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他者と良好な関係をつくるために

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COME TO LIFE「他者と良好な関係をつくるために」-1

他者との良好な関係づくりに苦戦される方は多い

お見合や交際の振り返りを拝見する中で、少ないながら、他者(お相手)との互恵的な関係構築、つまり双方にとって快適な関係をつくることが苦手な方なのかもしれない、と感じることがあります。

とはいっても、全ての人と良好な関係をきずかなければならない、というわけでは当然にありせん。

フィーリングが合わない、考え方や価値観が合わない等のお断り理由をいただくこともありますが、お付き合いのご報告から察するに、お相手との互恵的な関係構築が苦手、ご自分のご要望と相手のご要望をうまく共存させ得る良好な関係づくりに苦戦されるているようだ、と感じるケースが相当数あります。

フィーリングが合わない方、考え方価値観が合わない方でも、交際してみなさい、ということを言っているのではありません。

フィーリングが合わない、考え方価値観が合わない方と出会うことの方が奇跡でしょう。

フィーリングや考え方価値観は少しずつ、お互いに理解してゆくものではないでしょうか。

そのためには、良好な関係作りができることが前提になります。


「性格」=「あなたそのもの」ではない

お相手との互恵的な関係構築に苦戦することの根底には、


「ご自身の他者への反応パターンが、お相手との互恵的な関係構築に関しては機能的でないこと」があるかもしれません。


反応パターンの前提にある『経験から構築された自分や他者、自分と他者を総合した世界への一般化された概念的理解=出来事を解釈し先行きを予想し、自分が遭遇する環境への適用のガイドライン』のようなものに影響されます。

これがスキーマや中核信念と呼ばれるものです。


「スキーマや中核信念」に、例えば「私は人に好かれない(親が自分に関心を示さなかった)」「男(女)は信用できない(過去に手痛い経験をした)」というものがあったとしたら、「スキーマや中核信念に基づいた他者への反応」は、あまり効果的であったり信頼関係を築くことには障害となる可能性があります。


「スキーマや中核信念」+「スキーマや中核信念に基づいた他者への反応」を合わせると「性格」ということになります。


「性格」=「あなたそのもの」ではない、という前提で、


他者との効果的な関係作りが苦手な方は、


性格に課題を抱えている方なのかもしれません


性格に課題を抱えている、ということは、性格が悪いとかいうことでは全くありません


「スキーマや中核信念」は、その人のおかれた幼少時の環境からの刺激や経験に対処して作られ、もし環境からの刺激がその人に対して苦痛をもたらすものであったとすれば、出来事を自分なりに解釈し、理解し、納得しようとすることによって苦痛を和らげよう、という欲求の元に行われるだろうと考えられるからです。


苦痛を和らげる方法が、苦痛を与える人に対して、抗議する、自分への接し方を改善するよう要求するという「働きかけ」ができるのであれば、あまり問題は生じません。


抗議する、自分への接し方を改善するよう要求するなどの「働きかけ」できなければ、自分の中で苦痛を和らげようとするしかなく、「出来事を自分なりに解釈し、理解し、納得しようとする」しかありません。


「(殴られたり冷たくされるのは)私が悪いからだ」とか、「みんな私に意地悪する」「人はみんな意地悪だから周りの人には気を許してはいけない」などの、あまり機能的でない信念を形作り、自分を納得させようとするかもしれません。


幼少期のように「働きかけ」て、自分のおかれている状況を改善したり環境を変える能力がなく、そのように考えるしか、自分がなぜそのような苦痛を受けるのかという疑問を納得させる方法がないならそれは合理的です。誰もそれを批判できないでしょう。


機能的でない信念、という意味は、幼少期では機能的(苦痛を和らげるため一定の効果がある)であっても、成長し自らの行為によって、抗議する、自分への接し方を改善するよう要求することができるようになっていれば、「私が悪いんだ(だから殴られても仕方ない)」とか、「みんな私に意地悪する」「人はみんな意地悪だから周りの人には気を許してはいけない」という信念は、現在のあなたにとっては機能的ではないですよね、という意味です。


人は多かれ少なかれ性格に課題を抱えている

スキーマや中核信念は、私はこういう人、他者とはこういう考え方をして行動をする人、私と他者との集合体としての外界・社会・世界とはこういうものという理解で、自らの体験を消化するときや、他者とのかかわり行動を考え行動する時に参照するものですから、だれでも持っています。


しかしながら、いじわるな人はいてもすべての人がいじわる、ということはありませんから、「みんな私に意地悪する」「人はみんな意地悪だから周りの人には気を許してはいけない」というスキーマや信念は機能的ではありません。機能的ではないとは、あなたの行動を、他者との関係で不適合なものにしてしまう、という意味です。


少し大変なのは、「みんな私に意地悪する」「人はみんな意地悪だから周りの人には気を許してはいけない」という考え方が、意識の表層に現れる自動思考(無意識のつぶやきのようなもの)であれば、比較的容易に検知できますが、自動思考よりは深奥にあるスキーマや信念であった場合は、自動思考とは別の検知のための方法が必要です。後にご説明しますが、スキーマや信念を検知するには、生育暦や現在の機能的でない(他者との関係で不適合な)行動などから「概念化」することで把握します。


スキーマや信念は、自分の体験を解釈し判断し、時に体験をいわゆる自我に統合し、または統合を拒否し(ゲシュタルト心理学では未完の仕事などと言われます)、考え行動する時など、あなたの感じ方考え方のすべてをふるい分ける「フィルター」というイメージで考えてもらうといいでしょう。

ですから、あなたが何かを感じるとき考えるときには、スキーマや中核信念の影響を受けています。


誰でも持っていますが、まったく同じではありません。

それは、各個人の体験をもとに、体験時点での個人の感じ方に基づいて、各個人が作り上げるからです。

ですから、「完全完璧なスキーマや中核信念」というものは無く、また「完全完璧なスキーマや中核信念」を想定することも無意味です。

標準型がないのですから、誰のものであれスキーマ・中核信念は多かれ少なかれ歪んでいる、言い換えれば、だれでも多かれ少なかれ性格に課題を抱えているといっていいと思っています。

その歪みを個性と言ってもいいでしょう。


性格が、「スキーマや中核信念」+「スキーマや中核信念に基づいた他者への反応」だとするならば、あなたの態度、行動をAさんは、Aさんのスキーマ・中核信念を参照して好ましく感じ、同じあなたの態度、行動をBさんは、Bさんのスキーマ・中核信念を参照してあまり好ましく感じない、ということも起こりえます。


私自身性格は、少なからず課題を抱えていると思っています。

どうやらスキーマ療法でいうところの早期不適合スキーマを温存、すなわち自分で気づかないように抑圧して生きて来たようです。


この方は互恵的な関係構築に苦労されれているのではないか、と私が感じるのは、

・多少なりとも自分の性格に問題を抱えている、と認識している私が、

・互恵的な関係構築に苦戦される方々に自分との共通点を観ているような気がして、

・この方はたぶんこう感じてこういう行動をとっていて、それをご自分でも意識せず、

・お相手にも理解されないからからかもしれない、

と感じるから、ということであるように思います。


ですから、このブログは、

・「私は性格に課題を抱えていない人」と思っている人が、

・あなたを「性格に課題を抱えている人」だと判定したり、

・ここを直しなさいとか指摘するものではなく、

・「私=性格に問題をかかえる人」が、

・「自分が抱えている性格上の課題にどう対処してゆくか」ということを考え悪戦苦闘していることが、

・お相手との互恵的な関係作りに苦戦されているかもしれない方に、多少なりとも役に立つかもしれない、

という観点からお話するものです。


ヴィパッサナー瞑想の方法論

自分が抱えているのと同じ悩みを他者にも見てしまうのは、ヴィパッサナー瞑想をしてきた結果であるように思います。


ヴィパッサナー瞑想の方法論は、まず自分の心のはたらきを観て自分の心(悩み苦しませているもの)を知り、自分の心(悩み苦しませているもの)を知ったら、その眼で他者を観てみて、ああ同じように悩み苦しみを抱えているのだな、と理解したらその理解は「法」、つまり、あなたにも他者に共通する人の心のはたらきと認知のしくみなのだ、とわかりますよね、というヴィパッサナー瞑想(マインドフルネスの源流)の方法論によります。


例えて言えば、自分が知ろうとしなかった自分、知らなかった自分の心の中に分け入って「心の探検記録」を作り、その「心の探検記録」と他者の行動を照らし合わせてみなさい、他者の行為が「心の探検記録」と合致するのであれば、それはあなたにも他者にも役立つ「心の探検記録」、つまり法則性のある規律、「法」=ダンマですよね、ということになるでしょう。


誤解しないでいただきたいのですが、ヴィパッサナー瞑想をつらい修行のようなものととらえないでください。解脱を目指す出家者であれば、修行としての厳しさはあるのかもしれませんが、私たちは出家者ではありません。


むしろ、ヴィパッサナー瞑想は、体と心が喜び安心安楽な状態を実現するために行う、と言っていいと思います。


体と心が喜び安心安楽な状態が実現されるから、嫌悪感や恐怖や不安を感じることなく、自分自身を見つめ、自分にとって効果的でない、つまり自分の役に立たない考え方と体と心の反応パターンを捨てる、ということができるようになります。


役に立たない考え方と体と心の反応パターンを捨てるということによって、自らを癒し苦悩を低減することができます。


自分の「体と心のはたらき」「認知のしくみ」を理解できる

自分を観てその目で他者を観るという方法論は、ヴィパッサナー瞑想を説いた釈迦によって、次のように説明されています。

『内に〔自分自身の〕心に関して心を観察し、また、外に〔他人の〕心に関して心を観察し、あるいは内と外〔、自分自身と他人の〕心に関して心を観察してゆくのである。』(春秋社 原始仏典第2巻 第22経「大念処経」〔〕は訳者渡辺研二さんの補足。)

阿含経の大念処経や六六経、大六処経、治意経、念身経には、釈迦が「心のはたらき」「認知のしくみ」をどのようにとらえ、どのように悩み苦しみが生じて、それを無くすにはどうしたらよいと考えたかが説かれています。

ちなみに、阿含経は、大乗仏教から小乗、つまり劣った教えと呼ばれた仏教教団が、釈迦から教えを受けた人々が釈迦の教えとして守り伝えてきた経典です。日本の仏教は大乗仏教が伝来しましたので、阿含経は重要視されてきませんでした。

マインドフルネス(mindfilness)という言葉は、イギリスのリス・ディヴィッズさんという方が、パーリ語(阿含経はパーリ語です)のサティ(sati、漢語訳「念」)を英訳する際に当てた言葉です。

その後、マインドフルネスは、注意集中であるという考えが定着し、心理療法分野で、MBSR(マインドフルネスストレス低減法)やMBCT(マインドフルネス認知療法)などが考案され、その影響は他の心理療法などにも広がっているようです。


釈迦が阿含経で説く方法論を参考にして、瞑想によって自分の心のはたらきを理解してゆくと、自分の中に悩み苦しみが生じるプロセスや原因を知ることができます。


難しいこと(小難しい概念)が書いてあるわけではなく実践論として、「こうしてみなさい」、「そうすればこうなるよ」、というスタイルで書かれており、瞑想を続けていると、「こうしてみなさい」と「そうすればこうなるよ」との間を自分で埋めることができ、ああなるほど釈迦はこういう心のはたらきやしくみをいっているのだな、と理解できます。

そして釈迦の言うことを理解することを通して、自分の「心のはたらき」「認知のしくみ」を理解してゆくことができます。

当然、釈迦の説いた「法」=「体と心のはたらき認知のしくみ」は、認知療法や信念、スキーマといった心理学やそれら概念の無い時代に、深い瞑想によって自らの体と心の観察と考察から、人の体と心のはたらき、認知のしくみについて説いたものだと考え得ています。

釈迦が瞑想により到達した「体と心のはたらきと認知のしくみ」は、認知療法、行動療法や信念、スキーマといった心理学やそれらの概念と矛盾しません。

矛盾しないのですから、認知療法やスキーマ療法に取り組むのであれば、マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)に取り組み、自分の体の感覚、心の状態を知り、認知療法やスキーマ療法の枠組みで、自分の心が落ち着かない理由、苦悩している理由を考えることも可能です。

釈迦の説く法は(私の理解では)、「体と心のはたらき認知のしくみ」、つまり今日言う「認知論」であって、森羅万象を説明するような類のものではないように思います。

また、認知論ではあるのですが、下記にご説明するように、「体と心のはたらき認知のしくみ」を自らの心の観察と考察によって理解し、自らの心に生まれる認知を知ったならば、苦しみが生まれる原因を知ることもでき、次に段階では、苦しみが生まれないようにする行為を自ら選び取り生活することも説いていますから、行為論も説いています。

釈迦の方法論を受けついだ方々は、どうも認知論では満足せず、釈迦は、この世のすべての真実を解き明かしたのだと考え、釈迦の語ったことを、釈迦の語っていないことへと「法」の適用範囲を広げた印象を持ちます。

後に引用しますが、グレゴリー・ベイトソンさんが言われるように人は、足を踏まれてもそれを人は直接体験できない、という立ち場から考えると、人は外界も他者の行為も直接体験できず、体(感覚受容器官)から受け取った情報を基に、脳内に形成されたイメージによって外界も他者の行為も把握(=認知)する、ということになり、人にとっては認知しうることがすべて、認知しうるのものはこの世に存在すると認知し、認知できないものはこの世に存在しないと認知する、ということになります。

そして私は、釈迦の説く「体と心のはたらき認知のしくみ」は、人は体と心を通して外界を認知するが、その認知方法は、事実と考えるには支障がある認知も生じる(それが苦しみであり苦しみの原因)、というものであったと理解しており、グレゴリー・ベイトソンさんの認知についての指摘、認知療法の前提となる、人は事実によって苦しむのではなく、事実によって形作られたその人の認知によって苦しむのだ、という考え方と基本的には同じものだと考えています。

そのような前提に立つと厄介な問題が出てきます。

それは、かなり自由に、実際には「ないこと」も頭の中では作り出すことができて、それを事実ととらえて物事を考える、ということです。


釈迦のとらえた人間観=認知論

釈迦は、人は心地よいことに魅了され執着する性向があるから、ありえないことや実現できなことも心の中で作り出して、それを自分だと思って気持ちよいと感じて執着し、逆に心地よくないことに怒りを覚えてしまい、そのような体と心のはたらき認知のしくみに気がつかないから、自らを苦しめているのではないですか?と言っているように感じます。

大念処経や六六経、大六処経、治意経、念身経を読み、ヴィパッサナー瞑想を行っていると、釈迦は以下のようなことを言っているのではないか、という思いが生まれます。


・人とは認知する機能であり、体は眼や耳など認知を成立させる要素であり、なおかつ認知(感受)の対象でもある

・人とは認知する機能であって、存在するものではない

・生きるとは、認知し続けることであり、認知は休むことなく行われている

・認知する器官、感覚、認知した対象、心に生じた想いや欲求を「わたし」であると考えているがそれはわたしでもなくわたしのものでもない

・わたしではなくわたしのものでもない認知する器官、認知する感覚、認知した対象、心に生じた想いや欲求を心地よいと感じ執着する性向がある

・人は心地よいと感じることが獲得できかったり不快なもののに遭遇すると怒り、うらむ感情が発生し人を苦しめる(体に苦受が発生する)

・認知する機能はコントロールできず、今ここに無いこと、不可能なことも心の中では生まれつづける、そして人はそのことを意識しない

・コントロールできず意識もしないから、悩み苦しみをもたらす認知も生じる(認知療法の非機能的な自動思考に類似するとらえ方)

・自分の体の動きを注意して行い集中力を養い、体が感じていること、心に生じたことの観察することにより

(釈迦の説く七つの段階(七覚支)の第一段階、ここでの出来事にフォーカスするのがマインドフルネス)

・観察への集中によって欲求(こうしたい)と欲求に基づく意図(こうしよう)を止滅させると、好き嫌いや恐怖心を抑制できる

(欲求や意図の生成を止めることによって脳の報酬系、偏桃体への刺激を抑制するようです)

(「好き嫌い」「怖い」とい感情が無くなれば「わたし」という意識は希薄化します。)

・好き嫌いや恐怖心がなくなると、喜びと安らぎが生まれ、喜びと安らぎが生まれるとさらに集中力が高まる

・高まった集中力で観察すると、好悪や恐怖を感じることなく悩み苦しみをもたらす自分の認知を知ることができる(スキーマレベルでの理解)

・どのようにして悩み苦しみをもたらす認知が生まれるのかは自分で知るしかない(他者は自分の代わりにやってくれませんから)

・悩み苦しみの正体(原因と誘因)がわかったら、悩み苦しみの原因を断てば悩み苦しみはなくなることを理解できる

(四聖諦=釈迦が説いた苦しみを無くす4ステップ、1ステップは、悩み苦しみを正しく知ることなので、少しつらくなるかもしれません)

・あなたが行った行為はこの世であなた返ってくるのだから、悩み苦しみを生む誘因を断つ行為を選択すれば、あなたは悩み苦しまなくてすみます

(「心のはたらき認知のしくみ」の活用による苦しみの把握から苦しみを無くす実践論=行為論の段階)


釈迦の方法論は、最終的には自らの意志によって行為を選択することに行き着きます。

これは行動療法と同様の考え方だと言えるように感じます。


出来事による刺激を受けて発生した自らの認知が悩み苦しみをもたらす、という考え方は認知療法類似の考え方です。

釈迦が説いた「法」=ダンマは、人の「体と心のはたらき認知のしくみ」であり、釈迦の説いた「法」を頼りに弟子たち(そして現在の私たち)は、自らの心を探求し、悩み苦しみを生み出す原因、プロセスを識り、悩み苦しみをなくすのですから、法は、釈迦が弟子たちに行った心理教育です。

悩み苦しみをもたらす認知がどのように生まれるのかを知ることは、スキーマレベルでの気づきをもたらすでしょう。

このように考えるがゆえに、釈迦が創始したとされるヴィパッサナー瞑想(マインドフルネスの源流に一つ)は、マインドフルネスの源流とされますが、ヴィパッサナー瞑想それ自体が心理療法であるように感じます。

