婚活をたてなおす(1) 「考え方」編
- 婚活のお悩み
- 自分磨き
このブログのサマリー(要約)
「うまいかない」「どうしよう」「もう嫌だ」「やめたい」という感情が支配的になっている方の
「婚活をたてなおす」ために、
1.自分を「ていねいに扱う」ことで婚活をたてなおす
2.マインドフルネスが感情を制御することの検証
3.「生きぐるしさ」のようなものを感じているのであれば、それへの対処方法
という観点からヒントを提供しようとするものです。
このブログを読んでいただきたい方
このブログは、婚活うまくいってるよ、結婚できるよ、と思っている方向けのお話ではありません。
どうもうまくゆかない、こんな調子で結婚できるのかな、と感じている方向けです。
結婚相談所に入会したからといって、100%の方が成婚できるわけではありません。
IBJでは成婚率を公表してはいないようです。
そもそも入会退会が常時行われるので、正確な成婚率は算定不可能です。これはどのような統計にもついて回る困難です。
とはいえ、
成婚退会が、未成婚退会を上回っている、
ということなさそうです。
2025年10月のIBJ会員様のデータは
登録会員数 ⇒ 103,492名
10月新規入会者数 ⇒ 6,391名
月間・お見合い成立数 ⇒ 88,714件
10月成婚者数 ⇒1,661名
1,661人を12倍しても19,932人です。
10万人会員がいても、年間2万人前後の成婚者数ということになります。
しかし、計算上12か月換算ですから、1年1か月以上かかったけど成婚できた、という人は計算上取り込めないことになりますので、これをもって成婚率、ということにはなりません。
と言っても、それらの事情を差し引いても、
結婚相談所に入会しても、結婚にたどりつけない人の方が多い
と言っていいように思います。
逆に言えば、
うまくいかず悩んでいるひとは、あなただけでなく、かなりいる、
ということでもあります。
このように考えると、少し乱暴な言い方ですが、
ほおっておいても結婚できる人に力を注ぐこと(それも大事だけれど)よりも、
結婚できそうもない、と考えてあきらめてしまう人を減らしてゆくこと
が結婚相談所としては、大事だろう考えています。
それゆえ、このブログは、大丈夫、私は結婚できる、という人ではなく、
大丈夫だろうか、
結婚できるのだろうか
もうやめたい
と感じている人に読んでもらいたいブログ、ということになります。
続編「婚活をたてなおす」(2-1)「メンタルをたてなおす」
https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/156889/
マインドフルネスについて
予めご了承いただきたいこと
マインドフルネスの考え方、マインドフルネスの源流とされる仏教瞑想に関わる釈迦の教示などが、ところどころに挿入されています。
ここで説かれる釈迦の教示は、初期仏教、原始仏教と言われるもので、日本に伝来した大乗仏教とは別系統のものです。
大乗仏教は、菩薩や如来といった救済者を想定しますが、初期仏教では自分を救ってくれる菩薩や如来はいません。
自分の苦悩は自分でなくす、自力救済です。自力救済、つまり、自分で自分の苦悩をなくすための方法を釈迦は説きました。
それゆえ今日の日本の一般的な仏教知識とは別物、ということはあらかじめご理解ください。
マインドフルネスの起源やその成り立ち、具体的な行い方は順次ご紹介してゆくつもりです。
マインドフルネスは、気分の改善や、自分のやる気をなくす感情の生成を抑える効果があります。
釈迦の説いた悟りは、
気分の改善や、
自分のやる気をなくす感情の生成を抑えることによって、
苦悩のないより安楽な心の状態を実現した結果として、
到達したもの、とも理解できます。
そのように理解すると、釈迦の方法論には、
気分の改善や、
自分のやる気をなくす感情の生成を抑えるためのヒント、
がたくさんあります。たとえば、
後悔することや気分が沈むこと、心がざわつくことは役に立たないよ
役に立たないことを止めて、心身が安らぐようになると集中できるよ
集中力を養うと、好き嫌いや恐怖心が克服できるよ、
さらには辛辣な言葉にだってダメージを受けないようなるよ、
ひどい、耐えれない痛みにだって苦しめられないようにだってなるよ
全て釈迦が語ったとされる阿含経の中に書いてあることです。
釈迦は、「身体にむけた注意」を確立する(集中力を得る)と、
1番目の利益として、好き嫌いの克服、
2番目として、恐怖心の克服、
3番目として、辛辣で不愉快な発言に耐えられ、激しい痛みにも耐えられるようになること、
そしてここが興味深いところなのですが、4番目に、さとりの境地である4つの禅定に自由に入れるようになるよ、と言われています(念身経)。
釈迦が苦悩を抱えていて、その苦悩を克服しようと修行生活に入り、
苦悩を克服るする過程で、
好き嫌いの克服、
恐怖心の克服、
辛辣な発言に耐えられるようになり、
激しい痛みにも耐えられるようになることもできた、
のであれば、
瞑想の利益として、苦悩の克服を最優先で説いたことは極めて自然なことのように思われます。
釈迦にとっては苦悩から脱出が修行の目的であったものの、釈迦の後継者にとっては、釈迦の教えを守ること=釈迦の到達した境地に達すること、つまり悟りを得ることが目的化したのかもしれません。
それゆえ、釈迦が、苦悩から脱する方法を説いたとしても、後継者たちは、釈迦の言葉は変えずに(長い時間を経ていますから、過誤による改変、意図的な改変は多かれ少なかれあったでしょう)、阿含経を、自分たちや自分たちに続くものが、釈迦の到達した境地、つまり悟りに至るための方法論として整備して来た(苦悩から脱する方法、という観点は脇に追いやられた)、という側面もあるでしょう。
マインドフルネスは、4番目(悟り)にもたどり着ける方法を使いながら1番目、2番目、3番目の利益を実現する方法、ととらえることも可能です。
事実、禅に取り組み、道元さんに深く傾倒した、J.カバットジンさんは、4番目の「激しい痛みにも耐えられようになる」という効能を、マサチューセッツ大学メディカルセンターで行った「ストレス及びリラクセーション・プログラム」、後のマインドフルネスストレス低減法により実現しました。
このような釈迦の方法を、
「婚活をたてなおす」ために参考になりそうなものを随時挿入していますので
ので、
少し読みにい構成になっているかもしれません。
ご容赦ください。
布教等の意図はありません、ご安心を
釈迦や仏教のお話が出てきますが、布教等の意図は一切ないのでご安心ください。
読んでいただければ、私の釈迦の教えに対する理解は、宗教としての理解とは相当違う、ということはご理解いただけると思います。
私にとっての関心は、カウンセラーとして、苦悩の低減、苦悩の克服の援助を行うことにあります。
釈迦が教えを説いた2600年前と、私たちが生きる時代は相当異なっています。
釈迦が生きた時代は、社会において「生まれ変わりが当然」と考えられている時代であったようです。
(佐々木閑 宮崎哲也「ごまかさない仏教」新潮選書)
そのようなことを前提に考えると、老いること、病気になること、死ぬことはもちろん現代でもウェルカムなことではないのですが、生まれることも苦であるとした理屈にも納得がゆきます。
現代の人々は「終活」という言葉や活動もあるように、死を冷静に受け入れている人も多いと思います。
釈迦が生きた時代は、生まれ変わりは当然のことであるうえ、社会階層が厳然として存在しており、人権も確立していない時代に生きる人々にとって、下層階級に生まれ変わることを想像することは、苛烈であることを超えて、天からの罰の意識すら生じさせるものであったかもしれません。私たちが死について考える以上に、深刻かつ重大で恐怖に似たものであったかもしれません。
阿含経の鸚鵡経では、学生スバさんが、人の境遇の違いが何によって生じるのかについて質問し、それについて釈迦が回答しています。
釈迦の時代の人々が、それが希望でもあり、心を悩ますことにもなる「生まれ変わりを含む神話的世界観」の中で生きていたのだとすれば、釈迦は自らの教えを説くときに、「生まれ変わりを含む神話的世界観」を認めつつ、「生まれ変わりを含む神話的世界観」を突き崩す方法を取らざるを得なかったでしょう。
認知療法をご紹介する本からの引用で恐縮ですが、大野裕先生がこんなことを言われています。
「想像は現実よりもずっと苛酷です。空想の中では、現実以上の状況が広がります。」(初めての認知療法 講談社現代新書)。
