婚活をたてなおす(2-3)「マインドフルネス何をするの」
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やることはいたって簡単
難しいことはしません。
簡単なことを、根気よく続けてゆくだけです。
筋トレをイメージしてください。そんなに複雑なことをするわけではありませんよね。
筋力を養成するのが筋トレ、自分の考え方の仕方を少し変えて苦しい感じを少なくするトレーニングが、マインドフルネスだと、ざっくり考えてくださってかまいません。
説明のベースにあるのは、ヴィパッサナー瞑想です。
たぶんヴィパッサナー瞑想って、初めて聞く方の方がおおいですよね。
ヴィパッサナー瞑想は、観察瞑想と言われています。
座ってする「呼吸を観察する瞑想」では、呼吸を観察することへの意識の集中(集中瞑想)により思考を停止し、思考を停止することで感情の生起を一時的(瞑想中)に止めて、心を落ち着かせることもできます。
私の経験からの感覚でしかないのですが、一時的にでも感情の生成が停止された、と感じることは、脳のはたらきに変化をもたらすようです。
感情の生成が停止されると、「なんでこんなに楽な状態になったの」「今までがなんて重荷だったの」
「なんでこんなに楽な状態になったの」「今までがなんて重荷だったの」という状態を体験すると、それは感情の生成が(一時的であっても)停止され、感情の生成による負担から解放されて楽になったのだ、と考えざるをえないからです。
脳にとっても「楽な状態」は良いことですから、脳は楽な状態を実現しようとします。
しかし、そう簡単には、「楽な状態」は実現しません。
なぜならば、これからお話しいたしますが、脳には釈迦が説いたように、あれがいい、これは嫌だ(という考え)に執着する性向があるからです。
感情の生起を停止すると、恐怖や好き嫌いといった感情に影響されない思考が現れます。
このことを釈迦はこう言っています。
「心の動きの停止と智慧による観察(止・観)という二つのことがたがいに関連して起こる。(春秋社 原始仏典第7巻 第149経)
この感情に影響されない思考によって、自分を観ること(ヴィパッサナー瞑想、観察瞑想)によって、自分の心のうごきへの観察能力が向上し、瞑想終了後の日常生活であっても、気分の低下を察知し、その原因を理解する能力が向上します。
マインドフルネスで取り組むこと
1.「呼吸の練習」
集中状態を作り出す
集中状態を作出するためには呼吸が重要ですので、朝晩の瞑想の前に簡単なエクササイズをします。
目的は、③「呼吸を観察する瞑想」の効果を上げるため、です。
①気道をまっすぐにする姿勢を理解すること、これにより無理なく呼吸ができます。
②吐息を吐ききり、体の力を抜くことで呼気を呼び込む感覚を体験すること
③腹式呼吸の方法を理解し、日常的にできるようにすること
④通常の呼吸より長く、かつ穏やかな呼吸ができる練習すること
これらを体験し、身に付けることによってリラクゼーション効果が期待できます。
リラクゼーションに必要な呼吸は、日常生活での呼吸とは別もの
瞑想におけるリラクゼーションとは、「くつろぐ」ことではありません。
瞑想におけるリラクゼーションとは、「心身が安静な状態での覚醒」と考えてください。
心身はくつろいでいながら、頭は冴えている状態と考えていただくとよいかもしれません。
息を吐くときに副交感神経、息を吸うときには交感神経が働いているそうです。
副交感神経により、心身がくつろぐ状態を、交感神経により、頭が冴えている状態を、それぞれ作り出すことに寄与していると言えるかもしれません。
ゆっくりと滑らかに息を吐ききり(副交感神経優位)、吐ききったら体の力を抜き自然に息を吸い込みます(交感神経優位)。
この呼吸法を呼主吸従と言います。このようにすると呼気は長くゆったり、吸気はゆったりと短くなります。
呼気を長くゆっくりとすることで副交感神経の働きを優位にし、安静効果が得られるように感じます。
実際、息をゆっくりおだやかに吐いているときには、安らぎを感じ、吸気によりそのやすらぎは中断されることを感じることができます。
