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高度なリラクセーション状態の作り方(1)

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COME TO LIFE「高度なリラクセーション状態の作り方(1)」-1

1.ストレスを抱えている人は多い

お見合や交際のご報告を拝見すると、ストレスを抱えていらしゃったり、少し元気をなくしていらっしゃるようだ、と感じることが多々あります。

報告で拝見する会話の内容からもうかがえますし、お見合いやデート中の対応や対処などからも推測されます。



2.人はもともとストレスを作り出すようになっている


私は、人はもともとストレスを作り出すように育てられている、と思っています。


なぜならば、人は成長とともに快、不快の情緒を分化させ、分化させた快、不快の情緒を幼少期から刺激されて育つからです。


社会的に好ましいとされる行動は、快の感情を刺激することによって好ましい行動を取るように考え方や行動をしつけれられます。社会的に好ましくないとされる行動は、叱られたり懲罰を与えるなど不快な感情を刺激し、好ましくない行動をとらないように、考え方や行動をしつけれられます。


好ましくないとされる行動が、叱ったり懲罰を与えたりする側に怒りを生じさせ、その怒りを好ましくない行動をとった本人にぶつけることもあるでしょう。


当然叱られ懲罰を受けた側はその怒りを感知します。その怒りは恐怖を生むかもしれません。


これらの結果、人は、常に出来事に対して情緒(快・不快)を発生させ、その情緒(快・不快)を参照して(影響されて)考え、判断し行動するという性向を養うことになります。


このような性向が養われると、快を得ること(=脳の報酬系が働き報酬を得ること)は良いことという性向が支配的になり、人は快を得るために、脳の報酬系から報酬を得ようとして欲求=不充足を作り出し、その欲求=不充足を満たすことで脳から報酬(快感物質)を得ようとします。


欲求=不充足がその人の行動によって充足できるものであれば、問題はありませんが、なかなかうまくゆかないと、人は様々に考える(想像する)能力がありますから、いろいろなことを考えます。自分の欲求をめぐっていろいろと考えることは、感情を激しく刺激します。


結果として、人は、感情を酷使し心理的身体的に疲弊しやすい心の使い方をしている、と考えられます。


K.M.B.ブリッジェスさんの乳幼児の情緒の発達(情緒の分化)による理論によると、新生児には興奮しかなく、生後3か月位から快と不快の情緒が分化し、快と不快から私たちが感じる情緒に分化してゆくそうですから、感情への刺激は、情緒の分化を促すとともに、分化された情緒を利用して行う社会に適合するための訓練ともとらえられます。


新生児の情緒は興奮しかなく、生後3か月位から快と不快の情緒が分化し、空腹や満腹などの刺激から次第に親の顔などの人的刺激にも反応するようになるそうです。一般に、不快の感情の方が早く分化するするそうです。情緒はだいたい2歳ころまでに著しい分化を遂げ、恐れ、嫌悪、怒り、嫉妬、快、不快、喜びなど基本的な情緒が出そろい、さらに分化を重ねて、およそ5歳頃に成人に見られる情緒が一通り出そろうと言われているそうです(創元社 杉田峰康先生「新しい交流分析の実際」より)。


養育者や周囲の大人が好ましいと考える子どもの発言や行動には、褒めることや何か褒美をあげるなどして、子どもの発言や行動を是認し、子どもに快を感じさせることにより、養育者や周囲の大人が好ましいと考える子どもの発言や行動を促進させるでしょう。


逆に、養育者や周囲の大人が好ましくないと考える子どもの発言や行動には、叱ったり懲罰を与えたりすることによって、子どもに不快感や恐怖を感じさせることで、養育者や周囲の大人が好ましくないと考える子どもの発言や行動を制限しようとするでしょう。


快の刺激を与えて行動を促進し、不快な刺激を与えて行動を制止されるのですから、快を求めて行動し、不快を避けて行動するようになるのは当然といえるでしょう。


叱られたり懲罰を受けたときに、子どもは拒絶感や自分という存在が承認されていないという感覚を持つかもしれません。


親や教師はあなたの行動を好ましくないものとして叱り懲罰を与えたのかもしれませんが、子どもがどのように感じるかということは、親も教師もコントロールできませんから、拒絶感や自分という存在が承認されていないという感覚を持つことは十分にあり得ます。


もし、拒絶感や自分という存在が承認されていないという強烈な感覚を体験した場合には、その体験とその時にもった感情は記憶され、成人後も本人が意識しないままその感情は再現されその人を苦しめるでしょう。早期不適合スキーマです。


早期不適合スキーマがある場合には、「本人が意識しないままその感情は再現されその人を苦しめる」ことから逃れるために、何かべつのことを求め(欲求を作り出し)それに執着し、依存という状態を作り出すかもしれません。


依存とまではゆかずとも、なんとなく感じる不安や空しさから逃れるために、何かに没頭しようとする、ということは比較的多くの方が体験することかもしれません。


なんとなく感じる不安や空しさから逃れるために、何かに没頭しようとする行為は、没頭するという欲求とその充足によって、脳の報酬系からの報酬を得るための、人間の工夫であるかもしれません。


不快から逃れるために一生懸命快を作り出そうとして、快の獲得に失敗して不快になるのであれば、感情の奴隷とも例えられる状態と言ってもいいかもしれません。



3.人を支配する快・不快・どちらでもない情動


マインドフルネス認知療法原著第二版(北大路書房)には、このような記載があります。


「暗黙の情動の手がかりについての研究[85]によって私たちはほとんどの時間で、快適か、不快か、どちらでもないかに基づいて、入ってきた刺激に反応していることがわかっている。これは、そこを境にして心が物事を変えたいと思い始めたり、思考の流れに迷い込んだり、反すうの引き金となるポイントであり(中略)このような瞬間にマインドフルな気付きを活用すれば、などの余計な思考を付け加えずに、瞬間をあるがままにただ経験し、評価することができる。」

[85]Friedman RS,Foster J.Implicit affective cues and attentional tuning:An intergrative review.Psychological Bulletin2010;136:875-893


人の心に何気なく起こる「ずっと続けばいいと願う、あるいはなぜもっと頻繁に起こらないのか知りたい」と感じること(釈迦の認知論では「想」が生じること)について釈迦は次のように説いています。