老いることはいかんともしがたいことですが、病気の原因はわからず治療法も確立しておらず、死が予想外に自分を襲うかもしれない社会の中で、生まれ変わりは希望となるかもしれせんが、生まれた階層によって人生が決まってしまい、下層の階級に生まれたり、貧しい家にうまれれば苛酷な人生が予想されます。どうすればよい階層に生まれ変われるか、富貴な家にうまれかわれるのか、ということに心を悩ませるでしょう。
上位の階層の人たちにとっては、下位の階層に生まれ変わることを想像することは、恐怖に近いものであったかもしれません。上位の階層の人たちが、自分たちは、下位の階層の人たちとはそもそも違う人間であると考えていたならば、下位の階層に生まれ変わることを、祭祀を怠ったことによる懲罰であると考えても不思議ではありません。想像のお話ではありますが。
「不安は「危険」という認知と関係しています。その状況を危険だと判断し、それに対処するだけの力が自分にはなく、他の人たちから助けてもらえないと考え得ると不安にます。(大野裕先生 前掲書)
2600年前の釈迦の時代の方々は、私たちと違う「世界」を生きており、私たちとは異なる「想像」「不安」に苦しめられる人々がいた、と考える必要があるように思います。
釈迦が説いたことは、
釈迦の時代の世界観に合致させながら、
今生きている人生の苦しみをなくす方法を説くことで、
それによって(当時信じられていた)生まれ変わりへの渇望を断ち切った(悟りを得た)ならば、
生まれ変わって、苛酷なこの「神話的世界観」の「想像の世界」の中で、
再び生まれ変わり、老いること、病をえること、死ぬことに、悩まされることはないよね、
(当時信じられていた)生まれ変わりへの渇望を断ち切って(悟りを得て)も、
今生きている人生がなくなるわけじゃないから、
今生きている人生の苦しみをなくす方法を会得したことによって、
今生きている人生を苦しむことなく生きられるよね、
というものであったように思います。
大野先生のご専門の「認知療法」の、
事実があなたを苦しめるのではなく、事実に対するあなたの考えかた=あなたの認知が、あなたを苦しめるのです、
という認知の転換を図る認知療法の考え方と一脈通じる、一脈通じるというより、上記の仮説は、認知の転換そのものです。
そのように考えれば、釈迦が説いた「今生きている人生の苦しみをなくす方法」は現代人にも有効であり、
釈迦自身が苦悩を克服する過程で得た心の働きについての認識、
心の働きの中で、どのようにして苦悩が生じるのか、
その苦悩をなくすにはどうしたらよいのか、という方法論
は現代人にも参考になるように思います。ということは、
「婚活うまくいかない」「どうしよう」「もう嫌だ」「やめたい」
という苦悩にも役立つヒントになるのではないでしょうか、という理解から釈迦の考え方、方法論を紹介するものです。
私はカウンセラーですので、
苦悩をなくす援助をすることが役割ですから、クライエントの苦悩をなくす方法、ヒントとして、釈迦の方法を参照している、
とご理解ください。
阿含経から引用がありますが、私の阿含経の解釈は、信仰の対象としての釈迦の教えではなく、
苦悩を滅した釈迦の心理分析と苦悩をなくす方法のヒント
苦悩をなくす方法である瞑想について効果的な方法、留意点
という関心から行われています。
ですから、布教の意図は全くありません。また阿含経を宣揚し、他の教えとの優劣等を論じる意図もありません。
私たちは「難しい時代」に生きている
釈迦は、家族の元を離れ修行生活に入りました。
もっぱら修行する生活にはいることによって苦悩を完全に滅すつことが出来たようです。
現在の私たち、つまり、家族を持ち、労働して生活の糧を得ながら生活している私たちとは、まったく異なる環境で苦しみを滅することのためだけに生活して、苦悩を滅尽した、ということも忘れてはいけない点であると考えます。
それゆえ、現在の生活を送りながら私たちが、釈迦の方法論を活用するには、釈迦の説かなかった工夫が必要だと考えます。
瞑想の指導者の方からは、瞑想の要点は「概念的思考から離れる」ということをよく聞きます。
瞑想の行き着く先として「概念的思考を滅すること」というのは理解しますが、「家族を持ち、労働して生活の糧を得ながら生活しているもの」が概念的思考なしで、現代社会で生活してゆけるでしょうか?
私は無理だと思います。無理ではないかもしれませんが、相当に困難だと思います。
私たちは、釈迦が悟りに到達するよりも、テーラワーダのお坊さんが出家して解脱に到達するよりも、難しい環境にいると考える必要があるように思います。
そのためには、
瞑想を「概念化」して「理解して」取り組むこと、心理学や心理療法の考え方を援用することも、「釈迦の説かなかった工夫」の一つだと思います。
そのように考えると、マインドフルネス・ストレス低減法を世に送り出したJ.カバットジンさんや、マインドフルネス認知療法を創始した、J.ティーズデールさん、M.ウィリアムズさん、Z.シーガルさんが行った業績への正確な理解が進むように感じます。
「信仰」「修行」ではないので、「とにかく信じてみなさい」というスタンスはとりません。
そのため「マインドフルネス」について、仏教瞑想や脳の機能や心理学などの観点から説明しようとしているため、説明が煩瑣になってしまい、結果として文量が多くなってしまいました。
この点はご了解ください。
自分を「ていねいに扱う」
世間ではセルフコンパッションなんていいます。
じぶんにやさしくする、そして人にもやさしくするための方法です。
セルフコンパッションにより幸福感が増す、とされいます。
自分に対して、
これが出来ないからダメなんだ、とか
こんな失敗するなんて私は・・・
好かれないのかな、魅力ないのかな・・・
なんて思ったり、心の中で言葉を自分になげかけていませんか?
「そうじゃない、みんな俺を/私をみとめないからだ」
って思っていても、うまくいかず婚活戦線を離脱することになったら、同じ思いを抱えることになりますよね。
こういう思いは、
自分で自分を責めている、つまりていねいに扱っていない
ことになります。
自分で自分を責めてしまう、このようになるのは無理からぬことです。
人は他者を責めるとき「反省しなさい」といいます。
「反省の態度が見られない」、といってさらに人を責める人もいます。
裁判でも「反省の態度」があるかないかが量刑に影響するそうです。
日本の人は「反省」が好き、というより「反省させること」「反省の態度を要求すること」が好きなのかもしれません。
後悔、反省は役に立たない
釈迦は、カウンセリングという観点からみると、とても興味深いことを言っています。
五蓋といわれる教えです。
瞑想をするときに、自らの心の状態について五つの観点から見てみなさい、というものです。
そのうちの一つに、漢訳では、「掉挙悪作」(じょうこおさ)というものがあります。
掉挙は心の浮つき、ざわつき、悪作は後悔であるとされています。
後悔は、現在において過去の行為を想起して、まずいことをしてしまった、と考えることです。
これを他者に対して表明すれば「反省」ということになるでしょう。
後悔していて(悪作)、今、目の前のことに集中できず、心が浮つき、ざわついている(掉挙)状況は嫌ですよね。
(心が浮つき、ざわついていて、集中できないから「後悔する」という「過去のこと」を思い出してしまう、ということかもしれません。)
これは良くないことだから止めなさい、というスタイルを、釈迦はとりません。
今、私は概念でご説明していますが、釈迦の心をお弟子さんたちに見せることはできませんから、お弟子さんたちが、瞑想で何を観て、何を知ればよいのかを示し、瞑想する人自身が体験して身に付ける、というスタイルだからです。
釈迦の説法とお弟子さんたちの瞑想による「認知の獲得」を()で示します。
心に掉挙悪作があるときは、あると知り(=これが釈迦が説く掉挙悪作であるようだとつきとめること)、ない時はないと知り(=突き止めた掉挙悪作が今はないこと、ない時は心が晴れやかで集中できるということを知り)、掉挙悪作が生じたときは生じたと知り(=掉挙悪作がなかったのに、生じて心が集中できなくなったことを知り)、滅ぼされた時には滅ぼされたと知り(=掉挙悪作を無くし心に集中状態が戻ったことを知り)、未来に生じないと知る(=掉挙悪作を起こさないようにする方法を知る)ようにしなさい、というふう釈迦はいわれてます(春秋社 原始仏典第二巻 第22経より要約)。
釈迦が教えを説いた時代は、識字率も高くなかったでしょうし、体系的な学校教育によって、現在の私たちのように「概念」によって知識の移転を受けて、「概念の理解度」によって知識の吸収度合いを計測して(試験を受ける)、評価を受けるということは無かったでしょうから、文字が読めない人や、概念的な説明では理解できない人たちにも理解できるように、「あなたがやってみることはこういうことですよ、やってみなさい」と課題を与えて、お弟子さんたちが「体験すること」で教導する「体験学習」であったともとらえらます。
