婚活をたてなおす(2-2)「マインドフルネスの基礎知識」
- 婚活のお悩み
マインドフルネスで何が得られるのか?
自己探求⇒意志による行為への転換
マインドフルネスを「自己探求に基づく意志による行為への転換」プロセスであると思っています。
自己探求
心理学や心理療法、カウンセリング、脳科学などというものの無い時代に、釈迦は、自らの心のうごき、はたらきを観て苦悩の性質、苦悩の発生とそれを滅する方法を、瞑想のみによって解明したのですから、釈迦の知見は役に立ちます。
さらに、今日の私たちには、自らの苦悩を知ることについて、釈迦は持っていなかったツールがあります。
それは、心理学や心理療法、カウンセリングの方法論とその前提となるモデル、つまり、一定の効果性が認められた心理療法やカウンセリングの前提となる「自分の心の理解のためのモデル」がある、ということです。
「自分の心の理解のためのモデル」を参照しつつ瞑想することは、限られた時間の中で瞑想に取り組まなければならない現代人にとっては、有効な手掛かりになります。
心理療法の本を読み、心がざわつき「なんだか自分にも(この本にかいてあることが)ありそうだな」と感じた日の瞑想もしくは数日の内に、「ありそうだな」と感じたことが「これだったのか」ということは何回も経験しています。
マインドフルネス瞑想法を創始したカバットジンさんに、大きな影響を与えた道元さんはこのように言っています。
「佛道をならうとは、自己をならう也」(正法眼蔵・現成公案)
それゆえ「参見知識のはじまりより、さらに焼香・礼拝・念仏・看経をもちいず、ただし打座し身心脱落することおえよ。」(正法眼蔵・弁道話)
道元さんの座禅は、釈迦が創始したとされるヴィパッサナー瞑想とは別系統ですが、お二人瞑想に対する考えは、自分の心のはたらきを知ることが行き着く先だよ、という点で共通しているように思います。
釈迦が教えを説き始めた当時には、今日私たちが「仏教」というものからイメージするような儀式も、教義もしきたりもありませんから、道元さんは場所と時間を超えて、釈迦が説いた教えの中核的な境地へと到達したように感じます。
「意志による行為」への転換
マインドフルネスについて、あまり語られることのない部分だと思います。
この方法論は、教義に基づく修行として行うらならば、きわめて効果を発揮しますし、「心理療法」ととらえた場合には、とても理にかなっています。
ヴィパッサナー瞑想で「行うこと」と、ヴィパッサナー瞑想を「行うことによってもたらされる心の変化」は以下のようなものだと考えています。
①釈迦の認識した「人の心のはたらき」を知る
②「人の心のはたらき」を確認するために「自分の観察に集中する」
③集中力と観察力が高まると「人の心のはたらき」について「自分への気付き」があらわれる
④「自分への気づき」があらわれたら「自分への気づき」をもって「他者を観察する」
⑤「他者を観察する」ことを通して「自分への気づき」を、「人の心のはたらき」への「自覚」へと高める
⑥「自覚」にもとづき、(好悪の感情に影響された)欲求に突き動かされる「人の心のはたらき」を排除し、自らが「意志」により選択した「行為」を行う
ちなみに『自らが「意志」により選択した「行為」を行う』という考え方は、現代の心理療法において『クライエントの価値観に基づいた行動をとることを支援する』方向性、方法論と、同じ性質を持つように感じます。
例えば、ジュディス・ベックは、「認知行動療法実践ガイド:基礎から応用第3版」星和書店で、リカバリー志向の認知療法CT-Rについて、以下のように語っています。
「従来の認知行動療法とCT-Rでは、時間の方向性に対する視点の違いがある。従来の認知行動療法では、過去の1週間に起きた問題について話し合い、それらの問題に対して認知行動療法の技法を用いる傾向がある。一方、CT-Rではこれからの1週間において、クライエントの願い、価値、目標に向かって新たに踏み出すステップに着目する。そうしたステップを踏んでいこうとするときに直面する困難や妨害を乗り越えるために、従来の認知行動療法の技法を用いるのである。」
釈迦の方法論は、「こうであらねばならぬ」というものではかなったようです。
また、「③集中力と観察力が高まると「人の心のはたらき」について「自分への気付き」があらわれる」ということのなかには、現在の心の平静を妨げる、過去の出来事の記憶、信念やスキーマも含まれると考えています。集中力が高まれば、必然的に「現在の心の平静を妨げる、過去の出来事の記憶、信念やスキーマ」へと意識が向かうでしょうし、それらを解消することで、さらに集中状態が高まると考えられるからです。
上記のプロセスを知るには、釈迦の説法である阿含経を読む必要があります。現代では釈迦が説いたとされる阿含経が、読みやすい日本語版で手に入ります。
心理療法で代表的な位置を占めている(と思っています)認知行動療法では、心理療法に取り組む前に、認知行動療法が前提とする心理モデル(人のこころのはたらき)について「心理教育」を行います。
心理教育を行うことで、クライエントに安心感を持ってもらったり動機付けしたりする(できそうだと感じてもらう)ことを通じて、効果を上げるためです。
釈迦は、まず説法によって「人の心のはたらき」についての心理教育を行い、それを自分で確かめる方法(ヴィパッサナー瞑想)を説き、「自分への気づき」を得たなら、「自分への気づき」をもって、他者を観察してみなさい、そうすれば「人の心のはたらき」がおのずと理解できるだろうと説き、
さらに、『「人の心のはたらき」がおのずと理解できる』段階に至っていれば、『(好悪の感情に影響された)欲求』に影響されない心の働き(智慧)が発現しているのだから、智慧に基づく「意志」よって好ましい(迷いや苦悩を生み出さない)行為を選択しなさい、そうすれば迷いや苦悩がうみだされることはなくなるよ、という方法論であるように感じています。
釈迦は、このような境地を自らが得、かつそれを説くために、死の直前まで説法を行い、自らの得たところを余すところなく伝え続けるという自らの「意志による行為」を貫徹したように感じられます。
好悪の感情に突き動かされなくなる
ヴィパッサナー瞑想(ここでは『身体にむけた注意』といっています)による利益として、好悪の感情、欲求に突き動かされなくなる、ということを釈迦は明確に語っています。
「比丘たちよ『身体に向けた注意』を習い、養い、強化し、基本として、実行し、繰り返し、完全に習熟すると、次の十の利益が期待される。十とはなにか。
1.好き嫌いを克服できるようになる。彼は嫌悪感をものともせず、生じてくる嫌悪感を打ち負かし続ける。
2.恐れと怖じ気を克服できるようになる。かれは恐れと怖じ気をものともせず、生じてくる恐れと怖じ気を打ち負かし続ける。
3.寒さ、暑さ、飢え、渇き、虻・蚊・風・熱・蛇との接触や辛辣で不愉快な発言に耐え、身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえられるようになる。
4.現世で気持ちよく過ごすことのできる、雑念をはなれてスッキリした四つの禅定を、思うままに得、難なく得、苦労なく得られるようになる。
(以下省略)(春秋社 原始仏典第7巻 第119経)
「辛辣で不愉快な発言」は、現代ではハラスメントに該当するかもしれず、「耐え」るよりもしかるべき方法によって救済を求めるべきことです。
しかしながら完全な救済がもたらされるとは言えませんから、自衛策は重要です。
「身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚」は医療によって対処すべきことですが、2600年前の時代では法による救済も、医療による対処も限定であったであろう、ということを前提に理解する必要があります。
現代の医療によっても治癒できない慢性疼痛、「身体に身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚」に対して効果を上げたものが、カバットジンさんの、マインドフルネス瞑想法に基づくマインドフルネスストレス低減法(MBSR)です。
恐怖の克服は多大なメリットがある
「2.恐れと怖じ気を克服できるようになる。かれは恐れと怖じ気をものともせず、生じてくる恐れと怖じ気を打ち負かし続ける。」は、現代人にとっても多大なメリットをもたらすと思います。
それは、心理的苦悩の発生のしくみ、例えば、過去の出来事により自己の内に形成された認知行動療法の「中核信念」や、スキーマ療法の「早期不適合スキーマ」には、過去の出来事による「恐怖の記憶」が関連している、言い換えれば「恐怖の記憶」に触れることを回避したいがための方策であるように思われるからです。
幼少時に体験したことからもたらされる「恐怖の記憶」が温存され再現されると仮定するならば、今現在において幼少時と同じ経験をした時に、感じる恐怖は、現在の大人になった自分が感じる今現在の「恐怖」ではなく、幼少時に感じ記憶された「恐怖の記憶」が再現されるということになります。
現在の大人の自分には、親の庇護をうけずとも、自分で事態を打開する力がありますが、自分だけでは生きてゆけない幼少時に感じ記憶された「恐怖の記憶」が再現されるということになると、現在の大人の理性的な判断によって認知の表層における再構成、修正だけでは、『幼少時に感じ記憶された「恐怖の記憶」が再現される』ことは、容易には克服できない、ということになります。
このような「心のはたらきのしくみ」に、気付き、自覚にまで高まれば、『幼少時に感じ記憶された「恐怖」が再現される』ことを克服する道が開かれれるように思います。
それゆえでしょうか、ヴィパッサナー瞑想では、マインドフルネスとは異なり、今現在の感情を観察する、という方法を取りません。
思考を止め、感情の生成を停止し(初禅の段階に至り)、感情に影響されない「尋」と「伺」により、感情の影響を排除して、心を観る心の随観へと進むのだと考えられます。
これは恐怖という感情の生成を停止したうえで、瞑想状態において、心の随観によって、苦悩の原因となっている幼少期の「恐怖の記憶」(「恐怖の記憶」に基づく自分自身の他者や世界への解釈の方法=中核信念、スキーマ)が、現在の苦悩を生み出していることに気付き、『幼少期の「恐怖の記憶」』を修正、無力化するならば、現在の苦悩の発生原因を克服することができる、ということではないかと思います。
上記の考え方は、私がすでに認知行動療法やスキーマ療法を学習したことによる影響が多大にあるようにおもいます(認知行動療法やスキーマ療法からヴィパッサナー瞑想の方法論を解釈している)ようにおもいますが、逆に言えば、認知行動療法やスキーマ療法と、マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想の方法論)は整合的、ということが言えるように思います。
