高度なリラクセーション状態の作り方(3)
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高度なリラクセーション状態を作るために
これから高度なリラクセーション状態を作るための、釈迦の認知論を考察します。
釈迦の教示を阿含経から引用して説明しますが、(繰り返しになりますが)私は仏教徒ではありませんし、仏教の布教の意図はありません。
釈迦の説いたことは、今日日本で信仰されている仏教とは異なり、自己の外部に救済を求めたり、自己の外部に設定された救済者を信仰することにより心の安静を得るというものではありません。
釈迦は以下の用教示しています。
「自分を島とし、自分を拠り所として、他を拠り所とせず、真理を島とし、真理を拠り所とし、他を拠り所とせず、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは何によって生じ、何によって発生するのかを、根源的に観察すべきである。」(春秋社 相応部経典第三巻より)
「真理」は、仏教では「法」と訳され解釈されますが、ここでの「真理」とは、「自分を拠り所として」「愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは何によって生じ、何によって発生するのかを、根源的に観察」することによって、自分がたどり着いた「愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩み」が生まれる原因を自覚したとき、その自覚を、「真理」と理解してよいでしょう。
(仏教の観点を踏まえて考察すれば、その「自覚」は、釈迦が説いた「法」を、自らが実証して得た「自覚」という理屈になります。仏教的には「法」を主として、自らの自覚を「従」とする立場であると考えられますが、認知論の考え方からすれば、釈迦が説いた「法」を、自分が実証して自覚に至れば、それは自らの経験に照らして真実相当性があるということになりますから、自らが「真理」と認識することに無理はありません。釈迦が説いた「法」を、自分が実証し「自覚」にいたることなく、釈迦が説いたことだから「真理」なのだということであれば、それは「信仰」ということになるでしょう。)
釈迦が教示したことは、自らの苦しみが生まれる自らの認知形成のあり方を自覚し、その自覚に基づいて自らの力で苦しみを乗り越える方法を教示したものですから、自力救済、すなわち今日の認知論アプローチによる心理療法ととらえてもいい内容です。
ですから、釈迦の教示、阿含経の解釈は、仏教による理解、解釈を参照することはありますが、仏教としての理解、解釈を行うものではありません。
むしろ現代の心理学や、認知行動療法、スキーマ療法などの心理療法の考え方とも矛盾しませんから、それらを参照しながら、釈迦の認知論を考察したものとお考えいいただいていいでしょう。
現代の心理学や、認知行動療法、スキーマ療法などの心理療法と釈迦の認知論、方法論の決定的な違いは、現代の心理学や、認知行動療法、スキーマ療法が、科学的な検証が可能であることを前提に、被験者や臨床患者の観察や診察、心理療法による介入の反応などから、心理的苦悩をなくす方法を探ったのに対して、釈迦は悩み苦しむ一人の人間、つまり臨床患者として、自らの認知形成のしくみを高い集中力をもって観察し、自らのありのままの認知形成が悩み苦しみを生み出すという認知に至り、自らの認知形成のしくみを、悩み苦しみを生み出さないものに改変し、その方法を教示ました。
それゆえでえあろうと考えますが、釈迦の悩み苦しみが深かったがゆえに、釈迦は、常人では成し得ない水準で、自らの体と心のはたらきと認知形成のしくみに奥深く分け入り、悩み苦しみの発生原因を突き止めたと考えられるため、釈迦の方法論を学ぶ人、実践する人は、悩み苦しみが大きい人ほど、釈迦の方法論の実践によって得るものが大きくなるのではないかと感じています。(仮に、の話になりますが、苦悩した釈迦の方法論は、(仮に)苦悩の無い人がいたならば、その人には理解できないだろう、ということになります。釈迦の方法論を、修行とらえるならばそれは容易に理解できるかもしれません。)
切実な、解決したい悩み苦しみを持つ人がなくしたいのは、自分が抱えている悩み苦しみであり、認知論の立場をとる限り、自己の認知形成のあり方を知り、悩み苦しみの発生を知り、自らが悩み苦しみなくす、もしくは和らげる方法を実行するしかありません。
釈迦の認知論、方法論が革新的であったのは、2600年前、神話的世界観が支配的であったと考えられる時代に、悩み苦しみの解消を自己の外部に求めるという方法論を取らず、釈迦は、悩み苦しむ自己の体(身体感覚)と苦悩が生起する心理的プロセスを観察し考察すること通じて、悩み苦しみを含む認知を生み出す五蘊という体と心のはたらき、認知形成のしくみがあると自覚し、人のありのままの認知形成機能、言い換えれば野放し状態の五蘊のはたらきこそが、悩み苦しみを生み出すのであり、自らが野放し状態の五蘊のはたらき方を変えてゆけば悩み苦しみは滅尽できると、説いたことであると考えています(五蘊=色:眼、耳、などの感覚器官、受:体と心の感覚、想:考えアイディア、行:意欲を起こしアイディアを実行する、識:記憶の保持、記憶の参照機能)。
20代から座禅を始め、30代でヴィパッサナー瞑想に取り組み今日まで継続して来た経験をもとに、阿含経を読んだところ、自分が経験してきたことは、釈迦の教示の中にあることを知りました。
自分に中核的感情欲求が満たされなかったことによる早期不適合スキーマが形成されているようだ、ということもヴィパッサナー瞑想により、自覚しました。
どうしたらいいんだろう、という困惑と疑問に回答をあたえてくれたのもヴィパッサナー瞑想でした。
そのような経験を踏まえて、釈迦が教示した、悩み苦しみをなくす方法論とその前提となる、釈迦がとらえた、人が悩み苦しみを生み出す、体と心のはたらきと認知形成のしくみを自らが確認し、ご紹介しようと試みたものが、このブログです。
阿含経の念身経には、J.カバットジンさんが、マインドフルネスストレス低減法で効果を上げた、慢性疼痛等に対する痛みの軽減効果も説かれています。
ただし、なぜ痛みの軽減効果あるのかは、「こうすれば、こうなるから、やってみて自分で確かめなさい」というスタイルが釈迦の方法論であるため、教示されてはいません。
それでもヴィパッサナー瞑想をしていれば、釈迦が説かなかったことを、こういうことのようだ、という理解に至ることができます。
瞑想を実践して自ら自覚に至り、それをたよりにして生きてゆきなさい、それこそが釈迦が意図したことであると感じます。
釈迦が説いた7つある「悟りにいたるための支分」のなかに、『「物事の解明という悟りの支分」(択法覚支)』(治意経)というものがあります。
択法とはこの場合、釈迦が教示した、人の体と心のはたらきと認知形成のしくみを学び、自分の体と心のはたらきと認知形成のしくみを観察し、自覚し、悩み苦しみをなくす方法を知ること、と考えられますから、このブログは、仏教の理解によらない、私にとっての「択法覚支」養成の試みとも言えます。
このブログが何らかのお役に立てれば幸いです。
用語についての説明
(1)認知
「認知」という言葉については、対象を広くとっています。
体に生まれる感覚、痛み、心理的苦痛、苦悩、怒り、好き嫌いや恐怖など生成される感情、記憶と記憶の参照、意識的無意識的双方の思考など「体と心にうまれる認知できる出来事」という意味で使用しています。
これは、釈迦が到達した「ただ事象のみが存在する」(大念処経)と言っている時の「事象」の意味内容を「体と心にうまれる認知できる出来事(そしてそれは自分の思うままにならないこと)」と解釈していることから、体と心のはたらきと、認知形成のしくみによって「体と心にうまれる認知できる出来事(そしてそれは自分の思うままにならないこと)」を、「認知」として、「認知形成のしくみ」「認知形成機能」「認知形成のありか方」という使い方をしています。
(2)体と心のはたらき、認知形成のしくみ
釈迦がとらえた、人のありのままの認知形成の機能といえる五蘊、すなわち色、受、想、行、識の機能とその機能によって認知が生成されること、五蓋とされる、貪り、怒り、心の浮つきと後悔、沈鬱になることと眠気、疑念がうまれること、の五つの、ヴィパッサナー瞑想の進展を妨げ、観察力が発現することを妨げる、好ましくない認知形成のはたらきなどもふくめて、「体と心にうまれる認知できる出来事(そしてそれは自分の思うままにならないこと)」を生み出すはたらきとしくみを、「体と心のはたらき」「認知形成のしくみ」としています。
ありのままの体と心のはたらきと認知形成のしくみ、とは釈迦が苦しみであるとした「五取蘊」、すなわち悩み苦しみという認知を生み出してしまう野放し状態としての五蘊のはたらきというということになります。
釈迦の方法論は、自己の外部の出来事が悩み苦しみを生むのではなく、自己の外部の出来事を認識し、無自覚に解釈し、無自覚に行為するするという「体と心のはたらき、認知形成のしくみ」が悩み苦しみを生み出すのだ、と考えたのですから、今日の認知療法などと同様の認知論アプローチです。
釈迦は、人はありのままでは「出来事を認識し、無自覚に解釈し、無自覚に行為する」状態にあると考えたようです。
釈迦は、人の、ありのままの認知形成のあり方(ありのままの体と心のはたらきと認知形成のしくみ)は、悩み苦しみを含む認知を無自覚に生成する=「五取蘊」の状態であり、ヴィパッサナー瞑想の四念処により、五蘊を観察して、悩み苦しみを含む認知を無自覚に生成する状態である「五取蘊」を自覚し、「五取蘊」を生み出す認知形成機能への執着をなくす(=離欲)ことにより、悩み苦しみの認知生成をなくすことをができると教示しました。
釈迦が到達した「認知」論
高度なリラクセーション状態は、実現できて、そのメリットが得られなければ意味がありません。
高度なリラクセーション状態を実現するためには、体と心との対話、すなわち体と心の声(状態)を聞き取り、リラクセーション状態へフィードバックすることが必要です。
ヴィパッサナー瞑想は、自分が、自分の体と心を観察することによって、体と心と対話することを可能とする瞑想法です。
ヴィパッサナー瞑想は、釈迦の認知論(人の心と体のはたらき、認知形成のしくみがどのようなものであるかという理解)から生み出されたと考えられますから、ヴィパッサナー瞑想によって、高度なリラクセーション状態に到達するためには、釈迦の認知論を知っておくことは有益です。
高度なリラクセーション状態についての限定的な情報では、高度なリラクセーション状態の実現は難しいと思われるからです。
高度なリラクセーション状態の説明を、車のエンジンの設計製造に例えれば、エンジンのスペックだけ提示されてエンジンの設計製造を要求されても、よいエンジンをつくることはできないのではないでしょうか。
そのエンジンがどのような車に搭載されるのか、その車の想定される顧客層、利用形態、販売地域、価格、ボディ剛性など多岐にわたる、完成形としての車の情報が無ければ、その一部であるエンジンの設計製造はできないでしょう。
釈迦の認知論、方法論は、最終的には釈迦が到達した、第四禅とされる、悩み苦しみはもちろんのこと、喜びや安楽さえ放棄した、完全な心の平静の境地から教示され、なおかつ釈迦の方法論を実践する者たちが第四禅へ到達することを可能とするものですが、第四禅に到達する中間点に高度なリラクセーション状態があるといっていいように思います。
高度なリラクセーション状態を実現し、そこにとどまりメリットを享受することも可能ですし、一歩すすんで、生き苦しさ、なんとなくつらい、と言ったことが生起する原因を知り、それを解消することへ進むことも可能です。
そのため今回は、釈迦の認知論、方法論の全体像をお話します。
高度なリラクセーション状態の実現を目標としていますから、釈迦が到達した方法論、すなわちヴィパッサナー瞑想、四念処、五蘊、四聖諦などを、仏教の文脈からではなく、認知論として考察してみます。
「仏教の文脈からではなく、認知論として考察」するとは、「釈迦はこのように説いているのだからそれは真実である」という観点は、いったん脇においておいて、ヴィパッサナー瞑想の四念処による、五蘊(体と心のはたらきと認知形成のしくみ)の観察の方法、その結果もたらされる五蘊(体と心のはたらきと認知形成のしくみ)の変化に関して考察してみる、ということになります。
阿含経で、釈迦が教示していることが、私たちの今現在の体と心にどのように生起していて、釈迦の方法論を実践することによって、私たちの体と心はどのように変化してゆくのだろうか、ということを考察すること、とも言い換えられるでしょう。
釈迦の方法論は、マインドフルネスとして心理療法に取り入れられていますが、釈迦の方法論の基礎となる認知論は、悩み苦しみつらさの生まれる原因を、人のありのままの認知形成(体と心のはたらきと認知形成のしくみ)に求めています。
釈迦の認知論に基づく方法論は、仏教的には、悩み苦しみつらさを生み出す、人のありのままの認知形成のあり方(体と心のはたらきと認知形成のしくみ)を観察により自覚し、悩み苦しみを生み出さない認知形成のあり方(体と心のはたらきと認知形成のしくみ)に改変してゆけば、悟り、解脱に至るということができるという教学となるのかもしれませんが、このプロセスは、「悟り、解脱に至ることができる」という部分を除外するならば、心理療法の進展プロセスと言えます。
釈迦の認知論に基づく方法論はそんなに難解なものではないと思います。
ただし、ヴィパッサナー瞑想により観察力、集中力を養い自分の「体と心のはたらきと認知形成のしくみ」を観察考察することが前提になります。
無自覚(無意識領域で)に行われている体と心のはたらき(五蘊)観察し、認知形成のしくみ(五蘊)を考察するならば、どのようにして悩み苦しみつらさが生まれてくるのかということを知ることができるだろう、無自覚に(無意識領域で)認知形成している状態(五取蘊)を放置していれば、悩み苦しみつらさが生まれてくることは無くならない、ならば、悩み苦しみつらさを生み出さないようにするには、無自覚に(無意識領域で)認知形成している状態(五取蘊)をなせばい、とも説明できます。
釈迦の認知論に基づく、ヴィパッサナー瞑想を心理療法としてとらえるならば、その方法は次のようなものになります。
観察力を高める訓練を行い、高度なリラクセーションを実現したのち、現在における悩み苦しみの生起を知り、集中力を高めその悩み苦しみを観察することを意図すると、高度な観察眼考察眼(尋と伺)が現れ、これが悩み苦しみなのだな、ということを正面から受け止めるようになります。
悩み苦しみであることを正面から受け止めると、悩み苦しむより、悩み苦しみがないほうがいい、悩み苦しみをなくしたい、という、人に本来備わっている機能と言える「四聖諦」が起動して、高度な観察眼考察眼(尋と伺)が、現在の悩み苦しみを手掛かりに、記憶をさかのぼり、現在の悩み苦しみを形成している過去の原因を特定します。この状態は、感情の記憶とかかわる偏桃体系のはたらきとは分離された、脳の高次機能系の働きが活性化している状態と考えられます。
この状態が、仏教的には、如実知見、物事をありのままに見ることができる状態であると思います。
過去の原因が特定できたならば、高度な観察眼考察眼(尋と伺)によって、その原因をなくす(例えば過去の苦痛や苦悩の体験と形成された理解、解釈をし直す、修正する、書き換えること、釈迦の教示では遠離、執着をなくす)によって、現在における悩み苦しみがなくなる(偏桃体系による苦痛や恐怖などの記憶の再現が抑制される)ならば、それが悩み苦しみをなくす方法であるのであると知ることとなり、その方法方を実践すれば悩み苦しみはなくなる、という理解に至ります。
この状況は、仏教的には、智慧の発現により悩み苦しみをなくす方法を知る状態であると思われます。
「過去の苦痛や苦悩の体験と形成された理解、解釈」は中核信念やスキーマとされるものだと考えてい良いでしょう。
釈迦が中核信念やスキーマと言いう概念は持っていなかったでしょうが、釈迦は、生きるとは、五蘊が出現し認知領域を獲得すること、死ぬとは五蘊を破壊し身体を放棄すること(大念処経)、と説いていますから、「過去の苦痛や苦悩の体験と形成された理解、解釈」すること、中核信念やスキーマを形成することは、生に伴う本源的な機能(体と心のはたらきと認知形成のしくみ)によるものであると捉えていたと考えてよいと思います。
釈迦の苦悩をなくすための方法論は、脳の高次処理系が関与されずに機能するとされる、感情の記憶を保持する偏桃体系の働きを、高度な観察眼考察眼(尋と伺)を起動することによって、脳の高次処理系が制御している状態、制御する回路(認知形成のしくみ)を脳に構築する、と考えていいように思います。
釈迦は、念身経で、身体にむけた注意に習熟することで、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気を克服できると説いてますから、感情の記憶を保持する偏桃体系の働きを、脳の高次処理系が制御する(回路を脳に構築する)という考えとは整合的です。
今回は、釈迦が到達した『悩み苦しみつらさを生み出す、人のありのままの認知形成のあり方(体と心のはたらきと認を知形成のしくみ)』について考察してゆきます。
観察と自覚による認知療法アプローチ
「体と心のはたらき」「認知形成のしくみ」が苦しみを生み出す
釈迦の方法論を、「仏教の修行」としてではなく、「認知論アプローチによる心理療法」という観点から考察してみます。
釈迦は、自らの悩み苦しみから解放される方法を探求する過程で、自らの体と心の観察によって、自らの体と心のはたらきと認知形成のしくみが、悩み苦しみを生み出すことが原因だと知り(認知論)、悩み苦しみを生み出す原因を滅する方法に到達(方法論)し、その方法(ヴィパッサナー瞑想、四念処による五蘊の観察、四聖諦など)を説いたのですから、心理療法ととらえて問題ないと思います。
心理療法、と言っても心理的な困難を抱える人のためのもの、ということではなく、心理的な困難がない方であっても効果はあると思います。
心理療法と言っていいというのは、釈迦の方法を簡潔に言い表すならば、「自己の認知形成機能の徹底した観察によって、自己の認知形成機能の自覚に至り、自己の認知形成機能を改変する方法」なので、心理的困難を抱えている人が、自己の認知形成機能の徹底した観察によって心理的困難の原因の自覚に至るならば、認知形成機能を改変することによって心理的困難の原因をなくすことができるでしょう、と考えられるからです。
また、心理的困難を抱えていない人も、感情の生成を抑制する(偏桃体のはたらきを大脳皮質のはたらきで抑制すると考えられます)ことにより、好悪の感情や嫌悪感、恐怖と言った感情から解放されて物事を見て、理解し、意思決定することができる、つまりスッキリと考え行動できるようになるでしょう。
「好悪の感情や嫌悪感、恐怖と言った感情から解放されて物事を見て、理解し、意思決定することができるようになること、によって、感情の生成が穏やかになり、ものごとを考えるときに感情に引きずられないようになり、結果として思考の回転が速くなる、的確な状況の把握や適格な言語化が可能になる、思い悩んでもどうにもならないことに思い悩まなくなる、などの効果が期待できるでしょう。
また、人の重要な能力と考えられる、今ある事実から概念的に事態を把握する、将来を予想する、対策を立案する、将来の姿を構想して計画するのなどを可能とする、想像する、概念化する、予測するといった、今ここにはないことを作り出す脳の高次機能が、自分が客観的に物事を見ているつもりでも自分の願望を投影してしまっている(愛執、欲の生起)ことがあること、結果としてありのままに物事をみたり考えたりしていないことや、自分の心に生まれた不安や懸念、恐怖を自ら増幅させていることがある、などのことも自覚できるようになるでしょう。
簡単に言えば、ヴィパッサナー瞑想を継続することにより、確実に頭のはたらきは良くなり、的確に物事をとらえられるようになります。ただし従前の自分と比べて、という意味であり、他者との比較によって確認できる性質のものではありません。
そもそも、無自覚に比較するという認知形成行為自体が、比較して、優れている(明確な根拠は無くても、それは好ましい、得意な気分になる)、劣っている(明確な根拠は無くても、それは嫌だ、そうなりたくない)という認知を生み出すのですから、比較を行うならば、それは目的を理解して自覚的に慎重に行う必要があります。
ヴィパッサナー瞑想においては、他者との比較は瞑想進展の妨げになることはあっても、促進することはなりません。
ヴィパッサナー瞑想、四念処による五蘊の観察は、自分の体と心のはたらき、認知形成のしくみを徹底的に観察して自覚すること、観察して自覚すること、自覚することにより、自分の体と心のはたらき、認知形成のしくみ改変することを可能とするための能力を開発するプロセスです。
自分の体と心のはたらき、認知形成のしくみとは「人格」とらえてよいでしょう。
通常では自覚していない、自分の体と心のはたらき、認知形成のしくみ=「人格」(気質を前提とした経験と感情、身体感覚の記憶とその解釈により形成された価値観を含む信念体形)を観察し自覚するための能力を開発するのですから、自分に悩み苦しみつらさがあるのであれば、悩み苦しみを生み出す原因には必然的に到達します。
自分の体と心のはたらき、認知形成のしくみを観察し、自分の悩み苦しみつらさを生み出すものに到達したらならば、その悩み苦しみつらさを生み出すことが、早期決断(幼児決断)や人生脚本(交流分析)、非機能的な中核信念と媒介信念(認知行動療法)、中核的感情欲求の不充足による早期不適合スキーマ(スキーマ療法)などと説明されるものであるかもしれません。
ヴィパッサナー瞑想は、人が認知を形成する「体と心のはたらきと認知形成のしくみ」を観察し自覚しつつ、自己の「人格」すなわち「気質を前提とした経験と感情、身体感覚の記憶とその解釈により形成された価値観を含む信念体形」を観察し自覚するものですから、現代の心理療法が説明する悩み苦しみの形成モデルと、矛盾はしません。
現代の心理療法が説明する悩み苦しみの形成モデルと、矛盾しませんから、ヴィパッサナー瞑想は、悩み苦しみを生み出す自己の認知形成のあり方にアクセスし、多少の時間はかかるもののそれらを修正することができます。
J.ティーズデールさん、M.ウィリアムズさん、Z.シーガルさんが、マインドフルネスに認知療法とを統合した、マインドフルネス認知療法を創始しましたが、ヴィパッサナー瞑想の方法論自体が、釈迦の認知論に基づく心理療法であるといえます。
マインドフルネスとされることもあるヴィパッサナー瞑想の方法論と釈迦の到達した認知論は、コインの表裏という関係です。
釈迦の認知論から始めることは、一見遠回りのように思われるかもしれませんが、ヴィパッサナー瞑想による高度なリラクセーション状態を実現するためには、確実な方法です。
釈迦の方法論は、極めて革新性に富むものであったと思われます。
革新性に富むものであったという理解は、仏教的には悟りや解脱に至るものととらえている瞑想実践とは、釈迦がとらえた人の体と心のはたらき、認知形成のしくみ、言い換えれば釈迦が到達した認知論を、瞑想を通じて体験的に学ぶものであり、かつ瞑想実践により、体と心のはたらきに転換をもたらし、苦悩の生成を含む認知形成のあり方に転換をもたらすための方法、すなわち今日の認知論アプローチによる心理療法よりも精緻な方法であったと(私には)考えられるからです。
釈迦の認知論と方法論は、現代の心理学や生理学、心理療法とも衝突はしませんし、むしろ符号するといっていいと思います。
平易であるがため軽んじられてきた釈迦の教え
ヴィパッサナー瞑想の方法論と、その前提となる釈迦の認知論は、阿含経で教示されています。
釈迦は、今日の私たちがとらえる思考や感情の生成などとは別のとらえ方(特徴的なのは、自己に生まれる様々な認知に対する愛執に執着すること、欲という考え方)をしていますが、それは私たちが感覚しているものと同じものを、別の見方によってとらえたということにすぎず、体と心がどのように機能して認知を生成しているのか、という観点から見るならば、釈迦の認知論、方法論と、今日の心理学や心理療法とも矛盾しません。
釈迦が教えを説いた人々の多くは文字が読めなかったかもしれない、ということも想定に難くありません。
それゆえ、釈迦は、自らの教示を文字化することなく、革新性に富む内容を、誰にでもわかりやすいように、あえてパーリ語を選んで、平易に教示したたのかもしれません。
パーリ語は平易であるがゆえに、語彙数も少なかったでしょう。それに加えて、釈迦自身が、概念化、抽象化することを注意ぶかく避けて教示したように思われ、概念化、抽象化に慣れた現代人にはかえって「なにをいっているのかわからない」とい印象をあたえているのではないか、と私には思われます。
しかし、釈迦の教示は、ヴィパッサナー瞑想を実践しているものには、あの時の瞑想の変化はこういうことだったのか、と瞑想による自分の変化が説明されていることに気付くとともに、その符合に驚きます。
このことは、二つの点で注意を促すように思います。
1つ目は、人が悩み苦しみを生み出し、それに苦しめられることの原因を、釈迦は、人には概念を作り出す(想像して作り出す)能力があるがゆえに、人は物事のありのままを観ることをせず、物事を見て概念化抽象化して作り出した物事の見方考え方にとらわれる(執着して保持する)がゆえに、悩み苦しみを生み続け、苦しみ続ける、と考えたのではないかと私には思われることです。
2つ目は、釈迦入滅後、釈迦の教えを受けた人々は、釈迦なきサンガ(僧団)を安定的に維持するため、釈迦の教えを解釈し体系化し、保持するための努力を行ったようです。
当然それによって、今日私たちが阿含経に触れることが可能となったわけですが、釈迦の教えを、解釈し体系化する過程で、釈迦が避けた概念化抽象化する(想像して補強する、作り出す)ことが行われ、教学化され、釈迦の説いたこととは少し異なるものとなったのではないか、という印象が私にはあります。
そのような事情(後世における概念化抽象化による釈迦の教示の解釈)があるがゆえに、かえって、私たちは、釈迦が平易に説いた釈迦の認知論(阿含経)を容易に理解できないことになっているのではないか、という感覚が私には捨てきれません。
釈迦の教えを説く阿含経は平易なものであったため、長らく軽んじられてきたようです。
増谷文雄先生が、筑摩書房「阿含経典第一巻」で、阿含経が軽んじられることに大きな影響力を持った、天台大師の「五時の教判」について説明している個所と、パーリ語による阿含経の研究が進展した契機となった出来事について抜粋します。
「釈尊は、かの菩提樹下において大覚を成就すると、そのまま樹下にあって三七日のあいだ、その悟得せられしままの高遠崇厳なる教えを説いた。それが『華厳経』の内容であった。だが、世の無知純根の人々は、一切これを理解することができなかった。これを「華厳時」とする。
そこで釈尊は、それより十二年の間は、ずっとその程度を下げて、純根無知の人々にも判るように、卑近にして具体的な教えを説かれた。それがかの「四阿含」の内容とするものであり、その時期の説法を、鹿野苑における初転法輪にちなんで「鹿苑時」とするのである。
(中略)
だが、近年にいたるに及んで、さしもの「五時の教判」も、ようやく、その圧倒的な影響力をうしない、いまでは、もはやそれを顧みるものもなきにいたった。その他方、この「阿含」と称せられる経典群こそが、根本仏教すなわち釈迦所説の仏教の原初的な姿を知るべきもっとも貴重な資料であることが知られてきたのである。」
(中略)
「まず申し上げたいことは、いわゆる南伝仏教との出会いである。それまでわたしどもの仏教は、いわゆる三国伝来の仏教、すなわち、インド・中国そして日本へと伝えられた仏教であって、これをいま南伝に対していえば北伝の仏教であった。そして、南伝の仏教については、ほとんど知るところがなかった。それが、近年にいたって、わが国の仏教研究者たちの注目する処となったのは、ヨーロッパの東洋学者たちの刺激によるものだった。」
(中略)
「一八八二年のこと、リス・ディヴィッズ(T.W.Rhys-Davids)、ファウスベル(V.Fausböll)、オルデンベルグ(H.Oldenberg)などの学者たちによって、「パーリ聖典協会」(The Pali Text Society)なるものが設立された。」
「そもそもインド学の成立の過程において、まず取り上げられた言語はサンクリットであった。しかるに原始仏典の文献はパーリ語でしるされている。したがってパーリ語研究の道が大きく開かれるのでなくては、インド仏教の研究の道が開かれることができない。」
(引用以上)
ちなみに、リス・ディヴィッズ(T.W.Rhys-Davids)さんは、「パーリ聖典協会」設立の前年に英訳した阿含経のパーリ語「sati」に、「mindfulness」マインドフルネスという訳語を当てた方です。
わたしが引用している春秋社版の原始仏典の底本は、上記パーリ聖典協会のものです。(原始仏典では「パーリ文献協会」とされています。)
北伝仏教(大乗仏教)から、小乗と貶称され、現在まで続く上座部大寺派(テーラワーダ)は、(サンスクリット語によって書かれている)大乗仏典は釈迦直伝ではなく(大乗非仏説)、釈迦はパーリ語で語ったのであり、パーリ語で書かれたものが正当な釈迦の教えである、との立場を取り、パーリ語経典の正典化を図りました。(馬場紀寿先生「初期仏教 ブッダの思想をたどる」岩波新書赤1735)
上座部大寺派(テーラワーダ)によって聖典化されたパーリ語経典が、19世紀になって海を渡りイギリスで、パーリ語の聖典として刊行され、現代の日本でもそれを使って阿含経への日本語訳を行っている、ということはご理解いただいておいた方がよいでしょう。
釈迦の方法論の概説
阿含経に説かれる釈迦の方法論(ヴィパッサナー瞑想、四念処)とその前提となる釈迦の認知論は、ヴィパッサナー瞑想の実践によって釈迦が教示したことを体験的に確認する(証得する)のが本来の方法です。
その一方で、釈迦の認知論、方法論は、交流分析の禁止令や早期決断、Beckの認知モデルの自動思考や中核信念、スキーマ療法の中核的感情欲求や早期不適合スキーマなどの概念と矛盾するものではないように感じています。
ですから、これらの概念を参照し活用することによって、釈迦が教示していない、悩み苦しみつらさを生むありのままの体と心のはたらき、瞑想実践による体と心のはたらきの変化、認知形成変容のプロセスやメカニズムを、言い換えれば釈迦が説いたことの「余白」の部分を、考察することができ、ヴィパッサナー瞑想の実践をより効果のあるものにしてくれるように思います。
ただし、釈迦の認知論、方法論は現代の心理学や生理学、心理療法の考え方と符合するとは考えていますが、その反面、西欧由来の心理学や心理療法とは根本的に異なる「人」についての見方があると感じています。
それは、最終的に、釈迦が苦悩の原因とした「五取蘊」に結実されているのではないかと思います。
五取蘊とは、五蘊である色、受、想、行、識への無自覚な信頼による執着、捕われと解釈できます。
色、受、想、行、識は、人の認知を成立させる体と心のはたらき、認知形成のしくみと言い換えられます。
人は生きている限り、認知することを止めることができず、それゆえ人は色、受、想、行、識つまり五蘊のはたらきによって生み出されては消えてゆく認知に、無自覚に愛執を生み執着する「五取蘊」が常態となっており、消えてゆく好ましいもの楽しものという認知に執着し、厭い嫌うものを避けるために様々な想像(認知)を生み出し、それらに愛執を生み執着している、だから悩み苦しみつらさを生み出すのは当然なのだ、と釈迦はとらえたようです。
このような考え方の前提として、もしくは不可分に「無我」すなわち、私が認知するもの(体と心にうまれる認知できる出来事)は、「生み出されては消えてゆく」のだから永遠不変のアートマン(自我)ではなく、また、わたし(そのもの)でもなく、さらには、わたしのものでもない=わたしのおもうままになるものではない、という理解が成立するようです。
釈迦は、人の認知形成機能は、ありのままでは苦しみを生み出すようにできている、と考えたことになります。
幼児の感情の分化が主として、特有の欲求や価値判断を持った別個の人格としての養育者との関係の中で、不快の情緒から恐れ、怒り、嫌悪などの情緒が分化され、快の情緒から得意や愛情、喜びなどの情緒が分化され、さらに、それら分化された情緒が他者との付き合いについて判断基準となる価値観や善悪判断などの信念に影響を及ぼすのであれば、人の認知形成機能は、「特有の欲求や価値判断を持った別個の人格としての養育者」の影響のもとで、快、不快の情緒から分化した好悪や恐怖の感情の制約を受ける(幼少期の環境において適合的であった「この人から嫌われたら生きてゆけない」という認知が、成長後において、他者から嫌われることを恐れ嫌悪し良くないことだとする認知の形成につながる等)と考えることができます。
成長しても、幼少時に学習した好悪や恐怖の感情の制約を受けることを前提にするならば、幼少時に学習した好悪や恐怖の感情の制約は、成長後に遭遇する事態に対して自由に物事を観察し考察することを妨げ、場合によっては自らへの束縛を生みますから、結果として「人の認知機能は、ありのままでは苦しむようにできている」ということには説得力が生まれます。
このような情緒の分化を考えるならば、誰でも、大なり小なり、認知行動療法(認知療法系)の非機能的な中核信念や、スキーマ療法の早期不適合スキーマが(生活上支障を生じるものであるか生じないものであるかの違いはあるものの)、形成されていると考える方が自然です。
ジェフリー・E・ヤングさんは「早期不適合スキーマは、一般の健常母集団にもみられるが、それが臨床母集団においてはより明確な形で現れる」といっています。(「スキーマ療法」金剛出版)
釈迦の認知論、方法論は、外部の観察者(研究者、医師、心理学者など)が、規準を設定して、観察対象である心理的困難を抱えた人を診察、観察し、規準から大きく外れていて、悩み苦しむなら、その規準に戻してあげれば悩み苦しみはなくなるはずだ、という考え、方法ではありません(規準を設定している方法の効果を否定しているわけではありません)。
そもそも釈迦の認知論は、自らの体と心のはたらき(五蘊)の観察考察をおこない、自らの体と心のはたらきについての自覚に到達することによって、悩み苦しみの生成原因に到達し、自らが原因をなくすことで悩み苦しみを解消する方法論です。(それゆえ、釈迦の方法論を僧団の中で実践する人々の教えを、大乗は、自分を救うだけで、たくさんの人を救えない「劣った教え」(漢訳で「小乗」と訳された)と攻撃したのでしょう。)
釈迦の教えは、「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずあれ」(大般涅槃経)というものですから、釈迦の教示に基づく自己の観察考察により到達した自覚、物の見方考え方、わかりやすく言えば、釈迦の方法により自らの内に培った「スキル」以外に「たよりと」なるものは在りません。
釈迦は、釈迦が説いたことを信じなさいと言ったのではなく、釈迦の教え「よりどころとして」実践して自らの「体と心のはたらき」「認知形成のしくみ」自覚して、そこから生み出される悩み苦しみをなくしなさい、その過程で得た自分の知見(言い換えれば「スキル」)を「たよりと」しなさいということを説いたと私は理解していますから、この場合の「法」は、「釈迦の教え」ということではなく、釈迦の教えを実践して、自らが証得したこと、言い換えれば、みずからが「体と心のはたらき」「認知形成のしくみ」を観察して、悩み苦しみを解消するため自らに発現させた如実知見、智慧、四聖諦など(のスキル)を、「法」であると考えて、「法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずあれ」と理解するのが妥当だと思います。
どんなに有用な教えであっても、自分の役に立つ、つまり自分でスキル化できなければ、自分の悩み苦しみはなくなりません。
釈迦の教えがある、それを理解した、ということと、自ら(をたよりとして)、釈迦の教えを(よりどころとして)実践して、釈迦の教え(如実知見、智慧、四聖諦など)を自らに実現した、ということは別のことです。
釈迦の教えによって自動的に悩み苦しみがなくなるわけではなく、釈迦の教えもとづいて、自ら実践して、自らの悩み苦しみを生み出す「体と心のはたらき」「認知形成のしくみ」を自覚し、悩み苦しみをなくすことができるよ、と釈迦は説いたのでしょう。
上記の考えを、今日の心理療法に当てはめるなら、心理療法、例えば「ある人」がベックの認知モデルで説明可能な状態であれば、ベックの認知モデルで説明可能な状態に至った経緯は、「ある人」に特有の事情によりますから、「ある人」が「ベックの認知モデルで説明可能な状態に至った「ある人」に特有の事情を振り返り、「ベックの認知モデルで説明可能な状態に至った」原因を、ベックの認知モデルを「たよりに」特定し考察し対処することによって、心理的困難が解消したならば、「ある人」は、同じような心理的困難が生じたら、今度は、ベックの認知モデルに基づいて自分がやって得た知見を「たよりに」すればよいよね、ということが可能になるでしょう。
(釈迦が説いたことを「法」として、法を信じなさい、敬いなさい、となれば宗教となるでしょう。釈迦が説いたことを、自らの悩み苦しみをなくすための、各自が実践するための方法論と考えれば、釈迦の説いたことは、「釈迦の人間理解=認知論に基づく心理療法」でもある(100%心理療法であるとまでは言うつもりはありません。)と言えるでしょう。)
釈迦の認知論に到達する方法は、自らの体と心のはたらきの観察考察を徹底して、自らの体と心のはたらき(五蘊)を自覚したならば、その自覚によって他者の体と心のはたらき(五蘊)も観察してみなさい、両者が合致するなら仏教で言うところの「法」、春秋社版では「事象」「真理」と訳されることもある「体と心にうまれる認知できる出来事」が理解できるでしょう、そこまで到達すれば悩み苦しみつらさの生まれる原因も自覚でき、(瞑想実践によって好悪や恐怖の感情の制約を受けることは克服しているので)悩み苦しみつらさをなくす方法もおのずと開示されるでしょう、方法が開示されたならそれを実践すれば悩み苦しみはなくなりますよね、というものです。
すごく平俗的な言い方をすれば、他者の言うことを無自覚に信じるのではなく、自分の体と心のはたらき(五蘊)の観察考察によって得られた自覚を、他者の観察というスクリーニングを経て、物事をありのままに見る能力を養い苦しみをありのままに知り、苦しむより、苦しまない方がいい、自己の苦しみつらさをなくそうという、人が本来持つ機能(四聖諦)を起動し、智慧を発現させ、物事を判断しなさい、ということになるようです。
釈迦は、自らの体と心のはたらき(五蘊)の徹底した観察と考察から、自己と他者との比較などの「規準」を自らの内に生み出し(概念化して作り出し)、ものごとを判断する認知形成のしくみそのものが、悩み苦しみを生み出す原因と考えているようにも思われます。(後記、「自己意識(慢)」参照してください。)