釈迦が説いたことは「法」であり「法」は真実であるとされますが、釈迦は自らが説いた「法」を盲目的に信じなさい、ということではなく、「法」はお弟子さんたちが自らの体験と照合して苦悩の生起を知り苦悩を生み出すものを知ることによって「法」が真実であることを自ら証明し納得し、苦悩を生み出すものからの解放、その先にある解脱に導こうとしたのでしょう。
そのように考えると、釈迦は「法」という「仮説」をお弟子さんたちに提示し、お弟子さんたちは「法」という「仮説」を自らの体験と重ね合わせて、「法」を証明し実践し「法」を体現することで解脱に至るということと理解できるでしょう。
釈迦は、自身の苦悩の分析から、概念的思考それ自体が「苦悩である」とも考えていたようにも思います。
それゆえ概念的思考ではなく、「あなたがやってみることはこういうことですよ、やってみなさい」と説明し、お弟子さんたちが「体験すること」で教導する「体験学習」スタイルを取ることにより、概念的思考に陥らないようにしたのではないかとの考えも生じます。
そのようにして釈迦は、最終的には掉挙悪作が未来において生じない状態に導くのですが、そのことを我々が日々使っている思考方法、つまり概念的思考で解釈すると、
「心がざわつくこと、後悔することは、心が安らかにならず苦悩をなくすためには障害になるからなくしなさい」
ということになります。
この釈迦の教えは、変えることのできない過去ではなく、選択することのできる将来に向かって生きなさい、ということだけを言っているのではなさそうです。
少し長くなりますけれども、苦悩を低減するという観点からは重要ですので説明します。
六六経の中で釈迦が、人間のもつ認知する機能も認知したことも(自分だと思っているもの)、自分ではないよね、と言っている根拠が、人間が認知するものは(意識の中で)生起しては衰退してゆくではないか、生起しては衰退してゆくものが自分であると主張するのは成立しないよね、といっているからです。
人間の認知は、生起しては衰退してゆくのに、「現在において過去の行為を想起して、まずいことをしてしまった、と考え」つづけたとしたら、自分の認知の流れを止めてしまいます。それは、今自分がしていること、考えていることを自分自身が知っていない、ということになります。
「今ここには無くて変えることのできない過去のこと」を悔やんでいたら(一生懸命考えていたら)、「それは、自分が、どうにもならない過去を思いだして、今現在、自分を苦しめ、自分にダメージをあたえる行為をしている、ということに知らないでいるってことだよね」ってことではないかな、と思います。
「今現在、自分を苦しめる行為をしている、ということにも気づいていないよね」、だから、自分のしていること、感じていること、心に生じた考えを、リアルタイムでしっかりと見る能力をやしなって「今、自分は、自分を苦しめる行為をしている」ってことを検出できたら、苦しみの連鎖、拡大再生産(もう婚活止めたい!って気持ち)からも脱出できんじゃね、ってことになります。
「脱出できんじゃね」、とは釈迦はいわれなかったでしょうが、今の言葉でいうとそんな感じだとおもいます。
ああしなさい、こうしなさい、ではなく、「メカニズムは、教えてあげたらからさぁ、自分でやらない限り自分の悩み苦しみはなくならないでしょ、やってたしかめてみなよ」というスタイルであると思います。
後世の仏教教学は、釈迦が、このようにしてみなさい、こうなるよ、そうすれば解脱に至るよ、説いたことことから、釈迦の到達した立場=解脱に至るためにには、こうしなさい、こうすべきだ、という教学になった(大乗は全く別の考え方です)のでしょう。
「後悔すること」は、過去の出来事に心を向けて、そこにとどまり苦しみ、かつ今、自分がしていること気づけないことだから、瞑想実践の妨げ、ひいては苦悩をなくす認知を得ることの妨げになる、と説いたのでしょう。
もし、悪作を「後悔」という内省的なものではなく、「心残りでわすれられないこと」と考えるのであれば「未完結の経験」ともいえるかもしれません。
「未完結の経験」とは、ゲシュタルト療法の概念で、
「心理的プロセスが中断されたまま、心残りになっていること」、
「体験が完結しないうちは、そのことが何度も意識にのぼるもの」
ゲシュタルト療養では、「未完結の経験を統合し、完結させてゆく人の傾向をセラピーの中で実現する」ことで対処します。(基礎から学ぶ心理療法 ナカニシヤ出版 第9章 金子周平さん執筆)
「後悔」であっても「未完結の経験」であっても、「婚活をたてなおす」妨げとなるでしょう。
「後悔」「未完結の体験」それ自体がプチ苦悩でもあります。
自分も他者も、事実を適切に把握していない?
「どこが不適合であったか考えてそこを修正しなさい、そうすればあなたは今よりもっと良くなるよ、そうすればきっとうまくゆく」
なんてことは、ほとんどの人が言ってくれません。考えてみると不思議です。
適切なアドバイスはもらえないうえにさらに、自分で自分を責めるのですから、気分が落ち込みます。
私たちカウンセラーは「ダメ出し」なんてことは当然しません。そのうえで、あなたのしきてたこと、今考えていること感じたことを、お聞かせいただいたうえで、今後どのような活動をしていったらよいか?ということを一緒にプランニングしてゆきます。
気分が落ち込むというのは、感情が激しく揺さぶられたことの結果であり、
感情が動くときにはすごい心のエネルギーを使う(奪われる)ので、気分が落ち込めば次第とやる気はなくなってきます。
(休養しているつもりが脳のエネルギーを大量に消費して、疲労が回復しないメカニズムを、脳内ネットワークの概念とともに説明されいるのが、久賀谷亮さんの本(最高の休息法 ダイヤモンド社)です。マインドフルネスについての研究も紹介されています。興味がある方はご参照ください。)
釈迦は、もともと人間はこのような性向(苦悩をつくる性向=悩むとエネルギーを大量消費します)がある、だから苦悩をなくすためには、自分が何をしているのか注意深く観察しなさい、と説きましたが、ここではその説明は省略します。
推測ですが、挫折してしまう方の大半は、
婚活がうまくいかなかったからではなくて、
うまくいかないことで、自分を責めて、
やる気をなくす方向に自分をもっていってしまったから、
というふうには考えられませんか?。
自分で自分を責めているのですから、少なくとも自分を、ていねいに扱ってはいませんよね。
これを別の角度から見て、言えば、
自分で、自分が望まない方向に自分を向かわせている、という態度
を取ってはいませんか?
これが出来ないから、あれがないからうまくいかないとか、
考えて、自分を責める、つまり乱暴に扱うことは、止めにしませんか?
マインドフルネスを世に知らしめた、J.カバットジンさんは、著書(マインドフルネスストレス低減法、北大路書房)の中で、こんなことを言っています。
「太っていて、自分の体が嫌だと感じている人が、思うような体重に減らしてから、自分の体や自分自身を好きになろうとするのは間違っています。もし、あなたが、本当に欲求不満の悪循環を断ち切りたいと思うなら、今の体重のままの自分を好きになるべきなのです。なぜならば、自分を好きになれる瞬間は”今”しかないからです。」
林先生流に言えば、いつやるの、今でしょ、ということになります。
自分を「ていねいに扱う」
自分を「ていねいに扱う」とは、自分で、自分が嫌になるような態度とは反対の態度、習慣を心に養う方法ととらえてください。
では、自分を「ていねいに扱う」ことを、どう始めたたらよいのでしょうか?
今の自分を受けいれ、自分をていねいに扱う、ということは、
自分にどういう態度で接したら、自分が嫌にならないだろうか、
という態度を知り、そのような態度を自分のなかにつくることです。
この場合の、「ていねいに扱う」はケアする、と言い換えてもいいと思います。
言い換えれば、自分を自分でどうケアすれば、自分が嫌にならないと感じるだろうか?ということを考えることです。
私の例をお話すると、ちょっとした失敗をしたときに、よく「あーバカ失敗した」と言ってしまうことがありました。
これは自分が、自分をていねいに扱っていないことだし、
自分がしたことを適切に理解もしていない、
と気づき、このように言うことを止めました。
自分が、自分をていねいに扱っていない、ということはご理解いただけると思います。
それでは、
自分がしたことを適切に理解もしていない、
とはどういうことでしょうか?