私はその様な感覚を感じますが、やってみて確かめていただくのが本来の瞑想の在り方ですし、それが確かめれられるようであれば、瞑想の効果は表れている状態になっているでしょう。
呼主吸従により、心にやすらぎを作り、酸素摂取量を増大し、観察によって思考を停止し、心身が安らぎながら「今現在の自分の体をリアルに感じ取る」ことができる状態に到達します。
「今現在の自分の体をリアルに感じ取る」ことができる状況では、ゆったりとした呼吸と意識の流れが合致している感覚がもたらされます。
仏教瞑想でもマインドフルネスでも、「呼吸を観察する瞑想」は中核的な方法です。
呼吸を観察した時点で、日常的な「無意識な呼吸」ではなくなっていますから、瞑想時の呼吸は「意識して最適な呼吸をする」ことが必要です。
呼吸を意識的に行うことのメリット
酸素摂取量が少ないより、多いほうが身体は賦活(いきいき)されます。
呼吸法と酸素摂取量の関係については、村木昌弘先生が「大安般守意経に学ぶ釈尊の呼吸法」(柏樹社)などで説明されています。
身体が賦活(いきいき)されるということは、脳の活動も活発化するということです。
脳の活動が活発化した方がより集中力、観察力は強化されると考える方が自然です。
課題は、体がリラックスした(力まない)状態と、酸素摂取量を増やす、ゆったりとした長めの呼吸(筋肉の動き)をどのように両立させるか、ということになります。
ご自身で、体の状態を観察しながら、最適な状態を探ってゆくことになります。
「体の状態を観察しながら、最適な状態を探ってゆくこと」ことによって、呼吸を観察する瞑想が、必然的に体の動きと体の感覚を観察する瞑想へと深まってゆきます。
「身体が安らいで幸せな人の心は集中する」
(春秋社 原始仏典第7巻 第118経)
釈迦の言葉です。
身体に緊張が生じない状態、思考と感情の生成の停止により、不安などが生まれてこない状態をつくれば、おのずと集中することが容易になり、集中により苦悩を生み出す自己の心のはたらきを観察することが出来るよ、ということを釈迦は言われているようです。
2.「歩行の瞑想」
日々の歩行を活用して、集中力・観察力を養う
多くの方は毎日歩きますから、これを生かして「歩行の瞑想」をします。
やることは「歩いている」ことに集中し、「考えない」「想像しない」ようにすることだけです。
歩行に集中することは退屈な作業になります。ですが継続すれば効果がある瞑想です。
退屈であるがゆえに、歩行の瞑想に10分間集中して取り組めるようになると、③の「呼吸を観察する瞑想」への集中が容易になり、「呼吸を観察する瞑想」を10分間持続することが、極めて容易になります。
歩行の瞑想によって得られるメリット
人は、考えながら歩いたり、いいことであっても悪いことであっても想像しながら歩いていると、外界への注意力は極めて少なくなっています。
考えること、いいことであっても悪いことであっても想像することは、脳のリソース(資源)を大量に使用し、外界への注意へ払うリソースを減少させてしまうようです。
不思議なことかもしれませんが、考えながら歩くこと、いいことであっても悪いことであっても想像しながら歩くことを止めて、歩いている自分の体の動きや感覚に注意を向けている時には、目の前の光景や音をリアルに、いきいきと感じることが出来ます。
目の前の光景や音をリアルに、いきいきと感じるけれども、感じるだけで意識が引き付けられない、という状態が持続できるようになれば、歩行への集中力が高まっていると言えます。
このような状態になっている時には、歩行への集中が無理なく行えて、かすかな快感も感じますから、脳内で快感物質が分泌されているのかもしれません。
このような状態を経験すると、③「呼吸を観察する瞑想」への集中は容易になります。
観察力が養われる
また、歩行の瞑想は、外で行い、視覚、聴覚や嗅覚などの刺激にさらされますから、歩行への意識が何かの別のものに向かった場合、自分の意識がどこに向かったのか、その時に何を感じたのか、ということを感じるとることが出来ます。
「その時に何を感じたのか、ということを感じるとることができる」とは、「観察力が養われた」状態、ということになります。
「観察力が養われること」のメリット