「〈苦しみのすぐれた真理とはなにか。それは(中略)歓喜と愛欲をともない、ここかしこで歓楽するような愛執である。」


「心の対象への愛執はこの世の中における、好ましいもの、楽しいものである。そこから愛執が生じ、そこで〔愛執〕が留まっているのである。」

(大念処経 春秋社 原始仏典第二巻所収)


うつの「反すう」は「そこで〔愛執〕が留まっている」ことの典型と言えるように思います。


自分を苦しめる「反すう」であっても、自らが十分に把握できていない自分を脅かす不安から逃れるために、「反すう」が「心の対象への愛執」になってしまっているからこそ、「反すう」が止められないのでしょう。


そのように考えると、「自らが十分に把握できていない自分を脅かす不安」を生み出すものとしてのスキーマに注目し、スキーマへの働きかけを行うスキーマ療法が生まれて来たことも必然であるように思います。


六六経で、釈迦は愛執への対処の在り方を次のように説いてます。


「思考されるものを『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と)みなすことである。思考的認識を『これはわたしのものではない、〔これはわたしではない、これはわたしの自我ではない』と)みなすことである。」

(六六経 春秋社 原始仏典第七巻所収)


マインドフルネス認知療法では表現は異なりますが「思考は事実ではない」という心理的態度の習得を目指します。


また、六六経において、釈迦は、快適(楽)、不快(苦)、どちらでもない(不苦不楽)、という三種類の感受を説いて、それらに執着して行為することから苦悩の原因が蓄積すると説いています。


「感受には、楽の感受・苦の感受・苦でも楽でもない感受がある。楽の感受を受けているときに、人が、喜び、歓喜し、それに執着し続けるなら、かれのなかに執着する性向(貪随眠)が潜在する。また、苦の感受を受けているときに、人が、憂い、悲しみ、嘆き、胸をうって泣き、迷妄におちいるなら、かれのなかに怒りうらむ性向(瞋恚随眠)が潜在する。また、苦でも楽でもない感受を受けているときに、人が、その感受の生起と滅没、その感受の楽しさと危険性、その感受からの遠離、それらをあるがままに知ることがないなら、かれのなかに愚かさという性向(無明随眠)が潜在する。」(前記六六経)


釈迦が説く「苦でも楽でもない感受」をブリッジェスさんのいう「興奮」、Friedman RS,Foster J.さんが言う「どちらでもない」ととらえ、それを、我を忘れて何かに没頭し自分が何をしているか知らない状態(ヴィパッサナー瞑想により気付き滅されるべき状態)、と考えると「無明随眠」の理解が進みます。


マインドフルネス認知療法原著第二版の心のはたらきの記述と、六六経で釈迦が説くところの心のはたらきは、かなりの部分相似です。


そもそも「マインドフルネス」が、阿含経の中で釈迦が瞑想について説いた中の「sati」(注意の集中とそれによってもたらされる気付き)に当てた言葉なので、マインドフルネスの効果もしくはマインドフルネスによって到達するところが、釈迦の説いたところに類似するのは当然と言えば当然です。


人は快適なものを無意識のうちにもとめ、不快なものを嫌い回避したいという性向を刺激され(そのようにしつけられて)育てられているわけですから、快適だと自分感じ自分が求めていることを得られず、得られる見込みもないと考えて落ち込んだり、そのことを言葉(認知行動療法の非機能的な自動思考など)にしたり、不快で嫌いなものから避けられないと考えて、そのような考え方を否定できる材料が見つけ得ることができず、自ら環境を変える力がないと考え、嘆くならば、怒りや絶望感を強化して、そして時に終局感を味合うことになります。


そしてこれらの過程に対して、多くの場合人は無自覚です。無自覚ゆえに苦悩に対処できず、ますます無自覚に苦悩を増幅させてしまう、ということになります。


人は「無自覚ゆえに苦悩に対処できず、ますます無自覚に苦悩を増幅させてしまう」と考えるならば、2016年発行の世界精神保健調査(World Mental Health Survey;WMHS)において、日本の精神疾患の生涯有病率が20.3%と報告されていること(Epidemiol Psychiatr Sci 2016; 25: 217-229)は、もっともなことだと納得がゆきます。


釈迦の方法論は、簡略化していえば、注意の集中により観察力を高め、自己の体に生じた感覚、心の状態を観る集中力を観察力を養いつつ、自己の体に生じた感覚、心の状態を観察し、釈迦の説いた「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を自らの心を対象として実証し自覚し、心に生じる欲求と苦悩を知り、苦悩を無くすことを知り、苦悩を無くすことを実践する、というものです。


認知療法やスキーマ療法は、臨床研究から認知モデルやスキーマ概念によって生み出された認知モデルやスキーマという概念によって、人の心が苦悩を生み出すプロセスと原因を説明し、認知やスキーマの修正に取り組みます。


釈迦の方法論でもスキーマは対象とされているように思います。


大念処経に「五つの蓋についての事象の観察」という説法があります。


瞑想の進展を妨げ智慧の発現に「蓋」をするものがあり、それらを取り除けば瞑想が進み智慧が発現するという考えから、貪り、瞋恚(怒り)、掉挙悪作、惛沈睡眠、疑い、を「五つの蓋」「五蓋(ごがい)」と言います。


五蓋について詳しい説明はここでは致しませんが、例えば「瞋恚(怒り)」の観察について釈迦は次のように説いています。


「あるいは内に怒りがあるときに、『わたしの内には怒りがある』と知り、内に怒りがないときに、『わたしの内には怒りがない』と知るのである。また、いまだ生じていない怒りが生じるままにそれを知り、すでに生じている怒りが滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた怒りが未来に生じることがないと知るのである。」(大念処経 春秋社 原始仏典第二巻所収)


この方法論は、瞋恚(怒り)の発生を、「根底にあるスキーマ」 ⇒ 「外界からの刺激によってスキーマが活性化」 ⇒ 「スキーマが非機能的な自動思考を誘発」 ⇒ 「非機能的な自動思考から怒りが生じる」というプロセスを自覚することによって、スキーマを修正し、非機能的な自動思考を修正もしくは除去し、「すでに生じている怒りが滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた怒りが未来に生じることがないと知るのである。」という結果を招来すると説明せざるを得ません。


