にいたった方がそれだけいらっしゃった、ということになります。カウンセラーとしては、何らかの形で、自ら命を絶つという行動につながらないように、支援したいという気持ちがあります。「生存の消滅への愛執」は、スキーマ療法でも説明されています。ジェフリー・E・ヤング他の「スキーマ療法」(金剛出版)「9 境界性パーソナリティ障害のスキーマ療法の「見捨てられたチャイルドモード」の説明のとして、「苦痛があまりに強い場合、BPD患者は自殺について思いをめぐらすことで慰めを得ることが少なくない。いつでも自殺できると思うと少しだけ苦痛から逃れることができるからである。」という説明には、自身の経験からも納得がゆきます。わたし自身にもどうやら「生存の消滅への愛執」があるようです。私には、幼少時に「死んでいる自分の遺体に取りすがって謝罪する母親、という状況を想像して自分を慰めていた」ということや、「もう嫌だ、この世から消えてなくなりたい」と感じて、しばらく放心状態になった経験があります。そしてこの状態の「記憶」は、ストレス状態(睡眠不足に加えてトラブルに遭遇した時など)時に、「見捨てられたチャイルドモード」が活性化されると、意識化されるようなのです。私は、ある時、ストレス状態になっているという自覚の下で、ネガティブな思考になる自分が、どんなことを考えているのか、ヴィパッサナー瞑想的に観てみようと思った時に、「この世から消えてなくなりたい」という幼少時に経験した時の感覚が保持されており、それに気づかぬようにして生きて来た、つまり「生存の消滅への愛執」をかかえながら、自分をだましだまし生きて来たようだと気付きました。ヴィパッサナー瞑想でこのような気づきにまで至る方は、そう多くはないでしょうし、そもそも「自分が自分の中に、押し込めて感じないようにしている理解(信念やスキーマ)や感情の記憶」に「もう嫌だから消えてなくなりたい」とか「死んだら苦しみから解放される」、「死によって抗議したい」というものがなければ、「生存の消滅への愛執」は形成されないでしょう。問題は、「生存の消滅への愛執」を自分の中に見てしまった時です。「生存の消滅への愛執」を自分の中に観ても、その段階ではヴィパッサナー瞑想による観察は相当に進んでいるので、感情的な反応自体は少ないのですが、強度のストレス状態では「生存の消滅への愛執」が活性化しますから、気付いた時に、克服するに越したことはありません。そのように考えると、心理療法の考え方は、解決策へのヒントを提供してくれるでしょう。上記「見捨てられたチャイルドモード」の場合、スキーマ療法では、治療的再養育法という方法で、「見捨てられたチャイルドモード」を再現し、「見捨てられたチャイルドモード」の状態にあるクライエントに対して、幼少時に充足されなかった中核的感情欲求を満たすことによって癒すという方法を取ることで、子どもを養育して、すでにある「ヘルシーアダルトモード」への統合を目指します。「見捨てられたチャイルドモード」は、その感情が記憶された時やその前提となる対人認識ができた当時、つまり幼少時の対人認識が前提ですから、その感情や対人認識ができた当時の、例えば、親に守ってもらいたい(守ってもらえている)という中核的感情欲求を満たすことによって、幼少時の心の傷をいやすことにより、現在の生活において「見捨てられたチャイルドモード」を弱体化することを目指す方法と言えます。「生存の消滅への愛執」が認識できるようであれば、ヴィパッサナー瞑想によって「見捨てられたチャイルドモード」についても自分で対処することができると思います。例えば、私の場合は、幼少時に母親が、私にたいして拒絶的な対応をとることが多かった(私の心的現実、私の理解として)ため、私は「死んでいる私の遺体に取りすがって、後悔し私に謝っている母親」を想像して自分を慰めていたこと、「やりたくもないことをやらされているのはもう嫌だ、この世から消えてなくなりたい」という思いが衝動的に浮かび、しばらくは動けなくなったこと、少し後のことですが、両親との関係による対人認識から自分の状況を「大きな川の急流の真ん中で1人ボートに乗っている、その先には滝つぼが待ち構えており自分にはどうすることもできない、誰も助けてくれない、死をまつだけだ」というイメージに苦しめられたこと(現在でも浮かびます)、などが相互に関係して、「生存の消滅への愛執」となって心に保持され、ストレス状態において「生存の消滅への愛執」が活性化するように思います。そもそもヴィパッサナー瞑想によってこのような認知に到達したのですから、ヴィパッサナー瞑想によっても対処できるはず、と思っています。これらのイメージ(想)を、否定するのではなく、これらのイメージへの執着、執着によって癒すことを求めている欲求を知り、希薄化、弱体化してゆき、最終的には自分にとって「無力化」することができればよいのだと思っています。基本的対処戦略は、釈迦の説く「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」から考えれば、人はいろいろな認知に執着するからそういうこともおこるのですよ、それが「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」ですよ、ということになります。「これらのイメージへの執着、執着によって癒すことを求めている」行動は、心理学的に言えば不適切なコーピング(対処戦略)ということになります。釈迦は、大念処経(原始仏典第2巻 第22経 春秋社)で以下のように言っています。「愁いとは、いったいなにか。修行僧たちよ、なんであれ、なんらかの不幸に見舞われて、なにか苦しいことを経験している人の、憂い、愁い、愁いの状態、内なる憂い、内に広がった憂い、これが修行僧たちよ、憂いといわれる。」「楽しみを捨て、苦しみを捨て、以前に経験した快さと憂いを滅しているため苦しみもなく、楽しみもない、心の平静と気をつけることによって清められている瞑想の第四段階(四禅)に達しているのである。」「以前に経験した快さ」を記憶して、「以前に経験した快さ」に執着すれば、快い状態を標準としてとらえますから、快くない時には不満、つまり怒りが生じます。怒りが生じれば心に平静は訪れません。「以前に経験した憂い」は、今はなく、記憶の中にだけあるものですから、その記憶に執着していることにより、解消しようとしている感情(充足したい感情とそれが充足されなかったことへの怒り)があることに気付けば、憂いを滅することもできるでしょう。憂いを滅すれば心に平静が訪れます。そのように考えるがゆえに、釈迦の方法論、釈迦が認識した「人の心のはたらき」、「人の認知のしくみ」は、心理療法であったとしか、私には思えません。ただ、「こうすれば」と「こうなるよ」の間を、釈迦は解説せず、「こうすれば」と「こうなるよ」の間は、瞑想実践者の実践と体験による理解に任せ、そのような方法論によって、必然的に苦悩の原因がわかればそれを無くしたいと考え、苦悩を無くす方法を知り苦悩を滅するだろう、という理解、今でいえば自己治癒力やレジリエンス、実現傾向(ロジャーズ)といったものを措定していたのでしょう。「生存の消滅への愛執」は、仏教という宗教の教えという枠の中でとらえない方がいいと思っています。釈迦は、人は「生きる」という体験の連続の中で、苦悩が生じ、その苦悩から逃れるたいという欲求から、自らの生存を消滅させたいという思考をもちながらも明確に意識せず、もしくは明確に意識しないようにしながら、「心の奥底にあって自分を悩ませ」ながら生きていきいる、という認知に至ったうえで、それを滅したのでしょう。「生存の消滅への愛執」は、「仏教という宗教の教え」としてではなく、「深い瞑想状態から得られた心のはたらきについての洞察」ととらえた方が適切であると思っています。