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婚活をたてなおす(2-2)「マインドフルネスの基礎知識」

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COME TO LIFE「婚活をたてなおす(2-2)「マインドフルネスの基礎知識」」-1

マインドフルネスで何が得られるのか?

自己探求のツール


一言でいえば、私は「自己探求のツール」であると思っています。


ここでは「自己探求」という観点から「何が得られるのか?」、ということをお話します。


無自覚の思考が把握できる


一定の集中力と観察力(自分の体、感覚などに対する感受性)が養えれば、自分の行動の前に、外部からの刺激をうけて、自分が一瞬のうちに想像したこと(イメージ)、を知ることができるようになります。


「外部からの刺激をうけて、自分が一瞬のうちに想像したこと(イメージ)」を知ることができるようになると、自分の感情の悪化や、「言わなきゃよかった」とか「しなきゃよかった」という行動を回避することができます。


「外部からの刺激をうけて、自分が一瞬のうちに想像」する心のはたらきを、「想」と言います。


「想」につづいて生まれる心のはたらきが「行」です。


「行」は、「想」によって刺激された「こうしよう」「こうしたい」という意欲と、その意欲によってもたらされる行動です。


「行」によって、「言わなきゃよかった」とか「しなきゃよかった」といった認知が自覚されれば、さらに「想」がうまれます。


さらにうまれた「想」を、「行」によって、言葉にしてみたら「嫌われたかもしれない」ということであったりするかもしれません。


人はどうやら、言語で明確に認識する前に、一瞬のうちに、イメージによって事態を把握もしくは推測しているようなのです。


「想」も「行」も、ヴィパッサナー瞑想の基礎となる、釈迦がとらえた「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」です。


認知行動療法に置き換えれば、「想」は、「非機能的な自動思考」になります。


「行」は、気分の低下を察知して「私は今何を考えただろうか?」と自問(意欲+行動)して、「非機能的な自動思考」の内容を「知る」こと「修正」することです。


ヴィパッサナー瞑想の方法論によって、自分の心と体の感覚(感受または受といいます)に対する観察力を養うことで、認知行動療法の認知再構成のための、「気分の低下」の察知が容易になります。


苦悩をもたらすものを知ることができる


さらに、心の平静と集中が実現できると、自分の心の状態(思考や感情ではありません)を観察して、自分の感じ方に影響している過去の出来事の解釈、やその時の感情の記憶に到達し、悩み苦しみを無くすヒントを得ることができます。


そもそも釈迦が苦悩を滅するために自分の心を観察することから、生み出された瞑想法なのですから、しっかりやればそうなるのは自然です。


解決策がもたらされる


これはあまり期待してもらうと逆効果(瞑想の仕組みから、強い願望を持つとうまくゆかない仕組みになっています)なのですが、瞑想には、心を落ち着ける(思考をいったん止めて、感情が刺激されないようにする)ことによって、脳の情報処理を促進する効果があるように思います。


よく、ぐっすり眠った次に日には、昨日悩んでいたことが「なんだったんだろう」ってこともありますよね。


脳がキチンと情報処理をしてくれたことになります。


瞑想によって、それに加えて、「ああそういうことか」とか「こうすればいいんじゃない」ってのが出てくる確率が高まります。


想像の世界に入り込むことを防ぐことができる


体の動きや感覚などの瞑想対象に意識を集中することを一定時間続けると、「想像の世界」に入り込むことが少なくなります。


ここでいう「想像の世界」とは、すでにご説明している「想」が活性化している状態です。


そして、この「想」がネガティブなものであった場合には、たびたび引用させていただいている大野裕先生の「想像は現実よりもずっと苛酷です。空想の中では、現実以上の状況が広がります。」という状況をもたらすこともあります。(「初めての認知療法」講談社現代新書)


大野先生の言われる状況は、心の働きによって生まれる、『ネガティブな「想」に執着している』状態、と考えられます。


釈迦のとらえた「人の心のはたらき「人の認知のしくみ」では、「生じては消えてゆくものに喜びを見出し執着を感じれば苦悩の原因を生み出す」という心のはたらきによって、『ネガティブな「想」に執着している状態』と考えます。


人はネガティブな「想」、自分を苦しめる「想」であっても、「想」を生みだすこと自体に執着してしまうようです。


このような状態を、アルボムッレ・スマナサーラ先生はこのように記述しています。「想」を「妄想」と「概念」と置き換えて説明されています。」


「妄想の回転は苦しいものです。生きる力がなくなるのです。好きなことばかりを妄想することはできません。頭の中で勝手に概念が回転します。悪い概念が回転し始めたら、どんどん苦しくなってゆくのです。昔の失敗を考えると、受けた被害を考えると、過去の苦しみが再現されて人を苦しめるのです。これを知っておいても、概念の勝手な回転をストップさせることはできません。この苦しみから逃れられないのです。」


「概念の回転も自然法則なので放っておけばよいのです。」(以上「大念処経」サンガ より)


ヴィパッサナー瞑想では、このような時には、『ネガティブな「想」に執着している』ことを知って、『ネガティブな「想」に執着している』ことを手放す、「放っておく」ということを心がけます。