スキーマ療法のおいて、早期不適合スキーマの修正は、チャイルドモードへのアクセスし、治療的再養育法により、チャイルドモードをヘルシーアダルトモードへと成長させ統合させてゆく、という方法をとるようですが、ヴィパッサナー瞑想において、幼少期の「恐怖の記憶」が克服できるのであれば、個人でも同様の効果を得ることができるかもしれません。
ヴィパッサナー瞑想による早期不適合スキーマの克服
全て人に適用できる方法というわけではありませんが、ヴィパッサナー瞑想によって早期不適合スキーマを克服するのは、以下の手順によって可能となるのでなないかと考えています。
多少時間と労力がかかります。スキーマ療法も年単位ですから同様かもしれません。
1.歩行の瞑想によって基礎的な集中力を養う
2.座ってする呼吸の瞑想により「初禅」の段階を実現する
3.初禅の段階は感情が生成されないので、恐怖心を感じることなく早期不適合スキーマと向き合える
4.早期不適合スキーマの生成の原因となった出来事を観察する(「ヘルシーアダルトモード」から考える、ともいえる)
5.愛情欲求があったこと、それを満たされないことに欠乏感を感じそれに伴い恐怖を感じていたことなどを識る
6.欠乏感や恐怖を前提に、傷ついている自分(不完全な自分)という自己概念が生じ、現在も維持されていることを識る
7.しかその自己概念は、自分でもなく自分のものでもないと識り、その自己概念を放念する
上記の「自己概念」は、釈迦の到達した「人の心のはたらきと認知のしくみ」では、一般に「無我」と言われるものですが、釈迦は、「私」というものはない、とは言っていないようです(六六経)。
釈迦の、苦悩をなくすための方法論は、「自らが苦悩をなくすための好ましい行為を選び取り、行為によって苦悩をなくす」ことによって完成すると考えられますから、「私はない」と言ってしまったら、好ましい行為を選び取る主体としての「私はない」となってしまい、苦悩をなくすことは完成しないことになってしまいます。
それゆえ「私だと思っているのは私では無く、私がコントロールできる私のもの」でもないよ、と言われたのでしょう。
「私」だと思っているものは、私ではないのですよ、自分がコントロールできないままに苦しみを生じさせるのだから、自分のコントロール下にある私のものであるとは言えないでしょう、苦しみが生じるのであれば「私」という、自分でつくりあげた「自己概念(にまつわる記憶)」を観察してみて、手放したらたらどうですか?ということのようです。
現代の自我観からすると、破壊的とも感じられるかもしれません。
でも、自我観がなくなれば、よく言わる如実知見、物事をありのままに見るという智慧は表れるでしょう。
虐待を受けたからこうなった、という事実は事実として、虐待してはいけない、愛情深く育てるべきであったのにそうしなかったのだから虐待した者の責任だ、と自分が考えているならば、原因はそのとおりですが、今自分に生じている苦しみを無くすことにはつながらす、苦しみをより激しくする方向に向かうでしょう。
今自分の心に生まれる苦しみは、私という概念にまつわる記憶(=識)から生まれるのだから、苦しみをなくすのは原因追及ではなく、私という概念にまつわる記憶を、一部放棄(全部放棄することは現実的ではありません)することによってなされることになります。
そこでは、「虐待してはいけない、愛情深く育てるべきであった」ということは社会的に極めて妥当な考え方あるものの、自分にとってはそれらは提供されなかったのですから、過去において提供されなかった愛情(架空のもの)にこだわり、それを基準にして、今現在の私が苦しむのは割に合いませんから、「虐待してはいけない、愛情深く育てるべきであった」という考え方は放棄した方が、自分の苦悩の低減につながります。
必要なことは、そのような認知に至るだけの集中力と観察力を得る段階=初禅にまで到達できるかどうか、ということなりそうです。
『考えてみると「わたし」とはひとつの虚構、おそらくは人類が手にした最大の虚構であるともいえる。」(大山泰宏先生「新版新版人格心理学」NHK出版)
「わたし」という虚構をつくって、その虚構の上に、知らず知らずのうちに苦悩を生み出しているのが「人の心のはたらき、認知のしくみ」なんですよ、ということが釈迦の説いているところであると考えています。
無自覚の思考が把握できる
一定の集中力と観察力(自分の体、感覚などに対する感受性)が養えれば、自分の行動の前に、外部からの刺激をうけて、自分が一瞬のうちに想像したこと(イメージ)、を知ることができるようになります。
「外部からの刺激をうけて、自分が一瞬のうちに想像したこと(イメージ)」を知ることができるようになると、自分の感情の悪化や、「言わなきゃよかった」とか「しなきゃよかった」という行動を回避することができます。
「外部からの刺激をうけて、自分が一瞬のうちに想像」する心のはたらきを、「想」と言います。
「想」につづいて生まれる心のはたらきが「行」です。
「行」は、「想」によって刺激された「こうしよう」「こうしたい」という意欲と、その意欲によってもたらされる行動です。
「行」によって、「言わなきゃよかった」とか「しなきゃよかった」といった認知が自覚されれば、さらに「想」がうまれます。
さらにうまれた「想」を、「行」によって、言葉にしてみたら「嫌われたかもしれない」ということであったりするかもしれません。
人はどうやら、言語で明確に認識する前に、一瞬のうちに、イメージによって事態を把握もしくは推測しているようなのです。
「想」も「行」も、ヴィパッサナー瞑想の基礎となる、釈迦がとらえた「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」です。
認知行動療法に置き換えれば、「想」は、「非機能的な自動思考」になります。
「行」は、気分の低下を察知して「私は今何を考えただろうか?」と自問(意欲+行動)して、「非機能的な自動思考」の内容を「知る」こと「修正」することです。
ヴィパッサナー瞑想の方法論によって、自分の心と体の感覚(感受または受といいます)に対する観察力を養うことで、認知行動療法の認知再構成のための、「気分の低下」の察知が容易になります。
苦悩をもたらすものを知ることができる
さらに、心の平静と集中が実現できると、自分の心の状態(思考や感情ではありません)を観察して、自分の感じ方に影響している過去の出来事の解釈、やその時の感情の記憶に到達し、悩み苦しみを無くすヒントを得ることができます。
そもそも釈迦が苦悩を滅するために自分の心を観察することから、生み出された瞑想法なのですから、しっかりやればそうなるのは自然です。
このメカニズムは、「恐怖の克服は多大なメリットがある」でもお話しました。
解決策がもたらされる
これはあまり期待してもらうと逆効果(瞑想の仕組みから、強い願望=欲求を持つとうまくゆかない仕組みになっています)なのですが、瞑想には、心を落ち着ける(思考をいったん止めて、感情が刺激されないようにする)ことによって、脳の情報処理を促進する効果があるように思います。
よく、ぐっすり眠った次に日には、昨日悩んでいたことが「なんだったんだろう」ってこともありますよね。
脳がキチンと情報処理をしてくれたことになります。
瞑想によって、それに加えて、「ああそういうことか」とか「こうすればいいんじゃない」ってのが出てくる確率が高まります。
想像の世界に入り込むことを防ぐことができる
体の動きや感覚などの瞑想対象に意識を集中することを一定時間続けると、「想像の世界」に入り込むことが少なくなります。
ここでいう「想像の世界」とは、すでにご説明している「想」が活性化している状態です。
そして、この「想」がネガティブなものであった場合には、たびたび引用させていただいている大野裕先生の「想像は現実よりもずっと苛酷です。空想の中では、現実以上の状況が広がります。」という状況をもたらすこともあります。(「初めての認知療法」講談社現代新書)
大野先生の言われる状況は、心の働きによって生まれる、『ネガティブな「想」に執着している』状態、と考えられます。
釈迦のとらえた「人の心のはたらき「人の認知のしくみ」では、「生じては消えてゆくものに喜びを見出し執着を感じれば苦悩の原因を生み出す」という心のはたらきによって、『ネガティブな「想」に執着している状態』と考えます。
人はネガティブな「想」、自分を苦しめる「想」であっても、「想」を生みだすこと自体に執着してしまうようです。
このような状態を、アルボムッレ・スマナサーラ先生はこのように記述しています。
「想」に執着した状態である「想取蘊」の状態を、「妄想」と「概念」という言葉をつかって説明されています。」
「妄想の回転は苦しいものです。生きる力がなくなるのです。好きなことばかりを妄想することはできません。頭の中で勝手に概念が回転します。悪い概念が回転し始めたら、どんどん苦しくなってゆくのです。昔の失敗を考えると、受けた被害を考えると、過去の苦しみが再現されて人を苦しめるのです。これを知っておいても、概念の勝手な回転をストップさせることはできません。この苦しみから逃れられないのです。」
「概念の回転も自然法則なので放っておけばよいのです。」(以上「大念処経」サンガ より)
ヴィパッサナー瞑想では、このような時には、『ネガティブな「想」に執着している』ことを知って、『ネガティブな「想」に執着している』ことを手放す、「放っておく」ということを心がけます。
自分の体の動きであっても自分の体の感覚であっても、瞑想対象に集中している時には、「想像の世界」は思考から排除されますから、自分の体の動きや自分の体の感覚に集中することによって『ネガティブな「想」に執着している』ことを手放すこととなり、また手放す訓練にもなります。
「現実よりもずっと苛酷」な「想像」「空想の中」にいると気付いたら、自分の体の動きや感覚に意識を向けることを、一定時間行えば、「想像」「空想の中」から脱出するきっかけになる、ということになります。
「想像」「空想の中」から脱出できれば、現実的な解決策を考えることもできるようになるでしょう。
続編「マインドフルネス何をするの」:https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/161710/
ただし、少し工夫が必要
かなり強力な効果がある
ヴィパッサナー瞑想は、しっかりとやれば効果が強力なので注意が必要です。
一般に言われるマインドフルネスは、「自己の思考との付き合い方の態度」訓練的なものであり、ヴィパッサナー瞑想から比べるとかなり、マイルドなものだと感じています。
ヴィパッサナー瞑想は、解脱を到達点として組み立てられた瞑想の体系(ただしステップ・バイ・ステップで進展するわけではないようです)なので、いったん感情を止滅して観察を行う、といったかなり遠回りな方法をとりますが、効果は強力なようです。
効果が強力というのはどういうことかというと、ヴィパッサナー瞑想は、概念的な理解を排除して、体と心への感受性を高めるので、今までは少し嫌だなと感じても意識に上ることなくスルー出来たことが、簡単にスルー出来なくなる可能性があります。
スルーしないこと自体が「気づき」だからです。
