婚活をたてなおす(3-1)マインドフルネス歩行瞑想
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始めるなら歩行瞑想から
マインドフルネスを始めるなら、歩行瞑想からが良いでしょう。
多くの方は毎日歩いていますから、それを利用して瞑想するのが良いと思います。
そして、歩行の瞑想をしっかりやって、歩行に集中できるようになる(集中力を養う)と、座ってする呼吸の瞑想を行う際の、呼吸への集中が容易になります。
歩行がなぜ瞑想になるの?
歩行瞑想は、マインドフルネスの源流となった、ヴィパッサナー瞑想=観察瞑想の、初歩であり、基礎となる瞑想です。
ヴィパッサナー瞑想は、大まかに下記の手続き、段階を踏みます。
①観察と気づきの段階
②観察に基づいた気づきを自覚に高める段階
③自覚に基づいて、自分の意志として行為を選び取り実践する段階
歩行の瞑想は、『①観察と気づきの段階』の初歩であり、基礎となります。
何で悟りを開いた瞑想をおこなうの?
マインドフルネスの源流の一つとされるヴィパッサナー瞑想は、釈迦が悟りを得た瞑想と言われています。
悟りを推奨しているわけでも、仏教の布教をしているわけでもないのでご安心ください。
釈迦の悟りは、阿含経で勉強してみると、宗教的な色彩はあまりなく、以下のようなものであったように考えられます。
①当時支配的であった「生まれ変わりがある」という考え方を前提として、「良い生まれ変わりへの渇望」が未知の将来への不安をもたらしているのであれば、「生まれ変わりへの渇望」それ自体を断つことによって、苦悩がなくなり、今生きている「生」の充実がもたらされる。
②人の心のはたらき、認知のしくみを知って、現在発生している苦しみを克服した。
③上記を経て、最終的に安楽(な状態)も喜び(喜びも心の平静を乱す)もない、心の平静状態に至った。
①については、釈迦在世時の人々の精神世界に配慮した便法だと思っていますし、現代人にはあまり必要がないように思っています。
①についての説明
「生まれ変わりがある」ということを多くの人が信じていて、生まれ変わりのための祭祀を行う神官が有力な社会階層に位置付けられれているのであれば、「生まれ変わりはない」と説くのは、釈迦にとって教えを説くためには得策ではありませんし、迫害の危険すらあります。
そうであるならば、「生まれ変わりがある」けれども、修行によって「生まれ変わりへの渇望」それ自体を断つこととができれば、生まれ変わりに心を悩まされることなく、この世での今ある「生」を精一杯生きることにつながるではないか、「生まれ変わりへの渇望」を断つことが、今生きている自分の苦しみから脱却する方法(迷妄を脱する方法)だ、と説くことになるでしょう。
「生まれ変わりがある」と考えるか、「生まれ変わりはない」と考えるかは、現代においても個人の自由ですが、概ね「生まれ変わりがある」ことを前提にはされていない方が多いようですので、現代においては、「生まれ変わりへの渇望を断つこと」は、このブログでの、マインドフルネスの目的からは外して良いでしょう。
また、現在の自分の生は父母がいたから自分がいるのですから、生まれ変わりを、「遺伝子を媒介とした再生の連鎖」ととらえれば、生まれ変わりはあることになります。
釈迦は、悟りに達すると、宿命通といわれる、前世での生活を思い出す能力が生まれる説いていますが、将来を見通せる能力は説いていないようです。
人が生まれることを、「遺伝子を媒介とした再生の連鎖」ととらえれば、祖先の遺伝子を受け継いだ自分には、祖先の遺伝子による記憶があると考えることもできます。
しかし、その反面、自分の遺伝子を受けて継いだ子供は、自分が受け継いだ遺伝子による記憶の範囲外であること、将来とは現時点においては実現していない、または生じてはいないことですから、遺伝子に記憶されている過去はわかっても、将来はわからない、ということだと考えると、宿命通については、なんだか妙に納得がゆきます。
第四禅にまで至れば、遺伝子レベルでの記憶もわかるのかもしれません。第四禅に到達した人しかわからないことです。
「遺伝子を媒介とした再生の連鎖」を前提として、「生まれ変わりへの渇望」を、自己の子孫を残すこと、ととらえると、『「生まれ変わりへの渇望」を滅すること』は、「自分の子孫を残さないこと」となってしまい、現代日本では、はなはだ都合が悪いことになってしまいます。