釈迦の認知論、方法論は、西欧由来の心理学、心理療法の前提である(と私には思われる)、自我を想定した意識的な思惟による認知形成、形成された概念に信頼を置くことと対局にある(概念を信頼することが概念による束縛を受けると考えていた)ように思われます。
釈迦の認知論とそれに基づく方法論は、人が、自らの「野放し状態の」認知形成機能を、信頼する、確かだと思うことによる執着が、悩み苦しみつらさを生むという、人の認知形成機能そのものに対する不信感があり、それゆえ悩み苦しみつらさを生む人の認知機能を、徹底的に観察して自覚して、野放しにしなことによって、悩み苦しみつらさを生み出さないようにすることができる、というものととらえられます。
その過程で、観察考察への高度の集中によって、観察対象としての自己は希薄化もしくは消失し、自己があるとは認められない、認知形成機能は「野放し状態」なのだから、認知形成機能それ自体も「自分のもの=自分のおもいのままになるもの」ではない(だから悩み苦しみも生み出す)、という理解に至ったのではないでしょうか。自分ではなく、自分のおもいのままにもならない、ことを仏教では「無我」と言うようです。
釈迦は、瞑想による、人の体と心のはたらき、認知形成のしくみと言える色、受、想、行、識の徹底的な観察考察によって、色、受、想、行、識のはたらきにによって、無自覚に生み出され消えてゆく認知(最終的には釈迦は「事象」(春秋社版)と認識したようです)を、好いもの楽しいものと感じて執着してしまう(執着したものが得られなければ怒りうらみを生む)ことによって、物事をあるがままに見ることが妨げられ、物事をありのままに見ることが妨げられているから、あり得ないことも自ら生み出し欲求し執着してしまい、悩み苦しみつらさを生み出してしまう(求不得苦と説明されます)と捉えたようです。
そして上記のような状態が、人の体と心のはたらき、認知形成のしくみと言える色、受、想、行、識のありのままの野放し状態「五取蘊」であり、「五取蘊」の状態が悩み苦しみつらさを生み出す、との認識に到達したようです。
人は生きている限り、認知することを止めることができず、それゆえ、無自覚に自分を拘束して物事をありのままに見ることを妨げる様々な解釈、概念、見解を生みだし(そこには幼少時に形成された信念、スキーマなども含まれます)、悩み苦しみつらさを生み出す、そのような認知形成のしくみと言える色、受、想、行、識のありのままの野放し状態である「五取蘊」によって、さらに、生み出された悩み苦しみつらに色、受、想、行、識が無自覚に反応することで新たな悩み苦しみを生み出す、というのであれば、それは苦の生成の無限ループのようなものです。
生きることが、苦の生成の無限ループだとするならば、どこかで断ち切るしか対処法はありません。
苦の生成の無限ループを断ち切る四聖諦
釈迦は、人は、ありのままの状態では苦しみを生み出し続けることが不可避なのだ、との認知に到達した上で、さらに瞑想によって、自らが苦しんでいることを「ありのままに」認識することによって、苦しいより楽な方がいい、楽な状態を実現しよう、という体と心に本来備わっている機能を起動すること、すなわち、人が必然的に生み出してしまう悩み苦しみつらさをなくすための、人の体と心のはたらきと認知形成のしくみの転換方法である「四聖諦」に自らの体験から到達したと考えています。
「自らが苦しんでいることを「ありのままに」認識すること」とは、言い換えれば、「自分の外部(他者など)が変われば、このつらさはなくなるだろう」という考えは成り立たず(求めても実現しないから苦しみになる)、自らの内に「体と心に生まれる認知できる出来事」として苦しみが生まれている、と自覚することと言えるでしょう。
簡単に言い換えれば、自分の中に形成された悩み苦しみをなくす方法として、自分以外の何かが変わることに期待しても、それは実現しない可能性が高い、全く可能性がないわけではないが、自分の中に形成された悩み苦しみをなくす方法としては確実ではない、と自覚すること、となるでしょう。
このような自覚に至れば、自分で、『自らの内に「体と心に生まれる認知できる出来事」として苦しみが生まれている』ことを解決するしか、悩み苦しみをなくす方法はありません。
四聖諦は、自分で、『自らの内に「体と心に生まれる認知できる出来事」として苦しみが生まれている』ことを解決するしか、悩み苦しみをなくす方法はないのだという、一見悲観的とも思える認知を形成することによって、「それをするしか悩み苦しみをなくす方法はない」という認知に到達したのだから、「それをするしか悩み苦しみをなくす方法はない」という方法を実践すれば、自分自身が、自分の外に解決策を求めることなく、自ら悩み苦しみを解消することができる、という希望と予測を生み出す方法、言い換えれば智慧を発現させる方法と言えるでしょう。
消去法という、解決策を否定した結果、残った方法が、それしか選択肢がないのだから、それをやるしかない、という状況です。
否定された解決策が、仮に、自分の欲求に影響された願望に基づく希望的観測としての解決策であったらどうでしょうか。
自分の欲求に影響された願望に基づく希望的観測としての解決策を否定してゆく能力が、如実知見だととらえてよいように思います。
(釈迦の認知論方法論を明確にするのは、自己の欲求を離れて(離欲)悩み苦しが生まれる原因を観察する、自己の欲求を手放す(離欲)ことに依って、悩み苦しみを生む原因を手放す、「離欲」であると考えられます。)
「自分で、『自らの内に「体と心に生まれる認知できる出来事」として苦しみが生まれている』ことを解決するしか、悩み苦しみをなくす方法はないのだ」、という認知が形作られれば、『自らの内に「体と心に生まれる認知できる出来事」として苦しみが生まれている』ことを解決するための方法、悩み苦しみをなくす方法を探索して実行すればよいことになります。
釈迦は、『色、受、想、行、識のはたらきにによって、無自覚に生み出され消えてゆく認知(最終的には釈迦は「事象」と認識したようです)を、好いもの楽しいものと感じて執着してしまう(執着したものが得られなければ怒りうらみを生む)ことによって、物事をあるがままに見ることが妨げられ』ているから、自分が苦しんでいるということも自覚できない、物事をあるがままに見ることができ、自分が苦しんでいるとありのままに自覚することができる状態、仏教でいうところの「如実知見」が実現されれば、「四聖諦」を起動させることができ、「智慧の発現」によってによって悩み苦しみを解消する方法が開示されると理解したことから、自らが「四聖諦」を認識するに至った瞑想方法を、物事をありのままに見る能力を開発する方法として四念処として再構成し、弟子たちに教示したものが、ヴィパッサナー瞑想による四念処、四念処による色、受、想、行、識の観察考察という方法論であったと理解することが可能なように思います。
仏教のおける「四聖諦」の理解とは異なりますが、「四聖諦」は、以下のような、認知行動療法のBecKの認知モデルと同様な「心理的なメカニズム」として理解することが可能だと思っています。
(1)「気分の低下という苦しみが生まれたことを知った(苦聖諦)」
(2)「気分の低下という苦しみを嫌悪することなく観察したところ、気分の低下に先行して、非機能的な自動思考が生成されていることが原因であることを知った(苦集聖諦)」
(3)「そこで、気分低下の原因である非機能的な自動思考を検討し、合理的なものに修正したところ気分の低下が解消したことを知った(苦滅聖諦)」
(4)「気分の低下という苦しみは、気分の低下の原因となる非機能的な自動思考を修正することによってなくすことができるから、気分が低下した時には非機能的な自動思考の修正を実践すればよいということを知った(苦滅道聖諦)」
ただし、ヴィパッサナー瞑想の本質的な効力は、表層の意識で起こる非機能的な自動思考の検出、修正という局面においてよりは、七覚支の6番目の定覚支において、それまでに養ってきた観察力が「尋」と「伺」という高度な観察眼考察眼(脳の高次機能のはたらき)として現出し、苦しみを認識し、その苦しみの原因を認識することによって、苦しみをなくす方法を自覚するという「四聖諦」が起動することによってもたらされます。
「尋」と「伺」が現出し、「四聖諦」が起動することによって、(非機能的な中核信念や早期不適合スキーマなどがある場合には)非機能的な中核信念や早期不適合スキーマ形成の原因となった経験の記憶へアクセスし、非機能的な中核信念や早期不適合スキーマ形成の原因と、現在において生起する悩み苦しみつらさとの連関を自覚することによって、非機能的な中核信念や早期不適合スキーマ形成の原因となった経験についての自らの解釈とその時の感情身体感覚の記憶を、手放すこと(相応の時間と労力が必要になります)によって、現在において生起する悩み苦しみつらさをなくす、という局面において本領が発揮され、さらにその先にある絶対的な心の平静(解脱)に至ることも可能とする方法と考えた方がよいでしょう。
「感情の記憶を、手放す」とは、「尋」と「伺」による観察考察=脳の高次機能系の働きによって、感情の記憶をつかさどる偏桃体系の働きを抑制すること、もしくは偏桃体系の働きを抑制する回路を構築する(新たな認知形成の仕組みの構築)であろうと推測されます。
スキーマ療法からの釈迦の方法論の考察
ジェフリー・E・ヤングさんたちの「スキーマ療法」(金剛出版)には、幼少期の外傷体験によって早期不適合スキーマが形成され、大人になって早期不適合スキーマが刺激される脳内の現象について以下のような引用、考察があります。
「例えばLeDoux(1996)は以下のように書いている。
外傷体験の学習は、2つのシステムを通じて行われる。1つは海馬とそれに関連する大脳皮質によって構成されるシステムで、こちらは記憶の意識的側面と関連する。もう1つは、偏桃体によって構成されるシステムで、こちらは記憶の無意識的側面と関連する。この2つは並行して機能し、そうれぞれ異なる種類の情報を蓄積する。個体は後になって外傷体験に関連する刺激を受けると、2つのシステムはそれぞれ異なる種類の情報を蓄積する。偏桃体系の記憶検索の結果は、危険に対して身体を構えるといった形で表出される。一方、海馬系の記憶検索の結果は、過去の記憶が意識に上るといった形で表出される。(p.239)
LeDouxによれば、外傷体験にまつわる強い感情をともなう記憶を符号化したり、保持したり、検索したりする脳機能は、記憶を意識的に処理する脳機能とは異なるということである。また感情を処理する脳機能と認知を処理する脳機能も異なるということである。偏桃体は感情的な記憶を銘記し、海馬と新皮質は認知的な記憶を銘記する。感情的な反応は、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)が全く関与することなく生起する。」
(中略)
「我々は前述のとおり、早期不適合スキーマを、幼少期をめぐるテーマ(例:見捨てられ、虐待、ネグレクト(養育放棄)、拒絶)を中心とした記憶、感情、身体感覚、認知による構成体であると定義している。脳生物学からスキーマを以下のように概念化できるかもしれない。偏桃体系に貯蔵された感情と身体感覚は、上に挙げた様々な特徴を有する。ある人が、早期不適合スキーマ形成の発端となった幼少期の出来事を連想させる刺激に遭遇したとする。すると出来事に関連した感情と身体感覚が偏桃体系によって無意識的に活性化される。たとえその後その人が活性化された感情と身体感覚を認知することになるとしても、それより前にそれらの感情と身体感覚は偏桃体系を通じて活性化されてしまう。」
上記を踏まえて、「尋」と「伺」と「四聖諦」を考察してみます。
「尋」は「粗い考察」(大念処経)、「概念的思考」(双考経)、「伺」は「微細な思考」(大念処経)、「精緻な考察」((双考経)などと訳されますが、わたしの経験上では一体として現れるようであり、明確に区別が付きませんので、「尋」と「伺」双方の特徴としてご説明します。
「尋」と「伺」は、大念処経では、「苦しみに消滅にいたる道というすぐれた真理」である八聖道を修習することにより、「様々な欲望を離れ、善くないことがらから離れ、粗い考察と微細な考察とをともない、遠ざかり離れることから生ずる喜びと楽しみの瞑想の第一段階(初禅)に達しているのである。」とされ、初禅で発現されるものとされています。
経験からは、『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)が始動し、「身体が安らいで幸せな人の心は集中する。」(治意経)という、意図的に集中力を高める事が可能な状態になり、集中力を高めて、心に生じた違和感や苦痛なことを観察しようと意図すると、「尋」と「伺」が現れてきて、下記に引用する「実況中継」のような観察考察が始まります。
しかし、下記引用のように第二禅では、「尋」と「伺」を伴いません。
「粗い考察と微細な考察とを静めることから内心が清浄になり、心を統一して、粗い考察と微細な思考とをともなわない精神統一から生じる喜びと楽しみの瞑想に第二段階(第二禅)に達しているのである。」
これは、「尋」と「伺」の、考察しようという「意図」「意欲」と、考察するという心のはたらきが、心の平静を妨げることが理由と思われます。
「尋」と「伺」は、心の平静を得るための川をわたる「筏」であり、対岸に渡り役割を終えたなら「筏」を捨ることによって、第二禅の精神統一に到達できる、ということであろうと思われます。
このような考えは、釈迦の方法論の特徴と思われる「離欲」と対応するものである考えられます。
悩み苦しみの生成原因にたどり着いたなら、その生成原因が維持さていることには理由があり、その理由とは、なんらかの利益があるから、もしくは利益があると誤解しているからかもしれない(不適切なコーピングを取り続ける理由)、であればその利益を求めることをを捨てれば=「離欲」すれば、悩み苦しみの生成自体がなくなるよね、役に立つ方法でも目的を達したらなら、役に立つ方法から「離欲」して、棄ててゆきなさい、ということなのでしょう。
私の経験からご説明しますと、瞑想において、七覚支の「『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)」(治意経)が始動すると、意図的に集中力を高めることができることが実感でき、「身体が安らいで幸せな人の心は集中する。比丘たちよ、身体が安らいで幸せな人の心が集中するとき、比丘には『精神集中という悟りの支分』(定覚支)が始動している。」ということが理解できる状態になります。
定覚支を始動させ、心に生じた苦悩を観察してみようという意図を持って瞑想に入ると、アルボムッレ・スマナサーラ先生が「実況中継」と形容する状態が現出します。
よどむことなく実況中継がなされ、今自分が、身体感覚を伴い苦悩と感じていることが、過去の体験とその時の感情、身体感覚の再現であること、その時の自分の状況と状況をどのように自分が解釈した(中核信念の原型)のか、そして体験が極めて強いものであったため、その解釈が否定されることなく解釈を変更しながらも今に至るまで保持されていること、保持されているこによって、その後の両親との関係、他者との関係の解釈に影響し、少しずつあらたな経験によって修正されながらも否定されることなく概ね維持されてきたこと、維持されてきたことの要因としては、両親に対する怒り(憎悪)があり、その怒りが「その状況の解釈」を保持させ、その「その状況の解釈」を保持することが怒り(憎悪)を維持する相互関係であったことなどが、一気通貫に自覚できました。
ただし当時の苦痛苦悩が再現されることはありませんから、ヤングさんらの「スキーマ療法」(金剛出版)からの引用にあるような、「ある人が、早期不適合スキーマ形成の発端となった幼少期の出来事を連想させる刺激に遭遇したとする。すると出来事に関連した感情と身体感覚が偏桃体系によって無意識的に活性化される。たとえその後その人が活性化された感情と身体感覚を認知することになるとしても、それより前にそれらの感情と身体感覚は偏桃体系を通じて活性化されてしまう。」という状態にはなりません。
「尋」と「伺」が発現される前に、念身経に説かれる、好き嫌い、嫌悪、恐怖と怖じ気の克服(偏桃体のはたらきの抑制)が一定程度できているからでしょう。
抽象的な理解ではなく、あの時、こう感じた、こう考えた、それがのちのあの時にはこういう発言になった、「こう考えた」ことはこの時、姿を変え保持されてきた、という具体的な記憶の再現となって、自分のことであるのに他者の出来事であるかのように実況中継されます。
私は、瞑想時に、初めてこのような状態を体験したときに、これが「尋」と「伺」であろうと考えました。
概念的な考察部分を「尋」とし、概念的な考察部分を裏付けとなる具体的な記憶の再現による考察を「伺」としてもいいのかもしれません。
私の場合は、幼少時に放心状態になり「もうこんなの嫌だ、やりたくないことばっかりやらされるのは嫌だ、消えてなくなりたい」という体験が、現在に続く希死念慮の原型となったようです。
釈迦は、大念処経で、「苦しみの原因のすぐれた真理」として「生存の消滅への愛執」をあげています。
私の「消えてなくなりたい」という衝動は、「生存の消滅への愛執」の原型なのかもしれません。
この希死念慮の原型は、その後の幼少期を通じて自分の想像の中で維持され強化され、母親との関係の中で、自分の無力感、無能力感、この人にとって自分は無価値なのだという感覚を強く感じ、それが保持され(交流分析の人生シナリオとなり)、そこから厭世観が作られることによって、苦しみを生み、苦しみが記憶され、その後の社会生活では、「死ねばこの苦しみから逃れられられる、そもそも自分なんていてもいなくてもこの世に大きな違いはないのだから」という無価値感を前提とした希死念慮となり、潜在的に維持され続けたようです。
また、現在、抱いている希死念慮「死ねばこの苦しみから逃れられられる、そもそも自分なんていてもいなくてもこの世に大きな違いはないのだから」は、五蘊で説明するならば、「想」:「選択肢として心に生じるイメージとして思考」であり、選択肢としての「想」の実現を意欲し実行する「行」に至っていないために、死を選択し実行せずに生きている、といううことも理解できます。
ここまでが、おおむね「四聖諦」の「『これは苦しみである』とありのままに知り」(大念処経)に該当すると考えています。
そして、次のような認知が生まれると、「四聖諦」が起動するとはこういいことか、と感じるようになります。
母親の生い立ちを考えたとき、あのようなキツイ性格になるのも当然であったかもしれない、思うようにならない人生であったのだろう、私が感じた悲しみ辛さと同じもの、もしかしたらそれ以上につらい思いをしながらそれに耐えながら生きてきたのだろう、という想いが生まれてきます。
自分が悲しい思いをしている、この悲しみをなくしたいと感じるならば、あの人も悲しみを感じながら(あまりに怒りが強いあまり、それを自覚していないかもしれません)生きてきたのだろう、であれば、あの人の悲しみもなくなることを願おう、と考えるときこれが四無量心の「悲」なのだろう、との思いも生まれます。
悔悟は生まれてきません。
なぜなら五蓋の「悪作」(おさ)、後悔することは、苦しみなくすことにならないことが、ヴィパッサナー瞑想により了解されている(認知形成のしくみとして定着している)からのようです。掉挙
また、「悪作」(おさ)は、掉挙・悪作(じょうこ・おさ)と一括されていますから、悪作は、後悔に加えて、過去の経験時になされた強い感情に基づいた決意、過去の体験の解釈として、現在においても心理状態を不安にする(苦しみを生む)掉挙(心が落ち着かないこと)をもたらす認知と言えるかもしれません。
過去の経験時になされた強い感情に基づいた決意であるならば、交流分析の早期決断、過去の体験の解釈は、非機能的な中核信念もしくは早期不適後スキーマということになり、いずれも心が深い平静状態に入ることを妨げるでしょう。
私自身は、掉挙(心が落ち着かないこと)を感じ、瞑想状態が進展しないことを感じたときに、自分がここにいてはいけない感覚、ここに存在することを許されていない感覚を感じ取り、それをきっかけに早期不適合スキーマがあるようだということを自覚しました。
現在において悪作、後悔が生まれないのは、ヴィパッサナー瞑想の、思考や感情生成を「放す」訓練によって、後悔という「想」(イメージとしての思考)とそれに反応して行為する「行」(自分を責めるなど)を生成しないことにより、結果として、感情(後悔への執着)が生成されないことに加えて、早期不適合スキーマ自体へアクセスができており、早期不適合スキーマに苦しめられていたということを知り、早期不適合スキーマを形成した体験への解釈と言える信念の書き換えを行うことにより、不安や恐怖、苦痛の身体感覚などから解放さるであろうという希望などから、後悔を起こさないことにつながっているのであると思います。
人目をはばかってきれいごとを言うこと、人に理解されたい、支持されたいという欲求から物事を考えること、またその反対に、こんなことを考えていると知られたら、私は周囲の人から拒絶されるという恐ろしい目にあうだろうという不利益の予想(恐怖)をはなれて、自分の苦しみの原因が、母親に対する怒りと憎悪、母親に対する怒りと憎悪が対人関係の理解に影響し、対人関係の理解の根底に不信感を持つ(不信感が実現した時には容易に怒りが生成される)こととなったのであれば、母親に対する怒りと憎悪、対人関係の理解の根底にある不信感を捨てることが、希死念慮を生成する原因となった認知を希薄化し、結果として苦しみをなくすことになるであろうとの理解に至ります。
(「人に理解されたい、支持されたいという欲求」を持つこと、「周囲の人から拒絶されるという恐ろしい目にあうだろうという不利益の予想(恐怖)」をすることは、人の育ち方、すなわち、養育者に見捨てられたら生きてゆけない無力な自分という認知を前提として、養育者から恐怖を与えられて、してはいけないことを学習するという生育過程から、誰でも多かれ少なかれ、他者から支持されないこと、拒絶されることは良くないこと怖ろしいこと(怖ろしいこと、という意識を認知することは不快なので抑圧され自覚されないことが多いように思います)、と考える傾向はあるでしょう。)
これですべてではありませんが、「『これは苦しみの原因である』とありのままに知り」ということになります。
「『これは苦しみの原因である』とありのままに知り」ということになっても、苦しみの原因は、そんなに簡単になくすことができることではないので、自分について感じる無力感、無価値感という認知が厭世観となり、厭世観が希死念慮をへとつながるようであるため、瞑想の継続によって無力感、無価値感と厭世観を地道に「つぶしてゆく」ことが必要であること、どのようにしてそれをつぶしてゆくのか、ということも、ああこうすればいいのか、これが厭世観という川をわたる「筏」なのだな、という想いとともに現れてきます。
厭世観という川をわたる「筏」
少し話がそれますが、「筏」は、「四聖諦」の起動を説明する時には、重要であると思われますので、紹介します。
「筏」どのようになものなのでしょうか。
厭世観をもたらす、無力感、無価値感という認知を捨てることは可能でしょうが、そもそも無力感、無価値感は欠乏の認識により成り立っていますので、あれが欲しい、これが欲しい、という認知ではありませんから、あれが欲しい、これが欲しい、からの「離欲」では退治できません。
「ないんだから仕方ないでしょ」という認知だからです。
「ないんだから仕方ないでしょ」という認知によって「得られるもの」もあります。
たとえば「うまくできなくたって仕方ないでしょ、だってそれをする能力がないんだから」といった言い訳を他者に対しても自分に対しても準備するといった具合に。
母親の私に対する攻撃は、暴力に続く二言目には「バカだ、愚図だ」でした(この言葉を発するときの母は、私に憎しみを感じていたように思えました、事実とは多少異なるものであるかもしれませんが、子どもの私の「認知」したことであり、その「認知」に基づいて解釈が行われます)から、それに対する防衛策として「うまくできなくたって仕方ないでしょ、だってそれをする能力がない(バカで愚図な)んだから」という言い訳を、自分対しても母親に対しても、心の中に用意していたようです。
そしてそれは、社会に出てからは、周囲や上長から期待される役割を果たせないかもしれないと自分が予想し、「期待される役割を果たせないかも」という考え(想)が兆したときに、期待される役割を果たせなかったときに、自分に生起するであろう苦痛をに対して、「うまくできなくたって仕方ないでしょ、だってそれをする能力がないんだから」という自分を納得させる方法として、保持されたように思います。
周囲の評価をいつも気にしていたこと、人生の選択のような場面でも、ここは一発勝負に打って出よう、という行動にはつながらなかったことにも納得がゆきます。
言い換えれば、不適切なコーピング(対処法)であっても何かが得られる、もしくは得られると誤解するから採用するのでしょうから、その不適切なコーピングによって「得られるもの」を放棄する、というやり方も「筏」として当然に想定されます。
不適切なコーピングによって「得られるもの」を放棄する、とは、もはや自分に対しても母親に対しても、周囲の誰に対しても「うまくできなくたって仕方ないでしょ、だってそれをする能力がないんだから」という言い訳(母親の「バカだ、愚図だ」攻撃にさらされている時には相応の必要性はあったものの)、もはや必要はないこと、むしろ「うまくできなくたって仕方ないでしょ、だってそれをする能力がないんだから」という考え方(解釈、信念)を持っていること自体が、自分の能力を制限し、体と心の負担であり、悩み苦しつらさを生むということを知り、それを形成した時に抱いた感情(怒り、憎悪)とともに、自分の解釈(信念)を手放す(書き換える、修正する)という作業になるでしょう。
これは、認知行動療法における、適応的な信念への書き換え、という方法になるでしょう。
この考え方は、うつの反芻や非機能的な自動思考が生成される動機を理解し、それを放棄する手掛かりになるように思います。
別の方法として、わたしには力がある、わたしには価値があると信じ込む、という方法がありますが、釈迦の認知論に立つならば、これには大きな落とし穴があるように思います。
それは、「わたしには力がある、わたしには価値がある、と信じ込む、という方法」は、無力-有力、無価値-有価値という評価尺度を維持したまま、自分の位置を無力から有力へ、無価値から有価値へと移動することとらえられますから、依然として無力、無価値によって判断するという概念は維持され、無力、無価値という概念を自分に適用しなくなるだけで、自分に適用しなくなることによって、他者へ無力、無価値という概念を投影し、自分をその対極に位置付けることによって有力、有価値ということを確認しようという意図を生みかねません。
また、「わたしには力がある、わたしには価値がある、と信じ込むという方法」は、「わたし」という概念を強化することにもなるでしょう。
「わたし」という概念が強固であることが悪いわけではありませんが、好悪の感情、恐怖などの感情がなくなれば「わたし」という仕掛けを使う必要性が少なくなることを考えれば、「わたし」という仕掛けは、「自己の感情の満足を追及するための仮構」、なのではないかとの考えにも至ります。
すなわち「無我」という認知が生まれてきます。
好悪の感情、恐怖などの感情(心に生まれる認知できる出来事)は、わたしではなく、「わたしのもの」=「わたしのおもうまままになるもの」でもないのであれば、好悪の感情、恐怖等の感情が生まれなければ、それらをわたしであるとも、「わたしのもの」=「わたしのおもうまままになるもの」という認知が生じる必要は、好悪の感情、恐怖等の感情についてはなくなります。
そのように考えるならば、『「わたしには力がある、わたしには価値がある、と信じ込む、という方法」は、「わたし」という概念を強化』することになり、そのことは「自己の感情の満足を追及するための仮構」とも考えられる「わたし」という意識を強化し、感情の満足の追求を強化し、そのことは感情の生成、野放し状態といえる五取蘊を抑制する方向には向かわないように思われますから、そもそも悩み苦しみを減少、低減する方向には進まないと思量されます。
(当然、自我意識は、個人が社会の構成員として権利義務の主体であり、個人の自由意思による決定を前提して、社会の構成員としての責任を果たすことが要請されるという、近代社会を成立させるために基本的な考え方、という側面もあるでしょう。無我とは次元を異にすることではありますが。)
『釈迦は、自らの体と心のはたらき(五蘊)の徹底した観察と考察から、「規準」(という創作物)を自らの内に生み出し、ものごとを判断する認知形成のしくみそのものが、悩み苦しみを生み出す原因と考えているようです。』という立ち場に立つのであれば、「わたしには力がある、わたしには価値がある、と信じ込む」という方法は、力のあるなし、価値のあるなしという「規準」(という創作物)の存在を前提にしていますから、あまり好ましい結果を生まないように思われます。
※このように私がヴィパッサナー瞑想において考察しているとき、上記「スキーマ療法」で説明される「偏桃体は感情的な記憶を銘記し、海馬と新皮質は認知的な記憶を銘記する。感情的な反応は、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)が全く関与することなく生起する。」ということが本来の脳の機能であることを前提に、私はヴィパッサナー瞑想の「尋」と「伺」によって「脳の高次処理系(思考、推論、意識など)」を活用して、偏桃体の「感情的な反応」を抑制することを一定程度可能にしている、という理解が成り立つでしょう。このことは言い換えれば、認知形成機能の野放し状態といえる五取蘊の抑制を図っているともとらえられます。
また、ついでに言えば、「感情的な反応は、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)が全く関与することなく生起する。」ということは、自分が携わる分野で業績をあげた人が、権限を有する地位についた時に、優秀な人であるのにもかかわらず、不適切な言動等をとってしまい、場合によってはその地位を失うことにもなるのはなぜか、と考えた時に答えを与えてくれそうです。
答えは、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)をフル活用して、権限を有する地位につくことはできたが、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)は、感情的な反応を抑えることができないのだから、大きな権限を得たことによって増大した(自分に快をもたらす)、自己の欲求、衝動など(の感情の充足への欲求)を、当人が大きな権限を持つ地位に到達することを可能とした、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)の活用方法では、それらの欲求、衝動を抑えることができないから、ということになりそうです。
もし、権限を有する地位につくことの動機、原動力が、自己を誇示したいという欲求や、人の上に立ち権力を行使したいという欲求であり、その実現のために脳の高次処理系(思考、推論、意識など)をフル活用したのであれば、増大した(自分に快をもたらす)、自己の欲求、衝動など(の感情の充足への欲求)を抑えることは、期待する方が無理という理解にいたります。
このように考えると、ヴィパッサナー瞑想は、アンガーマネジメントにも活用できそうです。
ヴィパッサナー瞑想によるアンガーマネジメントは、対症療法的に怒りを抑えるではなくて、怒りを生起させる認知形成のあり方自体を変革するのことにより実現される、と考えられます。
そもそも、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)の活用が得意な方であれば、外部から強要されるのではなく、「尋」と「伺」を現出させ、自らの考察として、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)を活用して、偏桃体の「感情的な反応」を抑制しようとすることは、方法としては難しいことではないでしょう。(とはいえ、自己を誇示したいという欲求や、人の上に立ち権力を行使したいという欲求を満たして満足している人が、このようなことに取り組むとは考えにくいですが。)
人の認知形成のしくみを理解するためにはわかりやすい事例であったとおもいますが、少し話がそれてしまいましたので、お話を「筏」に戻します。
「筏」として、ヴィパッサナー瞑想中に「尋」と「伺」から指し示されることは次のようなことです。
無力感、無価値は、「無いんだから仕方ないでしょ」という考えであり、「やってもうまくできないだろう」「それを手に入れようと思ってやってみても手にはいらないだろう」「人生は思うようにならない、好いことなどない」という考え方(厭世観)と親和性があり、それらの考えを生みだすのだろう、それらを打ち破るには「離欲」とは反対の手段、つまり何か役立つものを欲求することが必要となりそうだ。
川を渡ったら捨ててゆけばよいのだから、無力感、無価値、厭世観という川を渡り、希死念慮を克服するための「欲」という「筏」を作る必要があるのではないか。
それでは、私にとっての「欲」という「筏」とは何であろうか。
(今まで長らく自分がやりたいことをする、ということからは無縁に、他者からよく評価されることが良いことと考えてはたらき、そのことが結局厭世観を強めていたという自覚から)「やりたいことをやりつづけるため」の努力なら、義務感とは無縁に、「欲」によって駆動され、継続することができるだろう、社会生活の中で身に付けた、「こうすることが良いこと、こうすることが人から敬意をしめされるなどの概念(価値観)」によるのではなく、自分自身がそれをするなら労を厭わない「やりたいこと」を選び、「やりたいことをやりつづけるための努力」をするということであれば、無理なく続くだろう。
ヴィパッサナー瞑想は、「こうすることが良いこと、こうすることが人から敬意をしめされるなどの概念(価値観)」を持つから、それに拘束されて苦しむのだ、という認知(智慧)を生み出すようだ。
それは価値観が万能ではなく、(非機能的な中核信念と同様に)便宜上、自らが体験したことから無自覚に作り出した適応範囲の狭いものであるから、価値観は、容易に自己を取り巻く環境から生み出される新たな課題と齟齬(そご)をきたし、対応できない、という状況を用意に生み出す、それゆえ苦悩を生みだされるのだろう。
(「便宜上、自らが無自覚に作り出した適応範囲の狭い」価値観に束縛されない方法は、釈迦が到達したように、生起する認知は「体と心にうまれる認知できる出来事(ただしそれは自分のおもいのままになるももではない)」にすぎない、という自覚に到達したうえで、「脳の高次処理系(思考、推論、意識など)」を活用して、偏桃体の「感情的な反応」を抑制し、感情に影響されない合理的な選択を行う、ということになるのだろう)
義務感とは無縁に、「やりたいことをやりつづけるため」の努力がなされるならば、その努力は、「努力を始めた人には混じりけのない喜びが生じる。」(治意経)という「喜覚支」が始動するだろう。
(自分では)「尋」と「伺」が始動していると考えられるので、「軽安覚支」「定覚支」は起動しているはずであるが、性格上「喜覚支」の育成は、「瞋性(しんしょう)であるため苦手である。それでも「定覚支」には到達し、「尋」と「伺」は始動する、ということのようだ。
「喜び」の涵養により、「喜覚支」もしくは「四無量心」の「喜」の瞑想ができるようになれば、(経験の解釈としての信念とともに保持されてきた)両親に対する怒り、憎悪とそれが他者に投影された結果生まれる他者への不信感、敵意による「苦の感受(不安状態、緊張状態、厭世観をもたらす)」もなくなるだろう、そのことはとりもなおさず、自分、人への解釈の仕方を改変することとなり、自分の体と心の反応パターン、すなわち性格がかわる、ということをもたらすだろう(性格が変わると、どうなるのだろうかと楽しみにする感覚も生じる)。
【補足説明始まり】
「喜覚支」の育成が苦手、ということは、私が、テーラワーダでは「瞋性」とされる性格であることによるようです。
テーラワーダでは、現在では行われていないようですが、師が新弟子に瞑想の課題をあたえるときに、最適な瞑想課題を与えるために、弟子をかなり長期間にわたって観察し(釈迦は、ヴィパッサナー瞑想により自分の体と心のはたらき、認知形成のしくみを観察するだけでなく、他者のそれも観察して自覚を高めなさいと説いていますから、ヴィパッサナー瞑想の一環として行われるのかもしれません。)、弟子の性格を判定するのだそうです。
その一つの「瞋性」という性格は、四無量心の瞑想対象となる「慈」「悲」「喜」「捨」のうち、「悲」の瞑想は理解できるものの、「喜」の瞑想はできない、とされているそうです。(アルボムッレ・スマナサーラ先生、藤本晃先生「釈迦の実践心理学第七巻」サンガ)
私自身、「喜」の瞑想を1週間ほどやってみたのですが、はかばかしい進展はありませんでした。
そもそも私の場合には、長らく(自覚しないまま)両親への怒り、憎悪を抱き続けている状態であったことから、怒り、憎悪が「喜び」という心の自由な活動を妨げていた、ということはいえるでしょう。
心の奥底に、「(自覚しないまま)両親への怒り、憎悪を抱き続けている状態」であったのですから、外部からの刺激は、怒りや憎悪の発現を刺激する、すなわち怒りやすく、他者を恨みやすい(他責)性格(後にご説明する瞋恚図眠)であったといえます。
今では別に両親と普通に付き合っていますが、体と心のはたらき、認知形成のしくみに、怒り、憎悪による反応が自覚なく習慣化している、ということはあるでしょう。意識上は怒り、憎悪がなくとも、怒り、憎悪による従前の反応が自覚なく行われるということには思い当たるところがあります。
このように考えると、体と心のはたらきと認知形成のしくみを一体不可分のものと考えたとしても、怒りや憎悪、悩み苦しみなどが「認知される領域」と、怒りや憎悪、悩み苦しみなどの「生成の原因を包蔵しそれらを生成する領域」は異なるようにも思われます。
わたしのような場合には、ヴィパッサナー瞑想に加えて、(慈しみの心憐みの心を養う)慈悲の瞑想が役に立ちそうです。
慈しみの心憐みの心について多く考えれば、「もうなんでも、比丘達よ。比丘がそれについて多く思い考えるほど、ますます心は傾く。」(双考経)ということになりそうです。
【補足説明終わり】
(私には)『両親に対する怒り(憎悪)があり、その怒りが「その状況の解釈」を保持させ、その「その状況の解釈」を保持することが怒り(憎悪)を維持する相互関係であったことなどが、一気通貫に自覚できました』という状況なのだから、「瞋性」として人生の大半を過ごしてきたといえる。
自分が「瞋性」であると考えると、『両親に対する怒り(憎悪)』を捨てる(遠離する、離欲)ことは、自分の性格を変えることになるだろう。
【補足説明始まり】
そのように考えると、自分の生きてきた人生には理解がゆく。釈迦が教示した(後に説明します)「瞋恚随眠」を養ってきたとも言える。
特にやりたいこともこれといってなかったので、職業生活を通じて、(それは衡平の観点からみておかしいという)怒りを作ることによって、活動のエネルギーに変えてきたところもありました。