スルー出来なくなることによって、これは苦悩なんだと気付くわけですが、このことが返って負担に感じることにつながる可能性もあります。
消滅への愛執を観てしまうこともある
さらに瞑想が進展すると、自分が自分の心(記憶)の中に、押し込めて感じないようにしている理解(信念やスキーマ)や感情の記憶に気付くことににもつながります。
釈迦は、大念処経のなかで、以下のように説いています(原始仏典第2巻 第22経 春秋社)
「〈苦しみ〉の原因のすぐれた心理とはなにか(中略)、歓喜と愛欲をともない、ここかしこ歓楽するような愛執である。すなわち、現世の欲望に対する愛執、生存への愛執、生存の消滅への愛執、である。」
ただし、ここで注意していただきたいのは、「生存の消滅への愛執」とは、「死への欲求」とは異なるもの、ということです。
釈迦の説いた「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」から判断すると、人は知らず知らずのうちに出来事や体験から、自分が明確な意識をもたないまま、「いなくなりたい」「死んでしまいたい」という想念を作り出し、それを「愛執」の対象することを「生存の消滅への愛執」と説いている、と考えられるからです。
ですから、「死への欲求」ではなく、自分が作り出した「生存の消滅」という想念への愛執なんですよ、ととらえたのだと思っています。
釈迦は、ヴィパッサナー瞑想により、自身を観察することにより自らが到達した知見に至る方法を弟子たちに説きました。
その弟子たちに説いた方法は、まず自分を観察しなさい、自分の観察によって知見を得たなら、その知見をもって他者も観察してみなさい、自分と他者との観察による知見が一致するならばそれは、それは人に対する普遍的な法則(仏教でいう「法」)だよね、というものであるようです。
そのような方法論を前提とすると、釈迦は自分の中に「生存の消滅への愛執」を持っていたことを知り、他者の中にもそれを観たうえで、自ら克服した、ということになります。
釈迦が生誕のち、間もなく生母はお亡くなりになったようです。
長じて、生母と会うことできなかったことを知った釈迦は何を感じたのでしょうか。
自分が生母と会えなかったこと、会うこともかなわないこと、また、生まれ変わりが当然とされていた時代であれば、どこかに生まれ変わっているなら会いたいと感じたかもしれませんし、僕を置いてどこに生まれ変わったのかと寂しさや恨みを募らせたかもしれませんし、貧しい家に生まれ変わって苦るしまないように心ひそかに祈ったかもしれません。
このようなことを考えると、釈迦が自分の中に「生存の消滅への愛執」を持っていたことには、私は違和感がありません。
日本では昨年(2025年)において、約19,000名の方が自殺していることなどからも、「生存の消滅への愛執」に抗しきれず、自ら命を絶つという行動にいたった方がそれだけいらっしゃった、ということになります。
カウンセラーとしては、何らかの形で、自ら命を絶つという行動につながらないように、支援したいという気持ちがあります。
「生存の消滅への愛執」は、スキーマ療法でも説明されています。
ジェフリー・E・ヤング他の「スキーマ療法」(金剛出版)「9 境界性パーソナリティ障害のスキーマ療法の「見捨てられたチャイルドモード」の説明のとして、「苦痛があまりに強い場合、BPD患者は自殺について思いをめぐらすことで慰めを得ることが少なくない。いつでも自殺できると思うと少しだけ苦痛から逃れることができるからである。」という説明には、自身の経験からも納得がゆきます。
わたし自身にもどうやら「生存の消滅への愛執」があるようです。
私には、幼少時に「死んでいる自分の遺体に取りすがって謝罪する母親、という状況を想像して自分を慰めていた」ということや、「もう嫌だ、この世から消えてなくなりたい」と感じて、しばらく放心状態になった経験があります。
そしてこの状態の「記憶」は、ストレス状態(睡眠不足に加えてトラブルに遭遇した時など)時に、「見捨てられたチャイルドモード」が活性化されると、意識化されるようなのです。
私は、ある時、ストレス状態になっているという自覚の下で、ネガティブな思考になる自分が、どんなことを考えているのか、ヴィパッサナー瞑想的に観てみようと思った時に、「この世から消えてなくなりたい」という幼少時に経験した時の感覚が保持されており、それに気づかぬようにして生きて来た、つまり「生存の消滅への愛執」をかかえながら、自分をだましだまし生きて来たようだと気付きました。
ヴィパッサナー瞑想でこのような気づきにまで至る方は、そう多くはないでしょうし、そもそも「自分が自分の中に、押し込めて感じないようにしている理解(信念やスキーマ)や感情の記憶」に「もう嫌だから消えてなくなりたい」とか「死んだら苦しみから解放される」、「死によって抗議したい」というものがなければ、「生存の消滅への愛執」は形成されないでしょう。
問題は、「生存の消滅への愛執」を自分の中に見てしまった時です。
「生存の消滅への愛執」を自分の中に観ても、その段階ではヴィパッサナー瞑想による観察は相当に進んでいるので、感情的な反応自体は少ないのですが、強度のストレス状態では「生存の消滅への愛執」が活性化しますから、気付いた時に、克服するに越したことはありません。
そのように考えると、心理療法の考え方は、解決策へのヒントを提供してくれるでしょう。
上記「見捨てられたチャイルドモード」の場合、スキーマ療法では、治療的再養育法という方法で、「見捨てられたチャイルドモード」を再現し、「見捨てられたチャイルドモード」の状態にあるクライエントに対して、幼少時に充足されなかった中核的感情欲求を満たすことによって癒すという方法を取ることで、子どもを養育して、すでにある「ヘルシーアダルトモード」への統合を目指します。
「見捨てられたチャイルドモード」は、その感情が記憶された時やその前提となる対人認識ができた当時、つまり幼少時の対人認識が前提ですから、その感情や対人認識ができた当時の、例えば、親に守ってもらいたい(守ってもらえている)という中核的感情欲求を満たすことによって、幼少時の心の傷をいやすことにより、現在の生活において「見捨てられたチャイルドモード」を弱体化することを目指す方法と言えます。
「生存の消滅への愛執」が認識できるようであれば、ヴィパッサナー瞑想によって「見捨てられたチャイルドモード」についても自分で対処することができると思います。
例えば、私の場合は、幼少時に母親が、私にたいして拒絶的な対応をとることが多かった(私の心的現実、私の理解として)ため、私は「死んでいる私の遺体に取りすがって、後悔し私に謝っている母親」を想像して自分を慰めていたこと、「やりたくもないことをやらされているのはもう嫌だ、この世から消えてなくなりたい」という思いが衝動的に浮かび、しばらくは動けなくなったこと、少し後のことですが、両親との関係による対人認識から自分の状況を「大きな川の急流の真ん中で1人ボートに乗っている、その先には滝つぼが待ち構えており自分にはどうすることもできない、誰も助けてくれない、死をまつだけだ」というイメージに苦しめられたこと(現在でも浮かびます)、などが相互に関係して、「生存の消滅への愛執」となって心に保持され、ストレス状態において「生存の消滅への愛執」が活性化するように思います。
そもそもヴィパッサナー瞑想によってこのような認知に到達したのですから、ヴィパッサナー瞑想によっても対処できるはず、と思っています。
これらのイメージ(想)を、否定するのではなく、これらのイメージへの執着、執着によって癒すことを求めている欲求を知り、希薄化、弱体化してゆき、最終的には自分にとって「無力化」することができればよいのだと思っています。
基本的対処戦略は、釈迦の説く「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」から考えれば、人はいろいろな認知に執着するからそういうこともおこるのですよ、それが「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」ですよ、ということになります。
「これらのイメージへの執着、執着によって癒すことを求めている」行動は、心理学的に言えば不適切なコーピング(対処戦略)ということになります。
釈迦は、大念処経(原始仏典第2巻 第22経 春秋社)で以下のように言っています。
「愁いとは、いったいなにか。修行僧たちよ、なんであれ、なんらかの不幸に見舞われて、なにか苦しいことを経験している人の、憂い、愁い、愁いの状態、内なる憂い、内に広がった憂い、これが修行僧たちよ、憂いといわれる。」
「楽しみを捨て、苦しみを捨て、以前に経験した快さと憂いを滅しているため苦しみもなく、楽しみもない、心の平静と気をつけることによって清められている瞑想の第四段階(四禅)に達しているのである。」
「以前に経験した快さ」を記憶して、「以前に経験した快さ」に執着すれば、快い状態を標準としてとらえますから、快くない時には不満、つまり怒りが生じます。怒りが生じれば心に平静は訪れません。
「以前に経験した憂い」は、今はなく、記憶の中にだけあるものですから、その記憶に執着していることにより、解消しようとしている感情(充足したい感情とそれが充足されなかったことへの怒り)があることに気付けば、憂いを滅することもできるでしょう。憂いを滅すれば心に平静が訪れます。
そのように考えるがゆえに、釈迦の方法論、釈迦が認識した「人の心のはたらき」、「人の認知のしくみ」は、心理療法であったとしか、私には思えません。
ただ、「こうすれば」と「こうなるよ」の間を、釈迦は解説せず、「こうすれば」と「こうなるよ」の間は、瞑想実践者の実践と体験による理解に任せ、そのような方法論によって、必然的に苦悩の原因がわかればそれを無くしたいと考え、苦悩を無くす方法を知り苦悩を滅するだろう、という理解、今でいえば自己治癒力やレジリエンス、実現傾向(ロジャーズ)といったものを措定していたのでしょう。
「生存の消滅への愛執」は、仏教という宗教の教えという枠の中でとらえない方がいいと思っています。
釈迦は、人は「生きる」という体験の連続の中で、苦悩が生じ、その苦悩から逃れるたいという欲求から、自らの生存を消滅させたいという思考をもちながらも明確に意識せず、もしくは明確に意識しないようにしながら、「心の奥底にあって自分を悩ませ」ながら生きていきいる、という認知に至ったうえで、それを滅したのでしょう。
「生存の消滅への愛執」は、「仏教という宗教の教え」としてではなく、「深い瞑想状態から得られた心のはたらきについての洞察」ととらえた方が適切であると思っています。
そのような「心の奥底にあって自分を悩ませていること」を感じ取り、なくさなければ、身心が「楽」な状態であるサマーディー、言い換えれば高度なリラクゼーションには至ることはできないように思いますから、釈迦は「「生存の消滅への愛執」を克服したはずです。