自らの体と心を癒すために、体の動き、体の感受(感覚)を観察し、集中力と観察力を養い、高度なリラクセーション状態(愛着や嫌悪、恐怖の無い状態)で心を自由に観察し考察し、自らの(自らを苦しくするという意味での不適合)スキーマを識り手放すことを可能にします。


「認知する器官、感覚、認知した対象、心に生じた想いや欲求を「わたし」であると考えているが、それはわたしでもなくわたしのものでもない」

⇒わたしでもなく、わたしのものでもないと気付き、それが体験的に理解できれば、自分の他者への反応パターンを「手放すことへの抵抗」はないことになります。


「高まった集中力で観察すると、好悪や恐怖を感じることなく悩み苦しみをもたらす自分の認知を知ることができる」

⇒それをいいとか悪いとか考えず、恐怖も感じないのですから自由に知り考えることができます(仏教でいう如実知見)


という点は、ヴィパッサナー瞑想がスキーマの一部除去、修正に対して持つ優れた点であると感じます。

ヴィパッサナー瞑想はスキーマ療法類似の効果があると感じています。


ヴィパッサナー瞑想で到達する「認知」

ヴィパッサナー瞑想は、心の集中から始めて、すこしづつ上記のような階段を上ってゆくようなものだと思います。

自分の経験から言えば、一段上るのにすごく時間がかかることもありますし、時には一気に数段登れることもあるようです。

また、先に「性格」=あなたそのものではない、と言いましたが、釈迦は、阿含経の六六経の中で、眼や耳などの感覚する器官と感覚する機能、生じた感覚(感受)と、見たものや聞いたものなど認知したこと、それらに基づいて生じた欲求を、わたしのものではない、わたしではない、わたしの自我ではない、とみなすことの必要を説いています(春秋社 原始仏典第7巻 第148経「六六経」)。

ここでの自我とは、現在の自我とは異なり、釈迦在世時のインドで支配的であったウパニシャッド哲学による、永遠不滅の自己であるアートマンを指しているようですが、ここでの「わたし」は、現在の自我概念にも通じると思います。

よく「無我」と言われますが、それはわたしでは無い、と解釈した方が良いと思います。

わたしたちがわたしだと思っているもの、それはわたしではなく、わたしのものでもない、つまり、それはわたしではない=「非我」と解釈した方が適切であるように思います。「非我」と説明される方もいらっしゃいます。

釈迦は、自己は存在するとも存在しないとも言わなかったようです。

『アーナンダよ、私が遍歴業者ヴァッチャゴッタに「自己は存在するのか」と問われたときに、もし私が「自己は存在する」と答えるならば、アーナンダよ、これはかの永遠を説く行者・祭官の側になってしまう。またアーナンダよ、遍歴行者ヴァッチャゴッタに「自己は存在しないのか」と問われたときに、もし私が「自己は存在しない」と答えるならば、これは、かの断滅を説く行者・祭官らの側になってしまう。(馬場紀寿先生「初期仏教ブッダの思想をたどる」 岩波新書1735)。


世界は「自分の認知」に収れんされる

少し話が変わりますが、釈迦は、「一切」として以下のように説いています。

『比丘たちよ、なにおか一切となすのであろうか。それは眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。比丘たちよ、これらを名づけて一切というのである。』(筑摩書房 阿含経典第三巻 増谷文雄先生)


大念処経(春秋社 原始仏典第二巻)ではこのように説いています。

『身体のなかで生起してくる現象を観察し、また、身体のなかで消滅する現象を観察し、また身体のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの〔増えていく〕程度にたいし、自覚の〔増えていく〕程度にたいすると同じ程度に、『ただ身体のみが存在する』という念いが、かれには表れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、何ものにも執着しないのである。』


『感受のなかで生起してくる現象を観察し、また、感受のなかで消滅する現象を観察し、また感受のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの〔増えていく〕程度にたいし、自覚の〔増えていく〕程度にたいすると同じ程度に、『ただ感受のみが存在する』という念いが、かれには表れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、何ものにも執着しないのである。』


『心のなかで生起してくる現象を観察し、また、心のなかで消滅する現象を観察し、また心のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの〔増えていく〕程度にたいし、自覚の〔増えていく〕程度にたいすると同じ程度に、『ただ心のみが存在する』という念いが、かれには表れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、何ものにも執着しないのである。』


『もろもろの事象のなかで生起してくる現象を観察し、また、もろもろの事象のなかで消滅する現象を観察し、またもろもろの事象のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの〔増えていく〕程度にたいし、自覚の〔増えていく〕程度にたいすると同じ程度に、『ただ事象のみが存在する』という念いが、かれには表れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、何ものにも執着しないのである。』


私は上記「もろもろの事象のなかで生起してくる現象」とは、「身体のなかで生起してくる現象」「感受のなかで生起してくる現象」「心のなかで生起してくる現象」と、「身体のなかで生起してくる現象」「感受のなかで生起してくる現象」「心のなかで生起してくる現象」を引き起こす対外世界(自分の認知の対象)の把握、ということであると考えています。


「ただ身体のみが存在する」「ただ感受のみが存在する」「ただ心のみが存在する」という認知を通じて「ただ事象のみが存在する」と認知するに至るのであれば、それは、身体、感受、心の存在を前提して、事象が存在すると宣言していることになりますから、事象は身体、感受、心(思うこと考えること)のはたらき、つまり「体と心のはたらき、認知のしくみ」ということになると思います。


いやそうではなく、釈迦はこの世の出来事全てを理解したのであるから「事象」は、「この世のすべての出来事、森羅万象」であると主張するとするならば、この世のすべての出来事は、「ただ身体のみが存在する」という認識(考えること)による身体と、「ただ感受のみが存在する」という認識による感受と、「ただ心のみが存在する」という認識による心のはたらきによって把握されると考えるのが妥当ですから、「この世のすべての出来事」は身体、感受、心が把握したこと、ということになります。


それゆえ私は、釈迦が説いた「法」は、「人の体と心のはたらき、認知のしくみ」つまり現在の認知論アプローチであると考えています。


釈迦は、眼や耳などの感覚する器官と感覚する機能、生じた感覚(感受)と、見たものや聞いたものなど認知したこと、それらに基づいて生じた欲求を一切とする一方で、わたしのものではない、わたしではない、わたしの自我ではない、としたうえで、認知する機能の担い手としてのわたしは否定しようがなく、苦しみの根源を知った後には、苦しみを生み出さない行為を自らの意志によって選択し実践することを説いていますから、意思によって行為を選択するという機能の担い手としてのわたしは存在すると考えるほうが整合性があります。それゆえ釈迦は、わたしをあるともいわず、無い、とも言わなかったのだろうと感じています。


見方を少し変えれば、人は、認知する機能、意思により選択し行為する機能であるのだから、ヴァッチャゴッタの「自己」が存在するかどうかという質問には(自己とは機能なのだから、物質のような存在を前提にした質問には)、答えないことが最も適切、ということであったかもしれません。

釈迦の方法論を心理療法と考え実践するのであれば、仏教の理解に従う必要はありません。

私が仏教徒でなく、仏教徒になれない理由です。


「わたし」について、このような見解もあります。

『人は状況に応じて異なる行動をとり異なる感情を持つが、それら異なる自分の姿を通じて、なおかつ一貫して存在する「わたし」を仮定するようになるのである。考えてみると、「わたし」とはひとつの虚構、おそくらは人類が手にした最大の虚構であるともいえる。』(大山泰宏先生、改定新版人格心理学 NHK出版)。


『わたしのものではない』というのは、自分でコントロール(意図)することなく生じるから「わたしのものではない」し、「わたしのものではない」のだから、自分だと思っている自分で作ったもの(経験により虚構としての「わたし」として構築されたもの、そこには「識」「スキーマ」などが構築要素になる)に執着して苦しむなら、それを手放すことに抵抗する理由はないではないか、というふうに釈迦は言われているように感じます。


現代でも、多くの人は中核信念やスキーマ、早期決断や禁止令と言った概念は持ち合わせておらず、それらが自分の認知に影響するという理解はないでしょう。通常自分ではこれらに気付くことはできません。

例えば飲み会に誘われなかったという出来事をどう認知するかは、中核信念やスキーマ、早期決断や禁止令といった概念で説明される「心のはたらき」に影響されるでしょう。たとえば誘われなかった方が「存在してはいけない」という禁止令を持っていたとすれば、誘われなかった方は「存在してはいけない」という禁止令に基づく認知(私なんかいないほうがいいんだなど)を形成して、さらに「存在してはいけない」という禁止令を強化してしまうことになります。さらに苦痛なことは無かったことにする、というコーピング(対処策)を使って気付かない、考えないようにして対処せざるを得ないでしょう。

禁止令に限らず中核信念やスキーマは、幼少期の自分が感じた特定の苦痛(苦痛を感じる体験)を和らげるために、幼少期の自分が受けた特定の苦痛を理解もしくは解釈して、自分を納得させるために作り出したものと考えてよいと思います。

極端な例ですが、虐待を受け続けていれば、子どもは「自分は悪い存在なんだ、自分はいない方がいいんだ」と考えて、虐待されることに自分なりの説明をつくりだし、それによって納得して虐待に耐えようとする可能性は十分にあります。

幼い子供にとっては、自分より圧倒的に力のある存在(親や養育者)に対抗する力はありませんから、「自分が受けた特定の苦痛を理解もしくは解釈して、自分を納得させる」ことでしか自分を慰めることができません。

成長して、自分が親や養育者に対抗する力を得たならば、親を攻撃するようになる可能性も生じるでしょう。憎悪は攻撃ととらえてよいでしょう。

しかし、親を攻撃しても本人が「自分は悪い存在なんだ、自分はいない方がいいんだ」という信念もしくは「存在してはいけない」という禁止令に気付き、無力化しない限り、本人の苦しみは続くことになります。親や養育者に対する攻撃は、木に縁りて魚を求む、状態です。

求不得苦の文脈で理解してもよいように思います。

親を攻撃しても、「自分は悪い存在なんだ、自分はいない方がいいんだ」という信念もしくは「存在してはいけない」という禁止令がもたらす苦しみはなくなりませんから、苦しみを無くす効果は得られません。

ですから深刻なのは、「自分は悪い存在なんだ、自分はいない方がいいんだ」という信念や自分自身が「存在してはいけない」という禁止令をもっている、ということを意識していないことです。

「自分は悪い存在なんだ、自分はいない方がいいんだ」という信念や「存在してはいけない」という禁止令をもっている、ということを意識していないのであれば、その信念や禁止令が、自分の外界の理解に反映され自らを苦しめ続けることも当然意識できません。

この場合の苦しみは、いつもソワソワしていて安らぐことがない、満足した感覚がない、私はここにいては良くないのではないか、という感覚などを感じることが手掛かりになります。


人は自分の「認知」を把握していない

釈迦が、眼や耳などの感覚する器官と感覚する機能、生じた感覚(感受)と、見たものや聞いたものなど認知したこと、それらに基づいて生じた欲求を、わたしのものではない、わたしではない、わたしの自我ではないと捉えたのは、中核信念や禁止令が自分の欲求を形成するにもかかわらず、どのようにしてそのような欲求が生まれるのか、あなたは把握できていないでしょ(釈迦は当然把握できるようになったのでしょう。釈迦の説く欲や執着がそれを示していると考えています。)、把握できていないのだから、それをコントロールすることもできないよね(その状態を「痴」というようです。)、ということを言っているように思います。

そのように考えると四聖諦は、スッキリ理解できます。

四聖諦は、概ね(その通りにすすむわけではないこともあるという意味で概ねといっています)、初禅で現れる粗い考察、微細な考察で心の随観を行い①②③の理解に至り、④を行為として実践することで苦しみはなくなるという、釈迦が説いた方法論です。④においては集中力を用いて、苦しみの原因と誘因を捨離(遠離=自分から放)し、それに代わって自分に好ましい性向を定着させるという方策を取るようです。

「マインドフルネス」はパーリ語の「sati」の英訳で、一般に注意集中とされるようですが、日本語(漢訳)では「念」をあて、意識を集中して自分の中に好ましい性向を作り出す、ということを指すようです。春秋社の「原始仏典第2巻第22経大念処経」の註では「心を一点にとどめて決意することを「念」(sati.Skt.smrti)という。」とされています(rは下に「.」が付きます)。

「集中力を用いて、苦しみの原因と誘因を捨離(遠離=自分から放)し、それに代わって自分に好ましい性向を定着させる」という局面はまさしく「念」です。

苦しみを特定し早期不適合スキーマが苦しみ(自分、他者への不適応)の原因であれば、早期不適合スキーマを遠離します。早期決断が苦しみ(自己、他者への不適応)の原因であれば、早期決断を遠離します。禁止令が苦しみ(自己、他者への不適応)の原因であれば禁止令を遠離します。

①これが私の苦しみだと特定できれば 

②その苦しみが起こること観て原因と誘因が特定できる

③原因が特定出来たら原因と誘因を除去すれば苦しみをなくすることができる

④苦しみの原因と誘因を遠離(捨てる)することを行い、苦しみを遠離する


さらに、釈迦は、生じた感覚(感受)には、「楽の感受」(気持ちよいと感じる)、「苦の感受」(不快に感じる)、「苦でも楽でもない感受」があり、「楽の感受」をうけているときに喜び、歓喜し、それに執着し続けるなら、「執着する性向」が潜在し、「苦の感受」をうけているときに、愁い、悲しみ、嘆き、泣き、迷妄におちいるなら、「怒りうらむ性向」が潜在し、「苦でも楽でもない感受」をうけているときに、その感受の生起と滅没、楽しさと危険性、その感受からの遠離、それらをあるがままに知らないなら「愚かさという性向」が潜在する、と説いています(前掲春秋社 原始仏典第7巻 第148経「六六経」)。

人には上記のような性向があるがゆえに、「楽の感受」も「苦の感受」、「苦でも楽でもない感受」も「わたしのものではない」と認識することによって、喜びや歓喜、愁いや悲しみに反応してそれに執着することを止め、苦でも楽でもない感受の生起と滅没を観察してゆけば、観察力が向上し、「執着する性向」、「怒りうらむ性向」「愚かさという性向」が潜在することを止めることができ、悩み苦しみをありのままに知ることができますよね、ということであると思います。

このように考えると、想起されるのは、マインドフルネス認知療法のプログラムが到達したいと考える地点、ゴールとの類似性です。

気分が低下した時に、気分を下げる思考が生まれ「反芻」が継続すれば、ますます気分が低下し「怒りうらむ性向」が潜在する、ことになるでしょう。

マインドフルネス認知療法では、気分の低下➡気分を低下させる思考の生起➡気分を低下させる思考の反芻➡さらなる気分の低下、活動への活力の喪失➡うつの再発、というサイクルを断つことを目指して、思考している自分を冷静な目で見る態度を養い、「思考は真実ではない」と考える態度を養うことで、気分を低下させる反芻の影響を和らげることを目的としています。

「思考している自分を冷静な目で見る態度」は、「体と心は認知を成立させる要素でもあり認知(感受)の対象でもある」ということを、体や呼吸へ注意を向け、自分の心に生じた思考や感情を注意の対象とするマインドフルネスによって体験的に理解するならば、比較的容易に到達できるでしょう。

「自分のものだと思っているが実はしっかりと観察したことがない」体の動きや感受を観察して体への感受性を養うことが、「自分のものだと思っているが実はしっかりと観察したことがない」心(思考、感情)の観察能力の向上へととつながるのでしょう。

また、観察を通して、観察する主体と観察される対象が別々ではなく、人は、観察する主体と観察される対象が同居している、ということを知ることにもなるでしょう。

ちなみに、マインドフルネス認知療法原著第二版(北大路書房)には、以下のような記述があります。

『暗黙の情動の手がかりについての研究によって、私たちはほとんどの時間で、快適か、不快か、どちらでもないかに基づいて、入ってきた情報に反応していることが解っている。」

「楽の感受」「苦の感受」「苦でも楽でもない感受」と、それらについて注意深く観察することなく心に生じた感情のままに反応すると、「執着する性向」「怒りうらむ性向」「愚かさという性向」が潜在する、という釈迦の観察は、2600年前に上記の研究やマインドフルネス認知療法の方法論を先取りしているように思います。

また、K.M.B.ブリッジェスさんという方が、発達段階と情緒の分化について、以下のようにとらえているそうです。

『一般に、新生児の情緒は未分化の興奮にすぎませんが、生後三か月頃になると快・不快の情緒がかなりはっきり分化してくるといわれます。(中略)一般に不快の情緒の方が早く分化してきます。ブリッジェスによると、情緒はだいたい二歳頃までの著しい分化をとげ、恐れ、怒り、嫉妬、快、不快、喜びなど、基本的な情緒が出そろい、さらに分化を重ねて、およそ五歳頃に成人に見られる情緒がひととおりでそろうといわれいます。』(杉田峰康 「新しい交流分析の実際」創元社)。

恐れ、怒り、嫉妬は不快から分化します。不快な感情、嫌いという感情は、多分に恐れ、怒り、嫉妬を内に含んでいるかもしれないと考えてみてください。そうすれば自分に悩み苦しみをもたらす思考を理解しやすくなります。

それをすることができないのは「嫌だと感じる」からではなく「恐怖がある」からかもしれません。心に思い浮かんだ言いたい一言を飲み込んでしまうのは、それを言ったら周囲の人から嫌われ仲間外れにされるかもしれないという「恐怖」が一瞬にして生じたからかもしれません。

「楽の感受」は快と快から分化した情緒からもたらされる感受、「苦の感受」は不快と不快から分岐した情緒からもたらされる感受、「苦でも楽でもない感受」を快も不快もたらさない興奮によって冷静に判断できない感受と理解しても差し支えないと思います。

また、五蓋(ごがい、5つのフタ)という、瞑想による平静に至ることを妨げる5つの要素のなかに、「掉挙(じょうこ)」というものがあり、心が落ち着かずソワソワすること、ざわつくこととされていますが、これは快でもなく不快でもなく、心が興奮して落ち着かない状態ととらえると、ブリッジェスさんの論と整合的です。無理に整合させる必要もありませんが、人の感情、情緒はつまるところ3種類で考えることができる、ということはいえるかもしれません。


釈迦の方法論は、自分で自分を癒す心理療法

念のため申し上げておきます。私は仏教徒ではありませんし、上記のような理解を仏教理解としてご紹介するものではありません。

ましてや宗教の勧誘や布教の意図はありません。


私は、釈迦の方法論は、釈迦が自らの悩み苦しみを無くす試みにより到達した、自分で自分を癒す心理療法であると考えています。


悩み苦しみを知り悩み苦しみが生まれる原因をしり、その原因を取り除くという心理療法を実践しつくした先にあったのが、喜びと楽の感覚も手放した絶対的な平安のころろの状態である解脱、悟りであった、ということではなかったかと思います。

そのように考えるがゆえに、働き生計を維持し家庭を持っている(これから持ちたい)方が解脱を目指す必要は毛頭なく、自分に早期不適合スキーマのような(他者との互恵的な関係を築くことに苦戦することなど)、生きづらさを生み出す原因があるのであれば、それを無くす方法として取り組めばよいと思っています。

不安も怒りも恐怖も執着もない絶対的な平安のころろの状態に至った人が、絶対的な平安のころろを妨げることとなるかもしれない状況に身を投じるでしょうか?意欲的に労働するでしょうか?結婚したいと思うでしょうか?