自分では失敗した、と思っていた出来事、つまり自分がしたことは、
自分が当初想定していた手順を抜かしてしまった、
それゆえ、事前の予想とは異なる結果となった、
しかし「失敗した」と思っている結果は、リカバリーできない決定的な失敗ではなく、
自分が想定したとおりにならなかっただけ、
ということに気付いたからです。
ですから、このブログをお読みの方が、
知らず知らずのうちに、自分を責めるような言葉を使っているとしたら、
それは、
「リカバリーできない決定的な失敗ではなく、
自分が想定したとおりにならなかった」ことで、
自分を責めて、自分が望まない方向にもっていっている可能性が高い
のではないかと思います。
自分をていねいに扱う態度を養成する
自分を「ていねいに扱う」心の態度を養成する方法で、効果的なのは、マインドフルネスの研究の中で欧米でも取り上げられている「metta」「慈悲の瞑想」と言われるものだと思います。
正確にいうと、慈は「metta」、悲は「karuna」です。
前掲の久賀谷亮さんの本(最高の休息法 ダイヤモンド社)によれば、UCLAでも採用されている、とのことです。
日本評論社 「マインドフルネス -基礎と実践-」の中で、有光興記さんが慈悲の瞑想の効果についての研究成果等について説明されています。
ただし、効果を上げるには、多少の瞑想訓練が必要になります。
ご要望があれば指導いたします。そんなに難しいことをするわけではありません。
ここで紹介したくないわけではなく、紹介しているとどんどん分量が増えてしまうので、順次ブログでご紹介してゆきます。
「metta」のやり方、考え方
まず自分を「ていねいに扱う」ことはどのような心の態度なのかと考えてください。
自分を「やさしく扱う」態度でもよいです。
でも「大事に扱う」とは考えない方が良いと思います。
「大事に扱う」とすると、「大事から大事に扱う」の反対の「大事じゃないから大事に扱わない」っていう考えが出てきてしまいます。
大事、大事じゃないという価値判断とは切り離して、
とにかく無条件に自分を「ていねいに扱う」「やさしく扱う」ということはどういうことだろうか、
と考える方が、よりサステナブルです。
例えば私の場合だと、自分を「ていねいに扱う」ことの内容は、
「今ここに自分がいることを認める、肯定する」
「自分をやさしく注意深く見る」
「自分の心身に生じたことを正しく見て、正しく知る」
「自分に生じた緊張を緩和しようとして自分に不用意、不適切な言動をしない」
「自分に生じた欲求を満たそうとして自分に不用意、不適切な言動をしない」
「自分を攻撃しない、自分をやさしくていねいに扱う」
というふうにとらえています。
自分で自分を批判したり攻撃したりすることに対する対抗策として、「ていねいに扱う」ことは有効だと考えています。
少し説明します。
自分を責めてしまう心理的なメカニズム
自分で自分を攻撃するのは、「こうありたい」自分、自分は「こうでなきゃいけないよね」とかいう考えがあって、多くの場合は、その通りにならない時ですよね。
「こうありたい」自分(欲求、期待)、とか「こうでなきゃいけない」とかいう考え(価値判断)があって、その通りになっていないと認知すると、緊張状態が生じます。
緊張状態が生じると、その緊張状態を回避または解消したいがために、本末転倒なのですが、できない自分を攻撃したり、または自分の評価を下げて結果と一致させよう(だって自分にはできないんだから仕方なでしょ、という論理)、という思考が働くこともあるようです(すべての人が、というわけではありません)。
そのような思考が働くと、自分で自分を攻撃してしまい、「自分を粗暴に扱う」結果になります。
心理学では「不適切なコーピング(対処法)」ととらえます。(この辺りの心の働きは、マインドフルネスをやっていると気付くようになります。というより気付く訓練が「マインドフルネス」です。)
また、このような心の働きは、後でご紹介する交流分析の考え方でも説明又は理解できるかもしれません。
交流分析では、
両親の考えを受け継いだ自我状態である「P」(ペアレント)、
成長過程での学習から合理的な思考を身に付けた自我状態である「A」(アダルト)、
子供の心(直観的、素直な心)、感情をもった自我状態である「C」(チャイルド)
の3つの自我状態が人の中にあると想定します。
その時々によって「P」「A」「C」の自我状態のどれかが、自分のなかで主導的になる、と考えてもらっていいと思います。
もし「こうでなきゃいけない」という考えに明確な根拠がない場合は、ご両親から意識せずに受け継いだものかもしれません。
この考え方が、重要というか肝なのは、
両親について「嫌だな」と感じる面であっても、
両親との関係に現在問題がなくても、
結構受けついでしまっている、
ということがあることです。
知らず知らずにうちに、もしくは両親の過去のあなたへの接し方から、あなたにもたらされる葛藤を克服するために、両親の考えを積極的に取り入れている、ということかもしれません。
ご両親、もしくはどちらかが厳格な方で、こうでなければいけないんだ、とか、「こうでなければいけない」に基づいてしっかりしなさい、とか言われて(かかわり方、という意味でストロークと言います)育った場合、そのような両親の考え方を取り入れた「P」が自部の中に形成され「こうでなきゃいけない、そうでないと愛されない」という考えが形成されるかもしれません。
そして、「こうでなきゃいけない」行動をとれない自分は、いけない自分、両親に認められない自分、ということになります。
(「こうでなきゃいけない」という考え方自体を、現在の「A」(アダルト)が、悩ましいと考えているかもしれません。)
そうなると「C」は、両親に認められないという緊張状態を回避するため(だって自分にはできないんだから仕方なでしょ、という論理)を持ち出して、自分の評価を引き下げて(心の中におこる両親からの叱正に対して)自分を防衛する、ということも考えらえます。
私の場合は、母親が頭ごなしに叱るばかりで、何故それがいけないことなのか、何に起こっているのかわからなかったで、私には、母親が怒っている(怖い、嫌だ)、としか認識できませんでした。(後年、当時母は、舅、つまり祖父との関係が非常に悪く精神的に相当な負荷がかかっていた(母親本人の性格にも一因がありますが)、ということを理解しました。私はその犠牲者だったという側面もあったようです。)
それゆえでしょうか、私は自分を責めるときには、「P」つまり母親ならこういう言葉で攻撃するだろうな、という感覚を味わいながら自分を責めていることが多いです。
嫌だと思いながら(嫌だからこそ克服するためでしょう)、母親のスタイルを取り込んでいるようです。
当然、頭ごなしに叱られている自分の感情の記憶も再現されますから、(今では怖い、嫌だという感情はありませんが)気分は下がります。
それなら、「こうありたい」自分(欲求、期待)、とか「こうでなきゃいけない」という考え(価値判断)を修正すればいいんじゃないの、とお考えになるかもしれません。
「こんな考えしなくていいんだ」というふうに意識できて、「はい、変えます」と簡単に修正できるのであれば、それでいいと思います。
ですが、簡単にはできないことが多いように思います。
感じ方やその根底にある考え方は簡単には変えられない
なぜならば、それらは、今まで生きてきた中で、あなたを取り巻く人々との関係に適応するために維持され強化されてきた(適合的であった側面もある)ものだからです。
例えば、スキーマ療法などでは、生育暦をさかのぼれるまでさかのぼって、今の自分に不適合な考えを形成した経験を特定して、現在の「大人の合理的な判断」で経験を再解釈し、現在の自分を苦しめている「早期不適合スキーマ」を修正するという作業をします。
これだけでも大変です。
この作業は、自分が思い出したくない経験や感情を再体験するというつらい経験をします。
この作業は、心理的な負担つまり、心のエネルギーを相当使う上に、心理的な圧迫を伴うこともありますので、簡単にできるとは考えない方がいいです。
私もやっていますが休み休みです。
カウンセラーであっても、やるとがっつり疲れます。
ただし、部分的ではあっても修正できると、かなり「生きるのが楽」に感じるようにはなります。
なんでこんな大変なことをやる人がいるのかというと、大変な作業であっても「なくしたい苦悩」や「生き苦しさ」があるからです。
ですから、どうしても「なくしたい苦悩」「生き苦しさ」がない方は手を付けない方がいいです。
また取り組む必然性もありません。
言い方を変えれば、支払う労力が大きくても、それ以上に得られるもの(生きることが楽になるなどの感覚)が、大きい方と感じる方が検討されたほうがいい方法です。
私の場合はカウンセラーとして、自己理解(これが一番難しいと言われいます)と、療法の勉強の一環としてやっています。
それゆえ、私は、カウンセラーとしてクライアントに向き合う時に、自分にとって好まし態度として、
「私を批判しない、私を責めない、私の良し悪しを判定しない、私と争わない、私を粗暴にあつかわず、ていねいに扱う」という態度を育ること。
クライエントに対しては、私の心の中であっても(心の態度として)、
「クライエントを批判しない、クライエントを責めない、クライエントの良し悪しを判定しない、クライエントと争わない、クライエントを粗暴にあつかわず、ていねいに扱う」態度を育てることを意識してやっています。
実はこのような態度は、
マインドフルネスが、自分の思考を扱う際の基本的な方向性(目指す心理的な態度)
そのものです。
「悪作」は「早期不適合スキーマ」?
後悔は役に立たない、とお話したときの「悪作」は早期不適合スキーマ、という考え方も成立するかもしれません。
なぜかというと、早期不適合スキーマによる「現在感じる不快感、苦悩」は、瞑想への集中状態を妨げることになるからです。
瞑想により相当程度集中力が高まり、初禅に達しているならば、「現在感じる不快感、苦悩」が過去に経験した不快な経験によって経験された感情の再現であるということは、比較的容易つきとめられるであろうと考えられます。