高度なリラクゼーションに至らないことには、何らかの理由があると考える方が自然です。
一時的には、「押し込めて感じないようにしている理解(信念)や感情の記憶」「心の奥から自分を悩ませていること」ことを知ることによって、混乱や苦痛を生じるかもしれません。
上記の段階は、ヴィパッサナー瞑想の四念処のうちの、心の随観に該当すると思われますが、思考の停止と、思考の停止による感情の生成の停止(初禅)ができていれば、相対的に苦痛は少なくなるでしょう。私自身は不快感はかんじたたものの、絶望感までは感じませんでした。
この段階では、「尋」と「伺」という観察眼があらわれるとされますが、感情に影響されないので、初禅の状態にいるとき(=瞑想中)は苦痛は感じません。
むしろ、初禅に心地よさを感じ、初禅に留まって、心の随観が進まない可能性があります。
他者の心を観てもつらくなる
また、ヴィパッサナー瞑想で、自分の観察から「人の心のはたらき」に気がつくと、良い行為と思ってやっていたことが、自分の欲、つまり自分が気持ちよくなるからであったり、そうした方が仲間内で評価が良くなるから、「良い行為と思ってやっていた」というようなことにも気づきます。
そして今度は、他者の観察から「人の心のはたらき」に気がつくと、他者が行う、あなたが良い行為と思っていたことが、他者の欲、つまり他者が気持ちよくなるからであったり、そうした方が仲間内で評価が良くなるから、「良い行為と思ってやっていた」というようなことにも気づきます。
他者が自分に対して攻撃的な態度をとるのが、あなたに非があるからではなく、その他者自身の欲と怒りに突き動かされて、あなたに対して攻撃的になっている、という理解に至ったらどうでしょうか。
言い換えれば、その他者は自己の感情的欲求を満足させるために、あなたを手段として使っている、ということをあなたは知った、ということになります。
そしてその他者は、そのことに気付くことは、ほぼありません。あなたは、かなり心が苦しくなると思います。
そして、あなたは、あなたの苦しみを、あなたの心の中だけでは解決できない、と気づくことになります。
しかし、このような認知に至らないと、『「意志による行為」への転換』で、ご説明した『⑥「自覚」にもとづき、(好悪の感情に影響された)欲求に突き動かされる「人の心のはたらき」を排除し、自らが「意志」により選択した「行為」を行う』という段階には進めません。
そして、あなたに対して批判的な他者との関係を改善することは、『⑥「自覚」にもとづき、(好悪の感情に影響された)欲求に突き動かされる「人の心のはたらき」を排除し、自らが「意志」により選択した「行為」を行う』ことによってのみもたらされる、という結論になります。
出家者に最適化された方法からの脱却が必要
ヴィパッサナー瞑想は、2600年前から「出家者が解脱に至るための瞑想法」として最適化されて現在に至っているため、私たちがそのままやるにはやや不適な部分があるように感じています。
出家者は、悟りを求めて俗世間とのかかわりをたって出家したので、釈迦の方法論によって「離欲」を実現して悟りに至っても、その生活に支障はないでしょう。
出家は、家族や労働して生活の糧を稼ぐことからは決別した環境、いいかえれば、自分の「欲望」を刺激するもの事から離れ、他者の「欲望」を刺激することが自己の仕事の一部、ということからも無縁な環境に身を置いていることになります。
いかなる状況においても「欲望」は否定されるべきもの、とは私は考えませんし、いかなる状況においても「離欲」が解決策であるとも思いません。
しかし、「欲望」が刺激されない環境に自らを置いた方が、釈迦の方法はより完全に実現できるでしょう。
そのような環境に身を投じた方々に向かって、釈迦は方法を説いた(もしくは出家者に説いた説法が優先的に今日まで伝承された)、ということは考えておいた方がいいと思います。
その一方で私たちは、労働して自らの生活の糧を稼ぎ、自己の価値に基づく生き方や自己実現を目指している、つまり「自己概念」を持ち、「欲望」の刺激によって成り立っている市場経済の中で、「自己概念」に基づく自己の理想とする生き方を追求するという「欲望」をもって生きている人々に対して、出家者と同様の「離欲」による、苦悩からの解放という方法論を取るのは、少し不適当なように感じます。
苦悩にしても、本来抱かなくてよい苦悩と、苦悩ではあるけれどもその意味するところを理解し、自己実現や将来の経済的安定のために具体的な方策に活かし、「より良い生き方へとつながる苦悩」というものもあるでしょうから、苦悩を根こそぎ無くしてしまう心の在り方を実現する、という釈迦の(強力な)方法論が、今を生きる人々のとって一律に有効であるとも思えません。
もちろん、個人の選択肢としての「離欲」という方法の提示はよいとしても、「離欲」を徹底することが必要と説くのは、働くことによって、社会分業の一部を構成し、自らの生活の糧を得ている私たちにとっては「非社会的」な性質を帯びているとさえ、私には思われるからです。
テーラワーダ仏教の出家者は独身で、「自己の再生への欲望」を滅するとも説明される悟りに至ることを目指し、当然に子をなすという欲求もありません。
現代日本では、子孫の数が減っていることが大問題になっているので、子は設けてもらわないことに困っています。
そうすると(自己への再生の欲望うんぬんにかかわらず)、自分のDNAを受け継いだ子供をもうけるという欲求を、子育て支援一生懸命やりますから安心して子供を産んでください、という政策を通じて、積極的に肯定し支援するということが必要になり、そのための努力がなされています。
世俗での生き方や社会の考え方と、出家し解脱した者の価値観は、多少異なる立場、ということは考えていた方が良いように思います。
「離欲」はかなり大変だと思おもいます。
TVを観ても「こうだったらいいでしょ」「こうなったらいやですよね」という感情を刺激して、商品やサービスへの「欲求」を刺激して、購買意欲を喚起するものが大半ですから、市場経済は、「欲」と「欲の刺激」、「欲の充足」によって成り立っているとも言えます。
「離欲」に至ることを徹底するところには、自己の価値観に基づく生き方や自己実現という考え方からも離れることを意味するでしょう。
つまり、本来、仏教(テーラワーダ仏教)は、「出世間の教え」であり、出家者において実践されるべきもの(釈迦は自らの教えを実践し、受け継ぐためには、欲望を刺激される俗世間とは決別し、もっぱら修行に専念できる出家者でなければ難しいと考えたのでしょう)であると考えられるからです。
もちろん、出家者でなくとも「離欲」を徹底することが、個人の自由な選択の結果、選択されたものであれば全く問題ありません。
そのように考えるので、テーラワーダ仏教の瞑想法は、現代人の苦悩の解消に役立つ限りにおいて、宗教的な修行とは別の方法論によって、苦悩の解消に役立つよう、工夫して行うことが必要と思っています。
私はこのように考えて瞑想を続けてきました。
上記のように考えると、マインドフルネスは、仏教瞑想に源流を持つものの、現代人に最適化することを意図して発展してきた瞑想、ととらえてよいように思います。
マインドフルネスについての一般的理解
心理療法分野で火が付いた
マインドフルネスは、カバットジンさんのマインドフルネス瞑想法、マインドフルネスストレス低減法、それに続くマインドフルネス認知療法が効果を上げたことによって、心理療法分野での関心が高まったようです。
また、関心の高まりとともにマインドフルネスについて、神経科学や脳科学分野からの研究も盛んになっているようです。
それらの関心の高まりや研究を背景に、企業内能力開発への応用や、テーラワーダ仏教の「慈悲の瞑想」による「コンパッション」、「マインドフルな態度」ということが、さかんに喧伝されるようになったようです。
ヴィパッサナー瞑想と比較すると、一般的なマインドフルネスの理解は、「自己の思考との付き合い方の態度」訓練的な、かなりマイルドなものである印象があります。。
このブログでは、認知行動療法との併用でマインドフルネスをご紹介しているので、ジュディス・ベックさんの「認知行動療法実践ガイド:基礎から応用まで第3版」(星和書店)から引用してご紹介します。
『専門家のコンセンサスが得られたマインドフルネスの定義の一つに「開かれた姿勢、受容し、好奇心のこもった眼差しをむけつつ、目の前の体験に注意を向ける( Bishop et ai.2004)」がある。』
『マインドフルネスは、思考との付き合い方を変える手助けをしてくれる。』
西洋での定義と釈迦の方法論
批判的なわけではないのでご注意いただきたいのですが、Bishopさんの定義は、西欧のロゴスの伝統の基礎の上に立つものとの印象があり、概念による把握への信頼性、「概念化」を強く感じます。
このブログでたびたび引用させてもらいますが、エヴァン・トンプソンさんは、マサチューセッツ州での、ヴィパッサナー瞑想のリトリートに参加した時のことをこう語っています(「仏教は科学なのか 私が仏教徒ではない理由(日本語版2024年)」(Evolving))。
「しかし、リトリートの時にずっと次のようなことを考えないわけにはいかなかった。それは、自分の中で起きていることは、「ものごとをありのままに見ることを学ぶ」という表現とは嚙み合わないということだ。私たちには、瞑想実践のときの経験を言い表すための概念体系があらかじめ与えられていた。それは「感覚」「感情」「注意」「意志」など、表面だけ見れば日常的な概念だったが、実際には「刹那主義(momet-to-moment arising)」「無常(impermanence)」「正念(mindofulnes)」「非我(not-self)」「業(karma)」と言った仏教的な概念とも結びついていた。(中略)時折、先生方との面談がグループあるいは個人で組まれることもあったが、それらの面談もこの概念の枠組みを強化した。」
エヴァンさんの感想をもって、マインドフルネスの隆盛が、仏教モダニズム(エヴァンさんが批判対象としている欧米での仏教ムーブメント)の中に位置づけられれる、とは言いませんが、マインドフルネスも仏教モダニズムも、「概念化」という方法論を採用している点では共通するようです。
テーラワーダ仏教が、ヴィパッサナー瞑想は「ものごとをありのままに見ることを学ぶ」という標題を掲げながら、アメリカの人々により浸透しやすいように、テーラワーダ仏教の教理の「概念化」による教化、という戦略を取っているのかもしれません。
心の状態やはたらきは、他の人に見せることができないので、修行に専念できる出家者ではない方(より多くの時間が取れない方)に、マインドフルネスを説明し、指導するには「概念化」は効果的な方法と思われますから、Bishopさんのような定義はもっともなものです。
一方、ヴィパッサナー瞑想の根本経典の一つとされる「大念処経」での、釈迦の説法のスタイルは概念化とはかなり無縁です。
「こうなるためには、こうする必要がある、そのやり方はこうである、それをすると、こうなることを知り理解するだろう、それを知り理解したらこうすればよい」