認知行動療法の「モニタリング」や「非機能的な自動思考」の内容を知ることが容易になります。
ただし、気分の低下も容易に感知することが出来るようになりますので、苦痛や苦悩も感じやすくなることを意味します。
これは悪いことではなく、苦痛や苦悩を感じやすくなるということは、つらいけれども、苦痛や苦悩を注意ぶかく観察して、どういうことなのかを理解すれば、苦痛や苦悩を解消するヒントが見つかる、ということでもあります。
これは、心理カウンセリングが進展するプロセスと同じです。
心理療法では、体の状態への気付きが、心への気付きを促す、とも言われいます。
自分に苦痛や苦悩をもたらしていることを突き止めなければ、言い換えれば、苦痛や苦悩がなにによってもららされているのか、という探求に向き合わなければ、苦痛や苦悩を解消する方法は見つかりません。
また、「非機能的な自動思考」というとらえ方と、釈迦が得た「人の認知のしくみ」である「五蘊」(色受想行識)のうちの、「受」もしくは「想」は重なり合うように感じます。
釈迦が得た「人の認知のしくみ」では、外界での出来事を感覚すると、人には、楽の感受、苦の感受、楽でも苦でもない感受(感覚)が生じるとされます。
この感受は体にも現れます。これが「受」です。
「想」「saññā」は、以下のように説明されます。
①「表象作用」(春秋社 原始仏典第2巻 第22経)
②「五根に情報がふれた瞬間に起こるイメージ」
(アルボムッレ・スマナサーラ先生、「釈迦の実践心理学アビダンマ講義シリーズ第7巻」サンガ)(五根は感覚器官、情報は外部からの刺激)
と説明されることもありますが、行動との関係でみると「一瞬のうちに生じて、その内容が明確に認知されずに行動に影響する感情的な反応」ととらえてもよいと思います。
「非機能的な自動思考」が、「想」のはたらきによって「一瞬のうちに生じて、その内容が明確に認知されずに行動に影響する感情的な反応」であり、それによって「苦の感受」が生じる、もしくは「苦の感受」が強化されると考えると、「非機能的な自動思考」が気分を低下させる、という認知行動療法の考え方と整合的です。
気分の低下が生じた時=「非機能的な自動思考」が生じたときには、「今何を考えただろうか?」と自問して、「非機能的な自動思考」の内容を特定しようと意図すること、言葉として把握することが「行」(それをしようという意欲とそれに基づく行動)のはたらきと言えます。
ここまで読んでいただいた方は、「細かい説明でめんどくさいな」という印象をお持ちだと思います。
ヴィパッサナー瞑想を行うことで、「細かい説明でめんどくさいな」という「想」の生起、人の認知作用を把握できるようになります。
「受」が先行して「想」を生じるとすると、「苦の感受」の発生 ⇒ 気分を下げる「非機能的な自動思考」の生起 ⇒ 「苦の感受」が再発生し強化される、となるのかもしれません。
しかし、心の中で起こることは、プロトコルのように手順に沿って進められるもの、というとらえ方よりも、混然一体となっている中で、Aという変化がおこるとBを引き起こし、Bが引き起こされると、Aに影響を与え、その時々に起こった心の動きが強く感知される、というとらえ方のほうが理解を促進するように思います。
「なんであんなこと言ってしまったんだろう」という後悔する行動があった場合、その発言に先行して「想」によって、「もし私がこういうふうに相手から思われているかもしれない、そのように思われたら仲間外れにされるかもしれない(恐怖、危険)と感じて回避しよう」という、「一瞬のうちに生じて、その内容が明確に認知されずに行動に影響する感情的な反応」が生じて行動や発言に影響を及ぼしていたからかもしれません。
「想」を「一瞬のうちに生じて、その内容が明確に認知されずに行動に影響する感情的な反応」と仮定すると、過去の不快な経験により記憶された「過去の出来事とそれによって引き起こされた感情と、そこから形成されたものごとの判断基準としての信念」が呼び起こされて行動に影響を与えると考えると、「非農的な自動思考」よりは深層にある「非機能的な中核信念またはスキーマ」によって引き起こされる、ととらえることもできるように思います。