だからと言って、ここでも虚しい、という考えは起こりません。先にご説明したように悪作(おさ)、すなわち後悔は役に立たないということが経験的に自覚されているからでしょう。
むしろ「自覚」できてよかったくらいに感じています。
ここでは「育ててもらった恩をわすれて親を怨むなんてひどい人だ」という価値観に基づく認知形成は、自らを苦しめることとなり、自分を、悩み苦しみつらさから解放することの役に立たない、ということがご理解いただけると思います。
釈迦の方法論の特徴は、離欲であり、「自らを苦しめること」となるのであれば、『「育ててもらった恩をわすれて親を怨むなんてひどい人だ」という価値観』であっても捨てなさい、というものであると理解してよいでしょう。『「育ててもらった恩をわすれて親を怨むなんてひどい人だ」という価値観』を捨てたからといって、親を怨むことにならず、逆に親を怨むということから「離欲」できます。
逆に、他者が指摘、説得もしくは強制する時には、「育ててもらった恩をわすれて親を怨むなんてひどい」ことなのだから、心を入れ替えなさい、という論理を使う可能性が高いでしょう。
阿含経には「世俗的な思考」というものが出てきますが、釈迦の説く「悪作(おさ)」の意味を考えるならば、私には、上記のような論理も「世俗的な思考」であり「悪作(おさ)」を作り出すものであると思います。
心を入れ替えなさい、反省しなさい、というのは「自分の考え価値観」(ある程度他者にも共有されているとはいえ自ら作り出した概念)を他者に強要することにほかならず、自分が価値観に縛られていることになり、釈迦の到達した境地は、価値観など(ある程度他者にも共有されているとはいえ自ら作り出した概念)で自分を律しなくても、他者への敵意や害意は自分を苦しめることとなることを知り、欲を滅しているのだから起らない、ということなのではないでしょうか。
そもそもヴィパッサナー瞑想は、自分の苦しみは、自己の「体と心に生まれた認知できる出来事」であって、それを他者がなくすことはできないのだから、自らの五蘊(体と心のはたらきと認知形成のしくみ)の観察によって得た自覚だけを頼りに、生きてゆきなさいという「思想」ととられ得てもいいかもしれません。
「それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他の者をよりどころとせずにあれ。」(大般涅槃経)(この場合の法は、先の説明とは少し表現は異なりますが、釈迦の教えを実践して「自らの五蘊(体と心のはたらきと認知形成のしくみ)の観察によって得た自覚」と考えてよいと思います。)
また大般涅槃経で、釈迦は、自らについて、このようにも語っています。「しかし向上につとめた人は『わたしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは、『修業僧の仲間はわたしに頼っている』とか思うことがない。」
誰かから指導したり指南されることなく、『自分が悲しい思いをしている、この悲しみをなくしたいと感じるならば、あの人も悲しみを感じながら(あまりに怒りが強いあまり、それを自覚していないかもしれません)生きてきたのだろう、であれば、あの人の悲しみもなくなることを願おう、と考えるときこれが四無量心の「悲」なのだろう、との思いも生まれます。』というのですから、私は「悲」の瞑想は理解できているようです。
慈悲の瞑想は、怒り、憎悪を静め「瞋性」を解消するでしょう。
【補足説明終わり】
私にとって、『無力感、無価値、厭世観という川を渡り、希死念慮を克服するための「欲」という「筏」を作る』ということは、『「やりたいことをやりつづけるため」の努力』によって、日々、喜びを発生させ自覚し、集中力を涵養し、それにより無力感、無価値感を打ち消す効力感、生への活力を涵養する生き方をする、という「筏」ということになりそうだ。
努力(に集中すること)による「喜び」は、欲望を充足させることによる「喜び」と、「喜び」において同質でも、「喜び」という報酬の獲得の方法が異なる、のだろう。
双方ともドーパミンなのどの脳内麻薬分泌による「喜び」の獲得であるのだろうが、『欲望を充足させることによる「喜び」』は、達成したという概念的認知をともなう「喜び」だから、達成への欲求を高めるだろう。
しかし『欲望を充足させることによる「喜び」』の、そのしくみに無自覚であるならば、欲望を充足させること、欲望へ執着する性向を強化する方向にはたらくであろう。
すなわち『欲望を充足させることによる「喜び」』を養成することは、釈迦の教示する方法「離欲」とは反対の方向ということになりそうだ。
『努力(に集中すること)による「喜び」』は、努力と集中への欲望を高めるだろう。
こちらも欲望ではあるが、『努力(に集中すること)による「喜び」』の欲望は、努力を持続させ、集中力を強化し、集中力の強化は、瞑想による観察考察を進展させ、集中力によって、外界からの刺激に対する体と心のはたらきの反応パターンを変化させることも可能にするだろう。
【補足説明始まり】
J.カバットジンさんは、『「マインドフルネス瞑想法」は、”注意集中力”を高めるためのトレーニングを体系的に組みたてたものです。』(「マインドフルネスストレス低減法」北大路書房)と言っています。
集中力を開発することは、迂遠(うえん、遠回りなこと)なことのように感じられるかもしれませんが、この「筏」を使うことは、(後でご説明しますが)『出来事に対する自己の体と心に「定着している」反応パターンを、ヴィパッサナー瞑想によって得た自覚から「選択した好ましい」自覚的な反応に切り替えてゆく』ことにほかなりませんから、すぐに効果があらわれる、というものではありませんが、コンプリートせずとも、やり続けることで効果は持続されるであろう思っています。
ヴィパッサナー瞑想は、継続することによって、日々のかすかな変化への気付きがあらわれます。
ヴィパッサナー瞑想を継続するためには、自己の体と心のはたらき、認知形成のしくみが、日々すこしずつではあっても変化することを確認することが重要であるように思います。
言い換えれば、日々すこしずつではあっても変化していることを確認できるようになる観察力を養うことによって持続でき、持続するが効果を発現させることになる、と言っていいのかもしれません。
『ヴィパッサナー瞑想によって得た自覚から「選択した好ましい」自覚的な反応に切り替えてゆく』ことが日々すこしずつであっても確認できることは、喜び、効力感の育成となり、一定期間経過後には大きな変化をもたらすように思います。
このように「筏」を活用して地道に、「苦しみの原因」を、すこしずつでも「つぶしてゆく」ことを自覚することが、「『これは苦しみの消滅である。」とありのままに知り」、「『これは苦しみの消滅にいたる道である』とありのままに知るのである。」ということになります。
定覚支の状態で、集中力を高めると、こいうことなのかなぁ、というのが目のまえに現れてきてそれを観察すると、こうすればよいのだな、という考察となって現れてくるので、それを称して、わたしは、「四聖諦」が起動する、と言っています。
こいうことなのかなぁ、こうすればよいのだな、と聞くと、その程度なの?って思われるかもしれません。でもその程度です。
そもそも「尋」と「伺」があらわれて「四聖諦」が起動しても、「自分の中のなかにないこと」は出てきません。
釈迦の方法論は、認知論ですから、自分の外から、自分が持ち合わせていない解決策を持ってこようとする方法ではなく、自分の中にある解決方法を探し当てる智慧を起動する、という方法論です。
こいうことなのかなぁ、こうすればよいのだな、という認知と自覚に触れると、自分で作った自己概念で自分を認知していて、その自己概念が無自覚と欲望にもとづいて理想化拡大化された、等身大の自分を超えている創造された認知(仏教でいうところの増長慢)であったり、自分が抱える問題を、自分の頭の中で「深刻に概念化している」認知形成のしくみがあるから、悩み苦しみつらさが拡大するのかな、という思いも生まれます。
理想化拡大化された自己概念や、「深刻に概念化している」ことに気付き自覚し、それを手放して、悩み苦しみつらさを手放すことになるのであれば、心の平静をもたらすとされる捨覚支の入り口なのかもしれません。
【補足説明終わり】
スキーマとの対照によるヴィパッサナー瞑想の方法論
以上の経験と考察を踏まえて、ヴィパッサナー瞑想の方法論を、ヤングさんらのスキーマの定義を参照して考えてみます。
「スキーマ療法」(金剛出版)からの引用を再掲します。
「我々は前述のとおり、早期不適合スキーマを、幼少期をめぐるテーマ(例:見捨てられ、虐待、ネグレクト(養育放棄)、拒絶)を中心とした記憶、感情、身体感覚、認知による構成体であると定義している。脳生物学からスキーマを以下のように概念化できるかもしれない。偏桃体系に貯蔵された感情と身体感覚は、上に挙げた様々な特徴を有する。ある人が、早期不適合スキーマ形成の発端となった幼少期の出来事を連想させる刺激に遭遇したとする。すると出来事に関連した感情と身体感覚が偏桃体系によって無意識的に活性化される。たとえその後その人が活性化された感情と身体感覚を認知することになるとしても、それより前にそれらの感情と身体感覚は偏桃体系を通じて活性化されてしまう。」
ヴィパッサナー瞑想では、「尋」と「伺」が現れ、「四聖諦」が起動する状態となっていると、恐怖や嫌悪感や苦痛などの感情、身体感覚は生起することはないようです。
つまり「四聖諦」が起動する状態に到達していれば、過去の『例:見捨てられ、虐待、ネグレクト(養育放棄)、拒絶』について記憶を想起させても、その時の苦痛な感情、身体感覚は生まれない、ということです。
ただし、『例:見捨てられ、虐待、ネグレクト(養育放棄)、拒絶』を経験し、早期不適合スキーマを形成することとなった人が、ヴィパッサナー瞑想によって「尋」と「伺」が現れ、「四聖諦」が起動する状態にまで至るのは、不可能ではありませんが、簡単でもないでしょう。
感情、身体感覚が生起することがないのは、ヴィパッサナー瞑想の実践により、念身経に説かれる「身体にむけた注意」に習熟することにより、好き嫌い、嫌悪感、恐怖心と怖じ気が克服されていること、受(体もしくは心(意識)に生まれる苦、楽、不苦不楽の感覚)、想(言語化される以前のイメージとしての思考)、行(選択肢としての想に対して、意欲し行動する(行動を選択する)こと、言語化して認識することを含む)を生起させないことによって体と心の平静状態といえる軽安覚支、定覚支に到達しているため、「尋」と「伺」により、識(記憶を意識的、無意識的に参照し、比較対照する機能および参照される記憶を保持する機能)を参照し、過去の「例:見捨てられ、虐待、ネグレクト(養育放棄)、拒絶」などの記憶を再現しても、恐怖心や嫌悪感が生起しない、言い換えれば偏桃体系が活性化することが抑制されている状態で、観察考察を行うことが可能となっているから、ではないかと考えています。
釈迦の認知論では、楽の感受、苦の感受、不苦不楽の感受は、身体的、非身体的に、想に先行して生起すると捉えられているようです。
受に関して、六六経では、「苦の感受を受けているときに、人が、愁い、悲しみ、嘆き、胸を打って泣き、迷妄におちいるなら、かれのなかに怒りうらむ性向(瞋恚随眠)が潜在する。」と教示されています。
「出来事に関連した感情と身体感覚が偏桃体系によって無意識的に活性化される。たとえその後その人が活性化された感情と身体感覚を認知することになるとしても、それより前にそれらの感情と身体感覚は偏桃体系を通じて活性化されてしまう。」ことを、苦の感受の生起ととらえるならば、次のように考えることが可能でしょう。
上記の六六経の教示は、「苦の感受を受けているとき」は「出来事に関連した感情と身体感覚が偏桃体系によって無意識的に活性化される」ことを示し、「人が、愁い、悲しみ、嘆き、胸を打って泣き、迷妄におちいる」ことは、行(選択肢としての想に対して、意欲し行動すること、言語化して認識することを含む)によって、偏桃体系の活動による感情と身体感覚の生成を活性化させている状態(すなわち認知形成機能の野放し状態としての五取蘊)と考えてよいように思います。
六六経では、上記教示に続いて以下のように教示していますから、偏桃体系の活動による感情と身体感覚の生起を抑制することは可能であるという前提で、偏桃体系の活動を抑制することの必要性を釈迦は説いていると考えてよいでしょう。
(楽の感受による貪随眠、不苦不楽の感受による無明随眠の教示部分ついては省略して引用します。)
「苦の感受のために怒りうらむ性向を除去しないで、(中略)それでいて、現世において、かれに苦しみの終滅がおとずれるというようなことは、道理としてあり得ない。」
「苦の感受のために怒りうらむ性向を除去」し、瞋恚随眠をなくす=偏桃体系の活動を抑制する方法論は「四聖諦」なのですが、その「四聖諦」を起動するのは、すでにご説明した下記の3条件が成就されている必要があるだろうと考えられます。
(1)念身経にとかれる「身体にむけた注意」に習熟すること等により、好き嫌い、嫌悪感、恐怖心と怖じ気が克服されていること。
(2)ヴィパッサナー瞑想の実践により、下記の認知形成機能を生起させないことによって体と心の平静状態といえる軽安覚支、定覚支に到達した状態を実現していること。
①受:体もしくは心(認知)に生まれる苦、楽、不苦不楽の感覚
②想:言語化される以前のイメージとしての思考)、
③行:選択肢としての想に対して、意欲し行動する(行動を選択する)こと、言語化して認識することを含む
④識:記憶を意識的、無意識的に参照し、比較対照する機能および参照される記憶を保持する機能
(3)(脳の高次機能系の働きと考えられる)「尋」と「伺」により、恐怖や嫌悪感なく(偏桃体の活動を抑制している状態)、いま生じている悩み苦しみを観察考察し、保持された記憶としての「識」を観察考察し、生じている悩み苦しみを生みだす原因としての、悩み苦しみを経験した過去の経験とその解釈に到達すること。
「偏桃体の活動を抑制する」とは、「手段としての「筏」とは」でご説明しましたが、以下のようなことが脳内で起っていると推測できると思います。
「※このように私がヴィパッサナー瞑想において考察しているとき、上記「スキーマ療法」で説明される「偏桃体は感情的な記憶を銘記し、海馬と新皮質は認知的な記憶を銘記する。感情的な反応は、脳の高次処理系(思考、推論、意識など)が全く関与することなく生起する。」ということが本来の脳の機能であることを前提に、私はヴィパッサナー瞑想の「尋」と「伺」によって「脳の高次処理系(思考、推論、意識など)」を活用して、偏桃体の「感情的な反応」を抑制することを一定程度可能にしている、という理解が成り立つでしょう。このことは言い換えれば、認知形成機能の野放し状態といえる五取蘊の抑制を図っているともとらえられます。」
ヴィパッサナー瞑想の大きなメリットは、早期不適合スキーマを形成した経験の記憶とその経験によって形成された解釈に、恐怖や嫌悪などの感情や苦痛と言える身体感覚を伴わずにアクセスできること、「尋」と「伺」の発現によって、経験の記憶とその経験によって形成された解釈を観察考察すること、書き換えることによって、脳の高次処理系を活性化して、脳の高次処理系による偏桃体の活動の抑制に道を開く(回路の構築)、ということと言えそうです。
「尋」と「伺」が発現するならば、ヤングさんらが下記のように説明する「自らのスキーマに言葉を用いて接近する」ことは可能になるように思います。
「多くのスキーマは言語が発現する前に形成され始める。つまり子供が言葉を理解し話すようになる頃には、いくつかのスキーマはすでに形成されているのである(患者が自らのスキーマに言葉を用いて接近するのを手助けすることが、セラピストの仕事である)。」(「スキーマ療法」金剛出版)
ただし当然に、「尋」と「伺」が発現するための前提条件を満たしていること、すなわちヴィパッサナー瞑想の四念処による五蘊(体と心のはたらき、認知形成のしくみ)の自覚(観察力の涵養)、集中力の涵養などを経由して、軽安覚支(高度なリラクセーション状態)へ到達することが前提です。
そもそもなぜ苦しみは生み出されるのか
釈迦自身は、『人は、ありのままの状態では苦しみを生み出し続ける』と考えたのであれば、それはありのままの認知形成機能それ自体が苦しみを生み出し続ける、ということになります。
ではなぜありのままに認知形成機能が苦しみを生み出し続けるのか、ということを、釈迦は当然に、観察考察したでしょう。
釈迦が観察考察してたどり着いた、『人は、ありのままの状態では苦しみを生み出し続ける』原因は、生への執着、生を大事なもの失いたくないものと考えることに執着することと表裏一体の、この世には生を脅かすものが沢山あるという(無自覚な)認知からもたらされる不安があるからではないか、この世にある生を脅かす沢山のものから逃れたいと無自覚に欲求(欲望)して、色、受、想、行、識により野放図に無自覚に、この世にある生を脅かす沢山のものから逃れるための「求めても得られることのない欲求(認知)」を作り出し、それに執着することによって、この世にたくさんある生を脅かすもの逃れられると期待するからではないか、そしてそのことが五蘊のはたらき、認知形成のしくみに執着し、野放し状態ともいえる「五取蘊」を招来し、結果として苦しみを生み出し、苦しみ続けることになる、というものであったのかもしれません。
先のヤングさんらの「スキーマ療法」では、このような記載があります。
「最近の研究で分かってきたのは、脳内の感情システムは1つではなく複数に分散されているということである。個々の感情は個々の生存機能と関連しており(例:危険に反応する、食物を探す、性交する、仲間を見つける、子どもの世話をする、社会的関係を形成する)、それぞれが個別の脳内ネットワークによって媒介されているようである。」
私の考える「生に伴う根源的な不安、生を脅かす不安」は、多くの人が抱くことはあっても、本来的に人類に共有されているもの、といった性格のものではないように思います。
社会という環境の中で、概ね近似した価値観を持つ人に育てられ、概ね近似した環境で教育を受けれ、おだやかに個性化した特性のある集団の中で労働すれば、概ね人々の価値観や信念は、社会性のあるものになってゆくでしょうから、「生に伴う根源的な不安、生を脅かす不安」とは、それらとは別の、その人に特有の、生きる上で経験され形成された、生きることへの期待を挫く認知、という意味になります。
「生きることへの期待を挫く認知」は、小さな子供が(特定の個人です)、この人に見捨てられたら生きていけない、この人に嫌われてはいけない、この人の嫌われることはとても恐ろしいことだ、という無意識の判断を生成することとなった出来事を体験し、その体験とともに生成された強い恐怖と、「その体験と恐怖の解釈」に基づき、将来においてその恐怖が再現されることが予想されることに対する懸念(不安)などに由来して、拡大的に形成されるものかもしれません。
生きるとは認知し続け、認知は苦しみを生み続ける
釈迦は、生まれることとして「〔個人存在を構成する〕要素が出現し、認知領域を獲得すること」、死ぬこととして「〔個人存在を構成する〕要素が破壊し、身体を放棄すること。」(大念処経)と教示していますから、釈迦は、生きるとは認知し続けることと考えていたと捉えてよいように思います。
それゆえ、出来事を解釈して、その解釈を保持する(執着する)ことは人にとって不可避である反面、出来事の解釈に執着し保持し続けることが、本来生まれては消えてゆく人の認知形成のしくみをゆがませ、悩み苦しみを生む(五取蘊)と考えたのかもしれません。
ジェフリー・E・ヤングさんたちは、「多くのスキーマは言語が発現する前に形成されはじめる。つまり子どもが言葉を理解し話すようになる頃には、いくつかのスキーマはすでに形成されいるのである。」(「スキーマ療法」金剛出版)とのことですから、人は、言語発現前の幼少期から「出来事を解釈してその解釈を保持する(執着する)こと」を、無自覚に行っていると考えられます。
二度とあんな経験はしたくない、という無自覚な欲求から、「その体験と恐怖の解釈」によって、恐怖に対する予見性を高めることを意図したものかもしれませんが、予見性を成立させたいという意図は、「二度とあんな経験はしたくない」ことの記憶に基づきますから、「その体験と恐怖の解釈」によって予見性を求める限り、「二度とあんな経験はしたくない」という恐怖の感情が保持され記憶され続けることになります。
「その体験と恐怖の解釈」と「二度とあんな経験はしたくない」ことの記憶の保持は不可分一体、コインの表裏の関係であろうと思います。
上記のように考えると、釈迦の説く「五取蘊」「離欲」を理解できるように思います。
予見性を高め、恐怖(不安)を回避したいという欲求があるがゆえに、出来事と恐怖を解釈して予見性を獲得することによって、回避したい恐怖の記憶を保持しつづける(意図せず執着しつづける)ことになるという、まったく自分にとって矛盾する、自分にとって好ましくない状態となり、それをもたらす認知形成のしくみが「五取蘊」と解釈でき、「まったく自分にとって矛盾する、自分にとって好ましくない状態」を回避するには、「恐怖の記憶」と「あの恐怖を回避したい」という動機と、予見性を成り立たせる解釈から「離欲」すれば、「回避したい恐怖の記憶を保持しつづける(意図せず執着しつづける)ことになる」必要性はなくなり、「まったく自分にとって矛盾する、自分にとって好ましくない状態」からは離脱できますよね、という理解が成り立つからです。
人が、恐怖を感じるようになったのは、恐怖を感じることにより、自分を危険にさらす状況から素早く逃れるため脳の機能として進化した、という説明を前提にしても、それは恐怖を感覚して危険と察知する回路が(配線されたが通電していない状態の)器質として脳に用意されたということにすぎず、ブリッジェスさんが言うように新生児には興奮しかなく、興奮から快不快が、不快から、恐怖や嫌悪という情緒が分化されるのであれば、危険な行為をしたことに対して叱るなどの行為によって、幼児にこのようなことをすると怖い目にあうから、してはいけない、ということを学習させることにより、恐怖や嫌悪という情緒を分化させ、恐怖を感覚して、危険を回避する回路が(通電によって)機能するように仕向けるのは、猛獣でもなく敵対する部族でもなく、幼少期の大けがなどの事例を除いて、大多数は養育者もしくは周囲の環境にいる他者が与えた恐怖という体験によると考えるのが妥当だと思います。
人の脳は、恐怖を感じ危険を感知する構造になっている、脳には、恐怖を感じ危険を感知する回路がある、ということは人類に共通するのでしょうが、その回路が実際に使われて機能するようになるのは、各個人の体験を通じて恐怖を感じるからだと考えられ、このことを前提とすると、恐怖を感じ危険を感知する回路が、その人においてどのように使われて機能しているのか、ということはその人の恐怖の体験を通じて規定されている、と考えた方が自然だと思います。
恐怖体験それ自体が「その人に特有の生きることへの期待を挫く認知」になるのかもしれませんが、人には五蘊により想像する予想する(現実的でないことも考えだす)という機能があるため、恐怖への予感(不安、疑心暗鬼)を生むことと親和性のある、他者は私のことなど顧みないという認知(他者への不信感、猜疑心、将来への不確実性、自己の無価値感)、自分には事態を打開する力が無くどうすることもできないという認知(絶望感、無力感、不確実性)などの無自覚に生み出され増幅される認知(想)を、「その人に特有の生きることへの期待を挫く認知」ととらえる方が、わたしには説得力があります。
生存への愛執の裏返しとしての生存を失うことへの不安
そのように考えると、大念処経で、釈迦が以下のように教示していることへの示唆が得られるような気がします。
「〈苦しみ〉の原因のすぐれた真理とはなにか。(中略)すなわち、現世の欲望にたいする愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執である。」
そもそも人には、「生存への愛執」があり、「生存への愛執」と表裏一体の、生を失うことへの恐れがあることを釈迦は認識したのかもしれません。
祖父母や、父親、身近な人の死を経験することは、当然に「自分も死ぬのだ」ということを理解し、死ぬとはどのようなことなのかと考えるでしょう。
死ぬとは、今、死を考えている自分のこの意識が永遠になくなることであり、この意識がなくなることは、「わたし」があること(自己意識)を前提に、わたしが感じること考えることに抱いている愛執、感じたこと考えたことに抱いている愛執、自分がつくりだした「わたし」という自己意識にも抱いている愛執を、全て永遠に失うことでである。それゆえ、死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと、という無自覚的な認知を成り立たせるのではないかと思います。
釈迦は、四念処の五蘊の観察考察によって、わたしが私だと思ってることは、自我(永遠不変のアートマン)ではなく、わたしの体と心に生じるすべての(私という認知も含めて)認知は、わたしそのものでもなく、わたしのものでもない(=私の思うままになるものではない)と自覚することによって、「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」だと考えるから、死を免れたいという欲求「生存への愛執」が生まれる、という自覚に至ったのではないかと思います。
そして、釈迦は、「生存への愛執」をなくすためには、自己の体と心のはたらきと認知形成のしくみと「体と心にうまれた認知できる出来事」への愛執をなくすこと、すなわち、体と心のはたらきと認知形成のしくみである五蘊へ、無自覚に愛執を抱き、無自覚な愛執の捕われている状態である五取蘊をなくすこと、という結論に達したのではないかと考えます。
「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」から生まれる恐怖、不安を紛らわせようとして、「現世の欲望にたいする愛執」を生み出して、「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」ことをまぎらわし、恐怖や不安を忘れようとする。
しかし「現世の欲望にたいする愛執」からもたらされる欲求を満足させれば、脳の報酬系から報酬が得られるが、それによって「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」がなくなるわけではない。
「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」であるならば、自己の再生があるという考え方、そして自己意の再生があるという考え方を信じることは、「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」を和らげると期待するでしょう。
そして、自己の再生のためには、神々への祈りの儀式や捧げものが必要であるということであれば、神々への祈りの儀式や捧げものをするでしょう。
結果として、自己の再生のために、神々への祈りの儀式や捧げものすることは、「生存への愛執」を増大させ、同時に無自覚的に、「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」なのだ、だから私は、自己の再生のために、神々への祈りの儀式や捧げものをしたから安心だ、と考えるでしょう。
しかし「自己の再生のために、神々への祈りの儀式や捧げものをしたから安心だ」と考えたとしても、それは「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」という認識の裏返しにしかすぎず、「死ぬことは自分が馴れ親しんだ愛執が自分の欲求に反して消滅する、とても恐ろしこと」はなくなりません。
時には、「生存への愛執」の強さから、自己の体験から自己(五取蘊)が生成した「生きることへの期待を挫くその人に特有の認知」から、強い苦痛や苦悩がもたらされ、死ねばこの苦痛や苦悩から逃れられという考え(想)すら生まれ、「生存の消滅への愛執」さえ抱く。
人が、時に周囲の人との不和、不仲、離反が深刻な心の悩み苦しみとなるのは、人が幼少期に、養育者から叱られたり養育者が不機嫌になることから、やっていはいけないこと、しない方がいいことを、不快の情緒から恐怖心や嫌悪感を分化させながら学習することを前提とするならば、人が成長に従って、概念化、抽象化したり想像、予測する能力を育てるることによって、他者との不和、不仲、離反は恐怖心や嫌悪感(偏桃体の活動)を刺激し、さらに想像や予測する能力を活用して、より好ましくない事態となることを予想、想像するならば、恐怖心、嫌悪感(偏桃体の活動)はさらに増大されるでしょう。
増大された恐怖心、嫌悪感は、「生存への愛執」の裏返しとして、(生存したいけれども)自分ではこの恐ろしく嫌悪すべき状況をどうすることもできないという認知を生みだすならば、その認知は「生きることへの期待を挫くその人特有の認知」となるかもしれません。
逆に、幼少期に「人に親切にすること、人と仲良くすることはいいことだと、養育者から言い聞かされ、人に親切にしたことや仲良くしていることを褒められることによって、快の感情から喜びや得意という情緒を分化したならば、成長に従い、概念化、抽象化したり想像、予測する能力によって、「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観」を養うことになるでしょう。
そして、人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観に基づいて行動すること、その価値観に基づく好ましい状況を作ることは、その人に喜びや得意の感情をもたらし、「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観」を強化し、その価値判断、価値観に基づいて行動によって、喜びを得られる行動、得意の感情を得られる行動を促進するでしょう。
釈迦にとっては、「生きることへの期待を挫くその人特有の認知」は、恐怖心や嫌悪感を、概念化、抽象化、想像や予測ということによって増大させた好ましくない認知形成のしくみ(五取蘊)によるものであり、同様に、喜びや得意などの感情をもとめて(駆動されて)、概念化、抽象化、想像や予測により「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観を養う」ことも、好ましくない認知形成のしくみ(五取蘊)によるものと捉えたように思います。
このような状況を、釈迦が教示した五取蘊、すなわち自己の認知形成のしくみに対する無自覚、野放し状態として理解してもよいように思います。
釈迦は、五取蘊という「人の認知形成のしくみに対する無自覚、野放し状態」というしくみを駆動する燃料が、「現世の欲望にたいする愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執」であると考えると、「〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素(五取蘊)は苦しみである。」という教示と、「〈苦しみ〉の原因のすぐれた真理とはなにか。(中略)すなわち、現世の欲望にたいする愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執である。」(大念処経)という教示が、カチリと音を立てて、とまでは言いませんが、噛み合います。
それでは、なぜ「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観を養う」ことも「好ましくない認知形成のはたらき(五取蘊)によるものと捉えた」と私は考えるのでしょうか。
その理由は3つあります。
1つ目は、双方とも、感情の充足を欲求した行為であることから、随眠を促進し、怒り怨む性向、執着する性向を強化し、それは(釈迦の認知論によれば)結局悩み苦しみを増大することになるから、というものです。
六六経で釈迦は、随眠について以下のように教示しています。
「楽の感受を受けているときに、人が、喜び、歓喜し、それに執着し続けるなら、彼の中に執着する性向(貪随眠)が潜在する。また、苦の感受を受けているときに、人が、愁い、悲しみ、嘆き、胸を打って泣き、迷妄におちいるなら、かれのなかに怒りうらむ性向(瞋恚随眠)が潜在する。(中略)
かれが、楽の感受に執着する性向を捨てないで、苦の感受のために怒りうらむ性向を除去しないで、苦でも楽でもない感受についての愚かさという性向を根絶しないで、無知を捨てないで、智慧を生じさせないで、それでいて、現世において、かれに苦しみの終滅がおとずれるというようなことは、道理としてあり得ない。」
2つ目は、釈迦は、聖道経で、「徳行のひとつではあるが、結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩を伴った正しい思考」を教示しており、「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者に賞賛される)善い事という価値判断、価値観を養うこと」は、「徳行のひとつではあるが、結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩を伴った正しい思考」の要件を欠く、から。
引き続き聖道経から引用します。
「誤った思考とはなにか、欲をともなった思考、敵意をともなった思考、害意をともなった思考-比丘たちよ、これがあやまった思考である。
では、比丘たちよ、正しい思考とはなにか。比丘たちよ、正しい思考もわたしは二つ説く。
比丘たちよ、『徳行のひとつではあるが、結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩をともなった正しい思考』があり、比丘たちよ、『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』がある。」
「『徳行のひとつではあるが、結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩をともなった正しい思考』と何か。欲を離れた思考、敵意のない思考、害意のない思考-比丘たちよ、これが『徳行のひとつではあるが、結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩をともなった正しい思考』である。」
「『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』とはなにか。比丘たちよ、心が神聖で、心に煩悩がなく、聖道に達し、聖道を修めている人の思索、熟考、思案、思いを向け、思いを致し、思いを凝らすこと、言語活動-比丘たちよ、これが『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』である。」
「喜びや得意などの感情をもとめて(駆動されて)」「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観を養う」ことは、「敵意のない思考、害意のない思考」ではあるかもしれませんが、「喜びや得意などの感情をもとめて(駆動されて)」であるならば「欲を離れた思考」であるとは言い難く、『徳行のひとつ』としての要件を欠きますし、結果として六六経に説かれる「貪随眠」を潜在させますから、「〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩をともなった正しい思考」とされるでしょう。
3つ目として、人が、幼少期において養育者から、養育者がやってはいけないと考えること、養育者の価値判断に合致しないことをした時に、叱られる、場合によっては罰をうける、養育者が不機嫌になるなどによって、子どもは不快の情緒から、恐怖や嫌悪、怒りなどの情緒を分離しながら、養育者がやってはいけないと考えること、養育者の価値判断に合致しないことをしてはいけない、と学習することを通して、他者との共存できる価値観を形成してゆくと考えられることを前提にすると、なんらかの事情により他者との不和や他者からの仲間外れにされたという事態が発生した場合、自分に何か落ち度があったのかもしれないと、予想する能力や想像する能力という認知形成機能があるがゆえに、恐怖をより深刻かつ強度なものととらえてしまった場合、「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観」を抱くことは、自らが自らが形成した価値判断、価値観に反したという認知を形成することになり、「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観」がない場合よりも、より強い悩み苦しみつらさを生み出す可能性があるでしょう。
「予想する能力や想像する能力という認知形成機能があるがゆえに、恐怖をより深刻かつ強度なものととらえてしま」う、認知形成機能を野放し状態で維持したまま、無自覚に「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観」持ち続けるならば、体と心に相当な負担を生むでしょう。
予想する能力や想像する能力という自らの認知形成機能が生み出した認知と、自らの認知形成機能が生み出した価値判断、価値観が合致しないことにより、自分を苦しめるていることになります。
幼少時に、養育者の価値判断に合致した行動をとり、養育者から承認やご褒美が与えらたことによって、「喜びや得意などの感情をもとめて(駆動されて)」「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観を養う」ことになるのであれば、この場合は「喜びや得意などの感情をもとめて(駆動されて)」いるのですから、貪り執着する性向を強めるでしょうし、価値判断、価値観という概念に縛られてしまい、ものごとをありのままに見るという智慧の発現を妨げることも予想されるでしょう。
どちらの場合であっても、「人に親切にすること、他者と仲良くすることは(他者から賞賛される)善い事という価値判断、価値観を養う」ことに執着し依存する状態となり、場合によっては、他者にそのような自己の価値観を適用して、他者がそれに従うことを求める、もしくは自己の価値観を前提として他者の行動の是非を判断したり攻撃したりすることになるかもしれません。
釈迦は、「好ましくない認知形成のはたらき(五取蘊)」があることの根底には、「現世の欲望に対する愛執、現世の生存への愛執、生存の消滅への愛執」(大念処経)があるからと考え、「好ましくない認知形成のはたらき(五取蘊)」を自覚によって止滅し、「現世の欲望に対する愛執、現世の生存への愛執、生存の消滅への愛執」を滅尽することによって、『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』を可能にしたのであろうと考えています。
そして、釈迦の「現世の欲望に対する愛執、現世の生存への愛執、生存の消滅への愛執」を滅尽することを可能にする方法は、眼、耳、鼻、舌、身体(触覚)、意識の6領域それぞれの色(身体器官)と、認知形成機能の受(感受の形成)、想(イメージとしての思考の形成)、行(意欲と意欲による行為の形成)、識(参照、比較、検討機能)が機能する時に生じる、「好ましいもの、楽しいもの」という認知と、その認知によって生じる愛執を滅するということであったようです(大念処経)。
