土曜の夜に読む物語 彼が淹れてくれたコーヒーの美味しさ
土曜の夜に読む物語
彼が淹れてくれたコーヒーの美味しさ
夜になると、彼がコーヒーを淹れてくれる。
「コーヒー飲む?」
そう聞かれて、私がうなずくと、彼はキッチンへ向かう。
淹れてくれるのは、猿田彦珈琲のデカフェ。
夜でも一緒にコーヒーを楽しめるようにと、用意してくれているものだ。
ソファで待っていると、お湯を沸かす音がする。
やがて、コーヒーの香りがこちらまで届いてくる。
私はその時間が好きだ。
何かを話しているわけでもない。
彼はキッチンにいて、私はソファにいる。
それぞれ別のことをしながら、もう少ししたら一緒にコーヒーを飲む。
ただそれだけで、一日がゆっくり終わっていく気がする。
「はい、どうぞ」
差し出されたカップを受け取り、両手で包む。
ひと口飲むと、ほっとする。
「美味しい」
私が言うと、彼は少しうれしそうにする。
自分でも、同じコーヒーを淹れることはある。
それなのに、彼が淹れてくれたほうが美味しい気がする。
お湯の温度なのか。
濃さなのか。
何か、私の知らない淹れ方があるのか。
聞いてみても、彼は「普通に淹れてるだけだよ」と笑う。
たぶん、本当にそうなのだと思う。
でも、私がソファでくつろいでいる間に、彼がお湯を沸かして、カップを出して、私の分まで淹れてくれる。
その様子を知っているから、美味しく感じるのかもしれない。
二人分のコーヒーがそろうと、アマプラを開く。
「今日は何見る?」
映画にするか、ドラマの続きにするか。
気になっていた作品を探しながら、予告を見たり、あらすじを読んだりする。
「これ、面白そう」
「でも、今からだと終わるの遅いね」
「途中まででもいいんじゃない?」
そんなやり取りをしているうちに、十分くらい経っている。
何を見るか決めるだけなのに、なかなか決まらない。
それでも、不思議と退屈ではない。
彼が選んだ作品に私が首をかしげたり、私が見たいと言った作品を彼がすでに見ていたり。
ようやく二人の意見が合うと、少しだけ達成感がある。
そして、やっと見始めたというのに、私は途中から眠くなる。
最初は、ちゃんと見ているつもりだ。
登場人物の会話も聞いているし、話の続きも気になっている。
それなのに、だんだんまぶたが重くなる。
少しだけ目を閉じようと思う。
次に目を開けたときには、知らない場面が流れている。
さっきまで笑っていた人が泣いていたり、見覚えのない人物が大事な話をしていたりする。
そして、私の肩には毛布がかかっている。
「私、寝てた?」
彼はこちらを見て、笑う。
「うん。結構、寝てたよ」
「起こしてくれればよかったのに」
「気持ちよさそうだったから」
そう言って、また画面に目を戻す。
毛布をかけてくれたことは、何も言わない。
私が眠っている間に、立ち上がって、持ってきてくれたのだろう。
「ありがとう」
寝ぼけた声で伝えると、
「寒くない?」
と聞いてくれる。
私は「大丈夫」と答えて、毛布を引き寄せる。
コーヒーは、もう冷めている。
でも、少しだけ残っていたそれを飲むと、やっぱり美味しいと思う。
以前、結婚相手に求めるものを考えたことがある。
仕事や収入。
見た目や年齢。
趣味が合うかどうか。
自分のことを大切にしてくれるかどうか。
これからの人生を一緒に過ごすのだから、考えることはたくさんある。
気持ちだけで決められないことも、もちろんある。
ただ、その頃の私は、「大切にしてくれる人」との暮らしを、具体的には思い描けていなかった。
どんな言葉をかけてくれるのか。
疲れた日に、どんなふうに接してくれるのか。
二人で家にいるとき、自分はどんな顔をしているのか。
夜に飲むコーヒーがデカフェであること。
映画の途中で眠ってしまった私に、毛布をかけてくれること。
そんな小さな場面までは、想像できなかった。
一緒に過ごすようになって、初めてわかったことがある。
私は、毎回楽しい話をしなくてもよかった。
疲れた日は、疲れたと言ってよかった。
彼の隣で黙ってコーヒーを飲んでいるだけでも、時間は穏やかに流れていった。
お互いに画面を見ていて、しばらく会話がなくても気にならない。
面白い場面で同じように笑うと、つい隣を見てしまう。
そんな自分でいられることが、うれしかった。
もちろん、いつも何もかもうまくいくわけではない。
見たいものが合わない日もある。
話しかけたのに、彼が画面に夢中で返事をしないこともある。
私が疲れていて、そっけない言い方をしてしまう日もある。
一緒に過ごす時間が増えれば、気になることだって出てくる。
それでも、コーヒーを淹れてくれたら「ありがとう」と言いたい。
彼が疲れていたら、今日は私が淹れようと思う。
毛布をかけてもらってうれしかったことを、当たり前にしてしまわずに覚えていたい。
婚活をしていると、相手の気持ちがわからなくなることがある。
返信の速さが気になったり、デートの誘い方に迷ったり。
優しくしてくれるけれど、自分のことをどう思っているのかと考えたりする。
まだ一緒に過ごした時間が短いのだから、わからないことがあるのは自然なのだと思う。
そんなときは、会っていた間の自分の気持ちも、少し思い出してみてほしい。
無理をして、笑い続けていなかっただろうか。
疲れていることを、素直に話せただろうか。
自分の話を、最後まで聞いてもらえただろうか。
そして、相手がしてくれたことで、帰ってからも思い出したことはあっただろうか。
歩く速さを合わせてくれたこと。
前に話したことを覚えていてくれたこと。
帰り際に「気をつけてね」と声をかけてくれたこと。
それだけですぐに結婚を決められるわけではない。
でも、もう一度会ってみようと思える理由にはなる。
私にとって、彼が淹れてくれるコーヒーも、そういうものだった。
一緒に飲むたびに、彼と過ごす時間が好きになった。
特別な予定がなくても、また会いたいと思うようになった。
今では、猿田彦珈琲のデカフェを見ると、あの夜のソファを思い浮かべる。
二人でなかなか決められない、アマプラの画面。
温かいカップ。
目が覚めたとき、肩にかかっている毛布。
結婚してどんな毎日を送りたいかと聞かれたら、私はこんな夜のことを話すと思う。
一日を終えて、二人でコーヒーを飲む。
面白かったことや、少し疲れたことを話す。
そのあと映画を見て、私は途中で眠ってしまう。
そんな夜を、これからも一緒に過ごしたい。
今夜も彼が「コーヒー飲む?」と聞いてくれたら、きっと私は「うん」と答える。
そして、カップを受け取ったら、ちゃんと伝えようと思う。
「ありがとう。あなたが淹れてくれるコーヒー、好きなんだよね」
彼はまた、「普通に淹れてるだけだよ」と笑うかもしれない。
その顔を見ながら、私はひと口飲む。
やっぱり、美味しい。