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高度なリラクセーション状態の作り方(2)

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COME TO LIFE「高度なリラクセーション状態の作り方(2)」-1

12 座ってする「呼吸の瞑想」の説明


はじめに


これから「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ」(治意経)という高度なリラクセーション状態を実現する瞑想の説明をします。


喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ」という、高度なリラクセーション状態は、


(1)単にリラックスするという状態ではなく、


(2)集中力を高め、


(3)体と心を観察し、観察力を高め


(4)観察して得た情報(気付き)を活用して、


(5)体と心に負担が生まれない状態を作ることによって実現します。


釈迦の教示を引用しますが、布教の意図はありませんのでご安心ください。


あくまでも高度なリラクセーション状態を実現した釈迦の方法論、認知論に学んで、高度なリラクセーション状態に到達するメカニズム、方法を理解するという観点から引用するものです。


釈迦は2600年前に、悩み苦しみやつらさを無くす方法を人々に説きました。


その方法は、今日でいう認知論、すなわち人々の心の中の認知を改変することにより、悩み苦しみやつらさを無くす方法であったようです。


その方法は、


(1)体と心の動きへの観察に集中することを通して集中力、観察力を高め、


(2)感情の活動を静め高度なリラクセーション状態を実現し、


(3)高度なリラクセーション状態の中で、高めた集中力、観察力をフル活用して、


(4)悩み苦しみやつらさの原因にたどり着くことによって、


(5)悩み苦しみやつらさを生み出す認知を転換することを通して、


(6)悩み苦しみやつらさを生み出さない認知のあり方を確立する、


という方法でした。


釈迦は、生まれること、老いること、病気になること、死ぬこと、私たちに起こる、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えは苦である説きました。


その上で、私たちは、これらのことが起らなければよいのにという「欲望」が生じる、しかしそのようなことは望んでも起こらないから、望むことによって、求めても得られないという苦しみが生まれるのだ、と説きました。


さらに、ではなぜ、望んでも起こらないことを望むという「欲望」が起きてしまうのか、それは人の体と心のはたらき、認知形成のしくみがそのようにになっている(仏教では五取蘊と言います)ことを自覚しないからだ、人の体と心のはたらき、認知形成のしくみを観察して自覚し、注意して、欲望を生み出さないような認知形成のしくみに転換すればよい、と説きます。


釈迦の説くところは、欲を無くしなさいという道徳論ではなく、自分の心に起こる、悩み苦しみつらさの根源に、そもそも望んでも起こりえないことを望む「欲」があることが理解できたなら、その「欲」を無くすことで、悩み苦しみつらさがなくなるなら、その「欲」をなくせばいいのではないですか、というものです。


例えばスキーマ療法では、幼少期に本来充たされて当然の欲求である中核的感情欲求が満たされないことから、早期不適合スキーマが生成される考え、治療的再養育法によって中核的感情欲求を充足するという方法をとるようです。


釈迦の方法論では、「幼少期に充たされて当然の欲求である中核的感情欲求が満たされない」ことを原因として、現在においても幼少期に充たされなかった中核的感情欲求の充足を求めている、ということが悩み苦しみつらさの根源なのだと理解したならば、『現在においても幼少期に充たされなかった中核的感情欲求の充足を求めている』ことは、大人になった今となっては、『そもそも望んでも起こりえないことを望む「欲」がある』ことを原因として悩み苦しみつらさが生まれるのだ、と自覚し、『そもそも望んでも起こりえないことを望む「欲」がある』ことから「離欲」することになります。


セラピストが、中核的感情欲求の充足への欲望を、望んでも起こりえないことだから「離欲」しなさい、と言ったのでは「虐待」になります。


しかし、釈迦の方法論は、自ら瞑想実践を通して、悩み苦しみつらさを生み出す原因にたどり着きなさい、原因を無くして悩み苦しみつらさがなくなるなら、それが悩み苦しみつらさをなくす道なのだから、それを実践して悩み苦しみつらさをなくしなさい、という方法論です。


自らが、瞑想実践により、中核的感情欲求の充足への欲望を、望んでも起こりえないことであり、悩み苦しみつらさの原因であるというところに、自らが到達したのであれば、離欲は有効な方法になります。