自分の体の動きであっても自分の体の感覚であっても、瞑想対象に集中している時には、「想像の世界」は思考から排除されますから、自分の体の動きや自分の体の感覚に集中することによって『ネガティブな「想」に執着している』ことを手放すこととなり、また手放す訓練にもなります


「現実よりもずっと苛酷」な「想像」「空想の中」にいると気付いたら、自分の体の動きや感覚に意識を向けることを、一定時間行えば、「想像」「空想の中」から脱出するきっかけになる、ということになります。


「想像」「空想の中」から脱出できれば、現実的な解決策を考えることもできるようになるでしょう。


続編「マインドフルネス何をするの」:https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/161710/


ただし、少し工夫が必要


その理由は、ヴィパッサナー瞑想が、


①しっかりとやれば効果が強力なこと


②2600年前から「出家者が解脱に至るための瞑想法」として最適化されて現在に至っているため、私たちがそのままやるにはやや不適な部分がある


②について、私の考えを説明します。


出家者は、釈迦の方法論によって「離欲」を実現して悟りに至っても、その生活に支障はないでしょう。安心して修行に専念できます。


しかし、労働して自らの生活の糧を稼ぎ、自己の価値観に基づく生き方や自己実現を目指している人々、つまり「欲望」の刺激によって成り立っている市場経済の中で、自己の生き方を追求するという「欲望」をもって生きている人々に対して、出家者と同様の「離欲」による、苦悩からの解決を求めるのは相当な困難を伴うと思われるからです。


もちろん、選択肢としての「離欲」や「非我」という方法の提示はよいとしても、「離欲」に至ることや「非我」を徹底することが必要、と説くのは、私たちにとっては「非社会的」な行為だとさえ、私には思われるからです。


「離欲」に至ることや「非我」を徹底するところには、自己の価値観に基づく生き方や自己実現という考え方からも離れることを意味するでしょう。


つまり、本来、仏教(テーラワーダ仏教)は、「出世間の教え」であり、出家者において実践されるべきもの(釈迦は自らの教えを実践し、受け継ぐためには、もっぱら修行に専念できる出家者でなければ難しいと考えたのでしょう)であると考えられるからです。


もちろん、「離欲」に至ることや「非我」を徹底することが、個人の自由な選択の結果、選択されたものであれば全く問題ありません。


そのように考えるので、テーラワーダ仏教の瞑想法が、苦悩の解消に役立つのであれば、宗教的な修行とは別に、苦悩を解消するための「自己探求のツール」として活用できるのであれば有用だろうと考えています。


私はこの立場ですし、そのような目的のために瞑想を続けてきました。


上記のように考えた場合、マインドフルネスは、仏教瞑想に源流を持つものの、現代人に最適化された瞑想、と位置付けられるように思います。


マインドフルネスについての一般的理解


心理療法分野で火が付いた


マインドフルネスは、カバットジンさんのマインドフルネス瞑想法、マインドフルネスストレス低減法、それに続くマインドフルネス認知療法が効果を上げたことによって、心理療法分野での関心が一気に高まったようです。


また、関心の高まりとともにマインドフルネスについて、神経科学や脳科学分野からの研究も盛んになっているようです。


それらの関心の高まりや研究を背景に、企業内能力開発への応用や、テーラワーダ仏教の「慈悲の瞑想」による「コンパッション」、「マインドフルな態度」ということが、さかんに喧伝されるようになったようです。


ヴィパッサナー瞑想と比較すると、一般的なマインドフルネスの理解は、「自己の思考との付き合い方の態度」訓練的な、かなりマイルドなものである印象があります。。


このブログでは、認知行動療法との併用でマインドフルネスをご紹介しているので、ジュディス・ベックさんの「認知行動療法実践ガイド:基礎から応用まで第3版」(星和書店)から引用してご紹介します。


『専門家のコンセンサスが得られたマインドフルネスの定義の一つに「開かれた姿勢、受容し、好奇心のこもった眼差しをむけつつ、目の前の体験に注意を向ける( Bishop et ai.2004)」がある。』


『マインドフルネスは、思考との付き合い方を変える手助けをしてくれる。』


西洋での定義と釈迦の方法論


批判的なわけではないのでご注意いただきたいのですが、Bishopさんの定義は、西欧のロゴスの伝統の基礎の上に立つものとの印象があり、概念による把握への信頼性、「概念化」を強く感じます。


このブログでたびたび引用させてもらいますが、エヴァン・トンプソンさんは、マサチューセッツ州での、ヴィパッサナー瞑想のリトリートに参加した時のことをこう語っています(「仏教は科学なのか 私が仏教徒ではない理由(日本語版2024年)」(Evolving))。