頑張って業績あげて昇進するぞ、給料上げて豊かな生活をするぞ、家族を幸せにするぞということに意欲的になるでしょうか?

悟りとはそういう欲求や意図を捨てた先にあるもののように思いますので、私たちは目指す必要のないものだと思っています。

悟りは出家者にとっては至高の価値、究極の到達点かもしれませんが、私たちが悟りを至高の価値、究極の到達点と考える必要はないと思います。

例えて言えば、出家していない人が解脱を目指すのは、医学部に入学しておらず医学の知識を体系的に勉強していな人が、医師国家試験合格を目指すようなものだと思います。

医師になるために必要な知識も技術も身に付けていない人が、医師国家試験合格を目指すのは無謀、というより明らかに愚かなことです。

目的地に到達するには、目的地に到達するためのルートを通らなければなりません。適合的なルートを通らなければ目的地には到達できません。

ヴィパッサナー瞑想を修行として行ってきたテーラワーダ仏教のお坊さんは、ヴィパッサナー瞑想を解脱を目的として行うべき、いう主張をされるかもしれませんが、解脱を目的地として出家した人の方法論を、出家していない人に要求するのは、無理がありますから、仏教徒でない私は、ヴィパッサナー瞑想を、解脱を目的として行うべきとは考えません。

もちろん、医学部に入学していなくても医師国家試験合格を目指す、出家していなくても解脱を目指す、という自由はあなたに留保されています。


「性格に課題を抱えている人」とは「つらい思いをした人」

「性格に課題をかかえている人」と思われる人は「悩みを抱えている人」であり、悩みを抱えているのは、「過去に強烈なつらい思いをした」ということの結果であると考えています。

「過去に強烈なつらい思い」をして、それが理不尽であって、自らの力で対処し改善できなかったとすれば、「過去に強烈なつらい思い」を、私が悪いのだ、と解釈し自分を納得させようとするか、理不尽なことを強いた人や環境をうらみ、他者に対して心を許さないようになるかの、どちらかの道を選択するでしょう。

誰も積極的に問題を抱え、悩みたい人はいないでしょうから、このように考えざるを得ません。


「つらい思いをした」のであれば「性格に問題を抱える」のは自然なこと

人は成長の過程で自己、他者、世界についての理解=信念(スキーマ)を形成して、他者を解釈して自分の身を処して他者に対処し、自分の生きている世界で起こる出来事を解釈しようとします。

過去に強烈なつらい思いをすれば、なぜそうなったのかという解釈を自己、他者、世界についての理解=信念(スキーマ)に織り込むでしょう。

めぐり合わせや偶然でそうなった、とは幼いこどもは思わないでしょうから、自分を攻撃(例えば親からの懲罰や叱正、他者からの暴力や威圧)した他者が悪いと思うか、それとも自分が悪いから攻撃を受けたのだと解釈することになるでしょう。

そのスキーマを形成した時点では、状況を自ら改善できない無力な自分が、幼い思考力判断力で状況を解釈し、親からの懲罰や叱正、他者からの暴力や威圧による恐怖に対処しようとして形成されたものがスキーマだと考えられます。

その観点から言えば、早期不適合スキーマは環境に、幼い子供が精一杯適応するための方策と言えます。

両親に養われている幼少期においては、両親が絶対的な力を持っていますから、親に怒りを感じても、親の庇護をうけるためそれを抑圧して親に受け入れられる道を選択し、自分が悪かったのだ、という解釈をするかもしれません。私の場合はそうでした。

注意していただきたいのですが、親が悪い、周囲の大人が悪いと言っているのではありません。

親子の関係や周囲の人々との関係の中で、子供は親や周囲の人が意図していない感情を形成し、それを理解する(こうだからこうなった)ためにスキーマを形成するのですが、それが自分が悪いから、ということであったり、お父さんお母さんは私のことが嫌いなんだ、それは私が・・・だから、ということになることもあり得る、ということです。

交流分析でいうところの、私のリトルプロフェッサー(子どもの英知、と理解していください)は、この人たちのすることは(自分から見て)少しおかしいと感じ、怒りを感じていたようです(それゆえ高校生のときに「お前たちを信用していない」と言ったことがあります。)。それゆえ両親と同居している間は、一生懸命怒りを抑え、両親の元を離れたとたん怒りと憎悪が私を支配するようになりました。

そしてその解釈は、親だけでなく他者との関係の前提となる他者理解にも影響を与えました。両親に対して形作られた信念(スキーマ)、不信感が両親を超えて他者に対して適用されれば、効果的で互恵的な人間関係を築くことを阻害するでしょう。

問題は、幼少期に『状況を自ら改善できない無力な自分が、状況を解釈しこの後の行動を環境適応的なものにしようとして作り出した』スキーマが、自己の成長に伴い、理解力判断力が向上し、自らの裁量で行動を決定することができるようになっても、『状況を自ら改善できない無力な自分が、状況を解釈しこの後の行動を環境適応的なものにしようとして作り出した』スキーマが維持されてしまった場合です。

当然、周囲との関係に支障をきたします。

アルバート・エリスさんという心理学者・心理療法家がいます。

一般的にはあまり有名な方ではありませんが、1982年のアメリカの臨床心理学者へのアンケートでは、カール・ロジャーズについで、2番目に心理学に大きな影響及ぼした心理学者とされています。このアンケートではフロイドが3位であったことからも、1982年当時アルバート・エリスさんが心理学に大きな影響を与えたと認識されていたようです。

現在の認知行動療法につながる認知療法を創始したアーロン・ベックさんとともに、心理療法において、人の認知に焦点をあてる認知的アプローチを確立した人です。

私はアルバート・エリスさんの「神経症者とつきあうには」(国分康孝監訳、川島書店 1984年第1刷)を、書店で見つけ、「母親は神経症者であたかもしれない、母親との付き合い方について何か役に立つかもしれない」と思って読んでみみました。私は、同居中は母に恐怖と嫌悪(怒り)を抱きつつそれらを抑圧し、同居解消後、母は私の憎悪と怒りの対象となっていました。

あらためてページをめくってみると、神経症者についての、こんな記述があります(抜粋です)。

現在では神経症という診断名はなく、より細分化されているようです。

『〈神経症者〉の行動は、しばしば不決断や躊躇や疑念をともなう。彼らは何かをしたくても、自分の目や人の思惑を気にして、失敗を恐れる。』

『事実、全ての〈神経症者〉は、何かをわけもなく恐れている。(中略)なによりも、彼らが恐れているのは、人がどう思っているかである。たとえば、人に愛してもらえないとか、自分を認めてもらえないという恐れがある。』

『多くの〈神経症者〉の行動には、敵意や恨みがともないがちである。自分自身も憎むけど、彼らは他人をも憎みがちである。世の中は自分を不公平に扱っていると感じているので、それならこちらも同様に、仕返ししなければならないと思っている。概して自分も不合理な行動によって、欲求不満になっているにもかかわらず、社会や世の中の人が欲求不満の源泉だと思い込んで、攻撃性を向けるのである。』

全くその通り、という方は少ないでしょうが、少しはそういう傾向あるかもしれない、という方はいらっしゃるでしょう。

私は、上の3つは少なからずあります。

自分(私も含めて)の中に、上記のような傾向が(多かれすくなかれ)あれば、他者と効果的で互恵的な関係を築くには多少の障害を抱えることになるでしょう。

通常人は、自分の性格に問題があるとは思いたくない(周囲には自分を良く見せたほうが、他者との良好な関係が築けて安心できるから)でしょうから、自らの性格に問題があるとは思いませんし、思いたくありません。

人は自分に心地よいことを好むので、心地よい思考を選択します。自分に問題があると考えると苦痛なのでそうは考えたくないのです。

自分が恐怖に感じたことや嫌悪を感じた体験は不愉快極まりないことなので、できるだけ思い出さないようにしますから、それらの体験の自分の解釈やそれらの体験を想起させるであろうと予測する行動は抑制し、そのことが返って不適切なコーピング(対処方法≒行動)となることもあります。

そうなると、あなたの行動は、他者に違和感を与えることになる(他者が、あなたはこのように反応するだろう(そうするのが当然という考えから)しという行動をあなたが取らなかったら、周囲の方は違和感を抱く)かもしれませんが、あなたは自分の行動が他者に違和感を与えているとは思わないかもしれません。

結果、あなたは、誤解を受けたり行き違いが生じたりして、時々落ち込むことや嫌な気分になることはあっても、社会的には支障なく生活できているから、性格に課題があるなどは思うことなく、ときどき少し辛い気持ちになるけれども、大きな問題とは考えていない、ということになるのだと思います。


あなたの「つらい思い」は他者には理解できない

その苦しさは、あなたのものであり、他者には理解できません。

私は、早期不適後スキーマとして、漠然とした恐怖・不安がありその恐怖不安は、他者に対する無力感無能感(防御できない、対抗できない)、他者に対する無力感無能感から自分が望むことはできず、望まないことをしなければならない、こんな人生は嫌だという厭世観、厭世観から、死ねばそんな人生を終わりできるという希死念慮を抱いているようです。これはごく幼少期の他者、つまり両親(特に母)との関係での中で自分、他者、人生ついて、自分が作り出した理解もしくは解釈であり、自分が作り出した理解もしくは解釈を無意識のうちに参照して、他者との関係に反応し、他者に対応しています。交流分析の理論から言えば、早期決断、人生脚本と理解されるでしょう。


私に希死念慮があると言っても、両親には理解できないでしょう。理解したくないという欲求が先に立つでしょう。

私に希死念慮があると言っても、知人友人は信じないし理解しようとしないでしょう。

苦しみとは、人知れず自分の中で苦しみの原因が維持されるがゆえ、苦しみも維持されているものです。


そして人に理解してもらえば消えてなくなるという性格のもでもありません。

私を嫌っている(と私が思う)人、私に嫌がらせをする(と私が思う)人に、私の気持ちを分かってもらって、その人が私を嫌うことを止め、嫌がらせをすることを止めてくれれば一件落着です。

しかし、私を嫌っているわけでもなく、私に嫌がらせをしているわけでもないにもかかわらず、私の心の信念やスキーマが、外界の出来事をとらえて、『私を嫌っている(と私が思う)』、私に嫌がらせをする(と私が思う)』ことを作り出しているとすれば、『(と私が思う)』ことを何とかしないと性格の課題は解決しません。

つまりあなたのお悩みは解決しません。


希死念慮に気付いた時に、ロジャーズ派のカウンセリングを受けたことがあります。強い希死念慮により自死または他傷の恐れがある等の場合は警察への通報による保護や医師の受診をするめることがカウンセラーの倫理上求められますが、私の場合は自傷他傷の恐れがないと判断されたのでしょう、そのため当然通報も継続カウンセリングの勧めもなく、結果として私には何も得るものがありませんでした。

つまり、話は聞くけど積極的に対処したくない(希死念慮ですからかなり重い事案でありカウンセリングの対象ではあるでしょうが)、現状では自傷他傷のおそれはないが、面接を継続して悪化して自殺に至った場合、カウンセラーの責任問題になりかねないから面接を継続したくない、ということかもしれないと理解しました。

私の話を、カウンセリングを職業とするものとして理解はしても、希死念慮を感じたことのない人(それはそれで幸せなことです)には、希死念慮の生じるメカニズムは理解できないでしょうから、カウンセリングの見立ても難しかったのかもしれません。

逆に言えば、希死念慮を自分の中に観るということは、相応に瞑想の効果が出ている、ということです。自分で過去に作り出して、それを捨離、遠離して(捨てて)いないのですから、「ない」のではなく、心の奥底にあって気付かない、見ないようにしているだけだからです。

事実、私が希死念慮を観たのは、疲労に加え、飲酒と喫煙後約5時間程度後のアルコールとニコチンが抜け始めた状態での気分の下降状態(一時的なうつ状態です)の中で、かなり嫌な気分になったので良いチャンスだからヴィパッサナー瞑想で観てみたところ、自分には幼少期に経験した「もういやだ、消えてなくなりたい」という体験が、アドラーの言うところの「当てつけ自殺」を想像して自分を慰めていたことへとつながり、希死念慮が明確に認識されないまま(死にたいという希望があることは怖いことですから見ないようにしてきたのでしょう)、維持されてきたのだと一気に理解できました。


「抱えている性格上の問題」を手放すのはつらいこと

ジェフリー・ヤングさんらは、「スキーマ療法 パーソナリティの問題に対する統合的認知行動療法アプローチ(金剛出版)」の中で、つぎのように言っています。

『彼/彼女らの自滅的なパターンは、あまりにも「自分であることそのもの」なので、それを変えるということ自体、想像することが難しいのだろう。性格上の問題は患者のアイデンティティの中核にあり、したがって性格上の問題を変えようとすることは、自分のアイデンティティを放棄するのに等しい。つまり患者にとっては自分が変わるとは、自分が死ぬこと、少なくとも自分の一部を殺すことでもある。そこでセラピストが治療を通じて患者のパターンを変えようとしても、患者は頑なに、そして反射的に、そしてときには攻撃的に、自らのアイデンティティや世界観に固執しようとする。』

これを引用したのは、まさしく自分がこのようであったからです。

ここで生じるのは感情的な抵抗です。それゆえスキーマ療法は「感情に焦点化した技法を用いること」(前掲書)も強調しています。

ヴィパッサナー瞑想では、初禅の段階に至ると、好悪や恐怖の感情を離れて尋と伺という思考によって、自分の心の状態を観ることができますから、心が平穏にならない原因を観て考察してゆけば、必然的に早期不適合スキーマを形成した出来事やそれについての自分の解釈、過去に体験した心理的危機の体験等にたどり着きます。

初禅の段階では、好悪の感情にもとづく善悪判断や恐怖の感情が生起することなく、早期不適合スキーマや心理的危機の体験を観ることができますから、早期不適合スキーマや心理的危機の記憶によって、自分にどのような思考や感情が生起し悩み苦しみをもたらすのかというメカニズムを、好悪の感情や恐怖を感じることなく正体を知り、その原因と悩み苦しみが生起する誘因を遠離する(自分がそれにしがみついていることを止める)ことで、心の平穏を得ることができるだろう、という知見に至り、それを実践することとなります。


そもそもヴィパッサナー瞑想は、自らが作り出し自らを苦しめる認知、価値の体系(心地よい=良いこと、したいこと欲しいこと、不快、恐怖=良くないこと、したくないこと)を無力化することが、ありのままに物事見て自分の苦しみの源泉を知ること=これらのことを如実知見によって実現することとするならば、悟りとは、自らの、自らを苦しめる認知、価値の体系の解体にほかなりません。


すでにご紹介しましが、(私が考える)釈迦の認知論(体と心のはたらき認知のしくみ)は、以下のようなものですから、ヴィパッサナー瞑想によって、釈迦の認知論の理解に至れば、ヤングさんらが言う

『性格上の問題を変えようとすることは、自分のアイデンティティを放棄するのに等しい。つまり患者にとっては自分が変わるとは、自分が死ぬこと、少なくとも自分の一部を殺すことでもある。』

『反射的に、そしてときには攻撃的に、自らのアイデンティティや世界観に固執しようとする。』

これらの抵抗を和らげることができると考えています。


・人とは認知する機能であり、体は眼や耳など認知を成立させる要素であり、なおかつ体は認知(感受)の対象でもある

・人とは認知する機能であって、存在するものではない

・生きるとは、認知し続けることであり、認知は休むことなく行われている

・認知する器官、感覚、認知した対象、心に生じた想いや欲求を「わたし」であると考えているが、それはわたしでもなくわたしのものでもない

・わたしではなくわたしのものでもない認知する器官、認知する感覚、認知した対象、心に生じた想いや欲求を心地よいと感じ執着する性向がある

・人は心地よいと感じることが獲得できかったり不快なものに遭遇すると怒り、うらむ感情が発生しそれが蓄積し人を苦しめる

・認知する機能はコントロールできず、今ここに無いこと、不可能なことも心の中では生まれつづける、そして人はそのことを意識しない

・コントロールでできず意識もしないから、悩み苦しみをもたらす認知も生じる(認知療法の非機能的な自動思考に類似するとらえ方)

・自分の体の動き、体が感じていること、心に生じたことの観察に集中することにより

(釈迦の説く七つの段階(七覚支)の第一段階、ここにフォーカスするのがマインドフルネス)

・瞑想によって欲求(こうしたい)や意図(こうしよう)を止滅させると、好き嫌いや恐怖心がなくなる

(欲求や意図の生成を止めることによって脳の報酬系、偏桃体への刺激を抑制するようです)

(「好き嫌い」「怖い」とい感情が無くなれば「わたし」という仕掛けの必要性は希薄化します)

・好き嫌いや恐怖心がなくなると、喜びと安らぎが生まれ、喜びと安らぎが生まれるとさらに集中力が高まる

・高まった集中力で観察すると、好悪や恐怖を感じることなく悩み苦しみをもたらす自分の認知を知ることができる(スキーマレベルでの理解)

・どのようにして悩み苦しみをもたらす認知が生まれるのかは自分で知るしかない(他者は自分の代わりにやってくれませんから)

・悩み苦しみの正体(原因と誘因)がわかったら、悩み苦しみの原因を断てば悩み苦しみはなくなることを理解できる

(四聖諦=釈迦が説いた苦しみを無くす4ステップ、1ステップは、悩み苦しみを認めることなので、少しつらいかもしれません)

・あなたが行った行為はこの世であなた返ってくるのだから、悩み苦しみを生む誘因を断つ行為を選択すれば、あなたは悩み苦しまなくてすみます

(「心のはたらき認知のしくみ」の活用による苦しみの把握から苦しみを無くす実践論=行為論へすすむ段階)


本当に瞑想で、好き嫌いや恐怖がなくなるのか?