実際には離欲だけでなく、ヴィパッサナー瞑想により、嫌悪感や恐怖心が克服されるという効果を発現させ(セーフティネットとしての軽安覚支の状態)、その上で、大人となった現在から幼少期の自分を観察して、その時の体験と感じたこと、考えたことを観察し、幼少期の自分であればそれらは当然のことであったと価値判断なくすべて受容し、一方でそれらを理解しない親がいたけれども、今現在から考察してみれば、「その時の体験と感じたこと、考えたこと」が、今の自分の悩み苦しみつらさにつながっているのであれば、もう手放してもよのだ、ということを考察してゆくことになるでしょう。


それゆえ釈迦が説いたことは、宗教というよりは、今日の心理療法と言ってよいような内容だったと考えています。


釈迦の方法論が上記のような認知の転換、認知形成の転換をもたらす認知論であったため、今日の認知療法系の認知行動療法と相似性が認められます。


心理療法家にも、釈迦の方法論と認知療法の相似性に気づき、釈迦の方法論の現代版ともいえるマインドフルネスに、認知療法を統合した方々がいました。


マインドフルネス認知療法の創始者の1人、ジョン・ティーズデールさんらです。


ティーズデールさんは、アメリカ生まれの仏教僧Ajahn Sumedhoさんの講演を聞き、このように感じたそうです。


「Jhonは、Sumedhoが述べた仏教による苦悩の分析の核心部にあるアイデアと認知療法の基本的仮説の類似性に衝撃を受けた。両方のアプローチが、私たちを不幸にするのは経験そのものではなく、(仏教分析では)私たちの経験との関係または(Beckの分析)私たちの経験の解釈であることを強調していた。また、仏教のマインドフルネス瞑想の中核が、思考として(つまり「真実」や「私」としてではなく精神的事象として)思考と関係していくことの習得を含むことも明白であった。」(マインドフルネス認知療法原著第二版 北大路書房)


Sumedhoさんがどのような方か、私は存じ上げないのですが、上記のティーズデールさんが話したであろうお話、「(つまり「真実」や「私」としてではなく精神的事象として)」から推測すると、Sumedhoさんは、日本に伝来した大乗と自称した仏教とは別系統の、東南アジアに伝わり現在も信仰されている、部派仏教から続くテーラワーダ仏教のお坊さんであろうと推測されます。


テーラワーダ仏教が、伝持して来たお経が、下記でご紹介する「阿含経」です。


ティーズデールさんたちのマインドフルネス認知療法をきっかけに、マインドフルネスの研究が一気に加速したようです。


そのため、多くの心理療法が、マインドフルネスを技法として取り入れ、認知療法の創始者であるBeckさんの後継者であるジュディスさんも、技法としてマインドフルネスを取り入れており、マインドフルネスが、新たな心理療法の開発にアイディアを提供しているようです。


また、釈迦の方法論は、「悩み苦しみを生み出さない認知のあり方を確立する」方法でしたので、脳の認知や意思決定のあり方に改変をもたらし、悩み苦しみやつらさを生み出さないものにする、という状態を最終到達点に置きました。


釈迦は、脳科学者ではありませんから、脳の認知方法や意思決定の方法が改変されることについて、今日のような科学的な根拠を示してはいませんが、心理療法たとえば、「Beckの認知モデル」などを下敷きにして考察すると、釈迦が認識し、人々にもたらすことを目指した「脳の認知方法や意思決定の方法が改変される」ということがおおよそ理解できます。


高度なリラクセーション状態は、釈迦の方法論のなかでは、「脳の認知や意思決定のあり方に改変をもたらし、悩み苦しみやつらさを生み出さないものにする」ことの前提条件として必要なものと位置付けられる状態です。


高度なリラクセーション状態を、日常的、継続的に経験することも価値があるといえますが、高度なリラクセーション状態に到達すれば、さらにその先の状態である「脳の認知や意思決定のあり方に改変をもたらし、悩み苦しみやつらさを生み出さないものにする状態」に到達することを選択することもできます。



高度なリラクセーション状態とは


例えば、強い欲求(欠乏感)とその不充足、怒り、不安、強い嫌悪や恐怖(=感情)などは、心に大きな振れ幅(大きな波を想像してください)をもたらし、体と心に負担をかけます。


厄介なのは、強い欲求(欠乏感)とその不充足、怒り、不安、強い嫌悪や恐怖(=感情)は、不快なので、それらを避けたいという気持ちが働いて、自分自身で十分に把握できていないことです。


そして、「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ」という、高度なリラクセーション状態を経験することによって、自分が体と心に負担をかけていたことを、初めて体感的に理解することができます。