そのような「心の奥底にあって自分を悩ませていること」を感じ取り、なくさなければ、身心が「楽」な状態であるサマーディー、言い換えれば高度なリラクゼーションには至ることはできないように思いますから、釈迦は「「生存の消滅への愛執」を克服したはずです。高度なリラクゼーションに至らないことには、何らかの理由があると考える方が自然です。一時的には、「押し込めて感じないようにしている理解(信念)や感情の記憶」「心の奥から自分を悩ませていること」ことを知ることによって、混乱や苦痛を生じるかもしれません。上記の段階は、ヴィパッサナー瞑想の四念処のうちの、心の随観に該当すると思われますが、思考の停止と、思考の停止による感情の生成の停止(初禅)ができていれば、相対的に苦痛は少なくなるでしょう。私自身は不快感はかんじたたものの、絶望感までは感じませんでした。この段階では、「尋」と「伺」という観察眼があらわれるとされますが、感情に影響されないので、初禅の状態にいるとき(=瞑想中)は苦痛は感じません。むしろ、初禅に心地よさを感じ、初禅に留まって、心の随観が進まない可能性があります。また、ヴィパッサナー瞑想で、自分の観察から「人の心のはたらき」に気がつくと、良い行為と思ってやっていたことが、自分の欲、つまり自分が気持ちよくなるからであったり、そうした方が仲間内で評価が良くなるから、「良い行為と思ってやっていた」というようなことにも気づきます。そして今度は、他者の観察から「人の心のはたらき」に気がつくと、他者が行う、あなたが良い行為と思っていたことが、他者の欲、つまり他者が気持ちよくなるからであったり、そうした方が仲間内で評価が良くなるから、「良い行為と思ってやっていた」というようなことにも気づきます。他者が自分に対して攻撃的な態度をとるのが、あなたに非があるからではなく、その他者自身の欲と怒りに突き動かされて、あなたに対して攻撃的になっている、という理解に至ったらどうでしょうか。言い換えれば、その他者は自己の感情的欲求を満足させるために、あなたを手段として使っている、ということをあなたは知った、ということになります。そしてその他者は、そのことに気付くことは、ほぼありません。あなたは、かなり心が苦しくなると思います。そして、あなたは、あなたの苦しみを、あなたの心の中だけでは解決できない、と気づくことになります。しかし、このような認知に至らないと、『「意志による行為」への転換』で、ご説明した『⑥「自覚」にもとづき、(好悪の感情に影響された)欲求に突き動かされる「人の心のはたらき」を排除し、自らが「意志」により選択した「行為」を行う』という段階には進めません。そして、あなたに対して批判的な他者との関係を改善することは、『⑥「自覚」にもとづき、(好悪の感情に影響された)欲求に突き動かされる「人の心のはたらき」を排除し、自らが「意志」により選択した「行為」を行う』ことによってのみもたらされる、という結論になります。ヴィパッサナー瞑想は、2600年前から「出家者が解脱に至るための瞑想法」として最適化されて現在に至っているため、私たちがそのままやるにはやや不適な部分があるように感じています。出家者は、悟りを求めて俗世間とのかかわりをたって出家したので、釈迦の方法論によって「離欲」を実現して悟りに至っても、その生活に支障はないでしょう。出家は、家族や労働して生活の糧を稼ぐことからは決別した環境、いいかえれば、自分の「欲望」を刺激するもの事から離れ、他者の「欲望」を刺激することが自己の仕事の一部、ということからも無縁な環境に身を置いていることになります。いかなる状況においても「欲望」は否定されるべきもの、とは私は考えませんし、いかなる状況においても「離欲」が解決策であるとも思いません。しかし、「欲望」が刺激されない環境に自らを置いた方が、釈迦の方法はより完全に実現できるでしょう。そのような環境に身を投じた方々に向かって、釈迦は方法を説いた(もしくは出家者に説いた説法が優先的に今日まで伝承された)、ということは考えておいた方がいいと思います。その一方で私たちは、労働して自らの生活の糧を稼ぎ、自己の価値に基づく生き方や自己実現を目指している、つまり「自己概念」を持ち、「欲望」の刺激によって成り立っている市場経済の中で、「自己概念」に基づく自己の理想とする生き方を追求するという「欲望」をもって生きている人々に対して、出家者と同様の「離欲」による、苦悩からの解放という方法論を取るのは、少し不適当なように感じます。苦悩にしても、本来抱かなくてよい苦悩と、苦悩ではあるけれどもその意味するところを理解し、自己実現や将来の経済的安定のために具体的な方策に活かし、「より良い生き方へとつながる苦悩」というものもあるでしょうから、苦悩を根こそぎ無くしてしまう心の在り方を実現する、という釈迦の(強力な)方法論が、今を生きる人々のとって一律に有効であるとも思えません。もちろん、個人の選択肢としての「離欲」という方法の提示はよいとしても、「離欲」を徹底することが必要と説くのは、働くことによって、社会分業の一部を構成し、自らの生活の糧を得ている私たちにとっては「非社会的」な性質を帯びているとさえ、私には思われるからです。テーラワーダ仏教の出家者は独身で、「自己の再生への欲望」を滅するとも説明される悟りに至ることを目指し、当然に子をなすという欲求もありません。現代日本では、子孫の数が減っていることが大問題になっているので、子は設けてもらわないことに困っています。そうすると(自己への再生の欲望うんぬんにかかわらず)、自分のDNAを受け継いだ子供をもうけるという欲求を、子育て支援一生懸命やりますから安心して子供を産んでください、という政策を通じて、積極的に肯定し支援するということが必要になり、そのための努力がなされています。世俗での生き方や社会の考え方と、出家し解脱した者の価値観は、多少異なる立場、ということは考えていた方が良いように思います。「離欲」はかなり大変だと思おもいます。TVを観ても「こうだったらいいでしょ」「こうなったらいやですよね」という感情を刺激して、商品やサービスへの「欲求」を刺激して、購買意欲を喚起するものが大半ですから、市場経済は、「欲」と「欲の刺激」、「欲の充足」によって成り立っているとも言えます。「離欲」に至ることを徹底するところには、自己の価値観に基づく生き方や自己実現という考え方からも離れることを意味するでしょう。つまり、本来、仏教(テーラワーダ仏教)は、「出世間の教え」であり、出家者において実践されるべきもの(釈迦は自らの教えを実践し、受け継ぐためには、欲望を刺激される俗世間とは決別し、もっぱら修行に専念できる出家者でなければ難しいと考えたのでしょう)であると考えられるからです。もちろん、出家者でなくとも「離欲」を徹底することが、個人の自由な選択の結果、選択されたものであれば全く問題ありません。そのように考えるので、テーラワーダ仏教の瞑想法は、現代人の苦悩の解消に役立つ限りにおいて、宗教的な修行とは別の方法論によって、苦悩の解消に役立つよう、工夫して行うことが必要と思っています。私はこのように考えて瞑想を続けてきました。上記のように考えると、マインドフルネスは、仏教瞑想に源流を持つものの、現代人に最適化することを意図して発展してきた瞑想、ととらえてよいように思います。マインドフルネスは、カバットジンさんのマインドフルネス瞑想法、マインドフルネスストレス低減法、それに続くマインドフルネス認知療法が効果を上げたことによって、心理療法分野での関心が高まったようです。また、関心の高まりとともにマインドフルネスについて、神経科学や脳科学分野からの研究も盛んになっているようです。