阿含経の念身経には、今では不適かつ不可能な死体を見ることによる観想なども説かれていますが、出入息観や身体の所作(動作)の自覚による修習(ヴィパッサナー瞑想です)によって、身体にむけた注意を確立すると10の利益がもたらされると説かれています(以下春秋社「原始仏典第7巻第119経」より。)


その利益の1番目は、

『好き嫌いを克服できるようになる。彼は嫌悪感をものともせず、生じてくる嫌悪感を打ち負かし続ける。』


2番目は、

『恐れと怖じ気を克服できるようになる。かれは恐れと怖じ気をものともせず、生じてくる恐れに怖じ気を打ち負かし続ける。」

『生じてくる恐れと怖じ気』であることに留意してください。人とは認知する機能である、と考えれば、恐れも怖じ気も認知されること、つまり心に生じるもの、ということになります。心に生じるものならば、ヴィパッサナー瞑想によって心の観察ができるようになれば、『恐れと怖じ気を克服できるようになる。』ということには合理性があります。

また軽安覚支に至り心と体が喜び安らぐ状態になれば、恐怖とは無縁の状態ですから、次第に恐怖とかかわるとされる大脳辺縁系の偏桃体のはたらきを抑制することにより、命を危機にさらす危険とは異なり、命を危機にさらさない恐怖は、危険から逃れるという恐怖に基づく本能的な行動による利益もないのだから、感じなくてよい、ということに帰着するのかもしれません。

3番目は、

『寒さ、暑さ、飢え、渇き、虻・蚊・風・熱・蛇との接触や辛辣で不愉快な発言に耐え、身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえられるようになる。』

現在とは環境が違いますので多少注意が必要です。誹謗中傷が問題視されています。現代の基準に照らして誹謗中傷とされるものには誹謗中傷している人への対応が必要です。

そのうえで、『辛辣で不愉快な発言』についても、辛辣で不愉快な発言が苦しみを生むのではなく、辛辣で不愉快な発言によって、自分の持っている自分についてのイメージが壊されることを想起して心に危機意識が生じる、もしくはわたしはそんな風にとらえていたんだ、仲間から孤立するかもしれない、と恐怖を感じるとすれば2番目の利益で克服できます。

そして『身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえられるようになる。』といことは、J.カバットジンさんが、MBSR、マインドフルネスストレス低減法で、慢性疼痛患者さんに対して実現したことです。


4番目が、

『現世で気持ちよく過ごすことのできる、雑念を離れてすっきりとした四つの禅定を、思うままに得、難なく得、苦労なく得られるようになる。』です。四つの禅定、つまりは初禅に至る頃には、1番目から3番目までの利益は得られると考えてよいと思います。経験からもその様に思います。

5番目以下は、神足通、天耳通、他心通、宿命通、天眼通、漏尽通と言った、少し神がかった能力なので、もしかしたら釈迦のような極めて高度な悟りにいたったら得られるのかもしれませんが、私たちは目指す必要もないように思います。

1番目から3番目までは、瞑想において好悪の感情や恐怖心がなくなることは、ヴィパッサナー瞑想を継続すれば体験できますし、3番目はMBSRで実現されていることからも、説得力があります。

ちなみに、死体を見ることによる観想は、大念処経」で説かれている『〈苦しみ〉のすぐれた真理とはなにか。それは再び迷いの生存に戻すものであり、歓喜と愛欲をともない、ここかしこで歓楽するような愛執である。すなわち、現世の欲望に対する愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執である。』(春秋社「原始仏典第2巻 第22経 大念処経」)で説かれている、『生存への愛執』を断ち切るためのものであるようです。

釈迦在世時のインドでは、永遠不滅の我=アートマンが想定され、人は再生すると考えられ、どのように生まれ変わるかに人は心を悩ませ、再生の祭祀をつかさどるバラモンが権威をもっていたようですから、釈迦は再生はない、とは言わず『生存への愛執』を無くせば、再生に心を悩ませることもなく『再び迷いの生存に戻す』こともなくなって、今ある生をすこやかに生きることができるでしょう、という論法を取ったのではないでしょうか。

もちろん再生があるとお考えになるのは個人の自由の領域に属します。

そして死体を見ることによる観想によって、『生存への愛執』を無くしても、それによって命がなくなるわけではなく、『生存への愛執』による苦しみから解放されるだけであり、『生存への愛執』とは別に『生存の消滅への愛執』も挙げていますから、死んだらこの苦しみから逃れられる、つまり死への希求、希死念慮も苦しみの真理であるとし、釈迦の説く苦から解放される方法は、希死念慮からの解放も視野に入れている、ということになります。

死体を見ることによる観想は現在ではできませんし、何よりも釈迦在世時と現在では死生観が大きく異なりますから、やる必要もメリットも大きくないように思います。私は、仏教徒ではありありませんので自由に解釈しています。前世現世来世にまたがる十二支縁起も、釈迦が再生はない、と言わず、『生存への愛執』を無くせば『再び迷いの生存に戻す』ことは無くなると説いたことから後世、釈迦入滅後の理論後世されたものではないかと思っています。

そのまま放置すれば出血や器官の損傷により命を危険にさらすかもしれない外傷の痛みは、医療措置が必要です。同様に苦悩が再構成されたイメージにより覚知したものとは言え、心の痛みがハラスメントやいじめ暴力によるものであればそれらには、痛みを感じる原因であるハラスメントやいじめ、暴力を排除することが必要であることはいうまでもありません。


人はそもそも「つらい思いをさせられながら」学習する

人が恐怖を感じるのは、人類の歴史の中で、危険な動物や危険な状況に対して恐怖を感じ、恐怖を感じることで危険と感じる状況を素早く避けて自分を守るため、と説明されることがあるようです。

脳の構造として、記憶の形成保持に重要な役割をする海馬の先に情動に関する中心的な役割を果たす偏桃体があり、偏桃体は「生命の維持のためにはまずもって重要な危険を察知するための情動である恐怖の感情と深く結びついていることが知られている。」(改定新版人格心理学 大山泰宏 NHK出版)そうです。

人は、恐怖という感情を作り感じることによって危険を察知して身を守る、という脳の構造を作ってきた、ということになります。

人は恐怖を覚えることによって身も守る行動をとるようになっているのであれば、恐怖を感じるようにできている、とも解釈できます。

しかしながら、恐怖を感じて危険と判断し、身を守る行動につなげるという脳の構造が出来がった、とはいっても、現代では、人が恐怖という感情を感じそれを記憶するのは、人を捕食する猛獣や敵対する部族などではなく、圧倒的に親を含む周囲の人間からであると思います。

親は、子供が自らの生命を危険にさらす行動をしたり、言うことを聞かなかったりするときには叱ったり、場合によっては怒りをぶつけます。つまり言葉、場合によっては暴力による感情的な威迫や強制によって、そういうことをしてはいけない、ということを学習させようとします。子供は、理性的合理的に親に言うことを理解して何が自分の命を危険にさらすか(道路へ飛び出すことなど)、してはいけないこと十分に理解できないのですから、感情的な威迫・強制により行動を制御しよとすることは合理的です。そして感情的な威迫は、時に子供に恐怖や嫌悪を生み出します。これが私のケースです。

逆に、親が好ましいと感じること、嬉しいと感じる行為を認めた場合には、言葉や視線、接触によって肯定的な感情を向けて、その行為を定着させようとします。私は母親からやさしい言葉をかけられた記憶も、やさしい視線を感じたこともないように記憶しています。もしかしたら、母親はやさしい言葉をかけたのかもしれませんし、やさしい視線を向けられたのかもしれませんが、怒っている母のイメージが強いためそれらの記憶を押しのけているのかもしれません。母はいつも眉間にしわを寄せて険しい顔をして不機嫌で、いつも遠くを見ているような感じでした。

人は、学校でも感情的な威迫と慰撫の中で育てられ学習してゆきます。

そして感情的な威迫と慰撫は、親の養育期間や、学校での教育期間が終了しても企業や生活のそこかしこで遭遇しますから、人は恐怖や嫌悪、欲求とその不充足により不快感を、充足により満足を感じる(脳の報酬系が働く)などにより、毎日感情を刺激し続け、気分を上げ下げしながら生きていることになります。

宗教でも地獄を説いたり(精神的な威迫効果)、地獄からの救済を説いたり(精神的な慰撫効果)します。

人は、本能的に感情への威迫と慰撫で人を動かそうとする、ということがデファクトスタンダード、人の本能だと考えてよいのかもしれません。

人は、本能的に感情への威迫と慰撫で人を動かそうとする、と考えると、交流分析(TA)でいう「禁止令」が形作られることもごく自然なことであると理解でき、納得がゆきます。


禁止令とは、

『人が脅迫的(自分で止めようと思っても不可能なこと)に演出する人生のプログラム、無意識のうちにつくりあげる人生計画を脚本といいます。(中略)運命脅迫的な出来事も、客観的に見ると、幼少時の外相体験(トラウマ)など、親を中心とする周囲の影響のもとで生じ、その後の対人関係や他の人生体験によって強化されたプログラムであることが解ります。』


『脚本では、幼少時に親の©から子供の©へと、言語的あるいは日言語的に伝えられた教本の基礎メッセージを、禁止令と呼びます。』


『たとえば、親から「おまえさえいなければ、お母さんは離婚できたのに」と聞かされたり、息が詰まるほどの虐待を受けて育ったとすると、子供は「依存するな(あまえてはいけない)」、あるいは「生きていてはいけない」という破壊的なメッセージを受けることになります。』


『これを受けて、子どもが「私はいつか死のう。そうすれば母は私を愛してくれるだろうから」といった決意をすると、親の禁止令は子供の人生すべてに支配力を発揮することになると考えられるのです。』(以上、創元社 杉田峰康先生「新しい交流分析の実際」より)


私の場合は、幼少時、「もうこんなのはいやだ、この世から消えてなくなりたい」という感情によって放心状態になったことがあります。

その感情が記憶され続けて、その後には「死んだ自分を想像して、母親が自分に泣いて謝罪している場面」を想像(希求)していました。

後にアドラーの「当てつけ自殺」という概念を知るにおよんでやっと、死んだ自分を想像することの意味が理解できました。相当な怒り嫌悪を抱えていたようです。


国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センターの「こころの情報サイト」では、

「生涯を通じて4人に1人がこころの病気にかかるともいわれています。こころの病気は特別な人がかかるものではなく、誰でもかかる可能性のある病気といえるでしょう。」

との記載があります。


感情への威迫と慰撫で育てられ、社会に出ても威迫と慰撫で人を動かそうとする環境(人の本能的な行動)にさらされており、なおかつ人の心は休むことなく思考し、楽しい嬉しいと感じればそれを追い求め手に入れようとし、手に入れば喜び、手に入らなければ怒り落胆し、怖いこと嫌なことを感じれば嫌悪の情を起こし、怒りやうらみを生み出します。


感情に威迫を受け、感情の慰撫を受けて育った人間が、子どもを含む他者に感情の威迫と感情の慰撫によって人を動かそうとするのは、自然なことです。


感情を刺激する環境の中で、自らも感情を激しく動かして心を酷使するのですから、心はひと時も休まることがありません。

こころの病気にならずとも、悩み苦しみ生まれても当然でしょう。


そう考えると、心が疲弊するのは至極当然のことのように思われます。


加賀谷亮さんの「世界のエリートがやっている最高の休息法」(ダイヤモンド社)には、マインドフルネスの研究などを踏まえ、くつろいだ状態でもたらされる脳のデフォルトモード・ネットワークの状態が、くつろいでいるはずなのに、脳のエネルギー消費は意外と大きく、実は休息になっていない、ということが述べられています。

くつろいでいる状態では、就業中に目の前の業務に集中して、それゆえ感情の生成が制限されるという状況とは異なり、自由にいろいろなことを想像(夢想?)することによって感情が自由に発生する状態となり、気分を上げ下げすることになり、脳はエネルギーを大量に消費し(たくさん働い)て休息にならない、ということのようです。


ヴィパッサナー瞑想のリラクセーション効果

ヴィパッサナー瞑想は、悟りや解脱に至らずとも、集中力を高め体への観察力(感受性)を高め、七覚支の5番目、軽安覚支(心がよろこび体が安らぐ段階)にいたれば、思考や感情の生起を止め、あれをしたい、これをしようといった欲求や意図がない状態(高度なリラクセーション状態の実現)が実現され、脳をリフレッシュすることが可能になるように思います。

これは、多くの人にとって大きなメリットになるでしょう。

また、さらに初禅の段階にいたれば、好悪の感情や恐怖感を感じることなく、尋と伺(私は観察と考察と理解しています)で、自分の心をこうありたいとか、こうなるのは嫌だ、怖いという感情なく観察し考察できます。

好悪の感情や恐怖感を感じることなく観察し考察できる、ということは思考の「制約」「制限」「自己規制」がなくなるということです。

こんなことを考えていると知られたら周囲の人は私を避けるのではないか(という恐怖)がなくなる、ということですから、思考が自由になり、それは創造性開発にもつながるように思います。

思考の「制約」「制限」「自己規制」がなくなったら、行動に歯止めが利かなくなって、善くないこともしてしまうのではないか(という恐れ)、とお感じになるかもしれませんが、そのようにはなりません。

善くないことをしてしまうのは、善くないことをしたいと欲求しているわけではなく、自分が欲していることを知らないがゆえに欠乏感、飢餓感にさいなまれ、欠乏感、飢餓感から逃れたいとの欲求からやっているので、思考の「制約」「制限」「自己規制」がなくなるころには、欠乏感、飢餓感の正体がわかっている(いわゆる智慧が生じている)状態であろうからです。自分の欠乏感飢餓感(欲と執着)に気付く程度には瞑想によって集中力、観察力(注意力)が養われているから、好悪の感情や恐怖感を感じることが抑制されるのでしょう。


不快をさけ、よく思われることを求めるようになるのは自然なこと

人が感情的な威迫と慰撫によって育てられることを考えれば、人が恐怖や嫌いなことだけでなく人からの評価が下がることも不快(良くないこと、または仲間外れを予感して恐怖)と感じ、他者から良く思われることで安心もしくは快感(自分は人に好かれるいい人=攻撃を受けない、安心だ)を求めるようになるのは自然なことです。

そのように考えれば、先に引用したエリスの〈神経症者〉の心理と行動のような傾向を持つようになる素地を育成されながら人は育つことになります。

人は子供を良い方向に導くために叱ったり褒めたりして子供を育て、学校教育を行っていると考えますから、感情的な威迫と慰撫を正当な教育方法と認識します。ですから感情的な威迫と慰撫による負の側面は考えませんし、そもそも感情の威迫を多用して他者をコントロールしようとする人も、まれにはいます。

逆に、感情的な威迫を強烈に受け、恐怖と敵意を感じ、その恐怖と敵意を「自己、他者、世界についての理解=信念(スキーマ)」に織り込んだとするならば、エリスの言うように「敵意や恨みがともないがちである。自分自身も憎むけど、彼らは他人をも憎みがちである。世の中は自分を不公平に扱っていると感じているので、それならこちらも同様に、仕返ししなければならないと思っている。概して自分も不合理な行動によって、欲求不満になっているにもかかわらず、社会や世の中の人が欲求不満の源泉だと思い込んで、攻撃性を向けるのである。」という傾向になるかもしれない、と考えるのはごく自然です。

私の母親は、このような信念(エリスさんは、不合理な信念、イラッショナル・ビリーフと言っています。)を持っていたようです。

そして悲しいかな、私自身も母親の自分に対する態度に恐怖を覚え、また一方では怒りを覚えながらもそれを一生懸命抑圧し、自分の苦悩を避けるための不適切なコーピング(対処方法)によって、性格に課題を抱えるようになっていたようです。

また、交流分析の考え方のとおり、私の子供の自我状態Ⓒは、母親の子供の自我状態Ⓒを受け継いでしまったようです。母親に恐怖を覚えるがゆえに、母親の考え方、態度を取り込んで、恐怖を克服しようとしたのかもしれません。怒りっぽいところ、眉間が緊張する(眉間に力が入る)などは母親そっくりです。


このような考え方は、仏教の「業」の考え方を想起させますが、交流分析ではこのように説明されています。

『脚本分析では、ある種の筋書き通りに生きる人々が対象になります。親子二代(ときには三代)にわたって事故死、倒産、薬物依存、離婚などを繰り返す人びとなどがその例です。こうした運命脅迫的なできごとも、客観的に見ると、幼少時の外傷体験(トラウマ)など、親を中心とする周囲の影響のもとで生じ、その後の対人関係や他の人生体験によって強化されたプログラムであることがわかります。』(創元社 杉田峰康先生「新しい交流分析の実際」)