そこにいたるには、こうすればこうなる、やってみなさい、というスタイルです。
釈迦は、「人の認知のしくみ」としての「法」と、その認識に至る瞑想方法は説きますが、それについての解釈やとらえ方は、各人に任せられている。
私は、釈迦の方法論を、そのように理解しています。
それゆえ釈迦の方法論を支持し、「仏教モダニズム」の「概念化」による教化、という方法論にはやや違和感を感じています。
とは言え、自分でも「概念化」により理解をしてはいるのですが・・・自分の感覚を大事にすることは心がけています。
釈迦は、教えは説くが、その教えは各人がつかむべきもの、と考えていたと私はとらえていますし、そのように考えれば、概念によって説明し、概念によって教導しようという方法論は必要なくなるでしょう。
しかし、釈迦の後継者たちは、一生懸命、釈迦の教えを「概念化」し、自分たちの理論的な基盤としての教理をつくりあげた、ということのように感じています。
そして布教する側の人たちが、私たちは釈迦の説く方法で悟った人であり、釈迦の説く真理を体現している(特別な存在なのだ)、だから悟っていない人々を悟りへ導くのだ、と考えていると仮定したら、「概念化」によるコスパのよい教導は、布教の効果的な手段になります。
「概念化」による教導は、「自己探求」にはつながりませんので、私は推奨しません。
続編「マインドフルネス何をするの」:https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/161710/
マインドフルネスの源流
「マインドフルネスってそもそもなんなの?」ってことを押さえるために、少し、マインドフルネスの源流と展開を見ておきます。
大きくは、2つに源流が求められるようです。
①東南アジアのテーラワーダ仏教の修行法である「ヴィパッサナー瞑想」
②日本の「禅」
マインドフルネスは、アメリカでは大人気なようですが、そこには、仏教を科学的なものであるとする、テーラワーダ仏教の「仏教モダニズム」活動が影響を与えているようでもあります。
源流①ヴィパッサナー瞑想
語源と意味の変遷
マインドフルネスという言葉は、イギリス人の Rhys Davids さんという方が、1881年にパーリ語の「 Buddhist Suttas 」を出版した際に、パーリ語の「 sati 」サティに、英語訳として「マインドフルネス」という言葉をあて、「 sammāsati 」(漢語訳「正念」)に「 right mindfuless 」とされたことことに由来するようです。
Rhys Davids さんが翻訳したのは、インドからスリランカへ、スリランカから東南アジアへと伝来したテーラワーダ仏教が正典とする、インドの地方言語パーリ語で書かれた阿含経です。
テーラワーダ仏教は、日本に伝わった仏教とは別系統の仏教です。
釈迦の教えを聞いた弟子たちが、釈迦の教えを口承で伝承し、後に文字化されて今日に伝えられているとされるものが、阿含経です。
テーラワーダ仏教で、修行のために行う瞑想法が、ヴィパッサナー瞑想ですので、「 sammāsati 」(漢語訳「正念」)に対する「マインドフルネス」という言葉は、ヴィパッサナー瞑想に由来するということになります。
時代は下って1954年に、テーラワーダ僧であった Nyanaponika Thera さんが、「仏教瞑想の核心―マインドフルネスに基づく精神修養」という本で、仏教瞑想の中心にマインドフルネスを位置づけ、マインドフルネスは「正念」そのものではなく、「最小限のありのままの注意」「bare attention 」 であると解説したことから、その後、西洋では、マインドフルネスを「ありのままの注意」とする見方が広がり、仏教瞑想に関する多くの著作の中で仏教瞑想の本質は、マインドフルネスにあるとされるようになったそうです。
(日本評論社 マインドフルネス-基礎と実践- 菅村玄二さん「マインドフルネスの意味を超えて―言葉、概念、そして体験ー」より)。
仏教モダニズム
Nyanaponika Thera さんの背景にも、「仏教モダニズム」と言われる活動があったのかもしれません。
エヴァン・トンプソンさんは、「仏教は科学なのか 私が仏教徒ではない理由(日本語版2024年)」(Evolving)の日本語版序文でこのように語っています。
「西洋における多くの仏教指導者たちは、現代版の仏教徒の瞑想実践を教えることで仏教を紹介し、「仏教はもっとも科学に親和的(science friendly)な宗教である」と語ったり、「実際のところ仏教はまったく宗教ではなく、むしろ哲学的であり、生き方であり、あるいは特別な内観による心の科学に基づいたセラピーなのだ」などと語っています。」
「私の関心は現代の西洋世界における仏教モダニズムにあるのですが、仏教モダニズムの起源は十九世紀、二十世紀のアジアに存在するということを理解するのは重要です。つまり仏教モダニズムは、奇異な西洋版の仏教というわけではないのです。私は主に、その起源がスリランカとビルマにおける現代のヴィパッサナー瞑想運動の形式のなかにあったと論じています。それらの運動は、仏教を合理的で経験的な心理学の一種として提示する傾向があるのです。」
エヴァ・トンプソンさんの上記のお話に接すると、テーラワーダ仏教のお坊さんが語る仏教観、「(テーラワーダ)仏教は宗教ではなない。なぜならば釈迦が説いた通りの方法で瞑想に取り組めば解脱に至ることが証明できる、釈迦は真理を説いたのだ。証明できなことを信仰しなさいというのが宗教だから、仏教は宗教ではない。」という論理を展開する背景には、どうやら「仏教モダニズム」がありそうだ、との理解に至ります。
「仏教モダニズム」により、なんとなく私がテーラワーダ仏教に抱いていた違和感に納得がゆきました。
私が感じていた違和感を「仏教モダニズム」への理解を加えて表現すると、テーラワーダ仏教は「科学との接近によって、釈迦の方法は証明できるのだから宗教ではない、釈迦は真理を説いた、ゆえに仏教は他の宗教と異なる、という布教戦略を取っていたのだ」ということになります。
また私は、テーラワーダのお坊さんの説くこと=釈迦の説いたこと、という理解はもっていません。
テーラワーダのお坊さんの説くこと=釈迦入滅後テーラワーダが作り上げた釈迦の説いたことの解釈による発展、と理解しています。
「仏教モダニズム」によって、テーラワーダ仏教は、科学と瞑想を結びつけることで、釈迦が説いたことは真理、私たちは釈迦が説いた真理に基づいて悟った者、だから私たちは真理を説いているのです、という構図を作ろうとしているように感じます。
また、マハーシ・サヤドーさんによる瞑想センター開設なども、「仏教モダニズム」の流れの中から実現したことかもしれない、とも感じるようになりました。
エヴァ・トンプソンさんの論考に接した時に、下記に引用する、馬場紀寿先生が記述する、上座部大寺派の戦略、経営戦略でいうところの、大乗に対する歴史書の編纂による「差異化戦略」、むしろ「排除戦略」と言った方がいいかもれない戦略と同様のことを、テーラワーダ仏教は、現代社会に適応した方法として、他の宗教に対して、仏教は科学的という「差異化戦略」として、行っているのではないかと感じました。(「初期仏教 ブッダの思想をたどる」岩波新書1735)
「後四世紀頃、上座部大寺派は『島史』という史書を編纂した。『島史』が創造した歴史によれば、スリランカの大寺(マハーヴィハーラ)こそが、ゴータマ・ブッダが降臨した聖地であるという。また、大寺には、結集された仏説が完全な形で伝承されているとする。さらに大寺は、世界最初の王であるマハーサンマタ王(参照先省略)の末裔にして釈迦族の血を引く王によって設立されたというのである。」
(中略)
「こうして史書により作られた歴史観に立って、五世紀前半、上座部大寺派は、パーリ三蔵の正典化を完了し、大乗仏典を「非仏説」として排除する教理的根拠を作り上げた。ブッダはパーリ語で話したのであり、三蔵という正典は、パーリ語でこそ伝承されるべきだという主張をした。」
「大乗仏典を「非仏説」として排除する教理的根拠を作り上げた」ということは、上座部大寺派には、大乗を排除したい欲求、理由があったということになります。
そもそも大乗の意味は「優れた教え」、自らすぐれた教えと称した「大乗」が、上座部大寺派などの部派仏教を、「小乗」劣った教えであるとしました。そして劣った教えであると印象付けるために大乗経典を作ったようです(例えば維摩経にはその印象を強くします)ので、上座部大寺派としては、大乗仏典排除の論理を作らざるを得ません。
大乗仏教の出現について、竹村牧男先生の『インド仏教の歴史「悟り」と「空」』(講談社学術文庫)から引用させていただきます。
「釈迦の説法は、『阿含経』にまとめられ、各部派に伝持さえたのだった。しかし仏滅(釈迦の入滅)後三、四百年ぐらい経って、新たな「仏説」が、まことしやかに弘められていく。『般若経』『華厳経』『法華経』『無量寿経』といった経典が、釈迦の説法として宣布されていくのである。
それは。新しい仏教の出現であった。正統的な部派教団としては、考えられない、仏教の”新興宗教”の出現であった。
言うまでもなく、この新しい仏教を、大乗仏教という。というより、新仏教の担い手は、自らの仏教を「大乗」(偉大な教義)と呼び、旧来の仏教を「小乗」(劣った教義)といって非難したのである。
仏滅後四百年近くも経ってのちはじめて現れた経典が、そっくり釈迦の説いたものでは当然あり得ない。そこに釈迦の直説が核として含まれていたり、釈迦の精神が横溢していたとしても、これを編み、制作した者は、当時の何ものかであったことは否めない。」
上座部大寺派が現在の、テーラワーダです。
日本語でも釈迦が何を語ったか知ることができる
現在では、私たちでも理解できるパーリ語正典の日本語訳が、春秋社と大蔵出版から刊行されています。
大蔵出版は、片山一良さんがお一人で訳しているそうです(大仕事だと思います)、春秋社版は、ベテラン若手混合で訳しているようです。
Rhys Davids さんがパーリ語正典を英訳してから約120年、日本にも地道に初期仏教を研究される優秀な研究者・翻訳者がいらっしゃるようです。
もちろん約2600年前に釈迦が語ったことが、そっくりそのまま伝承されている、というわけではないでしょう。
多かれ少なかれ加筆訂正、伝承の過程での変容など、釈迦が語ったこととは変わっている可能性はありますが、それでも私たちには、阿含経によるしか釈迦の説いたことを知る方法はありません。
大乗仏教の国の日本では、あまり日が当たらない仕事かもしれませんが、誇っていい仕事だとおもっています。
いずれも底本は、Rhys Davids さんらが、1882年に設立したパーリ文献協会( The Pali Text Society )から出版されている阿含経のようです。
源流②「禅」
マインドフルネス瞑想法
禅に取り組んだJ.カバットジンさんが、「マインドフルネス瞑想法」を創始しました。