それらの関心の高まりや研究を背景に、企業内能力開発への応用や、テーラワーダ仏教の「慈悲の瞑想」による「コンパッション」、「マインドフルな態度」ということが、さかんに喧伝されるようになったようです。ヴィパッサナー瞑想と比較すると、一般的なマインドフルネスの理解は、「自己の思考との付き合い方の態度」訓練的な、かなりマイルドなものである印象があります。。このブログでは、認知行動療法との併用でマインドフルネスをご紹介しているので、ジュディス・ベックさんの「認知行動療法実践ガイド:基礎から応用まで第3版」(星和書店)から引用してご紹介します。『専門家のコンセンサスが得られたマインドフルネスの定義の一つに「開かれた姿勢、受容し、好奇心のこもった眼差しをむけつつ、目の前の体験に注意を向ける(Bishopetai.2004)」がある。』『マインドフルネスは、思考との付き合い方を変える手助けをしてくれる。』批判的なわけではないのでご注意いただきたいのですが、Bishopさんの定義は、西欧のロゴスの伝統の基礎の上に立つものとの印象があり、概念による把握への信頼性、「概念化」を強く感じます。このブログでたびたび引用させてもらいますが、エヴァン・トンプソンさんは、マサチューセッツ州での、ヴィパッサナー瞑想のリトリートに参加した時のことをこう語っています(「仏教は科学なのか 私が仏教徒ではない理由(日本語版2024年)」(Evolving))。「しかし、リトリートの時にずっと次のようなことを考えないわけにはいかなかった。それは、自分の中で起きていることは、「ものごとをありのままに見ることを学ぶ」という表現とは嚙み合わないということだ。私たちには、瞑想実践のときの経験を言い表すための概念体系があらかじめ与えられていた。それは「感覚」「感情」「注意」「意志」など、表面だけ見れば日常的な概念だったが、実際には「刹那主義(momet-to-momentarising)」「無常(impermanence)」「正念(mindofulnes)」「非我(not-self)」「業(karma)」と言った仏教的な概念とも結びついていた。(中略)時折、先生方との面談がグループあるいは個人で組まれることもあったが、それらの面談もこの概念の枠組みを強化した。」エヴァンさんの感想をもって、マインドフルネスの隆盛が、仏教モダニズム(エヴァンさんが批判対象としている欧米での仏教ムーブメント)の中に位置づけられれる、とは言いませんが、マインドフルネスも仏教モダニズムも、「概念化」という方法論を採用している点では共通するようです。テーラワーダ仏教が、ヴィパッサナー瞑想は「ものごとをありのままに見ることを学ぶ」という標題を掲げながら、アメリカの人々により浸透しやすいように、テーラワーダ仏教の教理の「概念化」による教化、という戦略を取っているのかもしれません。心の状態やはたらきは、他の人に見せることができないので、修行に専念できる出家者ではない方(より多くの時間が取れない方)に、マインドフルネスを説明し、指導するには「概念化」は効果的な方法と思われますから、Bishopさんのような定義はもっともなものです。一方、ヴィパッサナー瞑想の根本経典の一つとされる「大念処経」での、釈迦の説法のスタイルは概念化とはかなり無縁です。「こうなるためには、こうする必要がある、そのやり方はこうである、それをすると、こうなることを知り理解するだろう、それを知り理解したらこうすればよい」そこにいたるには、こうすればこうなる、やってみなさい、というスタイルです。釈迦は、「人の認知のしくみ」としての「法」と、その認識に至る瞑想方法は説きますが、それについての解釈やとらえ方は、各人に任せられている。私は、釈迦の方法論を、そのように理解しています。それゆえ釈迦の方法論を支持し、「仏教モダニズム」の「概念化」による教化、という方法論にはやや違和感を感じています。とは言え、自分でも「概念化」により理解をしてはいるのですが・・・自分の感覚を大事にすることは心がけています。釈迦は、教えは説くが、その教えは各人がつかむべきもの、と考えていたと私はとらえていますし、そのように考えれば、概念によって説明し、概念によって教導しようという方法論は必要なくなるでしょう。しかし、釈迦の後継者たちは、一生懸命、釈迦の教えを「概念化」し、自分たちの理論的な基盤としての教理をつくりあげた、ということのように感じています。そして布教する側の人たちが、私たちは釈迦の説く方法で悟った人であり、釈迦の説く真理を体現している(特別な存在なのだ)、だから悟っていない人々を悟りへ導くのだ、と考えていると仮定したら、「概念化」によるコスパのよい教導は、布教の効果的な手段になります。「概念化」による教導は、「自己探求」にはつながりませんので、私は推奨しません。続編「マインドフルネス何をするの」: https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/161710/ 「マインドフルネスってそもそもなんなの?」ってことを押さえるために、少し、マインドフルネスの源流と展開を見ておきます。大きくは、2つに源流が求められるようです。①東南アジアのテーラワーダ仏教の修行法である「ヴィパッサナー瞑想」②日本の「禅」マインドフルネスは、アメリカでは大人気なようですが、そこには、仏教を科学的なものであるとする、テーラワーダ仏教の「仏教モダニズム」活動が影響を与えているようでもあります。マインドフルネスという言葉は、イギリス人のRhys Davidsさんという方が、1881年にパーリ語の「Buddhist Suttas」を出版した際に、パーリ語の「sati」サティに、英語訳として「マインドフルネス」という言葉をあて、「sammāsati」(漢語訳「正念」)に「rightmindfuless」とされたことことに由来するようです。Rhys Davidsさんが翻訳したのは、インドからスリランカへ、スリランカから東南アジアへと伝来したテーラワーダ仏教が正典とする、インドの地方言語パーリ語で書かれた阿含経です。テーラワーダ仏教は、日本に伝わった仏教とは別系統の仏教です。釈迦の教えを聞いた弟子たちが、釈迦の教えを口承で伝承し、後に文字化されて今日に伝えられているとされるものが、阿含経です。テーラワーダ仏教で、修行のために行う瞑想法が、ヴィパッサナー瞑想ですので、「sammāsati」(漢語訳「正念」)に対する「マインドフルネス」という言葉は、ヴィパッサナー瞑想に由来するということになります。時代は下って1954年に、テーラワーダ僧であった Nyanaponika Thera さんが、「仏教瞑想の核心―マインドフルネスに基づく精神修養」という本で、仏教瞑想の中心にマインドフルネスを位置づけ、マインドフルネスは「正念」そのものではなく、「最小限のありのままの注意」「bareattention」であると解説したことから、その後、西洋では、マインドフルネスを「ありのままの注意」とする見方が広がり、仏教瞑想に関する多くの著作の中で仏教瞑想の本質は、マインドフルネスにあるとされるようになったそうです。(日本評論社 マインドフルネス-基礎と実践- 菅村玄二さん「マインドフルネスの意味を超えて―言葉、概念、そして体験ー」より)。Nyanaponika Thera さんの背景にも、「仏教モダニズム」と言われる活動があったのかもしれません。エヴァン・トンプソンさんは、「仏教は科学なのか 私が仏教徒ではない理由(日本語版2024年)」(Evolving)の日本語版序文でこのように語っています。「西洋における多くの仏教指導者たちは、現代版の仏教徒の瞑想実践を教えることで仏教を紹介し、「仏教はもっとも科学に親和的(sciencefriendly)な宗教である」と語ったり、「実際のところ仏教はまったく宗教ではなく、むしろ哲学的であり、生き方であり、あるいは特別な内観による心の科学に基づいたセラピーなのだ」などと語っています。」