「想」が生じたことを感じ取ることができて、その内容を知ることができるようになると、「非機能的な自動思考」よりも深い心の領域にあるスキーマや信念を明らかにすることができる、ということになります。
また、「一瞬のうちに生じて、その内容が明確に認知さずに行動に影響する感情的な反応」が、危険を回避したいというものであった場合、記憶を蓄える海馬の先にある、『危険を察知するための情動である恐怖の情動と深く結びついている』偏桃体による(大脳による処理を経ていない)反応であると理解してよいかもしれません。(『』内 改定親版人格心理学 大山泰宏さん NHK出版 より引用)
意志を強くすること、自己効力感の増大につながるようです
歩行の瞑想に集中することは、視覚、聴覚や嗅覚などの刺激にさらされても、そちらに意識を向けない、という訓練になりますから、見たい、知りたい、考えたいという瞬間的に発生した感情的な反応を制御することになります。
脳の機能として、感情的なはたらきは大脳辺縁系が担い、理性的な情報処理は大脳が担うとされていますから、「見たい、知りたい、考えたいという瞬間的に発生した感情的な反応を制御」して「感情的な反応をおさえ」ることが、大脳辺縁系の活動を抑制し、大脳が働くリソースを確保する、と考えると、大脳の前頭前野は『視覚情報の制御と処理、短期記憶(作業記憶)の貯蔵、感情の制御、行動の計画と企図などが担われているほか、脳のそれぞれの分野の情報を統合することがわかってきており、自我あるいは意識の座とも言われている。』ので、「意志を強くすること、自己効力感の増大につながる」という理屈には一定の説得力があるように思います。(『』内 改定親版人格心理学 大山泰宏さん NHK出版 より引用)
また、後に紹介しますが、釈迦は「身体に向けた注意」、つまりヴィパッサナー瞑想によって、期待できる利益の一番に、好き嫌いの克服、2番目に恐怖心の克服と説いています。
「瞬間的に発生した感情的な反応を制御」することで、感情的な反応を抑える訓練(偏桃体を中心とする大脳辺縁系の活動を抑制する)、大脳による情報処理(前頭前野による感情の抑制、行動と計画の企図などを担う)を促進すると仮定すると、感情に突き動かされるのではなく、合理的な検討を経た行動、つまり意志による行動が促進されると考えられる余地はあるでしょう。
瞑想の方法論の前提となる「人の認知のしくみ」を理解すると瞑想は進む
「瞬間的に発生した感情的な反応の制御」が、なぜ意志の強化や自己効力感の増大といった効果をもたらすのか、ということを理解するためには、人は瞬間的に欲求(愛着)を生んでしまうという釈迦が認識した「人の認知のしくみ」を理解するとよいでしょう。
釈迦がとらえた「人の認知のしくみ」である「五取蘊」を簡略化して説明すると、人は五感が刺激を感受して意識が働くと、物体としての体や、認識の各段階である色、受、想、行、識(器官⇒感受⇒表象⇒意欲⇒識別)に愛着が発生し、愛着が発生することに気付かずに、喜びを感じたり怒りを感じて行為すると、その愛着はますます強くなって、その結果として苦悩をもたらす認識方法が強化されるよね、だから自分の認識をよく観察して、愛着が発生しないようにすれば、苦悩の発生原因をなくすることができるよね、というものです。(春秋社 原始仏典第7巻 第148経 「六六経」)
このような「人の認知のしくみ」を前提にすると、歩行の瞑想や呼吸を観察する瞑想によって、感覚⇒知覚⇒認知⇒判断に対する観察力を養うと、この「物体としての体や、認識の各段階である色、受、想、行、識(器官⇒感受⇒表象⇒意欲⇒識別)に愛着が発生」することに気付くことが出来るよ、気付くことが出来ればそれを防ぐことが出来るよね、ということになります。
歩行の瞑想は、屋外でおこなうため、室内で行う「呼吸を観察する瞑想」と比べて、視覚、聴覚や嗅覚などに対する刺激にさらされることが多く、それらに刺激されて歩行への意識の集中がそれたときに、「その時に何を感じたのか、という」自分の体験を通して、釈迦が到達した「人の認知のしくみ」の理解を深める契機ともなります。
※執着の対象としての「五蘊」が「五取蘊」です。)