私が幼少期に抱えた性格上の問題は、母親(ときに父から)からの感情的な威圧や暴力によって、自己に対する無価値感・無力感、無価値感・無力感からくる怒りの抑圧、生きることへの嫌悪感による厭世感、こんな嫌なことばかりの世界から消えてなくなりたいという希死念慮を形成し、それらを心の奥に抱えながらそれを解消することなく成長し、現在に至っている、ということのようです。


しかし、ひどい親であった、ということではなかったと思います。


両親の特定の行為が、わたしに対して強い恐怖を与えたがために、両親が私にしてくれた良いことを覆い隠して、私の中に自己に対する無価値感・無力感、厭世観や希死念慮とともに両親に対する憎悪を形成させたと思われます。

父の母は、父が幼いころに、亡くなりました。祖母は再婚せず、父には妹と弟がいましたから、父はヤングケアラーであり、通常期待される家庭の温かさ、というものは体験できなったようです。

母は、父を見たことがありません。父(私の祖父)は、母が祖母のお腹の中にいるときに召集を受け大陸で戦死したそうです。その後祖母は再婚し、弟二人と妹二人が生まれたようですが、私は、母方の再婚した祖父を記憶しておらず、遺影でのみ知っています。母からは義理の祖父の話を聞いたことはなく、実父については靖国神社にいる、としか聞かされませんでした。父から、母の祖父(義父)とはちみつ取りを取りに行ったときに、祖父が蜂に刺されたという話を聞いたことがあるくらいでした。その時の印象では、義父は悪い人ではなかったようです。はちみつは腐らないので、物置の壺の中に保管されていた黒いドロッとしたはちみつ見つけたときに父が話してくれたように記憶しています。

田舎ですから、異父兄弟であることは周囲の話から知るでしょうし、母と姉は、一家を支える義父と、そのことに感謝しながら年の離れた弟と妹を大切せざるを得ない母を見て育ち、それが少なからず母の性格に影響を与えたのかもしれません。

母の弟、私の叔父からの話では、弟たちに対しては、母は私に対するような振る舞い(口ではなく手をあげる人)であったと聞いています。

母の私対する接し方は、弟たちへの接し方をそのまま私に適用したためかもしれません。

そのように考えると、父も母も本来感じる家庭の温かさ、というものを知らずに育ったことにも思い至ります。

学校卒業後、母は近くの町に住み込みで働くようになり、着付けや社交ダンスも習い(大学入学時に大学生になったんだから社交ダンスくらいできるようになりなさい、と言われたことがあります。)、小さな田舎町とはいえ、高度経済成長期の青春を謳歌していたようです。

ところが、です。

実家の近くの有力者が仲人となり、母は父のもとに嫁ぐこととなりました。

母の口癖は、M(仲人)さんに「結婚させられた」でした。農家に嫁ぐ(酪農家でしたらから休みはありません。)のが嫌だったのかもしれませんし、謳歌していた青春を捨てたことが嫌だったのかもしれません。

加えて、同居する祖父との折り合いが相当悪かったようです。

祖父も子供三人を残し妻に先立たれたのですから、運命を恨んだかもしれない、と考えると、相当に気難しくなっていた可能性があります。私の記憶の中では、家の実権は父に移り、父はいつも祖父にその日の農作業を指示しており、祖父の腰がいたいとか足が痛いとかいう不満を受け入れはしませんでした。素朴な頃の私は、「とうちゃんはなんで、あんなにおじいに他人みたいな口を利くの?」と聞いたことがあります。後に、父が、親戚と昔話として話してい他ことから、祖父が祖母の死によってあまり働かなくなったこと、祖父が嫌なことは父にやらせていたことなどを知りました。

祖父のうっぷんが母に向いたのかもしれません。いつも眉間に寄せて険しい顔をしていたように記憶しています。いつもそうではなかったのかもしれませんが、記憶の中の母はそんな印象です。

母は、幼少期の私にとっては、いつ怒りだすか予測不能(怒る理由がわからない)なので、怒られないように叩かれないように、いつもびくびくしているという状態でした。ごく幼少期の記憶ですが「ああなったら困る」ということを母が頻繁に口にしていたように思います。不安感情が強かったがゆえに自分の抑制がきかなかった、むしろ不安感情が強いがゆえにそれを紛らわすために、わたしに感情をぶつけたのかもしれません。

おさいないころ「自分は母の感情のゴミ捨て場だ」という考えが心に浮かんだこともあります。

成長するにつれて、そのような母の予測不能性が、母への不信感となり怒りを募らせ、その一方で怒りを爆発させたら養ってもらえない、という恐怖から怒りを抑圧していたようです。

その反面、自分が死んだら母は半狂乱になって悲しむだろうな、死んだら自分はもう苦しまない、人が死んだら死んだ人ではなく、残された者が苦しむのだな、と感じたこともあります。

この考えも、死んだら今あるこの苦しみはなくなる、という希死念慮を温存することにつながったのだと思います。


いい悪いを言っても何の解決にもならない

性格上の問題を形成した生育暦については、親や育て方が良いとか悪いとか、幼少時の経験にこだわっている本人が悪いとか考えても、何の解決策にもなりません。

本人の心に形成された信念、スキーマが、今なお自分に対して有効であるから、今の自分を苦しめる、であるならば、どうやってそのスキーマを修正したらよいかとということに焦点をあてるべきでしょう。

本来は、性格上の問題に対処するのはヤングさんらのスキーマ療法が最適なのでしょう。ただしスキーマ療法を実施できるセラピストは限られているようです。

ヴィパッサナー瞑想では、自分の感覚(苦しみは体に影響します)、自分の心を観察して「苦しみが生じた」と識り、それが生じたプロセス、原因は何だろうかと考察します(これが釈迦がといた悩み苦しみをなくす4ステップ、四聖諦の1番目2番目です。)。瞑想への集中が一定程度進んでいると苦しみが生じたことを識るとともに、それがなぜ生じたかを識ることができます。

ヴィパッサナー瞑想では、苦しいと感じる自分に浸りきる、それを当然のこととするのではなく、これは好きこれは嫌いという感情の生成を停止する訓練を行うことによって、自分の心を観察の対象として、自分に苦しみが生じた、と素直に、その思いを良い悪いと判断することなく、ありのままに観察できる心の在り方、つまり好き嫌いを離れ恐怖を感じない心で物事を観る心の在り方を養います。

その段階が初禅と言われるようです。

初禅では、過去に恐怖を引き起こした体験を想起しても、恐怖を感じることなく観察し考察することができます。

恐怖を感じるのであれば、その体験を想起することはしたくありませんが、恐怖を感じなければ、その体験を想起してどのように恐怖を感じたのかを「恐怖を感じることなく」理解できるようになります。そして恐怖を感じなくなると、過去の恐怖を感じた体験がどんどん想起されるようになり、恐怖を感じた体験を、現在の私がそれを恐怖と感じる必要はないのだ、ととらえ直すことも可能になります。そこで必要になるのが漢語の「念」「心を一点にとどめて決意すること」という方策です。

人は、自分がありのままの自分でいることが許されていない感覚(親から受容されていないと感じた経験)、ここにいてはいけない感覚(自分が親や周囲の人に喜びを与えていない経験、歓迎されていない経験)などを生み出す早期不適スキーマであっても、それを手放すことには、すでに引用しましたが、大きな抵抗を生むようです。

もともと不適合スキーマが、無力で自己のとれる行動が極めて限られた子供が、その時の環境に適応するために形成した、つらさを自分なりに解釈して何とか納得しようとして出来上がった理解であれば、それが現在の環境に不適合なものとなったとしても、長年拠り所、自分を納得させる手段と感じてきたのですから、手放すのは簡単ではありません。

手放すことに恐怖を感じるのは自然なことでしょう。

さらに手放すことが、自己以外から強制されたものならば、その恐怖と抵抗は想像に難くありません。

初禅の状態に至ることは、その様な状況に大きな援助を与えます。

恐怖を感じない、言い換えれれば、過去に恐怖を感じた体験を想起しても、恐怖を生起させることのない観察と考察が可能になるので、早期不適合スキーマを手放すことの必要性を自然と理解し、早期不適合スキーマを手放すことでより心の平静が得られることを理解するので、恐怖を感じ、抵抗することは無いようです。

だからと言って、ヴィパッサナー瞑想によって、すぐに早期不適合スキーマを手放し、修正することができるわけではありません。

わたしはヴィパッサナー瞑想を仏教の「修行」であるとは考えていません。

そもそも釈迦は、自らの苦しみを無くす方法を探求し、自らたどり着いた苦しみを無くす方法を説いたと理解しています。

とはいえ、手順と実践の積み重ねによって、自分の瞑想のスキル、技量を上げてゆかなければ、早期不適合スキーマを手放し、修正することはできないと考えています。

ヴィパッサナー瞑想と並行して、交流分析、認知行動療法(認知療法系)、スキーマ療法などを学び、自分の悩み苦しみがどこにあるのかを知る手がかりを得ることも効果があると思っています。釈迦の説くところと大きく矛盾はしません。実際私はそうでした。


放っておいても性格上の課題は解決しない

不適合なスキーマ(自分の建設的な行動につながらないスキーマ)は、成長とともに自然となくなるという性格のものではないようです。


なぜならば、スキーマに合致する事柄をより敏感に感知することによって「やっぱり自分の考えていた通りなんだ」といった認知が生じることによって、スキーマはより強化され維持される性格のものだからかです。

不適切なスキーマは、それを検知して修正もしくは捨てない限り、年齢を重ねてもなくなりません。

例えば私が幼少期に形成してしまった(そして現在も維持され私を苦しめる)早期不適合スキーマは、自己に対する無価値感・無力感、無価値感・無力からくる怒りの抑圧、生きることへの嫌悪感による厭世感、死んでしまえばすべて終わりにできるという希死念慮です。

他者にとって私は価値がなく、他者(幼少時において両親)は私の言うことや要望を聞き入れることは無いだろう、という「無力感」は、仕事でも交遊関係でもうまくゆかなかったことを経験することにより強化されます。「無力感」があるので、うまくゆかなかったことに敏感になり、そのことが「無力感」を強化する方向に作用するからです。

釈迦はこのことと同様の心のはたらきを、六六経で『「苦の感受」をうけているときに、愁い、悲しみ、嘆き、泣き、迷妄におちいるなら、「怒りうらむ性向」が潜在』する、と説きました。

このような心のはたらきは、私は無力であり好ましくない状況を変えることができず、このままずっと苦しい気持ちに耐えなければならない、解消できない苦痛が続くこの世界にいるのは嫌だという「厭世感」を強めたのでしょう。

疲労や失敗続きなどで精神的につらい気持ち(気分)がたかまると「希死念慮」つまり、死んだらこのつらい気持ち(気分)から逃れられるのだろうな、そもそも自分の人生脚本(交流分析の概念)自体が(アドラーの言うところの両親に対する)当てつけ自殺(死んであなたがたに復讐してやる、私が死ねばあなた方が私にしたことがどんなにひどいことなのかあなた方は知るだろう)なのだから、死んでもそれは自分のシナリオ(行き着く先)通りで、それが自分の望みなのだから死を回避する必然性もないのだ、という考えが現実感をもって迫ってきます。

予期しない事故や病気で死んでも、それは自分で希望し引き寄せたものなのだから抵抗しなくてもよいのではないか、という考えも浮かびます。

そもそも、そういう「想像の世界」自体が現実とのつながりを失っている結果もたらされるものなのですが、疲労や心理的な負担が強くなると、それこそが真実なのだという感覚になります。この状態になると、かなり危険です。ヴィパッサナー瞑想が観察を行うのは、観察を通して集中力注意力を養い、観察によって「想像の世界」を知り、「現実感覚」を取り戻すため、とも言えます。

スキーマの修正が簡単ではないのは、私自身の世界観自体(スキーマ)が「無力感」「厭世感」「希死念慮」という影響力のあるピースが、建築の「構造部材」として組み立てられているようなものであり、「無力感」「厭世感」「希死念慮」を修正するということは、私自身の世界観(スキーマ)とその世界観に基づいた体と心の反応パターン全体を修正しなければ、「構造部材」である「無力感」「厭世感」「希死念慮」を修正することにはならない、とと考えられるからです。

エリスさんの言う『多くの〈神経症者〉の行動には、敵意や恨みがともないがちである。自分自身も憎むけど、彼らは他人をも憎みがちである。世の中は自分を不公平に扱っていると感じているので、それならこちらも同様に、仕返ししなければならないと思っている。概して自分も不合理な行動によって、欲求不満になっているにもかかわらず、社会や世の中の人が欲求不満の源泉だと思い込んで、攻撃性を向けるのである。』という人は、長年そのような行動の源泉となるスキーマを維持しており、体と心の反応は、そのスキーマを前提としたものになっているので、スキーマを変えようとすると心と体の反応は混乱し抵抗するでしょう。

体と心は、「えっ、今までと違うやり方にするの?長年それでやってきたからそのままがいいなぁ、変えると僕ら(体と心)は、新しい反応の仕方がわからなくて不安だから、今までと違うやり方に変えるのは嫌だな」と抵抗する(体調が悪くなったりする)、といったところでしょうか。

会社や団体、集団でも新しいリーダーが、一方的に、唐突に、やり方を変えるぞ、改革するぞ!と号令してやり方を変えようとしたら、反発し抵抗しますよね。人は慣れ親しんだ考え方、その考え方に基づく反応の仕方、やり方を変えることは好きではなく、今までのやり方に固執する性格が強いようです。

釈迦は、『 〈苦しみ〉の原因のすぐれた真理とは何か。(中略)歓喜と愛欲をともない、ここかしこで歓楽するような愛執である。(中略)この愛執はどこで生じ、どこでとどまているのだろうか。なんであれこの世の中に好ましいもの、楽しいものがあり、そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕とどまっているのである。』(春秋社 原始仏典第二巻 大念処経)と言っています。

人は、いったん愛執が生じると、それが何であれ手放せなくなる(そこで〔愛執が〕とどまっている)ようです。

自分にとってはそれが効果的でなく、苦しみを生み出す原因(早期不適合スキーマなど)であっても。


ヴィパッサナー瞑想が提供する解決策

釈迦の苦悩を無くす方法論では、心と体の反応パターン全体を修正するため、体の感覚の観察を行います。


心に自分をつらくさせる想いを起こさないようにする方策も必要ですが、心はかなり自由に、つまり、眼や耳などを通じて感知した刺激に、識(無意識のうちに蓄えられた記憶)が反応して、瞬時に心が勝手に自分をつらくさせる想いを作り出すということに長年親しんでいますから、体の感覚の観察によって、わかりやすく言えば高度なリラクゼーション状態を実現して、心が勝手に自分をつらくさせる想いを瞑想中とはいえ停止し、高度なリラクゼーション状態を維持できれば、それは苦の状態ではないよね、高度なリラクゼーション状態になれば、楽な状態だから苦悩も苦悩の原因もあぶりだせるよね、という方策を取っているように感じます。


瞬時に心が勝手に自分をつらくさせる想いを作り出しても、体がそれに反応して苦の感受(緊張状態)を作り出さなければ、次第に、心は自分をつらくさせる想いのを作り出さなくなるでしょう。体からの反応つまりフィードバックがなくなりますから。


心理療法におけるアクセプタンス&コミットメントの考え方と同様であると思います。心に生じたとのみ認識し、体がそれに反応することを遮断して体に負担が生じなければ、体はすこやかです。


MBCTで目指す態度「思考は事実ではない」ということへの習得へ近づきます。


心が勝手に自分をつらくさせる想いを作り出して、体が反応して緊張状態(負担)を作り出せば、作り出された自分をつらくさせる想いは、体に緊張状態という「事実」を生み出しますが、体が反応して緊張状態(負担)を作り出さなければ、体に緊張状態という「事実」を生み出しません。


思考は事実ではないのではないか、と考えることの妥当性を提供するでしょう。


例えて言えば、心が勝手に自分をつらくさせる想いを作り出しても、体のとっては、暖簾に腕押し、糠に釘の状態です。


高度なリラクゼーション状態とは、思考を停止し気分を上げる想いも気分を下げる想いも作り出さないことによって、「体と心が喜び、体と心が安心安楽である状態を実現すること」と理解して下さい。


言い換えれば、自分についてこれは良いあれは悪いとか考えず、ああなったらいやだなとかいう想いを起こさないようにすることを通じて、「自分に徹底的にやさしくすること」です。


自分を追い込んで自分を変えるという態度ではありません。


「性格上の課題を解決する」とは、多くの場合、自分を苦しめているのですが長年慣れ親しんできた考え方や心と体の反応を手放すことです。

長年慣れ親しんできた考え方や心と体の反応を手放すことには不安を覚え、抵抗し恐怖を感じます。

それゆえ、「自分に徹底的にやさしくすること」、「体と心が喜び、体と心が安心安楽である状態を実現すること」が必要になります。

「体と心が喜び、体と心が安心安楽である状態を実現する」から、自らの意志によって「変えてみようか」という気持ちになるのです。


考え方(表層の意識)が大事、という立場はとらず、体と心の相関関係の中で、体と心のはたらき方を変えてゆく、と理解したようがいいように思います。


釈迦は、生老病死は苦であると言いましたが、生老病死を克服して永遠の生命を得たわけではありません。ちなみに生が苦とされているのは、生きるということは概ね苦であるから、生まれるから苦しむのだ、という認識と当時支配的であった再生を前提にして、生まれ変わって苦しむ、ということを意味しているようです。


生老病死は避けられないものだから、それを避けようと欲求すれば、求不得苦で苦しみ続ける、だから生老病死を不可避とみとめ(認知論)、さらに体に苦受(神経の興奮や体の緊張による不快感)が生じず、体と心が常に喜び安らかな状態を実現し、維持できれば(行為論)、それは苦ではない、ということであると捉えたようにも感じます。


高度なリラクゼーション状態を維持できれば、それは苦の状態ではないよね、という方策は、具体的には釈迦が説いた、悟りにいたるための7つの段階のうちの5段階目、漢語でいう軽安覚支によって実現されるようです。


『喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ。比丘たちよ、喜んでいる比丘の身体が安らぎ、心も安らぐとき、比丘には『安らぎという悟りの支分』軽安覚支)が始動している。(中略)身体が安らいで幸せな人の心は集中する。』(春秋社 原始仏典第7巻大17経 治意経)


ちなみにここでいう『喜んでいる』というのは、あれが欲しい(欲求=欠乏状態)⇒行為して欲求を充足させよう(意欲)⇒欲求が充足された(欠乏状態が解消された、脳の報酬系が刺激されて快を感じる)という、欲求⇒充足⇒満足という快とは、別の喜びだと思われます。


ここで釈迦が説いている喜びは、瞑想への集中、観察によって物事を解明(理解)してゆくことによってもたらされる脳の「機能快」と考えられます。


また、「体と心が常に喜び安らかな状態」とは恐怖とは無縁ですから、「体と心が常に喜び安らかな状態」の反復もしくは継続的な実現は、恐怖とかかわる大脳辺縁系の偏桃体のはたらきを弱める効果もあるのかもしれません。


感情を刺激し気分を低下させ思い悩むという脳の働かせ方ではなく、感情を刺激せずに、物事を解明し、なるほどそういうことかと理解するという、脳にとって気持ちの良い働かせ方を実現することと思われます。大脳辺縁系の働きを抑制し大脳をよりはたらかせること、かもしれません。


集中するとは、対象のみに意識をむめ、その他には意識をむけないことですから、心にとって好ましい対象を選定して、意識をむけ集中しているときには、欲や恐怖が心に想起されることは無く、そのような状態を継続することで欲や恐怖は鎮まり、やがてなくなる、という効果をもたらすからでしょう。


体の感覚の観察は、無意識的におこる脊髄反射による神経の興奮を鎮め、神経に興奮による筋肉の緊張を解く、という効果をもたらすと考えています。心に不安が生じても、それは心に生じた不安であって、神経を興奮させ筋肉を緊張させて、危険に対する防御や迎撃態勢をとる、ということによって得るメリットな何もありません(うつの反芻によって気分が低下し、さらに活動のエネルギーも枯渇してしまい活動が停滞してしまうことを考えてると納得がゆくと思います)から、自分の心をつらくする想いが生じても、体には苦の感受を発生させないようにする、ということには大きな意味があるように思います。


自分をつらくする想いは、自分が無意識的に蓄積した、釈迦の概念では「識」を参照して生まれ、スキーマ療法の考え方では早期不適合スキーマにより生まれますから、自分を苦しめる識や早期不適合スキーマがあるとして、それらを表層の意識で否定しても、識や早期不適合スキーマ世とその世界観に基づいた心と体の反応パターンは長年寄り添ってきたのですから、そう簡単には変えられません。


むしろ早期不適合スキーマや中核信念を、強力に変えようとすることは、体の不調や心の混乱を招くでしょう。


なぜならば、例えばエリスさんの言う『多くの〈神経症者〉の行動には、敵意や恨みがともないがちである。自分自身も憎むけど、彼らは他人をも憎みがちである。世の中は自分を不公平に扱っていると感じているので、それならこちらも同様に、仕返ししなければならないと思っている。概して自分も不合理な行動によって、欲求不満になっているにもかかわらず、社会や世の中の人が欲求不満の源泉だと思い込んで、攻撃性を向けるのである。』という性向の人は、そのような信念体形の中で、人々の発言や行動、社会一般を理解していますから、体と心の反応「受」「想」は、その様な信念体形を前提にして自動的に発生します。


私の経験からも、瞑想が深まるたびに、体に不調があらわれます。深まった瞑想状態がもたらす、新たな認知(識もしくはスキーマの修正)に体が追い付こうとして、体のバランスが一時的に崩れ、それがストレスになるのだと感じます。


信念体形をさあ変えるぞ、といっても、従前ある信念体形になじんできた体と心の反応は簡単には変わらないでしょう。従来からある信念体形の下で体は健康を維持するよう努めてきたのですから、信念体形を変えるならば、体調が一時的に悪化する可能性は十分に考えられます。


むしろ従来の信念体形になじんできた体と心の反応をじっくりと変える必要があるように思います。


そのような時に、効果的なのが体の感覚を観て、心の状態を観て、心と体が喜び安らぐ状態である「軽安覚支」(リラクセーション)の状態を作出することであると思います。


「軽安覚支」は、体と心が喜び安らぐことで高い集中力を生み出すことを可能にするとされていますから、高い集中力をもって初禅に至ることで、好悪の感情や恐怖に影響されない「粗い考察」「微細な考察」があらわれ、「粗い考察」「微細な考察」によって自分の苦悩の原因を理解し、苦悩の原因を取り除くことに意識をむけるとともに、苦悩の原因がすぐに除去できなくても、心と体が喜び安らぐ状態である「軽安覚支」(リラクセーション)を維持することができれば(初禅では、好悪の感情、恐怖の感情はコントロールできるようになりますからこの面からも苦痛の軽減は可能です)、苦悩の原因はなくならなくとも心と体が喜び安らいでいる状態を実現することも可能になります。


自分を苦しめる「想」に、体と心が反応しない状況をつくることで、苦の感受を発生させないという方略です。


「苦悩(想)の原因を無くして苦悩を発生させない」というこ方略とともに、「苦悩(想)が発生しても体には苦を発生させない」という状況を作ることによって、苦悩(想)の影響を低減するという方略です。これは、アクセプタンス&コミットメントの考え方と同様だと思います。


このようなプロセスを作出するのが、ヴィパッサナー瞑想であると考えています(ここではマインドフルネスではなくてヴィパッサナー瞑想です。)。


概略を説明すると、以下のような手順を取ります。


ヴィパッサナー瞑想によって体の動きを観察(例えば座ってする瞑想で呼吸に伴う体の動きに言葉をあてて確認します)することによって、これをしたい(欲求)、あれをしよう(意図)という思いを鎮めてゆきます。ただし、欲求、意図を鎮めるのは少し経験を積んだのちです。


つまり考えないことによって欲求や意図という感情を抑えることになり、体が今感じている感覚への観察に集中することができます。


体が今感じている感覚への集中力と観察力が養われると、必然的に心の状態を観ることができるようになります。


心の状態を観ることができるようになるとは、考えていることや感じていること、それらが生じたこと(今の状態)を識ることも含みますが、これをしたい(欲求)、あれをしよう(意図)という欲求をを追いかけない訓練をしていますから、それを考える=追いかけるということをしません。

これをしたい(欲求)、あれをしよう(意図)という欲求を追いかけないことのよって、心の表層(=意識)における平静が訪れますが、ヴィパッサナー瞑想によってを継続することによって、より深い集中力と観察力を養うと、これをしたい(欲求)、あれをしよう(意図)という欲求を追いかけないでいても、心が落ち着いていないと感じるようになります。


ここで直面するのが早期不適合スキーマです。


釈迦は、人の体と心のはたらきを五蘊で説明しました。


五蘊は、「体と心の機能」であるとともに「体と心の機能によって」「自分の体と心に生じたことそのもの」をも指すと理解してください。


瞑想で自分の体と心を五蘊で理解すると自分の体と心のはたらき、認知のしくみを理解できるからです。早期不適合スキーマは、下記の「識」の中に形成された、自分、他者、世界についての一般的法則性としての理解のうち悩み苦しみを生じさせるもの、と考えてよいと思います。「識」についての考察は後に、唯識(法相宗)という研究に発展しました。


「体と心の機能」を理解したうえで、瞑想を通じて「自分の体と心に生じたことそのもの」を知ることがヴィパッサナー瞑想の中核的な方法論です。


『瞑想を通じて「自分の体と心に生じたことそのもの」を知ること』だけ取り出せば、マインドフルネスとほぼ同内容となると思います。


「体と心の機能」「体と心の機能によって」「自分の体と心に生じたことそのもの」を識ることが、「尋」と「伺」を少しづつ潜在的に形成してゆくように感じています。これはヴィパッサナー瞑想の大きなメリットです。


色:

一般に物質を言うそうです。

五蘊の色は、人の認知を成立させる目や耳などの体を指します。

体は五感と意識を通じて認知を成立させる要素であるとともに、認知の対象(つまり観察の対象)でもあることから、人にとっての体は、外界に存在する物質と同等物としての性格ももつ、と釈迦はとらえたのでしょう。


受:

体が感じる楽、苦、不苦不楽の感受。

釈迦は、想、行、識に苦が生じるとはしておらず、苦は体に生じるとしているようです。

例えば、ウクライナや中東で大規模な武力紛争が起こり、映像でそこで起こる凄惨な出来事を知り、体調が悪なる方も多いそうです。凄惨な出来事を目にすることで心が苦しむのかもしれませんが、現実に生じるのは体調が悪くなる、という体に生じる苦です。凄惨な出来事を目にすると苦しくなるけれどもそれは、心が苦しんでいると自分では思っている(想が生じる)けれども、心で思ったこと(想)自体が苦しみではなくて、心に生まれた想や行(想の言語化、概念化)が、体を苦しめてあなたは苦を認識するのですよ、ということのように思います。

アルボムッレ・スマナサーラ先生は、心は体じゅうにあると言われています(ブッダの実践心理学 サンガ)。

足がつるのは、足の腱が、誤って本来必要のない筋肉収縮の指令を脊髄に対して出すからだそうです。そのように考えると体中のセンサーが脊髄や脳に情報を送ってそれによって脊髄や脳の反応が起こることになります。

養老孟先生は「中枢は抹消の奴隷」と言っていますから、体が感じる楽の感覚、苦の感覚、楽でも苦でもない感覚が生じてから、次に説明する「想」が認識されると考えるのが妥当かと思います。

私の場合は、苦の感受として、独り言を発した後に顔にこわばり(緊張が生じる状態)が出ることがあります。

他者からの指摘ではなく、受の随観が進展していった結果、たどり着いた認識です。こわばりが出た後に、言わない方がいいことを言ってしまったな、ということ(=想)が認識されます。意識が、言わない方がいいことを言ってしまったな、と認識する(想が生起する)前に体は反応するようです。

釈迦の認知論では、人の心に生じる欲求は、わたしでもなくわたしのものでもない、と説いていますから、好きだから手に入れたいという欲求(想)(手に入らないと苦しむ)、嫌だから遠ざけたいという欲求(想)、それは怖いから回避したいという欲求(想)が生じたとしても(命にかかわるものでなければ)、それら欲求(想)は、わたしでもなく、わたしのものでもないとするならば、それら欲望(想)は、心に起こっただけで、体に楽の感受を発生せて欲望を強化する必要も、苦の感受を発生せて体の活力を無くす必要も、感受を自由に野放しにする必要もないのだから、受の随観をしっかり行って、楽、苦、不苦不楽の感受を発生させなければ、体をいつもすこやかに保てるよね、ということになります。

「うつ」が心の元気だけでなく体の活力も奪ってしまうことを考えると、釈迦の方法論は極めて意味があると思います。MBCTも、「思考は真実ではない」という態度によって、うつの反芻思考が体へ及ぼす悪影響を避けるという機序と理解することもできるように思います。

他者の体調が悪そうだと感じるのは、顔の表情や体の動きから、体がつらそうだと感じて、体調がわるいのではないかと推測するからでしょう。逆に元気な時は、顔の表情や行動から、やる気に満ちていると理解し同時に、体に生まれている活力を感じいているのではないでしょうか。

瞑想での体験から説明すると、瞑想開始直後は、例えば手頸や肩の「脱力」を先に感じます。力んでいる➡力みを取ろう➡力みを取った、ではなく、力みを抜いた➡力んでいたことを知る、という順番になります。

このことは、瞑想で体の力、力みを抜くということことを常時心がけているがゆえに、体が力みを感知して、脳の指令を受けずに脊髄反射で力みを抜いて、力みを抜いたことを脳が認識するという順序になるようです。

このことはとても重要だと思います。体は、心の集中状態(瞑想)で、適切に指示をだせば、指示した内容を、脊髄反射を通じて自動的に行ってくれる、ということを意味すると言えるでしょう。

逆に言えば、脳は、脊髄反射で自分がしていることを認知していない、ということです。

瞑想状態が進展して注意力(観察力)が高まってくると、力みを感知➡力を抜く(という意図の発生)➡力を抜くという行為の順序で観察できるようになります。

これは「力を抜く(という意図の発生)」を観ることができる、ということです。この状態になると心の随観(心の観察)ができるようになります。「ああ、いま、心はこんな状態だ」という感じです。

瞑想を通じて自分の「受」を理解する訓練をすることは極めて重要だと思います。


想:

イメージ、明確な形をとっていない思考ととらえています。嫌な感じとかウキウキする気分をもたらす想いととらえればよいでしょう。グレゴリーベイトソンさんは「精神と自然(思索社)」の中でこう言っています。

「誰かに足を踏まれてたとき、私が経験するのは”彼による私の足の踏みつけ”そのものではなく、踏まれてからややあって脳に届いた神経報告をもとに再構成された”彼による足の踏みつけについての私のイメージ”に他ならない。」

踏みつけを感知して神経報告をおこなうのは足、それを痛みと認識するのは脳ということになります。それゆえベイトソンさんは「痛みすら、正真正銘の創り出されたイメージである。」(前掲書)と言っています。

ただし、ここで注意しなければならないのは、痛みを認識するは脳であって踏みつけられた足ではないとしても、足は踏みつけに反応し、足が感じ取った情報を脳に送り、脳がその情報を処理して痛みを感じている、ということです。足が情報を送らなければ脳はイメージを形成できません。足は脊髄、もしくは脳に送るべき情報を判断しているといえるでしょう。

釈迦の認知論では、体に苦の感受が生じるとしていることから、究極的な知見、最終的に至る認識としては、心は本来苦しまない、心は自ら苦しんでいるという想を作り出し、それと同時に体に苦の感受が発生し、苦を感知するから、心が苦しんでいると感じる、でも実際に苦を感じているのは体なんですよ、だから心は苦しんでいるという想を作り出さないこと、体は苦の感受を生まないこと、双方必要ですよね、ということであるように思います。

心は苦しんでいるという想を作り出さないこと、体は苦の感受を生まないことによって、喜びと安楽が生じた状態が、「七覚支」の「軽安覚支」と言えると思います。


行:

「行う」つまり意図して行為するという意味での意図とその結果とられる行為と考えるとよいでしょう。想を言葉にして把握すること、それによって行為しようとすること、行為することを含みます。「たわしたちが体験したことは、大脳で意味的な処理をされる以前に、いったんこの海馬にしばらくの間蓄えられる。」(大山泰宏さん前掲書)。行は、大脳での意味的な処理が行われる前の行為(脊髄反射のような行為は「受」に分類される)と言ってよいでしょう。釈迦が生きた時代の人々は、現在の私たちから見れば「神話的世界観」の中で生きていたと思われますから、「神話的世界観」を否定することとなる「大脳での意味的な処理」をする人はほとんどいなかったのでしょう。釈迦は「大脳での意味的な処理」をフル活用して「神話的世界観」から脱した、と理解することもできると思います。現代の私たちは少なくとも釈迦の生きた時代の「神話的世界観」を持ってはいないでしょうが、心のはたらきとしては根本的には変わっていないと思います。

体が感じた楽の感受に接続して「意図」「衝動」「意欲」を起こし行為すること(=行)によって、貪る性向が潜在し、苦の感受に接続して「意図」「衝動」「意欲」を起こし行為すること(=行)によって、怒りうらやむ性向が潜在し、不苦不楽の感受に接続して「意図」「衝動」「意欲」を起こし行為すること(=行)によって、愚かさという性向が潜在するとされています。(春秋社 原始仏典第七巻 六六経)

釈迦の認知論を敷衍(ふえん)すると以下のように説明できるかもしれません。

他者が怒りを感じたとあなたは感じました。

その人には、怒りが生じて、体に苦の感受(強い不快感)が生じる考えられます。

そしてその人は、体の苦の感受(強い不快感)から、その人は不機嫌になったり、何かに当たり散らかしたり、怒鳴ったりするかもしれません。

その人は怒りが生じると同じ行動を繰り返すかもしれません。それは体が感じる苦の感受と結びついているがゆえに、意識しただけでは同じ行動を繰り返すことを止めることができないのかもしれません。

苦の感受に接続して「意図」「衝動」「意欲」を起こし、行為すること(=行)によって、怒りうらやむ性向が潜在しているという理解の実例と言えるかもしれません。

このことは、苦の感受(強い不快感)を行動として発散しようとして、不機嫌になったり、何かに当たり散らかしたり、怒鳴ったりするという行動を取り、その一連の反応を体が(脊髄反射として)記憶しているがゆえに、繰り返され、不機嫌になったり、何かに当たり散らかしたり、怒鳴ったりするという行動を止めようと意識しただけでは、それらの行為を制御できない、と解釈できるかもしれません。


そのように考えると、釈迦が大念処経(春秋社 原始仏典第二巻所収)で、次のように説いていることに納得がゆきます。


「苦しみのすぐれた真理とは何か」

「身体による識別はこの世のなかにおける〔、好ましいもの、楽しいものである、そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕留まっているのである。」


「苦しみの消滅というすぐれた真理とはなにか」

「身体による識別はこの世のなかにおける〔、好ましいもの、楽しいものである、そこでその愛執が捨てられ、そこで〔愛執〕が滅ぼされるのである」


識:

識別作用と説明されます。自分の経験、知識を参照してそれを良いと判断してたり良くないと判断したりする機能というところでしょうか。行為の後に「まずことをした」と識別されれば体に苦の感受が生じ、後悔や報復を予感する想が生じるでしょう。

ちなみに後悔することを「悪作」(漢訳です)といって、心を乱すことであるとされています。

普段は意識しないけれども、想を生じさせ、行(想を言葉にして把握すること、それによって行為しようとすること、行為すること)に際して参照される経験に基づく知識の体系、つまりスキーマと考えてよいでしょう。