「しかし、リトリートの時にずっと次のようなことを考えないわけにはいかなかった。それは、自分の中で起きていることは、「ものごとをありのままに見ることを学ぶ」という表現とは嚙み合わないということだ。私たちには、瞑想実践のときの経験を言い表すための概念体系があらかじめ与えられていた。それは「感覚」「感情」「注意」「意志」など、表面だけ見れば日常的な概念だったが、実際には「刹那主義(momet-to-moment arising)」「無常(impermanence)」「正念(mindofulnes)」「非我(not-self)」「業(karma)」と言った仏教的な概念とも結びついていた。(中略)時折、先生方との面談がグループあるいは個人で組まれることもあったが、それらの面談もこの概念の枠組みを強化した。」


エヴァンさんの感想をもって、マインドフルネスの隆盛が、仏教モダニズム(エヴァンさんが批判対象としている欧米での仏教ムーブメント)の中に位置づけられれる、とは言いませんが、マインドフルネスも仏教モダニズムも、「概念化」という方法論を採用している点では共通するようです。


テーラワーダ仏教が、ヴィパッサナー瞑想は「ものごとをありのままに見ることを学ぶ」という標題を掲げながら、アメリカの人々により浸透しやすいように、テーラワーダ仏教の教理の「概念化」による教化、という戦略を取っているのかもしれません。


心の状態やはたらきは、他の人に見せることができないので、修行に専念できる出家者ではない方(より多くの時間が取れない方)に、マインドフルネスを説明し、指導するには「概念化」は効果的な方法とおもわれますから、Bishopさんのような定義はもっともなものです。


一方、ヴィパッサナー瞑想の根本経典の一つとされる「大念処経」での、釈迦の説法のスタイルは概念化とはかなり無縁です。


「こうなるためには、こうする必要がある、そのやり方はこうである、それをすると、こうなることを知り理解するだろう、それを知り理解したらこうすればよい」


そこにいたるには、こうすればこうなる、やってみなさい、というスタイルです。


釈迦は、「人の認知のしくみ」としての「法」と、その認識に至る瞑想方法は説きますが、それについての解釈やとらえ方は、各人に任せられている。


私は、釈迦の方法論を、そのように理解しています。


それゆえ釈迦の方法論を支持し、「仏教モダニズム」の「概念化」による教化、という方法論にはやや違和感を感じています。


釈迦は、教えは説くが、その教えは各人がつかむべきもの、と考えていたと私はとらえていますし、そのように考えれば、概念によって説明し、概念によって教導しようという方法論は必要なくなるでしょう。


しかし、釈迦の後継者たちは、一生懸命、釈迦の教えを「概念化」し、自分たちの理論的な基盤としての教理をつくりあげた、というように感じています。


そして布教する側の人たちが、私たちは釈迦の説く方法で悟った人であり、釈迦の説く真理を体現している、だから悟っていない人々を悟りへ導くのだ、と考えていると仮定したら、「概念化」による教導は、効果的な手段になります。


「概念化」による教導は、「自己探求」にはつながりませんので、私は推奨しません。


続編「マインドフルネス何をするの」:https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/161710/


マインドフルネスの源流


「マインドフルネスってそもそもなんなの?」ってことを押さえるために、少し、マインドフルネスの源流と展開を見ておきます。


大きくは、2つに源流が求められるようです。


①東南アジアのテーラワーダ仏教の修行法である「ヴィパッサナー瞑想」


②日本の「禅」


マインドフルネスは、アメリカでは大人気なようですが、そこには、仏教を科学的なものであるとする、テーラワーダ仏教の「仏教モダニズム」活動が影響を与えているようでもあります。


源流①ヴィパッサナー瞑想

語源と意味の変遷

マインドフルネスという言葉は、イギリス人の Rhys Davids さんという方が、1881年にパーリ語の「 Buddhist Suttas 」を出版した際に、パーリ語の「 sati 」サティに、英語訳として「マインドフルネス」という言葉をあて、「 sammāsati 」(漢語訳「正念」)に「 right mindfuless 」とされたことことに由来するようです。


Rhys Davids さんが翻訳したのは、インドからスリランカへ、スリランカから東南アジアへと伝来したテーラワーダ仏教が正典とする、インドの地方言語パーリ語で書かれた阿含経です。


テーラワーダ仏教は、日本に伝わった仏教とは別系統の仏教です。


釈迦の教えを聞いた弟子たちが、釈迦の教えを口承で伝承し、後に文字化されて今日に伝えられているとされるものが、阿含経です。


テーラワーダ仏教で、修行のために行う瞑想法が、ヴィパッサナー瞑想ですので、「 sammāsati 」(漢語訳「正念」)に対する「マインドフルネス」という言葉は、ヴィパッサナー瞑想に由来するということになります。


時代は下って1954年に、テーラワーダ僧であった Nyanaponika Thera さんが、「仏教瞑想の核心―マインドフルネスに基づく精神修養」という本で、仏教瞑想の中心にマインドフルネスを位置づけ、マインドフルネスは「正念」そのものではなく、「最小限のありのままの注意」「bare attention 」 であると解説したことから、その後、西洋では、マインドフルネスを「ありのままの注意」とする見方が広がり、仏教瞑想に関する多くの著作の中で仏教瞑想の本質は、マインドフルネスにあるとされるようになったそうです。