3.「呼吸を観察する瞑想」
椅子に座って行います
朝晩行います。
最低でも10分~15分くらいは必要です。
最低でも10分~15分くらいは必要な理由は、リラクゼーション効果を目的とした場合でも、呼吸が安定してリラクゼーションが感じられるまでに、10~15分はかかるからです。ちろん個人差があります。
時間が取れるなら45分~60分くらいを目指すとよいと思います。
瞑想は、できるだけ空腹時に行ってください。その方が腹式呼吸が容易になりますし、体の感覚も感じ取りやすくなります。
就寝前に行う場合は、眠くなったら瞑想を止めて寝てください。
眠けを乗り越えて、サマディー状態に入ると、眠りが浅くなります。
出家者の方の修行であれば、眠いなどと言ってはいられないのかもしれませんが、出家者でない私たちには、明日の仕事ややるべきことがありますから、睡眠に入るきっかけ(眠くなること)を逃すことは避けるべきです。
健康のためには、良質な睡眠の確保を心がけてください。良質な睡眠をとった翌日の方が瞑想の質は高まります。
最初の変化は聴覚に現れます
集中力が高まっていることは、「耳が聞こえなくなる」体験をすることで確認できます。
完全に聞こえなくなるわけではなく、近くで聞こえていた音が、突然遠くの音のように感じられるようになります。
ワールポラ・ラーフラ師が書かれた、英語圏で一番読まれているという仏教概説書の日本語訳「ブッダが説いたこと」(岩波文庫青343-1)にも、そのような記載があります。私自身も経験しました。現在では、カッチッと、しずかにスイッチがはいった感覚で感じ取れます。
さらに継続すると、姿勢が安定し、安定的に深い呼吸ができるようになり、姿勢の維持に必要な筋力以外の筋力の力(力み)を抜くことが出来るようになります。
そして、体全体の感覚や、部分的に緊張が生まれた(力がはいった)ことが、ありありとリアルタイムで経験できるようになると、集中力の高まりと、リラクゼーションを経験することができます。
この状態になると、次のような釈迦や、マインドフルネスの指導者による説明が体感的に理解できるようになります。
釈迦やマインドフルネス指導者が語る集中状態
「〔身体という〕世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識して、注意しながら、身体を身体として観察しているのである。」
(春秋社 原始仏典第7巻 第118経)
「マインドフルネスとは意図的に、今この瞬間の体験に、判断を加えることなく注意を向けることである」(カバットジン)
「マインドフルネスとは注意の領域に生起してくる一つ一つの思考、感情、感覚がそれとして認識され、ありのままのあり方で受け入れられるような、判断を入れず(non-judgemental)、現在の瞬間に中心をおいた(present-centered)、気付き(awareness)である」(Bishop et al 2004)
「マインドフルネスとは、受容(acceptance)を伴う、現在の経験への気づきである」(Siegel 2010)
(カバットジン~Siegel 2010まで、マインドフルネス ー基礎と実践ー 日本評論社より)
4.「四無量心の瞑想」
「慈悲の瞑想」「metta」としてポピュラーになっています
UCLAでも取り入れられているそうです。(「世界のエリートがやっている最高の休息法」久賀谷亮さん ダイヤモンド社)
この瞑想を行うこととした場合、この瞑想も椅子に座って朝晩行います。
この瞑想でも、「呼吸の訓練」によって呼吸を安定させること=長めで深い呼吸が穏やかにできること、が前提になります。
一般に言われている「慈悲の瞑想」(定型版)は、四無量心の瞑想の簡略版です。
簡略版は、マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)導入時に、集中力を上げるサマタ瞑想として行うことが推奨されています。
本来のやりかたは、四無量心と言われる下記の4つから、どれか一つを選んで行います。
「慈無量」慈しみの心を養う(自らに優しくする心を養いそれを他者にも向ける)