当然、釈迦の説いた瞋恚(怒り)の発生と瞋恚(怒り)を滅ぼすプロセス、方法は、「色受想行識」の五蘊や「止・観」のはたらきや「四正勤」という方法論によって説明できます。


釈迦の方法論も認知療法もスキーマ療法も、対象は苦悩する体と心の救済であり、釈迦は注意の集中と体と心の観察で苦悩の発生源にたどり着き、認知療法やスキーマ療法は臨床研究から認知モデルやスキーマ概念によって苦悩の発生を説明しますから、方法は違っても対象とするものは苦悩の発生と苦悩からの救済と言えますから、釈迦の方法論も認知療法もスキーマ療法も同じものとは言えないものの、行き着く先はは同じところを目指している、とはいってもよいでしょう。


人は快不快の情緒を刺激されて育てられ、それゆえ快を求めて欲求を生みだし、欲求が充足されなければ苦悩が生まれ、不快なものから逃れられないと考えればこれまた苦悩が生まれますから、そもそもストレス感じるように育てられている、と考えてよさそうです。


人は快不快の情緒を刺激されて育てられ、それゆえ快を求めて欲求を生みだし、欲求が充足できなければ苦悩が生まれ、不快なものから逃れられないと考えれればこれまた苦悩が生まれますから、そもそも人はストレスを感じる、苦悩するように育てられているのだと仮定すると、釈迦の説く悟りや解脱の意味するところがおぼろげながら理解できそうです。


それゆえ、一時的なリラクセーション体験では効果は限定的ということになり、人がストレスを感じる(生む)メカニズムを知りそれを抑制もしくは弱体化する「高度なリラクセーション」であれば、ストレス対処についての持続的な効果が認められるだろう、ということになります。


ヴィパッサナー瞑想は、『感情を酷使し心理的身体的に疲弊しやすい心の使い方をしている』在り方を改変する、と考えてもらってよいと思います。



4.高度なリラクセーション


ヴィパッサナー瞑想によって、


4-1 体の動きの観察(注意の集中)を行い、

4-2 釈迦の説いた法=「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を通して自分の体の感受の観察、自分の心の観察を行うと、

4-3 体に感受(楽、苦、不苦不楽の3つ)が生じてているとき、思考・概念である「想」(≒認知行動療法の自動思考)が生まれており、「想」が「行」≒意図・衝動・意欲が起こっていることが観察できるようになり、

4-4 「想」と「行」を、瞑想中において止滅することができると「軽安覚支」の状態に至ることができます。

4-5 軽安覚支は、『喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ』(春秋社 原始仏典第7巻 治意経」)と説明されている「高度なリラクセーション状」です。


仏典からの引用は、あくまでもストレス対処のための、瞑想による「高度なリラクセーション状態」の実現が目的ですので、仏教を推奨する意図、修行を推奨する意図はありませんのでご安心ください。


「高度なリラクセーション状態」と言っているのは、下記の通り注意集中により、体の状態をモニタリングし、モニタリングした状況を基にリラクゼーション状態を意図的に作出することができるからです。


4-6 集中力と注意力をともなった脳の覚醒状態のもとで実現される『喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ』状態であるから。


4-7 『喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ』状態になると、思考が生じること(想)によって感情が生起(行)し、感情の生起によって、体に微細な緊張が生じる(受)ことを覚知できるようになりますから、日常的生活で緊張状態を敏感に感じ取り、緊張状態を意識的に緩和することに道を開くことになります。


4-8 「軽安覚支」に至ると、 『身体が安らいで幸せな人の心は集中する。』(定覚支、同上治意経)という次のステージへ移行することができ、精神集中により「尋」と「伺」という、ヴィパッサナー瞑想特有の観察と考察があらわれます。


4-9 「尋」と「伺」があらわれると、色、受、想、行、識によって自分自身に生起する悩み苦しみのプロセス、原因と誘因を認知することができ、それへの対処方法が明らかになります。この状態に至ると、高度なリラクセーション状態のなかで、自らが自らの心を診断し、自らのもつ非機能的な中核信念や早期不適合スキーマなどが、心が平静になることを妨げている原因(欲求=欠乏感・飢餓感)であることが認識できます。


4-10 認識できたものは除去、修正することができます。除去・修正は瞑想の原理に基づきますが、別のステージになります。


4-11 ただし、上記のプロセスは、一時的な苦脳の深まりや、身体への負担の増加(体調の悪化等)を招くことがあります。癒しを感じ続けられるとか苦悩がどんどんなくなる、といったイメージは抱かない方が良いでしょう。苦悩を無くすには苦悩の生起のプロセス、苦悩の原因と誘因を知ってそれらを無くす必要があります。苦悩が深ければ深ければ深いほど、苦悩の生起のプロセス、苦悩の原因と誘因を知ることは、心にも体にも一時的な負担の増加をもたらします。


4-12 その観点からも「軽安覚支」が重要であるように思います。軽安覚支は、自らの苦悩の生起のプロセス、苦悩の原因と誘因を知ることによっても、喜びと安らぎによって「心が挫けない」状態と理解してください。


4-13 自らのもつ非機能的な中核信念や早期不適合スキーマが修正もしくは除去できれば、外的な刺激によって非機能的な中核信念や早期不適合スキーマが刺激され、自らを苦しめる思考と感情を生成することがなくなり、身体と心の喜びと安らぎが妨げられることもなくなります。


4-14 上記4-8および4-9の状態は、「高度なリラクセーション状態」から一歩進んだ「自己治癒」「セルフ・ヒーリング」のステージであると言えるでしょう。


ちなみに治意経は、出入息観、つまりマインドフルネスでも取り組む「呼吸の瞑想」の方法について説いたものです。



5.釈迦が説いたのは自己治癒の方法


「釈迦入滅後に発展した仏教の教学」から阿含経を読むのではなく、心理療法の方法論を念頭におきながら阿含経を読むならば、ヴィパッサナー瞑想は、「自己治癒」の方法論であると解釈できます。


認知行動療法やその発展形であるスキーマ療法等の方法論などを念頭に阿含経を読むと、ヴィパッサナー瞑想そのものが、これら心理療法が対象とする、生育過程もしくは過去の経験により形成された記憶や概念により反復継続的にもたらされる心理的な困難な状況を、高度なリラクセーション状態のなかで、瞑想による集中力と注意力をもって自らが把握し、心理的な困難をもたらす原因を除去(遠離というようです)することで癒してゆく方法論であるとの理解が成り立ちます。