誤解しないでください。
釈迦の認知論方法論は、「世俗的な思考」ではなく、釈迦の精緻な「体と心のはたらきと認知形成のしくみ」の観察から生み出された、完全な「離欲」によって、悩み苦しみを滅尽する方法であるため、世俗的に好いこととされていても、完全な「離欲」による悩み苦しみの滅尽に到達していない限り、「結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩をともなった正しい思考」というところに帰着するようです。
『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』を目指すべきであるとか、そこまで到達しないと意味がない、とかいうつもりは、全くありません。
この世(働いて生計を成り立たせて、社会の維持に関わって、喜びを求めて我々が生きているこの世)に生きている限り、「徳行のひとつではあるが、結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩を伴った正しい思考」に到達するのも大変ですし、さらに『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』に到達するのは至難の業です。
そうであっても、釈迦の認知論は、『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』に到達した釈迦が、『完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は存在しない。」(大般涅槃経)という観点から、釈迦自らが得たことを隠すことなく、すべて教示されたものであり、『完全な「離欲」による悩み苦しみの滅尽に到達』する方法として説かれた、ということを理解することが必要になります。
ですから、釈迦が説くところは、私たちは容易に到達しえない場所です。
釈迦は、認知形成機能を残したまま、悩み苦しみ(恐怖や嫌悪)はもちろん、最終的には喜びや安楽まで放棄していますから、「体と心にうまれる認知できる出来事」に「好ましいもの、楽しいもの」(大念処経)という愛執やそれに伴う感情や欲望を生起させることを止滅した、もしくは、愛執やそれに伴う感情や欲望という「体と心にうまれる認知できる出来事」を生起させることなく、ものごとを見て、判断し、発言し、行為することができるような認知形成のはたらきを確立した、ととらえられそうです。
釈迦の教示は、全て上記のような、釈迦が到達した地点から、釈迦が到達した地点に到達していない人に対して、釈迦が到達した地点へ到達する方法を教示したものとして、解釈し理解する必要があります。
ただし、理解しても、私たちには容易には到達できない、ということも併せて理解すべきです。
しかし、釈迦の方法論による「高度なリラクセーション状態」は、『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』に到達するための釈迦の方法論にもとづき、そこに至る中間点に位置するということはご理解いただいた方がよいでしょう。
「高度なリラクセーション状態」にとどまってもメリットは十分にありますし、さらに先に進むことも、もちろん可能です。
「高度なリラクセーション状態」からさらに進んで、四聖諦という「心理的なメカニズム」を起動することによって、生に伴う根源的な不安を観察考察することができ、自分が日常において行っている認知とは階層を異にすると考えられる認知である「現世の欲望に対する愛執、現世の生存への愛執、生存の消滅への愛執」を自覚できるのであれば、非機能的な中核信念や早期不適合スキーマの原因へと到達し、それらを手放すことは、さほど困難をともなうことではない、と言っていいでしょう。
ただし、概念的に『「現世の欲望に対する愛執、現世の生存への愛執、生存の消滅への愛執」があるから、生に伴う根源的な不安が生まれる』と理解することだけでは、四聖諦という「心理的なメカニズム」を起動することにはならないと考えます。
自らの体の動きの観察から始めて、体と心が感じる感受を観察し、心の状態を観察し、それらを修習することにより、体の感受(受)や、心に起こる思考(想)に反応しない(行、識を生起させない)ことによって、嫌悪や恐怖を含む感情の生成を抑制し(随眠の抑止、感情の生成に反応して、考えたいという欲求による脳の報酬系の抑制と言えるかもしれません)、観察力を育て、集中力を養い、観察による解明という喜びを発現させ、喜びによって体と心の安楽を実現し、集中力をさらに高めることで、養ってきた観察力が「尋」と「伺」という高度な観察眼考察眼として現出し、「如実知見」という状態が実現し、「四聖諦」が起動し「智慧の発現」となるようです。
そこまで自力で到達する必要があります。
上記のように考えると、その自力で到達する方法として、釈迦は、自覚しないままの自分の体と心のはたらきと認知形成のしくみ、野放し状態の五蘊を、ヴィパッサナー瞑想によって徹底的に自覚しなさい、というものであるという説明も可能なようです。
しかしながら、「如実知見」「四聖諦」「智慧の発現」を実現する方法論といえる、ヴィパッサナー瞑想による「四念処」は、苦行ではありません。
苦行ではないが簡単でもなく、自分にしかできない
苦行ではありませんから、無理なく過度の負担無く、体と心のはたらきに転換をもたらし、苦悩の生成を含む認知形成のあり方に転換をもたらす方法であるということも、革新的であったといってよいと思います。
苦行ではなく、無理なく過度の負担無く、と言っても、全く負担がない、というわけではありません。
「体と心のはたらきに転換をもたらし、苦悩の生成を含む認知形成のあり方に転換をもたらす」とは、出来事に対する自己の体と心に「定着している」「無自覚な反応パターン」を自覚し、ヴィパッサナー瞑想によって得た自覚から「選択した好ましい自覚的な反応」に切り替えてゆくことと言い換えられますから、地道な努力の継続が必要ですし、今まで「あたりまえであった=無自覚であった」反応の仕方を変えてゆくことですから、体と心に相応のストレスは生み出します。
わたしたちは、出来事に対する自己の体と心に「定着している無自覚な反応パターン」に基づいて物事を認識し、感情を生成し、思考し、行動を決定していると考えられますから(その意味において自分が思っているほど自分は自由ではありません)、出来事に対する自己の体と心に「定着している無自覚な反応パターン」を、ヴィパッサナー瞑想によって得た自覚から「選択した好ましい自覚的な反応」に切り替えてゆくとは、例えて言えば、家はそのままに家の基礎を作り替えてゆくようなものです。
(「定着している無自覚な反応パターン」は、五蘊の「識」により包蔵され、出来事を認知することにより無意識に参照され、「定着している無自覚な反応パターン」が繰り返されるのではないかと考えています。)
ヴィパッサナー瞑想は「わたしのもの」(思うままになるもの)と思っている体、体と心に生じる感受、心のはたきを観察することによって、体、体心に生じる感受、心のはたきを「対象化」しますが、変えるのは、観察している対象としての自分ではなくて、観察している主体としての『自己の体と心に「定着している」反応パターン』なのですから、簡単なことではありません。
「「選択した好ましい自覚的な反応」」に変えてゆくことは簡単ではありませんが、自分にしかできません。
『「選択した好ましい自覚的な反応」に変えてゆくこと』とは、自己の体と心のはたらき、感情をふくむ認知形成のしくみを制御することにほかなりませんから、ヴィパッサナー瞑想は、自己の体と心のはたらき、感情をふくむ認知形成のしくみを制御する力を開発する、と言ってもいいように思います。
釈迦の方法論は、瞑想によって観察力、集中力を涵養し、その観察力、集中力により自分の体と心のはたらきにより自己に内に形成される認知を自覚して、その自覚に基づき、『出来事に対する自己の体と心に「定着している無自覚な反応パターン」を自覚し、「自己が選択した好ましい自覚的な反応」に変えてゆくこと』ですから、意識的、自覚的な努力の継続が必要です。
意識的継続的な努力
考想息止経では、「意識的、自覚的な努力」によって、『出来事に対する自己の体と心に「定着している無自覚な反応パターン」を自覚し、「自己が選択した好ましい自覚的な反応に変えてゆくこと』について、このように教示されています。
「兆相」は、人の体と心のはたらき、認知形成しくみである「五蘊」の色、受、想、行、識であり、悩み苦しみつらさを生み出す認知形成のしくみとなっている状態と考えられます。「その兆相に出会って」とは五蘊のはたらきが生起したと自覚したならば、と理解すればよいと思います。
「その兆相に出会って、その兆相に意を注ぐと、もろもろの思い、不善の、欲を伴いもし、瞋(いか)りを伴いもし、癡(おろ)かさを伴いもする思いが生起するのであれば、比丘達よ、その比丘はその兆相とは別の、善をともなう兆相に意を注ぐべきである、その〔比丘〕がその〔悪い〕兆相とは別の、善を伴う兆相に意を注ぐならば、もろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、瞋(いか)りを伴いもし、癡(おろ)かさを伴いもするそれらの思いは捨てられ、それらは消滅して行く。」
「歯をもって歯に置き、舌をもって上顎を抑え、心を持って心を強く抑え込み、強く圧迫し、強く苦しめると、およそ悪い、不善の、欲を伴いもし、瞋(いか)りを伴いもし、癡(おろ)かさを伴いもするそれらの思いは捨てられ、消滅して行く。」
「比丘達よ。この比丘はもろもろの思いが成り行く道に関して自在者である。〔かれは〕およそ望む思いであればその思いを思い、望まない想いであればその思いを思わないであろう。〔かれは〕渇愛を断ち切って除去し、正しく自意識(慢)を止滅させて、苦を終わらせた。」
(少し考察しておきます。)
「不善の、欲を伴いもし、瞋(いか)りを伴いもし、癡(おろ)かさを伴いもする思い」とは、仏教では貪瞋痴(とんじんち)とされていることです。
釈迦の認知論では、体と心の平静を乱すこと、欲望を生み出すことの根底には、貪瞋痴(とんじんち)があって、例えば、自らの欲望を満たすことに執着し、さらに欲望を募らせて他者と衝突したり、怒りが生まれたことによって、その怒りに任せて、何かをしようと決心し行動した結果さらに怒りを募らせたり、それらのことを自覚せず同じことを繰り返しているなら「痴」であり、それらによって、悩み苦しみを生み出すことになるでしょう、と考えます。
さらに、貪瞋痴(とんじんち)を放っておいたのでは、悩み苦しみつらさをなくすための「四聖諦」が起動する前提条件としての、治意経の「努力を始めた人には混じりけの無い喜びが生じる」という「喜覚支」にも、「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ。」という「軽安覚支」にも至れませんから、体と心の平静な状態の「高度なリラクセーション状態」には至れませんから、「尋」と「伺」による観察考察、如実知見は実現できず、悩み苦しみつらさをなくすための智慧も発現しません。
貪り、怒りから悩み苦しみつらさを生み出しつづけ、それを自覚しないのだかから、悩み苦しみつらさを生み出すことから脱却できませんよね、ということに行き着いてしまいます。
そうであるならば、上記の教示は、悩み苦しみつらさを生み出す五蘊のはたらき(野放し状態の五蘊)が生起したならば、野放し状態の五蘊が生み出した認知に乗っからずに、別のことを考えて、貪瞋痴(とんじんち)を自覚して回避して、悩み苦しみつらさを生み出す認知形成のしくみが起動することを回避しなさい、ということであると理解できます。
「心を持って心を強く抑え込み、強く圧迫し、強く苦しめると、およそ悪い、不善の、欲を伴いもし、瞋(いか)りを伴いもし、癡(おろ)かさを伴いもするそれらの思いは捨てられ、消滅して行く。」ということですので、野放し状態の五蘊のはたらきを修正するには、相応の労力と時間がかかると考えた方が良いようです。
しかし、その結果は、「およそ望む思いであればその思いを思い、望まない想いであればその思いを思わないであろう。〔かれは〕渇愛を断ち切って除去し、正しく自意識(慢)を止滅させて、苦を終わらせた。」というものですから、大きな成果と言えます。
「考えないほうがいいとわかっていても、どうしても考えてしまう」とか、「このように考えるのは良くないとわかっているけど、つい考えてしまう」という、誰しもが経験するであろうことを克服できる、ということになります。
「自意識(慢)を止滅させて」は、仏教で言われる「無我」の実現と理解するよりは、「苦を終わらせた。」のですから、「自意識(慢)」は、「わたし」があるという意識の上に成り立つ、苦を生み出す五蘊の野放し状態としての「わたしの認知形成のしくみ」である「自意識(慢)」を、苦を生み出さない「認知形成のしくみ」に変換した、と理解した方がいいでしょう。
苦を生み出さない認知形成のしくみに変換する、ということは、わたしがそれを欲望する、わたしがそれに怒っている、わたしが欲望し怒っていることを自覚していない、という貪瞋痴(とんじんち)の状態を脱することを意味しますから、「わたし」という意識(仕掛け、仮構)の必要性は希薄になるでしょう。
「わたし」という意識(仕掛け、仮構)の必要性は希薄になるならば、「わたし」ってないんじゃない?って考えも生まれます。
ただし、『「わたし」ってないんじゃない?』って考えは、表面上は、自由意思をもって自分の行動を決定し、権利を有し義務を負うという「わたし」という存在がある、という今日の考え方と、それを前提にキチンと責任ある行動をよってよね、という社会の要請と相反する、とまではいわないものの、釈迦が教示する「自意識(慢)」 についての理解と、「自由意思をもって自分の行動を決定し、権利を有し義務を負うという「わたし」という存在がある、という今日の考え方と、それを前提にキチンと責任ある行動をよってよね、という社会の要請」があるということとの整合性を、各個人の中で図ることは必要となるでしょう。
少し話がそれましたが、前記教示の意味するところを、認知行動療法の非機能的な自動思考や反芻への対処などに即して説明してみます。
ここでも、非機能的な自動思考や反芻は、「体と心に生まれる認知できる出来事」であって、「わたしのもののではない=わたしのおもうままになるものではない」という認識が前提になります。
また「わたしのおもうままになるものではない」という認識には、「体と心に生まれる認知できる出来事」を「わたしがおもままにかたちづくることはできない」し、「体と心に生まれる認知できる出来事」の「生成を止めることもできない」、と考えた方が良いようです。
ネガティブで自分の気分を下げてしまう「定型的否定的」なフレーズ、たとえば「わたしなんて・・・」という考え、つぶやき(自動思考)が、繰り返し生起する場合、「わたしなんて・・・」ということによって生起する考えや想いとは別のこと(無力化できるものであることが理想的)を、意図的に考えることによって、「わたしなんて・・・」を無力化することができると、釈迦は説いていることになります。
ネガティブで自分の気分を下げてしまう「定型的否定的」な「わたしなんて・・・」という考え、つぶやき(自動思考)が生まれてしまうのは、それが不快なものであっても、それによって何かを得ようとする「必然性(欲求)」もしくは「期待」があって生じている(しかしその自動思考は、不快なものだから、自分の気分を下げてしまうという効果をもたらす)と考えられますから、別のことを意図的に考えることによって、その「必然性(欲求)」もしくは「期待」を弱めることができる、ということなるのでしょう。
また釈迦は、双考経ではこのように教示しています。
「もうなんでも、比丘達よ。比丘がそれについて多く思い考えるほど、ますますそのように心は傾く。」
釈迦の方法論は、自己の体と心の観察によって、体にも心にも生じる感覚や認知は、本来生起しては消えてゆくもの、その消えてゆくものに執着し、おしとどめようとするから欲望が生まれて、苦しみとなる、という認知が根底にあるようです。
考想息止経の教示は、認知行動療法でいえば、意識の表層にあらわれる非機能的な自動思考や反芻を修正するよりも、非機能的な自動思考や反芻(五蘊の想、行に相当)へ反応しないで、別のことを、より大量に考えることによって、非機能的な自動思考や反芻を引き起こす媒介信念、中核信念が活性化することを抑え込み、結果として反芻と媒介信念、中核信念との牽連性を断つ、という対処方法であるように感じます。
この場合、肝になるのは、「非機能的な自動思考や反芻(五蘊の想、行に相当)」の生起をしっかりと検知する、観察力(マインドフルネス、注意集中力の育成)になります。
筏の譬え=段階的「離欲」の方法論
「〔筏は〕渡るために〔あるのであって〕、取っておくために〔あるの〕ではない〔ということを〕。修行僧たちよ筏の譬えをあなたたちは理解した。あなたたちは、もろもろの教えといえども捨て去るべきである。いわんやもろもろの悪い教えについてはなおさらである。」(蛇喩経)
役立つ教えであっても役割を終えたなら捨ててゆきなさい、ということのようです。
この考え方の背景には、人の認知のしくみは、悩み苦しみつらさを生み出す見解や妄想を生み出し執着するものだという考えが前提にあり、役に立つ教えと言えども、それに執着して保持することは、悩み苦しみつらさを生み出す原因である執着するという性向を加速する方向にはたらく、川をわたるために役立つ「筏」によって川を渡った=目的とすることが実践し身についた(スキル化された)なら、役立った「筏」であっても捨ててゆきなさい、ということを教示したのではないかと思います。
釈迦は、悩み苦しみをなくすために、今現在の状況に適した手段(筏)を使い、段階的に離欲し執着を手放す、ということを方法論の基礎に置いたように思います。
考想息止経の教示は、蛇喩経に説かれる、筏の譬えの具現化であるとの考えも生まれます。
すでに考察した、考想息止経の教示による、認知行動療法の非機能的な自動思考や反芻への対処に、筏の譬えを当てはめて考察してみます。
「ネガティブで自分の気分を下げてしまう「定型的否定的」な「わたしなんて・・・」という考え、つぶやき(自動思考)が生まれてしまう」のであればそれに意識を向けるのではなく、「ネガティブで自分の気分を下げてしまう「定型的否定的」な「わたしなんて・・・」という考え、つぶやき(自動思考)が生まれてしまう」ことの「必然性(欲求)」を川に見立てて、その川を渡る(克服する)ためには、「別のことを意図的に考える」という「筏」を使いなさい、という教示、言い換えれば、「別のことを意図的に考える」ことによって、「ネガティブで自分の気分を下げてしまう「定型的否定的」な「わたしなんて・・・」という考え、つぶやき(自動思考)が生まれてしまう」「必然性(欲求)」もしくは「期待」を無力化し、無くしてしまう(川をわたる、克服する)、という方法の教示であると思われます。
手段としての「筏」が生まれるのは、「ネガティブで自分の気分を下げてしまう「定型的否定的」な「わたしなんて・・・」という考え、つぶやき(自動思考)が生まれてしまう」ことを、「『これは苦しみである』とありのままに知」(大念処経)ることによって四聖諦が起動し、四聖諦の起動によって、これが苦しみであるならば、苦しみをなくすための手段が必要である、それは何か、という探索が始まるからであると考えています。
四聖諦の起動となる認知「『これは苦しみである』とありのままに知り」とは、主体的に苦しみながら苦しんでいることを自覚しない=「苦しみ」という「体と心にうまれる認知できる出来事」が生起していることを自覚していない、という自己の認知のあり方から、苦しんでいる自分を知る、苦んでいる自分を自覚する、苦しんでいる自分を第三者として観る=「苦しみ」という「体と心にうまれる認知できる出来事」が生起していることを自覚する、という態度への転換によって到達できる認知です。
「苦しんでいる自分を知る、苦んでいる自分を自覚する、苦しんでいる自分を第三者として観る」ことを可能とするものが、ヴィパッサナー瞑想の四念処における五蘊の観察です。
四念処における五蘊の観察によって観察力を養うことによって、ネガティブで自分の気分を下げてしまう「定型的否定的」な「わたしなんて・・・」という考え、つぶやき(自動思考)に反応して無自覚に考え続けることは、「主体的に苦しみ、苦しんでいることを自覚しない」という状態だから、「苦しんでいる自分を知る、苦んでいる自分を自覚する、苦しんでいる自分を第三者として観るという態度」に転換したならば、「別のことを意図的に考える」という筏を使って、「ネガティブで自分の気分を下げてしまう「定型的否定的」な「わたしなんて・・・」という考え、つぶやき(自動思考)が生まれてしまう」という川を渡る(克服する)ことができるだろう、という「智慧」が発現します、という説明になります。
釈迦の方法論を特徴づけるものは「離欲」だと考えられますが、釈迦は、「離欲」一辺倒ではないように思います。
筏の譬えの筏は、「悩み苦しみつらさを生み出す認知形成のしくみ」という川をわたる(=克服する)ためには、「悩み苦しみつらさを生み出す認知形成のしくみ」生み出すことを止める手段=「筏」を用いなさい、という方法論であると思います。
「離欲」を一辺倒に説くのではなく、「離欲すべきこと」の力を打ち消す、もしくは弱める効果のあることを「筏」として使い、「離欲の対象」から「離欲」することを可能と死なさい、という方法であると考えています。
「筏」の典型的なものは「喜び」「安楽」や「尋」と「伺」という、「新たなものを作り出すことのよって川をわたる=克服する」という方法であるように感じます。
ただし、ここでいう「喜び」は、欲求(=欠乏感)を生み出し、その欲求(=欠乏感)を充足することによって、脳の報酬系を刺激して、快感という報酬を得るという「喜び」ではないと理解した方がいいように思います。
欲求(=欠乏感)を生み出し、その欲求(=欠乏感)を充足することによって、脳の報酬系を刺激して、快感という報酬を得るという「喜び」をえるのでは、欲求を充足することを求め続ける性向を養いますから、「離欲」とは真逆の方法ということになってしまいます。
例えばタバコを吸う方には申し訳ないのですが、自己の体験と理解からお話します。
初めて吸った時には、「こんなまずいもの」と感じましたし、うまいから吸いたいとは思いませんでした。それでも吸い続けているうちにニコチンの刺激とともに安楽の感覚を味わえるという条件付けがなされ、ニコチンの欠乏に対してニコチンを補給することで安楽の感覚が得られると感じるようになりました。
このことはすなわち、ニコチンに馴化する(ならされること)によってニコチンによる体の抵抗感がなくなり、逆にニコチンの欠乏感によりニコチン摂取への欲求をつくり、ニコチンを摂取することで欲求が満足を得て、脳の報酬系から報酬が与えられる、というメカニズムであると理解しています。
「筏」の典型的なものとしての「喜び」は、ヴィパッサナー瞑想による観察考察という努力を続けること(集中力の涵養)よって得られる「喜覚支」の養成による「喜び」、もしくはサマタ(集中)瞑想による四無量心(慈悲喜捨)の「喜」の瞑想によると考えた方がよいでしょう。
仏教の修行という文脈から離れたとしても、何かをすることに集中することによってえられる「喜び」は誰でも育成可能です。
七覚支と4つの禅定に基づいて説明するならば、「喜び」の発現により「喜覚支」を養成し、「喜覚支」により「軽安覚支」による「安楽」を実現し、安楽状態の中でより集中力を加速させ「定覚支」に至り、「尋」と「伺」を発現させ初禅に至ります。
「尋」と「伺」による観察考察により、心の平静を得たならば、「尋」と「伺」を止めて第二禅にいたり、「喜び」を捨てて第三禅に至り、楽しみ(安楽)を捨てて第四禅に至るのですから、「喜び」「安楽」や「尋」と「伺」は、川を渡り終わった(=より高次のここ平静を得た)なら、もはや不要であり、筏のように捨て去られることになります。
「悩み苦しみつらさという川」を渡るために、「喜び」「安楽」や「尋」と「伺」といった「筏」を作って、「悩み苦しみつらさという川」を渡って、渡り終わったら、「喜び」「安楽」や「尋」と「伺」といった「筏」は、役割を終えたのだから捨ててゆきなさい、「尋」と「伺」を、捨ててゆくことは観察考察して悩み苦しみの原因を探り当てようという意欲すなわち欲を捨てること、「喜び」「安楽」を捨てることは、「喜び」「安楽」という「好ましいもの、楽しいもの」への執着を捨てること、そうすれば完全な心の平静、完全な離欲に至るでしょう、ということであるようです。
釈迦が用意したセーフティネット
『出来事に対する自己の体と心に「定着している」反応パターンを自覚し、「自己が選択した好ましい自覚的な反応」に変えてゆくこと』に至る道が、過度な負担とならないための手立ては講じられています。
例えば、釈迦は、念身経で、ヴィパッサナー瞑想による四念処の『身体にむけた注意』を確立することの利益に第一に、好き嫌い、嫌悪感の克服を上げ、利益の第二に、恐れと怖じ気を克服できるようになると教示しています。
また、「尋」と「伺」が発現し、悩み苦しみの生起の原因に到達する前に、七覚支の「努力を始めた比丘に混じりけのない喜びが生じる」喜覚支、「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ。」軽安覚支を実現することも、過度な負担とならないための手立てと言えるかもしれません(治意経)。
(喜覚支、軽安覚支を実現することは、本来的には、体と心が安らぐ状態(体が安楽で、思考や感情の生成を停止した状態)を作ることで、悩み苦しみが認知される意識とは別の領域に所在する、悩み苦しみを生成する原因をとらえやすくするためであると考えられます。喩て説明するならば、川の水量が多い時は川床の石は見えませんが、水量が少なくなれば川床の石(悩み苦しみの原因)は姿を現します。)
子どもは一般に、不快の感情の分化を先行させるそうです。
これは、養育者が、やってはいけないと考えることを子どもがしたときに、叱る、親が不機嫌になるなどによって、子どもに恐れの感情、嫌悪感を味合わせる=不快の感情の分化を促すことによって、それはやっていはいけなことだと学習させるからではないかと考えています。良いこと好きなことは、養育者がよろこぶことや、褒めるなど、子どもが心地よいと感じる報酬をあたえられることによって学習されるでしょう。
即ち、幼児は、怖い、嫌いという不快な感情も、自分という存在が喜ばれているという快の感情も、養育者を通して獲得します。
好き嫌い、嫌悪感、恐怖や怖じ気などの情緒は、養育者の働きかけによって分化、育成されるのであれば、物事の判断を、他者に好かれるか嫌われないか、嫌われるのは怖いこと、という観点から行うことになったとしても不思議ではありません。
マインドフルネス認知療法原著第二版(北大路書房)には、Freidman RS,さんとFoster Jさんの研究として「暗黙の情動の手がかりについての研究にひよって、わしたちはほとんど時間で、快適か、不快か、どちらでもないかに基づいて、入ってきた刺激に反応することが解っている。」とのことですから、他者に嫌われると予想される(五蘊の想:言語化されていない思考の生起)のであれば、不快を感じて避けようとする、と考えても違和感はありません。
他者に好かれるか嫌われないかを考えること、嫌われるのは怖いこと、という観点から物事を観ていたのでは、自分が悩むこと苦しむことをありのままに考察できないでしょう。
釈迦は、悩み苦しむのは、悩み苦しみを正面から考察しないからであり、悩み苦しみを正面から考察しないのは、悩み苦しみを正面から考察することによって、心に、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が生まれることを避けたい気持ちが働くからだ、と認識したのかもしれません。
さらに、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が克服されれば、悩み苦しみを正面から考察し、過去において心に苦痛や苦悩をもたらした出来事(例えばトラウマ)を正面から見つめたとしても、心に、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気は生まれない、ということになります。
過去において心に苦痛や苦悩をもたらした出来事が、現在の自分の環境の中にないにもかかわらず、現在においても、過去において心に苦痛や苦悩をもたらした出来事に起因する苦痛や苦悩が生まれるのであれば、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が心に生まれることを克服することは、過去において心に苦痛や苦悩をもたらした出来事に起因して、現在も生まれる苦痛や苦悩を正面から見つめ、克服することに取り組む(過去の出来事を観察し考察し、現在生まれる苦痛や苦悩の原因となっていることについての自分の解釈を書き直す)ことに大きな力を与えるでしょう。
好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気を克服することが、「苦行ではなく、無理なく過度の負担無く、体と心のはたらきに転換をもたらす方法論」であることを下支えする構造になっている、と言えます。
釈迦の中核的な方法論である、「四聖諦」は、「『これは苦しみである』とありのままに知り」(大念処経)から始まります。
「『これは苦しみである』とありのままに知り」という「自覚」が生まれないならば、苦しみの中にいて苦しみつつ、苦しんでいるという「自覚」なく苦しみ続けるということもあり得ます。
ヴィパッサナー瞑想によって、感覚を研ぎ澄まし感受性を高め観察考察することによって、これは苦しみなのだ、と知ることができるからこそ、苦しいより楽な方がいい、この苦しみを何とかしたい、無くしたい、という心の機能が起動する、と理解することができます。
Beckの認知モデルに基づき考察するならば、非機能的な中核信念があったとしても、非機能的な中核信念が活性化しない状況では、日常生活に著しい支障が生じるわけではありませんが、幼少時の心的外傷ともいえる体験により形成され潜在している非機能的な中核信念を、検知した日常的に感じる不快の感覚を、「感覚を研ぎ澄まし感受性を高め観察するから、これは苦しみなのだ、と知ることができる」ことによって、活性化していない非機能的な中核信念を検出することが可能になるでしょう、と説明してもよいように思います。
四聖諦は、四聖諦の考え方に基づき意識して努力しなさい、という教示ととらえるよりも、「悩み苦しみをなくすことに到達するための、四聖諦という、物事を自己概念(嫌悪感や恐怖の認知形成を含む)に基づく制約なく(如実知見)観察考察する、好ましい認知形成のしくみを起動させること」ととらえた方が適切だと考えています。
四聖諦と「小さな教授」
四聖諦は、交流分析の「小さな教授」「リトルプロフェッサー」の「大人版」を起動させること、と説明できるかもしれません。
「小さな教授(小教授)」について、杉田峰康先生の説明を引用します。
「英語でリトルプロフェッサーといい、LPと略される。Ⓒの自我状態の中で直観と生存の知恵に富む部分をいう。生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力で、幼児はこれで問題の解決にあたる。また、人生脚本のもとになる「幼児決断」は小教授が行うと考えられている。構造分析の二次的モデルによると小教授の位置は次のようになる(P2、A2、C2は成人の自我状態を示す)。」(創元社 「新しい交流分析の実際」)
杉田峰康先生は、上記のように説明されたうえで、C2の構成として、上部にP1=”魔法の親”が、下部にC1=”身体的な子供”が位置し、両者の間にA1=”小さな教授(LP)”位置する図が提示されています。
幼児は、「ブリッジェスによると、情緒はだいたい二歳頃までに著しい分化をとげ、恐れ、嫉妬、快、不快、喜びなど、基本的な情緒が出そろい、さらに分化を重ねて、およそ五歳に成人に見られる情緒がひととおり出そろうといわれています。」(上記杉田峰康先生著書)
幼児の時点では、大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念は形成されていないでしょうから、「自己制約」が希薄です。
自己制約が希薄ですから、養育者から叱られたり、褒められたりして分化させた情緒「恐れ、嫉妬、快、不快、喜」などを刺激される体験について、「生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力で、幼児はこれで問題の解決にあたる」のでしょう。
解決にあたるといっても、幼児は養育者に依存した存在、自己の力を認識できない状態ですから、「養育者に依存した存在、自己の力を認識できない状態」を前提に、自分なりの解釈によって『人生脚本のもとになる「幼児決断」』を行うことになるでしょう。
「大人版」の「小さな教授」「リトルプロフェッサー」の「生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力」は、大人になる過程での学習を踏まえており、「養育者に依存した存在、自己の力を認識できない状態」ではありませんから、ヴィパッサナー瞑想による自己の体と心の観察考察によって、「養育者に依存した存在、自己の力を認識できない状態」ではない自己を前提として、「生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力」の発現を妨げる、自分のなかの「大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念、自己制約」を自覚し離れることによって、「生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力」を発現させること、と考えると、釈迦の認知論、ヴィパッサナー瞑想によって「四聖諦を起動させる」という考え方と整合的な理解ができるように感じます。
『「大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念、自己制約」を自覚し離れることによって、「生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力」を発現させること』を、釈迦は「ヴァッチャよ、如来は見解にとらわれるということを脱却している。」(火バッチャ経)と言ったのではないだろうかと考えます。
釈迦は、火バッチャ経で、ヴァッチャに対して、自らはとらわれることはない「見解」として、『世界は永遠である。これだけが真理である。他は虚偽である。』『世界は永遠ではない。これだけが真理である。他は虚偽である。』『生命と身体とは同一である。これだけが真理である。他は虚偽である。』『生命と身体とは別個である。これだけが真理である。他は虚偽である。』(火バッチャ経)などをあげています。
釈迦にとって、これら「見解」は、五蘊(認知形成機能)の野放し状態(五取蘊)であることを原因として、「想像」「概念の操作」により作り出したことであり、ヴィパッサナー瞑想の五蘊(認知形成機能)の観察によって、五蘊(認知形成機能)の野放し状態(五取蘊)を克服した釈迦からは、『「想像」「概念の操作」により作り出したこと』ことにとらわれることは無い、という宣言であろうかと思います。
「大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念、自己制約」のすべてが、『「想像」「概念の操作」により作り出した』こととまでは言えないのかもしれませんが、釈迦が「見解」にとらわれないと語ったの2600年ほど前、今日とは異なる、たとえば永遠不変の自己と宇宙との合一を説くような、今日では神話的とも考えられる世界観を前提にした「見解」であったであろう、ということも考えておく必要があります。
しかし、時代的な違いを差し引いてなお、今日「大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念、自己制約」が、『「想像」「概念の操作」により作り出したこと』である可能性は十分にあり得ます。
反面的な説明ですが、ベックさんの認知行動療法における「適応的な信念」の記述は、「私はそこそこ有能で」「私はまあまあ人に愛され」「私はまあまあ価値ある存在で」などで始まり、きわめてモデレート、中庸です(認知行動療法実践ガイド:基礎から応用まで 第3版)。
このことは、モデレート、中庸な信念でない、非機能的な信念(適応的な信念からはかけ離れた極端と思われる信念)を持つことによって、気分の低下が起こされ、さらに活動の停滞まで引き起こしてしまうのだから、適応的でモデレート、中庸な信念へ修正することによって、「このくらいのことはできて当然」という、『「想像」「概念の操作」により作り出した』理想化、願望化された自己概念から、「できることもあるができないこともある」という現実的実用的な自己概念を形成することで、「こんなことができないなんて」という認知の生成による気分の低下を減少させる、という効果を生むでしょう。
そのように考えるとき、大なり小なり「大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念、自己制約」が、『「想像」「概念の操作」により作り出した』、現実的実用的なものでないもの、現実的実用的なものでないものであるがゆえに、悩み苦しみを生み出す原因となるもの、ありのままに物事を見ることによって悩み苦しみの解消に至ることを阻害するもの、である可能性は十分にあり得ます。
『「想像」「概念の操作」により作り出した』ことである「見解」』を排除し、瞑想による色、受、想、行、識の徹底的な観察考察による経験的合理的な自覚に到達し、苦悩を観察し考察することで、仏教でいうところの物事をありのままに観る「如実知見」が実現し、智慧の発現によって、苦悩の解消のしくみがはたらき始める=「苦しいよりも楽な方がいい、この苦しみを何とかしたい、無くしたい、という心の機能が起動する」と言い換えてもよいように思います。
四聖諦は、意図して行う方法論ではなく、自分が形成してきた「大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念、自己制約」にとらわれることから解き放たれ、「生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力」を起動させること、ととらえたほうが本質的な理解に到達できるような気がします。
「道徳観や善悪判断」にとらわれることから解き放たれる、ということは傍若無人になることでもなく、社会規範を無視してやりたい放題をやるということにもなりません。
(釈迦の認知論、方法論を考えるときに、釈迦の生きた時代に道徳観や善悪判断は当然にあったでしょうが、(認知論アプローチをとるならば)人々が抱く(認知する)道徳観や善悪判断は、今日の基本的人権などの概念とはリンクせず、神々や自己の再生、永遠不変の自我(アートマン)とリンクしたものであった可能性は念頭に置く必要があります。)