このことは、川の流量が多いとき川底の石は見えませんが、流量が減ると川底に横たわる石が見えるようになる、というイメージで理解していただくとよいでしょう。


言い換えれば、「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ」という、高度なリラクセーション状態を体験していない人は、自分が体と心に負担をかける脳の使い方、体の使いかたをしていることを自覚できていない、とも言えます。


大きな振れ幅は、エネルギーを大量に消費し、脳の活用できるリソースの多くを感情の生成もしくは抑制に使うことになります。


感情に基づいた行動を行うと、脳はさらに大量の感情を生成する傾向を助長します。このメカニズムを釈迦は、潜在的な傾向を助長する、という意味で「随眠」と説明しました。


脳のリソースを大量に、自分の感情にフォーカスすることに使っているのですから、自分の感情以外のことに意識を向ける脳のリソースが不足して、状況を的確に把握し判断することができず、うまくゆかない行動をとってしまう傾向が強まります。


音楽やドラマも感情を刺激しますから、比較的大きな振れ幅をもたらすでしょうが、音楽やドラマと分かっているので、視聴が終了してしばらくたてば振れ幅は基に戻るでしょう。


喜びは、強い欲求とその不充足、怒り、不安、強い嫌悪や恐怖より、はるかに小さな振れ幅を心にもたらします。


安らぎは、喜びよりも、おだやかな振れ幅を心にもたらします。


小さな振れ幅、おだやかな振れ幅は、エネルギーも脳のリソースもあまり使いません。


エネルギーを大量に使わないので、喜びと安らぎは、疲れた脳を休める「休息」になります。


脳のリソースを大量に使わないので、脳のリソースの多くを、今現在のあなたの体と心を観察し考察することに活用することができます。


そのことを釈迦は「身体が安らいで幸せな人の心は集中する。」(治意経)と説明しています。


ヴィパッサナー瞑想は、多くの脳のリソースを、今現在のあなたの体と心の感覚を観察し、心の状態を観察し、感じ取ったことを、リラクセーション状態を高めることに活用します。


そして、今現在のあなたの体と心の感覚を観察し、心の状態を観察する(感じ取る)訓練をつづけ、集中できるようになることで、自分の感情にとらわれることが抑制されるようになります。


生まれてくる感情を、意思で抑制するのではありません。


瞑想対象に集中することは、あれこれ心に浮かんでくる想いに反応したい=考えたい、想像したい、という欲求を手放すことで可能になりますから、自分の感情の生成を抑制することになります。感情の生成が抑制されれば、合理的に考え行動できる可能性が高まります。


釈迦は念身経のなかで、身体に向けた注意を養成すると、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が克服されると説いています。


自分の心の動きの観察が進み、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気は、自分の心の中に生成されるのだ、ということが観察できれば、好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気の克服はより強固なものになるでしょう。


好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が克服されると、『厄介なのは、強い欲求(欠乏感)とその不充足、怒り、不安、強い嫌悪や恐怖(=感情)は、不快なので、それらを避けたいという気持ちが働いて、自分自身で十分に把握できていないことです。』という状態を脱して、自分が嫌悪感や恐れていることであっても、第三者的な視点から観ることができるようになります。


つまり自分について「ありのままの自分を知る」ことができるようになります。


自分の外の出来事が自分を苦しめていると認識しているのであれば、苦しみを無くすには外部の出来事をなくす必要があります。


外部の出来事に刺激されて自分の中に苦しみが生まれるのだと認識すれば、それは「自分で自分の心の中に苦しみを生み出している」ことになりますから、外部の出来事に刺激されて自分の心が苦しみを生み出しているプロセスを徹底的に観察すれば、どのようにして苦しみが生まれるのか理解でき、どのようにして苦しみが生まれるのか理解できれば、苦しみを無くす方法はおのずと明らかになります。


このプロセスが「ありのままの自分を知る」ということの具体的な内容であり、釈迦の方法論の基礎かつ中核的なものです。


心に生まれる大きな振幅をしずめ、小さな振れ幅、おだやかな振れ幅が実現され、脳に休息状態がもたらされる一方で、集中状態が保たれた状態が、高度なリラクセーション状態だと考え下さい。


高度なリラクセーション状態は、いったん経験すると体と脳が覚えます。


体も脳も楽な方が良いですから、楽な状態、つまり高度なリラクセーション状態を実現しようとします。そうすると高度なリラクセーション状態に入るためのリードタイムはどんどん短縮されてゆきます。