釈迦が阿含経で説いた、一般的に「法」と呼称される内容は、釈迦が到達した、「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」であるように思われます。


ヴィパッサナー瞑想を「自己治癒の方法≒心理療法」ととらえると、釈迦が説いたとされる「法」は、心理療法に先立って行われる「心理教育」に該当します。


セラピスト(心理療法者)を「援助職」ということがあります。


セラピー(心理療法)に主体的に取り組むのはクライエントであり、セラピストは、あくまでもクライエントの援助者(心理教育の実施もその役割の一つ)にすぎない、そのようなセラピーの態勢が実現できなければセラピーの効果は期待できない、という考えから、セラピストを援助職と呼ぶようです。


阿含経の中で釈迦は以下のように説いています。


「自己を洲とし、自己を依処として、他人を依処とすることなく、法を洲とし、法を依処として、他を依処とすることなく住するがよい。」

(筑摩書房 増谷文雄先生 原始仏典第三巻「2病」)


私には、釈迦が説かれていることは、自らの意志と法を頼りに、自らが主体となって、自らの苦しみを取り除き自らの人生を歩みなさい、ということであるように感じます。


釈迦の生きた時代は、現在とは大きく異なる「神話的世界観」、言い換えれば、自らの意志によらず再生を含めた生死などが決まってゆく、という思考が支配的であったようです。


そのような時代にあって、「再生への欲望を断つならば、再び生まれ変わって苦しむことは無くなる」という、自らの意志によって再生への欲望を断つことにより「神話的世界観」に依存した思考・行為・生き方を打破し、自らの主体的選択により、来世ではなく今ある生をより良いものとして生きる方法を説いた、というのが釈迦の方法論であろうと考えています。


現代において釈迦の生きた時代と同様の「神話的世界観」を抱いている方は多くはないないのでしょうが、それでも「自分がなぜそのように考えるのか感じるのか」ということを突き詰めることもなく明確に自覚することもなく、日々考え、感じ、行為している、ということは釈迦の時代とあまり変わらないように思います。


そこに現代においてもヴィパッサナー瞑想に取り組む価値があるでしょうし、マインドフルネスが心理療法に取り入れられている理由があるように思います。


釈迦の方法論は、自分自身と、釈迦の説いた「法」=「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を拠りどころとして行う「自己救済=自己治癒」のための方法であると考えても、あながち的外れではないと思います。


「法」を「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を説明した心理教育ととらえれば、釈迦は、自らをよりどころとして、釈迦が説いた「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」=「心理教育」をよりどころとして、自己治癒に励みなさい、と言っていることになります。


釈迦の方法論は、大乗仏教とは異なり、救済者としての仏は説かれておらず、自分の苦しみは自分で癒す、という立場です。



6.『悟りに至る七つの支分』


ヴィパッサナー瞑想が、自己治癒の方法であるとの前提にたち、『悟りに至る七つの支分』を援用します。


ただし、悟りに至ることを推奨する意図はありません。


苦悩は、人の体と心を疲弊させます。体と心が疲弊した状態とは、いわゆるストレス状態です。


体と心を疲弊させないためには、苦悩の生じるメカニズムを理解して、苦悩を生じなくさせる、もしくは苦悩が生じても体と心が過剰に反応しない状態を作る必要があります。


マインドフルネス認知療法(MBCT)において目指す「思考は事実ではない」という心理的な態度の養成は、苦悩を生む思考が生じても、「思考は事実ではない」という心理的態度を養うことで、「体と心がネガティブな思考に反応しないようにする」ことによって、体と心を疲弊させないための取り組みであると考えています。


苦悩が生じるメカニズムを知るためには、仏教で「智慧」と言われる観察眼である(と思われる)「尋」と「伺」を発現させる必要があります。


人は好きなことは接近し手に入れたい(執着)、不快なこと(嫌いなこと)には怒りや恐怖を覚え回避したい(見たくない考えたくない)という性向があります。


それゆえ人の思考は、通常、好きなことには執着したい、不快なこと(嫌いなこと)には怒りや恐怖を覚え回避したいという感情に大きく影響されると考えられますが、「尋」と「伺」は、これらの感情に影響されない考察であり、それゆえ物事をありのままにとらえること、いわゆる如実知見が実現すると考えられます。


よりわかりやすい言い方をすると、好きなことに引きずられることなく、嫌なことを回避することなく、過去の恐怖体験におびえることなく、自らの心の在り方を観ることができれば、それは物事をありのままに観る、ということですよね、ということになろかと思います。


念身経というお経は、「身体にむけた注意」と日本語訳されていますが、「身体にむけた注意」を養成すると10の利益があると釈迦は説いており、その第一は、「好き嫌いを克服できるようになる」であり、第二の利益は「恐れと怖じ気を克服できるるようになる」です。


ちなみに、10の利益の第三番目に挙げられている、「身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえられるようになる」は、J.カバットジンさんが、慢性疼痛患者に対して、マインドフルネスストレス低減法(MBSR)により、現代において提供している利益です。


4番目になって「現世で気持ちよく過ごすことのできる、雑念を離れてすっきりした四つの禅定を、思うままに得、難なく得、苦労なく得られるようになる。」とされています。(春秋社 原始仏典第七巻 所収「念身経」より)


「四つの禅定」を悟りとするならば、悟りの状態に至る前に、好きなことには執着したい、不快なこと(嫌いなこと)には怒りや恐怖を覚え回避したいという性向を無くすることができて、あなたはより自由になることができます、さらに瞑想を重ねてゆけば4つの禅定に自由に出入りできるようにだってなりますよ、ということになります。


『悟りに至る七つの支分』に基づいてヴィパッサナー瞑想を実践することにより、悟りに至らずとも、自己治癒のためのツールである「尋」と「伺」を発現させることできると考えてよいと思います。



軽安覚支は、『悟りに至る七つの支分』、言い換えれば悟りに到達するために養うべき7つの要素(もしくは到達すべき段階)のうち、5番目の状態です。


目的は、「ストレス低減のための高度なリラクセーション状態の実現」であって、悟りを目指すわけではないので、七覚支のうち5-1から5-5を行って「高度なリラクセーション状態の実現」を目指します。