(日本評論社 マインドフルネス-基礎と実践- 菅村玄二さん「マインドフルネスの意味を超えて―言葉、概念、そして体験ー」より)。


仏教モダニズム


Nyanaponika Thera さんの背景にも、「仏教モダニズム」と言われる活動があったのかもしれません。


エヴァン・トンプソンさんは、「仏教は科学なのか 私が仏教徒ではない理由(日本語版2024年)」(Evolving)の日本語版序文でこのように語っています。


「西洋における多くの仏教指導者たちは、現代版の仏教徒の瞑想実践を教えることで仏教を紹介し、「仏教はもっとも科学に親和的(science friendly)な宗教である」と語ったり、「実際のところ仏教はまったく宗教ではなく、むしろ哲学的であり、生き方であり、あるいは特別な内観による心の科学に基づいたセラピーなのだ」などと語っています。」


「私の関心は現代の西洋世界における仏教モダニズムにあるのですが、仏教モダニズムの起源は十九世紀、二十世紀のアジアに存在するということを理解するのは重要です。つまり仏教モダニズムは、奇異な西洋版の仏教というわけではないのです。私は主に、その起源がスリランカとビルマにおける現代のヴィパッサナー瞑想運動の形式のなかにあったと論じています。それらの運動は、仏教を合理的で経験的な心理学の一種として提示する傾向があるのです。」


エヴァ・トンプソンさんの上記のお話に接すると、テーラワーダ仏教のお坊さんが語る仏教観、「(テーラワーダ)仏教は宗教ではなない。なぜならば釈迦が説いた通りの方法で瞑想に取り組めば解脱に至ることが証明できる、釈迦は真理を説いたのだ。証明できなことを信仰しなさいというのが宗教だから、仏教は宗教ではない。」という論理を展開する背景には、どうやら「仏教モダニズム」がありそうだ、との理解に至ります。


「仏教モダニズム」により、なんとなく私がテーラワーダ仏教に抱いていた違和感に納得がゆきました。


私が感じていた違和感を「仏教モダニズム」への理解を加えて表現すると、テーラワーダ仏教は「科学との接近によって、釈迦の方法は証明できるのだから宗教ではない、釈迦は真理を説いた、ゆえに仏教は他の宗教と異なる、という布教戦略を取っていたのだ」、ということになります。


また私は、テーラワーダのお坊さんの説くこと=釈迦の説いたこと、という理解はもっていません。


テーラワーダのお坊さんの説くこと=釈迦入滅後テーラワーダが作り上げた釈迦の説いたことの解釈、と理解しています。


「仏教モダニズム」によって、テーラワーダ仏教は、科学と瞑想を結びつけることで、釈迦が説いたことは真理、私たちは釈迦が説いた真理に基づいて悟った者、だから私たちは真理を説いているのです、という構図を作ろうとしているように感じます。


また、マハーシ・サヤドーさんによる瞑想センター開設も、「仏教モダニズム」の流れの中から実現したことかもしれない、とも感じるようになりました。


エヴァ・トンプソンさんの論考に接した時に、下記に引用する、馬場紀寿先生が記述する、上座部大寺派の戦略、経営戦略でいうところの、大乗に対する「差異化戦略」、むしろ「排除戦略」と言った方がいいかもれない戦略と同様のことを、テーラワーダ仏教は、現代社会に通用する方法として、他の宗教に対して、仏教は科学的という「差異化戦略」として、行っているのではないかと感じました。(「初期仏教 ブッダの思想をたどる」岩波新書1735)


「後四世紀頃、上座部大寺派は『島史』という史書を編纂した。『島史』が創造した歴史によれば、スリランカの大寺(マハーヴィハーラ)こそが、ゴータマ・ブッダが降臨した聖地であるという。また、大寺には、結集された仏説が完全な形で伝承されているとする。さらに大寺は、世界最初の王であるマハーサンマタ王(参照先省略)の末裔にして釈迦族の血を引く王によって設立されたというのである。」

(中略)

「こうして史書により作られた歴史観に立って、五世紀前半、上座部大寺派は、パーリ三蔵の正典化を完了し、大乗仏典を「非仏説」として排除する教理的根拠を作り上げた。ブッダはパーリ語で話したのであり、三蔵という正典は、パーリ語でこそ伝承されるべきだという主張をした。」


上座部大寺派が現在の、テーラワーダです。


現在では、私たちでも理解できるパーリ語正典の日本語訳が、春秋社と大蔵出版から刊行されています。


大蔵出版は、片山一良さんがお一人で訳しているそうです(大仕事だと思います)、春秋社版は、ベテラン若手混合で訳しているようです。


Rhys Davids さんがパーリ語正典を英訳してから約120年、日本にも優秀な若手研究者・翻訳者が育っているようです。


大乗仏教の国の日本では、あまり日が当たらない仕事かもしれませんが、世界に誇っていい仕事だとおもっています。


いずれも底本は、Rhys Davids さんらが、1882年に設立したパーリ文献協会( The Pali Text Society )から出版されている阿含経のようです。