「悲無量」憐みの心を養う(自らの悲しみの克服を願いその願いを他者にも向ける)
「喜無量」喜びの心を養う(自らの内に喜びを育て他者にも喜びを願う)
「捨無量」心の平静を妨げるこだわりを捨てる
自分の中に生み出せない心は、育てられませんから、どれか一つ、自分の性向に合致していて、効果があがるものを選択して行います。
「慈しみ」が一番取り組みやすく、「捨」が一番難しいとされています。
サマディー(心の集中状態)の到達点「第三禅」では、「喜」を離れて、心の平静を得るようです。(春秋社 原始仏典第2巻 第22経)
出家者でない方は「捨」には取り組まない方がいいでしょう。
「喜び」の瞑想は、日常的に、些細なことで、たとえばうまくできた、と感じて、心が軽くなった瞬間の気持ちを記憶しておいて、それを瞑想の中で育てることだとらえればよいと思います。
認知行動療法の思考記録表は、「非機能的な自動思考」の生起による「気分の低下」を察知して、「非機能的な自動思考」の内容を明らかにして、修正を行いますが、その反対のこと、つまりポジティブな感情をとらえて、瞑想の中で育ててゆくことと考えればよいと思います。
ただし、「喜び」の瞑想は、瞋性という性格に該当する方はできない(取り組まない方が良い)とされています。
自分に優しくする
「セルフコンパッション」という、自分に優しくし、必要以上に厳しい態度を取らないことで、気分の低下を防ぐという方法があります。
たとえば「自分に対して厳しく、ネガティブなとらえ方をする傾向がある」「他者の自分に対する考えが気になって不安を感じる」方は、「呼吸を観察する瞑想」に代えて、「慈しみ」の瞑想を行うとよいと思います。
この場合、「慈しみ」の具体的な内容は、ご自身の考え方や物事の受け止め方を理解したうえで、自分に優しくできるようになってゆく内容であることが必要です。
「慈しみの瞑想」について、私の事例でご説明します。
心理カウンセリングの講座の中で、自己理解が一番難しくかつ重要であると、繰り返し繰り返し指導されました。
日常生活で、些細なことでも、うまくいかない出来事に遭遇したとき、自分に対して「失敗した」と半ば無意識につぶやいていたり、舌打ちしたりなどに気付くことで、自己理解が一番難しくかつ重要であることを実感しました。
なぜならば、このようなとらえ方や行動は、「自分がしたことを自分で正確に理解せず」、「自分で自分を攻撃していた」ことになるからです。
つまり、自分がしていることを「自己理解」していなかったのです。
「自分がしたことを正確に理解せず」、とは、手順を間違えた、または本来の手順を飛ばしたために、自分が期待した結果にならなかった、という事実を認識することなく、失敗したと、きわめて大雑把に、感情的に反応していただけだった、からです。
「自分で自分を攻撃していた」、とは、「失敗した」となかば無意識につぶやいていたことや舌打ちしていたことです。
カウンセラーの、自分自分に対する態度や行動は、クライエントへの共感や理解の仕方、かかわり方(かかわり行動といます)にも影響します。
そのように考えると、カウンセラーは、自分の態度や行動を「自己理解」して、自分に対する不適切な態度や行動を改善してゆくことが極めて重要になります。
それゆえ、自分を「やさしくていねいに注意深く見てゆく」という態度、自分を「やさしくていねいに注意深く扱ってゆく」という行動を養い、その態度と行動を、他者(クライエント)に向けてゆけゆくことを意図して、「慈しみ」の瞑想を行っています。
「慈しみ」の瞑想は、自分自身を慈しむ心(心理的な態度)を育てて、その心を他者にも向ける瞑想です。
「慈しみ」の瞑想は、アサーショントレーニング(主張訓練)と併用すると、良好な対人関係を築くことにも役立つと思います。
ということは、結果として、あなたの印象や話し方の改善を通じて、お見合いや交際においても良好な対人関係を築くことにも役立つだろう、ということがいえそうです。
アサーショントレーニング(主張訓練)は、自分の考えを尊重し、他者も尊重しながら、自分の意見を効果的に主張する(伝える)訓練です。
マインドフルネスの難しい点
1.無意味に感じられる