しかしながら、5-5『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)によって『喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ。』状態を作ることによって、『身体が安らいで幸せな人の心は集中する』こととなり、『身体が安らいで幸せな人の心は集中する』ことによって、5-6『精神集中という悟りの支分』(定覚支)に至るとされていますから、5-5『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)至った場合には、すでに養っている集中力が高まり、5-6『精神集中という悟りの支分』(定覚支)に至ることが可能になります。


経験からも軽安覚支にいたると、心の状態を観ること、集中力を意図的に高める事が可能になり、集中力を高めることによって「尋」と「伺」を起動させることが可能になるようです。


6-1 『注意力という悟りの支分』(念覚支)

6-2 『物事の解明という悟りの支分』(択法覚支)

6-3 『努力という悟りの支分』(精進覚支)

6-4 『喜びという悟りの支分』(喜覚支)

6-5 『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)

6-6 『精神集中という悟りの支分』(定覚支)

6-7 『平静という悟りの支分』(捨覚支)

(春秋社 原始仏典第7巻 治意経」より)



7.脳の報酬系の働きを抑制


「軽安覚支」は、人が喜びを感じる下記の『脳の報酬系の刺激』による報酬獲得とは異なる方法によって、『喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ』という状態(前記治意経)状態を実現すると考えています。


脳の報酬系の働きと五蘊(色受想行識)

7-1 「不充足の認知=欲求の発生」➡想

7-2 「不充足解消への意欲と行為」➡行

7-3 「不充足解消の認知」➡識

7-4 「満足=報酬系による報酬獲得」➡楽の感受の発生


「満足=脳の報酬系からの報酬獲得」は、釈迦が六六経で説く「楽の感受を受けているときに、人が、喜び歓喜しそれに執着し続けるなら、かれのなかに執着する性向(貪随眠)が潜在する。」傾向を強めるのではないかかと考えています。(六六経 春秋社 原始仏典第七巻所収)


この考察は、釈迦が「報酬系の刺激(欲求の発生と充足)による報酬獲得」という脳の機能を野放図に容認せずに、制限、抑制すれば、欲求の発生を抑制できて、求不得苦につながる欲求=「求めても、そもそも充足できない欲求を持ち続けて、欲求が充足されないことに苦しむこと」はなくなるよね、と認識していたからであるように思います。


ここにおいても釈迦の生きた時代の人々が、「神話的世界観」すなわち、自己に意志によってコントロールできない再生について、宗教的な儀式などを通じて「願う」という行為を通じて「欲求」を充足させていた可能性があること、現代とは少し事情が違うことは考えておいてもよいと思います。


その一方で、釈迦の説く「法」=「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」に大きな変化はないように思います。


「高度なリラクセーション状態」とは、『脳の報酬系の刺激』による報酬獲得とは異なる以下の方法、


7-5 観察と集中によって、瞑想中において、7-1 「不充足の認知=欲求の発生」と、7-2 「不充足解消への意欲と行為」を止滅することで、


7-6 体に生じる微細な緊張、心に生じる欠乏感・飢餓感を止滅し、脳の機能の発揮そのものによる「体と心の快」(喜びと安楽の状態)を実現する


と考えていただいてよいと思います。


「軽安覚支」に至る過程で、想と行を瞑想において止滅することにより『脳の報酬系の刺激』による報酬獲得を弱めることとなり、『脳の報酬系の刺激』を抑えることによって、釈迦が念身経で説いている、好き嫌いがなくなる、恐怖を克服できるようになる、という効果をもたらすようです。


6-5『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)に到達した段階では、好き嫌いがなくなる、恐怖を克服できるようになっており、その状態において集中力を高める6-6『精神集中という悟りの支分』(定覚支)の状態になることで、好き嫌い、恐怖や不安といった感情を離れた観察眼、考察である「尋」と「伺」が実現すると理解してよいと思います。

これが瞑想の第一段階(初禅)とされるようです。



8.「注意集中力」


方法論としては、マインドフルネスストレス低減法を創始した、J.カバットジンさんの説明が参考になります。


『「マインドフルネス瞑想法」とは "注意集中力" を高めるためのトレーニングを体系的に組み立てたものです。』

(マインドフルネスストレス低減法 北大路書房)


ただし、ヴィパッサナー瞑想の主要な機序(メカニズム)は、


8-1 釈迦の説いた「法」=(私の理解では)「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を学び、「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を参照して自分の体の感覚と心の状態を観察し続けることによって、「尋」と「伺」を潜在的に養ってゆき、


8-2 観察対象への注意集中により、感情そのものと感情の主体である「わたし」という意識を希薄化することによって、好悪の感情や恐怖を弱体化する。


注意集中力について解説すると、


注意:対象に意識を向けてよく観ること(観察すること)、よく観ることによって変化に気付くこと知ること


集中力:注意を持続する能力を高めること、より微細な変化に気付く能力、知る能力を養うこと


上記の注意と集中力が、マインドフルネス(mindfuiness)の意味する内容であり、パーリ語の原語である「sati」が示す内容と考えてよいと思います。


パーリ語は、アルボムッレ・スマナサーラ先生によれば「行為」を現す言語だそうですから、「sati」は、「注意する、集中するという行為」から、「注意する、集中するという行為」によってもたらされる「より微細な変化に気付く能力、知る能力を養うこと」という効果までを視野に入れた概念ととらえた方が瞑想を行う際には、より適合的であるように思います。


ちなみに日本では「sati」を、漢訳の「念」として受容し、「心を一点にとどめて決意することを「念」(sati.SKt.smrti)という。」としています(rの下には.が付きます。春秋社 原始仏典第二巻 大念処経の註より)。

それゆえ、5-1 『注意力という悟りの支分』(念覚支)は、注意力を育成するため、心を一点にとどめる行為を行うことととらえ「念覚支」と漢訳されたのでしょう。


前記大念所経で釈迦は、

8-3 「正しい念とは、いったいなにか」として、『身体』、『感受』、『こころ』、『もろもろの事象』を『観察し、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて貪欲や憂いを除去すべきである。』と説いています。これらの行為を「正しい念」としています。


8-4 初禅に至る道筋、初禅から第二禅に至る道筋、第二禅から第三禅に至る道筋、第三禅から第四禅にいたる道筋を説明し、「これが(中略)、正しい念と言われるのである。」と説いています。瞑想の境地を進める心の使い方を「正しい念」としています。