源流②「禅」


マインドフルネス瞑想法


禅に取り組んだJ.カバットジンさんが、「マインドフルネス瞑想法」を創始しました。


「カバットジンは1979年に、マサチューセッツ大学医学部の中にマインドフルネスに基づくストレス低減プログラムを実施するセンターを開設し、初期は医学的治療が困難な慢性疼痛の対処法として成果を上げて来た。それ以来、徐々に適用範囲を広めて、乾癬や高血圧などの心身症的疾病に適用したり、過食などの食行動の問題や、不安、パニック障害などの心理的な問題も扱い検証してきた。」


カバットジンさんの「マインドフルネスに基づくストレス低減プログラム」は、集合研修と自宅実践を組み合わせた8週間のマインドフルネス・トレーニング・プログラムです。


この方法が、マインドフルネスストレス低減法(MBSR)となりました。


「1995年以降は、ストレスクリニックは、マサチューセッツ大学のマインドフルネス・センター(Center for Mindfulness in Medicine , Health Care , and Society : CFM)の中に位置づけられています。マインドフルネス・センターでは、学校や企業に本プログラムを提供したり、医学上の問題を抱える患者に実施したり、専門家の育成にあたったり、継続的な研究を行ったりしています。」

(「マインドフルネスストレス低減法」 J.カバットジン 春木豊さん訳 北大路書房)


カバットジンさんはこのように言っています。


『「マインドフルネス瞑想法」は、″ 注意集中力 ″ を高めるためのトレーニングを体系的に組み立てたものです。これはアジアの仏教にルーツを持つ瞑想の一つの形式を基本としています。注意を集中するということは ″ 一つひとつの瞬間に意識を向ける ″ 単純な方法です。この力は今まで全く意識していなかったことに、意識的に注意を払うことによって高まってきます。つまり「マインドフルネス瞑想法」は、リラクセーション(緊張がゆるみ、安らいでいる状態)や注意力、意識、洞察力をもたらす潜在的な能力を活かして、自分の人生を上手に管理する新しい力を開発するための体系的な方法なのです。」(前掲書「マインドフルネスストレス低減法」)


九州大学の安野広三先生は、カバットジンさんのMBSRの機序(メカニズム)についてこのように述べておられます。


「ボディスキャンや座瞑想のワークでは、自ら積極的に痛みの感覚に対する暴露を行いながら、なおかつその体験に対して破局的な、認知・情動的反応、即時的な行動を起こさないという在り様が繰り返し訓練される。それを通じて、痛みに対する恐怖などの感情的苦痛や破局的思考、非適応的な行動反応が減少し、痛みに対するアクセプタンスが促進される。また、瞑想の中で移りゆく思考や記憶、感情をマインドフルな気づきのなかで観察することを続けることで、思考や記憶、感情を現実とは区別して、単なる心の出来事してとらえるという在り様(脱中心化)も発展する。それにより痛みに反応しておこるネガティブな解釈や予想、不安や恐怖などを客観的に距離を置いてとらえられるようになり、それからくるネガティブな影響を減少させることにつながる。」(日本評論社「マインドフルネス-基礎と実践-」)


カバットジンさんと禅


カバットジンさんは、自身の禅とのかかわりについて、このように言われています。


「1960年代初期に、まだ学生だった私に初めて日本の禅というものを教えてくれたのは、鈴木大拙でした。その後、鈴木俊隆著“Zen Mind , Begneer's Mind(初心禅心)”に出会い、本格的に瞑想の精神を探求する道に足をふみいれることとなったのです。十三世紀の偉大なる禅師、道元のすぐれた思想にも大きな影響を受けました。」(前掲「マインドフルネスストレス低減法」


鈴木大拙さんは、エヴァン・トンプソンさんの前掲書では、「1952年から1957年までコロンビア大学で教鞭とって」おり、「彼の翻訳やエッセイ、また哲学的な著作は、西洋において今なお大変な人気です。ヨーロッパのロマン主義とアメリカの超絶主義に影響を受けた彼の著作は、禅仏教を一種の合理的神秘主義として、またすべての宗教の神髄であると提示しています。」と説明されています。


鈴木大拙さんが、「すべての宗教の神髄であると提示しています。」と主張したことの当否は私にはわかりませんが、宗教家としての自己の依って立つ基盤からは「離欲」出来なかったのかもしれない、との思いが生じます(誤解なさらないでください。「離欲」していないことを批判しているのではなく、また「離欲」すべきと主張しているのでもありません。「欲」があるほうが自然でありノーマルですから。)。


また、「禅仏教を一種の合理的神秘主義として」として紹介のであれば、非常に優れた戦略家の一面を感じます。合理的な記述の上に、「神秘主義」をまとわせることで、合理的なものだが私たちの知らなかった魅力的なもの、ということを印象付けることをねらったのかもしれません、意図せずに。