「私の関心は現代の西洋世界における仏教モダニズムにあるのですが、仏教モダニズムの起源は十九世紀、二十世紀のアジアに存在するということを理解するのは重要です。つまり仏教モダニズムは、奇異な西洋版の仏教というわけではないのです。私は主に、その起源がスリランカとビルマにおける現代のヴィパッサナー瞑想運動の形式のなかにあったと論じています。それらの運動は、仏教を合理的で経験的な心理学の一種として提示する傾向があるのです。」エヴァ・トンプソンさんの上記のお話に接すると、テーラワーダ仏教のお坊さんが語る仏教観、「(テーラワーダ)仏教は宗教ではなない。なぜならば釈迦が説いた通りの方法で瞑想に取り組めば解脱に至ることが証明できる、釈迦は真理を説いたのだ。証明できなことを信仰しなさいというのが宗教だから、仏教は宗教ではない。」という論理を展開する背景には、どうやら「仏教モダニズム」がありそうだ、との理解に至ります。「仏教モダニズム」により、なんとなく私がテーラワーダ仏教に抱いていた違和感に納得がゆきました。私が感じていた違和感を「仏教モダニズム」への理解を加えて表現すると、テーラワーダ仏教は「科学との接近によって、釈迦の方法は証明できるのだから宗教ではない、釈迦は真理を説いた、ゆえに仏教は他の宗教と異なる、という布教戦略を取っていたのだ」ということになります。また私は、テーラワーダのお坊さんの説くこと=釈迦の説いたこと、という理解はもっていません。テーラワーダのお坊さんの説くこと=釈迦入滅後テーラワーダが作り上げた釈迦の説いたことの解釈による発展、と理解しています。「仏教モダニズム」によって、テーラワーダ仏教は、科学と瞑想を結びつけることで、釈迦が説いたことは真理、私たちは釈迦が説いた真理に基づいて悟った者、だから私たちは真理を説いているのです、という構図を作ろうとしているように感じます。また、マハーシ・サヤドーさんによる瞑想センター開設なども、「仏教モダニズム」の流れの中から実現したことかもしれない、とも感じるようになりました。エヴァ・トンプソンさんの論考に接した時に、下記に引用する、馬場紀寿先生が記述する、上座部大寺派の戦略、経営戦略でいうところの、大乗に対する歴史書の編纂による「差異化戦略」、むしろ「排除戦略」と言った方がいいかもれない戦略と同様のことを、テーラワーダ仏教は、現代社会に適応した方法として、他の宗教に対して、仏教は科学的という「差異化戦略」として、行っているのではないかと感じました。(「初期仏教 ブッダの思想をたどる」岩波新書1735)「後四世紀頃、上座部大寺派は『島史』という史書を編纂した。『島史』が創造した歴史によれば、スリランカの大寺(マハーヴィハーラ)こそが、ゴータマ・ブッダが降臨した聖地であるという。また、大寺には、結集された仏説が完全な形で伝承されているとする。さらに大寺は、世界最初の王であるマハーサンマタ王(参照先省略)の末裔にして釈迦族の血を引く王によって設立されたというのである。」(中略)「こうして史書により作られた歴史観に立って、五世紀前半、上座部大寺派は、パーリ三蔵の正典化を完了し、大乗仏典を「非仏説」として排除する教理的根拠を作り上げた。ブッダはパーリ語で話したのであり、三蔵という正典は、パーリ語でこそ伝承されるべきだという主張をした。」「大乗仏典を「非仏説」として排除する教理的根拠を作り上げた」ということは、上座部大寺派には、大乗を排除したい欲求、理由があったということになります。そもそも大乗の意味は「優れた教え」、自らすぐれた教えと称した「大乗」が、上座部大寺派などの部派仏教を、「小乗」劣った教えであるとしました。そして劣った教えであると印象付けるために大乗経典を作ったようです(例えば維摩経にはその印象を強くします)ので、上座部大寺派としては、大乗仏典排除の論理を作らざるを得ません。大乗仏教の出現について、竹村牧男先生の『インド仏教の歴史「悟り」と「空」』(講談社学術文庫)から引用させていただきます。「釈迦の説法は、『阿含経』にまとめられ、各部派に伝持さえたのだった。しかし仏滅(釈迦の入滅)後三、四百年ぐらい経って、新たな「仏説」が、まことしやかに弘められていく。『般若経』『華厳経』『法華経』『無量寿経』といった経典が、釈迦の説法として宣布されていくのである。それは。新しい仏教の出現であった。正統的な部派教団としては、考えられない、仏教の”新興宗教”の出現であった。言うまでもなく、この新しい仏教を、大乗仏教という。というより、新仏教の担い手は、自らの仏教を「大乗」(偉大な教義)と呼び、旧来の仏教を「小乗」(劣った教義)といって非難したのである。仏滅後四百年近くも経ってのちはじめて現れた経典が、そっくり釈迦の説いたものでは当然あり得ない。そこに釈迦の直説が核として含まれていたり、釈迦の精神が横溢していたとしても、これを編み、制作した者は、当時の何ものかであったことは否めない。」上座部大寺派が現在の、テーラワーダです。現在では、私たちでも理解できるパーリ語正典の日本語訳が、春秋社と大蔵出版から刊行されています。大蔵出版は、片山一良さんがお一人で訳しているそうです(大仕事だと思います)、春秋社版は、ベテラン若手混合で訳しているようです。Rhys Davidsさんがパーリ語正典を英訳してから約120年、日本にも地道に初期仏教を研究される優秀な研究者・翻訳者がいらっしゃるようです。もちろん約2600年前に釈迦が語ったことが、そっくりそのまま伝承されている、というわけではないでしょう。多かれ少なかれ加筆訂正、伝承の過程での変容など、釈迦が語ったこととは変わっている可能性はありますが、それでも私たちには、阿含経によるしか釈迦の説いたことを知る方法はありません。大乗仏教の国の日本では、あまり日が当たらない仕事かもしれませんが、誇っていい仕事だとおもっています。いずれも底本は、Rhys Davidsさんらが、1882年に設立したパーリ文献協会(ThePaliTextSociety)から出版されている阿含経のようです。禅に取り組んだJ.カバットジンさんが、「マインドフルネス瞑想法」を創始しました。「カバットジンは1979年に、マサチューセッツ大学医学部の中にマインドフルネスに基づくストレス低減プログラムを実施するセンターを開設し、初期は医学的治療が困難な慢性疼痛の対処法として成果を上げて来た。それ以来、徐々に適用範囲を広めて、乾癬や高血圧などの心身症的疾病に適用したり、過食などの食行動の問題や、不安、パニック障害などの心理的な問題も扱い検証してきた。」カバットジンさんの「マインドフルネスに基づくストレス低減プログラム」は、集合研修と自宅実践を組み合わせた8週間のマインドフルネス・トレーニング・プログラムです。この方法が、マインドフルネスストレス低減法(MBSR)となりました。「1995年以降は、ストレスクリニックは、マサチューセッツ大学のマインドフルネス・センター(CenterforMindfulnessinMedicine,Health Care,andSociety:CFM)の中に位置づけられています。マインドフルネス・センターでは、学校や企業に本プログラムを提供したり、医学上の問題を抱える患者に実施したり、専門家の育成にあたったり、継続的な研究を行ったりしています。」(「マインドフルネスストレス低減法」 J.カバットジン 春木豊さん訳 北大路書房)カバットジンさんはこのように言っています。『「マインドフルネス瞑想法」は、″注意集中力″を高めるためのトレーニングを体系的に組み立てたものです。これはアジアの仏教にルーツを持つ瞑想の一つの形式を基本としています。注意を集中するということは″一つひとつの瞬間に意識を向ける″単純な方法です。