「カバットジンは1979年に、マサチューセッツ大学医学部の中にマインドフルネスに基づくストレス低減プログラムを実施するセンターを開設し、初期は医学的治療が困難な慢性疼痛の対処法として成果を上げて来た。それ以来、徐々に適用範囲を広めて、乾癬や高血圧などの心身症的疾病に適用したり、過食などの食行動の問題や、不安、パニック障害などの心理的な問題も扱い検証してきた。」
カバットジンさんの「マインドフルネスに基づくストレス低減プログラム」は、集合研修と自宅実践を組み合わせた8週間のマインドフルネス・トレーニング・プログラムです。
この方法が、マインドフルネスストレス低減法(MBSR)となりました。
「1995年以降は、ストレスクリニックは、マサチューセッツ大学のマインドフルネス・センター(Center for Mindfulness in Medicine , Health Care , and Society : CFM)の中に位置づけられています。マインドフルネス・センターでは、学校や企業に本プログラムを提供したり、医学上の問題を抱える患者に実施したり、専門家の育成にあたったり、継続的な研究を行ったりしています。」
(「マインドフルネスストレス低減法」 J.カバットジン 春木豊さん訳 北大路書房)
カバットジンさんはこのように言っています。
『「マインドフルネス瞑想法」は、″ 注意集中力 ″ を高めるためのトレーニングを体系的に組み立てたものです。これはアジアの仏教にルーツを持つ瞑想の一つの形式を基本としています。注意を集中するということは ″ 一つひとつの瞬間に意識を向ける ″ 単純な方法です。この力は今まで全く意識していなかったことに、意識的に注意を払うことによって高まってきます。つまり「マインドフルネス瞑想法」は、リラクセーション(緊張がゆるみ、安らいでいる状態)や注意力、意識、洞察力をもたらす潜在的な能力を活かして、自分の人生を上手に管理する新しい力を開発するための体系的な方法なのです。」(前掲書「マインドフルネスストレス低減法」)
九州大学の安野広三先生は、カバットジンさんのMBSRの機序(メカニズム)についてこのように述べておられます。
「ボディスキャンや座瞑想のワークでは、自ら積極的に痛みの感覚に対する暴露を行いながら、なおかつその体験に対して破局的な、認知・情動的反応、即時的な行動を起こさないという在り様が繰り返し訓練される。それを通じて、痛みに対する恐怖などの感情的苦痛や破局的思考、非適応的な行動反応が減少し、痛みに対するアクセプタンスが促進される。また、瞑想の中で移りゆく思考や記憶、感情をマインドフルな気づきのなかで観察することを続けることで、思考や記憶、感情を現実とは区別して、単なる心の出来事してとらえるという在り様(脱中心化)も発展する。それにより痛みに反応しておこるネガティブな解釈や予想、不安や恐怖などを客観的に距離を置いてとらえられるようになり、それからくるネガティブな影響を減少させることにつながる。」(日本評論社「マインドフルネス-基礎と実践-」)
「思考や記憶、感情を現実とは区別して、単なる心の出来事してとらえるという在り様」ということについての理解を促進するために、グレゴリー・ベイトソンさんの著書から引用します。
「客観的」「客観性」を「現実」と読み替えてみてください。
「誰かに足を踏まれたとき、私が経験するのは、"彼による私の足の踏みつけ"そのものではなく、踏まれてからややあって脳に届いた神経報告を基に再構成された"彼による足の踏みつけについての私のイメージ"に他ならない。」
「外界の経験は常にある特定の感覚器官と神経回路が介在しているのである。」
「その限りにおいて、ものとは私の創造物であり、ものの経験は主観的であって客観的ではない。」
「痛みとか、外界の視覚イメージとかの感覚データの客観性を疑う人間が、少なくとも西洋文化の中に。ほとんどいないということは、やはり熟考に値する問題である。われわれの文明は、この客観性の幻想の上に深く根差しているのである。」
(精神と自然 生きた世界の認識論 思索社)
共通点・類似点と相違点
ちなみに、ヴィパッサナー瞑想では、観察への集中によって、思考を停止し、それによって感情の生成を停止し、感情に影響されない「尋」「伺」という思考を現出させ(初禅の段階とされます)、「尋」「伺」により釈迦の説いたところを証得する、という手順を取るようです。初禅に至る過程ですでに釈迦の説いたところの大半は証得しているのかもしれません。
初禅にいたれば、高い集中力を利用して、自分の心の中に、自分が好ましいと考える性向、行動を定着させることができるようです。
それゆえ思考、感情は、観察の対象にはせず、「放す」(その意図するところは反応して考えを進めることを放棄する)対象としているようだ、ということになります。
ただし、マインドフルネスでも、上記安野先生のご説明では「思考や記憶、感情をマインドフルな気づきのなかで観察することを続けることで、思考や記憶、感情を現実とは区別して、単なる心の出来事してとらえるという在り様(脱中心化)も発展する」とされていますので、方法論や態度としては類似する、と言えるようには思います。
「脱中心化」と言われていますが、一般には仏教で「無我」と言われている観点との類似性を感じます。
「脱中心化」は、釈迦の到達した「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」(私の理解です)によれば、釈迦は、自我つまり「私」は無いとは言っておらず、私ではないことを私だと勘違いして、しがみつくから苦しむのではありませんか?という考え方とも親近性があります。(春秋社 原始仏典第七巻 大148経 六六経)
釈迦の論理は、私だと思っていることは私ではありませんよね、なぜならば「私だと思っていること」は心の中に浮かんでは消えてゆくではないですか?心の中に浮かんでは消えてゆくものを私だとするのは不合理でしょ、という論理です。
釈迦の論理は、釈迦在世時に有力だった「永遠不変の自我、アートマン」を前提にはしているのですが、人の認知の移り変わりの中で、私という意識なく外部の対象に不快感を感じたり、今そのまま発言したら周囲から反発を受けそうなことを自分が考えた、といった「私」にかかわる、生まれては消えてゆく意識ということを考えると、現在でも通用する論理のように思えます。
「思考や記憶、感情をマインドフルな気づきのなかで観察することを続けることで、思考や記憶、感情を現実とは区別して、単なる心の出来事してとらえるという在り様(脱中心化)も発展する」ということは、言い換えれば、
自分の思考や記憶、感情に対して「私という意識なく外部の対象に不快感を感じた」という「私」と「私が感じたこと」への無自覚的な態度から、
「今そのまま発言したら周囲から反発を受けそうなことを自分が考えた」という「私」と「私が考えたこと」に対しての意識的自覚的な態度への転換を促す、
とも言えるように思います。
多少の違いがあるのは、釈迦は、人には認知する機能が存在し、その認知する機能によってのみ物事を把握できる、ならば存在するのは、認知の対象となる物事(現実)ではなく、認知する器官と機能だけであろう、と考えていたように思われるからです。
そしてその時、「私は無い=無我」ではなくて、「私が考えること ≠ 私」 =「非我」、つまり釈迦がといた「私ではないことを私だと勘違いして、しがみつくから苦しむのではありませんか?」という考えとも通底します。
修行を完遂し解脱すると「仏」となり、「無我」=「私欲(自我)のない私」=「仏」になるという論理、教説は成り立ちます。
解脱に至ったAさんとBさんが同時に同じ事象に遭遇した場合、AさんとBさんが同じ行動をとる、というのであれば「無我」つまり「私は無い」と言ってもいいでしょう。
しかしそうではなく、AさんBさん双方が「同じ事象に遭遇し」ても、別々の判断をし、別々の行動をとるという前提に立つのであれば、解脱した「仏」は「無我」つまり「私は無い」のだ、という説明は、少し違和感を感じます。
そうなると、両者の行動の相違は、「無我」つまり「私は無い」という説明よりも、両者とも「私ではないことを私だと勘違いして」いることを克服している、つまり釈迦の説く「非我」を証得しているが、それでもなお、それぞれが、認知を統合する機能としての独自性と行動の主体としての「我」は保持しているから別の行動になる、と考える方がすっきりします。
そのように考えれば、釈迦が私は無い、とは言わず、それは私ではないよ、と言ったことになんとなく納得がゆきます。
そのように考えないと、これ以上はない安楽の境地に至った釈迦が、死の直前まで教えを説く旅をつづけたことの説明が付きません。
釈迦は、「それは私では無いと説きながら」、自らの教えを、最後の最後まで説き続ける道を選んだのですから、『認知を統合する機能としての独自性と行動の主体としての「我」は保持していた』と考えざるを得ません。
ヴィパッサナー瞑想とマインドフルネスはかなりの部分が共通または類似しているのですが、
①ヴィパッサナー瞑想は、思考、感情の積極的な止滅によって禅定状態を作出して釈迦の説いたところを観察し解脱に至る瞑想
②マインドフルネスは、禅定状態の作出にはフォーカスせず「移りゆく思考や記憶、感情をマインドフルな気づきのなかで観察する」瞑想
という違いになります。
心理療法の「心理教育」を例にとって両者を理解するならば、以下のようにも言えるように思います。
①ヴィパッサナー瞑想は、眼耳鼻舌身意の6つの認識器官とそれらの認識対象とそれへの執着、五蓋、七覚支、五取蘊、四念処、四聖諦、八正道などの心理教育(釈迦の説法)に基づく瞑想法
②マインドフルネスは、「参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・看経をもちいず、ただし打座して身心脱落することをおえよ。」(正法眼蔵 弁道話)という、道元さんの方法論を中心に、体への感受性を高めるエクササイズ等も取り入れた、自己の心の在り様を観察する瞑想法。
釈迦の到達した「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」からは、思考や感情などは生じては消えてゆくものだとしたうえで、ヴィパッサナー瞑想の方法論では、思考や感情は、それが生じたら生じたとして知り、知ったら「放す」ことによってなくすことによって対処し、感情に影響されない「尋」「伺」を現出させることによって、釈迦の説いた「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」を観察し、、釈迦の説いたところを確かめ解脱に至ることを到達点としたものであると解釈できます。
その過程で、心の平静を妨げる、過去の出来事による苦痛を生み出す記憶をも滅することにより、さらなる禅定に至る、ということのようです。
ヴィパッサナー瞑想は、到達したい場所が解脱という、容易には到達できないと思われる場所なので、かなり遠回りをするようです。