ヴィパッサナー瞑想は、サマディーの段階としては低次の段階にとどまるとされています。
なぜかというと、楽や喜という感覚すらも滅した高次のサマディーでは、「法」とはどのようなものかという考察が出来ないからです。
自らの体験に照らして法を理解し、それを実践して解脱にいたるという方法論を取る場合には、低次のサマーディ、「尋」「伺」という思考を残した初禅にとどまって「法」を考察する必要があります。
より高次のサマディーに至るには、「現在感じる不快感、苦悩」の原因を滅する必要がありますから、釈迦が感じた早期不適合スキーマ類似の心理を「kukkucca」とし、漢訳者たちが「kukkucca」とは、「自らが過去に作った今の自分を苦しめる悪い考え」と理解して「悪作」という字をあてた、と考えても心理療法の観点からは、まったく無理がありません。
早期不適合スキーマとは、無条件に愛されたい守ってもらいたいなどの、幼少時に本来子供が持っており満たされて当然の欲求が充足されなかったことにより、幼少時(早期)に形成された不適合な”スキーマ”=過去の経験から一般化され、思考や判断、認知などの活動を支える構造化された知識(※)、のことです。
早期不適合スキーマの原因が、例えば両親のネグレクトや暴力にあったとしても、早期不適合スキーマ自体は、あくまでも本人の認知の中に存在しますから、スキーマ療法では、心理職(カウンセラー、セラピスト)の援助を受けながら、早期不適合スキーマを抱えた方自らが、早期不適合スキーマを修正、除去してゆくことになります。
釈迦は、徹底して自己の心の機能を観察した方であった(つまり徹底した認知論者であった)と理解していますので、「kukkucca」を「自らが過去に作った今の自分を苦しめる悪い考え」であったと認知し、自ら修正したことは十分に可能であっただろうと考えています。
考え方を少し変えてみれば、釈迦の苦悩の中には、早期不適合スキーマが含まれていた、ということかもしれません。
釈迦は、生後間もなく生母を無くしているそうです。
生母を失ったということを幼少期に知ったとすれば、当時の世界観に従って、母は生まれ変わってどこかにいるはず、なんで自分を置いて生まれ変わったの?という怒りにも似た思慕の感情が起こっても、心理療法の観点から見ればおかしくはないでしょう。
(※)大山泰宏さん産業カウンセラー養成講座テキストより
自分の感じ方への対抗策としての「ていねいに扱う」
話がすこし、「metta」の方法の説明からはなれれてしまいました。「ていねいに扱う」方法に戻ります。
自分を「慈しむ方法」として、自分を「ていねいに扱う」とはどういう心の態度だろうかと考えてください。
そして、ご自身で考えた、自分を「ていねいに扱う」考え方を、言葉にして表してください。
このとき「ていねいに扱う」考え方は、あくまでも自分の扱い方ですが、他者にも向けてゆくので、他者に向けられない考えはまずいです。
あまりないとは思いますが「自分のことを一番に考えて、ていねいに扱います」とした場合、それを他者に向けると「他者のことを一番に考えて、ていねいに扱います」となってしまいます。
自分も一番、他者も一番という考え方も成立すると主張される方もいらっしゃるかもしれませんが、「脳は、自分が意図しただけでは意図したように働いてくれない」という考えが、マインドフルネスや瞑想の前提にはあって、「脳が、自分で意図した方向に働くよう継続して働きかける」ことがマインドフルネスであり瞑想と考えられます。
そのように考えると、「自分も一番、他者も一番」という考え方は、そのような働きかけをうけた脳が混乱する可能性があります。
ですから、自分に向けても、他者に向けても無理のない「ていねいに扱う」考え方が良いと思います。
私の例でいうと「私は、私を批判しません、私を攻撃しません、私を他者やと比較せず、評価しません、判定しません、私のしたことを適切に理解して、私を粗暴にあつかわず、ていねいに扱います」ということは「他者を」に入れ替えても無理なく成立します。
「ていねいに扱う」で大事なこと
自分を「ていねいに扱う」考え方は、次の観点も入れてください。
他者と自分を比較しない
優劣を考えない
自分の価値を考えない
「他者と自分を比較しない」「優劣を考えない」
「人にはその人独自の個性がある」と考えると、そもそも、人と人を比較すること自体が「かなり無理がある」ように思います。
比較や評価というのは、ある尺度をあてて、その尺度の下でのみ、可能となるものです。
学校であれば、「学力についての人為的に作られた試験の点数」という尺度、スポーツであれば「人為的なルールのもとでの勝敗やタイム、人為的な採点に基づく得点」という尺度、企業内であれば「人為的に考えた評価機基準に基づく人為的な判断による評価」という尺度です。
つまり、本来比較できないこと評価できないことを、優劣を判定したり評価したりしたいがために、人為的な尺度を考え出して当てはめて比較し、優劣を判定しているのです。
ですから、優劣、比較や評価は、あくまでも「人為的な尺度」のもとでのみ可能、と考えた方が良いでしょう。
社会的な必要性から尺度が作られて、比較して優劣をつけてはいるのでしょうが、比較や優劣の判断が必要ないところにまで比較、優劣の判断を持ち込まないほうがいいと思います。
自分を「ていねいに扱う」ときには、他者と自分を比較して、という態度、考え方は持たない方がいいと思います。
「自分の価値を考えない」
仏教では「生き物を殺すこと」は、悪行とされています。
どのような考え方から、生き物を殺すことを悪行と考えたのか、馬場紀寿先生「初期仏教」(岩波新書1735)から、初期仏教が考える「行為」についての考察を引用します。
「『意志』を核として行為論を組み立てたことは、仏教が生命の範囲を人間と動物にとどめ、植物に広げなかったことを裏付ける。人間や動物には意思があるのに対し、植物には意思がないと考えたからである。意志がなければ行為をすることもないから、植物は輪廻せず、生命がないことになる。」
生き物を殺すことを悪行としたのは、「『意志』を核として行為論を組み立て」「あくまで自分で自分の行為を律する」「意思の発現として他者に及ぼす行為が自分に折り返してくる結果にもとづく」「自身で生み出す規範」としたから、と馬場先生は説明されています。
「鸚鵡経」では、学生スバさんの、短命や長寿、多病の人々、無病の人々などの違いはなぜ生じるのですか、という質問に、釈迦は「生き物たちは自分の行為(業)を持つ者であり、行為の相続人であり、行為の行き着く場所なのです。」と言っています(春秋社 原始仏典第7巻 第135経)。
釈迦は、天や神という自己を超越したものへの信仰による救い=『自らの意志で判断することを「放棄」し、天や神を信仰または一体感を感じること、天や神に「任せきる」ことで安心立命を得ること』を選択せず、運命論や宿命論を排し、「意志による自らの行為が自分を幸せにし、不幸にもする」と考えたようです。
自己の外部に救いを求めず、徹頭徹尾、自分の心の働きを観察し、その観察に基づき自分を律することによって苦悩を滅した釈迦の強靭さを感じます。
※「春秋社 原始仏典第7巻 第135経」の中に、〔すべての行為は前世の行為によってもたらされる〕との表題がついた章がありますが、釈迦がスバさんに語ったことは、おのれが今現在行う行為によって(将来の)生まれが決まるということを説明しており、前世の行為によって現在のあなたの生まれが決まっている、という説明はしていません。
前世、現世、来世を説明する後世の十二支縁起からすれば〔すべての行為は前世の行為によってもたらされる〕という表題は整合的ですが、「実際には、十二項目の縁起を釈迦がはじめから観じたのではないことは確かである。」との竹村牧男先生のお考えおよび「その十二支縁起がはじめどのようなものとして具体的に考えられていたのかは不審だが、のちの『倶舎論』の説明によると、生死輪廻の、過去・現在・未来三世の因果として次のようになる。」とのご説明(インド仏教の歴史 講談社学術文庫)を踏まえると、釈迦の話した内容に、十二支縁起に説かれる三世の因果を前提とした表題をつけることは適切でないと感じています。
また、前記竹村先生の著書の聖求経の引用「我が解脱は不動である。これは最後の生存である。もはや再び生存することは無い。」との釈迦の言葉を、当時の社会において支配的であった「人は生まれ変わるという」多くの人が信じるがゆえの「真理」に対して、「生まれ変わりへの渇望を完全に断ち切った」=生まれ変わりへの渇望はみんなが持っているが、私は、生まれ変わりの有無に拘泥することなく「生まれ変わりへの渇望を完全に断ち切った」と理解することも可能です。私はその理解の方が適切だと思っています。
釈迦は、スバさんに、当時の社会において支配的であった「人は生まれ変わるという」考え方を下敷きに、スバさんの現在の行いによって、将来どのように生まれるかが決まるのですよ、という形の説法で、「今現在のあなたの行為を良いものにすれば、良い生まれ変わりが出来ますよ」と説きながら、「今現在のあなたの行為を良いものにすれば、現在のあなたの苦悩がなくなりますよ」と説いたと考える方が妥当だと思います。
スバさんは、釈迦のお話をきいて弟子入りしたようですから、スバさんが「生まれ変わりへの渇望を完全に断ち切」れば、釈迦に問うた疑問自体が意味をなさなくなり、「今ここにない生まれ変わりという将来のことに悩まされること」なく、「今生きている自分の行為を律することで、今生きている人生の苦悩をなくす」ことができます。これこそが釈迦が教えを説いたことの目的ではないかと思います。
生まれ変わりを当然と考えている人には、生まれ変わりを前提としてお話をしなければ、理解もされず、そもそも聞く耳を持たないかもしれません。
動物には昆虫なども含むようですが、「生物多様性」という考え方は、2600年前にはなかったでしょう。
馬場先生のご説明に、「全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし」(ブッダの言葉 中村元訳 岩波文庫)を重ね合わせると、私には、どうも釈迦は、こう考えていたのではないか、という考えが生まれます。