なぜならば、「大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念、自己制約」にとらわれることから解き放たれる、とは、念身経に教示される『身体にむけた注意』を確立することの利益である、好き嫌い、嫌悪感の克服、恐れと怖じ気の克服によって、下記のような無自覚な価値判断を離れることであると考えられるからです。
① 好き=好ましいこと楽しいこと=体験したいこと接近したいこと≒善いことと感じる価値判断=執着する
② 嫌悪感、恐れ 怖じ気=好ましくないこと楽しくないこと=回避したいこと≒悪いことと感じる価値判断=嫌悪する
「生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力」を起動させること、とは、初禅において現れるとされる「粗い考察」(尋)、微細な考察」(伺)の発現によってもたらされる観察眼考察眼がその状態であると考えています。
釈迦は、火バッチャ経で、五蘊、色、受、想、行、識のあり方、生起と消滅について知り尽くし、「それゆえ如来はあらゆる妄想、あらゆる顚倒、あらゆる自我があるという見解(我見)・自分のものであるという見解(我所見)・自己意識(慢)・潜在的煩悩(随眠)を消滅し尽し、離欲し、滅し、捨て、捨て去ったことにより、執着がなくなり、解脱したとわたしは説く」と教示しています。
「自己意識(慢)」、すなわち『「想像」「概念の操作」により作り出した』「わたしとはこのようなものだという「大人が持つ概念的な道徳観や善悪判断、自己概念、自己制約」は、「生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力」、仏教でいうところの「如実知見」の発現を妨げる、ということなのかもしれません。
「わたしとはこのようなものだ(好き嫌い、嫌悪感、恐怖、善悪判断・・・信念、スキーマ)」という概念が社会規範を取り入れて形成され、社会への適応をもたらすと考えると、悟り、解脱は、自らが形成し保持して来た「わたしとはこのようなものだ(好き嫌い、嫌悪感、恐怖、善悪判断・・・信念、スキーマ)」をなくすことであり、「わたしとはこのようなものだ(好き嫌い、嫌悪感、恐怖、善悪判断・・・信念、スキーマ)」をなくすことは、周囲の人々と共有されている「世俗的に信じられている、融和的ではあるが自分を苦しめることともなりかねない社会規範や考え方」との軋轢をもたらすことも想定できますから、社会とのかかわりから離脱する出家の方が、悟り、解脱の実現に関しては適応的な環境である、ということはいえるでしょう。
もっとも出家者集団は、出家者集団として、『「想像」「概念の操作」により作り出した』我々はこのようにあるべきなのだ、という、集団的自己概念があるのかもしれません。
苦しみをありのままに知るためには「安楽な状態」が必要
嫌悪感なく恐怖心なく「『これは苦しみである』とありのままに知り」ということを可能とするための巧妙な仕掛けがあります(セーフティネットとしてすでにお話はしています)。
(1)念身経に説かれる『身体にむけた注意』を確立することの利益である、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気の克服
(2)集中による「喜び」の開発(喜覚支の始動)、「喜び」による安楽の開発(軽安覚支の始動)
「苦しいより楽な方がいい、この苦しみを何とかしたい、無くしたい、という心の機能が起動する」には、四念処への集中による「喜び」の開発(喜覚支の始動)、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気の克服の後、到達すると思われる、高度なリラクセーション状態状態、すなわち、「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ」という状態である『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)に到達していることが前提であるように思います。(治意経)
好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が克服され、「喜び」が開発されているから、「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ。」という状態が到来し、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が生起することなく、自分の身体と心の安らぎを妨げている原因を観察考察することの準備ができている、ということであると思います。
この状態が私が言う「高度なリラクセーション状態」です。
そして、さらに、『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)の次の段階である、「身体が安らいで幸せな人の心は集中する」という「精神集中という悟りの支分」(定覚支)にいたり、精神集中により、粗い考察、微細な考察とされる「尋」と「伺」が現れて、『「わたしとはこのようなものだ(好き嫌い、嫌悪感、恐怖、善悪判断・・・信念、スキーマ)」という概念』を離れて、苦悩の発生プロセス、原因を観察考察することが可能になります。
ここまで至れば、「悩み苦しみをなくすことに到達するための、四聖諦という、物事を自己概念に基づく制約なく(如実知見)観察考察する、好ましい認知形成のしくみを起動させること」は、確実になされていると考えられます。
そこに至る過程で、火バッチャ経の「如来は見解にとらわれるということを脱却している」ことや、五蓋(ごがい)と言われる瞑想の進展を妨げる、心のはたらきを取り除くこともおおよそ完了し、「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ」ことが実現し、それらの成果が相まって、「この苦しみを何とかしたい、無くしたい、という心の機能が起動する」のでしょう。
五蓋は、瞑想の進展、智慧の発現を妨げる5つの「蓋」という意味で、心に生まれる瞑想の進展、智慧の発現を妨げる障害、ということになるでしょうか。
①欲望 ②怒り ③ものうさとぼんやりした鈍さ ④ざわつきと後悔 ⑤疑い の五つを指します。
五蓋は全てなくすことが望まれますが、ひとつご説明すると④ざわつきと後悔、漢訳で「掉挙・悪作(じょうこ・おさ)」とされる「悪作」、後悔することを止めることがあります。
すでにお話しましたが、私の場合は、④ざわつきと後悔(掉挙・悪作)の、ざわつきによって、瞑想状態が進展しないことにより、早期不適合スキーマが形成されていることを自覚しました。
その時の状態は、瞑想状態が深まってはいるものの、そこにもっと心の平静があるはずなのに、そこにゆけない、という感覚とともに、心がざわつくことが感じられました。
心のざわつきの理由が、自分がここにいてはいけない感覚、存在することが許されない感覚に起因しているようだと自覚したことで、自分には早期不適合スキーマがあるようだと自覚しました。
その自覚から、無力感、無価値感、厭世観、希死念慮の自覚に行き着くまでに約6か月かかりました。
その経験から言うと、瞑想状態が深まることによって、心の平静を妨げるであろう早期不適合スキーマや非機能的中核信念がある場合には、それらが活性化していない状態においても、④ざわつきと後悔(掉挙・悪作)として検知することができるようです。
そのように考えると、後悔、悪作は、強い悔悟の情(後悔)であるとともに、交流分析の早期決断や早期不適合スキーマや非機能的な中核信念など、過去の体験に起因して、現在においても身心の平静を乱す心理的メカニズムととらえたほうがいいのかもしれません。
釈迦の苦悩が、幼少期の体験に基づくものであった場合には、そのように考えても全く不思議はありません。
仏教の教学には、早期決断や早期不適合スキーマ、非機能的な中核信念などの概念はありませんから、④ざわつきと後悔(掉挙・悪作)を、交流分析の早期決断や早期不適合スキーマや非機能的な中核信念などと、解釈したり訳したりする方はいらっしゃらないでしょうが、心理的なメカニズムから考えるならば、瞑想実践により体と心を落ち着かせてなお生じる、④ざわつきと後悔(掉挙・悪作)を、早期決断や早期不適合スキーマや非機能的な中核信念の影響によるものとしても何らおかしくはありません。
そして、「尋」と「伺」により、早期決断や早期不適合スキーマや非機能的な中核信念の影響を知り、それらの影響を排除することができるなら、もはや「尋」と「伺」は不要となり、「尋」と「伺」を停止しして、さらなる心の平静と集中による第二禅にいたる、という説明も妥当なものであると感じます。
ちなみに、惛沈・睡眠と漢訳されてきた、③ものうさとぼんやりした鈍さは、気分が沈んだ状態を指すようですが、私は、うつ状態と理解してもよいのではないかと考えています。
悪作を、後悔として考察するならば、あの時こうしていたら、こんなことをしなかったら、と考え悔やんでも、現在の自分にはなんら利益がない、ということを知りなさい、ということであるようです。(この記述による心理的な状態は、意識的、無意識的ということ別にすれば、後悔にも早期決断や早期不適合スキーマ、非機能的な中核信念無意識的にも形態的には合致します。)
あの時に戻ってこうしたい、それをしないでおこう、ということは願っても実現することはありません。
「あの時に戻ってこうしたい、それをしないでおこう、ということは願っても実現することは」ないと考えるならば、後悔とは、「心の中で作り出した実現しないこと」を規準として、それをしなかったこと、してしまったという事実を対比し、それをしなかった自分、してしまったという自分を責めることだと理解できますから、後悔は、「心の中で作り出した実現しないこと」に基づいて、絶えず悩み苦しみつらさを作り出していることに他なりません。
色、受、想、行、識の徹底的な観察考察による物事をありのままに見る能力から、苦悩を観察し考察するならば、『後悔は、「あるとは認識できない作り出された概念」に基づいて(後でご説明する「識」の比較検討機能によって)、絶えず悩み苦しみつらさを作り出していること』だと容易に理解できるでしょう。
釈迦は、「あるとは認識できない作り出された概念」にもとづいて望むことによって、絶えず悩み苦しみつらさを作り出していることを、求めても得られない苦しみ、求不得苦と言いました。
「あるとは認識できない作り出された概念」を規準にすること自体が、物事をありのままに観ることを妨げますから、「あるとは認識できない作り出された概念」にもとづいて、絶えず悩み苦しみつらさを作り出してしまう、人の体と心のはたらき、認知形成のしくみを、よくよく理解する(自覚する)ことが重要になります。
人の体と心のはたらき、認知形成のしくみを、よくよく理解する(自覚する)方法が、ヴィパッサナー瞑想だと理解していいただいてもよいでしょう。
ただし、自分の理想や目標などは、「あるとは認識できない作り出された概念」で「いまはないこと」ですが、どう見ても無謀、というものでない限りは、実現に向けた行為、努力によって実現させようとすることを前提として、つくられるものですから、「あるとは認識できない作り出された概念」のすべてが、絶えず悩み苦しみつらさを作り出している、ということではありません。
自分の理想や目標などまで、無効化してしまったのでは、現実に生きることに返って支障が生じます。
自覚すべきは、人の体と心のはたらき、認知形成のしくみが、自分の理想や目標を作り出すのと同じように、「あるとは認識できない作り出された概念」も無自覚に作り出してしまうことだといえます。
観察する瞑想が必要だった
嫌悪感なく恐怖心なく「『これは苦しみである』とありのままに知り」ということは、「苦しみを観察すること」によりもたらされますから、「苦しみを観察すること」を可能とするために設計された瞑想法が、ヴィパッサナー瞑想による「四念処」であると考えられます。
釈迦は、「人が、日常、自分のしていること、心に生起することの多くをスルーしているのは、それが「楽な状態」だからでしょ、でも、その「楽な状態」が、『これは苦しみである』という自覚なく、苦しむことを招来しているのだから、観察力を養って「『これは苦しみである』とありのままに知り」、苦しみをなくして「楽な状態」を実現した方がいいよね、ありのままに知る方法が「四念処」、苦しみを無くす方法が「四聖諦」の起動だよ」という観点から、観察瞑想と言われる、ヴィパッサナー瞑想を教示した、ということだと理解してもあまり外れた理解ではないと思います。
釈迦在世時には、さまざまな修行に励む方が、相当数いたようで、釈迦もその様な方について瞑想を学んだようです。
そこで、釈迦は、高度な瞑想技術を身に付けたようですが、それらの瞑想や境地には満足せず、それらの方の元を去ったようです。
マハーサッチャカ経には、アーラーラ・カーラーマの教えについて、
「『この教えは厭い離れることに導かず、貪りを離れることに導かず、〔煩悩を〕滅することに導かず、寂静に導かず、証知に導かず、正しい目覚めに導かず、ニッバーナに導かない。〈何もないという境地〉に達するのみである』と。」
同じく、ウッダカ・ラーマプッタの教えについては、
「『この教えは厭い離れることに導かず、貪りを離れることに導かず、〔煩悩を〕滅することに導かず、寂静に導かず、証知に導かず、正しい目覚めに導かず、ニッバーナに導かない。〈想いがあるのでもなく、ないのでもないという境地〉に達するのみである』と。」
釈迦は、〈何もないという境地〉〈想いがあるのでもなく、ないのでもないという境地〉への到達では、満足しなかったことになります。
〈何もないという境地〉〈想いがあるのでもなく、ないのでもないという境地〉とは、集中力を高め、サマディーを実現するサマタ瞑想であったのかもしれません。
〈何もないという境地〉〈想いがあるのでもなく、ないのでもないという境地〉について、Beckの認知論から考察してみます。
気分の低下を生み出す非機能的な自動思考などの、意識の表層にあられる思考の生起をなくして無念無想と言われる状態にいたれば、〈何もないという境地〉〈想いがあるのでもなく、ないのでもないという境地〉は実現するかもしれません。
しかし、非機能的な自動思考を生みだす非機能的な中核信念もしくはスキーマが意識の深層に形成されている人であれば、非機能的な中核信念もしくはスキーマを「厭い離れること」、「貪りを離れること」、「〔煩悩を〕滅すること」、をしなければ、一時的に、〈何もないという境地〉〈想いがあるのでもなく、ないのでもないという境地〉は実現しても、将来において非機能的な自動思考の生成による苦しみは生まれ続ける可能性がありますよね、という理解になります。
私の経験では、非機能的な中核信念やスキーマがある(私の)場合には、瞑想状態が進展しても、瞑想状態が進展するがゆえに認知できる瞑想進展の妨げ、釈迦が説く五蓋(ごがい)の「掉挙・悪作(じょうこ・おさ)」という、心がざわつき落ち着かない状態になるようです。
さらにその「心がざわつき落ち着かない状態」を観察してゆくと、非機能的な中核信念もしくはスキーマ(早期不適合スキーマ)を生成したであろう、幼少期の体験と、その時の自分の体験の解釈が現れてきます。
下記の大念処経の教示で、釈迦は、今ある欲望だけでなく、将来生じるであろう欲望についても言及しています。
このことは、意識の表層に、今、現れている苦しみをなくすことによって心の集中状態、平静状態を実現するだけでは悩み苦しみをなくすことはできず、表層に現れる苦しみを生み出す深層にある原因を知り、その原因=「執着、欲、愛執による束縛」をなくすことによって悩み苦しみがなくなるならば、「執着、欲、愛執による束縛をなくすこと」が、将来において悩み苦しみを生み出さない方法ということになり、「執着、欲、愛執による束縛をなくすこと」をコンプリートすれば、「すでに滅ぼされた欲望が未来に生じることがない」から、将来において悩み苦しみを生み出さないよね、と教示していると理解することが可能になります。
釈迦の認知論は、(体および意識のレベルに)悩み苦しみが現れ、(体と意識とは別のレベルに)その悩み苦しみを生み出す原因があること、(意識とは別のレベルにある)原因によって悩み苦しみが生み出されることを防止するとともに、悩み苦しみを生み出す原因をなくさないなら将来において悩み苦しみが発生し、悩み苦しみからは解放されない、と考えていたことになり、ベックの認知モデルなどと相似の苦悩発生のとらえ方と言っていいのではないかと思います。
下記の釈迦の教示は、あくまでも一体の認知形成機能(五蘊)を想定したうえで、悩み苦しみ欲望などを認知する場があり、悩み苦しみ欲望を認知する場に悩み苦しみ欲望が認知されなくても、悩み苦しみ欲望を生み出す原因は潜在している、と認識したのではないかと理解した方が良いようです。
六六経で釈迦は、人が認知すること考えることは、生まれては消えてゆくものであることを理由に、人が認知すること考えることは、常在不変の我=アートマンではない、という教示をしていますから、悩み苦しみ欲望などの認知を生み出す原因は潜在していても、常時悩み苦しみ欲望が発生し認知されるわけではない、悩み苦しみ欲望を生み出す原因が潜在していて悩み苦しみ欲望を生み出すが、悩み苦しみ欲望は生まれては消えてゆくことを繰り返す、ということであるならば、釈迦の認知に対する姿勢は六六経でも大念処経でも一貫しています。
「ここに、修行僧たちよ、修行僧は『これは苦しみである』とありのままに知り、『これは苦しみの原因である』とありのままに知り、『これは苦しみの消滅である』とありのままに知り、『これは苦しみの消滅にいたる道である』とありのままに知るのである。」(四聖諦と言われます)
「内に欲望があるときに、『わたしにの内には欲望がある』と知り、内に欲望がないときに、『わたしの内には欲望がない』と知るのである。」
「また、いまだ生じていない欲望が生じるままにそれを知り、すでに生じている欲望が滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた欲望が未来に生じることがないということを知るのである。」(以上大念処経)
「楽の感受を受けているときに、人が喜び、歓喜し、それに執着し続けるなら、かれのなかに執着する性向(貪随眠)が潜在する。」
「苦の感受を受けているときに、人が、愁い、悲しみ、嘆き、胸を打って泣き、迷妄におちいるなら、かれのなかに怒りうらむ性向(瞋恚随眠)が潜在する。」※瞋恚:しんに、怒りのことです。
「苦でも楽でもない感受をうけているときに、人が、その感受の生起と没滅、その感受の楽しさと危険性、その感受からの遠離、それらをあるがままに知ることがないなら、彼のなかには愚かさという性向(無明随眠)が潜在する。」(以上六六経)
釈迦の説く「欲望」の考え方
「欲望」が沢山出てきますが、上記で教示される「欲望」は、私たちが概念的に認識している(=見解としての)「欲」ではなく、個人の認知形成に伴って生起する個別具体的な「欲求へ執着している状態」と考えるとよいように思います。
概念的抽象的な「欲望」の理解では、釈迦の教示を理解することは進展しないように感じます。
各個人に生起する個別具体的な「欲求へ執着している状態」ですから、概念的に認識している(=見解としての)「欲」として理解するのではなく、各人がヴィパッサナー瞑想によって、自らの体と心のはたらき、認知形成のはたらきから生まれる「欲求へ執着している状態」として把握しなければ、釈迦が教示する「欲望」を理解することはできません。
そしてこれが、『私たちが概念的に認識している(=見解としての)「欲」』とは根本的に異なる性質なのですが、「欲求へ執着している状態」は、不適切な認知、すなわち自分を苦しめることとなる認知に対しても生まれるようです。
各個人が把握しなければならない、ということを前提に、「欲求へ執着している状態」を、現在の心理学の概念を活用して理解しようとすると、「何らかの欠乏感を充足しようと(期待)して不適切なコーピング(対処方法)をとり続けている状態」ともとらえられると感じます。
「何らかの欠乏感を充足しようと(期待)して不適切なコーピング(対処方法)をとり続けている状態」は、「不適切なコーピング(対処方法)」であるがゆえに、「何らかの欠乏感」が、充足されることはありません。
むしろ「不適切なコーピング(対処方法)」をとり続けている」ことによって、自分の意識はますます欠乏感にフォーカスされ、欠乏感がますます強く意識されるでしょう。
「何らかの欠乏感を充足しようと(期待)して不適切なコーピング(対処方法)をとり続けている状態」へ「欲求へ執着している状態」がありうることを想定したうえで、釈迦の方法論を特徴づけるものが「離欲」であると考えると、「離欲」の意味するところの理解が進むと思います。
釈迦は、「欲求へ執着している状態」から「離欲」するための方法として、「求めても得られないということも苦しみである」(大念処経)と教示し(求不得苦)、求めても得られないことを求めても、そもそも得られることは無く苦しむだけなのだから、求めても得られないことを求めないようにすること、すなわち「離欲」によって、求めても得られない苦しみをなくすことができる、と教示しました。
「何らかの欠乏感を充足しようと(期待)して不適切なコーピング(対処方法)をとり続けている状態」は、『不適切なコーピング(対処方法)」であるがゆえに、「何らかの欠乏感」が、充足されることはありません。』から、「求めても得られないということも苦しみである」という状態を招来します。
「離欲」は、釈迦が、事象(≒認知)を生み出す(=形成する)体と心のはたらきと、自分の体と心に生まれる本来価値中立的なものである事象(≒認知)について自覚していないから、自分の体と心に生まれる本来価値中立的なものである事象(≒認知)に対して、自覚することなく好き嫌い、好いこと悪いこと、という判断を生じさせ、好きなこと楽しいことに執着する性向が、欲や愛執を生み出し、結果として執着、欲、愛執が自分を束縛し、束縛されることによって、望んでもかなえれられることのないことを望んで、結果として苦しみを生み出す原因になっている、という認知形成のしくみを把握したことによって、苦悩をなくすためには執着、欲、愛執を生み出す性向を無くす「離欲」によって、執着、欲、愛執による束縛をなくし、望んでもかなえれられることのないことを望むことをなくせばよい、そうすれば本来価値中立的なものである事象(≒認知)をありのままに受けて止め、欲や愛執を生み出し苦しむことはなくなるだろう、と認識したためであると考えています。
「望んでもかなえれられることのないことを望むこと」は、「何らかの欠乏感を充足しようと(期待)して不適切なコーピング(対処方法)をとり続けている状態」と言い換えても、上記の考察は成り立ちます。
釈迦は、このような認知に、ヴィパッサナー瞑想による自己の体、感受、心の状態の観察により、人の体と心のはたらき、認知形成のしくみ(下記火バッチャ経引用の色、受、想、行、識)を把握したことによって到達したと考えられます。これらの実践が「四念処」です。
「心の観察」ではなく、「心の状態の観察」としているのは、大念処経などに説かれる心随観によって観察する心が、心に生起する思考や感情ではなく、瞑想している今現在の「心の状態の観察」であることからです。
釈迦は、アーラーラ・カーラーマさんとウッダカ・ラーマプッタさんに師事し、心の表層の意識活動を止滅することにはすでに習熟していたと考えられます。
次のように理解することはできるのではないかと思います。
釈迦が観察したのは、意識の表層に現れる、Beckの認知モデルの「非機能的な自動思考」ではなく、非機能的な自動思考を生み出す非機能的な中核信念(あわせて媒介信念もしく推論の誤り)もしくスキーマに相当するものであった想定すると、苦悩を生みだす「非機能的な中核信念(あわせて媒介信念もしく推論の誤り)もしくスキーマ」への執着、欲、愛執から「離欲」することによって、アーラーラ・カーラーマさんとウッダカ・ラーマプッタさん教えに足りなかった「『この教えは厭い離れることに導かず、貪りを離れることに導かず、〔煩悩を〕滅することに導かず、寂静に導かず、証知に導かず、正しい目覚めに導かず、ニッバーナに導かない。」ことを克服した。
非機能的な中核信念やスキーマが、単なる「歪んだ認知」で片づけれられるものではなく、それを形成した当時の自らがおかれていた環境(自分では環境を変えることができないという状態)の中で、何とか環境と折り合いをつけるために、自分への説得、事態の解釈を行ったものが、あまりに強固であったことにより保持されつづけ、その後の出来事の解釈にまで及んでいる、と考えるならば、非機能的な中核信念やスキーマは、その生成時においては必然性があって生まれたと言えます。
非機能的な中核信念やスキーマは、体験した悩み苦しみつらさに耐えるために形成された「筏の譬えの筏」であり、川を渡ってなお捨てることなく担いでいるがゆえに、今現在に負担を生じている、と理解してもよいのかもしれません。
「あなたたちは、もろもろの教えといえども捨て去るべきである。いわんやもろもろの悪い教えについてはなおさらである。」(蛇喩経)
(人はゼロから自らの考えを形成しない、なんらかの教えがあってそれに基づき自らの考えを形成すると考えるのであれば、この教示は極めて重要です。)
釈迦の認知論からか考えると、形成時には必然性があって生まれた非機能的な中核信念やスキーマであっても、成長した今となっては「不要な筏」だと認識して、執着、欲、愛執を断ち切って、つまり離欲によって、非機能的な中核信念やスキーマを滅尽することができる、ということ理解してもよいと思います。
釈迦が行った認知/苦悩の把握方法
見解(概念知)からの脱却
釈迦は、火バッチャ経でこのように説いています。
「ヴァッチャよ、『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』というのは見解に捕らわれることであり、見解の密林、見解の難路、見解の見せ物、見解の狂躁、見解の結縛であり、苦をともない、困惑をともない、悩みをともない、〔世俗的なものへの〕嫌悪、欲情から離れること、煩悩の消滅、こころの静けさ、すぐれた智慧、正しいさとり、涅槃のために役立たない。
ヴァッチャよ、わたしはこのような過失を洞察して、このようにすべての見解に依らない」
「ヴァッチャよ、如来は見解にとらわれるということを脱却している。ヴァッチャよ、如来は『このように物質(色)がある。このように物質の原因がある。このように物質の消滅がある。このように感受がある。このように感受の原因がある。このように感受の消滅がある。このように表象(想)がある。このように表象の原因がある。このように表象の消滅がある。このように形成力(行)がある。このように形成力の原因がある。このように形成力の消滅がある。このように意識(識)がある。このように意識の原因がある。このように意識の消滅がある』と見る。それゆえ如来はあらゆる妄想、あらゆる顚倒、あらゆる自我があるという見解(我見)・自分のものであるという見解(我所見)・自己意識(慢)・潜在的煩悩(随眠)を消滅し尽し、離欲し、滅し、捨て、捨て去ったことにより、執着がなくなり、解脱したとわたしは説く」
これは、釈迦が、悩み苦しみを生み出す原因となる体と心のはたらきと認知形成のしくみを観察し、悩み苦しみを生み出す原因となる認知=見解を脱却したこととがコンパクトにまとめられた教示だと思います。
コンパクトなのですが、ヴィパッサナー瞑想の経験がない方にとっては、何言ってるのかわからない、というのが正直なところだと思います。
「悩み苦しみを生み出す原因となる体と心のはたらきと認知形成のしくみ」と言える、「物質(色)」(眼などの器官)」「感受」「表象(想)」「形成力(行)」「意識(識)」について(上記教示では「見る」と教示していますが、意味するところは)観察し知り尽くし、観察し知り尽くすことによって、悩み苦しみを生む、「妄想」「顚倒」さまざまな、「見解」を「消滅し尽し、離欲し、滅し、捨て、捨て去ったことにより、執着がなくなり、解脱した」ということになります。
上記教示の意味するところは、釈迦は、五蘊=色、受、想、行、識の徹底した観察考察によって、人のありのままの「体と心のはたらきと認知形成のしくみ」は、無自覚に「妄想」「顚倒」「見解」を生み出す(五取蘊の状態なのだ)ことによって、無自覚に悩み苦しみを生むのだから「人のありのままの体と心のはたらきと認知形成のしくみ」を自覚して、無自覚に「妄想」「顚倒」「見解」を生み出さすことから脱却して、解脱に至った、ということになりそうです。
火バッチャ経は、大念処経のように弟子に対して教示されたものではなく、バッチャが持つ「見解」を釈迦に対して質問し、釈迦が回答した後、「見解」を脱却しているということについて説明したお経なので、大念処経などと比べるとあっさりとしています。
そではは、「見解」とは何かというと、五蘊=色、受、想、行、識=「体と心のはたらきと認知形成のしくみ」の徹底的な観察考察によってもたらされた物事をありのままに見る能力(如実知見)からは、「あるとは認識できない作り出された概念」といった内容になりそうです。
(1)「物質(色)」とは
「色」は、五蘊=色、受、想、行、識の「色」であり、「眼や手触り肌触りなどで感知する対象としての物質」と「物質としての身体」の双方を示すようです。
火バッチャ経には、ヴァッチャに対して、「物質として如来を認知する者は、如来にはその物質は捨てられており、根を絶たれたターラ樹の幹のように消滅し、未来に再び生じないものであることを認知するであろう。」との教示があり、以下同様の教示がなされます。
「感受として如来を認知する者は、如来にはその感受は捨てられており・・・」
「表象(想)として如来を認知する者は、如来にはその表象は捨てられており・・・」
「形成力として如来を認知する者は、如来にはその形成力は捨てられており・・・」
「意識として如来を認知する者は、如来にはその意識は捨てられており・・・」
上記の教示は、大念処経にある「〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素(五取蘊)は苦しみである。」を前提にして、如来である釈迦は、認知形成機能である五蘊の野放し状態であるといえる五取蘊を克服している、という理解でいいと思います。
五取蘊を克服した、と言っても、釈迦は解脱してなお、遊行の旅を続け、説法を続けたのですから、身体や認知する機能、行為する機能をなくしてしまった、というわけではありません。
眼、耳、鼻、舌、肌、意識をとおして「体と心に生まれる認知できる出来事」を把握するものの、それらに「好しいもの、楽しいものである」(大念処経)という愛執を生まない認知形成機能を確立した、ということと理解したらよいと思います。
言い換えると、「認知形成機能である五蘊の野放し状態であるといえる五取蘊」を観察し考察し自覚し、「認知形成機能である五蘊の野放し状態であるといえる五取蘊」を駆動する燃料ともいえる「現世の欲望に対する愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執」(大念処経)を断つことによって、悩み苦しみつらさ、欲望、執着、愛執を生み出す認知形成機能を止滅した、と説明できるかもしれません。
冒頭で引用した教示の境地に、釈迦が至ることを可能としたのが、ヴィパッサナー瞑想による四念処と考えられ、四念処は身体の随観を行いますから、「物質(色)」は、「身の随観」の対象として「身体」ととらえてよいと思います。
釈迦は、「このように物質(色)がある」については、四念処の身体の随観で、身体の動き、構造、要素の観察を教示しています。
「このように物質の原因がある」については、人が生まれることについて教示しています。大念処経では、生まれることの説明に、「〔個人存在を構成する〕五つの要素が出現し、認識領域を獲得すること」とされていますから、釈迦は、生きるとは認知し続けること、生きている限り人は認知することから解放されず、そして解放されない認知する機能に無自覚であるがゆえに「五取蘊」という苦しみが発生すると認識したのでしょう。
「このように物質の消滅がある」については、人が死ぬこと、死後身体が腐敗し、骨になり骨が砂になることを観察することを身随観で教示していますから、上記の「物質(色)」は身体とするのが妥当だと思います。大念処経では「〔個人存在を構成する〕要素が破壊し」と教示してます。
「物質(色)」としているのは、人の認知の対象としての物質ということも含んでいるのかもしれませんが、釈迦の方法論が(仏教の教学とは異なる)認知論に基づくものであると考えると、体と心のはたらきによって認知が形成されるので、「物質(色)」は、認知を成立させる要素としての「身体(色)」を観察すること、と考えた方が良いと思います。
「物質(色)」は、「存在」という意味を含むものとして使われているのかもしれませんが、四念処に「物質(色)」の随観というものは在りません。
最終的に釈迦が到達した認知は、認知の対象である「物質(色)」も含めて、四念処によって到達した『ただ事象のみが存在する』ということの意味を、事象を「認識できる出来事」とするならば、『「認識できる出来事」のみが存在する』という解釈になります。
釈迦の方法が認知論であった、という立場からは、認知を成立させる物質(色)的な要素としての「身体(色)」の方が適切であるように考えます。
(2)「感受」と「潜在的煩悩(随眠)」とは
「感受」は、五蘊=色、受、想、行、識の「受」とされるもので、体と心が感じる「楽の感受」「苦の感受」「不苦不楽の感受」があり、大念処経「肉体的」「非肉体的」な三種の感受が教示されています。
四念処では、体の動きの随観に接続して「受随観」を行います。
「楽の感受」「苦の感受」「不苦不楽の感受」について、こういうものですよ、という事細かな説明はありません。
釈迦は、人の体と心のはたらき、認知形成のしくみついて教示しますが、人の体と心のはたらき、認知形成にしくみに基づいて、認知(事象)が形成されるのは、瞑想する各個人の体と心のなかなのですから、「受随観」を通じて、自分の体と心に生起する「楽の感受」「苦の感受」「不苦不楽の感受」を自分で突き止めなさい、という教示スタイルを取ったのではないかと考えます。
この教示スタイルは、釈迦の教示全体を貫くものであり、釈迦の教示スタイルの特徴であると考えています。
この教示スタイルは、裏返せば、自分の中に生まれる苦しみなのだから、自分で突き止めない限り、自分の苦しみが生まれる原因にはたどり着けませんよ、ということになります。
受随観ができるようになると、楽しいことの「想」が生起しなくても、嫌なことの「想」が生起しなくても、楽の感受、苦の感受が生まれることが理解できます。
「受」は、「想」により生じることもあるようですが、「想」に先行して感受されるようです。
先のヤングさんらの「スキーマ療法」金剛出版から引用します。
「・扁桃体系は無意識的である:感情的反応は、刺激を意識的に処理することなしに扁桃体において形成される。Zajonc(1984)が10年以上も前に主張したように、感情を認知は別々の系である。」
「・扁桃体系は迅速である:危険信号に関する情報は、視床を経由して扁桃体と大脳皮質の両方に到達する。しかし速度が異なる。皮質に到達するよりも先に、危険信号は偏桃体に到達する。つまり皮質が危険信号を察知する頃にはすでに、偏桃体は危険信号に対して反応し始めている。Zajonc(1984)が主張したとおり、感情は認知より先に生じるのである。」
※ここでの「認知」は私の使い方とは別で、大脳皮質で生起する「認知」(=想?)です。
上記を参照すると、「想」は、大脳皮質によって生成され感知するものであるのに対して、「受」は、「肉体的」「非肉体的」(大念処経)とされていることからも、外部の刺激に反応して、大脳皮質での生じる「想」とは別系統の、大脳皮質での生じる「想」に先行して、扁桃体で生じる感情的な反応およびスキーマを構成する「身体感覚」と考えてよいと思います。
釈迦の時代に、大脳新皮質、扁桃体という知見はなかったでしょうが、釈迦は瞑想状態により、大脳皮質のはたらきに先行して、扁桃体が反応し、苦、楽という現代でいえば感情や身体感覚を生成させるということを観察していたようです。
不苦不楽については、不苦不楽の無明随眠についての教示で、「その感受の楽しさと危険性」とされていることから、楽の感受、苦の感受とともに発生する、興奮状態および興奮状態の継続によって感覚が鈍磨した状態と、私はとらえています。
K.M.B.ブリッジェスさんによると新生児の情緒は未分化の興奮しかなく、生後3か月後くらいになると快、不快の情緒がはっきりと分岐してくるとのことですから(「新しい交流分析の実際」杉田峰康先生 創元社)、楽の感受、苦の感受ととともに興奮状態が現れると考えてもよいように思います。
六六処経には、「受」の生起について、概略以下のように教示されています。
人には、認識を成立させる六つの内的な場として、眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、意処の六内処があり、認識の対象である、認識を成立させるための六つの外的な場として、色処、声処、香処、味処、触処、法処の六内処があり、六つの認識の集まりとして、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識身があり、六内処と六外処と六識身体の接触によって、眼触、耳触、鼻触、舌識、身識、意触の六触身生じ、六触身が生じることによって、六つの「感受」、六受身が生じるとされています。
そして「感受」が生まれると、六つの欲望のあつまり、色愛、声愛、香愛、味愛、触愛、法愛の六愛身(すなわち欲望)が生じるとされています。
マインドフルネス認知療法原著第二版(北大路書房)には、以下のような記載があります。
「ある経験がどのようにして「快適」あるいは「不快」として感じられるのか、そしてどれほど思考と気分が解釈を付け加えるのかにもっと十分に気付くようになるには実践が欠かせない。異なる状況と(大なり小なりの)出来事が身体感覚、感情、思考に影響を与えるすべての影響に気づくことは簡単ではない。」
(中略)
「暗黙の情動の手がかりについての研究[85]によって、私たちはほとんどの時間で、快適か、不快か、どちらでもないかに基づいて、入ってきた刺激に反応しいていることがわかっている。これは、そこを境にして、物事を変えたいと思い始めたり、思考の流れに迷い込んだり、反すうの引き金になるポイントであり、このエササイズの目的はこれらの、重要な瞬間に気づけるようになることである。このような瞬間にマインドフルな気付きを活用すれば、ずっと続けばいいと願う、あるいはなぜもっと頻繁におこらないのか知りたいなどの余計な思考を加えずに、瞬間をあるがままにただ経験し、評価することができる。」
[85]Friedman RS,Foster J.Inplicit affective cues and attentional tuning:An integrative review.Psychological Bulletin 2010;136:875-893.