思考、感情を滅して、「尋」「伺」という、思考、感情に影響されない「智慧」の目を作って、物事を観察するのは、解脱に至ることを目的としている(解脱に至る方法として理解され伝承し保持されて来た)からでしょう。
ヴィパッサナー瞑想の中心的な経典とされる「大念処経」等には、明確に上記のように説かれているわけではありませんが、釈迦の到達した「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」(と私が理解していること)と、考えあわせると上記のような理解に至ります。
「悟り」「解脱」を到達点としているためそのような方法論になると考えるのが妥当です。
マインドフルネスを、「自己探求のツール」としてとらえた場合、安野先生の言われる「瞑想の中で移りゆく思考や記憶、感情をマインドフルな気づきのなかで観察する」ことの方が、現代人には適合的な方法といえるでしょう。
出家して僧院の中で、ヴィパッサナー瞑想により『思考や感情は、それが生じたら生じたとして知り、知ったら「放す」ことによってなくす』ことは難しくはないでしょうが、労働し、家族や職場その他の人間関係の網の目の中に組み込まれている現代人にとっては、『思考や感情は、それが生じたら生じたとして知り、知ったら「放す」ことによってなくす』ということによって、釈迦の到達した「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」を証得しようとするのは、容易ではありません。
それゆえ私は、心理学や心理療法などの考えを援用してうえで、ヴィパッサナー瞑想に取り組むのが良いのではないかと思っています。
言い換えれば、ヴィパッサナー瞑想は効果は強力だが、それだけでは現代人に適合的であるとは言い難い部分がある、と感じます。
カバットジンさんと禅
カバットジンさんは、自身の禅とのかかわりについて、このように言われています。
「1960年代初期に、まだ学生だった私に初めて日本の禅というものを教えてくれたのは、鈴木大拙でした。その後、鈴木俊隆著“Zen Mind , Begneer's Mind(初心禅心)”に出会い、本格的に瞑想の精神を探求する道に足をふみいれることとなったのです。十三世紀の偉大なる禅師、道元のすぐれた思想にも大きな影響を受けました。」(前掲「マインドフルネスストレス低減法」
鈴木大拙さんは、エヴァン・トンプソンさんの前掲書では、「1952年から1957年までコロンビア大学で教鞭とって」おり、「彼の翻訳やエッセイ、また哲学的な著作は、西洋において今なお大変な人気です。ヨーロッパのロマン主義とアメリカの超絶主義に影響を受けた彼の著作は、禅仏教を一種の合理的神秘主義として、またすべての宗教の神髄であると提示しています。」と説明されています。
鈴木大拙さんが、「すべての宗教の神髄であると提示しています。」と主張したことの当否は私にはわかりませんが、宗教家としての自己の依って立つ基盤からは「離欲」出来なかったのかもしれない、との思いが生じます(誤解なさらないでください。「離欲」していないことを批判しているのではなく、また「離欲」すべきと主張しているのでもありません。「欲」があるほうが自然でありノーマルですから。)。
また、「禅仏教を一種の合理的神秘主義として」として紹介のであれば、非常に優れた戦略家の一面を感じます。合理的な記述の上に、「神秘主義」をまとわせることで、合理的なものだが私たちの知らなかった魅力的なもの、ということを印象付けることをねらったのかもしれません、意図せずに。
中央公論社 世界の名著第2巻「大乗仏典」の付録で、長尾雅人先生がこのように言われています。
昭和42(1967)年12月12日、梅原猛先生との対談です。
「教団とか宗門というところまではいかないが、たとえばアメリカにおける禅ブームというもの、あれはブームでも何でもないということはいえるけれども、ペーパーバックの本屋を見ると、禅の本が非常に多い。鈴木大拙さんのものももちろんあるが、アメリカ人その他の書いたものがたくさん出ている。これらのものがアメリカ人の心にいろんなものを植えつけているのですよ。それは宗門とか教団とかいう形とはちがうが、しかしかなりの影響力を将来もってくると思いますね。」
カバットジンさんが、禅と出会い傾倒された時期と重なります。
道元さんは、中国に留学したお坊さんです。中国の仏教は北伝(大乗)仏教なので、ヴィパッサナー瞑想とは異なる系統です。
感覚的なお話でしかないのですが、「仏教瞑想の本質=マインドフルネス=ありのままの注意」という文脈の中で、カバットジンさんは、道元さんから学んだ座禅観から、「注意集中」という中核的な方法論を抽出して、世に送り出したものが、マインドフルネス瞑想法ではないか、という印象を持っています。
これも感覚的なお話になりますが、生じたものを生じたと知り意図的な反応をしない、というマインドフルネスのスタンスには、ヴィパッサナー瞑想の方法論(手順)よりも、禅の考え方をより強く感じます。
ヴィパッサナー瞑想の「Sati、サティ」⇒「マインドフルネス」⇒「ありのまま注意」という流れの中で、カバットジンさんは、道元さんの座禅から「注意集中」というエッセンスを抽出し、マインドフルネス瞑想法の中心に位置付けたものと思われます。
マインドフルネスの展開
展開①認知療法とマインドフルネスの統合
「マインドフルネスストレス低減法が爆発的に心理療法の分野で知られるようになったのは、なんといっても認知療法の分野で著名なティーズデール(J.D.Teasdale)らがこのプログラムを取り入れてうつの再発予防に効果があるということを検証したことがある。」(前掲書「マインドフルネスストレス低減法」)
これがマインドフルネスに、A.T.ベックさんの認知療法を統合したものが、マインドフルネス認知療法です。
マインドフルネス認知療法は、マインドフルネスストレス低減法と同様に、8週間の集合研修+自宅実践プログラムです。
マインドフルネス認知療法は、創始者の1人、J.ティーズデールさんが、アメリカ生まれの仏教僧Ajahn Sumedho の講演を聞いたことがきっかけで誕生したようです。
「講演中にJhonは、Sumedhoが述べた仏教による苦悩の分析の核心部にあるアイデアと認知療法の基本的仮説の類似性に衝撃を受けた。両方のアプローチが、私たちを不幸にするのは経験そのものではなく、(仏教分析では)私たちの経験との関係または(Beckの分析では)私たちの経験の解釈であることを強調していた。また仏教のマインドフルネス瞑想の中核が思考として(つまり「真実」や「私」としてではなく、精神的事象として)思考として関係していくことの習得を含むことも明白であった。人はこうすることで、自分の行動をコントロールしたり、不幸は心の状態を作り上げる役に立たない思考パターンの影響から自身を解放できるのだ。」(マインドフルネス認知療法原著第二版 北大路書房)。
推測になりますが、J.ティーズデールさんは「仏教モダニズム」との接触を契機として、マインドフルネスに認知療法を統合するアイディアを得たのかもしません。
そうだとすると、禅を学んだカバットジンさんの「マインドフルネス瞑想法」は、J.ティーズデールさんらのマインドフルネス認知療法において、テーラワーダ仏教との再会を果たしたことになります。
マインドフルネス認知療法では、プログラムへの採用は見送っているものの、テーラワーダ仏教の「慈悲の瞑想」に言及されています。(上掲書)
展開②マインドフルネスの適用範囲の拡大
「またマインドフルネスの概念は上記の認知療法家たちのほかにも、行動療法の立場からヘイズ(S.C.Heyes)やリネハン(M.Linehan)らもとりあげている。このことはマインドフルネスの概念が心理療法の分野に広く浸透しつつあることをしめすものであろう。」(前掲書「マインドフルネスストレス低減法」)
ヘイズは、アクセプタンス&コミットメントセラピー、リネハンは、弁証法的行動療法を創始しています。
アクセプタンス&コミットメントセラピー(ACT)について、安野広三先生ご説明を引用します。
「ACTは臨床行動分析を基盤として開発された第三世代と評される認知行動療法の一つであり、MBSRとはその発展してきた経緯は異なるが、マインドフルネスの要素や痛みのアクセプタンスの発展を目指すという側面では、基本コンセプトにおいて同様の要素を含んでいると考えられる。」
(中略)
「慢性疼痛のような当面は避けることのできない痛みの感覚やそれに必然的に随伴するつらい思考や感情をコントロール・回避しようとする努力は、かえってそれらに関連する苦悩を拡大させる。さらに、そのようなコントロールと回避のための格闘に日常の労力と時間を消費し続けることで日々の生活は痛みに支配され、有意義でいきいきとした生活から遠ざかってしまう。痛みやそれに伴う心理的苦痛をありのままに体験することで、それらとの格闘から派生する苦悩の拡大から自由になることができる。そして痛みとの格闘に日々の労力を使うのではなく、痛みがあっても、自分の人生の価値に沿った活動に取り組み続けることに全力を尽くし、価値のある日々を送られるようにすることをめざす。」(日本評論社 前掲書)
マインドフルネスは、認知行動療法や他の心理療法にも技法として、さかんに取り入れられています。
マインドフルネスについての私の考え
仏教についての先入観はないほうがいい
エヴァ・トンプソンさんの「私は認知科学における心や意識の理解を探求し豊かにしてゆくために、瞑想実践と仏教の哲学的心理学を用いることの重要性を強く支持しています。」という考えに私は同意します。(エヴァン・トンプソンさん前掲書)
そして、私は、エヴァ・トンプソンさん同様に、仏教徒となることを選択していません。
仏教徒でなくとも、釈迦の説いた方法や、釈迦の至った瞑想による境地を知ることはできます。
仏教、言い換えれば釈迦の入滅後に発展した仏教教学を知らない方が、かえって釈迦の説くところを素直に理解できるのではないかと思います。
例えば、竹村牧男先生は、「実際には、十二項目の縁起を釈迦がはじめから観じたのではないことは明らかである。」(「インド仏教の歴史」講談社学術文庫)とされています。
竹村先生の説が正しいとすれば、阿含経の内容を十二支縁起で説明することは、釈迦が説法時には認識していないことを、釈迦入滅後の仏教教団において成立した仏教教学で説明することになります。
その場合は、釈迦は明確に説かなかったが、釈迦はこのように考えたのだ、ということになります。
お坊さんにとっては、竹村先生の説は誤りで、自教団の教学の方が真理である、という考えになるでしょう。
釈迦の説法を、釈迦の説法より後に成立した仏教教学で解釈しているのではないか、と感じることには時々出くわします。
釈迦は入滅の直前に、以下のように説いており、釈迦の言う「理法」「法」に、私たちは阿含経の日本語訳を通じてアクセスできますから、瞑想に取り組むに際して、釈迦入滅後の「仏教」や「仏教教学」という枠組みの中で、釈迦の方法論やヴィパッサナー瞑想をとらえる必要はないと思っています。