中央公論社 世界の名著第2巻「大乗仏典」の付録で、長尾雅人先生がこのように言われています。

昭和42(1967)年12月12日、梅原猛先生との対談です。


「教団とか宗門というところまではいかないが、たとえばアメリカにおける禅ブームというもの、あれはブームでも何でもないということはいえるけれども、ペーパーバックの本屋を見ると、禅の本が非常に多い。鈴木大拙さんのものももちろんあるが、アメリカ人その他の書いたものがたくさん出ている。これらのものがアメリカ人の心にいろんなものを植えつけているのですよ。それは宗門とか教団とかいう形とはちがうが、しかしかなりの影響力を将来もってくると思いますね。」


カバットジンさんが、禅と出会い傾倒された時期と重なります。


道元さんは、中国に留学したお坊さんです。中国の仏教は北伝(大乗)仏教なので、ヴィパッサナー瞑想とは異なる系統です。


感覚的なお話でしかないのですが、「仏教瞑想の本質=マインドフルネス=ありのままの注意」という文脈の中で、カバットジンさんは、道元さんから学んだ座禅観から、「注意集中」という中核的な方法論を抽出して、世に送り出したものが、マインドフルネス瞑想法ではないか、という印象を持っています。


ヴィパッサナー瞑想の「Sati、サティ」⇒「マインドフルネス」⇒「ありのまま注意」という流れの中で、カバットジンさんは、道元さんの座禅から「注意集中」というエッセンスを抽出し、マインドフルネス瞑想法の中心に位置付けたものと思われます。


マインドフルネスの展開

展開①認知療法とマインドフルネスの統合


「マインドフルネスストレス低減法が爆発的に心理療法の分野で知られるようになったのは、なんといっても認知療法の分野で著名なティーズデール(J.D.Teasdale)らがこのプログラムを取り入れてうつの再発予防に効果があるということを検証したことがある。」(前掲書「マインドフルネスストレス低減法」)


これがマインドフルネスに、A.T.ベックさんの認知療法を統合したものが、マインドフルネス認知療法です。


マインドフルネス認知療法は、マインドフルネスストレス低減法と同様に、8週間の集合研修+自宅実践プログラムです。


マインドフルネス認知療法は、創始者の1人、J.ティーズデールさんが、アメリカ生まれの仏教僧Ajahn Sumedho の講演を聞いたことがきっかけで誕生したようです。


「講演中にJhonは、Sumedhoが述べた仏教による苦悩の分析の核心部にあるアイデアと認知療法の基本的仮説の類似性に衝撃を受けた。両方のアプローチが、私たちを不幸にするのは経験そのものではなく、(仏教分析では)私たちの経験との関係または(Beckの分析では)私たちの経験の解釈であることを強調していた。また仏教のマインドフルネス瞑想の中核が思考として(つまり「真実」や「私」としてではなく、精神的事象として)思考として関係していくことの習得を含むことも明白であった。人はこうすることで、自分の行動をコントロールしたり、不幸は心の状態を作り上げる役に立たない思考パターンの影響から自身を解放できるのだ。」(マインドフルネス認知療法原著第二版 北大路書房)。


推測になりますが、J.ティーズデールさんは「仏教モダニズム」との接触を契機として、マインドフルネスに認知療法を統合するアイディアを得たのかもしません。


そうだとすると、禅を学んだカバットジンさんの「マインドフルネス瞑想法」は、J.ティーズデールさんらのマインドフルネス認知療法において、テーラワーダ仏教との再会を果たしたことになります。


マインドフルネス認知療法では、プログラムへの採用は見送っているものの、テーラワーダ仏教の「慈悲の瞑想」に言及されています。(上掲書)


展開②マインドフルネスの適用範囲の拡大


「またマインドフルネスの概念は上記の認知療法家たちのほかにも、行動療法の立場からヘイズ(S.C.Heyes)やリネハン(M.Linehan)らもとりあげている。このことはマインドフルネスの概念が心理療法の分野に広く浸透しつつあることをしめすものであろう。」(前掲書「マインドフルネスストレス低減法」)


ヘイズは、アクセプタンス&コミットメントセラピー、リネハンは、弁証法的行動療法を創始しています。


アクセプタンス&コミットメントセラピー(ACT)について、安野広三先生ご説明を引用します。


「ACTは臨床行動分析を基盤として開発された第三世代と評される認知行動療法の一つであり、MBSRとはその発展してきた経緯は異なるが、マインドフルネスの要素や痛みのアクセプタンスの発展を目指すという側面では、基本コンセプトにおいて同様の要素を含んでいると考えられる。」

(中略)

「慢性疼痛のような当面は避けることのできない痛みの感覚やそれに必然的に随伴するつらい思考や感情をコントロール・回避しようとする努力は、かえってそれらに関連する苦悩を拡大させる。さらに、そのようなコントロールと回避のための格闘に日常の労力と時間を消費し続けることで日々の生活は痛みに支配され、有意義でいきいきとした生活から遠ざかってしまう。痛みやそれに伴う心理的苦痛をありのままに体験することで、それらとの格闘から派生する苦悩の拡大から自由になることができる。そして痛みとの格闘に日々の労力を使うのではなく、痛みがあっても、自分の人生の価値に沿った活動に取り組み続けることに全力を尽くし、価値のある日々を送られるようにすることをめざす。」(日本評論社 前掲書)