集中状態が保たれ、高度なリラクセーション状態が実現してもよいはずなのに、何か心がざわざわ、ソワソワして落ち着かない、と感じるならば、それは心の深層にある、例えば交流分でいえば早期決断や禁止令、認知行動療法(Beckの認知モデル)でいえば非機能的な中核信念、スキーマ療法でいえば中核的感情欲求の不充足からもたらされる早期不適合スキーマなどとされるものであるのかもしれません。


このような場合でも、ヴィパッサナー瞑想を続けてください。


好き嫌い、嫌悪感、恐怖と怖じ気が克服されていれば、仏教で、「尋」と「伺」と言われた観察眼考察眼が現れてきます。


瞑想中に心に浮かんだこと、心に引っ掛かりを感じたことに、注意を集中して見てみよう(=観察考察してみよう)という意思を作ってください。


さらにそれを「観察」してください。


そうすると、ああそういうことか、あの時自分はこういう想いを感じ、自分を納得させるために、こう自分に言い聞かせた、それが今でも心の中にあるんだ、それが今のつらさやイライラになっているんだ、と、すぅーっと理解できます、これが「考察」です。


「あの時自分はこういう想いを感じ、自分を納得させるために、こう自分に言い聞かせた、それが今でも心の中にあるんだ」というものが、現代の心理療法で説明するならば、交流分析の早期決断や禁止令、認知行動療法でいえば非機能的な中核信念、スキーマ療法でいえば中核的感情欲求の不充足からもたらされる早期不適合スキーマなどに該当するでしょう。


ここまで観察考察できれば、悩み苦しみを無くす方法はおのずとあなたに開示されます。


このように苦悩の本質(瞑想中に心に浮かんだこと、心に引っ掛かりを感じたこと)を知り、苦悩の本質を知ることで原因にたどり着き、その原因を無くして苦悩を無くす、というプロセスが、釈迦の中核的な方法論である「四聖諦」であると考えています。


仏教の説明では、四聖諦を、苦しみが生まれるのは、生存への渇望があることに原因があり、生存への渇望を無くせば、苦しみはなくなる、生存への渇望を無くし、苦しみを無くす道を実践せよ、ということと説明することもあるようです。


仮に、四聖諦の実践が、苦しみが生まれるのは、生存への渇望があることに原因があり、生存への渇望を無くせば、苦しみはなくなる、生存への渇望を無くし、苦しみを無くす道を実践せよ、というものであったとしても、その方法論を学習し修習することによって、最終的には、一人一人が感じる悩み苦しみつらさを解消するための方法論へと行き着く、というものと理解しています。


例えば、非機能的な中核信念があることによって、外部からの刺激に触発されて媒介信念もしくは推論の誤りを通じて、非機能的な自動思考が生起して、気分の低下を招く、ということを、四聖諦の方法論によって観察、考察するならば、気分の低下という苦しみが発生したことを認識することから開始し、気分の低下という苦しみを観察してみた、すると気分の低下という苦しみをもたらした原因が、気分の低下に先行して自分が無意識のうちに生起させた非機能的な自動思考が「原因」であると知った、非機能的な自動思考を修正したら気分の低下が改善したので、非機能的な自動思考を修正することが気分の低下という苦しみを無くす方法であるということに気付いた、というプロセスになります。


この例は、これが四聖諦なのかと、私が体験した出来事が、後にベックの認知モデル(非機能的な自動思考の修正によって気分の低下が改善される)によっても説明できることを知った、という実例です。


非機能的な自動思考の生成を苦しみであるとみるならば、非機能的な自動思考という苦しみを生みだす原因が、自分が過去の生育暦において経験した「特定の出来事」から味わった苦悩や苦痛の感情と、その解釈のために自らが(苦悩や苦痛の感情の原因を解消する力のない子供であることを前提に)形成した非機能的な中核信念に原因があるという理解とともに、「特定の出来事」が想起され、それによって非機能的な自動思考の生成を抑えることに道を開く人間の認知機能、言い換えれば、悩み苦しみつらさを、包み隠さず正面から見つめることによって、この悩み苦しみつらさを無くしたいという「体と心のはたらき」が「四聖諦」である、ととらえてもいいと思います。