釈迦は、自分の教えを実践し悟りに至るためには出家者でなければ難しい考え、出家者の教えを説き、その教えの保持伝承を託した、とも考えられますが、釈迦の教えが、主として出家者によって保持されてきたために、後世のおいて、釈迦の教えが、次第に出家者に最適化されてきたのではないか、という側面も考えた方がいいように思います。
出家者は、子をなしませんので、「生まれ変わりへの渇望」を無くして、私は解脱したのだ、と堂々と宣言できます。
出家者の考え方、やり方を、出家者でないものがまねしない方が良いと感じる理由の一つです。
③についての説明
ヴィパッサナー瞑想の方法を網羅的に説いた大念処経等では、「瞑想の第四段階」とされ最上位に位置付けられるようですから、個人として目指される方は目指してください、というきわめて高度な領域になります。
ただし釈迦が教えを説いた相手は、主として出家者(出家者が出家者に説かれた内容を伝承した結果かもしれません)でしたので、出家者はもっぱら修行に専念できる、という環境を前提に考えた方がいいように思います。
どういうことかというと、欲について言えば、出家者は身の回りのわずかなもののみを所有し、家族の元を離れて出家しますから、渇愛や渇望を刺激するものに接することについては、きわめて少ない状態に身を置いていることになり、渇愛や渇望を滅することには適した環境にいた、と言えます。
また、心の平静に至ることを妨げるであろう心理的な外傷、例えば幼少時の両親からの粗暴な扱いによって、「非機能的な」信念やスキーマが形成されていたということを想定した場合であっても、僧団という特殊な環境の中で、
①「安全と感じられる環境」が提供され、
②「非機能的な」信念やスキーマが呼び起こされる経験をすることがなく、
③それによって「非機能的な」信念やスキーマが刺激され、強化されることのない環境であれば、
④瞑想によって、快不快、好悪や恐怖の感情を克服することによって、
⑤「非機能的な」信念やスキーマを消滅させること、
が比較的容易であろうと考えられるからです。
瞑想の最上位の段階は、特殊な環境でのみ到達可能なところであるかもしれない、ということは考えておいた方が良いと思います。
そうすると必然的に『②人の心のはたらき、認知のしくみを知って、現在発生している苦しみを克服した。』という部分にフォーカスして、ヴィパッサナー瞑想を説いた、釈迦の方法論から学んでやってみれば、多くの成果がえられるだろう、ということになります。
瞑想の心理教育
心理療法では、「心理教育」ということが行われます。
例えば認知行動療法では、実践するのはあくまでもクライエントですが、セラピストは「協働的実証主義」という考え方のもと、「心理教育」を行い、クライエントの状況の理解の促進、クライエントのどのような価値の実現に向けて、どのようにセラピーを進めてゆくのか、ということについて理解を得て、進め方に合意した上で、クライエントとセラピストが「協働的」にセラピーの取り組み、セラピーの進み具合を「実証」しながら進めてゆく、という方法を取ります。
釈迦の方法論を「心理療法」と考えると、釈迦が阿含経の中で説いたことは、釈迦がおこなった「心理教育」であるととらえることも可能です。
マインドフルネスの源流が釈迦の説いた瞑想法である、ということを前提にするならば、マインドフルネス(歩行瞑想)に取り組むときに、釈迦が説いたことを知ることは、予め自分にマインドフルネスの「心理教育」を行うことになります。
ヴィパッサナー瞑想についての釈迦の説明という観点からは、「大念処経」が取り上げられることが多いのですが、ここでは、前記「身体に向けた注意」とされるものからご説明します。
ただし、このお経は、「身体に向けた注意」の行い方と、その利益を説くことが中心であり、釈迦が到達し説いた「人の心のはたらきと認知のしくみ」が、十分に説かれていませんので、「人の心のはたらきと認知のしくみ」については別のお経を参照する必要があります。
上記春秋社版「身体に向けた注意」では、翻訳者出本充代さんによる、下記のような「標題」が付されていますので、内容の説明のために引用させていただきます。
〔出入息観による修習〕
〔所作の自覚による修習〕
〔身体の構造による修習〕
〔死体の観想による修習〕
〔四禅定による修習〕