一見無意味と思われるようなことをするので、効果が実感できないとバカバカしくなって、やりたくなくなります。
人間は、意味やメリットを感じないとなかなかやる気になりません。
最初は、「無意味なことに一生懸命集中すると集中力が養われる」と割り切って継続するしかないと思います。
集中力をつける訓練をしないと、マインドフルネス(瞑想)は進展しません。
集中することが瞑想の中核的な効果を生み出します。
なので、脳の筋トレ、認知能力の筋トレと考えてください。
見ているだけ、理解しているだけでは筋トレになりませんよね。
筋トレは、見方を変えれば、「今ある筋力の発揮」です。
「今ある筋力を発揮する」から、筋力が維持され増強されます。
瞑想の筋トレは、集中力の養成=「今ある集中力を発揮する」つまり、歩行や呼吸の観察に集中することから始めます。
「使う筋肉は発達する、使わない筋肉は衰える」のと同様に、マインドフルネス(瞑想)は、「今ある集中力を発揮する」ことによって、集中力を養うことによって、脳の情報処理方法を改変することにつながると考えています。
加賀谷亮さんが書かれた前掲書「世界のエリートがやっている 最高の休息法」(ダイヤモンド社)には、マインドフルネスによる脳の機能の変化についての研究が紹介されています。
また、日本評論社 「マインドフルネスー基礎と応用ー」には、心理療法分野でのマインドフルネスの活用や効果が紹介されています。
研究は、「マインドフルネスをやった人」と、「マインドフルネスをやらなかった人」の比較で行われますが、ご自身で取り組まれる方は、他者との比較ではなく、「マインドフルネスをやる前の自分」と「マインドフルネスに取り組んでからの自分」に、どのような変化があったか、という観点でとらえてください。
「マインドフルネスをやると、ほかの人よりも、○○の能力が上がる」と考えたり期待したりするのは、マインドフルネスの効果の発現を阻害します。
2.「変化を体験」しないと効果を実感できない
瞑想経験者は、瞑想を通じて、ああこうなるのか、という「変化の体験」をとおして、瞑想の効果を理解してゆくのですが、当然これから始めようとする方には、「体験」がないので、この方法では理解はできません。
理解できないとやりたくなりません。
これは「概念的な理解力を養っている」現代人には致し方ない側面ではあります。
それゆえ、「マインドフルネス瞑想法」によるストレス対処プログラム(MBSR)をつくりだした、カバットジンさんは、「マインドフルネス瞑想法」に、これから取り組む人に対して、こう言っています。
①自分で評価をくださないこと
②忍耐づよいこと
③初心をわすれないこと
④自分を信じること
⑤むやみに努力しないこと
⑥受け入れること
⑦とらわれないこと
(「マインドフルネスストレス低減法」北大路書房)
3.効果のメカニズムの理解は簡単ではない
しっかりとマインドフルネスの効果や機序(メカニズム)を理解して、やるかやらないか考えますよ、というのは、「概念的な理解力を養っている」現代人にとっては、もっともな戦略です。
効果や機序(メカニズム)は、ある程度は説明できますが、瞑想により観察力が高まった状態で、自分の感覚や心を観察した時に初めて、ああそいうことか、と理解できるものです。
それゆえ、説明しきれない部分があります。
瞑想の機序を理解するヒントになるのは、釈迦の解説、つまり阿含経に説かれた瞑想についての記述であろうと思います。
しかし、釈迦の方法論は、高次の、不可逆的な覚醒状態(悟り)に至った釈迦が、覚醒状態(悟り)に至っていない弟子たちに対して、不可逆的な覚醒状態(悟り)に到達できるように、
①瞑想の前提となる「人の認知のしくみ」
②「このようにしてみなさい」、そうすると「こうなる(苦悩からの解放)」から、「自分でやってみて確かめなさい」
という方法論で説いたものであったようですので、「人の認知のしくみ」と「このようにしてみなさい」と「こうなる(苦悩からの解放)」の間のメカニズムは、「自分でやって、なるほどこうなるのかと確かめ」ることになります。
自分でやってみて、ささいなことであっても、変化を自分で感じる、ということが、マインドフルネスの本質であると感じています。