この力は今まで全く意識していなかったことに、意識的に注意を払うことによって高まってきます。つまり「マインドフルネス瞑想法」は、リラクセーション(緊張がゆるみ、安らいでいる状態)や注意力、意識、洞察力をもたらす潜在的な能力を活かして、自分の人生を上手に管理する新しい力を開発するための体系的な方法なのです。」(前掲書「マインドフルネスストレス低減法」)九州大学の安野広三先生は、カバットジンさんのMBSRの機序(メカニズム)についてこのように述べておられます。「ボディスキャンや座瞑想のワークでは、自ら積極的に痛みの感覚に対する暴露を行いながら、なおかつその体験に対して破局的な、認知・情動的反応、即時的な行動を起こさないという在り様が繰り返し訓練される。それを通じて、痛みに対する恐怖などの感情的苦痛や破局的思考、非適応的な行動反応が減少し、痛みに対するアクセプタンスが促進される。また、瞑想の中で移りゆく思考や記憶、感情をマインドフルな気づきのなかで観察することを続けることで、思考や記憶、感情を現実とは区別して、単なる心の出来事してとらえるという在り様(脱中心化)も発展する。それにより痛みに反応しておこるネガティブな解釈や予想、不安や恐怖などを客観的に距離を置いてとらえられるようになり、それからくるネガティブな影響を減少させることにつながる。」(日本評論社「マインドフルネス-基礎と実践-」)「思考や記憶、感情を現実とは区別して、単なる心の出来事してとらえるという在り様」ということについての理解を促進するために、グレゴリー・ベイトソンさんの著書から引用します。「客観的」「客観性」を「現実」と読み替えてみてください。「誰かに足を踏まれたとき、私が経験するのは、"彼による私の足の踏みつけ"そのものではなく、踏まれてからややあって脳に届いた神経報告を基に再構成された"彼による足の踏みつけについての私のイメージ"に他ならない。」「外界の経験は常にある特定の感覚器官と神経回路が介在しているのである。」「その限りにおいて、ものとは私の創造物であり、ものの経験は主観的であって客観的ではない。」「痛みとか、外界の視覚イメージとかの感覚データの客観性を疑う人間が、少なくとも西洋文化の中に。ほとんどいないということは、やはり熟考に値する問題である。われわれの文明は、この客観性の幻想の上に深く根差しているのである。」(精神と自然 生きた世界の認識論 思索社)ちなみに、ヴィパッサナー瞑想では、観察への集中によって、思考を停止し、それによって感情の生成を停止し、感情に影響されない「尋」「伺」という思考を現出させ(初禅の段階とされます)、「尋」「伺」により釈迦の説いたところを証得する、という手順を取るようです。初禅に至る過程ですでに釈迦の説いたところの大半は証得しているのかもしれません。初禅にいたれば、高い集中力を利用して、自分の心の中に、自分が好ましいと考える性向、行動を定着させることができるようです。それゆえ思考、感情は、観察の対象にはせず、「放す」(その意図するところは反応して考えを進めることを放棄する)対象としているようだ、ということになります。ただし、マインドフルネスでも、上記安野先生のご説明では「思考や記憶、感情をマインドフルな気づきのなかで観察することを続けることで、思考や記憶、感情を現実とは区別して、単なる心の出来事してとらえるという在り様(脱中心化)も発展する」とされていますので、方法論や態度としては類似する、と言えるようには思います。「脱中心化」と言われていますが、一般には仏教で「無我」と言われている観点との類似性を感じます。「脱中心化」は、釈迦の到達した「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」(私の理解です)によれば、釈迦は、自我つまり「私」は無いとは言っておらず、私ではないことを私だと勘違いして、しがみつくから苦しむのではありませんか?という考え方とも親近性があります。(春秋社 原始仏典第七巻 大148経 六六経)釈迦の論理は、私だと思っていることは私ではありませんよね、なぜならば「私だと思っていること」は心の中に浮かんでは消えてゆくではないですか?心の中に浮かんでは消えてゆくものを私だとするのは不合理でしょ、という論理です。釈迦の論理は、釈迦在世時に有力だった「永遠不変の自我、アートマン」を前提にはしているのですが、人の認知の移り変わりの中で、私という意識なく外部の対象に不快感を感じたり、今そのまま発言したら周囲から反発を受けそうなことを自分が考えた、といった「私」にかかわる、生まれては消えてゆく意識ということを考えると、現在でも通用する論理のように思えます。「思考や記憶、感情をマインドフルな気づきのなかで観察することを続けることで、思考や記憶、感情を現実とは区別して、単なる心の出来事してとらえるという在り様(脱中心化)も発展する」ということは、言い換えれば、自分の思考や記憶、感情に対して「私という意識なく外部の対象に不快感を感じた」という「私」と「私が感じたこと」への無自覚的な態度から、「今そのまま発言したら周囲から反発を受けそうなことを自分が考えた」という「私」と「私が考えたこと」に対しての意識的自覚的な態度への転換を促す、とも言えるように思います。多少の違いがあるのは、釈迦は、人には認知する機能が存在し、その認知する機能によってのみ物事を把握できる、ならば存在するのは、認知の対象となる物事(現実)ではなく、認知する器官と機能だけであろう、と考えていたように思われるからです。そしてその時、「私は無い=無我」ではなくて、「私が考えること≠私」 =「非我」、つまり釈迦がといた「私ではないことを私だと勘違いして、しがみつくから苦しむのではありませんか?」という考えとも通底します。修行を完遂し解脱すると「仏」となり、「無我」=「私欲(自我)のない私」=「仏」になるという論理、教説は成り立ちます。解脱に至ったAさんとBさんが同時に同じ事象に遭遇した場合、AさんとBさんが同じ行動をとる、というのであれば「無我」つまり「私は無い」と言ってもいいでしょう。しかしそうではなく、AさんBさん双方が「同じ事象に遭遇し」ても、別々の判断をし、別々の行動をとるという前提に立つのであれば、解脱した「仏」は「無我」つまり「私は無い」のだ、という説明は、少し違和感を感じます。そうなると、両者の行動の相違は、「無我」つまり「私は無い」という説明よりも、両者とも「私ではないことを私だと勘違いして」いることを克服している、つまり釈迦の説く「非我」を証得しているが、それでもなお、それぞれが、認知を統合する機能としての独自性と行動の主体としての「我」は保持しているから別の行動になる、と考える方がすっきりします。そのように考えれば、釈迦が私は無い、とは言わず、それは私ではないよ、と言ったことになんとなく納得がゆきます。そのように考えないと、これ以上はない安楽の境地に至った釈迦が、死の直前まで教えを説く旅をつづけたことの説明が付きません。釈迦は、「それは私では無いと説きながら」、自らの教えを、最後の最後まで説き続ける道を選んだのですから、『認知を統合する機能としての独自性と行動の主体としての「我」は保持していた』と考えざるを得ません。ヴィパッサナー瞑想とマインドフルネスはかなりの部分が共通または類似しているのですが、①ヴィパッサナー瞑想は、思考、感情の積極的な止滅によって禅定状態を作出して釈迦の説いたところを観察し解脱に至る瞑想②マインドフルネスは、禅定状態の作出にはフォーカスせず「移りゆく思考や記憶、感情をマインドフルな気づきのなかで観察する」瞑想という違いになります。心理療法の「心理教育」を例にとって両者を理解するならば、以下のようにも言えるように思います。