〔「身体にむけた注意」を養成する効果〕
〔「身体にむけた注意」を養成する利益〕
出入息観による修習
上記のうち、〔出入息観による修習〕は、呼吸の瞑想ですので、改めて別のブログご紹介します。
所作の自覚による修習
歩行の瞑想は、〔所作の自覚による修習〕に含まれます。
含まれる、というのは歩行の瞑想以外の、さまざまな体の動作について注意を向けることが説かれているからです。
前記春秋社 原始仏典第7巻 第119経「身体にむけた注意ー念身経」から一部を引用します。
「歩いているときに『わたしは歩いてる』と知る。立っているときに『わたしは立っている』と知る。座っているときに『わたしは座っている』と知る。また自分の身体がおかれている状態のとおりに、そういう状態であると知る。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、収束し、集中する。このようにしても、比丘たちよ、比丘は『身体にむけた注意』を養成する。」
さらに、戻ったり進んだり、前をまっすぐ見たり、見まわしたり、(体を)曲げたり伸ばしたり、外套や鉢(お茶碗)、上衣を持つこと、食べたり飲んだり、トイレも意識して行うこと、歩いたり立ったり、眠ったり目覚めたり、話したり黙ったり、つまり生活全般を意識して行うことが説かれています。
つまり「身体にむけた注意」によるヴィパッサナー瞑想は、どのような行動であろうともできる、ということです。
しかし、出家して修行に専念できるわけではない人が、一日の行動すべてに「身体にむけた注意」を行ったのでは、仕事や生活に支障をきたします。
歩行でなくても構いませんが、特定の行動を選んで集中的に行う方が現実的だと思います。
ちなみにアルボムッレ・スマナサーラ先生は、これらのヴィパッサナー瞑想を1日14時間、2週間行うと初期の悟りに到達する、と言われています。
「身体にむけた注意」によるヴィパッサナー瞑想は、きちんと取り組めば効果は強力、ということであろうと思います。
また、「内に心が安定し、落ち着き、収束し、集中する」というフレーズは覚えておいてください。
歩行の瞑想を、毎日きっちりやるようになると、やらなかった日は「内に心が安定し、落ち着き、収束し、集中する」ことが弱くなることが、明確に感じ取れるようになります。
「内に心が安定し、落ち着き、収束し、集中する」ということは、七覚支という、悟りいたる七つのステップで説明すると、わかりやすいのですが、七覚支まで説明するとかなり分量が多くなってしまいますので、別の機会にあらためてご説明します。
厭逆観想
〔身体の構造による修習〕は、〔死体の観想による修習〕とともに後に「厭逆観想」と言われた瞑想法です。
〔死体の観想による修習〕だなんて、おぞましいもののように感じますが、「生まれ変わりがある」とされ、「生まれ変わりへの渇望」が強固にあった時代にあっては、〔身体の構造による修習〕〔死体の観想による修習〕によって、自分の身体への渇望(こだわり)を滅し、自分も死をむかえ、死体となって物質として滅失してゆく運命を免れないのだ、という認識を徹底することによって、「生まれ変わりへの渇望」を滅し、生まれ変わりに心を悩まされることなく、今ある生に集中するという意識をもたらしたと思われますから、現代では多く方には不要と思われますし、〔死体の観想による修習〕はそもそも、現在では行うことが不可能です。
現代人の多くの方が抱いているであろう死生観からは、わざわざ死体を想起して行う必要性も、乏しいように思います。
四禅定による修習
これについては、下記の「初禅を目指すとよいと思います」で説明いたします。
「身体にむけた注意」を養成する効果
効果については、以下の2つを上げ、たとえによって説明する、弟子たちとの対話が記載されています。
「比丘たちよ、誰であれ、『身体にむけた注意』を養成し、強化した人は、悟りの智慧の一部であるあらゆる善いことがらをあわせもっている。」
「比丘たちよ、誰であれ、『身体にむけた注意』を養成し、強化した人は誰であれ、神通によって直接体験できることがらのひとつに対して神通によって直接体験しようと心傾けると、その基盤があるときはいつもそれを直接体験できるようになる。」
神通については、すでにご紹介した、神足通、天耳通、他心通、宿命通、天眼通、漏尽通などと言われる、悟りを得た後に得られるとされる特殊な能力を指すのでしょう。