四聖諦は、釈迦が、「人の認知形成のしくみ」を観察して導きだした、きわめて汎用性の高い「心理的な苦痛の根源の探索方法」であると考えてよいでしょう。


ちなみに、小さな振れ幅、おだやかな振れ幅であっても、振れ幅ですから、心の振れ幅を無くすためには、喜びを手放し、安らぎを手放す必要があります。喜びを手放し、安らぎを手放すと、もうこれ以上手放すものがない状態、完全な平静である第四禅へ至るとされています。


私たちはそこまで行く必要はないと思っていますし、そこまで行くことが良いことと言える環境にも生きていないと思います。


楽しみたい喜びを得たいという欲望を持ち、恋愛したいという欲望を持ち、家庭を持ち労働し、より稼ぎたい豊かになりたいという欲望を持ち、消費したいという欲望を持ち、社会はその欲望を満たすことで成り立っているのですから、欲望を滅尽してしまえば、社会的には不都合が発生します。


高度なリラクセーション状態を実現するためには、今の自分の心の振れ幅を知る必要があります。


今の自分の心の振れ幅を知るためには、集中力と体と心の観察力を養うことが必要です。


ヴィパッサナー瞑想は、集中力と体と心の観察力を養います。


「呼吸の瞑想」は、呼吸を意識して行う訓練です。


呼吸を意識して行う訓練をして、呼吸を意識しながら活動できるようになると、心を落ち着ける(心の振れ幅を小さくする)呼吸ができるようになり、それに伴い脳のリソースに余裕が生まれますから、集中力、観察力が増します。


当然、婚活にも仕事にも私生活でもメリットが生まれます。


「呼吸の瞑想」の具体的な行い方の説明の前に、ヴィパッサナー瞑想の前提となる釈迦の認知論について、説明を行います。


ヴィパッサナー瞑想は、釈迦が到達した認知論に基づいて設計され、釈迦の到達した認知論を確認する(=証得する)ことで進展してゆく(=脳の機能が改変される)ように設計されていると考えています。


このような進め方は、Beckの認知療法(現在では認知行動療法)が、認知行動療法の考え方や進め方を、心理教育として実施して、認知行動療法の考え方や進め方を理解してもらってから、セラピーを開始する、という方法論と基本期には同じです。


※マインドフルネスと脳の機能の変化や脳の休息については、久賀谷亮先生の「世界のエリートがやっている最高の休息法」ダイヤモンド社をご参照ください。


只管打坐(ひたらすら座禅する)の影響が大きいマインドフルネスストレス低減法(MBSR)、MBSRのメソッドを活用したマインドフルネス認知療法とは異なり、ヴィパッサナー瞑想は、釈迦の到達した認知論を確認し、証得することを通じて、脳の認知機能に改変をもたらし、それにより苦悩からの解放をもたらすという実践方法ですので、釈迦の到達した認知論を学びながら実践するのが本筋です。


ヴィパッサナー瞑想は、テーラワーダ(釈迦在世時に成立した仏教教団のひとつの上座部)仏教の、悟りに至る(釈迦が至ったのと同じ境地、認知)ための修行法として実践されてきたものですが、私たちにも実践できますし、実践することで、釈迦が至った境地、状態に至ることはできないとしても、釈迦のが教示した、悩み苦しみやつらさを無くす効果を享受することは十分に可能です。


テーラワーダは、(テーラワーダ)仏教は、釈迦の説いた方法を実践すれば、釈迦が至ったのと同じ境地、認知に至ることでが出来る、これによって釈迦の教えを誰でも証明できるのだから、証明できないことを信じなさい、という「宗教」ではない、という主張をされることもあるようです。


このような主張が、マインドフルネスが心理療法と結びついたことで、神経科学によってマインドフルネスの脳に及ぼす効果の研究が加速し、マインドフルネスがブームともいえるような状況を呈していることにつながってもいるようです(エヴァン・トンプソン「仏教は科学なのか」Evolving刊)。


マインドフルネスの科学的研究については、前記 久賀谷亮先生の「世界のエリートがやっている最高の休息法」をご参照ください。


釈迦の到達した認知論とはどのようなものなのか、どのようにして釈迦が到達した認知論に私たちが到達できるのか、ということも阿含経に説かれています。


『釈迦の到達した認知論を確認し、証得することを通じて、脳の認知機能に改変をもたらし、それにより苦悩からの解放をもたらすという実践方法』の中間地点に「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ」という高度なリラクセーション状態があります。