識と早期不適合スキーマ

そして早期不適合スキーマとされるものがあると、心が落ち着かないということに気付きます。そしてそれが基本的感情欲求が満たされなかったことによって、基本的感情欲求を満たされることを求めて、場合によっては何かに依存することによって基本的感情欲求を満たそうとしている、しかし何かへの依存によって基本的感情欲求が満たされることは無いため、いつも飢餓感欠乏感を感じているのだ、と気づきます。

釈迦は的確にこのことを言い著しました。「求不得苦」です。

この場合の求不得苦は、求めても得られはずがないことを求めているから苦しむのだ、という意味です。

今現在の私には母親から、苦痛となる罵りも体罰も与えられていません。

しかし幼少期の苦しみが心に記憶され、苦しみに対する体の反応(受)が記憶され、苦痛から逃れたいという欲求が生じていますが、幼少期に戻って、こうされたくはなかった、こうして欲しかった、自分はこうすればよかった、という欲求を満たすことはできません。できないことを心が勝手に(自ら意識せず、明確な意思によらず)想像して(想を生じて)、飢餓感欠乏感を感じて、飢餓感欠乏感の充足を求めて、あれこれ想像して気を紛らわそうとしても、自分が心奥底に持っている飢餓感欠乏感が満たされることは無いから苦しむのだ、という考えに至ります。

私の場合は、母親が非常に攻撃的(私の理解では)であったので、母親に恐怖心を抱くあまり、母親の私に対する否定的な思考を自分の中に取り込むということで母親に対する恐怖を和らげようとした結果、自らが自らを母親のように批判、攻撃するようにもなっていたようです。

これは、母親の私に対する攻撃の理由を理解して「もうわかったからいじめないで」という言い訳をするために、(私が幼少期に理解した)母親の私に対する否定的な思考(幼少期私はそのように理解していました)を自分の中に取り込んだ結果であったように思います。心理学でいう不適切なコーピングです。子供ですから致し方ありません。不適切なコーピングを修正しなかったことが、今の苦しみの誘因となっているようです。

スキーマ療法では、治療的再養育法により、飢餓感欠乏感を理解し認めてあげることで苦痛を減らし、早期不適合スキーマを修正への閾を下げるるようです。

ヴィパッサナー瞑想は、先ほど説明した、これをしたい(欲求)、あれをしよう(意図、双方和わせて「欲」と考えてください)を追いかけない訓練を続けることで、好悪の感情、恐怖が心に生じることを止滅させます。瞑想中は、痒いと感じても、「痒い」ととらることをせず、「痒み(が生じた)」とラベリングして、体を観察の対象にして、痒みをそのままにしておきます。痒い部分を掻くと脳の報酬系が刺激されるそうですから、痒いと感じても、掻きたいという欲求を起こさず、掻こうという意図も起こさなければ報酬系は刺激されません。ヴィパッサナー瞑想を創始した釈迦は、欲求、意図を発生させないことで、欠乏感飢餓感を発生させないようにし、それによって報酬系の活動を抑制することができて、感情の生成を抑制できる、感情の生成が抑制できれば、あるがままを観ることができる、ということを深い瞑想の中でつかんだのではないかと感じます。

そこから、求めて得られるものを求めていれば苦にはならないが、それを求めてもそもそも得られることのない過去の出来事の修正(後悔しつづけること)を求めていたら実現しないのだから苦しむだけ、そのことに気付いて(ありのままに見て)欲求と意図を止滅すれば欲求不充足の状態は発生せず、苦しみも発生しないと理解したのではないかと、と私は感じます。

釈迦が説いた初禅の状態「さらに比丘たちよ、比丘が欲望を斥け、不善の事柄を斥けて、大まかな思考や細かい思考が残っている、遠離から生じる喜びと安楽からなる第一の禅定に達する。かれはこの身体に遠離から生じる喜びと安楽を流し込み、巡らせ、満たし、ゆきわたらせる。かれの身体中どこをとっても、遠離から生じる喜びと安楽が行き届いていないところはない。」という状態になると、感情が止滅して好き嫌いや恐怖は感じない状態となり、なおかつ大まかな思考や細かい思考で、物事を観て考察できるようになります。

この状態では、好悪の感情や恐怖がありませんから、思考が好悪の感情や恐怖を感じることなく苦しみを見ることができるようになります。ありのままに苦しみをみるのですから、苦しみが生じるメカニズムを知り、どこをどう修正すれば苦しみがなくなるのかを考察して回答を得ることもできます。


釈迦は、人を突き動かすものとして、欲や執着、怒りをあげ、欲や執着、怒りに突き動かされて貪りを起こし、手に入れられないことを嘆いたりして苦が発生する、そのことを自らが知らないことを痴とし、ヴィパッサナー瞑想によって苦の発生原因やプロセスを知り、正しい(苦を生じさせない)行為を選択することで苦を無くす方法を説きましたが、後に瑜伽行派と呼ばれる人々が、末那識、阿頼耶識という深層心理を提唱し、それらに欲や執着を帰属させる唯識が成立したようです。


私の場合はどのように実践しているのか

ご参考までに私がどのように瞑想をしているのかをお話します。

歩行の瞑想は、1回30分~45分をめどに、軽安覚支を養うことを意識して(軽安の状態にあることを意識し続け歩行に意識をむけて)歩行しています。

瞑想の第一歩は、集中力の涵養(念覚支)になります。瞑想は念覚支の涵養から始まります。

ですから歩行の瞑想も、最初は歩行自体に意識を向け続けること、歩行に伴う感覚(例えば足の裏の接地感)に意識を向け続けるなど、集中力を養うことから始めました。この段階では、集中力を高める瞑想であるサマタ瞑想の効果をねらっているとお考えてよいと思います。

座ってする瞑想は、座ってすぐに軽安を作り出すように意図しています。

座禅を10年ほどやり、ヴィパッサナー瞑想を20年やっていますので、軽安を意図することで軽安覚支には容易に入れます。

軽安覚支に入る過程で、体に生じている力みは感知できますから(受の随観)、それを取りながら、今ここにいることを感じ、何かを意図する必要はないことを念じています(体と心に指示をだす)。

体を観察し観察に言葉をあてることで、欲求とそれに基づく意図(考えたい、考えること)を止めます。

体の観察は、呼吸を観ながら、縮み、ふくらみとラベリングしながら行っています。

縮み、は腹式(丹田)呼吸によって肺から空気が押し出されると、胸がしぼみ肩が少し落ちてくること、ふくらみは、息を吸い込むことで胸が膨らみ方が微妙に上がってくることを感じてラベリングします。

この観察は、

①椅子に座り、楽に呼吸できる自重で自立する姿勢を取ること、この姿勢の維持に必要な腰の筋肉への入力とそれ以外の力を抜き去ること

②腹式呼吸による長呼吸が無理なくできる(力むことなく煩わしいと感じることなく腹筋と背筋を使った呼吸ができる)こと

③微細な体の感覚を感じ取れる程度の注意力(観察力)が養われていること

が前提になります。

逆に、縮み、ふくらみを観察する練習をして、この観察ができるようになれば受の随観は進展し、自然と心の随観へとつながってゆきます。

呼吸を観る瞑想を行って、喜びと安らぎが生じていることを確認します(軽安覚支)。

喜びと安らぎの状態になると、喜びと安らぎを妨げるもの、つまり自分の心を悩ませ苦しませていることが、浮かんできますから、それを考察の対象にします。

考察の対象は、瞑想の初めで浮かぶこともあり、集中力を高めた後に浮かぶこともあります。大抵は、自分が早期不適合スキーマとして把握しているものと関連します。早期不適合スキーマが自分を悩ませ喜びと安らぎを阻害しているからこそ、喜び安らぎを作出することで、早期不適合スキーマがあぶりだされるのでしょう。

そのうえで、集中力を上げるために、「慈悲の瞑想」か「集中の瞑想」をします。

「慈悲の瞑想」は、四無量心の瞑想の簡易版であり、ヴィパッサナー瞑想の開始時に集中力を上げるために推奨されている「サマタ瞑想」です。

「集中の瞑想」は、私がそういっているだけですが、これは釈迦が治意経で『「心を集中させながら息を吸おう」と練習し、「心を集中させながら息を吐こう」と練習し』と説いている呼吸の訓練法です(春秋社 原始仏典第7巻 第118経 出入息観ー治意経)。

慈悲の瞑想の瞑想文もしくは息を吸うこと、吐くことに集中し、集中対象以外の意図を排除して集中力を高めます。

この段階になると、自分が考察しているのではなく、自然と「こういうことだろう」といった感覚で考察が進展してゆくようになります。

尋と伺が生じているからだと思われます。

自分ではない何か=尋と伺、が現状を察知して、どうしてそうなっているのかを考察してくれているという感覚です。

ヴィパッサナー瞑想によって観察し、気付いた対象を放す(執着しない、思考をしない)訓練により、尋と伺による考察がもたらされることが、ヴィパッサナー瞑想の本質であろうと思います。

欲(あれが欲しいこれが欲しいという欲求とそのためにこうしたいという意図や意欲)にフォーカスしない訓練をしてきているので、こうであったらいいなあ、という欲に影響されない考察が生じ、喜びと安らぎという快を味わっているので、体と心が快を阻害していること(早期不適合スキーマなど)に敏感になっており、快を阻害することを突き止め解消しようとしているのではないかと思います。

このような状態になることが、軽安覚支とその先にあるとされる定覚支(集中状態)のであると感じています。

このような状態では、以下のような考察がなされます。

受容と承認への渇望については、

『どうやら私には受容されたい(自分のままの自分を受け入れてもらいたい)承認されたい(自分を肯定的に認めて欲しい)という欲求、渇望、飢餓感があり、それを無意識に他者にも向けているようだ。』

『その欲求、渇望、飢餓感は、子どものころに母親から罵声とも取れる叱声を浴び暴力を受けたこと、自分は母親に受容し承認して欲しかったし、親とはそうあるべきだと考えて、母親に受容して欲しかった承認してほしかったという渇望が現在あるがゆえに、他者へ承認と受容を求めている(渇望が生まれている)ようだ。』

『しかしながら、母親から罵声とも取れる叱声を浴び暴力を受けたということは過去のことであって今ここにはない。』

『今ここにあるのは、記憶の中の、こうであってほしかったという渇望の記憶である。』

『幼少時に戻って母親に受容し承認してもらいたいという渇望を持つったとしても、昔に戻ることはできないのだから、それが叶うことは無いし、他者に受容と承認を求めてそれを得ることができても、それは母からの受容と承認ではない。』

『叶うことが無いことを願うならそれは、その願いは満たされることは無く、かなえられない苦しみ、つまり求不得苦を生むだけである。』

『叶うことが無いことを願うのは、自分の飢餓感と渇望が作り出した願望と願望への執着ゆえ、といえるだろう。』

『自分の飢餓感と渇望が作り出した妄想は叶えられることがないのだから、捨離することで、妄想によってかきたてられた渇望と、渇望による苦悩はなくなるだろう。』

このような知見に至るには、釈迦の説いた「体と心のはたらき認知のしくみ」といえる「法」によって、例えば先に説明した識受想行識(五蘊)や五蓋等によって、自分の体と心のはたらきを観ることができるようになっていることが必要なように思います。

ただし、ここでは説明するために、言い換えれば、読んでいただいている方に理解してもらうために言葉にしていますが、瞑想の中では言葉による「回りくどい」把握ではなく、直接的な知見が生じます。

釈迦の説いた「法」は、心理療法における心理教育と同様の位置づけといえますが、自律的に心理療法を進展されることができる、という意味ではより強力で実践的な心理教育だと言えます。

ただし、自分が観たくないものを見ることになるので、恐怖心は生じないものの、一時的な混乱があることも理解していただいた方が良いと思います。

気づけばスッキリして自分が変われる、というのは自分が勝手に作り出した願望、すなわち妄想と考える方がいいでしょう。


自分の無価値感無能感については、

『自分自身が感じる無価値感無力感は、母親が自分をやさしく扱わず拒絶的に扱ったことに対する、想像の中で復讐もしくは自分を慰めるために「死んでいる自分の遺体に取りすがって私に謝っている母親」という想像(妄想)を作り出すために必要なものであったからではないか』

『母親が自分をやさしく扱わず拒絶的に扱ったことにより、無価値な自分という認知が形作られ、母親が自分をやさしく扱わず拒絶的に扱ったことに自分は何ら対処できなかったことにより、無力な私無能力な私という認知が形作られた』

『希死念慮により現在に至るまで、「死んでいる自分の遺体に取りすがって私に謝っている母親」という想像(妄想)が、意図的に捨てられることなく記憶の中に維持されてきた』

『「死んでいる自分の遺体に取りすがって私に謝っている母親」という想像(妄想)が維持されるためには、無価値な自分という認知、無力な私無能力な私という認知の維持が必要であったのだろう』

『つまり無価値な自分という認知、無力な私無能力な私という認知は、「死んでいる自分の遺体に取りすがって私に謝っている母親」という想像(妄想)を記憶の中に維持し続けるために必要な「仕掛け」であり、「死んでいる自分の遺体に取りすがって私に謝っている母親」という想像(妄想)が記憶の中に維持される(意識して捨離しない)限り、なくならない「仕掛け」としての性格を持っていたのだろう』

『無能感を有能感に置き換えることも意味はない。なぜならば無能感を自分と同一視しているように、有能感を作れば今度は有能感を自分と同一視し、自分が思ったようにできなかったときに、自分と同一視した有能感とのギャップにより自分をダメなやつだと感じ、うまくゆかなかったことを受け入れることに抵抗と苦しみを感じるだろう。無能感も有能感も結局のところ、今のここにいる自分ではなく、架空の自分、つまりどこにもない自分を作っているだけだ。』


このような知見が生じると、少しはスッキリします。

自分が劇的に変わるということはありませんが、確実に心の負担が少なくなることは感じます。


この状態は、釈迦の説いた「法」、つまり「体と心のはたらき認知にしくみ」によって自分の心を解明(択法覚支)し、自分の心の解明に努力すること(精進覚支)、努力することと努力によって悩みの原因が解明される喜びが生じている状態(喜覚支)ではないかとと感じています。


上記のような知見が生じたら、『母親に承認し受容して欲しかったという渇望の記憶』『「死んでいる自分の遺体に取りすがって私に謝っている母親」という想像(妄想)』を捨離する』『無力な私、無能力な私、無価値な私という認知を捨離する』、ということを念じます。


ここでの「念じる」は、まさしく、satiについての日本における解釈、「心を一点にとどめて決意することを「念」(sati.Skt.smrti)という。」(春秋社「原始仏典第2巻第22経大念処経」註(3))です。


自分を悩ます心の中にとどまっている想い(釈迦の方法論は心に思いをとどめないことをその方法としています)、記憶(価値判断のために参照される識)を「捨離する」ということが捨覚支であり心の平静を得る段階とされる、七覚支の最終段階であるようだ、という理解に体験的に到達します。


毎日の瞑想において、この一連の流れを実施してゆくことが、少しづつ「自分の体と心のはたらき認知のしくみ」を変えてゆくことになる、と考えています。


尋と伺による考察は、集中力を養い、注意力を持って釈迦の説いた「体と心のはたらき認知のしくみ」によって、自分の体と心のはたらきを観て、「体と心のはたらき認知のしくみ」理解すること(択法覚支)に加えて、欲求を離れる=ああしたいこうしたい、このように行動して欲求を満足させて報酬を獲得しようという報酬系の働きを弱めることによってもたらされるものだと思います。

この説明の中で、瞑想の力を養う方法、目安といえる七覚支(念覚支、択法覚支、精進覚支、喜覚支、軽安覚支、定覚支、捨覚支)を説明しました。

七覚支の内容とそれによって何がもたらされるのかを理解して、各覚支の習得に努めてゆけば、初禅に至ることはそう難しいことではないと考えています。ただし、七覚支は順序を追って段階的に出てくるものではないようです。効果は感じられなくても、それぞれの覚支が影響し合いながら、すこしづつ進展してゆくようです。

すこしづつ進展してゆき、あるとき何かが変わったと気付くもののようです。

そのようにして初禅に至れば、好悪の感情、苦しみや恐怖を感じることなく、自分を悩ませていることを考察して、どのようにすればその悩みを無くすことができるのかを識ることができます。識ったら実行することできます。

実行したら、やがて体と心の反応が変わってくるでしょう。

体と心の反応が変われば、性格が変わっているでしょう。


認知行動療法の「概念化」を援用している

ヴィパッサナー瞑想の指導者の方は、ヴィパッサナー瞑想は、物事を「概念」による把握からありのままを観ることへと転換する、ということ言われることがあります。


一方前項でお話した私の取り組みは、認知行動療法の「中核信念「スキーマ」について「概念化」を行っています。


「無力感」「無能力感」「無価値観」「厭世感」「希死念慮」は、自分の体と心に生起する、体の反応(苦の感受)、想、行、識を、概念で把握したもの、ということになります。


矛盾するではないか、ということにはならないと思います。


釈迦の説く「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」に、「中核信念」や「スキーマ」という概念はなくとも、釈迦が、現代では概念化により把握される「中核信念」や「スキーマ」に基づく「無力感」「無能力感」「無価値観」「厭世感」「希死念慮」を、生きることに伴う苦しみであると考えたとしてもおかしな説明にはなりません。


大念処経(春秋社 原始仏典第二巻所収)で、釈迦は以下のように説いてます。


「苦しみのすぐれた真理とは、いったいなにか。生まれることは苦しみであり、老いることは苦しみであり、〔病気になることは苦しみであり、〕死ぬことは苦しみであり、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えは苦しみである。求めても得られないということも苦しみである。要するに〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素(五取蘊)は苦しみである。」


「〈苦しみ〉の原因のすぐれた真理とはなにか。(中略)すなわち、現世の欲望に対する愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執である。」


仏教的観点からは、「生存への消滅への愛執」をどのようにとらえているのかは、私は不案内ですが、上記2つの引用の文脈の中で、心理学や心理療法を踏まえるならば「生存の消滅への愛執」は、この苦しさから逃れたい、死ねばこの苦しさから逃れられるという「希死念慮」としか私には、理解できません。