「身体にむけた注意」を養成する利益
悟りに到達しなくても苦悩は解消されるようです。
釈迦の説いた「身体に向けた注意」という説法からご説明します。
身体にむけた注意は、呼吸や、身体そのものの観察、「歩行」を含む身体の動き(所作)の自覚による修習が説かれています。
そこには、悟り(四つの禅定)に至ることよりも先に、苦悩を克服できるよ、ということが説かれています。
春秋社 原始仏典第7巻 第119経「身体にむけた注意ー念身経」から引用します。
「比丘たちよ、『身体にむけた注意』を習い、強化し、操り、基本とし、実行し、繰り返し、完全に習熟すると、次の十の利益が期待される。十とはなにか。
1.好き嫌いを克服できるようになる。かれは嫌悪感をものともせず、生じてくる嫌悪感を打ち負かし続ける。
2.恐れと怖じ気を克服できるようになる。かれは恐れと怖じ気をものともせず、生じてくる恐れと怖じ気を打ち負かし続ける。
3.寒さ、暑さ、飢え、渇き、虻・蚊・風・熱・蛇との接触や辛辣で不愉快な発言に耐え、身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえらえるようになる。
4.現世で気持ちよく過ごすことのできる、雑念を離れてすっきりした四つの禅定を、思うままに得、難なく得、苦労なく得られるようになる。」
カバットジンさんは、マインドフルネスストレス低減法で、慢性疼痛に苦しむ方に対して「身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえらえるようになる」方法を提供しました。
好きなことができないことは苦悩を生むでしょう。
嫌なことをしなければならないことも苦悩を生むでしょう。
現在の恐怖はもちろんそれ自体が苦痛であり苦悩ですが、記憶にある恐怖が呼び覚まされて苦痛が再現されることも苦悩をでしょう。
辛辣で不愉快な発言は、特にSNSの中では深刻です。適切に対応できないと深刻な事態を招きかねません。
5番目以下は、神足通、天耳通、他心通、宿命通、天眼通、漏尽通などと言われる、悟りを得た後に得られるとされる特殊な能力です。
これらの能力については、にわかには信じがたいのですが、第四禅に到達してみないことには真実であるともないとも言えません。
宿命通については、簡単にご説明しました。
恐怖感が無くなれば、前世については簡単ではないとしても、自己の過去の記憶にアクセスすることは容易になるでしょう。
恐怖感が再現されることを避けたいがために、恐怖を感じた体験の記憶を、意識しない記憶の領域に押し込めている、と考えるならば、恐怖感が無くなれば、自由に体験の記憶にアクセスすることができます。
恐怖心の克服としては、逆のルートを取るのかもしれません。
「恐怖を感じた体験の記憶」へアクセスすることによって、なぜそのような恐怖を感じたのか、その恐怖の原因や正体がなんであったのかということを知った(ヴィパッサナー瞑想によって観察した)ならば、恐怖の克服ができるのではないでしょうか。
「恐怖の原因や正体」を知るという方法論は、痛みがあるなら痛みに注意を集中してみなさい、痛みに注意を集中したら、痛みの状態や本質が解るでしょう、痛みの状態や本質が解れば、痛みがあなたの人生を、決定的に破壊するものではない、という理解につながるでしょう、というカバットジンさんの方法論と同様です。
カバットジンさんの、マインドフルネスストレス低減法は、道元さんの影響を深く受けたものだという印象がありますが、苦脳や恐怖を観察して知り克服するというヴィパッサナー瞑想の方法論と同様なものであると考えています。
初禅を目指すとよいと思います
〔四禅定による修習〕は、瞑想により到達する四つの段階を示しています。こちらも春秋社前掲書から抜粋させていただきます。
四禅定を簡単に説明しておきますが、とりあえずの目標は、「歩行瞑想で集中力観察力を養い、座ってする呼吸の瞑想で初禅の状態に入ること」におくとよいと思います。
初禅の段階は、西欧から輸入されたマインドフルネスでいえば、かなり習熟した状態、と言っていいと思います。
初禅では、思考を停止し、思考の停止により感情(渇愛)の生成を停止したうえで、喜びと安楽を感じながら、感情に影響されない「尋」「伺」と言われる観察があらわれますから、「尋」「伺」によって、自分の苦しみを、苦痛を排して客観的に観ることができるからです。