「生きていることに価値があるんだよ」
「価値があるから生きているんじゃないよ」
「優れているから価値があるとか、劣っているから価値がないとか考えないことだよ」
「自分の行為をとおして自分を大事にすることを通してしか、自分の幸せをつくってゆくことはできないよ」
自分を「ていねいに扱い」、なおかつ他者も「ていねいに扱う」という心の態度は、比較、優劣の判断、価値の判断とは無縁の考え方なように思います。
「ていねいに扱う」を自分に向け、次に他者に向けます
自分の「ていねいに扱う」考え方が作れたら、朝起きた時、就寝前にベッドや椅子に腰かけて、心を落ち着けて、心の中で「ていねいに扱う」言葉を唱えます。
「ていねいに扱う」は、「心の態度」なので、「心の態度」そのものを直接作り出すことが望ましいのですが、それは簡単ではありません。
瞑想の方法としては、意識を集中してこの気持ちを「作り」「大きく」するのですが、それは上級者でないとできません。
あなたはそれができるの?と聞かれたら、できてません、と答えます。
しかし、意識の集中の前提となる、心と体が「楽」で集中している状態(サマーディ)で、言葉で気持ちを作り、心の態度をつくり、それを他者へ向けてゆくことはできているようです。
「慈悲の瞑想」は、テーラワーダでは定型文があり、ヴィパッサナー瞑想を行うとき、その定型文が最初に唱えられるようです。
ヴィパッサナー瞑想は、観察のための瞑想であり、観察力を高めるため集中力を高める必要があります。
集中力を高めるために、集中の瞑想である「慈悲の瞑想」を最初に行うようです。また修行の一環としての「慈悲の心」を養うという意味あるでしょう。「慈悲の心」といいますが、正確な内容(ねらいとしているところ)は、慈悲喜捨という4つの心です。
「心と体が「楽」で集中している状態(サマーディ)」の初期段階では、思考は出来ます(尋、伺)ので、自分に養いたいと感じた心の態度を、瞑想文として唱えることもできます。
「metta」を行う際は、言葉の力を借りて気持ち、心の態度をつくるようにします。
仏教瞑想では、瞑想対象によって異なりますが、言葉の力を借りて集中状態をつくるようです。集中状態が高まってくるにつれて、言葉を放してゆくことが出来るようになるようです。
言葉は、「筏を大きな川を渡るためのものであって、渡った後に担ぐものではない。」(馬場紀寿さん 初期仏教 岩波新書175 蛇喩経引用)の譬えの筏のようなものと理解してください。
まず「慈しみ」の内容を自分で確認して、育てます。
「私は、私に慈しみを向けます」と唱えて[自分で考えた「ていねいに扱う」考え方]を言葉にして唱えます。
私の場合だと
「私は今自分がここにいることを認めます、肯定します」
「私は私に、やさしく注意深いまなざしを向けます」
「私の心身に生じたことを正しく見て、正しく知ります」
「私に生じた緊張を緩和しようとして私に対して不用意、不適切な言動をとりません」
「私に生じた欲求を満たそうとして私に対して不用意、不適切な言動をとりません」
「私は私を攻撃的しません、私は私をやさしくていねいに扱います」
という言葉をとなえます。
綺麗な言葉を並べるよりも、「自分にとって説得力、納得性がある内容であること」が大事です。
ちなみに、
「私は今自分がここにいることを認めます、肯定します」
「私は私に、やさしく注意深いまなざしを向けます」
「私の心身に生じたことを正しく見て、正しく知ります」
は、マインドフルネスが実現しようとしている心理的な態度になります。
まずは、「慈しみ」を育てるために何回か繰り返して唱えてください。
私は、「私に慈しみを向けます」と唱えながら、上の項目を心に思い浮かべます。
言葉で唱えず、いわゆる「念」=心にとどめおく、という作業をします。
※マインドフルネスの語源:パーリ語の「sati」に、「念」(心にとどめおく、好ましい心の状態をつくる)という解釈で、リス・デイヴィッズさんという方が、「mindfulness」という英語をあてたことに由来するようです。
その後テーラワーダのお坊さんから、「sati」は「念」ではなく、「最低限のありのままの注意」(bare attention)であるという指摘がなされ、欧米では「mindfulness」とは、「ありのままの注意」である、という考え方がデファクトスタンダードとなったようです。日本評論社 マインドフルネスー基礎と実践ー)
次に親しい人に向けます。親しい人は、家族が良いとされていますので、「私は慈しみを家族に向けます」と唱えて慈しみの心を向けます。
私の場合の考え方を例にとれば、「私は慈しみを家族に向けます。」
「私は今家族がそこにいることを認めます、肯定します」
「私は家族に、やさしく注意深いまなざしを向けます」
「家族の心身に生じたことを正しく見て、正しく知ります」
「私に生じた緊張を緩和しようとして、家族に不用意、不適切な言動をとりません」
「私に生じた欲求を満たそうとして、家族に不用意、不適切な言動をとりません」
「私は家族を攻撃的しません、私は家族をやさしくていねいに扱います」
と2回~3回唱えてもよいですし、「私は慈しみを家族に向けます」と唱えながら、上記の6つの「慈しみ」の考え方、心の態度を「心の中に思い浮かべて」家族に向けてもよいでしょう。
「metta」「慈しみの瞑想」の狙い
この「metta」「慈しみの瞑想」の狙いは、
自分を「ていねいに扱う」ことで、「婚活をたてなおす」こと、
あなたの「ていねいに扱う」態度が、お見合い相手や交際相手にも波及すること、
それによって、あなたのお相手への印象を向上させること
を効果として期待しています
ですから、「家族が、自ら自分と同じ慈しみを持つこと」を願うのではなく、
「私は、家族に・・・します。」というあなたの慈しみを、家族に向けるという方向性でよいと思います。
それから周囲の人に向けます。
そして次に、ここが少し大変なのですが、
私が嫌いな人々、私を嫌いな人々
にも向けます。ちょっと修行っぽいですね。
でもちょっと考えてくださいね。
あの人嫌い、あの人のこと考えるとむかつく、あの人は私のことが嫌いだから、私も嫌い、と考えた時、心がかき乱されれ、心に嫌な気持ちが起こるのは誰でしょうか。嫌いなあの人の心にでもなく、私を嫌いなあの人の心にでもありません。
嫌いな人、あなたを嫌いな人を想像しただけで、あなたの心に嫌な気持ち、「プチ苦悩」が生まれるわけです。バカバカしくありませんか?
ですから、嫌いな人にも、私を嫌いな人にも「慈しみ」を向けて、言い換えれば、嫌いなあの人を思い浮かべて「嫌」「嫌い」という気持ちをおこさないようにして、自分に「プチ苦悩」をつくらないようにする訓練です。そう割り切りましょう。
これは認知行動療法では暴露法、エクスポージャー法と同じ効果をもたらすように思います。
自分が緊張状態に陥る状況(対応が苦手な人に会う、対応が苦手な人に会うことを想像することは、嫌悪感から緊張状態をもたらします)を、積極的に想像してみる、もしくはその状況に身を置くことで、耐性を作ってゆく、つまり耐えられた、という経験から、対応が苦手な人に会って自分には、嫌悪感がおこらず緊張も生じない、という反応と認知を形成してゆくのと似ています。
瞑想の場合の目的は、嫌いな人、私を嫌いな人を想像しても、見ても、会っても、自分の心に「プチ苦悩」をつくらないことです。
(誤解しないでくださいね、あの人が嫌いな理由が、ハラスメントや強要などによるものであれば、それは別の次元の話です。ハラスメントや強要に対しては、相談窓口等への相談により対処して、自分の身体の安全および心理的安全性を確保してください。)
このように考えてください
「嫌いなあの人、私を嫌っているあの人のために祈る」のではなく、私の心をキレイにする、私の心の負担をなくすためにするのだ、と。
このように唱えても構いません。
「私は、嫌いな人々、私を嫌いな人々にも慈しみの心を向けます。これは私の心をキレイにし、私の心の負担をなくすために行います。」
このように唱え、「プチ苦悩」が無くなる、または低減すれば効果は、あなたの心の改善効果は大きいでしょう。
そもそも、釈迦の考え方は、完全な自力救済です。
すでにご説明していますが、「自分の意志による行為が自分を幸せにも不幸にもする」というものであったようですから、
「自分の幸せは自分の行為で作るしかないよね」
ということになります。
宗教的な観点からすれば、他者のために祈ることはとても価値のあること、心の成長をもたらすことなどと言われるでしょう。
しかし、釈迦の考え方は、宗教的な先入観のないカウンセラーやセラピスト(心理療法家)であれば、ごく当然のことと理解されるだろうと思います。
カウンセリングにしても、心理療法にしても、カウンセラーやセラピストが癒す、つまり「苦悩から解放する」わけではありません。
苦悩を低減する、苦悩を克服するのはクライエント自身です。
クライエント自身が、苦悩を低減したい、苦悩を克服したいと考え、主体的に取り組まない限り成果は期待できません。
カウンセラーやセラピストにできることは、
クライエント自らが苦悩を低減すること苦悩を克服することを援助をすること、
具体的に言えば、
クライエントが課題の認識に至る過程での援助、
クライエントが課題を解決するプロセスでの援助
だけです。
「私の心の負担をなく」ことにはメリットがある
「私の心をキレイにする、私の心の負担をなくす」ことで心穏やかで過ごせますから、脳に負担がかかりません。
なにより「イヤ」「嫌い」という回路に使用頻度が少なくなります。
「イヤ」「嫌い」という回路に使用頻度が少なくなれば、その回路は弱くなり、心が次第に穏やかになります。
釈迦は、心穏やかであることを重視しています。(春秋社 原始仏典第7巻 第118経より)
「喜んでいる人は身体も安らぎ、心もやすらぐ。」
「身体が安らいで幸せな人の心は集中する。」
「集中」するは、マインドフルネスの中核的な方法、手段です。