①ヴィパッサナー瞑想は、眼耳鼻舌身意の6つの認識器官とそれらの認識対象とそれへの執着、五蓋、七覚支、五取蘊、四念処、四聖諦、八正道などの心理教育(釈迦の説法)に基づく瞑想法②マインドフルネスは、「参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・看経をもちいず、ただし打座して身心脱落することをおえよ。」(正法眼蔵 弁道話)という、道元さんの方法論を中心に、体への感受性を高めるエクササイズ等も取り入れた、自己の心の在り様を観察する瞑想法。釈迦の到達した「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」からは、思考や感情などは生じては消えてゆくものだとしたうえで、ヴィパッサナー瞑想の方法論では、思考や感情は、それが生じたら生じたとして知り、知ったら「放す」ことによってなくすことによって対処し、感情に影響されない「尋」「伺」を現出させることによって、釈迦の説いた「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」を観察し、、釈迦の説いたところを確かめ解脱に至ることを到達点としたものであると解釈できます。その過程で、心の平静を妨げる、過去の出来事による苦痛を生み出す記憶をも滅することにより、さらなる禅定に至る、ということのようです。ヴィパッサナー瞑想は、到達したい場所が解脱という、容易には到達できないと思われる場所なので、かなり遠回りをするようです。思考、感情を滅して、「尋」「伺」という、思考、感情に影響されない「智慧」の目を作って、物事を観察するのは、解脱に至ることを目的としている(解脱に至る方法として理解され伝承し保持されて来た)からでしょう。ヴィパッサナー瞑想の中心的な経典とされる「大念処経」等には、明確に上記のように説かれているわけではありませんが、釈迦の到達した「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」(と私が理解していること)と、考えあわせると上記のような理解に至ります。「悟り」「解脱」を到達点としているためそのような方法論になると考えるのが妥当です。マインドフルネスを、「自己探求のツール」としてとらえた場合、安野先生の言われる「瞑想の中で移りゆく思考や記憶、感情をマインドフルな気づきのなかで観察する」ことの方が、現代人には適合的な方法といえるでしょう。出家して僧院の中で、ヴィパッサナー瞑想により『思考や感情は、それが生じたら生じたとして知り、知ったら「放す」ことによってなくす』ことは難しくはないでしょうが、労働し、家族や職場その他の人間関係の網の目の中に組み込まれている現代人にとっては、『思考や感情は、それが生じたら生じたとして知り、知ったら「放す」ことによってなくす』ということによって、釈迦の到達した「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」を証得しようとするのは、容易ではありません。それゆえ私は、心理学や心理療法などの考えを援用してうえで、ヴィパッサナー瞑想に取り組むのが良いのではないかと思っています。言い換えれば、ヴィパッサナー瞑想は効果は強力だが、それだけでは現代人に適合的であるとは言い難い部分がある、と感じます。カバットジンさんは、自身の禅とのかかわりについて、このように言われています。「1960年代初期に、まだ学生だった私に初めて日本の禅というものを教えてくれたのは、鈴木大拙でした。その後、鈴木俊隆著“ZenMind,Begneer'sMind(初心禅心)”に出会い、本格的に瞑想の精神を探求する道に足をふみいれることとなったのです。十三世紀の偉大なる禅師、道元のすぐれた思想にも大きな影響を受けました。」(前掲「マインドフルネスストレス低減法」鈴木大拙さんは、エヴァン・トンプソンさんの前掲書では、「1952年から1957年までコロンビア大学で教鞭とって」おり、「彼の翻訳やエッセイ、また哲学的な著作は、西洋において今なお大変な人気です。ヨーロッパのロマン主義とアメリカの超絶主義に影響を受けた彼の著作は、禅仏教を一種の合理的神秘主義として、またすべての宗教の神髄であると提示しています。」と説明されています。鈴木大拙さんが、「すべての宗教の神髄であると提示しています。」と主張したことの当否は私にはわかりませんが、宗教家としての自己の依って立つ基盤からは「離欲」出来なかったのかもしれない、との思いが生じます(誤解なさらないでください。「離欲」していないことを批判しているのではなく、また「離欲」すべきと主張しているのでもありません。「欲」があるほうが自然でありノーマルですから。)。また、「禅仏教を一種の合理的神秘主義として」として紹介のであれば、非常に優れた戦略家の一面を感じます。合理的な記述の上に、「神秘主義」をまとわせることで、合理的なものだが私たちの知らなかった魅力的なもの、ということを印象付けることをねらったのかもしれません、意図せずに。中央公論社 世界の名著第2巻「大乗仏典」の付録で、長尾雅人先生がこのように言われています。昭和42(1967)年12月12日、梅原猛先生との対談です。「教団とか宗門というところまではいかないが、たとえばアメリカにおける禅ブームというもの、あれはブームでも何でもないということはいえるけれども、ペーパーバックの本屋を見ると、禅の本が非常に多い。鈴木大拙さんのものももちろんあるが、アメリカ人その他の書いたものがたくさん出ている。これらのものがアメリカ人の心にいろんなものを植えつけているのですよ。それは宗門とか教団とかいう形とはちがうが、しかしかなりの影響力を将来もってくると思いますね。」カバットジンさんが、禅と出会い傾倒された時期と重なります。道元さんは、中国に留学したお坊さんです。中国の仏教は北伝(大乗)仏教なので、ヴィパッサナー瞑想とは異なる系統です。感覚的なお話でしかないのですが、「仏教瞑想の本質=マインドフルネス=ありのままの注意」という文脈の中で、カバットジンさんは、道元さんから学んだ座禅観から、「注意集中」という中核的な方法論を抽出して、世に送り出したものが、マインドフルネス瞑想法ではないか、という印象を持っています。これも感覚的なお話になりますが、生じたものを生じたと知り意図的な反応をしない、というマインドフルネスのスタンスには、ヴィパッサナー瞑想の方法論(手順)よりも、禅の考え方をより強く感じます。ヴィパッサナー瞑想の「Sati、サティ」⇒「マインドフルネス」⇒「ありのまま注意」という流れの中で、カバットジンさんは、道元さんの座禅から「注意集中」というエッセンスを抽出し、マインドフルネス瞑想法の中心に位置付けたものと思われます。「マインドフルネスストレス低減法が爆発的に心理療法の分野で知られるようになったのは、なんといっても認知療法の分野で著名なティーズデール(J.D.Teasdale)らがこのプログラムを取り入れてうつの再発予防に効果があるということを検証したことがある。」(前掲書「マインドフルネスストレス低減法」)これがマインドフルネスに、A.T.ベックさんの認知療法を統合したものが、マインドフルネス認知療法です。マインドフルネス認知療法は、マインドフルネスストレス低減法と同様に、8週間の集合研修+自宅実践プログラムです。マインドフルネス認知療法は、創始者の1人、J.ティーズデールさんが、アメリカ生まれの仏教僧AjahnSumedhoの講演を聞いたことがきっかけで誕生したようです。「講演中にJhonは、Sumedhoが述べた仏教による苦悩の分析の核心部にあるアイデアと認知療法の基本的仮説の類似性に衝撃を受けた。