また、マインドフルネスは、認知行動療法や他の心理療法にも技法として、さかんに取り入れられています。


マインドフルネスについての私の考え

仏教についての信仰は不要


エヴァ・トンプソンさんの「私は認知科学における心や意識の理解を探求し豊かにしてゆくために、瞑想実践と仏教の哲学的心理学を用いることの重要性を強く支持しています。」という考えに私は同意します。(エヴァン・トンプソンさん前掲書)


そして、私は、エヴァ・トンプソンさん同様に、仏教徒となることを選択していません。


仏教徒でなくとも、釈迦の説いた方法や、釈迦の至った瞑想による境地を知ることはできます。


仏教、言い換えれば釈迦の入滅後に発展した仏教教学を知らない方が、かえって釈迦の説くところを素直に理解できるのではないかと思います。


例えば、竹村牧男先生は、「実際には、十二項目の縁起を釈迦がはじめから観じたのではないことは明らかである。」(「インド仏教の歴史」講談社学術文庫)とされています。


竹村先生の説が正しいとすれば、阿含経の内容を十二支縁起で説明することは、釈迦が説法時には認識していないことを、釈迦入滅後に仏教教団において成立した仏教教学で説明することになります。


その場合は、釈迦は明確に説かなかったが、釈迦はこのように考えたのだ、ということになります。


お坊さんにとっては、竹村先生の説は誤りで、自教団の教学の方が真理である、という考えになるでしょう。


釈迦の説法を、釈迦の説法より後に成立した仏教教学で解釈しているのではないか、と感じることには時々出くわします。


釈迦は入滅の直前に、以下のように説いており、釈迦の言う「理法」「法」に、私たちは阿含経の日本語訳を通じてアクセスできますから、瞑想に取り組むに際して、「仏教」や「仏教教学」という枠組みの中で、釈迦の方法論やヴィパッサナー瞑想をとらえる必要はないと思っています。


「わたしは内外に隔てなしに〔ことごとく〕理法をといた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は、存在しない。」


「向上につとめた人が一切の相を心にとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」(以上 春秋社 原始仏典第二巻 第16経「ブッダ最後の旅ー大般涅槃経」)


教え切った、すべてを説いたのだから、後は君たちの努力次第だよ、ということのように感じます。


教え伝える対象として出家者を対象とした(そうではなかったかもしれませんが)ものの、釈迦の語ったことは、悟ったものだけが悟りを指導できる、というテーラワーダの考え方とは異なるものを感じます。


瞑想の中核「Sati、サティ」


「Sati、サティ」を考える


ヴィパッサナー瞑想の指導者の方は、「Sati、サティ」を「気づき」という意味でつかわれることが多いようです。


パーリ語は、行為を表す言語だそうです(アルボムッレ・スマナサーラ先生「ブッダの実践心理学」)から、「Sati、サティ」の解釈についての異同は、


『行為そのもの』への注目=「マインドフルネス」⇒「ありのまま注意」⇒「注意集中」と、


『その行為によって到達すること』=「知る」気づき」「自覚」という、


注目する対象の違いかもしれません。


ちなみに日本での「Sati、サティ」の解釈は、「心を一点にとどめて決意することを「念」(sati.Skt.smrti)という。」(春秋社 原始仏典第2巻 大22経「心の専注の確立」大念処経の註)というもののようです。


「Sati、サティ」が指し示すところを考えると、瞑想法についての参考になりそうです。


ヴィパッサナー瞑想は一般的に、観察瞑想と言われていますが、その内容は以下のようなものだと理解しています。


その各段階で、『行為そのもの』としての「Sati、サティ」が必要とされ、「指し示す行為によりもたらされる状態」としての「Sati、サティ」がもたらされるように思います。


①集中力を上げて観察する

②観察によって知る=気付きを得る

③気づきによって自覚する

④自覚に基づいて、好ましい行為を実践する


ヴィパッサナー瞑想は①②③の観察対象が定められており、身体、感受(感覚)、心(の状態)、法(事象)とされています。


また①においては、例えば呼吸の瞑想には、集中状態の創出のために、観察瞑想とは別のもう一つの瞑想「集中瞑想」の効果も活用するようです。


なぜ、身体、感受(感覚)、心(の状態)、法(事象)と定められているのかというと、釈迦の認知論についての「③気づきによって自覚する」に至るためです。


釈迦の認知論


釈迦のとらえた「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」をかなり簡単にいうと、


ⅰ.高い集中力でもって身体、感受(感覚)、心(の状態)、観察してゆくならば、身体、感受(感覚)、心それぞれの働きと、それらの働き方の法則ともいえる「法(事象)」が存在するのみであると知るだろう