「うまくいってなくて、悩んでいるのにどうやって安らぐの?」という方こそ、「安らぐことが出来ない感情のループ」を断ち切るために、まずは、「metta」からは始めてはいかがでしょうか。
最後に「生きとし生けるもの」に「慈しみ」「ていねいに扱う」態度を向けて終わります。
家族と顔を合わせた時、同僚と会った時、取引先に会ったった時、嫌いな人に合った時、一瞬でも「ていねいに扱う」という考えが起こったなら、あなたの中に確実に育っている考えていいと思います。
必要なことはあなたの心の中に、「ていねいに扱う」「慈しみ」の心の態度が作られることであり、意識的に努力して行動することではありません。
「プチ苦悩」の生まれるメカニズム
はっきり言ってしまいますが、「プチ苦悩」の生まれるメカニズムは、釈迦の教えの「肝」です。
自分の心の動きを理解して、「プチ苦悩」の生まれるメカニズムが解るようになれば、釈迦の説いている、人に苦悩が発生するメカニズムと、それをなくす方法は「なるほど、そういうことか」ってなります。
なぜならば釈迦は、
「人々が理解できない高度な教え」を説いたのではなく、
誰の心においても発生する、
注意深く観察しさえすれば知ることのできる心の働きと、
その結果心に生まれる思考や感情、そして苦悩を知り、
それらを無くす方法を説いた
からです。
マインドフルネス認知療法第2版(北大路書房)ではこんなことが書かれています。
「私たちが、『感情』として経験するものは、思考、感情、身体感覚、衝動のパッケージである。パッケージの構成要素は密接に絡み合っているので区別するのが非常に難しいことが多い ー とはいえ、それらに近づいて学べることを学べば、この構成要素がお互いを強め合い苦悩を増大、悪化させていること、そして苦悩が引き起こすダメージを修復しようとする私たちの努力を理解できる。」
「パッケージ」を理解する方法の一つが「色受想行識」という「五蘊」の機能で、心の動きを理解することです。
自分の心の動きを理解することが出来れば、「プチ苦悩」の発生を知ることができ、知ることが出来れば予防することが出来ます。
「発生を知る、それがなくなることを知る、そうすればば発生を防ぐことが出来る」というのも釈迦の重要な方法論です。
この場合、たぶん、という限定つきなのですが、「釈迦の人間の考え方」で押さえておきたいことは、
対象が存在していて、それを人が認識するのではなく、
対象を認識する限りにおいて、その対象は存在する、
今現在の五感の感受とは関係なく、心は考えを作り出し認識し存在させる
その前提として、
生きている限り人は認識する機能が働きつづける、
それゆえ認識することが生きることであり、
人とは認識する機能にほかならない、
認識する機能それ自体は、制止できない
制止できないから、認識する機能は認知する過程で苦悩を生み出し、
認識する機能自体に執着し、それがまた苦悩を生む
ゆえに生きることは苦脳を感じ続けること
できることは、注意深く観察し、何を感受し何が心に生じたのかを知り、適切に対処することだけである
適切に対処すれば苦悩を生み出すことがなくなるだろう
以上のようにとらえると、釈迦の説くことは理解しやすいように感じます。
かなり「根暗」な考え方ですが、常人が到達できない位まで認識の感度を研ぎ澄まし、観察力を上げてゆくと「自分でコントールできない領域への認知が増し」、「自分でコントールできない」からこそ「苦悩」ととらえるのでしょう。
心の働きかた「色受想行識」を知る
仏教学者さんたちは、「色受想行識」以下のようにとらえています。
「色」は「物質的なもの」とされます。また物質としての身体の意味で「姿」する考えもあります。文脈上「物質としての身体」するのが適切か、見たものなどの「物資的なもの」とするのが適切か、という観点の違いからであるようです。
「受」は「感覚的感受」「知覚や感覚」としています。
「想」を「表象作用」、「表象」
「行」は「潜在形成力」、「諸形成作用」とし、
「識」を「識別作用」、「認識・分節作用」としています。
(春秋社 原始仏典第2巻 第22経渡辺研二さん訳、岩波新書1735 初期仏教 馬場紀寿さんより)
「プチ苦悩」は生まれては消える、または潜在する
私の実例で説明します。わかりやすくアレンジしてありますが、私の心に生起した内容は事実です。
複数人のミーティングに先立って、ある方と10分くらいお話して自分の意見を伝えました。
その方が中心となりミーティングが始まりました。
その方がミーティングの中で、私がその方にお話ししたことについて言及されたのですが、私の意図とは異なっていました。
私はその時「違和感」「引っ掛かり」のようなものを感じました。
ミーティング中は、ミーティングの目的にそって話、私は「違和感」「引っ掛かり」について発言せず、問題にはしませんでした。
ミーティング終了後、一人になって「違和感」「引っ掛かり」について考えたところ、
「わかってもらえなかったのかな」考えたところ「悲しい」「虚しい」という感情(プチ苦悩)が生まれました。
「でも、あの人の立場だったらわかってしかるべきだ」と考えたところ「怒り」(プチ苦悩)が生まれました。
「まぁ、それがあの人の理解力の限界なのかな」と考えたら「怒り」(プチ苦悩)はなくなりました。
「受」とされるのは、私が「違和感」「引っ掛かり」と感じたことと理解して良いでしょう。
「受」は、「楽しみの感受」、「苦しみの感受」、「苦しみでも楽しみでもない感受」の(知る=観察する対象として)3種類あるとされています。
(春秋社 原始仏典第2巻 第22経大念処経より)
「想」は、
①「違和感」「引っ掛かり」とを受けて私の心に起こった、言葉になる前の「想い」。
②「行」によって形成された「わかってもらえなかったのかな」「でも、あの人の立場だったらわかってしかるべきだ」「まぁ、それがあの人の理解力の限界なのかな」を認識した「識」によって記憶と照合して呼び覚まされた「悲しい」「虚しい」「怒り」という感情。
「行」は、
①「想」を受けて、「わかってもらえなかったのかな」「でも、あの人の立場だったらわかってしかるべきだ」「まぁ、それがあの人の理解力の限界なのかな」という「言葉による認識を形成した機能」(意行)
②「悲しい」「虚しい」「怒り」という認識(言葉)を形成したこと。
③私がミーティングの場で「そういう主旨でいったんではないです」と発言すればそれも、「行」(口行もしくは身行)となります。
「識」は、
①「想」を「行」によって言語化する際に、記憶と照合して感情を呼び覚ます(生起させる)機能
②「想」「行」によって形成された言葉(概念)により「悲しい」「虚しい」「怒り」を生起させ、それらが生まれたと「識別し」、「怒り」がなくなったと「識別した」機能
以上のようにとらえていいように思います。
「受」「想」「行」「識」の機能によって生み出された思考は、「悲しい」「虚しい」「怒り」という感情(プチ苦悩)を生み出し、また「怒り」(プチ苦悩)を消滅させました。
「想」を受けて行われた「行」=言語化された思考/行動は、「識」によって記憶と照合され、「感情」(プチ苦悩)を生起させ、場合によっては消滅させると言えそうです。
「受想行識」を脳の機能を参照して考えてみる
この考え方を脳の機能から検討するために、後にも引用していますが、大山泰宏先生の、脳の「海馬」の働きのご説明をここでも引用します。太字は宮崎が付したものです。
「海馬は、記憶の形成や保持に重要な働きをすると言われている。私たちが経験したことは、大脳で意味的な処理をされる以前に、いったんこの海馬にしばらくのあいだ蓄えられる。」
「その記憶は過去の記憶と結びつけられたり、比較されたたりといった意味処理をまだされていないので断片的である。海馬に蓄えられているあいだに記憶は整理され、大脳新皮質に伝えられ、体系化された記憶となり、長期的に残るようになる。」
「海馬の先端には情動に関する中心的な役割を担う偏桃体がある。この脳の構造が意味することは、意味化される以前の体験と記憶は、情動体験と深く結びついているということである。」
「受」=「感覚的感受」「知覚や感覚」、
「想」=「表象作用」「表象」は、
「大脳で意味的な処理をされる以前」の
「その記憶は過去の記憶と結びつけられたり、比較されたたりといった意味処理をまだされていないので断片的」な記憶に基づく、
「意味化される以前の体験と記憶は、情動体験と深く結びついている」心の機能と言えるように思います。
「識」=「識別作用」、「認識・分節作用」は、
「過去の記憶と結びつけられたり、比較されたたりといった意味処理」機能や、
「整理され、大脳新皮質に伝えられ、体系化された記憶となり、長期的に残る」記憶の機能と考えられます。
「行」=「潜在形成力」、「諸形成作用」は、「情動体験と深く結びついている」「受」「想」を、「識」の「過去の記憶と結びつけられたり、比較されたたりといった意味処理」機能を援用して、言語により明確化し、その結果として行動につながる機能と言えるのではないでしょうか。
「受」「想」は、「大脳で意味的な処理をされる以前」、「海馬の先端には情動に関する中心的な役割を担う偏桃体がある。この脳の構造が意味することは、意味化される以前の体験と記憶は、情動体験と深く結びついている」という脳の働きと考えると、釈迦の人間に対する考え方(認知論)と、ヴィパッサナー瞑想による観察力の涵養の意味が理解できるように思います。
つまり人間は、「大脳で意味的な処理をされる以前」「意味処理をまだされていない」段階で、「受」「想」の働きによって、情動的な反応が刺激され、「識」を援用しておこなう「行」の方向性を決めてしまう、という人間の認知の特性を知らない(貪瞋痴の「痴」の状態)から苦しみを生み出すのではないですか、ヴィパッサナー瞑想による四念処でそれは確認できますよ、確認できれば、どうすれば苦悩から逃れられるかは自ずとわかりますよね、と釈迦は言われているように思います。
後にまたご紹介しますが、念身経では、『身体に向けた注意』を養うと、10の利益が得られますよ(春秋社 原始仏典第7巻 第119経より)と説いて、その一番目、二番目として次のことをあげています。