「大念処経」では、「初禅」は、「八聖道」という実践の最終段階で、漢語では「正定」と呼ばれる、正しい精神統一によってもたらされるとされていますが、「八聖道」を前提にする必要もないように思います。
ただし、「八聖道」は、釈迦の到達した「人の心のはたらきと人の認知のしくみ」に接続する「釈迦の行為論」を具現化したものであるようですので、苦悩を無くす上での示唆に富みます。
また、「八聖道」は、認知行動療法の行動療法的技法との位置づけと、とらえてよいとも思っています。
初禅
『欲望を斥け、不善の事柄を斥けて、大まかな思考や細かい思考が残っている、遠離から生じる喜びと安楽からなる第一の禅定に達する。』
「欲望を斥け」というのは感情的な反応、好き嫌い、好きなことが得られないこと嫌なことをしなければならないことへの怒りや嫌悪と考えればよいでしょう。
思考することを停止することによって感情の生成が停止しますから、観察に徹する(観察した体の動きや感覚に言葉をあててゆく)ことで、比較的容易に「欲望を斥け」の状態に至ることはできます。
西欧由来のマインドフルネスは、思考の停止を意図することなく、思考や生じた感情を主体的に考え感じているという態度から、思考をしている自分、感情が生じている自分を観察する態度へ移行する訓練であると、私はとらえています。
禅由来のカバットジンさんのマインドフルネス瞑想法によるマインドフルネスと、釈迦の教えによるヴィパッサナー瞑想の違いであるように思います。
「不善の事柄」は、前記「八聖道」や、釈迦が到達した「人の心のはたらきと認知のしくみ」にヒントを求めることになりますが、別の機会にあらためてご説明します。
「八聖道」は、本来は、瞑想を行う中で「ああこういうことを釈迦は説いたのだな、確かにこれが完全にできれば苦悩はなくなるだろう」と感じ取ってもらいながら実践する性格のものであると理解しています。
「遠離から生じる喜びと安楽からなる」という感覚は、今までに体験したことのない「負担を感じない状態」、「今まではなんて大変な状態だったのだろう」と感じる状態を体験すること、と理解してください。
初禅は、座ってする呼吸の瞑想では、
①姿勢が安定して(40分~1時間くらいは苦痛を感じず座っていられる姿勢が取れている)、
②腹が苦労なく自由に動き、
③少し長い穏やかで安定的な呼吸ができるようになった状態で、
④呼吸を意識を向けて、
⑤呼吸に伴う腹の動きの感覚に「ちぢみ、ちぢみ、ちぢみ、ふくらみ、ふくらみ、ふくらみ」と言葉をあててゆき、
⑥言葉と腹の動きの感覚がシンクロする(思考は停止され、思考の停止により感情が生成されない状態に至る)と、
比較的容易に到達できるようです。
第二禅
「大まかな思考や細かい思考が停止して内面が鎮まった状態、心が統一された状態である、大まかな思考も細かな思考もない、精神集中から生じる喜びと安楽からなる第二の禅定に達する。」
第三禅
「喜びが冷めた後に静観しつづけ、注意して、意識しながら、安楽を身体で感じとる。〔すなわち〕『〔その禅定にある者は〕静観し、注意しながら安楽に住す』と聖者たちが表現する第三の禅定に達する。」
第四禅
「安楽を捨て、苦しみを捨てたあとに、それ以前に快・不快が消滅しているので苦しみもなく安楽もない、平静さによって注意力が澄みわたった状態である第四の禅定達する。」
第三禅で「喜びが冷めた後に静観しつづけ、注意して、意識しながら、安楽を身体で感じとる」とされていますので、喜びのない安楽を感じ取り、「注意しながら安楽に住す」ので、喜びによる心の波立ちすらも負担と感じる安楽の境地が実現されるのでしょう。
さらに第四禅では、その「安楽」という感覚すらも放棄して平静さと注意力を獲得する、ということのようです。
注意力が共通する中核要素
上記第四禅で「平静さによって注意力が澄みわたった状態」とされいますから、悟りの状態とは、人に潜在的に備わっている注意力が、最高度に発揮された状態である、ということになります。
また、カバットジンさんが、著書である「マインドフルネスストレス低減法」(北大路書房)で以下のように語っていますので、ヴィパッサナー瞑想においても、西欧で発展したマインドフルネスにおいても、「注意力」は共通する中核的な要素であると言えます。