両方のアプローチが、私たちを不幸にするのは経験そのものではなく、(仏教分析では)私たちの経験との関係または(Beckの分析では)私たちの経験の解釈であることを強調していた。また仏教のマインドフルネス瞑想の中核が思考として(つまり「真実」や「私」としてではなく、精神的事象として)思考として関係していくことの習得を含むことも明白であった。人はこうすることで、自分の行動をコントロールしたり、不幸は心の状態を作り上げる役に立たない思考パターンの影響から自身を解放できるのだ。」(マインドフルネス認知療法原著第二版 北大路書房)。推測になりますが、J.ティーズデールさんは「仏教モダニズム」との接触を契機として、マインドフルネスに認知療法を統合するアイディアを得たのかもしません。そうだとすると、禅を学んだカバットジンさんの「マインドフルネス瞑想法」は、J.ティーズデールさんらのマインドフルネス認知療法において、テーラワーダ仏教との再会を果たしたことになります。マインドフルネス認知療法では、プログラムへの採用は見送っているものの、テーラワーダ仏教の「慈悲の瞑想」に言及されています。(上掲書)「またマインドフルネスの概念は上記の認知療法家たちのほかにも、行動療法の立場からヘイズ(S.C.Heyes)やリネハン(M.Linehan)らもとりあげている。このことはマインドフルネスの概念が心理療法の分野に広く浸透しつつあることをしめすものであろう。」(前掲書「マインドフルネスストレス低減法」)ヘイズは、アクセプタンス&コミットメントセラピー、リネハンは、弁証法的行動療法を創始しています。アクセプタンス&コミットメントセラピー(ACT)について、安野広三先生ご説明を引用します。「ACTは臨床行動分析を基盤として開発された第三世代と評される認知行動療法の一つであり、MBSRとはその発展してきた経緯は異なるが、マインドフルネスの要素や痛みのアクセプタンスの発展を目指すという側面では、基本コンセプトにおいて同様の要素を含んでいると考えられる。」(中略)「慢性疼痛のような当面は避けることのできない痛みの感覚やそれに必然的に随伴するつらい思考や感情をコントロール・回避しようとする努力は、かえってそれらに関連する苦悩を拡大させる。さらに、そのようなコントロールと回避のための格闘に日常の労力と時間を消費し続けることで日々の生活は痛みに支配され、有意義でいきいきとした生活から遠ざかってしまう。痛みやそれに伴う心理的苦痛をありのままに体験することで、それらとの格闘から派生する苦悩の拡大から自由になることができる。そして痛みとの格闘に日々の労力を使うのではなく、痛みがあっても、自分の人生の価値に沿った活動に取り組み続けることに全力を尽くし、価値のある日々を送られるようにすることをめざす。」(日本評論社 前掲書)マインドフルネスは、認知行動療法や他の心理療法にも技法として、さかんに取り入れられています。エヴァ・トンプソンさんの「私は認知科学における心や意識の理解を探求し豊かにしてゆくために、瞑想実践と仏教の哲学的心理学を用いることの重要性を強く支持しています。」という考えに私は同意します。(エヴァン・トンプソンさん前掲書)そして、私は、エヴァ・トンプソンさん同様に、仏教徒となることを選択していません。仏教徒でなくとも、釈迦の説いた方法や、釈迦の至った瞑想による境地を知ることはできます。仏教、言い換えれば釈迦の入滅後に発展した仏教教学を知らない方が、かえって釈迦の説くところを素直に理解できるのではないかと思います。例えば、竹村牧男先生は、「実際には、十二項目の縁起を釈迦がはじめから観じたのではないことは明らかである。」(「インド仏教の歴史」講談社学術文庫)とされています。竹村先生の説が正しいとすれば、阿含経の内容を十二支縁起で説明することは、釈迦が説法時には認識していないことを、釈迦入滅後の仏教教団において成立した仏教教学で説明することになります。その場合は、釈迦は明確に説かなかったが、釈迦はこのように考えたのだ、ということになります。お坊さんにとっては、竹村先生の説は誤りで、自教団の教学の方が真理である、という考えになるでしょう。釈迦の説法を、釈迦の説法より後に成立した仏教教学で解釈しているのではないか、と感じることには時々出くわします。釈迦は入滅の直前に、以下のように説いており、釈迦の言う「理法」「法」に、私たちは阿含経の日本語訳を通じてアクセスできますから、瞑想に取り組むに際して、釈迦入滅後の「仏教」や「仏教教学」という枠組みの中で、釈迦の方法論やヴィパッサナー瞑想をとらえる必要はないと思っています。「わたしは内外に隔てなしに〔ことごとく〕理法をといた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は、存在しない。」「向上につとめた人が一切の相を心にとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」(以上 春秋社 原始仏典第二巻 第16経「ブッダ最後の旅ー大般涅槃経」)教え切った、すべてを説いたのだから、後は君たちの努力次第だよ、ということのように感じます。ヴィパッサナー瞑想の指導者の方は、「Sati、サティ」を「気づき」という意味でつかわれることが多いようです。パーリ語は、行為を表す言語だそうです(アルボムッレ・スマナサーラ先生「ブッダの実践心理学」)から、「Sati、サティ」の解釈についての異同は、『行為そのもの』への注目=「マインドフルネス」⇒「ありのまま注意」⇒「注意集中」と、『その行為によって到達すること』=「知る」気づき」「自覚」という、注目する対象の違いかもしれません。ちなみに日本での「Sati、サティ」の解釈は、「心を一点にとどめて決意することを「念」(sati.Skt.smrti)という。」(春秋社 原始仏典第2巻 大22経「心の専注の確立」大念処経の註)というものだそうです。「Sati、サティ」が指し示すところを考えると、瞑想法についての参考になりそうです。ヴィパッサナー瞑想は一般的に、観察瞑想と言われていますが、その内容は以下のようなものだと理解しています。その各段階で、『行為そのもの』としての「Sati、サティ」が必要とされ、「行為そのものによりもたらされる状態」としての「Sati、サティ」が実現するように思います。①集中力を上げて観察する②観察によって知る=気付きを得る③気づきによって自覚する④自覚に基づいて、好ましい行為を実践するヴィパッサナー瞑想は①②③の観察対象が定められており、身体、感受(感覚)、心(の状態)、法(事象)とされています。また①においては、例えば呼吸の瞑想には、集中状態の創出のために、観察瞑想とは別のもう一つの瞑想「集中瞑想」の効果も活用するようです。なぜ、身体、感受(感覚)、心(の状態)、法(事象)と定められているのかというと、釈迦の認知論についての「③気づきによって自覚する」に至るためです。釈迦のとらえた「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」をかなり簡単にいうと、ⅰ.高い集中力でもって身体、感受(感覚)、心(の状態)、観察してゆくならば、身体、感受(感覚)、心それぞれの働きと、それらの働き方の法則ともいえる「法(事象)」が存在するのみであると知るだろうⅱ.人は五感と意識を介することによってのみ外界とかかわることができ、人の五感と意識を通じた認知する働きは止められないⅲ.その一方で、五感と意識が作り出す感受(感覚)、思考、意欲、識別は、生まれては消えてゆくものⅳ.生じては消えてゆくものに喜びを見出し執着を感じれば苦悩の原因を生み出すⅴ.苦悩の原因を自らの自覚に基づいた行為によって取り除けば苦悩はなくなるというものです。