「もろもろの事象」とはすでにお話した通り、私の理解では「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」です。


「貪欲」とは「脳の報酬系を衝動的に刺激すること」=「私にはそれがない、それが欲しい=私にはそれが必要だ、それを手に入れよう➡それを手に入れることはわたしにはよいことだ(脳から報酬が与えられる)」という意欲が生じること、ととらえても差し支えないように思います。


「衝動的に刺激すること」と説明したのは、釈迦の認知論「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」、では、人の心に生起する感受や欲求はやがて滅没するものだと説明されていることから、没滅することに気付かずに生起した感受によって行為し「「脳の報酬系を衝動的に刺激すること」によって、執着する性向(貪随眠)や、手に入らないという認知から怒りうらむ性向(瞋恚随眠)、性急な判断を行うことから愚かさという性向(無明随眠)が潜在することになる(春秋社 原始仏典第七巻 六六経)、と解釈できるからです。


それゆえ「正しい念」すなわち、「『身体』、『感受』、『こころ』、『もろもろの事象』(=人の体と心のはたらきと認知のしくみ)を『観察し、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけ」ることによって、『脳の報酬系』を衝動的に刺激することを抑制できる、と私は理解しています。


8-3の「正しい念」は、四念処を行うこと、つまりヴィパッサナー瞑想によって「『身体』、『感受』、『こころ』、『もろもろの事象』(=人の体と心のはたらきと認知のしくみ)を、『観察し、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて貪欲や憂いを除去」すること、ということになります。


8-4の「正しい念」は、四念処を実践することにより、「より高度な変化に気付く能力、知る能力を養うこと」によって、より高度な瞑想状態に至り、苦しみの生起とその原因と誘因を知り、原因と誘因をなくすことで快と不快を無くし、「尋」と「伺」を無くし(観察・考察するという意図が生じているから)、苦しみを滅し、喜びを捨て、安楽を捨てて第四禅に至る、ということを指し示していると思われます。


ヴィパッサナー瞑想の指導者の方は、「sati」を「気付くこと」「知ること」という意味で使われることがあるようです。


「sati」という言葉は、以下の訳文の原典にはないようですが、以下の訳文の「知る」は、「よく見ることによって変化に気付くこと知ること」なのではないかと思います。


8-5 「あるいは内に怒りがあるときに『私の内には怒りがある』と知り、内に怒りがないときに、『わたしの内には怒りがない』と知るのである。」


8-6 「また、いまだ生じていない怒りが生じるままにそれを知り、すでに生じている怒りが滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた怒りが未来に生じることがないということを知るのである。」(前記大念処経より)


ヴィパッサナー瞑想の経験のない方には、何を言っているのかわからないと思いますが、釈迦の説いたところを解説するのはとても気が引けるのですが、あえて解説すれば、


8-5について、

高まった集中力で心に注意(≒観察)をむけることができるならば、あなたは自分の心に怒りがあるときには怒りがあることに「気付くこと」「知ること」ができ、怒りがないときには怒りがないことに「気付くこと」「知ること」ができるだろう。


8-6について、

高まった集中力で心に注意(≒観察)をむけることができるならば、心に生じていない怒りが生じる原因と誘因に「気付くこと」「知ること」ができ、あなたが、怒りが生じる原因と誘因に「気付くこと」「知ること」ができれば、すでに生じている怒りを滅ぼすことができることに「気付くこと」「知ること」ができ、すでに滅ぼされた怒りが未来に生じることがないということに、あなたは「気付くこと」「知ること」ができるだろう。


ということになります。


このプロセスが、釈迦の方法論の中核ともいえる「四聖諦」であると思います。


また、ベックの認知モデルおよびスキーマに関する理解があることが前提とはなりますが、このプロセスは、自分に早期不適合スキーマや非機能的な中核信念があるのであればそれらがあることを、それらが活性化したとき(心理機的危機時)には、非機能的な自動思考を誘発し、気分の低下を招き、怒りなどの苦悩を生起させるということを観察する(気付くこと知ること)が可能になります。


ヴィパッサナー瞑想は、心理機的危機をも観ますから、釈迦が念身経で説いた第二の利益「恐れと怖じ気を克服できるるようになる」という状態となっていることが必須であると考えられます。心理的危機を観ても恐れも怖じ気も生じないならば、それは心理的危機にはなりません。


第一の利益「好き嫌いを克服できるようになる」、第二の利益「恐れと怖じ気を克服できるるようになる」が実現されているからこそ、心理的危機を、恐怖感なく見ることが可能になるのでしょう。ここに「尋」と「伺」を作出することの大きな意味があります。


方法論としての「四聖諦」や「気付くこと」「知ること」「尋」と「伺」の作出に至るためには、体と心(の状態)を注意深く見守ることのできる注意集中力を養う、6-1 『注意力という悟りの支分』(念覚支)からスタートします、ということになります。



9.(参考)七覚支の育成もしくは進展


ヴィパッサナー瞑想は、観察瞑想とも言われるように、下記のような段階を踏んでゆくことが予定されています。


予定されている、というのは、大念処経などを学びヴィパッサナー瞑想を行うと、(順番は前後しても)誰でもこのような段階を昇ってゆくようであると考えられるからです。自分の努力がすべての出発点ですが、努力を継続していると「法に証される」=「釈迦の説くことが理解できるようになる」ということが実現するようです。


例えば、私は「喜び」を感じにくい性格であるようで、慈悲の瞑想の原型である四無量心の「慈の瞑想」はできましたが、「喜の瞑想」はうまくできませんでした。


ですから「喜覚支」も希薄であったようですが、「軽安覚支」に達して初めて「喜覚支」とはこういうもであるようだ、とうっすらと感じることができました。


テーラワーダでは、新たに出家した修行僧を、どのような瞑想によって解脱に導くのか、ということを師匠が考え、新たに出家した修行僧に最も効果的だろうと考えられる瞑想法を示して指導するのだそうです。


その時に、新たに出家した修行僧を、3つの大分類による性格と、さらにそれぞれを3つの小分類による性格に分けて考え、最も効果的だろうと考えられる瞑想法を与えるのだそうです。