ⅱ.人は五感と意識を介することによってのみ外界とかかわる、人の五感と意識を通じた認知する働きは止められない


ⅲ.その一方で、五感と意識が作り出す感受(感覚)、思考、意欲、識別は、生まれては消えてゆくもの


ⅳ.生じては消えてゆくものに喜びを見出し執着を感じれば苦悩の原因を生み出す


ⅴ.苦悩の原因を自らの自覚に基づいた行為によって取り除けば苦悩はなくなる


というものです。


ジュディス・ベックさんは、『マインドフルネスは、思考との付き合い方を変える手助けをしてくれる。』と言っています。(ジュディス・ベック前掲書)


ヴィパッサナー瞑想では、感受、思考、感情、判断は生まれては消えてゆくにもかかわらず、それらに喜びを見出し愛着の対象にするから苦悩の原因となることを知り、それらへの執着をなくすことが目指されます。


マインドフルネス認知療法は、この考え方を採用し、うつの再発を促すネガティブな「反芻(はんすう)」について、受講者が到達することが目指される「自己の思考との付き合い方の態度」を、「思考は事実ではない」というところに置き、「自分の思考から距離をおいて」付き合うことを目指したものと理解しています。


また、ティーズデールさんたちは、マインドフルネス認知療法の開発に際して、「脱中心化」ということを一つの狙いとしています。(マインドフルネス認知療法原著第二版 北大路書房)


大山泰宏先生が『「わたし」とはひとつの虚構、おそらくは人類が手にした最大の虚構であるともいえる。』(改定新版「人格心理学」NHK出版)といわれています。


『「わたし」とはひとつの虚構』ということを踏まえると、「脱中心化」とは、「くるしい」と主体的に感じ「くるしむ」ことから、 Bishop さんらが定義するマインドフルネスの「開かれた姿勢、受容し、好奇心のこもった眼差しをむけつつ、目の前の体験に注意を向ける」(ジュディス・ベックさん前掲書)ことによって、「今、『わたし』はくるしいと感じている」という認知への転換=「『わたし』という虚構を意識せず苦しい感じること」から、「苦しいと感じている『わたし』がいる」という認知への転換、を目指すものだとの理解が成り立ちます。


「自己探求ツール」と考える理由


「④自覚に基づいて、好ましい行為を実践する」と聞くと、仏教色を感じるかもしれません。


しかし、ここでは自分以外の外部から与えられる「好ましい行為」ではなく、自らが自覚に基づき選択した「自分に苦悩を生み出さない、自分にとって好ましい行為を実践する」という解釈で使っています。


自己の苦悩からの解放の手段を外部に求めるのではなく、苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆくことから、マインドフルネスを、「自己探求のツール」ととらえています。


一般的に言って「自己の苦悩からの解放の手段を外部に求める」のであれば、宗教は有効な回答を与えてくれるかもしれません。


「苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆく」という方法で有力なのは、カウンセリングやセラピーです。


「苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆく」のは、あくまでもクライエント自身であり、カウンセラーやセラピストは、「苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆく」援助者です。


カウンセラーやセラピストは、1人では困難を感じる「苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆく」ことの伴走者、ということです。


そのように考えれば、マインドフルネスを、カウンセリングで活用できる「自己探求のツール」、さらに踏み込んで、カウンセリングに代わる「自己探求のツール」と位置付けることが可能であることが、ご理解いただけると思います。


そしてまた、仏教徒であることは不要(仏教の概念は、むしろ妨げになるかもしれない)だと考えていることもご理解いただけると思います。


ただし誤解しないでください。


信仰をお持ちいただくことは個人の自由の領域に属しますから、現に今もっている信仰もまた不問です。


釈迦の行為論


「④自覚に基づいて決意し実践する」ことは、釈迦の「行為論」の段階に入ります。


釈迦は宿命論や運命論を排し、自分の自覚に基づく「行為」が自分以外の者に影響を与え、その影響が自分に返ってくる、という考えであったように考えています。


釈迦は正しい行動、徳行であっても、2種類あると説いています。


釈迦の説く「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」を理解すれば、2種類の識別は難しくありません。


ただし、釈迦の説く、より好ましい行為を実現するのは、現代社会で労働に従事している私たちは、出家して労働に従事せず修行に専念しているお坊さんたちより、相当に大変かもしれません。


もっとも、お坊さんたちも「仏教モダニズム」という活動を通じて、「布教活動」という労働に従事しているととらえられるのかもしれません。


釈迦の方法論と心理療法


以下のようには考えられないでしょうか。


ヴィパッサナー瞑想を、心理療法としてとらえた場合には、「釈迦の認知論」は、「心理教育」に該当する


「②観察によって知る=気付きを得る」「③気づきによって自覚する」は、認知療法的なアプローチ


「④自覚に基づいて決意し実践する」は、行動療法的なアプローチ


奇妙に一致している、という話ではなく、「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」を探求してゆくと、苦悩から解放されるには、


①「人の心のはたらき」を知って、『「人の心のはたらき」から生み出される認知』をより適合的な(苦しみを生み出さない)ものにしてゆこと、


②「適合的な(苦しみを生み出さない)」認知に基づいた行動よって、好ましい結果を生み出し、「適合的な(苦しみを生み出さない)」認知をより強化すること


双方が必要、というになるように思います。


続編「マインドフルネス何をするの」:https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/161710/

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