ジュディス・ベックさんは、『マインドフルネスは、思考との付き合い方を変える手助けをしてくれる。』と言っています。(ジュディス・ベック前掲書)ヴィパッサナー瞑想では、感受、思考、感情、判断は生まれては消えてゆくにもかかわらず、それらに喜びを見出し愛着の対象にするから苦悩の原因となることを知り、それらへの執着をなくすことが目指されます。マインドフルネス認知療法は、この考え方を援用し、うつの再発を促すネガティブな「反芻(はんすう)」について、受講者が到達することが目指される「自己の思考との付き合い方の態度」を、「思考は事実ではない」というところに置き、「自分の思考から距離をおいて」付き合うことを目指したものと理解しています。また、ティーズデールさんたちは、マインドフルネス認知療法の開発に際して、「脱中心化」ということを一つの狙いとしています。(マインドフルネス認知療法原著第二版 北大路書房)大山泰宏先生が『「わたし」とはひとつの虚構、おそらくは人類が手にした最大の虚構であるともいえる。』(改定新版「人格心理学」NHK出版)といわれています。『「わたし」とはひとつの虚構』ということを踏まえると、「脱中心化」とは、「くるしい」と主体的に感じ「くるしむ」ことから、Bishopさんらが定義するマインドフルネスの「開かれた姿勢、受容し、好奇心のこもった眼差しをむけつつ、目の前の体験に注意を向ける」(ジュディス・ベックさん前掲書)ことによって、「今、『わたし』はくるしいと感じている」という認知への転換=「『わたし』という虚構を意識せず苦しい感じること」から、「今私は苦しいと感じている」という認知への転換、を目指すものだとの理解が成り立ちます。「④自覚に基づいて、好ましい行為を実践する」と聞くと、仏教色を感じるかもしれません。しかし、ここでは自分以外の外部から与えられる「好ましい行為」ではなく、自らが自覚に基づき選択した「自分に苦悩を生み出さない、自分にとって好ましい行為を実践する」という解釈で使っています。(この理解については、前記馬場先生の「初期仏教 ブッダの思想をたどる」に多くを負っています。)自己の苦悩からの解放の手段を外部に求めるのではなく、苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆくことから、マインドフルネスを、「自己探求ツール」ととらえています。一般的に言って「自己の苦悩からの解放の手段を外部に求める」のであれば、宗教は有効な回答を与えてくれるかもしれません。「苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆく」という方法で有力なのは、カウンセリングやセラピーです。「苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆく」のは、あくまでもクライエント自身であり、カウンセラーやセラピストは、「苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆく」援助者です。カウンセラーやセラピストは、1人では困難を感じる「苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆく」ことの伴走者、ということです。そのように考えれば、マインドフルネスを、カウンセリングで活用できる「自己探求ツール」、さらに踏み込んで、カウンセリングに代わる「自己探求ツール」と位置付けることが可能であることが、ご理解いただけると思います。そしてまた、仏教徒であることは不要(仏教の概念は、むしろ妨げになるかもしれない)だと考えていることもご理解いただけると思います。ただし誤解しないでください。信仰をお持ちいただくことは個人の自由の領域に属しますから、現に今もっている信仰もまた不問です。「④自覚に基づいて決意し実践する」ことは、それまでの「認識論」から、釈迦の「行為論」の段階に入ります。「行為論」は、「①集中力を上げて観察する」 「②観察によって知る=気付きを得る」 「③気づきによって自覚する」 ことに基づいた知見を活用して、「④自覚に基づいて、好ましい行為を実践する」 ことを意思によって実行する、ことだと理解しています。ここに至って、好き嫌いやあれが欲しいという感情を排して①②③を通じて培った知見、いわゆる智慧によって、自分にとって何が好ましい行為であるのかを判断し、選択して、行為することによって「自分を好ましい方向へ改変してゆくフェーズ」、と言えるように思います。八正道や八支聖道と言われる段階です。釈迦は宿命論や運命論を排し、自分の自覚に基づく「行為」が自分以外の者に影響を与え、その影響が自分に返ってくる、という考えであったようです。釈迦は、行為について、徳行であっても、2種類あると説いています。例えば「聖道経」(春秋社 原始仏典第117経)では、正しい行動について以下の2つをあげています。『徳行の一つではあるが、結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩をともなった正しい行動』『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい行動』釈迦の説く「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」を理解すれば、2種類の識別は難しくありません。例えば「情けは人のためならず」を、他者にかけた情けは自分に返ってくるから、自分に利益が返ってくること意図するならば(欲への執着という煩悩を生むから)、『徳行の一つではあるが、結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩をともなった正しい行動』ということになるでしょう。情けを受けることに抵抗を感じている人に対して、「情けは人のためならず」、だから情けを受けても恥じる必要はないんだよ、と諭すためにつかい、自分に利益が返ってくることを意図しないならば、『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい行動』と説明できるように思います。釈迦の説く、『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい行動』を実現するのは、現代社会で労働に従事している私たちは、出家して労働に従事せず修行に専念しているお坊さんたちより、相当に大変かもしれません。以下のようには考えられないでしょうか。ヴィパッサナー瞑想を、心理療法としてとらえた場合には、「釈迦の認知論」は、「心理教育」に該当する「②観察によって知る=気付きを得る」「③気づきによって自覚する」は、認知療法的なアプローチ「④自覚に基づいて決意し実践する」は、行動療法的なアプローチ奇妙に一致している、という話ではなく、「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」を探求してゆくと、苦悩から解放されるには、①「人の心のはたらき」を知って、『「人の心のはたらき」から生み出される認知』をより適合的な(苦しみを生み出さない)ものにしてゆこと、②「適合的な(苦しみを生み出さない)」認知に基づいた行動よって、好ましい結果を生み出し、「適合的な(苦しみを生み出さない)」認知をより強化すること双方が必要、ということになるように思います。続編「マインドフルネス何をするの」: https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/161710/
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