3つの大分類の性格のひとつの瞋性(しんしょう)という性格は、慈悲喜捨と言われる四無量心の瞑想では、喜の瞑想は不適とされているそうです。


瞋性は、簡単に言うと、他者との共通点をあまり重視せず、自分独自の考え方を重視する(価値あることとみなす)性格とされているそうです。


七覚支の育成もしくは進展の段階


9-1 観察(≒注意)によって集中力を高め、5-1『注意力という悟りの支分』(念覚支)を養成することから開始し、


9-2 観察によって、5-2『物事の解明という悟りの支分』(択法覚支)を養成し、


9-3 「法」による物事の解明=「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」によって自分の体と心に起こっていることを知って理解し、6-3『努力という悟りの支分』(精進覚支)(=自分の体と心のはたらきを解明してゆくという努力)を養成し、


9-4 努力することによって、5-4『喜びという悟りの支分』(喜覚支)に到達し、


9-5 6-5『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)を実現します。


9-6 『身体が安らいでいる人の心は集中する』という5-6『精神集中という悟りの支分』(定覚支)に至り集中力により観察し、


9-7 この辺りから「大まかな思考や細かい思考が残っている、遠離から生じる喜びと安楽からなる第一の禅定に達する。」ようです。


9-8 さらに大まかな思考細かい思考(尋と伺)を停止し、喜び、安楽、苦しみを除きさって『平静という悟りの支分』(捨覚支)に至る。


(春秋社 原始仏典第七巻 治意経 念身経より)


瞑想を織物に例えると、七覚支を縦糸として、身体、感受、心、法(=人の体と心のはたらきと認知のしくみ)を瞑想(考察)対象とする四念処が横糸として組み合わせられます。


6-2『物事の解明という悟りの支分』(択法覚支)においては、五蘊、五蓋などの、釈迦が説いた「法」つまり「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を学び、自己の「体と心のはたらきと認知のしくみ」を解明することを内容とする、6-3『努力という悟りの支分』(精進覚支)を養成してゆくことになります。


自己の「体と心のはたらきと認知のしくみ」を理解してゆく過程を通じて、自己に生起する具体的な悩み苦しみについて「気付くこと」「知ること」になります。


注意集中力を起点として、以下のようなメカニズムで「尋」と「伺」を育成すると考えられます。


9-9 「体と心のはたらきと認知のしくみ」に即して「自己の体と心のはたらきと認知のしくみ」について理解してゆくことで、体と心への注意力(観察力)を養う


9-10 瞑想対象に意識を向け続けることで、瞑想において好き嫌いや恐怖を生起させる「想」と「行」を心から排除する訓練を行うことで、好き嫌いや恐怖に影響されない「尋」と「伺」を潜在的に育成する


言い換え得れば、好き=執着する、嫌い恐怖=回避する、という性向があったのでは、物事をありのままに考察する「尋」と「伺」は発現しない、ということのようです。



10.具体的な進め方


10-1 座ってする「呼吸の瞑想」

治意経に説かれた出入息観による座ってする「呼吸の瞑想」をメインに行います。

「呼吸の瞑想」は、呼吸に伴う体の動きを観察し、体が感じる感受を観察し、心の状態を観察し、法の観想=釈迦のといた「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を通して、自分の体と心を観察することです。これにより「自分の体と心のはたらき」「自分の認知のしくみ」を理解します。


10-2 「呼吸のエクササイズ」

「呼吸の瞑想」を効果的におこなうためには、体と心がリラックスした状態で、ある程度深く長い呼吸ができるようになる必要があるので、呼吸を深く、スムーズに行うための「呼吸のエクササイズ」を行います。


ヴィパッサナー瞑想の「呼吸の瞑想」では、呼吸に注意を集中させながら体の動きに「ちじみ、ちじみ」「ふくらみ、ふくらみ」と言葉をあてて確認してゆくという方法(ラベリング)があります。


「ちぢみ、ちぢみ」「ふくらみ、ふくらみ」は、腹の動きについての言葉での確認ではなく、呼気つまり肺から空気が排出されることにより体がかすかに縮むこと、吸気により肺に空気が取り込まれることにより体がかすかに膨らむことを確認するラベリングです。


深く長い呼吸ができるようになると、呼吸によって体がかすかに縮むこと、かすかに膨らむことを容易に認識できるようになります。


体がかすかに縮むこと、かすかに膨らむことが実感できる「感受性」=「観察力」=「注意力」を養うことができると、体の感受の観察は容易になり、体の感受の観察が容易になると、自然と心の状態の観察ができるようになります。


経験から言うと、心の状態の観察ができるようになって、「軽安覚支」を経て「定覚支」にいたり集中力を一段高めることができるようになると、意図せず「尋」と「伺」が発現するようです。


10-3 並行して念身経による「歩行の瞑想」を行います。

「歩行の瞑想」は、6-1『注意力という悟りの支分』(念覚支)の養成には大きく役立ちますし、6-5『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)を養成するためにも役立ちます。


日常生活での、例えば昼休みのウォーキングとして行ことなどが考えられます。通勤時は時間の制約がありますからゆっくりと歩くには不ですし、カバン等を持っていますので、体の微細な感覚を感じ取るには適さないかもしれません。


また、腰の筋肉を意識して階段を上ることにも効果があります。


座ってする「呼吸の瞑想」は、安定した姿勢を一定時間取り続ける観点から、腰の筋肉の強化が必要となりますので、腰の筋肉を意識して階段を上ることには効果があります。


また、腹式呼吸は、腹筋を使い下腹部をへこませる時に、腰および尻の筋肉が腰側から押し返すことによって内臓を圧迫し、肺から空気を輩出する呼吸法ですので、腰の筋肉を意識した階段上りは、この観点からも有効です。


10-4 釈迦の認知論の学習

「呼吸の瞑想」と「歩行の瞑想」によって、自分の体と心のはたらきを的確につかむために、釈迦の認知論=「体と心のはたらきと認知のしくみ」を学び、2つの瞑想の中で考察します。


10-5 集中力を養う「慈悲の瞑想」

集中力を養う訓練として、「呼吸の瞑想」時に、「慈悲の瞑想」行います。「慈悲の瞑想」は、瞑想文を唱える瞑想であり、瞑想文に注意を集中するために、ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)の冒頭に行うことが推奨されています。瞑想文に集中するということは、「瞑想文を唱える以外の、欲求や意図、衝動に基づく思考を排除する」ということです。日本における「sati」の受容である「念」「心を一点にとどめて決意すること」と言えます。