(引用以上)
「ずっと続けばいいと願う」ことは、釈迦の認知論から言えば、無常という観点から、「それはかなわないこと」だけれども、愛執が生まれている状態を記述し、「なぜもっと頻繁におこらないのか知りたい」は、体と心に起こる現象(事象)は、「自分の思いにままにならない」という意味での「無我」を記述しているのではないか、との思いが生まれます。
上記と類似のことを、釈迦は、上記引用の「潜在的煩悩(随眠)」として教示しています。
マインドフルネスが、釈迦の認知論に基づく方法論であることを考えれば、釈迦と同様のことを、2600年の時を経て、ティーズデールさんたちは述べています、というべきでしょうか。
釈迦は、六六経の中でこのように教示しています。
「楽の感受を受けているときに、人が喜び、歓喜し、それに執着し続けるなら、かれのなかに執着する性向(貪随眠)が潜在する。」
「苦の感受を受けているときに、人が、愁い、悲しみ、嘆き、胸を打って泣き、迷妄におちいるなら、かれのなかに怒りうらむ性向(瞋恚随眠)が潜在する。」※瞋恚:しんに、怒りのことです。
「苦でも楽でもない感受をうけているときに、人が、その感受の生起と没滅、その感受の楽しさと危険性、その感受からの遠離、それらをあるがままに知ることがないなら、彼のなかには愚かさという性向(無明随眠)が潜在する。」
「かれが、楽の感受に執着する性向を捨てないで、苦の感受のために怒りうらむ性向を除去しないで、苦でも楽でもない感受についての愚かさという性向を根絶しないで、無知を捨てないで、智慧を生じさせないで、それでいて、現世においてかれに苦しみの終滅がおとずれるというようなことは、道理としてあり得ない。」
感受は、肉体的、非肉体的双方あるとされていますが、ゾクゾクする感じ、ゾッとする感覚(スキーマを構成する「身体感覚」)を想定するとわかりやすいと思います。
ただ通常では認知されない感受もあるようです。受の随観は、通常では認知されない感受を、感じ取るようにすることによて、随眠を起こさない訓練と言えるでしょう。
不苦不楽の感受は、例えばSNSやゲームに夢中になっていて、なかなかやめられない状態などを想定していただくとわかりやすいと思います。
脳の興奮状態の継続により感覚が鈍磨していて、やめた方がいいという考え(想)は生まれるものの、やめられない(やめるという意欲と行為である「行」が生じない)、という状態であれば、「その感受の楽しさと危険性」という教示はドンピシャです。
楽の感受が生まれているときに、喜び、歓喜という「表象(想)」=情報が生じ、その情報に基づきその情報を具現化したいという欲求にもとづき、喜びを表現する言葉を発したり行為したりすることが「形成力(行)」と仮定すると、「楽の感受」➡「表象(想)」➡「形成力(行)」が一気通貫で行われた時には、貪随眠が潜在するということだと理解できます。
このようなとらえ方は、悲しいから泣くのではない、泣くからから悲しいのである、というジェームズ・ランゲ説と、感情の生成についての原因と結果については同様のとらえ方といえるようです。
釈迦は、脳による認知と言える「表象(想)」に先行して、五感による体験により、体に「楽の感受」が起こり、楽の感受に呼応して、喜び、歓喜という「表象(想)」が生じ、それを表出したいという欲求にもとづき、言葉を発したり行為したりすることによって、喜び、歓喜という感情が生じ、喜び、歓喜へ執着する性向が潜在する、と説明したことになります。
また、また貪随眠は、楽の感受、「表象(想)」、「形成力(行)」が一気通貫で行われることを、欲求を生じ、欲求を充足することによって、脳の報酬系が活性化して、脳から快感という報酬があたえられることによって強化される性向、と説明することもできるように思います。
マインドフルネス認知療法においても、釈迦の認知論においても、快適か/楽の感受、不快か/苦の感受、どちらでもないか/不苦不楽の感受は、人の認知形成の方向性に影響を与える、という観点は共通しています。
(3)「表象(想)」と「形成力(行)」とは
五蘊=色、受、想、行、識の「想」と「行」です。
「想」は、「表象」と言われているように、一瞬のうちに「心に生まれるイメージとしての思考」を生成する機能、およびその機能により生成された「心に生まれるイメージとしての思考」だと考えています。
「想」は、Beckの認知モデルでいえば、気分の低下を感知した時(≒「苦の感受」が生じそれを感知した時)、「いま私は何を考えただろうか」と自問し、気分の低下をもたらした非機能的な自動思考を、「ことば」によって把握しようとする、言葉で明確に把握されていない状態の自動思考、もしくは自動思考を含む認知と考えてもらっていいと思います。
先に「スキーマ療法」(金剛出版)から引用した、「多くのスキーマは言語が発現する前に形成され始める。つまり子供が言葉を理解し話すようになるころには、いくつくかのスキーマはすでに形成されているのである。」とのことですから、これを考え合わせれば、「想」は、言語獲得前の幼児にも認知形成され、スキーマを形成することに関与している、と考えてよさそうです。
釈迦の認知論では、「想」は、次の「行」を刺激し、「行」は「想」を受けて、「意欲し」その意欲によって「行為」する機能をもたらすと考えます。
「楽の感受を受けているときに、人が喜び、歓喜し、それに執着し続けるなら、かれのなかに執着する性向(貪随眠)が潜在する。」という教示が意味するところは、楽の感受を受けているときに、「ああこれは嬉しいことだ」という「想」を形成し、その「想」に基づき、人「喜び、歓喜し」、「これはいいことだ、またこのような気分になりたい」という「想」を形成し、「それに執着し続ける」なら、あなたには、「執着する性向(貪随眠)が潜在」することになりますよ、ということになろうかと思います。
瞋恚随眠、無明随眠も同様と解してよいでしょう。
「行」が、「意欲」によって「行為」を形成する「形成力」ととらえられていますから、「想」は、「心に生まれるイメージとしての思考」いわば行動の前提となる情報であって、情報としての「想」が、「意欲」を形成せず、その結果としての「行為」が形成されない、ということもあり得ます。
その様に考えると、「想」は、「行」との関係では、「行」によって「意欲」「行為」が形成される前段階の、「選択肢として」「心に生まれるイメージとしての思考」ということになります。
「想」を「選択肢として」「心に生まれるイメージとしての思考」と考え、「選択肢として」「心に生まれるイメージとしての思考」に反応して、「行」によって「意欲」が形成され「行為」が形成されると考えると、アンガーマネジメントが可能になります。
「選択肢として」「心に生まれるイメージとしての思考」が、「怒りという感情を想起させるもの」であった場合でも、それはあくまでも自分に取っての「選択肢」にすぎず、怒りという意欲も行為を選択しないことも可能なのだと自覚し、「行」によって「怒り」の表出を「意欲」として形成せず、「行為」として形成しなければ、怒りは生まれないことになります。
ジェームズ・ランゲ説でいえば、腹が立つから怒るのではない、怒るから腹が立つのである、という実践、方法論です。
「喉が渇いた」という「選択肢として」「心に生まれるイメージとしての思考」が「想」、「喉が渇いた」から、「何か飲もう」という「意欲」と「行為」を形成する機能と形成された「意欲」「行為」が「行」ということになります。
通常は、「想」が生じると、「意欲」という、ああしよう、こうしよう、こうしたい、という意欲、意図、衝動が生まれるということになります。
意欲、意図、衝動は、行動に結実すると脳の報酬系を刺激します。
痒いと感じて、掻きたい、掻いて痒みを取りたいと意欲して、痒みを掻くだけで脳の報酬系は活性化される、つまり「快感」というご褒美をもらうことができます。
それゆえ、ヴィパッサナー瞑想では、痒いと感じたら、「私は痒いと感じている」と認識するのではなく、「体に痒みが生じた」と認識し「痒み」と言葉で確認し、痒いところを掻かないことによって、脳の報酬系から「快感」というご褒美をもらうことを抑制します。
このようにするには、大きく3つの意味があるように思います。
1つ目は、「体に痒みが生じた」という情報としての「想」と、「掻きたい」という意欲と行為である「行」を区別できるようにするため。
さらに「想」と「行」を識別することによって観察力を強くするため。
このような微細な観察が、「如実知見」を可能にする「尋」と「伺」という観察眼考察眼を養うことになります。
2つ目は、痒いと「感じる主体としての自己」から、痒みを「観察する主体としての自己」へのシフトを促すことにより、無自覚的に認知し行動することから、自覚して認知し物事を行うよう導くこと意図しているから。
「痒ゆい」と感じている自分に対して、「痒み」という言葉が、「観察する主体としての自己」へのシフトを先導する、ととらえられます。
3つ目は、「行」を識別できることによって、「行」による「意欲」の生成を制止することができ、「意欲」の生成を制止することにより、脳の報酬系の刺激、活性化を抑えることができ、瞑想による体と心の平静状態を高めることができること。
「想」が起こっても、「想」に触発されて「考えたい」とか「何か考えて対処しなければ」という意図、意欲、衝動である「行」が起らなければ、「想」を手放すことは極めて容易です。
瞑想経験を重ねると「行」による「意欲」の生成が、心の平静を妨げることが理解できるようになり、さらに心の平静が進展すると、何かをしようという「意欲」の生成そのものが、心を煩わせるものであり、疎ましくなる感覚が形成されます。
「行」による「意欲」が、心の平静を妨げることが理解できるようになると、釈迦が、六六経で説かれれる、五感と意識が物事を認識する(感受がうまれる)と欲望が生まれると説く「六愛取」や、大念処経で説かれる「なんであれれこの世のなかには好ましいもの、楽しいものがあり、そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕留まっているのである」ということが体験的に理解できるようになります。
「感じる主体としての自己」から「観察する主体としての自己」へのシフト、「意欲」することを抑止することに、念人経に説かれる、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が克服されることが加わると、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気に関しては、「感じる主体としての自己」の必要性は希薄となりますから、「自己がある」という意識も希薄になってゆくでしょう。
「感じる主体としての自己」が希薄になり、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が克服され、「観察する主体としての自己」の観察力が強化され、体と心の平静状態が高まれば、『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)に到達し、その状態で集中力を高める事によって、『精神集中という悟りの支分』(定覚支)が発現し、自己のことであっても、第三者のことであるかのように観察し考察できる「尋」と「伺」が発現し、それによって「『これは苦しみである』とありのままに知り」、「この苦しみを何とかしたい、無くしたい、という心の機能が起動」し、四聖諦が働き始めると考えられます。
(4)「意識(識)」とは
五蘊=色、受、想、行、識の最後の「識」です。
私は、「識」の本質的な機能は、比較対照、参照する機能と、参照される記憶(記憶を参照することにより、記憶が再現され「事象」として把握される)と考えています。
そして、参照機能は無意識的無自覚的になされれる場合もあり、記憶を呼び戻そうとするように意識的になされる場合もあると考えています。
意識的になされ場合、例えばあるアイディア「想1」が生まれたとします。
そのアイディアを即実行に移す場合もあるでしょうが、多くの場合は、そのアイディアがどの程度効果が見込めそうかという観点(想2)との「比較対照」や、実行するにはどのくらいの労力や費用が必要なのかといった観点(想3)などから「比較対象」をしたりして、そのアイディア「想1」を検討すると思います。場合によっては、記憶にある過去の類似のケースの成功経験あるいは失敗体験(識)などを参照して検討することもあるでしょう。
これらは、そのアイディアとしての「想1」を、そのアイディアとしての「想1」とは異なる観点の「想2」「想3」と比較対照し、記憶にある過去の「識」参照して、そのアイディアを実行するかしないか検討することなので、私は「識」を、比較対照、参照する機能と参照される記憶と考えています。
すでにご説明している五蓋の「悪作」についても、『後悔とは、「心の中で作り出した実現しないこと」を規準として、それをしなかったこと、してしまったという事実を対比(=比較対照)し、それをしなかった自分、してしまったという自分を責めることだと理解できますから、後悔は、「心の中で作り出した実現しないこと」(を参照すること)に基づいて、絶えず悩み苦しみつらさを作り出していることに他なりません。」と理解できますから、比較対照、参照機能が働いていると考えられます。
「比較対照、参照する機能」「参照される記憶」双方を想定しないと、悩み苦しみつらさの発生が説明できません。
「スキーマ療法」(金剛出版)からの下記引用のうちの「2つのシステムはそれぞれ異なる種類の情報を蓄積する」は、「参照される記憶」の構築、「偏桃体系の記憶検索」「海馬系の記憶検索」は、無意識的無自覚的な「比較対照、参照する機能」という理解と整合的であると思います。
「外傷体験の学習は、2つのシステムを通じて行われる。1つは海馬とそれに関連する大脳皮質によって構成されるシステムで、こちらは記憶の意識的側面と関連する。もう1つは、偏桃体によって構成されるシステムで、こちらは記憶の無意識的側面と関連する。この2つは並行して機能し、そうれぞれ異なる種類の情報を蓄積する。個体は後になって外傷体験に関連する刺激を受けると、2つのシステムはそれぞれ異なる種類の情報を蓄積する。偏桃体系の記憶検索の結果は、危険に対して身体を構えるといった形で表出される。一方、海馬系の記憶検索の結果は、過去の記憶が意識に上るといった形で表出される。(p.239)」
四聖諦の、私には悩み苦しみつらさがあると知った、悩み苦しみつらさの原因を知り、原因をなくしたら悩み苦しみつらさがなくなった、これは悩み苦しみつらさをなくす方法であると知った、この方法を実践することにより悩み苦しみはなくなる、という苦悩滅尽の方法論の前提には、生起し滅してゆく認知(事象)に執着し、その認知(事象)を押しとどめ、その認知に取りつかれるから、悩み苦しみつらさが生まれるのである、という認識が、釈迦にはあったのでしょう。
生老病死については、それらが無ければいいのに、という考え「想」が生まれ、『それらがなければよいのに、という考え「想」』への執着によって、求めても得られない苦しみが発生しますから、『それらが無ければいいのに、という考え「想」』を参照して、『それらが無ければいいのに、という考え「想」』へ執着することを「原因」として苦しみが生まれる、と言い換えられます。
大念処経で教示される苦しみ「憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶え」について考察するならば、①悩み苦しみつらさを引き越した経験 ②その時の悩み苦しみつらさ記憶 ③経験と悩み苦しみつらさの概念的解釈 が「識」として記憶され保持されていることを前提に、外部からの刺激によって、それらの記憶である「識」を「参照」し、②の記憶が再現されることを「原因」として、「憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶え」が生まれると考えられます。
また、貪随眠、瞋恚随眠、無明随眠は、これらの性向が潜在すると説明されていますから、潜在したものが、悩み苦しみつらさを生み出すならば、貪随眠、瞋恚随眠、無明随眠に対して、「記憶の中にあることを参照することにより再現される」(記憶というデータベースにアクセスする)ことを想定しないと、潜在したものが、貪りや恨みや怒りなどの悩み苦しみつらさを生み出すことの説明が付きません。
過去において、悩み苦しみつらさを自己の内に形成した体験とその時の感情、トラウマを記憶していない(参照すべき悩み苦しみの感情とそれを生み出した経験の記憶としての「識」がない)のであれば、現在において、トラウマによる悩み苦しみつらさは生まれないでしょう。
ただし、トラウマを記憶していないということが、トラウマが生起させる苦しみつらさを回避するため意識しないようにしている、ということであれば記憶を参照することを禁止する、という強い負担を抱えることになります。
悩み苦しみつらさの体験を、幼少期に解釈し、悩み苦しみつらさを和らげようとしたものが、非機能的な中核信念、早期不適合スキーマであると考えるならば、非機能的な自動思考が生成されるには、非機能的な中核信念、早期不適合スキーマを「参照する機能」と、「参照される記憶(記憶の中にある出来事、つらさ)」としての非機能的な中核信念、早期不適合スキーマの、双方を想定しないと、悩み苦しみつらさが発生する説明が付きません。
この「比較検討、参照する機能」「参照される記憶(記憶の中にあること)」という心のはたらきは、釈迦の認知論では、多くの人は、このような心のはたらきを理解しておらず、自覚しておらず、自覚していないがゆえに、自分でコントロールしていない、自分でコントロールでしていないから、知らず知らずのうちに、悩み苦しみつらさを生み出している、という理解とセットになっている、と考えた方がいいように思います。
釈迦は、大念処経のなかで、「苦しみのすぐれた真理とは、いったいなにか」として、生老病死は苦である、求めてもえら得ないということ、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えも苦しみであると教示した後、「要するに、〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素(五取蘊)は苦しみである。」と教示しています。
釈迦の認知論では、識に限らず、五蘊自体のはたらきが自覚できていないから、無自覚に五蘊(五蘊のはたらきと生み出される認知)に執着して悩み苦しみつらさを生み出してしまうのだ、五蘊を自覚して、悩み苦しみつらさを生み出さない認知形成のしくみを確立すれば、悩み苦しみつらさは生み出されない、という認識を前提に、五蘊の働きを自覚しないこと、五蘊の働きを自覚しないことによって、五蘊への無自覚な執着である「五取蘊」が生まれるから、人はありのままでは、悩み苦しみつらさを必然的に生み出してしまう認知形成のしくみになっているのだ、ということなのではないかと感じています。
もしかすると、釈迦は、認知論を超えて、少しづつ変化する(死に向かって老化する)体をもち、認知する機能をもち生まれては消える認知を絶えることなく生み出す(常一でない)人の存在そのものが、人に安楽もたらすことのない「苦」の原因である、というところまで認識するに至っていたのかもしれません。
(5)あらゆる妄想、あらゆる顚倒とは
妄想とは、五蘊の観察考察によって得た経験的合理的な自覚から「あり得るとは言えない」「合理的とは言えない」認知ということになるでしょうか。
なぜそのような認知が生まれるのか考察してみると、「こうであったらよいのになあという」と考えたい願望に影響されてているからということが考えられr、その願望が、釈迦の説く愛執や執着、欲ということになるのでしょう。
人の認知形成のしくみには、『五蘊の観察考察によって得た経験的合理的な自覚から「あり得るとは言えない」「合理的とは言えない」認知』を作り出してしまう機能がある、ということになりますから、厄介です。
五蓋のところでご説明した、「悪作」後悔をひきおこすのも、実現しなかった、選択しなかった過去を、「ああしていればよかった」と「想像」して、しなかった自分と(識の機能により)比較して悔やむことが後悔ですから、「人の認知形成のしくみが、無自覚に無いことを想像によって作り上げた」妄想が、後悔という悩み苦しみつらさを生み出しているといえます。
また、妄想は、例えば自分に、こうでありたいという姿や将来到達したい目的点があるいっぽうで、それを実現できない、できそうもないと考えるときなど、想像の世界のなかでそれを実現することによって、この世の現実、事実と考えられる事柄が自分に突きつけられることで、無自覚的に生み出される悩み苦しみつらさを解消しようとするために生成されるということもあるようです。
釈迦の認知論には、現実、事実という考えは無いようです。
釈迦の認知論にあるのは、あくまでも体と心のはたらきと認知形成のしくみにより、形成され認知される出来事があり、それに愛執を抱いて執着し、消えてゆくものが継続することを願い、心に保持し続ける(執着する)という出来事が生まれ、やがて消滅して行く出来事に嫌悪感を抱いて怒りを覚えて保持し苦しむ、という出来事が起こる(このような状態が、苦しみを生む、五蘊の野放し状態としての五取蘊だと考えられます)、というふうにとらえているようですから、現実や事実という考えはなく、形成され認知される出来事とそれに対する執着や嫌悪が生まれ、思うようにならないがゆえに、苦しみつらさという出来事を生み出すという認知形成のはたらきがあるだけだと、考えているようです。
釈迦の方法論は、欲しいものがあっても手に入らない、それをしたくても実現できそうもないという認知(現代でしばしば「現実」といいかえられます)が生じたときに、事実として実現できそうもないことを想像の世界で実現して、自分を慰める、実現できないという認識がもたらす苦しみつらさを和らげる、という方法は採用しません。それは妄想として否定されます。
そのような方法は、苦しみやつらさを一時的に和らげるための対症療法にしかならず、苦しみやつらさを生み出す原因を滅尽せず、悩み苦しみつらさの生成を継続させるから、ということなのでしょう。
ヴィパッサナー瞑想では、座ってする瞑想では、呼吸に伴う体の動きを観て、ラベリングする、もしくは出入息観を行いますが、想が生まれると、想に妄想とラベリングして、手放します。
座ってする瞑想では、今ここで、生起しては消えてゆく呼吸と呼吸に伴う体の動きがあるだけ、と観察します。
ですから、瞑想中に、明日は会議があるとか、昨日は楽しかったな、とかは、今ここにはありませんから、その内容を理解したならば、今ここにないのだから、妄想と「ラベリング」して、手放すようにします。
手放すとは、引き続いて考えないことで、行=意欲、意図、衝動を起こさないようにすること、手放すことが「執着しない訓練」となり、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気などのいわゆる感情の生成を抑制することになるととともに、心の平静を実現し観察力を高めることになるからです。
何か外で音がしたならば、それは今自分が認知していることですから「音」などと「ラベリング」して同様に手放します。
この「妄想ラベリング」の効果は相当に強力です。
呼吸と呼吸に伴う体の動きという、今ここで生起し消滅している体と心のはたらきに対して、「人の認知形成のしくみが、無自覚に無いことを想像によって作り上げた」妄想でいっぱいだということに、否応なしに自覚することになるからです。
四聖諦が起動していれば、妄想があるからかえって苦しむのだ、とか、妄想は自分の苦しみつらさの解決にはならないのだ、という自覚が生まれ、妄想があるからかえって苦しむのだ、妄想は自分の苦しみつらさの解決にはならないのだと自覚できていれば、さらに悩み苦しみつらさを解消する方法が開示されることになりますから、それを実行すればよいでしょう。
悟りや悩み苦しみからの完全な解脱のためには、欲しいもの実現したいことを生み出す愛執、欲望に焦点をあて、欲しいもの実現したいことを生み出す愛執、欲望の一切から離欲することのよって、欲しいもの実現したいことが無くなれば、苦しみつらさはなくなるよね、というのが釈迦の方法論の基礎にあります。
しかしながら、自分の目標や到達したい地点としての理想などをもつことは、自分の努力によって到達できる可能性がありますし、また目標や理想を持つことが好ましいという側面もあります。
私たちは出家者ではなく、労働して生活の糧を稼ぎ社会参加し、自らの人生をより充実したものにするため生きている、という側面がありますから、「人の認知形成のしくみが、無自覚に無いことを想像によって作り上げた」ものでなく、社会生活上必要に応じて、自覚的に「無いことを想像によって作り上げた」ものが妄想類似のもものであっても一概に否定されるべきものではないでしょう。
妄想は無いに越したことはありませんが、一律に妄想をなくせばいいのだ、ということではないように考えます。
自分を慰める、実現できないという認識がもたらす苦しみつらさを一時的なものであっても和らげることができる、というのであれば妄想にも相応の効果はある、ということになるからです。
釈迦の認知論、方法論は、釈迦が至った境地から、釈迦が至った境地に至る方法として、釈迦が得たことのすべてが教示されているので、妥協がありません。すこしくらいならいいよ、という教示は当然ありません。
そもそも、交流分析の早期(幼児)決断がなされたり、認知行動療法の非機能的な中核信念が形成されることの理由は、幼児期の、養育者に依存し事態を改善する力を持たない自分であるという認識を前提に、苦痛で不快な事態を、自分なりに解釈し理解し、苦痛不快ではあっても「どうにもならないのだ」と納得することにより、苦痛不快に耐えるためであると思われますから、成人した後に「自分を慰める、実現できないという認識がもたらす苦しみつらさを和らげる」ために「あり得るとは言えない」「合理的とは言えない」認知といえる妄想を作りだすことは、人間に本来的にそなわっている認知形成機能とさえ言えます。
だからこそ、ありのままの五蘊のはたらきを自覚せず、自由放任にしていたのでは五取蘊という、五蘊への盲目的な信頼、形成された認知への無自覚な執着をうみ、結果として悩み苦しみつらさを招来する、と釈迦は考えたのでしょう。
釈迦は、五取蘊を克服したのですから、当然にそのような妄想や顚倒は滅尽していたでしょう。
釈迦が説いたことは、釈迦の方法を受け継ぐ、出家者という、悟りを求め、悩み苦しみからの完全な解脱を目指す人々が、コンプリートすべき「フルセット」として教示されている(釈迦は自らが得たことは隠さず教示した)ということはしっかりと考えなければなりません。
私たちが、悟りや悩み苦しみからの完全な解脱を目指していないのであれば、無理やり完全にコンプリートしようとする必然性は低いように思います。
釈迦の方法論の特徴は「離欲」であろうということはすでにご説明しましたが、「離欲」は、自分から「離してゆく」ことで、言い換えれば「捨ててゆく」ことですから、釈迦の方法論を理解するときには、無理やり「捨ててゆく」ことをコンプリートしなければならない、とは考えず、自分はこの世で生きてゆくことを前提として、どこまで「捨ててゆく」ことができるのか、という観点から理解することが大事だと考えています。
瞑想が進展し、四聖諦が起動すれば、すべきことはおのずと開示されるでしょうし、妄想や顚倒を克服する手段としての「筏」(方法)も開示されるでしょう。
(6)「あらゆる自我があるという見解(我見)・自分のものであるという見解(我所見)」とは
「自我」は、この場合、今日的な「自我」ではなくて、釈迦在世時のウパニシャッド哲学におけるブラフマン(梵)、アートマン(我)の、「アートマン(我)」「永遠不変の個人の本体」(六六経註)のことでのようです。
自我がある、ないについて、釈迦は、遍歴行者ヴァッチャゴッタから質問されても、黙して答えませんでした。
「アーナンダよ、遍歴行者ヴァッチャゴッタに「我はあるのだろうか」と問われて、もし、わたしが「我は存在する」と答えるならば、アーナンダよ、常住論を唱える修行者・バラモンたちと同じになってしまう。
アーナンダよ、遍歴行者ヴァッチャゴッタに「我はないのだろうか」と問われて、もし、わたしが「我は存在しない」と答えるならば、アーナンダよ、断滅論を唱える修行者・バラモンたちと同じになってしまう。
アーナンダよ、遍歴行者ヴァッチャゴッタに「我はあるのだろうか」と問われて、もし、わたしが「我は存在する」と答えるならば、アーナンダよ、わたしは、「すべてものは無我である」という智慧の生起に随順していることになるだろうか。」(春秋社 原始仏典Ⅱ相応部経典第四巻)
釈迦が、黙して答えなかったのは、『「我は存在する」と答えるならば、アーナンダよ、わたしは、「すべてものは無我である」という智慧の生起に随順していることになるだろうか。」』ということが一番大きかったのであろうと推測されます。
「すべてものは無我である」を「諸法無我」とらえるならば、「諸法」とは、春秋社版阿含経では「法」を「事象」と訳していることがありますので、『ただ事象のみが存在する』(大念処経)というときの「事象」は「法」、「事象」とは、認識できる出来事ですから、「すべての認識できる出来事は無我である」ということになります。
ヴィパッサナー瞑想は観察する瞑想ですから、上記のアーナンダへ語ったことの裏には、観察しても「我」は観察できない、「生起しては消えてゆく体と心の現象を観察考察し自覚している」ということは了解されている、言い換えれば「観察し考察して認知している機能としてのわたし」は了解されているのではないかと思います。
そして「無我」とは、下記の相応部経典の教示から、「自分の思いのままにならないもの」ということになり、「すべてものは無我である」とは、「すべての認識できる出来事は(無我=)自分の思いのままにならないものである」ということになります。
「自分の思いのままにならない」ということのなかには、愛執が生じたことによって生まれる「この状態がづっと続けばよいのに」という「自分の思い」のままにはならない、という意味が含まれているように感じます。
『「修行僧たちよ、一体何がある時、何をとらえて、何に執着して、このように見解が生じるのか。〔すなわち〕これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの我(自分の思いのままになるもの)である、と」。』(春秋社 原始仏典Ⅱ相応部経典第三巻)
『「我は存在する」と答えるならば、アーナンダよ、わたしは、「すべてものは無我である」という智慧の生起に随順していることになるだろうか。」』の意味するところは、「我は存在する」と答えたならば、瞑想の四念処によって五蘊の働きを観察考察することによって生まれた智慧、すなわち、五蘊のはたらきによって体と心に生起する「すべての認識できる出来事は(無我=)自分の思いのままにならないものである」という智慧に随順するだろうか(たぶんしないだろう)、ということになります。
一般に「無我」と言われていますが、六六経で釈迦は、自我は無い、とは言っておらず、私たちが自我だと思っていることは自我ではない、と教示しています。(春秋社の原始仏典および原始仏典Ⅱでは、訳者間の用語の統一を行っていないため「非我」とされる訳者もおられます。)
釈迦は、「私たちが自我だと思っていることは自我ではない」ということについて、私たちが認知できる、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識と、それぞれの6つの働き(六内処、六外処、六識身、六触身、六受身、六愛身)のいずれも、(認知ですから、認知は)生まれては消えてゆくものである、生まれては消えてゆくものを「永遠不変の個人の本体」というのはおかしいではないか、だから、私たちが認知できる視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識と、それぞれの6つの働き(六内処、六外処、六識身、六触身、六受身、六愛身)のいずれも自我ではない、としています。
「私たちが自我だと思っていることは自我ではない」としたうえで、私たちが認知できる視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識と、それぞれの6つの働き(六内処、六外処、六識身、六触身、六受身、六愛身)を、これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの自我である、とみなすことを「自己の身体の生起に向かう道」と説いています。
さらに、私たちが認知できる視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識と、それぞれの6つの働き(六内処、六外処、六識身、六触身、六受身、六愛身)を、これはわたしのものではない、これはわたしではない、これはわたしの自我でない、とみなすことを「自己の身体の止滅に向かう道」であると説いています。
「これはわたしのものでない」とは、先の相応部経典から引用どおり、わたしの所有物ではないという意味を超えて、「わたしの思いのままになるものではない」と解釈するのが妥当だと思っています。
「これはわたしのものでない」を、「わたしの思いのままになるものではない」ととらえると、「私の私たちが認知できる視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識と、それぞれの6つの働き(六内処、六外処、六識身、六触身、六受身、六愛身)」は、「わたしの思いのままになるものではない」ということになります。
「わたしの思いのままになるものではない」ということは、それを止めることもできないし、わたしが好いと思うことだけ生起して、嫌なことは生起しないでもらいたい、ということは通用しない、ということになるでしょうか。
「私の私たちが認知できる視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識と、それぞれの6つの働き(六内処、六外処、六識身、六触身、六受身、六愛身)」のなかには、「意識」もありますから、私たちが感じる感覚、考えること、生起する感情、感情への反応、生み出される悩み苦しみつらさも、「わたしの思いのままになるものではない」ということになります。
これが、釈迦が「五取蘊」と言っている状態とニアリーイコールと考えていいと思います。
「わたしの思いのままになるものではない」という「体と心のはたらき」と、それに影響される「認知形成のしくみ」を自覚せず、野放し状態に置いた状態が「五取蘊」であり、「五取蘊」は「わたしの思いのままになるものではない」のですから、悩み苦しみつらさを生み出し続けますよね、ですから、「五取蘊」を自覚して、悩み苦しみつらさを生み出さないように意識して努めれば、悩み苦しみを生み出すことを止滅することができますよね、ということを釈迦は説いているのでしょう。
「自己の身体の生起に向かう道」「自己の身体の止滅に向かう道」とは、「色(肉体)がある時、色をとらえて、色に執着して、このように見解が生じる。〔すなわち、〕これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの我である、という〔見解が生じる〕。(前記相応部経典第三巻)ことを参照すると次のようになります。
「自己の身体の生起に向かう道」とは、「これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの我である、という〔見解が生じる〕」ということになり、このことは、すなわち、「これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの思いのままになるものである、という〔見解が生じる〕」道、「自己の身体の止滅に向かう道」とは「これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの我である、という〔見解が生じる〕」ことがない道、ということでありそうです。
体は、ある程度自由に動かせはしますが、完全に意のままになりとは言えませんし、時とともに変化してゆき、自分が望む状態にとどまることはあませんし、自分がわからないところで具合がわるくなったり、病気になったりしますから、「わたしの思いのままになるものではない」ということなのでしょう。
ただし、それは「五取蘊」という好ましくない認知のあり方として、身体(色)を、「これはわたしの思いのままになるものである」と思うことが不適切な認知なであると教示しているのであって、「わたしの思いのままにならないもの」だから、どうにでもなれ、わたしがどうこうすることはできない、ということではなく、釈迦が説くところとしては、身体(色)も、「私の思いのままにならないもの」ということを自覚して、物事を考え、注意して、生きてゆきなさい、ということになるのでしょう。
上記のように解釈せず、「身体は、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自我でもない」ということで終わらせてしまったら、何を言っているのか訳が分からず、富永仲基が言ったように「仏教の特徴は、幻術である。」(翁の文 中央公論社 日本の名著18)ということになってしまうでしょう。
これらの教示に続いて、すでに引用視している「貪随眠」「瞋恚随眠」「無明随眠」が教示され、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識と、それぞれの6つの働き(六内処、六外処、六識身、六触身、六受身、六愛身)を厭い離れ、貪りを離れ、貪りを離れるとによって、解脱すると教示します。
私たちは、厭い離れ、貪りを離れ、貪りを離れることで解脱する、ということに至らずとも、念身経で説かれる、好き嫌い、嫌悪感、恐怖心と怖じ気を克服できた場合には、好き嫌い、嫌悪感、恐怖心と怖じ気について、「私はそれが好き、私はそれが嫌い、私はそれに嫌悪感がある、私はそれが怖い」という認識は薄れる、もしくはなくなりますから、「私=好き嫌い、私=嫌悪感、私=恐怖心と怖じ気」という自覚なき同一視の関係が、「私≠好き嫌い、私≠嫌悪感、私≠恐怖心と怖じ気」という関係に変換され、「わたし」という意識の必要性が低くなるであろうことはご理解いただけるでしょう。
大山泰宏先生は、「改定新版 人格心理学」(NHK出版)の中でこのように言わています。
「考えてみると、「わたし」とはひとつの虚構、おそらくは人類が手にした最大の虚構であるともいえる。誰もが私を「わたし」といい、またどのにような状況にあっても、私は「わたし」である。あらゆる人格とあらゆる状況に通用するがゆえに、「わたし」とはそれ自体では意味内容をもたない空虚なものであるとさえいえよう。しかし、こうした空虚な一点を媒介としてこそ、私たちは記憶はイメージをつなぎ合わせ、「わたし」というアイデンティティを構成するのである。」
釈迦は、人は『「わたし」とはそれ自体では意味内容をもたない空虚なもの』ということを埋めようとして、五取蘊(=自己の認知機能とそこから生み出される認知への執着)が生まれるのだ、人は、自分の思いのままにならない「自己の認知機能とそこから生み出される認知への執着」を自覚して、執着から離れない限り、悩み苦しみつらさから離れることできない、という認知に到達していたようです。
「わたし」という認知が成立すれば、五蘊の機能として、「わたし」と「他者」を「比較」し「優劣という見解」を生み出し、「わたし」を他者に対抗できる存在にしたい、という意図も生まれるでしょう。
『「わたし」とはそれ自体では意味内容をもたない空虚なもの』という認識からもたらされる、漠然とした欠乏感や不安感から逃れるために、欲望、執着という、何かを自らの内に取り入れたいという心理が生み出されるのであれば、欲望、執着は、人の生存に伴う根源的なものであることになります。
欲望、執着が、人の生存に伴う根源的なものであるならば、釈迦が、大念処経で、「〈苦しみ〉のすぐれた真理とはなにか」として「すなわち、現世の欲望に対する愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執である」と教示したことの説明もつきますし、納得もできます。
(7)「自己意識(慢)」とは
「自己意識(慢)」は、現代の言い方で把握すると、あなたをあなたとして存在させている「人格」「パーソナリティ」についての、あなたの認識ということになりそうです。
すでにご説明したように、釈迦が到達した認知論では、「これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの自我である」と考えているものは、わたしのものでもなく、わたしでもなく、わたしの自我でもないので、「自己意識(慢)」は、五蘊のはたらきが作り出した、大山先生が言われる、『「わたし」とはひとつの虚構、おそらくは人類が手にした最大の虚構』ということになります。
「わたしのものでもなく、わたしでもなく、わたしの自我でもない」のですが、「わたしは無いのだ」とは明確に、釈迦は教示していませんから、「自己意識(慢)」という虚構を作り出す五蘊のはたらきを理解したうえで、「自己意識(慢)」を「消滅し尽し、離欲し、滅し、捨て、捨て去った」ということになるでしょう。
慢には、仏教では7つあるとする考えもあるようですが、後の仏教の教学であるかもしれません。
増長慢と卑下慢という自己意識について、認知論から考えてみます(したがって仏教の考え方ではありません)。
増長慢は、自分を拡大視し、他者より優れたものであると考えること、卑下慢は、自分を縮小視し、自分に価値がなく人に劣後するものと考えること、と説明できるでしょうか。
(残念なことではありますが、ある人が自分を拡大し、自己を優越視することへの強い欲求をもち、立場的に下位にある人や反撃してこない人できない人を、自分に対して劣位にある人と位置づけ、その人を自分の意思に従わせることで、自分の拡大視、優越視への欲求を満たし、満足していて心地差を感じる状況にいて、そのことを自覚しないとしたら、ハラスメントはいけません、いじめはいけません、という規範を提示しても、その人は自分の行為を簡単には規制できない可能性があります。)
増長慢の対局に卑下慢があり、卑下慢がある(卑下慢を成り立たせる概念的思考がある)から増長慢があり、増長慢がある(増長慢を成り立たせる概念的思考がある)から卑下慢があると理解した方がよさそうです。
すなわち、自分について増長慢という自己意識を持ったときには、他者は自分に劣後すると無自覚的に認知することによって、自分は他者に優越すると認識することが可能となるように思います。
言い換えれば、優越-劣後という自分独自の尺度を想定して(作り出して)、自分を優越の側に置き、他者を劣後の側に置く(そのような尺度を作り出すこともあるでしょう)ことによって、自分は他者に優越するという無自覚的な認知が成立する、と言えるのではないかと思います。よりこの考えを進めるならば、自分を優位の側に置くことができる尺度をつくりだす、ということなのかもしれません。
他者は、自分に劣後するポジションにあると明確に意識していなくても、自分一人で生きているのではない以上、自分が優越するという認知は、比較対照される他者が存在して容易になりますから、自分に劣後する存在を想定しない限り、自分が優越するという認知は成立しないように思います。
このように考えることによって、誹謗中傷などのように、他者を攻撃して貶めようとすることには、他者を比較対象物と見立てて攻撃して貶めることによって、(自分の意識の中に限定されるとはいえ)自分が優位に立つことができると無自覚的に想定している(錯覚している)、もしくは、自分が優位に立ちたいという飢餓感と飢餓感を解消する期待があるからではないか、という解釈へ道を開きます。
このような状態が、後で説明しますが、釈迦の教示する「五取蘊」が招来する状態、言い換えると「認知形成のしくみである五蘊」の野放し状態であり、自己の認知形成と認知に基づく行為を自覚できていない状態、すでにご説明した概念でいえば、潜在していた無明随眠が顕在化して行為を促進している状態、と説明できるように思います。
また、歯止めが利かなくなることの説明は、自分が優位に立ちたいという飢餓感は、自分が優位に立ちたいという欲求と表裏一体ですから、他者への誹謗中傷によって、自分が優位に立つことができると無自覚的に想定している(錯覚している)ならば、誹謗中傷を行うことによって、自分が優位に立ちたいという欲求が(錯覚とはいえ)充足され、脳の報酬系から報酬が与えられることにより、歯止めが利かなくなる、という説明も可能となるでしょう。