「『マインドフルネスストレス低減法』というのは、”今”という瞬間に完全に注意を集中するという方法です。これは、仏教における瞑想の中核と言われており、禅宗をはじめとして、そのほかの仏教宗派でも非常に重んじられているものです。」
歩行瞑想は注意力を養う
ゆったりと30分以上をめどに歩く
通勤通学などのため、最寄りの駅、バス停への歩行時に行うことも可能ですが、例えば昼休みや、家の周辺で、遊歩道や広い歩道など、ゆったりと歩ける環境で、ゆったり歩く方が効果は上がります。
方法は簡単です。
すこしゆっくり目に歩き、歩行へ意識を向けるため、「歩いている歩いている」と心の中で唱えながら、歩いている感覚へ意識を向けてください。
下を向かず、あまり遠くを観るのでもなく、きょろきょろせず目線を固定して「歩くために」歩いてください。
ゆっくり歩くのですが、歩いていることを自覚することによって集中力を養う訓練なので、「ていねいに歩く」「優しく歩く」「注意深く歩く」などのことを心がけてください。
30分くらい、目線を固定して、目の前のものを見るでもなく見ないでもなく、ゆっくりていねいに歩きながら、「歩いている歩いている」と心の中で唱えながら、歩いている感覚へ意識を向け続けていると、歩いていることに集中していることが意識できるようになります。
また、それに先立って、軽く、ごくかすかに脳がしびれるような感覚もしてきます。確たることはいえないのですが、脳内麻薬が分泌されているのかもしれません。
歩行に集中できるようになると、目の前のものを、見るでもなく見ないでもなく見ているのですが、目の前の景色が、鮮やかにビビッドに感じられるようになります。
人間は、考えたり考えることによって感情が刺激され(いいなとかいやだなとか感じ)ると、目の前にあることが目に入ってこないようです。
歩行に集中するとは、体の動き、動きに伴う体の感覚に意識を集中することで、思考を排除することになるため、視覚や聴覚、嗅覚から入ってくる刺激への感受性が高まります。
軽安を感じながら歩く
歩行の瞑想では、極めて大事なことなのですが、心を軽くして安らぎを感じながら歩くことを心がけていください。
心を軽くして安らぎを感じながら歩くことで、集中力が高まります。
ただしウキウキしながら歩くことではありません。ウキウキするというのは、感情を刺激することですから好ましくありません。
「ていねいに歩く」「優しく歩く」「注意深く歩く」ことを心がけながら、心を軽くして安らぎを感じながら歩くようにしてください。
呼吸法を説いた「治意経」(春秋社 原始仏典第7巻 第118経「出入息観」)から、心を軽くして安らぎ感じること、についての効果を引用します。
「喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ。比丘たちよ、喜んでいる比丘の身体が安らぎ、心も安らぐとき、比丘には『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)が始動している」
「身体が安らいで幸せな人の心は集中する。比丘たちよ、身体が安らいで幸せな比丘の心が集中するとき、比丘には『精神集中という悟りの支分』(定覚支)が始動している。」
悟りを推奨するわけではありませんが、苦悩の低減もしくは滅尽は、悟りへと向かう途上でもたらされるもののようなので、悟りの「パーツ」もしくは「ステップ」ともいえる「支分」を心がけてください。
今の私は喜べる状況ではない、とか、身体が安らいで幸せを感じる状況ではない、と感じられるかもしれません。
現代に生きていれば、そのような状態に陥ることもあります。
しかし、これらの支分が実現しないと、高度な集中力は表れません。
後世の方は、釈迦の教えを「こうすればこうなるという厳然たる事実」であると自分たちで体験して認識したから、釈迦の教えを「法」と言ったのでしょう。
つらくても、心を軽くして安らぎを感じながら歩く気分にならなくても、歩行の瞑想中だけは、これらの支分を実現する、または、最初は1分間だけでも実現する、というところから始めてください。
少しづつ時間が延ばせれば、確実にご自身の中に変化を感じ取ることができます。
また、歩行の瞑想において、軽安を意識し心がけることができれば、座ってする呼吸の瞑想での集中がぐんぐん進みます。
歩行から意識がそれてしまった場合
歩行から意識がそれてしまったり、歩行へ意識を向けることが持続しなくても、あまり気にしないでください。