「わたしは内外に隔てなしに〔ことごとく〕理法をといた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は、存在しない。」
「向上につとめた人が一切の相を心にとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」(以上 春秋社 原始仏典第二巻 第16経「ブッダ最後の旅ー大般涅槃経」)
教え切った、すべてを説いたのだから、後は君たちの努力次第だよ、ということのように感じます。
瞑想の中核「Sati、サティ」
「Sati、サティ」を考える
ヴィパッサナー瞑想の指導者の方は、「Sati、サティ」を「気づき」という意味でつかわれることが多いようです。
パーリ語は、行為を表す言語だそうです(アルボムッレ・スマナサーラ先生「ブッダの実践心理学」)から、「Sati、サティ」の解釈についての異同は、
『行為そのもの』への注目=「マインドフルネス」⇒「ありのまま注意」⇒「注意集中」と、
『その行為によって到達すること』=「知る」気づき」「自覚」という、
注目する対象の違いかもしれません。
ちなみに日本での「Sati、サティ」の解釈は、「心を一点にとどめて決意することを「念」(sati.Skt.smrti)という。」(春秋社 原始仏典第2巻 大22経「心の専注の確立」大念処経の註)というものだそうです。
「Sati、サティ」が指し示すところを考えると、瞑想法についての参考になりそうです。
ヴィパッサナー瞑想は一般的に、観察瞑想と言われていますが、その内容は以下のようなものだと理解しています。
その各段階で、『行為そのもの』としての「Sati、サティ」が必要とされ、「行為そのものによりもたらされる状態」としての「Sati、サティ」が実現するように思います。
①集中力を上げて観察する
②観察によって知る=気付きを得る
③気づきによって自覚する
④自覚に基づいて、好ましい行為を実践する
ヴィパッサナー瞑想は①②③の観察対象が定められており、身体、感受(感覚)、心(の状態)、法(事象)とされています。
また①においては、例えば呼吸の瞑想には、集中状態の創出のために、観察瞑想とは別のもう一つの瞑想「集中瞑想」の効果も活用するようです。
なぜ、身体、感受(感覚)、心(の状態)、法(事象)と定められているのかというと、釈迦の認知論についての「③気づきによって自覚する」に至るためです。
釈迦の認知論
釈迦のとらえた「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」をかなり簡単にいうと、
ⅰ.高い集中力でもって身体、感受(感覚)、心(の状態)、観察してゆくならば、身体、感受(感覚)、心それぞれの働きと、それらの働き方の法則ともいえる「法(事象)」が存在するのみであると知るだろう
ⅱ.人は五感と意識を介することによってのみ外界とかかわることができ、人の五感と意識を通じた認知する働きは止められない
ⅲ.その一方で、五感と意識が作り出す感受(感覚)、思考、意欲、識別は、生まれては消えてゆくもの
ⅳ.生じては消えてゆくものに喜びを見出し執着を感じれば苦悩の原因を生み出す
ⅴ.苦悩の原因を自らの自覚に基づいた行為によって取り除けば苦悩はなくなる
というものです。
ジュディス・ベックさんは、『マインドフルネスは、思考との付き合い方を変える手助けをしてくれる。』と言っています。(ジュディス・ベック前掲書)
ヴィパッサナー瞑想では、感受、思考、感情、判断は生まれては消えてゆくにもかかわらず、それらに喜びを見出し愛着の対象にするから苦悩の原因となることを知り、それらへの執着をなくすことが目指されます。
マインドフルネス認知療法は、この考え方を援用し、うつの再発を促すネガティブな「反芻(はんすう)」について、受講者が到達することが目指される「自己の思考との付き合い方の態度」を、「思考は事実ではない」というところに置き、「自分の思考から距離をおいて」付き合うことを目指したものと理解しています。
また、ティーズデールさんたちは、マインドフルネス認知療法の開発に際して、「脱中心化」ということを一つの狙いとしています。(マインドフルネス認知療法原著第二版 北大路書房)
大山泰宏先生が『「わたし」とはひとつの虚構、おそらくは人類が手にした最大の虚構であるともいえる。』(改定新版「人格心理学」NHK出版)といわれています。
『「わたし」とはひとつの虚構』ということを踏まえると、「脱中心化」とは、「くるしい」と主体的に感じ「くるしむ」ことから、 Bishop さんらが定義するマインドフルネスの「開かれた姿勢、受容し、好奇心のこもった眼差しをむけつつ、目の前の体験に注意を向ける」(ジュディス・ベックさん前掲書)ことによって、「今、『わたし』はくるしいと感じている」という認知への転換=「『わたし』という虚構を意識せず苦しい感じること」から、「今私は苦しいと感じている」という認知への転換、を目指すものだとの理解が成り立ちます。
「自己探求ツール」と考える理由
「④自覚に基づいて、好ましい行為を実践する」と聞くと、仏教色を感じるかもしれません。
しかし、ここでは自分以外の外部から与えられる「好ましい行為」ではなく、自らが自覚に基づき選択した「自分に苦悩を生み出さない、自分にとって好ましい行為を実践する」という解釈で使っています。(この理解については、前記馬場先生の「初期仏教 ブッダの思想をたどる」に多くを負っています。)
自己の苦悩からの解放の手段を外部に求めるのではなく、苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆくことから、マインドフルネスを、「自己探求ツール」ととらえています。
一般的に言って「自己の苦悩からの解放の手段を外部に求める」のであれば、宗教は有効な回答を与えてくれるかもしれません。
「苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆく」という方法で有力なのは、カウンセリングやセラピーです。
「苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆく」のは、あくまでもクライエント自身であり、カウンセラーやセラピストは、「苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆく」援助者です。
カウンセラーやセラピストは、1人では困難を感じる「苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆく」ことの伴走者、ということです。
そのように考えれば、マインドフルネスを、カウンセリングで活用できる「自己探求ツール」、さらに踏み込んで、カウンセリングに代わる「自己探求ツール」と位置付けることが可能であることが、ご理解いただけると思います。
そしてまた、仏教徒であることは不要(仏教の概念は、むしろ妨げになるかもしれない)だと考えていることもご理解いただけると思います。
ただし誤解しないでください。
信仰をお持ちいただくことは個人の自由の領域に属しますから、現に今もっている信仰もまた不問です。
釈迦の行為論
「④自覚に基づいて決意し実践する」ことは、それまでの「認識論」から、釈迦の「行為論」の段階に入ります。
「行為論」は、「①集中力を上げて観察する」 「②観察によって知る=気付きを得る」 「③気づきによって自覚する」 ことに基づいた知見を活用して、「④自覚に基づいて、好ましい行為を実践する」 ことを意思によって実行する、ことだと理解しています。
ここに至って、好き嫌いやあれが欲しいという感情を排して①②③を通じて培った知見、いわゆる智慧によって、自分にとって何が好ましい行為であるのかを判断し、選択して、行為することによって「自分を好ましい方向へ改変してゆくフェーズ」、と言えるように思います。
八正道や八支聖道と言われる段階です。
釈迦は宿命論や運命論を排し、自分の自覚に基づく「行為」が自分以外の者に影響を与え、その影響が自分に返ってくる、という考えであったようです。
釈迦は、行為について、徳行であっても、2種類あると説いています。
例えば「聖道経」(春秋社 原始仏典第117経)では、正しい行動について以下の2つをあげています。
『徳行の一つではあるが、結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩をともなった正しい行動』
『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい行動』
釈迦の説く「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」を理解すれば、2種類の識別は難しくありません。
例えば「情けは人のためならず」を、他者にかけた情けは自分に返ってくるから、自分に利益が返ってくること意図するならば(欲への執着という煩悩を生むから)、『徳行の一つではあるが、結局は〔迷いの生存の〕下地をつくる、煩悩をともなった正しい行動』ということになるでしょう。
情けを受けることに抵抗を感じている人に対して、「情けは人のためならず」、だから情けを受けても恥じる必要はないんだよ、と諭すためにつかい、自分に利益が返ってくることを意図しないならば、『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい行動』と説明できるように思います。
釈迦の説く、『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい行動』を実現するのは、現代社会で労働に従事している私たちは、出家して労働に従事せず修行に専念しているお坊さんたちより、相当に大変かもしれません。
釈迦の方法論と心理療法
以下のようには考えられないでしょうか。
ヴィパッサナー瞑想を、心理療法としてとらえた場合には、「釈迦の認知論」は、「心理教育」に該当する
「②観察によって知る=気付きを得る」「③気づきによって自覚する」は、認知療法的なアプローチ
「④自覚に基づいて決意し実践する」は、行動療法的なアプローチ
奇妙に一致している、という話ではなく、「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」を探求してゆくと、苦悩から解放されるには、
①「人の心のはたらき」を知って、『「人の心のはたらき」から生み出される認知』をより適合的な(苦しみを生み出さない)ものにしてゆこと、
②「適合的な(苦しみを生み出さない)」認知に基づいた行動よって、好ましい結果を生み出し、「適合的な(苦しみを生み出さない)」認知をより強化すること
双方が必要、ということになるように思います。
続編「マインドフルネス何をするの」:https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/161710/