脳の報酬系から与えられる報酬への欲求から、歯止めが利かないということであれば、誹謗中傷により他者を攻撃して貶めようとすることの防止を、理性に訴える規範や規則、罰則の周知を徹底することによって行うことは、あまり効果が期待できないと考えられます。
根本的な原因をなくすには、『「五取蘊」が招来する状態、言い換えると「認知形成のしくみである五蘊」の野放し状態』『自己の認知形成と認知に基づく行為を自覚できていない状態』を脱する必要があることになります。
しかし、「五蘊により好き勝手に認知形成をすること行為することへの執着」は、多くの場合、自覚されていないのですから、啓蒙啓発活動により、誹謗中傷により他者を攻撃して貶めようとすることを抑止しようとすることに、大きな効果は期待できないでしょう。
卑下慢は同様に、自分と他者を比較対照して、自分には価値がなく人に劣後するものと考え、他者を自分より大きく、優れたものであると無自覚に考えることにより認知されるでしょう。
増長慢が、自分を拡大視し、他者より優れたものであると考えること、卑下慢は、自分に価値がなく人に劣後するものと考えることとしても、他者より全ての点で絶対的に優れている、他者よりすべての点で絶対的に劣っている、ということは想定できませんから、どちらの考え方も「的確な判断」とは言えないでしょう。
つまり、増長慢も、卑下慢も、釈迦の認知論から判断するならば、『無自覚的な思惟によって生み出され、色、受、想、行、識の徹底的な観察考察による経験的合理的な知見によって妥当とは判断できない概念である「見解」』ということになります。
他者との比較によって自分の優劣を判断すること、言い換えれば「私は優秀だ」「私は劣っている」という考え「想」を生み出し、それに執着することは適切な認知ではない、ということは少し考えてみればわかります。
優秀とみられる人がすべての点において他者より優れているわけではないでしょう。
優秀とみられる人にもできないこともあるでしょう(しかし、本人は、私は他者よりすべてにおいて優越している、という無自覚な意識を持つことはあるでしょう)。
できることもある、できないこともあるにも関わらず、自分を拡大視し、他者より優れたものであると考えることはどう見てみても、適切に事実を把握しているとは考えられません。
客観的に、事実に即して合理的に人の能力を記述しようとするならば、優秀であると本人が思っている場合でも、他者に劣後すると考えていた場合でも、その人には、これとこれはできる、これとこれはできない、という個別の事実を把握することによってのみ、その人の能力の適切な記述が可能になる、ということになります。
この事実を無視して、増長慢や卑下慢を持つこと、「私は優越している」「私は劣っている」という考え「想」を生み出し、それに執着することは適切な認知ではなく、明らかに非合理ですから、やはり「見解」です。
以上のように考察してみると、「自己意識(慢)」は、Beckの認知モデルの「適応的な信念」「非機能的でネガティブな信念」「認知の偏り」と重なり合う考え方でもあり、それら三つを総合すると理解しやすいと感じます。
ただし、釈迦の認知論は徹底的なので、(思考、意思決定、行為の主体は否定しないものの)、好き嫌いや恐怖等の感情と欲望に影響され駆動される「自己概念」を滅したと考えてもいいようで、そのような状態では「適応的な信念」「非機能的でネガティブな信念」「認知の偏り」も消尽されている、ととらえた方がいいでしょう。
「適応的な信念」として、
『「有能である」に関わる中核信念』
『「愛される」に関わLる中核信念』
『「価値がある」に関わる中核信念』
「非機能的でネガティブな信念」として、
『「無力である」に関わる中核信念』
『「愛されない」に関わる中核信念』
『「自分には」に関わる中核信念』
「認知の偏り」として、
「全か無か思考」
「破局視(未来の予言)」
「ポジティブな側面の否定や割引」
「感情的な理由づけ」
「レッテル貼り」
「拡大視/縮小視」
「心のフィルター(選択定抽出)」
「読心術」
「過度の一般化」
「個人化」
「ねばならない」「べき」思考
「トンネル視」
(「認知行動療法実践ガイド:基礎から応用まで 第三版」星和書店より)
釈迦の認知論が徹底的なものであり、かつ西欧由来の心理療法と異なるのは、Beckの認知モデルの「非機能的でネガティブな信念」はもちろんのこと「適応的な信念」による自己意識であっても、「自己意識(慢)」として悩み苦しみつらさを生み出すものと考え、その「自己意識(慢)」の中には、自己の認知形成のあり方を含む五蘊への執着状態である「五取蘊」すなわち、悩み苦しみつらさを生みだす認知形成のしくみ(状態)をも、「自己意識(慢)」に含むものと考えられます。
Beckの認知モデルの「認知の偏り」をも包含する状態が「五取蘊」であるとも言えます。
釈迦の認知論が徹底的なもの、ということは、「優秀であると本人が思っていてもいなくても、他者に劣後すると考えていてもいなくても、その人には、これとこれはできる、これとこれはできない、という事実を把握する必要がある」ということを前提にするならば、「自分は優秀だと思う人」が「私は優秀だ」という概念(想)を抱きそれに執着したならば、「これはできる」を拡大視し、「これはできない」を縮小視する傾向を生み、行動を促進し、促進された行動によって欲求が充足されるなら、貪随眠を生むでしょう。
例えば公職にある方が、不適切行為に及んでしまうことを、『「これはできる」を拡大視し、「これはできない」を縮小視する傾向を生み、行動を促進し、促進された行動によって欲求が充足され』続けるならば、促進された行動により欲求が充足され、脳の報酬系が活性化し、報酬をたくさん受け取ることとなり、欲求の充足に歯止めをかける(自制する)ことができず、ついには不適切行為にまで及んでしまう、と説明することができます。
逆に、「自分は他者に劣後すると考えている人」が「私は劣っている」という概念(想)を抱きそれに執着したならば、「これはできる」は縮小視し、「これはできない」を拡大視する傾向を生み、行動への萎縮を生み、そのことによって自分らの境遇を、なげくなら瞋恚随眠を生むでしょう。
結果としてどちらも適切な概念(想)ではなく、物事をありのままに見ることを妨げ、結果として悩み苦しみつらさを生み出すことになります。
ただし、Beckの認知モデルにおける、例えば「有能である」に関わる中核信念は、上記に引用した「認知の偏り」の影響を排除した内容であり、私たちが、非機能的な中核信念(「自己意識(慢)」)に起因する、非機能的な自動思考の修正によって、悩み苦しみつらさを生み出さないようするときに利用するには穏健妥当なものになっていることに留意しなければなりません。
「認知の偏り」の影響を排除した内容、というよりも、うつ等を発症したクライエントが「認知の偏り」を排除した機能的(現実において有用)な中核信念を形成するためのものとして例示されているため、結果として下記のように中庸なものになっている、と考えた方がいいでしょう。
『「有能である」に関わる中核信念』(前掲書より)
「私はそこそこ有能で、機能的で、物事をコントロールし、成功し、役に立ってる」
「私はたいていのことはまあまあちゃんとできる。自分を守れるし、自分の面倒を見ることができる」
「私には強みと弱みの両方がある(有能性、生産性、達成という視点において)」
「私はまあまあ自由でいられる」
「私はだいたいにおいて人並みだといえる」
釈迦の方法論は、「有能」「無能」や「愛される」「愛されない」、「価値がある」「自分には価値がない」という認知自体が、「自分が作り出したもの」であって苦悩を生む原因であり、それは必然的なものではない、という認識を前提に、「有能」「無能」や「愛される」「愛されない」、「価値がある」「自分には価値がない」という認知自体が悩み苦しみつらさを生み出すものであるから、それら認知の総体である「自己意識(慢)」自体なくせばよいのである、ということであるようです。
なにゆえそのように考えるのかというと、釈迦は大念処経で、悩み苦しみつらさを滅したであろうと考えれれる状態として、以下のように教示しているからです。
「楽しみを捨て、苦しみを捨て、以前に経験した快さと憂いとを滅しているために苦しみもなく、楽しみもない、心の平静と気をつけることによって浄められている瞑想の第段階(四禅)に達しているのである。」
(中略)
「そして、知ることの〔増えていく〕程度にたいし、自覚の〔増えていく〕程度にたいすると同じ程度に、『ただ事象のみが存在する』という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、何ものにも執着しないのである。」
釈迦は、「楽しみを捨て、苦しみを捨て、以前に経験した快さと憂いとを滅しているために苦しみもなく、楽しみもない」状態によって、「なにかに依存するということがなく、この世のなかで、何ものにも執着しない」状態に至ったと考えられますから、そこではもはや、『Beckの認知モデルの「適応的な信念」に依存することもなく、そもそも自己意識すらない、もしくは必要としない(でも自ら認知し、意思決定し、行為する主体は残存した)、という状態と言えます。
上記から考察すると、釈迦は、悩み苦しみつらさを生み出す認知形成のしくみ(五取蘊)によって形成された「自己意識(慢)」だけでなく、「自己意識(慢)」を生み出す認知形成のしくみそのものを、「消滅し尽し、離欲し、滅し、捨て、捨て去った」と解釈できると考えます。
ただし、上記に引用する、釈迦の到達した認知論は、釈迦が到達した悟りの最終段階と思われますから、私たちがこの世に生きるに際して、例えばBeckの認知モデルの「適応的な信念」の有用性を否定するものではなく、また否定する必要性もありません。
また、ここで考察している釈迦の認知論、方法論は、解脱に向けた修行に専念している出家者に教示された「フルセット」であることを考えおくことも必要でしょう。
釈迦は、大般涅槃経で「完き人の教えには、何ものかを弟子にかくするような教師の握拳は、存在しない。」と言っています。
釈迦が、「フルセット」の認知論、方法論を教示することによって、釈迦の認知論、方法論が(多少の改変等はあるにせよ)今日に受け継がれることになりました。
出家者でない我々は、釈迦の認知論を理解することは大事ですが、方法論の実践において、釈迦が教示した最高到達地点を目指す必要はないのではないか、と考えています。
釈迦が到達した悟りの最終段階では、「楽しみを捨て、苦しみを捨て、以前に経験した快さと憂いとを滅しているために苦しみもなく、楽しみもない」という状態ですから、蛇喩経に説かれる「筏の喩」の、悩み苦しみつらさという川を渡るための筏はもう必要ない段階です。
そこに至っていない私たちは、自分を取り巻く環境との関係性の中から(自分が生み出してしまう)悩み苦しみつらさという川を渡るために、Beckの認知モデルの「適応的な信念」という有用な「筏」を使うことは、釈迦の方法論とも矛盾しないと思います。
ヴィパッサナー瞑想の方法論、釈迦の認知論を学ぶときに、注意しなければならないことは、私たちは出家者(日本のそれではありません)、すなわち布施によって生活を維持し、労働に従事せず修行に専念し解脱に至っても、その生活を続ける人間ではない、ということです。
もちろん出家する自由もありますし、出家しなくても解脱に至ることは可能かもしれません。しかしながら、いわゆる俗世において、解脱に至ることは、物事に対する認知形成のあり方を根本的に変えてしまいますから、それによって周囲の人とのコミュニケーションや協働に、軋轢を生み出すことも想像に難くありません。
そのように考えるならば、釈迦の認知論、方法論の全体像を理解したうえで、ある程度のところで止めておく、という判断も必要になるように思います。
特に釈迦の方法論の特色は、「離欲」「遠離」ですから、自分はどこまで「離欲」「遠離」できるのか、わかりやすく言えば、自分の悩み苦しみやつらさをなくすために、「自分はどこまで捨てられるかの」ということを考えて取り組む必要があります。
この世で、労働して生活の糧を得て、社会の維持に貢献している人にとって、必要なことは、この世の中で、悩み苦しみつらさを感じることなく(少なく)、この世に適合的に、喜びを感じながら生きることでしょうから、むりに解脱をありがたがる必要はないと思います。
わたしは、いわゆる俗世に生きているのであれば、ちょうどよいところとして、初禅を目標として、初禅に留まることでよいのではないかと思っています。
その理由は、大きくは次の4点です。
①初禅は、高度なリラクセーション状態(軽安覚支)の実現を前提としていること。
②高度なリラクセーション状態(軽安覚支)において、集中力を発揮すれば(定覚支の状態)、粗い考察(尋)と微細な考察(伺)が発現し、悩み苦しみつらさを生み出すことの原因を自覚することができ、原因を自覚することができれば、おのずと悩み苦しみつらさをなくす方法は開示され、四聖諦という悩み苦しみつらさをなくす認知形成のしくみが起動するから。
③仮に早期不適合スキーマや心的外傷によって、現在の悩み苦しみつらさが生まれているのであれば、スキーマ療法等によっても、一朝一夕には、悩み苦しみつらさが生まれることを停止することはできないようですから、そのような場合でも、粗い考察(尋)と微細な考察(伺)が発現し、四聖諦が起動することによって、ヴィパッサナー瞑想を継続することで、継続的持続的に悩み苦しみつらさの低減に向かう動きが維持できます。
④悩み苦しみつらさを低減することができれば、悩み苦しみつらさを抑圧したり、耐えることに注がれていたエネルギーを解放することとなり、より生産的な他のことに振り向けることのできるエネルギーの余剰が生まれます。また、利用できる脳のリソースを増やすことにもなり、このことは脳のはたらきを良くするでしょう。身体と心を健やかに保つことができ、様々なメリットを享受することができるでしょう。ざっくりいえばストレス低減、ということになるでしょう。
ヴィパッサナー瞑想は、「楽しみを捨て、苦しみを捨て、以前に経験した快さと憂いとを滅しているために苦しみもなく、楽しみもない」という第四禅の状態に至ることも可能としてしまう、認知形成のしくみを転換する強力な効果をもつこと、また、今日的な(西欧由来の)権利義務の基礎となる自由意思をもち自己決定する自我概念とは、表面上相いれない認知論ととらえられる恐れがあり、心理療法においては、ヴィパッサナー瞑想を全面的に活用することには、クライエントから抵抗を招いたり、指導に困難を伴うことが予想されます。
釈迦の認知論は、ヴィパッサナー瞑想によって、自らが証明し体得することによってしか理解することでしかできませんから、ヴィパッサナー瞑想の実践なしに、概念的な学習による理解、いわゆる頭で理解しようとすると、「権利義務の基礎となる自由意思をもち自己決定する自我概念とは、表面上相いれない」と誤解される可能性はあるでしょう。
すでにご説明の通り、釈迦は、「わたしだと私たちが考えていることは、わたしではない」と言っていますが、自我(ただしアートマンとしてですが)があるともないとも言っていません。
少し考えればわかることですが、わたしがある、という意識が無くても、感覚し、認知し、意思決定し、行為する主体を「わたし」とするならば、「わたし」は否定できません。
釈迦の方法論は、最終的には、認知論から認知論に基づく行為として実践する八聖道に至りますが、観察考察する機能を通じて認知する「わたし」は否定しきれませんし、行為を選択する主体としての「わたし」を否定してしまったのでは、認知論に基づく行為を選択する主体がないことになりますから、「わたしはない」という意味での「無我」は適切な理解ではないと考えています。
「わたしはない」という意味での「無我」は適切な理解ではないと考えていますから、さらにそれを進展させたと思われる「空」という概念は、概念上の創造物、すなわち後世つくられた「見解」であると考えています。
色即是空 苦即是色 受想行識亦復如是 と言ってしまったら、釈迦が四念処によって五蘊のはたらきを解明して(五蘊という機能を認識し、教示して)、人は生きる限り認知すること(五蘊の機能)を止めることはできない、止めることのできない五蘊のはたらきを自覚せず野放し状態(五取蘊)にするから苦しみを生み出すのだ、という教示は無力化されてしまうように感じます。
釈迦は、五蘊の機能は維持しつつ、五蘊に無自覚に執着して悩み苦しみを生み出す五取蘊を克服したと考えていますから、五蘊のはたらきは『ただ事象のみが存在する』、私の解釈では「体と心に生まれる認知できる出来事」として存在すると考えれるのが妥当だと思います。
ヴィパッサナー瞑想もしくは釈迦の認知論の「一部活用版」としての「マインドフルネス」を、セラピスト等の関与のもと心理療法に活用する、ということは妥当な方法であるとも感じます。
ただし、その一方で、念人経に説かれる、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気の克服によって、現在においても悩み苦しみつらさをもたらす過去の出来事と感情の記憶へのアクセスを容易にする機能、「尋」と「伺」による苦悩の原因、発生プロセスの観察考察(四聖諦の起動)によって、非機能的な中核信念や早期不適合スキーマの記述を書き換えること、四無量心、慈悲の瞑想によるポジティブな感情、性向の育成などによる、「体と心のはたらき」の転換、「認知形成のしくみ」の転換という機能、そしてそれらを実現するために「喜び」を開発し「身心ともに安楽な状態」(高度なリラクセーション状態)を実現して能力を開発するという方法論は、特筆すべき効果であるといえるように思います。
釈迦の性格が釈迦の認知論を生んだ
アルボムッレ・スマナサーラ先生によると、テーラワーダ(上座部仏教)では、釈迦は「尋性(じんしょう)」という性格であったであろうとされているそうです。(「ブッダの実践心理学 第七巻 共著者藤本晃さん サンガ刊)
「尋性」の特徴について、スマナサーラ先生の記述を引用させていただきます。
『論じる、議論する、考える、妄想する、などで頭が支配されているのです。理解する、結論に達する、という目的を中心にするよりも、目的に達する過程である「論じること」を重視するのです。結論に達しても、「一件落着」と喜ぶのではなく、どのような論理過程でそこまで達したのかということを面白がるのです。』
尋性が、『論じる、議論する、考える、妄想する、などで頭が支配されている』『結論に達しても、「一件落着」と喜ぶのではなく』という性格なのであれば、『何でもかんでも、解釈し自分が納得する説明ができなければ満足しない』性格ととらえることも可能ですから、自分を納得させたり自分に悲しみがあったならば悲しみを埋めるために、時には事実に基づかない想定、すなわち妄想に慰めを求めたこともあったかもしれません。
妄想に慰めを求めたとするならば、自己を納得させたり、なぐさめたりということの目的を果たせない可能性が高いですから、結果として大きな苦しみも生まれたでしょう。
大きな苦しみが生まれても、認知機能は「わたしのものではない=わたしの思うままになるものではない」のですから、止めることはできません。
(妄想に慰めを求めたとするならば、自己を納得させたり、なぐさめたりということの目的を果たせない可能性が高い、ということの意味するところは、非機能的な中核信念やスキーマが生成される必然性と、それが機能的でないがゆえに、自分が本来求めていることを得ることができない、という特性と整合的であるように思います。そのように考えるならば、釈迦の中核的な方法論である「離欲」は「自分が本来求めていることを得ることができない」自分の認知形成(欲求、行動)から離れなさい、という教示と理解され、その有効性が理解できます。)
この状態は、想像をはたらかせ、自己を納得させたり、なぐさめたりということを一生懸命やるということによって、大脳新皮質の活動を活性化させていることと理解してもよいのかもしれません。
それでも、想像をはたらかせ、自己を納得させたり、なぐさめたりということを一生懸命やったとしても、結果として自分を納得させることができない、なぐさめるどころか、空しさがつのるばかりで無力感を大きくし、より大きな悩み苦しみつらさを生み出す状態におちいってしまった、と言った方がいいかもしれません。
釈迦は、その性格(尋性)の特性である「論じる、議論する、考える、妄想する」をフル活用して、結果として、より大きな悩み苦しみつらさを生み出すこととなっていたのかもしれません。
すでにお話しましたが、釈迦は大念処経で、苦しみのすぐれた真理として「生存の消滅への愛執」もあげています。
釈迦の認知論は、四念処による五蘊の観察にもとづき形成されたものですから、釈迦が「生存の消滅への愛執」を生起させていた、ということも当然に想像されるでしょう。
五蓋の中に、大念処経では「ものうさとぼんやりとした鈍さ」と訳されるものがありますが、これを念処経では「うつ気と眠け」、沙門果経では「沈鬱と眠気」と訳(解釈)されています。
釈迦が教示したことですから、釈迦は「ものうさとぼんやりとした鈍さ」「うつ気と眠け」「沈鬱と眠気」と解釈されることを経験していたことになります。
「ものうさとぼんやりとした鈍さ」「うつ気と眠け」をどのように解釈すべきか、ということは別にして、自分の経験から解釈するならば、睡眠不足や疲労によって合理的肯定的な思考が退潮して、特定の認知生成(想)をきっかけに体と心に「苦の感受」が発生して、否定的な思考(想)が支配的になり著しく気分が低下する状態、と説明することができます。この状態は「うつ状態」(うつ病の発症ではありません)と言ってもいいと思います。
ちなみに「うつ気と眠け」と訳している念人経の注釈では、注釈書による「うつ気と眠気」の防止策として、以下のことがあげられています。
注釈書は、釈迦が説いたことを後世において解釈して成立した仏教の教学と考えられますので、釈迦が、「うつ気と眠け」をどのように体験したか、ということとは別ですが、参考までに掲げます。
私自身の経験から言うと、身体を観察し集中力を高める念覚支が養成され、四念処の観察に集中する択法覚支が養成され、精進覚支によって喜覚支が養成(現れる)されるにようになれば、「うつ気と眠け」は克服できるようです。また、出入息観の練習も役立つようです。
①過食を止める
②行住坐臥の姿勢を正す
③光明への思いに意を注ぐ
④屋外に住む
⑤友が善友であること
⑥適切な話(頭陀支に依った話)を聞く
上記を、Beckの否定的認知の三徴、「自分自身に対して、また周囲との関係に対して、そして将来に対して、否定的に考えるようになった状態です。」(大野裕先生「初めての認知療法」講談社現代新書)と対比してみます。
自分自身に対して否定的に考えるようになった状態は、ヴィパッサナー瞑想による四念処を進展させませんから、「①過食を止める」「②行住坐臥の姿勢を正す」ことによって、体(内臓)への負担を減らし、かつ腹式呼吸を容易にすることにつながり、それによってリラクセーション状態が進展することとなり、身体面での改善から、ヴィパッサナー瞑想を進展させることにつながります。これは三徴すべてに対する抑止策になるでしょう。
将来に対して否定的に考えることを抑止するためには、将来における「③光明への思いに意を注ぐ」ことが役立つでしょう。
周囲との関係に対して否定的に考えることを抑止するためには、「⑤友が善友であること」が役立つでしょう。
釈迦は尋性という性格であったがゆえに苦しみを生み出し、尋性という性格であったがゆえに、色、受、想、行、識の徹底的な観察考察によれば妄想と言い換えられる『無自覚的な思惟によって生み出され、色、受、想、行、識の徹底的な観察考察によって得られた、物事をありのままに見る能力によって「あるとは認識できない作り出された概念」といえる「見解」』を生み出し、「見解」に自らがとらわれる(執着する)から、悩み苦しみつらさが生まれているのだ、という認知に、到達したのではないかとは容易に想像できます。
釈迦は、自らの認知形成のしくみである五蘊は、自覚せず放っておいたのでは、どんどん「何でもかんでも、解釈し自分が納得する説明」を作り出し、「何でもかんでも、解釈し自分が納得する説明」に執着を生み、執着によって欲望を生み、欲望が物事のありのままを認識することを妨げ、悩み苦しみつらさを生み出し続ける、それゆえ、「自らの認知形成のしくみである五蘊」の野放し状態を、五蘊の機能と五蘊が生み出す認知に執着し欲望を生みだし悩み苦しみつらさを生み出す状態である「五取蘊」として、「五取蘊」を悩み苦しみつらさを生み出す根本原因と位置付けたように感じます。
その一方で、釈迦は、大念処経で、生まれることとは、「〔個人存在を構成する〕要素が出現し、認識領域を獲得すること」と教示していますから、人とは認知する機能、生きるとは認知し続けることだと捉えたようにも思われます。
極めて高度な瞑想状態にいたり、自分の体と心のはたらきと、留まることない認知形成のしくみを自覚した時、釈迦は、生きるとは認知し続けることだだとするならば、生きるとは認知を形成し続ける拷問のようなものだ、と感じたのかもしれません。
そのように考えると「体と心に生まれる認知できる出来事のみがあるが、それは思うようにならない出来事である」と考えたようだ、ということに納得がゆきます。
「〔個人存在を構成する〕要素」とは、同じく大念処経で「〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素(五取蘊)は苦しみである。」とされていますから、「五取蘊」です。
人とは認知する機能、生きるとは認知し続けることだと捉えるならば、生きるとは、ありのままでは『「認知形成のしくみである五蘊」の野放し状態、すなわち「五取蘊」の状態にあることになり、「五取蘊」の状態にとどまっている限り、悩み苦しみつらさは滅尽されないという理解に、釈迦は到達したわけですから、生きることは苦しむこと、という理解は成り立ちます。
生きることは苦しむこと、という理解に立つと、無常が苦である、とされたことを理解をすることにも道を開きます。
自分の体は刻々と変化し老化し、死に向かって進んでいて、今この状態にとどまることはない、好いこと楽しいことは、心に生起するけれどもやがて消えてゆく、そのような認識に至ったならば、今この身体の状態にとどまって欲しいという五蘊のはたらきによってごく自然に生まれる考え、その考えに執着し欲望すること、好いこと楽しいことを感じこの状態がずっと続いて欲しいという五蘊のはたらきによってごく自然に生まれる考え、その考えに執着し欲望することは、そもそも実現しないのだから、そのような欲求を持つことは苦しみを生むことになる、すなわち、生きるとは認知し続けることとらえるならば、生きるとは、五蘊のはたらきによってごく自然に生まれる「今この瞬間をおしとどめたい」という考えに執着し欲望するという、そもそも実現しないことを望むことなのだから、望むことが実現しないという苦が生まれるのは当然であり、そのことを理解しない限り、生きるとは苦しみと同義になる、すなわち無常を理解しないから生きることは苦しみになるのだ、という理解に行き着きます。
そのような理解に行き着くと、『ただ事象のみがある』ということを理解するヒントになりそうです。
『ただ事象のみが存在する』とは
ヴィパッサナー瞑想は、観察する考察するという「意図」とそれに基づく「はたらき」がありますから、瞑想の集中状態としては、比較的低い状態の瞑想だとされています。
すでにお話したことを前提として考えると、集中状態の低い、観察考察することに特化したヴィパッサナー瞑想が開発されたことは、必然性があり、もっともなことだと思います。
観察考察することに特化したヴィパッサナー瞑想によって、釈迦が到達した認知は、次のようなものであったようです。
「『もろもろの事象のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの〔増えていく〕程度にたいし、自覚の〔増えていく〕程度にたいすると同じ程度に、『ただ事象のみが存在する』という念いが、かれにはあらわれてくるのである。かれは、何かに依存するということがなく、何ものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにしてものもろの事象すなわち四つのすぐれた真理について事象を観察するのである。」(大念処経)
釈迦は、「ものもろの事象すなわち四つのすぐれた真理について事象を観察する」、すなわち四聖諦を観察する(起動させている)という行為の中で、『ただ事象のみが存在する』という念い=認知に至り、それによって「何かに依存するということがなく、何ものにも執着しないのである」という認知形成のしくみに至った、ということのようです。
この状態は、マハーサッチャカ経の〈何もないという境地〉〈想いがあるのでもなく、ないのでもないという境地〉とは異なるものと言えるでしょう。
「『ただ事象のみが存在する』という念いが、かれにはあらわれてくるのである。かれは、何かに依存するということがなく、何ものにも執着しないのである。」という観察が行われており、これは、大六処経で説かれる「かれには、心の動きの停止と智慧による観察(止・観)という二つのことがたがいに関連しておこる。』状態と解釈してよいでしょう。
「事象」は、仏教では「法」といわれているものですが、「事象」を「出来事」と考えると、認識できる出来事は「事象」ですが、認識できない出来事は、そこに在るとは認識できませんから「事象」としてとらえられない、と考えてよいと思います。
火バッチャ経で、バッチャ族の遍歴行者から「『世界は永遠である、これだけが真理である。他は虚偽である』という見解を持っているかと問われ、「いいえ、ヴァッチャよ、わたしは『世界は永遠である、これだけが真理である。他は虚偽である』という見解を取っていない」と答えたのは、そのような見解は、そこに在るとは認識できない、すなわち真偽判断ができないことがらであり、「事象」としてとらえられないことだから、ということなのでしょう。
釈迦にとって、『世界は永遠である、これだけが真理である。他は虚偽である』ということは、ヴィパッサナー瞑想による四念処での五蘊の観察によって到達する物事をありのままに見る能力によって認識できない出来事、「事象」ではない、ということになります。
釈迦は、四念処による瞑想経験によって五蘊のはたらきと認知形成のしくみを理解したことによって到達した、物事をありのままに見る能力に基づいいて、自己の認知論、方法論を構築したと考えられます。
しかし、釈迦の真意は、上記のようなヴァッチャの形而上学的な「見解」を打ち破ることにあるのではなく、四念処による瞑想経験によって五蘊のはたらき、すなわち人の体と心のはたらきと認知形成のしくみを理解したことによって到達した、物事をありのままに見る(如実知見)能力によって物事を観察考察するならば、人の体と心のはたらきと認知形成のしくみによって日々生成される非合理な「見解」が、「想像により作り出された存在するとは認識できないこと」であり、「想像により作り出された存在するとは認識できないこと」であるにもかかわらず愛執を生み欲望を生みだすが、「想像により作り出された存在するとは認識できないこと」が現実には起こりえないのであるから欲望が満たされることはないから苦しむことになると認識した時の、苦悩を生み出す原因となる、人の体と心のはたらきと認知形成のしくみを、「五取蘊」として教示することにあったのではないか、との理解が私には生まれます。
そのように考えると、釈迦が説いた、仏教で言うところの「法」とは、「体と心にうまれる認知できる出来事」であって、その「体と心にうまれる認知できる出来事」とは、認知されたままの出来事、そして認知されたままの出来事に対して愛執を生み執着するという出来事、愛執を生み執着することによって形成された認知という出来事、記憶を参照したり比較参照したり、見解や妄想を作りだす出来事など、五蘊のはたらきのすべてであり、五蘊のはたらきのすべてを「体と心にうまれる認知できる出来事」として認知することによって、その野放図なはたらきによって苦しみを生み出す「五取蘊」を認識することができ、「五取蘊」を認識することによって、苦しみをうみだす自己の認知形成のしくみを克服することに道を開いたのではないかと思います。
観察瞑想とされる、ヴィパッサナー瞑想により、徹底的な観察によって到達することが可能となった認識と言えるでしょう。
言い換えれば、六六経に教示される、眼や耳などの六内処と、物や音、声などの六外処、視覚や聴覚などの六識身の3つが、接触して六触身が生じた段階における純粋な事実に対する認知であり、楽の感受や苦の感受、不苦不楽の感受を生起させる六受身と、六つの欲望である六愛身すべてを等価に観察し、六受身、六愛身を生起させない、もしくはとらわれない認知形成のしくみに転換することで、悩み苦しみつらさを生み出す根源(欲望)を断つことができる、ということを理解したのではないかと思います。
その前提で、「『ただ事象のみが存在する』という念いが、かれにはあらわれてくるのである。」ということを考察してみます。
すでに考察したように、「すべてものは無我である」とは、「すべての認識できる出来事は、(無我=)自分の思いのままにならないものである」ということのようです。
「すべてものは無我である」を諸法無我とし、「法」を「事象」とすると、『ただ事象のみが存在する』とは、「ただ体と心で認知できる出来事のみが存在するがそれは自分の思いのままにならないことである」となります。
さらに「思いのままにならない」ということに、愛執や執着が生じることによって「ずっとこの状態をおしとどめたい」という欲望を抱くから苦しむのだ、それは、体と心に生起する認知は、生まれては消えてゆくものだからだ、という観点を反映すれば、「ただ体と心に生起しては消えてゆく(=おもいのままにならない)認知できる出来事のみが存在する」ということになります。
「体と心に生起しては消えてゆく」という「体と心のはたらき」は、釈迦の認知論に基礎を提供している重要な認知と言えるように思います。
好いこと楽しいことも、つらいこと苦しいことも、体と心に起こり消えてゆく認知できる出来事にすぎない、であるにもかかわらず、好いこと楽しいことに愛執を抱き、執着するから、好いこと楽しいことが消えてゆくこと、続かないことを苦痛と感じる、つらいこと苦しいことという認知できる出来事も、体と心におこった現象なのだから起ったならば消えてゆくのに、ずっと続くと認知して苦痛を感じ、嘆き怒るという「認知形成のしくみ」があるから悩み苦しみつらさが無くならないのだ、ということではないかと思います。
念人経で説かれる、「『身体にむけた注意』を習い、養い、強化し、操り、基本とし、繰り返し、完全に集中熟する」ことによる利益の三番目には、以下のようなことがあげられています。
「寒さ、暑さ、飢え、渇き、虻・蚊・風・熱・蛇との接触や辛辣で不愉快な発言に耐え、身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえられるようになる。」
「身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえられるようになる。」は、カバットジンさんが、マインドストレス低減法において、慢性疼痛患者の方に対して実現したことです。
「マインドフルネスストレス低減法」(北大路書房)から引用します。
「次は、七十代前半の、足に激しい痛みをもったある男性の話です。彼が最初にクラスにやって来たときには車いすを使っていました。(中略)最初の日に、彼は、クラスの人たちに向かって、足を切り落としてしまいたいほど痛みがひどいとはなしていました。(中略)おそらく第一回目の授業で何かをつかんだにちがいありません。早くも二回目の授業へは車椅子ではなく、松葉杖でやってきました。やがて彼は、ステッキだけで来るようになりました。私たちの目の前で、みるみるうちに車椅子から松葉杖、そしてステッキに変わっていったのです。しかし、最後の彼が話してくれたところによると、決して痛みがなくなったわけではなかったというのです。ただ、痛みに対する彼の態度が大幅に変わっただけだというのです。瞑想法を始めてから、痛みにもっと耐えられるはず感じ、このように感じ始めると、足の問題もそれほど深刻なものではなくなってきたそうです。」
アルボムッレ・スマナサーラ先生は、著書「大念処経」(サンガ)の中で、ヴィパッサナー瞑想が緩和医療に活用されていることを紹介されたうえで、苦痛の緩和のメカニズムについて次のように言わています。
「感覚を客観的に観る訓練をすることで、心に客観性が生まれて、痛みが出ても混乱しないで「あ、それぐらいか」と落ち着い対処できるのです。瞑想がいくらかできる人になると、痛みが身体の全体に出て、自分自身が落ち込んで手もあげられないような状態になると、その痛みを客観化するのです。集中力をどんどん痛みを感じている部分に持っていくのです。大ざっぱに「痛い、痛い」と悩むのではなく、どこが痛いのかと、厳密にそのスポットに集中するのです。ここに痛みを感じる」と確認する。ただ、痛みを淡々と客観的に確認して、湧き上がってくる主観的な感情は放っておくのです。そうすると、「痛みはあるけれど、別に大丈夫だ」ということで落ち着くのです。」
釈迦の認知論の中核にある、釈迦が観察によって得た知見を想像するならば、「すべての認知できることは、ただ体と心に生起しては消滅する現象である、現象が起こったと知り、消滅して行くということを自覚し、好いこと楽しい現象に執着せず、悩み苦しみつらさという現象を嘆かず怒りを起こさなければ、悩み苦しみ生まれることはない、すべては体と心に生起しては消滅する現象にすぎないのだから」ということであるように思います。
このように考えると、マインドフルネス認知療法が、「思考は事実ではない」という態度によって、反芻への執着から離れる訓練をおこなうことは、釈迦の認知論由来の簡略版、もしくは独自に到達した釈迦の認知論類似のものであることが理解できます。
ヴィパッサナー瞑想では、「すべての認知できることは、ただ体と心に生起しては消滅する現象である、現象が起こったと知り、消滅して行くということを自覚し、好いこと楽しい現象に執着せず、悩み苦しみつらさという現象を嘆かず怒りを起こさなければ、悩み苦しみ生まれることはない、すべては体と心に生起しては消滅する現象にすぎないのだから」という見方、認知を養うためしなうため(と想定されます)、例えば見たものに「見た」とのみラベリングして、見たものに愛執を生むこととなる、「選択肢としての」「心に生起するイメージとしての思考」である「表象(想)」を生起させず、「表象(想)」に反応して、「意欲」を形成し「行為」を形成し、それによって貪随眠を潜在させることなる「形成力(行)」を起こさない認知を心がけます。
では、見たものが危険なものだったらどうするの、「見た」とのみラベリングしているどころじゃないでしょ、逃げなきゃって、思われるかもしれませんが、見たものを「見た」とのみ認識できる状態は、観察に集中している(マインドフルな)状態なので、危ないものには、危ないから離れなければ、という判断は意図せずとも出てきます。歩行の瞑想をしていると、このことはよくわかります。
むしろ危険なのは、自分の感情や欲求にどっぷり浸って考え事をしていて、外部に注意が払われないでいる時です。この時は、目の前のことが目に入っていても、それを自覚していません。
釈迦は、「自分の感情や欲求にどっぷり浸って考え事をしていて、(自分の身体を含む)観察対象に注意が払われないでいる時」は、感情への愛執、欲求への愛執にとらわれている状態であり、感情への愛執、欲求への愛執にとらわれている状態が、知らず知らずのうちに悩み苦しみを生み出し、知らず知らずのうちに悩み苦しみを生み出すことを自覚することができない(五取蘊の状態)、だから観察に注意を向けることによって、感情への愛執、欲求への愛執から離れることが、感情や欲求の生成を抑制し、感情への愛執、欲求への愛執から離れて物事を観察できる(如実知見)ようになるのだ、教示したのでしょう。
であるならば、特定のタスクがなく、自由に気持ちのおもむくままに思考し、感情を生成する、いわば思考と感情の野放し状態といえる、デフォルトモード・ネットワーク時はまさしく「知らず知らずのうちに悩み苦しみを生み出すことを自覚することができない(五取蘊の状態)」状態といえます。
「楽の感受や苦の感受、不苦不楽の感受を成立させる六受身」については、ヴィパッサナー瞑想では、受の随観によって観察考察するという方策を取ります。
釈迦は、人は認知する機能、生きるとは認知し続けることと考えた一方で、認知する機能は、Beckさんの「認知の偏り」と同類の考え方から、そもそも求めてても実現しないことを求めて執着したり、適切な認知とはいえないこと(いわゆる妄想)に執着したりするから、苦しみを生み出すのだ、自己の認知形成のしくみである「五取蘊」を良く自覚して、そもそも求めてても実現しないことを求めて執着したり、適切な認知とは確認できないこと(いわゆる妄想)に執着したりすることを止めれば、苦しみが生まれることは無いのだ、との認知に到達したのでしょう。
それを可能にしたのがヴィパッサナー瞑想による四念処であり、四念処による五蘊の観察考察であり、念人経に説かれる、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気の克服による感情生成機能の抑制、「表象(想)」を生起させず、「表象(想)」に反応して、「意欲」を形成し「行為」を形成し、それによって貪随眠を潜在させることなる「形成力(行)」を起こさない等の訓練によって、脳の報酬系への刺激を抑えること、観察力と集中力の涵養による「尋」と「伺」の発現による四聖諦の起動(四聖諦による観察考察の実現)などの、離欲を可能にする過程を踏み、さらには「尋」と「伺」の働きも鎮め、喜び、安楽も手放し、完全な離欲による心の平静にいたった、というふうに私は理解しています。
釈迦の苦悩をなくす方法論
釈迦の方法論は、認知論アプローチである、と考えると理解がより容易になります。
認知論は仏教による理解ではありませんから、仏教としての釈迦の教えの理解ではありません。
釈迦が、ヴィパッサナー瞑想による、五蘊(体と心のはたらき、認知形成のしくみ)の観察考察にもとづく経験的合理的な思惟に基づき、自己の認知論、方法論を構築した、ということを前提として、釈迦が教示した苦悩をなくす方法を考察してみます。
苦しみのすぐれた真理
釈迦は大念処経で、「苦しみのすぐれた真理とは、いったいなにか」として次のように教示しています。
「生まれることは苦しみであり、老いることは苦しみであり、〔病気になるということは苦しみであり〕、死ぬことは苦しみであり、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えは苦しみである。求めても得られないというということも苦しみである。要するに〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素(五取蘊)は苦しみである。」(以下特記ない限り大念処経から引用)
続けて、生まれることとして、
「それぞれの生きものが、それぞれの生きものの群れに、生まれること、発生し、入胎し、再生し、〔個人存在を構成する〕要素が出現し、認識領域を獲得すること」としています。
「〔個人存在を構成する〕要素が出現し、認識領域を獲得すること」については、すでにお話しました。
この教示を前提にすると、人とは認知する機能、生きるとは認地し続けることと考えることも可能となり、人が自分の体と心のはたらきと認知形成の幾仕組みと言える五蘊を自覚していない状態、言い換えれば五取蘊という認知機能の野放し状態では、いろいろな考えを生み出し執着し苦しむことになるのだから、そもそも人は、ありのままでは苦しむようにできている、と理解することは難しくありません。
上記のように解釈すると、「要するに〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素(五取蘊)は苦しみである。」という教示と整合的です。
釈迦は、生まれることに続いて、老いること、死ぬこことについて説明し、これによって「物質(色)」としての身体の生起と消滅について説明していることになります。
死ぬことについては、「〔個人存在を構成する〕要素が破壊し、身体を放棄すること」とされ、「身体を放棄すること」については註に『Bmではそれに加えて、jīvitindriyass' upacchedo「生命機能の断滅」と付される』との記載があります。
死ぬことは、五蘊、すなわち認知する機能が破壊されること、と理解したようです。
続けて、「憂い、とはいったいなにか」、「悲しみとは、いったいなにか」、「苦痛とは、いったいなにか」、「苦悩とは、いったいなにか」、「悶えとは、いったいなにか」について教示しています。