釈迦が生きた時代は、再生が当然とされる時代であったため、生きること概ね苦なのだから、「生存の消滅への愛執」によって自殺しても生まれ変わって苦しむのですよ、だから再生への欲望を断ち切って再生しないようなれば、生まれ変わって苦しむことはありませんよね、という論法を、釈迦は取ったのではないか、ということは考えておく必要があるとは思います。


そのように考えたとしても、「〈苦しみ〉原因のすぐれた真理」として「生存の消滅への愛執」を説いていたということは、人には、死によって今ここにある苦しみから逃れたい、という死への希求があると釈迦はとらえていた、とは言えると思います。


「五取蘊」は、五蘊すなわち色、受、想、行、識の機能により、自分の体と心に認知された色、受、想、行、識(の内容そのもの)への執着を言います。


また、出家者でなく、労働に従事する私たちは、『物事を「概念」による把握からありのままを観ること』という能力を開発することには意味がありますが、完全に『概念による把握』を無くすことはできないでしょうし、完全に『概念による把握』を無くしたとしたら、労働に支障が生じるでしょう。


他者と協働して何事かを成し遂げる(労働)には、概念による意思疎通、概念によって問題を把握して問題を解決することなど「概念化」脳の力が不可欠だからです。



それでも体には相当なストレスが生じます

上記のプロセスが生じると体の負担は増すようです。

私の場合は、胃に不調をきたし体調は悪化します。

心は理解しても体は、「古いスキーマ」の下で、例えば「私なんていなくたって、何の支障ない(無価値感)」「状況を変える力がない(無力感)のだから、ずっと嫌な人生がつづくのだ(厭世観)、もう生きることを止めたい、そうすれば復讐にもなる(無力感厭世観を前提とした怒りや他者への憎悪、希死念慮)」という信念のもとで、体の健康を維持してきたのですから、「古いスキーマ」を捨ててしまうことは、例えて言えば、家の基礎の一部を除却、取り除くようなものですから、家が傾くのと同様に、体が混乱し苦痛を感じるのは無理からぬことだと理解できます。


「無価値感」、「無力感無能力感」、「厭世観」、「無力感厭世観を前提とした怒りや他者への憎悪」、「希死念慮」は、自分に苦痛をもたらすものであっても、長年連れ添ってきた自分の欲求であり、そのような欲求でもって自分を慰め、支え、何とか今まで生きて来たと考えるならば、簡単に手放せるものではない、つまり自分に苦しみをもたらす信念であったと理解しても、それを手ばなくすことは簡単ではない、言いかえれば「自分に苦痛をもたらすものであっても、長年連れ添ってきた自分の欲求」であっても執着は生じる、ということになります。


釈迦は、六六経「自己の身体の止滅に向かう道」の中で次のように説いています。

「止滅」であって「死滅」ではありませんで、死んで滅するということではなく、身体がもたらす認識(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意=意識)への執着の「止滅」へと向かう道、ということのようです。


「意を『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と〕みなすことである。思考されるものを『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と〕みなすことである。思考的認識を『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と〕みなすことである。『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と〕みなすことである。意における接触を『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と〕みなすことである。感受を『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と〕みなすことである。欲望を『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と〕みなすことである。」(春秋社 原始仏典第七巻 六六経)

「わたし」と「自我」並置されていますが、自我は、当時、存在するとされていた永遠不滅の自我であるアートマンを指しているようです。


なかなか釈迦が説くようには実践できません。「愛執」「執着」は極めて強固であると感じます。


体の負担が増したと感じた時には、軽安覚支を作出し、意図しないという瞑想を行うようにしています。

今は何も意図しなくてよいのだ、今私はここにいるだけでよいのだと自分に指示して、体の動き、感覚を観察することに集中して、意図することを排除することで、体に負担を与えないよう心がけます。


このような時には、治意経に説かれている以下のような出入息観の養成方法が参考になります。

「『全身を感じ取りながら息を吸おう』と練習する。『全身を感じ取りながら息を吐こう』と練習する。」

「『身体の活動を鎮めながら息を吸おう』と練習する。『身体の活動を鎮めながら息を吐こう』と練習する。」

「『喜びを感じながら息を吸おう』と練習する。『喜びを感じながら息を吐こう』と練習する。」

「『安楽を感じながら息を吸おう』と練習する。『安楽を感じながら息を吐こう』と練習する。」

「『心の活動を感じながら息を吸おう』と練習する。『心の活動を感じながら息を吐こう』と練習する。」

「『心の活動を鎮めながら息を吸おう』と練習する。『心の活動を鎮めながら息を吐こう』と練習する。」

「『心を感じとりながら息を吸おう』と練習する。『心を感じとりながら息を吐こう』と練習する。」

「『心を喜ばせながら息を吸おう』と練習する。『心を喜ばせながら息を吐こう』と練習する。」

「『心を集中させながら息を吸おう』と練習する。『心を集中させながら息を吐こう』と練習する。」

「『心を解き放ちながら息を吸おう』と練習する。『心を解き放ちながら息を吐こう』と練習する。」

(春秋社 原始仏典第七巻 治意経)

身体を感じることも、身体の活動を鎮めることも、心を喜ばせることも、心を集中させることも、心を解き放つことも練習により可能になるということが説かれていますから、自分の状態に合致した方法を選択することができます。


「粗い考察」「微細な思考」は、軽安覚支により集中力を高めたうえで「意図」を働かせることですから、


「『安楽を感じながら息を吸おう』と練習する。『安楽を感じながら息を吐こう』と練習する。」

「『心の活動を感じながら息を吸おう』と練習する。『心の活動を感じながら息を吐こう』と練習する。」

「『心を喜ばせながら息を吸おう』と練習する。『心を喜ばせながら息を吐こう』と練習する。」

「『心を集中させながら息を吸おう』と練習する。『心を集中させながら息を吐こう』と練習する。」


という練習が効果的と言えます。


「粗い考察」「微細な考察」は、集中力が高まっている状態で行う、心の深奥での考察であるゆえに、心の状態の変化を促す力が大きく、必然的に体に与える負担も大きくなるように感じます。


そのように感じると、「粗い考察」「微細な考察」を使うことや「念」じることで、早期不適合スキーマを修正もしくは書き換えしようとしても、早期不適合スキーマに慣れ親しんできた体が対応できず苦しみを感じているのだから、今は体を休めるときだ、という考えに至ります。


そんな時には「『心を解き放ちながら息を吸おう』と練習する。『心を解き放ちながら息を吐こう』と練習する。」ことが効果的だと感じます。


おもしろいのは、それを2、3日続けていると、「無価値感」、「無力感無能力感」についてさらに考察が進み、

「無価値感という感覚はその裏で、価値ある存在でありたいという欲求を生み、そのためには他者から良い人であるとか、能力のある人であるとか、受容されたい、という欲求が生まれ、その欲求が満たされないと自分が感じるがゆえに自分を苦しめている。」

「無力感無能力感は、自分が無力ということと同時に、力への渇望を生み、人から見下されたと感じることによって、力への渇望が満たされないことにより怒りが生じるのだろう。そして怒りは、自分の無力感無能力感をより強く意識させるがゆえに、苦しみを生むのだろう。」

「念人経において、釈迦が『身体にむけた注意』を養成することの利益のなかで、『辛辣で不愉快な発言に耐え』られるようになると説いたのは、無価値感や無力感無能力感の裏返しとして、自分が価値ある存在、力のある存在であると他者から認められることを渇望しているがゆえに、『辛辣で不愉快な発言』がその渇望を挫くがゆえに苦しみを生むのだろう。自分が価値ある存在、力のある存在であると他者から認められることを渇望することを止めれば、『辛辣で不愉快な発言に耐え』られるようになるのだろう。」(念人経 春秋社 原始仏典第七巻所収)

という考察が意図せずとも生まれてくることです。


体と心が喜びと安らぐとともに「粗い考察」「微細な考察」があらわれると、意図せずともヴィパッサナー瞑想を行うと「粗い考察」「微細な考察」が働いてくれ、自分を苦しめる自分の思考をあぶりだしてくれるようです。


体を休める瞑想もあります

白隠禅師は、猛勉強(根をつめる、ということでしょうか)がたたり体調が悪化した時に、内観と軟蘇の法で体調を取り戻したとされることを思い出します。

軟蘇の法は、座禅時に、滋養に富むとされる軟蘇を頭上に置くことをイメージし、さらにその滋養が体に染みわたることをイメージする方法です。

内観は、具体的な方法は不明なようですが、現在でも仰臥禅として実践されているようです。

仰臥禅においては、座禅と同様に調身、数息観などにより、「放下著」みんな放り出してしまいなさい、ということを実践し身心ともにリラックスさせることだそうです(大蔵新書 「夜船閑話」荒井荒雄さん)。

仰臥禅には曹洞型と臨済型があるようですので、道元禅師に私淑したカバットジンさんが仰臥禅に触れた可能性もあるように思います。

仰臥禅がボディスキャンの原型ではないか、との思いがあります。

ヴィパッサナー瞑想は、自らの体が苦しんでいる時には、今は少し休むとき、と識ることにも導くと思っています。

というよりも、体が苦しんでいることを識ることができず、瞑想することは良いことだからといって、体に負担をかけ続けながら精進するのであれば、苦しみを自ら生み出していることにほかなりませんから、それはヴィパッサナー瞑想ではありませんし、ヴィパッサナー瞑想が開発する智慧による判断でもないと思います。

そんなことを言っていたら悟りに至れない、というのは修行僧の方には通用するのかもしれませんが、私にもあなたにも不適合です。


『道元禅師(永平寺開祖)は『学道用心集』という本の中で、「有所得の心をもって仏法を修すべからざること」と述べられております。「健康になりたい」とか、「出世したい」とか、「ノイローゼを治したい」とか、何かの利益を得ようと思って、禅を行なってはいけないというのです。禅では、「悟り」さえ求めてはいけないというのです。」(荒井荒雄さん前掲書)。


「何かの利益を得ようと思って、禅を行なってはいけない」というのは、脳の報酬系を刺激しない、という観点からはもっともなことです。

あれを手に入れたい(今それをもっていない)➡手に入れた➡満足した(報酬系から報酬が与えられた)、という脳の回路を使用し続ければ、あれを手に入れたい、という欲求を作ることによって、報酬系からの報酬がえらるという見込みを強化し、そのことは欲求を作ることを強化する方向に働きますから、修行の支障になるどころか、修行自体が無意味になるでしょう。

もっぱら修行して悟りに至ることを目指す出家者は、道元禅師の言われる通りですが、出家者でない方は悟りを求めているわけではありませんから、禅や瞑想に「何らかのメリット」があるからやるのでしょう。


出家者のやり方を、在家(出家していないひと)にまで、強引に適用する必要はないでしょう。


とは言っても、在家であっても報酬系への刺激を繰り返していたのでは、「何らかのメリット」に到達することはできませんから、あまりあれが欲しい、こうなりたい、と考えない方が「何らかのメリット」に到達することはできるでしょう。


カバットジンさんは、「何らかのメリット」と「何かの利益を得ようと思って、禅を行なってはいけない」ということをうまく両立しています。


カバットジンさんは、「マインドフルネスストレス低減法」(邦訳北大路書房 春木豊さん訳)で、「マインドフルネス瞑想法」の基本的な態度として「(1)自分で評価を下さないこと」、「(5)むやみに努力しないこと」などをあげています。

一生懸命やった(努力した)のだから成果が出るはずだとか、成果が出ないのは「マインドフルネス瞑想法」が効果がないからだとか、評価しない方がいいということでしょう。

成果が出る出ないという判断は、何らかのゴール(漠然とした、こうなりたい、こうであったらいいな=想)があり、ゴールに近づいているかいないかを評価尺度として参照することで可能となりますが、通常はこのことを明確に意識していません。

禅や瞑想は、それらゴールや評価尺度を持っている自分の暗黙の思考や執着に気付くということを手段もしくは内容としますから、強固な目的意識があって、そこに至ることを求めて(執着して)いると、ゴールや評価尺度を持っている自分の暗黙の思考と執着に気付くことは難しいでしょう。

そして、自分の暗黙の思考と執着に気付くことができなければ、自分の暗黙の思考によるゴールや評価尺度を満足させることができないことで、あなたは苦しみ、苦しみの原因に気付くことができません。

それゆえ、ゴールを設定し、そのゴールに近づいているかどうかという評価尺度を参照して成果が出ていると満足したり、成果が出ていないと落ち込んだりしたのでは、禅や瞑想は「何らかのメリット」をもたらさないでしょう。

カバットジンさんは、「(1)自分で評価を下さないこと」、「(5)むやみに努力しないこと」を実践したうえで「(2)忍耐づよいこと」「(3)初心を忘れなこと」「(6)受け入れてること」を実践すれば、そのうち(少し無責任ないいかたですが、個人差があるのでそのようにしか言えません)、向こうから成果がやってきますよ=自ら変化を感じることができるようになりますよ、だから成果が無いように思えても「(4)自分を信じること」を忘れずに続けてください、と言っているように思います。

(1)から(6)は、カバットジンさんが、道元禅師の方法を消化し吸収し、慢性疼痛などに苦しむクライエント(当然出家者ではありません)の方に、道元禅師の方法の本質を分かりやすく伝えるために考え出した方法論だと感じます。

慢性疼痛は、完治できない、反復継続的に生まれる痛みだそうですから、カバットジンさんの「マインドフルネスストレス低減法」でも完治できません。

「マインドフルネスストレス低減法」は、慢性疼痛がありつつも、人生の質(QOL)を向上させることを目的としています。


自ら変えたいと思わない限り変えられない

そもそもスキーマ自体が悪さをするという性格のものではなくて、スキーマは、人が社会性を身に付けたり様々なことを学習したりする過程で、経験をどのように解釈し理解し、将来において、自分がどう考え振舞ったら適合的にふるまえるかという学習の結果の体系として形成されるものです。

不適応なスキーマが形成されたとしても、それは自分が受けた苦痛を自分なりに解釈し理解し、苦痛を和らげるために選択されたと考えられます。

なぜならば、幼少期においては、両親を含む環境を自らが変える力を持っていませんから、できることは自分の頭の中で、自分が受けた苦痛を自分なりに解釈し理解し、苦痛を和らげるしか方法がないからです。

子どものころに、強烈な苦痛を伴う体験により形成されたスキーマは、子供のころの環境にはある程度適合的であったとしても、大人になって自らの意志で物事を決め、社会の中で、自らに周囲が期待する役割を果たして適合的に生きてゆくのには、ふさわしくないものである可能性があります。

アルフレッド・アドラーさんは、このように言っています。アドラーの「ライフスタイル」は、スキーマと読み替えても通用するように思います。

『人はライフスタイルを10歳くらいまでに自分で完成させる。そしてそれを一生使い続けるのだ。』

『使い続けたライフスタイルが支障をきたしても人はそれを変えようとはしない。現実をねじ曲げてでも、自分は正しいと思い込むのである。』

『ガミガミと叱られ続けた者が暗い性格になるとは限らない。親の考えを受け入れるか、親を反面教師にするかは「自分の意志」できめられらるのだから。』

 『幸せな人生を歩む人のライフスタイル(=性格)は必ず「コモンセンス」と一致している。歪んだ私的理論に基づく性格では、幸せになることはできない。』

『自ら変わりたいと思い努力をすれば、ライフスタイルを変えることは十分に可能だ。性格は死ぬ1~2日前まで変えられる。」

(「人生に革命が起きる100の言葉」小倉広 ダイヤモンド社より)


人は多かれ少なかれ性格に問題(苦悩)を抱えざるを得ないようになっている

と考えて差し支えないように思います。

ですから仮にあなたが「性格に問題をかかえている」かもしれない、と考えたとしても、それはあなたが異常であるとか、病気であるとかではなく、あなたがあなたを取り巻く環境に適応した結果であって、あなたに異常があるということでありません。

人は苦しいことやつらいことは避けたい性向をもっており、自分が味わった苦しみやつらさを解消するために、苦しみや辛さの体験を解釈して理解してそれらを避けようとします。

その解釈し理解したものがスキーマであり、幼少期に自分が苦しみやつらさを味わったとすれば、自分に原因があったから、自分は悪い子で好かれないから攻撃されたのだと考えるかもしれませんし、攻撃した人は自分をいじめる悪人だと思うかもしれません。このようなスキーマを、スキーマ療法では、早期不適合スキーマと言います。

幼少期は親に保護してもらえないと生きてゆけ(生きて行けなくなるという恐怖)ませんから、攻撃した人が親であった場合、親を悪い人だと思うことを抑圧し、意識しないようにします。

意識しないようにすることにより、自分が自分の早期不適合スキーマや早期不適合スキーマに基づく感情に気付く機会がないまま、スキーマは温存され成長し、社会人となった後もスキーマに合致する事実が取り上げられスキーマは強化されます。

ですから、仮にあなたが早期不適合スキーマを持っていたとしても、現在大きな支障なく働き、生活を維持しているのであれば、それは正当に評価されるべきことではあっても、「性格に問題がある」と他者から責めらたり低く評価される性格のものではありません。

あなたの人生はあなたのもの、あなたしか生きられませんから、他者があなた人生を評価したりする性質のものではないのです。

(しかし人間は、脳の構造上、エリスさんからの引用にあるように、自分に都合の良い理屈を作ることができ、自分に都合の良い理屈を作って人を攻撃することができます。)

苦しいことやつらいことから何とか逃れようと、幼少時の智慧を振り絞って苦しいことつらいことに耐えるために早期不適合スキーマ(と言われる)解釈や説明をつくりだしたのですから、それを誰も責めることも評価することもできないでしょう。


だから仮にあなたが少し悩みながら生きていて、他者との互恵的な関係作りが苦手だとしても、以下のように声をかけるべきだと思っています。


あなたは過去のつらい体験にもかかわらずよくやっています。

本当に大変だったでしょう。

早期不適合スキーマを少し修正して楽になりましょう。






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