こんなこともできないのか、なんて考えると「軽安覚支」も「定覚支」も遠ざかってしまいます。
歩行から意識がそれたら、また意識を歩行にもどすことによって、意識を戻す訓練をしている、と割り切ってください。
歩行から意識がそれるのは、それが釈迦が到達した「人の心のはたらきと認知のしくみ」だからです。
新奇なものには「なんだろう」、「聞き覚え」「見覚え」「経験のある香り」には、「ああ〇〇だ」と、聴覚、視覚、嗅覚を働かせて確認する(そこに心地よさが発生する)という、心のはたらきがあるからです。
自然なことなのですが、これをそのままにしていると、「聞き覚え」「見覚え」「経験のある香り」から、ああ、あの曲聞きたいなあ、とか、元カレ元カノとの思い出がよみがえるとか、ああしたいなあという欲求やできない不満、不快な経験の記憶から不快感などが生じる(想といいます)ことがありますから、例えば何かの音楽に意識向かったら、自分の心に起こったことを感じ取り、「〇〇(曲名)」や、その曲から起こった感情を「悲しい」とか「懐かしい」と言葉で確認して、意識を歩行に戻してください。
「自分の心に起こったことを感じ取」るとは、体に生じた心地よい感覚であるか、不快な感覚であるか、どちらでもない感覚(受といいます)に、相前後しておこった、言葉によって把握される前のイメージや沸き起こった感情(想といいます)を、知って「言葉」によって把握し、「自分の心に起こったことを感じ取」ることです。
そのような作業の後に意識を歩行に戻します。
最初は意識して、次第にそれが自然にできるようになると、集中力が向上します。
歩行瞑想で集中力を養い、座ってする呼吸の瞑想に取り組めば、比較的容易に以下のような状態が実現します。
「〔身体という〕世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識して、注意しながら、身体を身体として観察しているのである。」
(春秋社 原始仏典第7巻 第118経)
「マインドフルネスとは意図的に、今この瞬間の体験に、判断を加えることなく注意を向けることである」(カバットジン、日本評論社「マインドフルネスー基礎と実践」)
「マインドフルネスとは注意の領域に生起してくる一つ一つの思考、感情、感覚がそれとして認識され、ありのままのあり方で受け入れられるような、判断を入れず(non-judgemental)、現在の瞬間に中心をおいた(present-centered)、気付き(awareness)である」(Bishop et al 2004)(同上書)
これらの訓練をすることによって、集中力が高まります。
一般的に言われる歩行の瞑想
屋内や、他の歩行者に支障のない環境で、ごくゆっくり歩き、足の動きに言葉をつけてゆきます。
例えば、「右足離れる」「右足運ぶ」「右足着いた」、「左足離れる」「左足運ぶ」「左足ついた」を繰り返します。
これを、例えば10分間やるのは、初めてやる方にはかなり苦痛です。上記の歩行の瞑想を行う中で、公園等があればやってみてください。
人目があると少し恥ずかしい動きですので、部屋の中でやっても構いません。
かなり苦痛、ということは、筋トレでいえばかなりの負荷がかかっているということですから、脳トレとしては効果が上がります。
集中して取り組めば「内に心が安定し、落ち着き、収束し、集中する」ことが体験できます。
集中力をより高めたいなら
遊歩道や公園であれば、ゆっくり歩いて、「かかとが地面に付いた感覚」「体重が乗り足裏に圧がかかる感覚」「体が前に移動し足が離れる感覚」に、例「着」「圧」 「離」 といった言葉をあてて、意識を集中する方法もあるでしょう。
足が着地した感覚に意識を向けて「ついた」「ついた」という言葉で確認することもありだと思います。
足が地面についている感覚に意識をむけるなら「ついている」「ついている」という言葉で確認したらよいでしょう。
体の感覚に意識を集中することは、心のはたらきに意識を集中し、心のはたらきに対する感受性(観察力)を高めることにつながります。
それゆえ、ヴィパッサナー瞑想では、
①身体の動きの観察による集中力の強化
②身体の感覚の観察による感受性(観察力)の強化
③心の状態の観察
④心のはたらき認知のしくみの観察と理解
⑤理解に基づく行為の選択と実践
というステップを踏んでゆきます。