わたしの印象としては、こちらの悩み苦しみをなくすことが、釈迦の本筋であったのではないかと思います。
生まれること、老いること、病気になること、死ぬことが苦しみである、というのは、これらは誰も逃れることができないが故に、誰であっても反論できないことであり、誰にも起こることであり、反論できないからこそ、釈迦の論理をわかりやすく説明できるから生老病死は苦であると冒頭においたのではないないか、という感じがします。この点については「求めても得られないというということ」で説明します。
生まれることが苦しみである、ということは現在としては理解しにくいことです。
自分では理解できないけど、釈迦がそのように言ったのだから真理なのだ、という理解も可能でしょうが、そのように考えるならば信仰の領域になってしまいそうですから、認知論アプローチによって考察してみます。
釈迦にとっては、悩み悩み苦しみつらさから、悩み苦しみつらさをなくすための修行に入り、五取蘊が苦であるとの認識にいたるとともに、その苦しみを克服するまでは、悩み悩み苦しみつらさが継続したわけですから、四念処に基づく五蘊の精緻な観察考察によって、ありのままでは苦しみをうみだすという五蘊の在り方(=五取蘊)を自覚したならば、悩み苦しみを生み出さない認知形成のしくみに転換するまでは、人は苦しみを生み出すように生まれ育っているという考え方が自動的に成り立ちますから、生まれて、育つことは苦しみを生み出すことと同義になり、生まれることは苦しみの人生が予定されている、すなわち生まれても悟り、解脱に至らない限りは苦から解放されないから、生まれることは苦しみ、ということは言えるでしょう。
釈迦が、生まれることが苦しみ、としたのは、釈迦にとっての悩み苦しみつらさは、釈迦が尋性という性格であったこと、今日では希死念慮ととえられられる「生存の消滅への愛執」を「〈苦しみ〉の原因のすぐれた真理」のひとつとしてあげていること、五蓋に「昏沈」という、うつ状態と解することも可能な身心の状態を上げたことなどから、悩み苦しみつらさは、自らの認知形成のしくみからもたらされるものであると把握したことによって、人は自らの内に根源的に悩み苦しみを生みだす認知形成のしくみを持って生まれてくる(成長に伴って発現させてゆく)のだから、生まれてくることは、苦しむという性質を潜在させて生まれてくることなのだ、ということを強く認識したからではないかと思います。
「再生」とは
「それぞれの生きものが、それぞれの生きものの群れに、生まれること、発生し、入胎し、再生し、〔個人存在を構成する〕要素が出現し、認識領域を獲得すること」の「再生し」ということの意味は何なのでしょうか。
永遠不変の自我であるアートマンの存在を前提とした(自分が)再生産されることであるのか、それとも子孫をなすことによる「再生産」であるのかは、これだけではわかりません。
しかし釈迦は、ヴァッチャゴッタとの対話で、自我はあるとも、ないとも言っていない一方で、私たちが、自我(アートマン)であると(五取蘊という認知機能の野放し状態であることにき起因して)思っていることは自我ではない、と言っています。
釈迦にとっては、自己の再生産がある、自己の再生産がないということは、五蘊の観察から得た経験的合理的な知見からは知り得ることではない、ということであったから、どちらともいえないし、どちらとも判定する必要もないことであると考えたように、わたしには感じられます。
念身経には、「『身体にむけた注意』を習い、養い、強化し、操り、基本とし、実行し、繰り返し、完全に習熟すると次の十の利益が期待される。」として、再三紹介している、好き嫌い、嫌悪感、恐れと怖じ気を克服できることなどとともに、神足通(通販会社みたいですね)、天耳通、他心通などとともに、「前世での多種多様な生活を思い出す(宿命通)。」があげられています。
リチャード・ドーキンスさんのいう利己的な遺伝子によって、私たちの体は遺伝子を運ぶためのヴィークルにすぎないのだ、ということを考えると、親の人生を記憶した遺伝子が、親の体というヴィークルから、生殖行為によって子供の体、さらに子孫の体というヴィークルに乗り換えたと考えると、遺伝子が記憶した前世の記憶にアクセスすることも、きわめて高度な精神集中によってもたらされる瞑想状態に至った人には可能であったかもしれない、という考えも生まれます。
「前世での多種多様な生活を思い出す(宿命通)。」と言われてもにわかには信じがたいのですが、来世を見通すことができるということは、教示されていないようであることには留意した方がいいかもしれません。
永遠不変の自我の存在による、自己の再生ということであれば、死んだ人の数だけ新しく生まれることになりますから、人口が増えることとは齟齬(そご)を生じます。
生前の不行状によって生まれかわれない人が相当数いるのであれば、人口減少社会に突入します。
仮に生まれ変わりについて、釈迦は当否を判断はしないものの、事実として自己の再生があると信じている人がいて、自己の再生への欲望が苦しみを生むのだ、という考え方があるのであれば、自己の再生を否定するのではなく、自己の再生があろうとなかろうと、自己の再生へ欲望をなくせば、苦しみはなくなるではないか、ということが釈迦の認知論アプローチとして、とり得る方法になります。
新しい命が生まれる「再生」を好ましいものとしないのでは、社会は成り立ちませんから、「再生し」とは、親や親族にとっての子孫の再生産、つまり新しい生命が「生まれること」ととらえた方が良いように思います。
出家者は子をなしませんから、出家者にとっては、子孫の再生産は原理的にありません。
再生を自己の再生産としても、解脱により自己の再生産である輪廻から解脱したことになりますので、出家者にとっては、修行の成果として、自己の再生産が行われるサイクルから「解脱」したのだ(それは修行に依って成し遂げられたのであるから、修行しないものは到底到達できるものではないのだ)、という教説の方が、自分たちの立場を宣揚する(もちあげる)効果はあるといえます。認知論の立場から考察するならば、ですが。
再生が幅広く信じられていたことを考慮して、再生をあえて否定せず(一度だけ天上界に生成することは説いているようです)、再生を信じ再生に心を悩ます人々も対象とするために、釈迦のとった方法が、後のお坊さんにとっては、自己の修行の成果、自分たちの優位をするための論理へと転化してしまったように感じます。
そう考えると、自分たち(出家者)は五取蘊を滅し苦を滅し解脱したから再生はないけど、五取蘊を滅していない解脱していない人々は、過去世の無明により行が生じ、現在世での識、名色、六入、触、受、取、有が生じて、来世での生と老死という苦しみに至るのですよ、という十二支縁起が作り出されることもなんとなく納得できます。解脱とは無縁な私、仏教徒でない私からすると、余計なお世話だよ、という感じですが。
釈迦は、五蘊の観察から得た経験的合理的な知見からは、再生(自己のうまれかわり)があるかないかは、知り得ることではない、と考える一方で、自己の再生があると信じ自己の再生を願い、そのため祭祀を行う人や、自己の再生について心の悩ませる人がいる、という事実の方が重みをもったのではないでしょうか。
すでにお話しましたが、釈迦が次のように考えたのであれば、自己の再生について心の悩ませるのも、現世において苦しみを生み出すのも、「生存への愛執」があるからという原因に帰着しますから、自己の再生があるないは釈迦にとっては重要な事柄ではなく、重要なことは「生存への愛執」をなくせば、それによって「認知形成のしくみに執着する状態である「五取蘊」の状態」を解消することにつながり、自己の再生を巡って苦しむ人であっても、現世における苦悩によって苦しむ人であっても、悩み苦しむことは無くなる、との認知に至った、と結論しても問題ないように思います。
「『人は、ありのままの状態では苦しみを生み出し続ける』のは、生に伴う根源的な不安があるがゆえではないか、生に伴う根源的な不安から逃れたいと欲求(欲望)して、『無自覚的な思惟によって生み出され、色、受、想、行、識の徹底的な観察考察による経験的合理的な知見によって妥当とは判断できない概念である「見解」』を生みして、それに執着して生に伴う根源的な不安から逃れてたいからではないか、そしてそのことが五蘊のはたらき、認知形成のしくみに執着する状態である「五取蘊」の状態を招来し、結果として苦しみを生み出し、苦しみ続けることになる」。
そして、「生存への愛執」を断つことは、生存を断つことではなく、生存を断たたれることへの根源的な不安を断つ事であるから、生存を断たれることへの根源的な不安を断つことによって、己の再生があると信じ自己の再生を願い、自己の再生について心の悩ませる人も、再生など信じておらず、今ある悩み苦しみつらさに耐えかねて「生存の消滅への愛執」を持っている人も、生存を断たれることへの根源的な不安から「この世の欲望に愛執」を持つ人も、「生存への愛執」を断つことによって、この世での悩み苦しみつらさをもたらす根源から解放されるのである、ということであったのではないでしょうか。
ただし、いずれにしても、釈迦の方法論は、釈迦の教示する体と心のはたらき、認知形成のしくみを、自己の体と心の観察により証明し体得し、そのうえで、自らが自らの内に生まれる悩み苦しみつらさを滅してゆくという個人的な作業ですから、自分がどのように釈迦の教えを解釈して、自分の悩み苦しみつらさを滅してゆくか、ということは本人の認知に委ねられているものと解釈できます。
その意味で上記の解釈は、あくまでも私の解釈、私の認知ということになります。
求めても得られないというということ
釈迦は、「求めても得られない苦しみとは、いったなにか」として、以下のように教示しています。
「生まれるという性質をもつ生きものにとって、このような欲求が起こる。『ああ、わたしたちに、生まれるという性質がなければよいのに。わたしたちに、生まれるということがやってこなけれがよいのに』と。しかし、このことは望んでも起こりえない。これもまた求めても得られない苦しみである。」
以下同様に、老いること、病気になること、死ぬことについて教示され、次のように教示されます。
「憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えという性質をもつ生きものにとって、このような欲求が起こる。『ああ、わたしたちに、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えという性質がなければよいのに。わたしたちに、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えということがやってこなけれがよいのに』と。しかし、このことは望んでも起こりえない。これもまた求めても得られない苦しみである。」
生まれることについては、多分当時の階層社会においては、下層階級は過酷な生活環境であったとも想定でき、生まれることは苦しむことだという考え方も支持を得たのかもしれませんが、老いること、病気になること、死ぬことについては、誰も反論できず、釈迦の教示には異論をはさむ余地はなかったでしょう。
釈迦は、異論をはさむことのできない、誰にでも訪れる生老病死について、「起らないことを望んでも、それは起こりえないこと」という教示を最初に行い、納得させたうえで、その教示を、各人個別の原因によって生じる憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えへと適用範囲を広げるという論法、教示方法を取ったのではないでしょうか。
憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えは、各人個別が受ける外的な要因にそれら苦悩の発生原因があるのではなく、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えについて、起らないことを望むことによって「望んでも起こりえない。これもまた求めても得られない苦しみ」が生まれるからである、と教示することによって、各人個別が受ける外的な要因によって、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えが生まれるのではなく、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えが起こらないことを望むから、求めても得られない苦しみを生みだして、苦悩しつらい思いを生み出すのだ、という人の認知形成のしくみが苦悩やつらさを生み出す原因なのだ、という視点を持つことを促す、という認知論アプローチを取ったのではないかと考えます。
そして、次に「〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素は苦しみであるとは、いったいなにか。」として、
「すなわち、物質的なものという執着の要素(色取蘊)、感受作用という執着の要素(受取蘊)、表象作用という執着の要素(想取蘊)、潜在的形成力(想取蘊)という執着の要素、識別作用という執着の要素(識取蘊)、修行僧たちよ、これらが要するに〔個人存在を構成する〕五つの執着の要素と言われるものである。修行僧たちよ、これが苦しみのすぐれた真理といわれるのである。」
私は、認知論によって釈迦の説いたとことを解釈しようとしているので、五取蘊が「個人存在を構成する」という考えは取っていません。
仏教的には、釈迦が五取蘊を説いたから、五取蘊という真実があるのだ、ということなのかもしれませんが、五蘊、もしくは五取蘊は、現在の心理学や心理療法のモデルでも説明可能な機能だと思っていますので、釈迦が、体と心のはたらきと認知形成のしくみを把握し、説明するためのツールと考えています。
ただし、現在の心理学や心理療法のモデルと釈迦の認知論が根本的に異なるのは、釈迦はあくまでも、生きることは認知が生まれ続けることであり、その認知とは、体と心に生起し消滅する現象であり、生起し消滅する現象に愛執を生み、執着し、欲望することによって、苦悩が発生すると捉えたことであると思います。
愛執を生み、執着し、欲望するのは、人の認知が生起し消滅することを理解しないこと、生存への愛執が、生存が永遠に続くことを無自覚に望むからであろうかと思います。
人の認知が生起し消滅するものであるにもかかわらず、生存が永遠に続くことを無自覚に望むことによって、「歓喜と愛欲をともない、ここかしこで歓楽するような愛執」(大念処経)が生じるのでしょう。
「歓喜と愛欲をともない、ここかしこで歓楽するような愛執」が生じた結果生じることを、心理療法では、不適切なコーピングととらえているように思います。
そのように考えますので、五蘊は、自分自身に生じては消えてゆく現象としての認知を把握するための、筏の喩の筏、すなわちツールなのではないかと考えています。
五蘊というツールにより、自分自身に生じては消えてゆく現象としての認知を把握すること(択法覚支の始動)により観察力が養われ、やがて発現するであろう「尋」と「伺」を準備し、身体にむけた注意の確立により好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気の克服により、好き嫌いの感情や恐怖感をなくし、精進覚支とあいまって、喜覚支が始動し、軽安覚支が始動して、心随観が可能となり、集中力を高めると「尋」と「伺」が現れ、悩み苦しみをありのままに(好き嫌い嫌悪感、恐怖と怖じ気なく)観察できるようになることで、苦しんでいるなら、苦しみがないほうがいい、苦しみをなくそう、という生命の持っている本能的な欲求ともいえる「四聖諦」がはたらきだす、そして自分の眼、耳、鼻、舌、身体、意識の機能への無自覚な信頼と、無自覚な信頼によって形成される不合理な認知に無自覚に執着することが悩み苦しみつらさが生まれてくる原因だと認識することができる、というふうに考えると、五取蘊は、人間存在を構成する、というよりも、自己の体と心のはたらきと、認知形成のしくみを、悩み苦しみつらさを生み出さないようにするためのベンチマーク、規準としてとらえることができるように思います。
私たちにとっては、五取蘊は、自己の体と心のはたらきと、認知形成のしくみを、悩み苦しみつらさを生み出さないようにするためのベンチマーク、規準としてとらえるほうが、現実的かつ説得力があり、受け入れやすいと思います。
同じく「〈苦しみのすぐれた原因のすぐれた真理とはなにか」として次のように教示しています。
「それは再び迷いの生存に戻すものであり、歓喜を愛欲をともない、ここかしこで歓楽するような愛執である。すなわち、現世の欲望に対する愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執である。」
「この愛執はどこで生じ、どこでとどまっているのだろうか。なんであれこの世のなかには好ましいもの、楽しいものがあり、そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕留まっているのである。」
「では、この世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものとはなにか。」として、
六内処:眼、耳、鼻、舌、身体(触)、こころ(意識)は、「この世の中における〔、好ましいもの、楽しいものである。そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕留まっているのである〕。」
六外処:色かたち、音声、香り、味わい、蝕知できるもの、こころの対象について同様に考察され、引き続いて、
六識身:眼による識別、耳による識別、鼻による識別、舌による識別、身体による識別、心による識別
六触身:眼による接触、耳による接触、鼻による接触、舌による接触、身体による接触、心による接触
六受身(受取蘊):眼による接触から生じる感覚的感受、耳による接触から生じる感覚的感受、鼻による接触から生じる感覚的感受、舌による接触から生じる感覚的感受、身体による接触から生じる感覚的感受、心による接触から生じる感覚的感受
五蘊の想(想取蘊):色形の表象作用、音声の表象作用、香りの表象作用、味わいの表象作用、蝕知できるものの表象作用、こころの対象の表象作用
五蘊の行(行取蘊):色かたちへの意志作用、音声への意志作用、香りへのへの意志作用、味わいへの意志作用、蝕知できるものへの意志作用、こころの対象への意志作用
色取蘊:色かたちへの愛執、音声への愛執、香りへの愛執、味わいへの愛執、蝕知できるものへの愛執、こころの対象への愛執
粗い考察(尋)への愛執:色かたちへの粗い考察、音声への粗い考察、香りへの粗い考察、味わいへの粗い考察、蝕知できるものへの粗い考察、こころの対象への粗い考察
微細な考察(伺)の愛執:色かたちへの微細な考察、音声への微細な考察、香りへの微細な考察、味わいへの微細な考察、蝕知できるものへの微細な考察、こころの対象への微細な考察
それぞれについて「この世の中における〔、好ましいもの、楽しいものである。そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕留まっているのである〕。」と教示され、「これが、修行僧たちよ、苦しみの原因というすぐれた真理といわれるのである。」と締めくくられます。
五蘊の「識」「識取蘊」は無く、粗い考察(尋)への愛執、微細な考察(伺)の愛執が教示されていますから、この教示は、粗い考察(尋)、微細な考察(伺)が現れる初禅において理解、体験できることが前提であること、粗い考察(尋)、微細な考察(伺)は「識」が高度化し、如実知見を可能としたものととえられると考えられます。
上記の内、六内処は、五蘊の色、すなわち身体であると認識して良いように思います
粗い考察(尋)、微細な考察(伺)は「識」とみなすと、眼、耳、鼻、舌、身体(触覚)、意の6つの認識領域における、五蘊の色、受、想、行、識に対して、愛執が発生して、そこに愛執が留まっていることが、苦しみの原因である、と教示していることになります。
六識身、六触身は五蘊には含まれませんが、はたらき、機能としては色、すなわち身体において生まれるものに含めてもいいのかもしれませんが、あまり厳密にとらえることに意味はないかもしれません。
現代の考えから言えば、受、想、行、識のはたらきも神経と脳のはたらきですから、つきつめれば体のはたらきということになりますから。
釈迦は、体と心のはたらき、認知形成のしくみ(五蘊)そのものに「この世における〔、好ましいもの、楽しいものである。」と感じて、「そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕留まっているのである〕。」から、「苦しみの原因というすぐれた真理といわれる」と教示していることになります。
その前提にあるのは『ただ事象のみが存在する』という自覚であり、『ただ事象のみが存在する』の意味内容は、「ただ体と心に生起しては消えてゆく(=おもいのままにならない)認知できる出来事のみが存在する」ということになり、それにもかかわらず「体と心に生起しては消えてゆく(=おもいのままにならない)認知できる出来事」を、「この世における〔、好ましいもの、楽しいものである。」と感じて「そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕留まっているのである〕。」(五取運)であるから、「苦しみの原因」となるのだ、という論理になりそうです。
このことは、苦しみの原因である「現世の欲望に対する愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執」を断つには、生きている限り止めることができない人の体と心のはたらき、認知形成のしくみ(五蘊)によって生み出される、「ただ体と心に生起しては消えてゆく(=おもいのままにならない)認知できる出来事のみが存在する」ことに対して、「この世における〔、好ましいもの、楽しいものである。」と感じて「そこから愛執が生じ、そこで〔愛執が〕留まっているのである〕。」(五取運)という状態を、見る聞く嗅ぐ味わう肌触りを感じるという認知の根本から、自己意識を形成するような大脳新皮質の高度な情報処理に至るまで、残すところなく、滅尽すればよい、というこのようです。
「苦しみの消滅のすぐれた真理とはなにか。それはこの愛執にたいし、残りなく欲を離れ、滅し、棄て、解き放たれ、執着のよりどころとしないことである。」(大念処経)
愛執は、好ましいもの楽しものという感情、感覚をともない、欲によって「増殖する」のだから、見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、感触すること、考えること、人の体と心のはたらきと認知形成のはたらきの全域において、愛執を残すことなく滅しつくす必要がある、ということなのでしょう。
当然、この状態は、釈迦の説く方法論の「上がり」の状態であるということは理解しておく必要があります。私たちが何が何でも目指さなければならない地点ではない、ということです。
釈迦の認知論の根本的には、考えるから欲求がどんどん強まる、ならば悩み苦しみを生み出す原因(欲望、怒り、悩害)となることを考えるのではなく、自覚して、意識して、悩み苦しみを生み出さないことを考えればよい、という方法論があるようです。
「もうなんでも、比丘達よ。比丘がそれについて多く思い考えるほど、ますますそのように心は傾く。比丘達よ。もし比丘が離欲の思いを多く思い考えると、欲望の思いを捨てて、離欲の思いを募らせて、かれのその心は離欲の思いに傾く。比丘達よ。もし比丘が怒りなき思いを多く思い考えると、怒り離の思いを捨て、怒りなき思いを募らせて、かれのその心は怒りなき思いに傾く。比丘たちよ。もし比丘が悩害無き思いを多く思い考えると、悩害の思いを捨て、悩害なきなき思いを募らせて、かれのその心は悩害なき思いに傾く。」(双考経)
「すべての認知できることは、ただ体と心に生起しては消滅する現象である、現象が起こったと知り、消滅して行くということを自覚し、好ましい現象楽しい現象に執着せず、悩み苦しみつらさという現象を嘆かず怒りを起こさなければ、悩み苦しみ生まれることはない、すべては体と心に生起しては消滅する現象にすぎないのだから」ということが自覚できるまで瞑想を行う必要がありそうです。
五蘊の考え方が、現代のおいても有意であるのは、釈迦が教示する、人の体と心のはたらきと認知形成のしくみによって、愛執が生じて、悩み苦しみが生成されるプロセス、悩み苦しみが生起する原因を自覚するためには、きわめて有効であるという点だと思います。
その観点から、私は「五蘊」は、釈迦の認知論を、自己の体と心のはたらきと認知形成のしくみをとおして理解し、愛執が生じて悩み苦しみが生成されるプロセス、原因を自覚するための「思考分析ツール」として、きわめて有用であると考えています。
ヴィパッサナー瞑想は最強の自己理解ツール
釈迦の方法論を、認知論ととらえて、ヴィパッサナー瞑想により、観察力を養い、集中力を養い、自分が何をどのように認知しているのか、なぜそのような認知になるのか、ということを徹底して自覚する方法、と考えると、ヴィパッサナー瞑想の理解を促進します。
ヴィパッサナー瞑想は、認知論の立場から考えるならば、「自己理解を促す最強ツール」であるといっていいと考えています。
「自己をわするるとは、萬法に証さるるなり」は、仏法が主、私は従という構造を想起させますが、仏教の観点を離れ、釈迦の方法論を、心理療法としてとらえるならば、自らが意思をもって、釈迦の認知論と方法論を、(ありのまでは苦悩を生み出す)「自己の体のはたらきと認知形成のしくみ」を、苦悩を生み出さない「自己の体と心のはたらきと認知形成のしくみ」に転換するための手がかりを見つける方法、と言い換えてもよいように思います。
それを言い換えれば「(苦悩を生み出すことも含めた)自己理解を促す最強ツール」という理解が成り立ちます。
ツールとはすなわち、川を渡るために使う道具、筏であり、釈迦は、川を渡ったら筏を捨ててゆく人は正しいことをしたと説いた(蛇喩経)のですから、ヴィパッサナー瞑想を、自分の体と心のはたらき、認知形成のしくみに対する無自覚という川を渡るためのツールととらえても問題ないと思います。
ヴィパッサナー瞑想を、認知論アプローチによる心理療法と考えた時に、心理療法との一番違いは、ヴィパッサナー瞑想では、他者が介在しないことによって、他者の存在を意識することなく、他者からの評価を一切気にすることなく、(知り得る限り)100%の自己開示が、自分に対してなされる方法であることだと思っています。
とはいっても、他者が介在する心理療法は、独力では自己の現状を好ましい方向に変えられないクライエントにとっては、他者であるセラピストとの対話や支援によって自己理解を促進し、自己が抱える問題、課題に気づき、問題、課題の解消を目指すものですから、当然有為なものです。
クライエントが自己理解を促進し、自己が抱える問題、課題に気づき、問題、課題の解消を目指すことに、挫けてしまいそうになった時に、援助者であるセラピストがいることは大きな意味を持ちます。
援助者という観点から見ると、ヴィパッサナー瞑想は、救いを想定せず、自己を観察考察し自覚に至ることによって苦悩をなくすという、極めて孤独かつ冷徹な方法です。
極めて孤独かつ冷徹な方法であるがゆえに、「善き友情をもち、善き仲間をもち、善き交遊を有するということは、これは聖なる修行のなかばではなくして、そのすべてである。」(増谷文雄先生「阿含経典第三巻」「道相応」より 筑摩書房)と釈迦は教示したのでしょう。
釈迦は、善き友情、善き仲間、善き交遊によって、釈迦の実践論、行為論といえる八聖道が進展するという文脈で教示されていますが、その根底には、孤独かつ冷徹な方法であるがゆえに、自分と同じ目的を持ち、自分と同じ孤独かつ冷徹な方法に取り組む善き仲間がいることが、孤独かつ冷徹な方法をコンプリートする励ましとなるであろう、ということではないかと思います。
「(知り得る限り)100%の自己開示が、自分に対してなされる」というのは、おかしな言い方ですが、解説します。
ヴィパッサナー瞑想は、体と心に生じたことを、生じたと知り、それを知って(観察して)も、心に押しとどないという態度を一貫して訓練します。
(「すべての認知できることは、ただ体と心に生起しては消滅する現象である、現象が起こったと知り、消滅して行くということを自覚し、好ましい現象楽しい現象に執着せず、悩み苦しみつらさという現象を嘆かず怒りを起こさなければ、悩み苦しみ生まれることはない、すべては体と心に生起しては消滅する現象にすぎないのだから」という自覚にいたるためです。)
それ等の訓練によって欲求の生起を抑制し、欲求の生起の抑制が好悪の感情や恐怖心を低減します。このメカニズムは、貪随眠、瞋恚随眠、無明随眠の潜行をなくするという方法で説明できます。また、欲求の充足によって脳の報酬系を刺激することを抑制するという理屈でも説明できるように考えています。
上記訓練を通じて、体と心に安楽状態(軽安覚支)を作出し、その状態で集中力を高める(定覚支の状態)ことで、観察の訓練によって養ってきた観察力が、より高度化した「尋」と「伺」という観察考察能力(脳の高次機能の活性化状態)として現出し、「自分が見たくない、知りたくない」と考え、「自分が見ることをさけていたこと、知らないでいようとしたこと」にたどり着き、嫌悪感や恐怖を伴わず「自分が見ることをさけていたこと、知らないでいようとしたこと」にたどり着くことによって、現在において、過去の出来事の体験とその解釈に起因して苦悩が生起することまで一気通貫で自覚することができ、さらに、どのようにしたら現在の苦悩をなくすことができるか、ということについてもヒントを受け取ることでき、ああそういうことか、わかってよかった、ということになります。
ヴィパッサナー瞑想を継続してゆくことで、ああそういうことか、わかってよかった、ということはより深まってゆきます。
ただし、ああそういうことか、わかってよかった、という自覚に至っても、現在において苦悩が生起するメカニズムは基本的に維持されているということには留意が必要です。
そもそも、ヴィパッサナー瞑想によって、『「自分が見ることをさけていたこと、知らないでいようとしたこと」にたどり着くことによって、現在において苦悩が生起する理由まで一気通貫で自覚することができ、どのようにしたら現在の苦悩をなくすことができるか、ということについてもヒントを受け取ることでき、ああそういうことか、わかってよかった』となるのですから、自分に対して何ら隠す必要性がありません。
自分に対して何かを隠すのであれば、自らは苦悩しながら、苦悩の原因を知ることはできないでしょう。
自分に対して何かを隠さないことによって、悩み苦しみの原因への自覚がより深まり、そのことを実感できます。
だから「(知り得る限り)100%の自己開示が、自分に対してなされる」よね、という理解になります。
好き嫌い、嫌悪感、恐怖心や怖じ気を克服することのメリットは、精神的負担を和らげるだけでなく、価値判断や他者からどう思われるかを心配することを払拭し、自分の体と心のはたらき、認知形成のしくみを、自由に、捕われなく、ありのままに観察考察できることにあります。
あくまでも「(知り得る限り)100%」です。瞑想の進展度合いはその人次第です。
嫌悪感や恐怖心などの苦悩を生む体験とその体験時の感情、その解釈といった「見たくない」と抑圧していること、例えば希死念慮であっても、嫌悪感や恐怖心を克服もしくは抑制することによって、「見たくない」ことも苦痛なく(全くない、というわけではありません、見たら見たでどうしよう、という苦悩は生まれます)見ることができ、「見たくない」ことが現在の苦悩や生きることのつらさの遠因になっていることまで、一気に理解が進みます。
ヴィパッサナー瞑想は、観察力、集中力を養い、嫌悪感や恐怖心を克服したうえで、自由に自分の体と心のはたらきと、生まれては消える認知を観てゆくことによって、悩み苦しみのありかと、その根源にせまるという自分が自分のために行う個人作業ですから、人に告げることは不要です。
むしろ、人に告げることによって、自分のやっていることが良いことだと同意してもらいたい、その人から自分を支持してもらいたい、という感情、欲求を持つならば瞑想の進展を阻害することになるでしょう。
そのような感情、欲求もふくめて釈迦は「離欲」によって、悩み苦しみを生み出す原因へアクセスすることができ、悩み苦しみが「何かを求めていること」に起因して生起していることが自覚できるならば、その「何かを求めていること」からの「離欲」によって、悩み苦しみはなくなりますよね、というふう把握したようです。
人に告げることが不要なのは、そもそも、苦しんでいるのはあなたですよね、苦しんでいてもそれを苦しんでいると自覚しないのもあなたですよね、苦しんでいることを自覚することにより、それを解消したいと欲求するのもあなたですよね、という考え方であるからでしょう。
それゆえ、釈迦の苦しみをなくす方法「四聖諦」は、これは苦しみであるとありのままに知る、というところから始まります。
苦しみがあなたの心の中に形成されるものであるならば、あなたの心の中に形成された苦しみを無くすことはあなたにしかできませんよね、という方法論ですから、苦しみを人に告げ理解してもらっても、苦しみの一時的な軽減にはなっても、本質的に苦しみをなくすことにはなりませんよね、むしろ苦しみの本質に向き合うことを阻害しますよね、ということになるからです。
「これは苦しみであるとありのままに知ることにより、自分の願いとして、この苦しみをなくしたい、この苦しみから抜け出したい、この苦しみから抜け出そうという自覚をもった」ことによって、瞑想が進展した場合には、人に理解してもらいたい、という欲求はなくなります。
自分で自分の悩み苦しみつらさをなくす方法が自覚でき、それを実行すれば自分の悩み苦しみつらさがなくなるだろうと自覚できるのですから、他者に相談して理解しもらう必要もありませんし、それらの自覚に至ったことが、「尋」と「伺」という観察考察能力による如実知見によって実現したのならば、そのプロセスを説明してもすんなりと受容し理解できる人は少ないでしょう。
(今に伝わる阿含経は、弟子たちが伝えたものですから、釈迦の教えが、周囲の人たちから相手にされなかったという記述は少ないようです。釈迦の教示が、「そのプロセスを説明してもすんなりと受容し理解できる人は少ない」という状況の中で、説かれた(それゆえ平易に語ったのでしょう)ものだと想像すると、釈迦の決意の大きさ払った労力に敬意を表さざるをえません。)
ましてや、自分が五取蘊の状態であると自覚し、悩み苦しみを生む認知形成のしくみである五取蘊から脱しようとしているならば、五取蘊を野放しにしている他者に相談して、理解してもらうことや助言をもとめること自体が無意味だと思えるようになるでしょう。
自らが苦しみと向き合い、苦しみをありのままに知り、苦しみの原因を無くさない限り苦しみはなくならないのだ、という方法論を招来したのは、あくまでも想像ですが釈迦が、幼少時に周囲の他者は、自己の欠乏感や欲求を理解してくれない、自己の苦悩を解消してくれない、と感じたからかもしれません。
親と言えども子供とは別の個体であり、親は子どもとは別の欲求と意図を持っていると仮定すれば、「この人は自己の欠乏感や欲求を理解してくれない、自己の苦悩を解消してくれない」存在であると、子どもの心に映った考えても、私には大きな違和感は生まれせん。
もちろんすべての子供が、「この人は自己の欠乏感や欲求を理解してくれない、自己の苦悩を解消してくれない」存在であると考えるわけではありませんし、そのように考える子供の方が、少数派でしょう。
加えて釈迦は、生後すぐに生母をなくしたという生い立ちに加えて、尋性とされる性格であったと考えられているそうですから、周囲の他者は、自己の欠乏感や欲求を理解してくれない、自己の苦悩を解消してくれない、と感じたならば、(幼少であることから、何らかの他者への働きかけにより苦悩を解消する方法は限られているでしょうし、例えば生母の死に関わる苦悩であれば解消はそもそも難しいでしょうから)自己の「望んでも起こりえない」想像の中で、苦悩を解消しようとしたと想像することもできます。
長じて、釈迦が、「望んでも起こりえない」想像の中で、自己をなぐさめ、苦悩を解消しようとしていたことを自覚し、まさにそのような「望んでも起こりえない」ことを形成する自己の性向、認知のあり方そのものが、悩み苦しみを生むのだ、との認知にいたったならば、釈迦にとって、それはまさにコペルニクス的転回です。
そのように考えると、釈迦の徹底した認知論、方法論が案出されたことに、私は納得がゆきます。
悩み苦しみの原因の所在が、自己の認知形成のあり方にあるとの認識に至るなら、悩み苦しみをなくすには認知形成のあり方とを改変する必要があるという、常人では到底考え及ばない方法論に到達します。それも医学や神経科学、心理学のない2600年前において、です。
ヴィパッサナー瞑想は、片方に自己の悩み苦しみを載せ、もう片方にその解決策載せる天秤のようなものなのかもしれません。
自己の抱える悩み苦しみが、意識の深層での記憶に関わる深く大きいものならば、そこに到達するのに時間もかかるでしょうし、悩み苦しみの原因を滅尽するにも多大な労力と時間を要するでしょう。
自己の抱える悩み苦しみの原因が、例えば、比較的近時に体験した出来事から形成された、認知行動療法の「推論の誤り」のようなものに依るのであれば、悩み苦しみの原因をなくすことは比較的容易でしょう。
ヴィパッサナー瞑想は、自己の体と心のはたらきと、記憶を含む自己が形成した認知しか自覚することはできません。
言い換えれば、記憶を含む自己が形成した認知と、それによって影響を受けている自己の体と心のはたらきと認知形成のしくみへの影響度の大きさによって、自覚すること(自覚の対象物としての悩み苦しみつらさの原因)の大きさが変わるということだと理解してよいでしょう。
それゆえ、釈迦は、四念処による結果が期待できる修習期間として、「このように七年間修めるひとはだれでも」と説き始め、「七年はともかくとして」と順次期間を縮めてゆき、最終的には「誰であっても、このように七日間修める人は」というところにまで短縮しています。(大念処経)
ヴィパッサナー瞑想は、ある種冷徹な方法だといえますが、苦行ではなく、嫌悪感や恐怖心を克服するというセーフティネットを準備することによって、幼少時や過去に形成され現在に至るまで記憶され保持され、今現在の自分を苦しめている過去の恐怖体験などを想起しても、嫌悪感や恐怖心が生起することを抑制し、過去の恐怖体験の克服にも道を開きます。
苦行では継続することができません。
だからこそ、注意力を養うこと(念覚支)から始め、注意力をもって体の動きの観察から始めて自覚を開発(択法覚支)し、自覚のための努力が継続され(精進覚支)、努力の継続によって喜びが生まれ(喜覚支)、喜んでいる人は身体も安らぎ心も安らぐという安楽な境地(軽安覚支)、すなわち高度なリラクセーション状態を実現してから、高度な観察眼考察眼(尋と伺)を現出させ、悩み苦しみの原因を自覚するのです。
安楽な境地(軽安覚支)とは、意図や意欲をおこす心のはたらきを鎮静化することであり、意図や意欲をおこす心のはたらきを鎮静化した安楽な境地を体験するから、安楽な境地を妨げる、心のはたらきとしての自己の苦しみの存在を、あぶりだすように感じ取ることが可能になり、さらに集中力を高める(定覚支)ことで「尋」と「伺」という、第三者的な観察考察力を開発することで、悩み苦しみの根源、原因(非機能的な中核信念や早期不適合スキーマ等が想定されます)に迫ることができます。
この状態になれば、悩み苦しみがあることを自覚したのであれば、悩み苦しむより悩み苦しみがないほうがいい、悩み苦しみをなくしたいという、人に本来的にそなわっている能力の起動と考えられる「四聖諦」が起動し、悩み苦しみの根源、原因に迫ることによって、悩み苦しみを無くす方法は、おのずとあきらかになります。
信頼されるセラピストであっても、クライエントは、(知り得る限り)100%の自己開示はしないでしょう。
この人は信頼できる、と感じても、自分とは別の、自分が知り尽くすことができない独立した人格である、という前提は消し去れません。
かえって信頼しているからこそ、この人はいい人だから好かれたい(少し違うがこのように言っておこう)、こんなことを言ったら何と思われるだろうか、嫌われないかな(言わないでおこう)、という意図が生じてもおかしくありません。
そもそも人は、養育者という他者から、これをすると自分にとって影響力ある人(養育者)から悪く思われるという体験によって、やってよくないことを学び、好く思われるという体験から、やってよいことを学び、他者と協調的な関係を築いてゆく方法を学習してきたのですから、(自分でも自覚せずに)他者の反応を気にすることは致し方ないことです。
クライエントに、セラピストは、支援という機能をはたす、独立した別個の人格ととらえてもらえなければ、セラピーは実り多いものにはなりませんから、セラピストの信頼性の問題ではなく、第三者が介在するセラピーに内在する本質的な問題ということになります。
アドラーが、人の悩みは結局対人関係の悩みに行き着く、といったように、自分の苦悩を向き合うときでも、セラピストという他者との関係を意識し、セラピストとの関係それ自体が問題になる、ということは十分にあり得るでしょう。
ナーバスになっていればいるほど、その人が自分の言うことを受け入れてくれる人かどうか(安心できる人かどうか)を査定する、という傾向はより強いかもしれません。
婚活でも、お相手を「少しわがままを言うことによって、自分の言うことを受け入れてくれる人かどうかを査定する」と思われる行動をとる人はいらっしゃるようです。
野狐禅という言葉があります。
師につかない座禅は、悟っていないのに、悟ったと勘違いすることを、狐にばかされることに喩えて野狐禅と言うようです。
野狐禅というときには、悟ったことを価値あることと考える価値観を前提に、悟ったという価値あることに到達したことを他者に認めてもらい、自己を誇りたい承認してもらいたいという欲求があるから、悟っていないのに、悟ったと勘違いすることを、悟っている人の立場の人が評価した言葉であろうと考えられます。
自己の悩み苦しみについて、これは苦しみであるとありのままに知ることにより、自分の願いとして、この苦しみをなくしたい、この苦しみから抜け出したい、この苦しみから抜け出そうという自覚をもった時には、悟ったことを価値あることと考える価値観を前提に、悟ったことという価値あることに到達したことを他者に認めてもらい、自己を誇りたい承認してもらいたいという欲求は起こらないでしょう。
つまり、人に告げるたいという欲求や人に承認してもらいたいという欲求が生じる余地がありません。
ヴィパッサナー瞑想は、「こんなことを言ったら何と思われるだろうか、嫌われないかな(言わないでおこう)」「いい人だから好かれたい(少し違うがこのように言っておこう)」などの「意図」を、欲、愛執、執着と考え、欲、愛執、執着があるから悩み苦しみを生み出すのだから、そのような「意図」自体を希薄化することを通じて、自分の苦悩と苦悩の原因のありようを観察考察できるようにする、という方略を取ります。
ただし、「(知り得る限り)100%の自己開示」を可能とする釈迦がとらえた、体と心のはたらき、認知形成のしくみはそんなに単純ではありません。
単純ではなかいからこそ、脳は自分の体と心に生起していることに無自覚を貫きとおして、スルーしているのでしょう。
体と心のはたらき、認知形成のしくみについて、釈迦の教示することが親切丁寧であればあるほど、釈迦尾の教示は煩瑣、ややこしいと感じるものになります。
でもその煩瑣、ややこしいものが自分の体と心のはたらきなのだと自覚するしかありませんし、ヴィパッサナー瞑想を通じて、釈迦の教示する体と心のはたらきが自覚でき、ああこうすれば苦悩がなくなるのだな、と自覚できたことを「悟り」といい、その方法をコンプリートしたことを「解脱」と言ったのでしょう。
今回は『釈迦が到達した「認知」論』というお話でしたが、「その方法をコンプリート」する手段として、釈迦は行為論も説いています。
釈迦の行為論は、八聖道と言われる実践論です。
認知療法が行動療法の方法と取り入れ、行動療法が認知療法の方法を取り入れ、認知の修正と行動変容の双方へ介入することで、より効果性を高めようとして認知行動療法となったように、釈迦は、認知論を行為論に落とし込むことを説いています。
また別の回でおお話します。
前回「高度なリラクセーション状態の作り方(2)
https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/182503/