10-6 報酬系の抑制

「呼吸の瞑想」「歩行の瞑想」「慈悲の瞑想」を通して、瞑想中に起こった衝動や意図、欲求をいったんくみ取り(生起したことを知る)、その上で衝動や意図、欲求を放念します。


これによって「欠乏感の認識➡欲求充足の衝動意図欲求➡行為➡欲求充足=報酬の獲得」という脳への報酬系の働きを抑える効果がもたらされ、結果として、念身経に説かれる「身体にむけた注意」を確立した時の10の利益の第一番目と第二番目の、好き嫌いを克服できる、恐怖と怖じ気を克服できる、という効果がもたらされると考えられます。


『瞑想中に起こった衝動や意図、欲求をいったんくみ取り、その上で衝動や意図、欲求を放念します』という瞑想で行うことの内容は、すでに引用したマインドフルネス認知療法原著第二版(北大路書房)の下記の記述のうちの太字部分と同内容と考えてよいと思います。


「暗黙の情動の手がかりについての研究[85]によって私たちはほとんどの時間で、快適か、不快か、どちらでもないかに基づいて、入ってきた刺激に反応していることがわかっている。これは、そこを境にして心が物事を変えたいと思い始めたり、思考の流れに迷い込んだり、反すうの引き金となるポイントであり(中略)このような瞬間にマインドフルな気付きを活用すれば、ずっと続けばいいと願う、あるいはなぜもっと頻繁に起こらないのか知りたいなどの余計な思考を付け加えずに、瞬間をあるがままにただ経験し、評価することができる。


好き嫌いや恐怖心が無くなれば、物事の見方、考察の仕方、判断から,好き嫌いや恐怖などの感情の影響が排除されます。




11.留意事項

仏教もしくは宗教勧誘の意図はありません。

また、私は仏教徒でもありません。

仏教徒でもありませんから、ここでお話することは仏教ではありません。


阿含経を引用するのは下記の理由からです。


ヴィパッサナー瞑想は、釈迦が悟りに至った瞑想とされ、釈迦の説法などを伝える「阿含経」に、その方法論と瞑想の進展状況などが説かれています。

また、釈迦が到達した「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」が説かれています。


「人の体と心のはたらきと認知のしくみ」を学びながら、ヴィパッサナー瞑想で、自らの体、感覚、心を観察してゆくことで、自らに苦悩、苦痛が発生する過程、原因を知ることができ、苦悩苦痛の発生原因を無くしてゆけば、苦悩苦痛はなくせる、さらに喜びや安楽も手放せば、絶対的な平静世界である悟り、解脱に至る、とされています。


つまり、悟り解脱に至らずとも、その手前で苦悩、苦痛はなくすことはでき、さらにその先に行けば悟りにいたる、という構成になっています。


それゆえ、マインドフルネスという、ヴィパッサナー瞑想に起源をもつ瞑想法が、苦痛苦悩を除去する方法として、MBSR(マインドフルネスストレス低減法)やMBCT(マインドフルネス認知療法)に取り入れられ、さらにそれらを超えて心理療法に取り入れられているのだと思っています。


しかし、仏教徒ではなく、釈迦入滅後に発展した仏教の教学に影響されることのない私には、阿含経に説かれるヴィパッサナー瞑想は、それ単体で心理療法たりえるものであると考えています。


阿含経は、前記七覚支ほか、一般に「法」と呼称される内容により、こうするとこうなる、こういうことを知るだろう(sati)というプロセスが明示されていることなどから、ヴィパッサナー瞑想に取り組みながら学んでゆくと理解がどんどん進み、阿含経で釈迦が説いていることは、自分のこういう変化を言っているだなと理解できるようになります。


またその様になって行くことを確認することで、瞑想の進捗状態を自ら知ることもできます。


マインドフルネスついて、私は、その主な担い手である欧米の方々が、「禅仏教を一種の合理的神秘主義として」提示した鈴木大拙さん(エヴァン・トンプソンさん「仏教は科学なのか」Evolving)の影響を色濃く受けているのではないかとの印象を持っています。


加えて、カバットジンさんが、「参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちいず、ただし打座して身心脱落することをおえよ」(正法眼蔵 弁道話)という、道元禅師の只管打座の禅に私淑し、そこから注意集中力の養成というエッセンスを抜き出して、ヴィパッサナー瞑想由来の訳語である「マインドフルネス」という名称を冠した瞑想法を構成したことにより、マインドフルネスが阿含経由来の「sati」の訳語であるにもかかわらず、阿含経に説かれるような「法」=「体と心のはたらきと認知のしくみ」についての方法論を欠いたものになった、言い換えれば「仏教色」がないものであったがゆえに欧米でマインドフルネスが広く受容されるようになったのかもしれません。


別の言い方をすると、マインドフルネスは、阿含経を読みヴィパッサナー瞑想をしてきたものからすると、釈迦が説いた瞑想の機序(メカニズム、成果が出る過程)を明示していない、少し説明不足な印象がある、ということになります。


釈迦の下記の説法に触れると、釈迦の説いた方法論を援用しないことはとても、もったいないことのように感じます。


『アーナンダよ、比丘僧伽がわたしに何を期待するのであろうか。アーナンダよ、わたしは、内外の区別なく法を説いた。アーナンダよ、如来の教法には教師の握拳はない。」(筑摩書房 増谷文雄先生 阿含経典第三巻)


釈迦が得たもので隠していて教えていないものは何一つない、ということです。


阿含経が、釈迦の完全な言行録ではないのかもしれませんが、釈迦が得たものを知るには、阿含経に頼るしかありません。


大乗仏教では「妙法蓮華経」「新解品」の「窮子喩(ぐうじゆ)」に、釈迦一代の説法を「五時」に分ける考え方があり、それに基づく天台大師の五時の教判が影響力を持ったことなどから、阿含経は長らく顧みられることがなかったようです。(前記増谷先生 阿含経典第一巻)


春秋社版の阿含経は、「sati」にマインドフルネスという言葉をあてたリス・ディヴィッズさんたちが、1882年イギリスに設立した「パーリ聖典協会」が出版しているパーリ語阿含経の日本語訳です。


日本では、春秋社および大蔵出版から現代語訳が出版されています。

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