阿含経の説明


「阿含経」の釈迦の説法を引用して説明しますので、引用する阿含経を記載しておきます。


大念処経    : 春秋社 原始仏典第二巻所収

治意経      : 春秋社 原始仏典第七巻所収

念身経      : 春秋社 原始仏典第七巻所収

六六経      : 春秋社 原始仏典第七巻所収

大六処経     : 春秋社 原始仏典第七巻所収

聖道経      : 春秋社 原始仏典第七巻所収

蛇喩経      : 春秋社 原始仏典第四巻所収

等誦経      : 春秋社 原始仏典第三巻所収

大般涅槃経    : 春秋社 原始仏典第二巻所収

火ヴァッチャ経  : 春秋社 原始仏典第四巻所収

三明ヴァッチャ経 : 春秋社 原始仏典第四巻所収

双考経      : 春秋社 原始仏典第四巻所収

マハーサッチャカ経: 春秋社 原始仏典第四巻所収

布咜波〇経    : 春秋社 原始仏典第四一巻所収(〇は木偏に婁)

念処経      : 春秋社 原始仏典第四巻所収


私は仏教徒ではありませんので、仏教の布教の意図はありません。


仏教徒ではありませんから、釈迦入滅後に発展した仏教の教学にこだわることなく、自己の瞑想経験と心理療法のモデルや方法論などを手掛かりにして阿含経を解釈することによって、仏教の修行法としてではなく、釈迦が到達した、悩み苦しみつらさを無くす方法を理解できると思っています。


大乗仏教の教学もしくは、釈迦入滅後に発展した部派仏教の教学で、大乗仏教が生まれる前、部派仏教の教学が発展する前の、釈迦の方法論を解釈したのでは、釈迦の方法論は読み解けないように思います。


ただし、釈迦が教えを説いた時代は、現在私たちが生きている時代とは異なりますから、釈迦の教示がなされる前提となる「釈迦が教えを説いた時代の特性」については注意を払わなくてはならないでしょう。


釈迦のおこなった教示は、後世におこなわれた仏教の教学化、仏教の「概念化」とは性質が異なるものであるように感じています。


釈迦は、瞑想による観察考察によってもたらされる経験的合理的な判断を超越した、作り出された概念である「見解」への捕らわれを回避するため、注意深く概念化をさけて平易に、具体的に、人の体と心のはたらきと認知形成のしくみを語ったのではないかと感じています。


ヴィパッサナー瞑想を実践している弟子たちに向けて、(あくまでも、悩み苦しみつらさを無くすのは弟子たちですから)瞑想を進展させ弟子たちが進みゆく方向について、釈迦の体験経験に基づいた教示を行ったものですから、釈迦入滅後の教学は釈迦の教示には含まれまず、阿含経に記載されていることから読み解くことが必要だと考えています。


阿含経は、出家僧が聞いた、釈迦の説法や釈迦と出家僧との対話などを、口承で保持されたのちに文字化されてたものであるため、「比丘よ」「修行僧は」「在家的な記憶と思考」などの表現があります。それらの表現はあまり気にしないでください。


阿含経は、出家僧がその伝持を担ってきたため、出家することや出家者を賞賛する傾向、在家者は出家者に劣後するともとられかねない、出家者至上主義ともとれるような傾向があるようです。ただし、釈迦は、全ての人が出家するわけにもゆきませんから、在家者を軽視していたということではないようです。


出家者の方々が釈迦の教えを守り伝えてきたことによって、出家者の方々が自らの立場を強固にするための仏教教学を構築してきたのであれば、仏教教学に拘束される必要はないと考えています。


自らの立場を強固にするための仏教教学を構築し、自らが解脱することに専念する出家者の在り様を、維摩経(ヴィマラキールティの教え、大乗仏典)は揶揄したのかもしれません。


しかしながら、阿含経が、釈迦が説いたことを完全に伝えてはいないとしても、また釈迦入滅後に発展した部派仏教の教学の影響を受けているとしても、釈迦の認知論、方法論は阿含経に依って学ぶしかありません。


釈迦は、「このようにして、学ぶことによって、ある心理作用が生じ、他のある心理作用が消滅するのです。これが学ぶことなのです。」と説いてます。(布咜波〇経 〇は木偏に婁)


上記、春秋社版は、お経ごとに訳者が異なり、訳者間で用語の統一を行っていません。それゆえ訳者によって、同じことがらでも訳語が異なります。担当した訳者がパーリ語原典の内容をどのように解釈しているのか、という観点から多角的に考えることができる、というメリットがあります。

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