1.好き嫌いを克服できるようになる。
2.恐れと怖気を克服できるようになる。
双方とも、情動的な反応を克服できますよ、と言い換えられます。
『身体に向けた注意』を養う、つまりヴィパッサナー瞑想では、観察しているときに思考が生じると「妄想」とラベリングして放す、つまり思考には取り合わないという態度をとって観察を続けます。
「妄想」とラベリングして、思考には取り合わないという態度を取り続けることによって、感情の生成は抑制されます。
ヴィパッサナー瞑想を継続して行っていると、ある時点でこのことは体験できます。
『身体に向けた注意』を養うエクササイズで「思考には取り合わないという態度を取り続けること」「感情の生成は抑制される」ことを、海馬ー偏桃体での情報のやり取りが細ること、というふうに考えると、「好き嫌いを克服できるようになる」、「恐れと怖気を克服できるようになる」という利益が、『身体に向けた注意』を養うことによってもたらされることは、ごく自然なことだと了解できます。
また、観察への集中によって思考が停止し、思考の停止によって感情の生成が停止され、感情がなくなった状態(初禅)を経験すると、気分を下げることだけでなく気分をあげることや、何かをいいと思いそれに執着することにも抵抗感(うっとおしいという感覚)を覚えるようになります。
このことは、脳が感情の生成を嫌っているかのような印象を持ちます。
脳は快適な状態を求めますから、疲労感を生む感情の生成を行われないという状態を経験すると、脳の生理からも感情の生成を抑制するという機能が働くように感じています。これもレジリエンスと言えるかもしれません。
海馬と偏桃体のつながりや脳の構造を考えると「うまくいかない、どうしよう」という思いを抱えながら、検索して「こうすればうまくいく」という投稿を読んで、一喜一憂することは、脳にとっては、あまり好ましい影響をもたらさないように思われます。
色受想行識=五蘊の観察(ヴィパッサナー瞑想)について、アルボムッレ・スマナサーラ先生は、このように説明されています。
「受想行識は同時に生まれるのです。ですから同じものであると誤解する恐れもあります。同時に生まれても、受想行識の機能は互いに違います。五蘊を観察する修行者は、受想行識のそれぞれの機能で区別して、観察するのです。」(サンガ刊 大念処経)
同時に起こることを、機能で区別するのですから、高い集中力と観察力が必要になると言えます。ヴィパッサナー瞑想が、身の随観、受の随観、心の随観と進んでゆくのは、高い集中力と観察力を養うため、と言えそうです。
釈迦はこのように説かれています。
「苦の感受を受けているときに、人が、愁い、悲しみ、嘆き、胸を打って泣き、迷妄におちいるなら、かれのなかに怒りうらむ性向(瞋恚随眠)が潜在する」(春秋社 原始仏典第7巻 第148経六六経)
これを、今回のケースに当てはめてみると、もし仮に、私の心に生じた「悲しい」「虚しい」「怒り」の感情を、私がミーティングで表明したとすれば、私の心には、発言という「行」によって「怒りうらむ性向(瞋恚随眠)が潜在」(プチ苦悩が強くなって潜在)したかもしれない、と考えられます。
※第148経において「苦の感受」となっているのは、第22経とは訳者が異なること、春秋社は訳者間で訳語の統一を行わない方針であるためです。その上で、第148経「苦の感受」が、第22経の「苦しみの感受」と同義かというと、第148経「苦の感受」は、上記の事例でいえば、私の心に生じた「悲しい」「虚しい」「怒り」と考える方が妥当なようにも思います。
第22経では、「苦の感受」は、「肉体的」および「非肉体的な」「楽しみの感受」、「苦しみの感受」、「苦しみでも楽しみでもない感受」を知る(観察する)、とされています。認知行動療法の考え方では、非機能的な自動思考(自分にとってネガティブな思考)は、体にも影響を及ぼすと考えますから、「肉体的」な「楽しみの感受」、「苦しみの感受」、「苦しみでも楽しみでもない感受」を知る、という考え方と整合的です。
釈迦は、「肉体的」な「苦の感受」を知ることから苦悩が生じていることを感知し、それを無くすことで、心身を安らかにして、高い集中力を生み出し、それが、さらに苦悩の発生と消滅を知る「強力な観察力」をもたらしたのでしょう。そのように考えないと「肉体的」な「苦の感受」を感知するとしていることの理由が理解できません。
そしてそのように考えることは、先のマインドフルネス認知療法原著第二版「私たちが、『感情』として経験するものは、思考、感情、身体感覚、衝動のパッケージである。」と整合的です。
プチ苦悩は、行動(行)によって、心の中に潜在するので、自分の「想」「行」によってまた発生します。
「想」や「行」が、「悲しみ」や「怒り」といったプチ苦悩を生むメカニズムはご理解いただけたとおもいます。
釈迦の「苦悩をなくす方法」
それでは、釈迦の苦悩を無くす方法とはどのような「方法論」であったのでしょうか?
再び上記第22経から引用します。
「また、いまだ生じていない怒りが生じるままにそれを知り、すでに生じている怒りが滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた怒りが未来に生じることがないということを知るのである。」
上記の私の「怒り」(プチ苦悩)が生まれた過程と、消えた過程を重ね合わせてください。
『「でも、あの人の立場だったらわかってしかるべきだ」と考えたところ「怒り」(プチ苦悩)が生まれました。』
➡第22経「また、いまだ生じていない怒りが生じるままにそれを知り、」
『「まぁ、それがあの人の理解力の限界なのかな」と考えたら「怒り」(プチ苦悩)はなくなりました』
➡第22経「すでに生じている怒りが滅ぼされるままにそれを知り、」
『「想」=思考は、「感情」を刺激して「感情」(プチ苦悩)を生起させ、場合によっては消滅させる」
「プチ苦悩は、行動(行)によって、心の中に潜在するので、自分の「想」「行」によってまた発生します」
と知り、「想」「行」を起こさないまたは意識して制御する。そうすればプチ苦悩は起こらない。
➡第22経「すでに滅ぼされた怒りが未来に生じることがないということを知るのである。」
これをまた前記第22経とは別の、釈迦の説法に重ね合わせてみます。
「苦しみ」を「プチ苦悩」に入れ替えて読んでみてください。
そうすれば、釈迦の説いた、苦しみを滅する方法論がご理解いただけると思います。
これが釈迦が苦しみを滅した方法である「四聖諦」です。
これを理解した、ということは、釈迦が苦悩を滅した「中核な方法論」を知ったことになります。
「『これは苦しみであると』とありのままに知り、
『これは苦しみの原因』であるとありのままに知り、
『これは苦しみの消滅である』とありのままに知り、
『これは苦しみの消滅に至る道である』とありのままに知るのである」
上から順番に、日本では「苦聖諦くしょうたい」「苦集聖諦くじゅうしょうたい」「苦滅聖諦くめつしょうたい」「苦滅道聖諦くめつどうしょうたい」と呼ばれてきました。
この方法「四聖諦」による苦悩の消滅を実践するためには、
通常、意識しない自分の心の動きを意識するための観察力が必要ですよね、
観察力を養うには、心を観察し続けるための集中力が必要ですよね、
そのためには前記第22経「心の専注の確立」(大念処経)、
前記第148経の「出入息観」(治意経)や、
第149経「身体に向けた注意」の養成(念身経)で説く、
修練、つまり「心と体のエクササイズ」が必要ですよね、
という理屈になり、
観察力を養う「心と体のエクササイズ」=瞑想(≒マインドフルネス)に習熟すれば、釈迦が、
「人々が理解できない高度な教え」を説いたのではなく、
誰の心においても発生する、
注意深く観察しさえすれば知ることのできる心の働きと、
その結果心に生まれる思考や感情、そして苦悩を知り、
それらを無くす方法を説いた、
ということが無理なく理解できます。
また、『観察力を養う「心と体のエクササイズ」=瞑想(≒マインドフルネス)』は、その過程で感情(快、不快)の生成を抑える効果があります。
快の感情は、これが好き、これがいい、こうだといいなという感受に執着する感情、不快の感情は、これは嫌、嫌なものから離れたい、快の感情が満たされないこと嫌なものから離れられないことによる怒り、です。
これらの感情の生成が押さえられれば、苦悩自体が少なくなりますし、「快、不快」という「強力な認知バイアス」がなくなる、もしくは弱くなることになりますから、『観察力』がより「クリアー」になります。そして、この状態を仏教では智慧が発現した、と言っています。
人は快適、不快、どちらでもない、と反応します
ちなみに「受」の3種類の感受については、研究によっても明らかにされています。
「私たちはほとんどの時間で、快適か、不快か、どちらでもないかに基づいて、入ってきた刺激に反応することが解っている。」
(マインドフルネス認知療法原著第2版 北大路書房)フリードマンさんとフォスターさんの研究とのことです。
「楽しみの感受」は、「快適」、
「苦しみの感受」は「不快」、
「苦しみでもなく楽でもない感受」は「どちらでもない」
ととらえてよいように思います。
また、子供の情緒の発達を研究したK.M.B.ブリッジェスさんによれば、新生児の情緒は、興奮、快、不快の三種類しかなく、成長に従って、快と不快から情緒が分化してゆき、5歳くらいで大人に観られる情緒が育成されるそうです。
釈迦の方法論は、現在の「認知療法」と同じ
先ほど掲げた、「釈迦の人間の考え方」に、嫌いな人に会う「プチ苦悩」に当てはめると、以下のようになります。
「対象を認識する限りにおいて、その対象は存在する」のだから、「嫌いなあの人と顔を合わせること」は存在する。
「対象を認識する限りにおいて、その対象は存在する」のだから、存在する「嫌いなあの人と顔を合わせること」によって、心に「プチ苦悩」が生じたのであれば、心に「プチ苦悩」は存在する。
「できることは、注意深く観察し何を感受し何が生じたを知り、適切に対処することだけである」のだから、存在する「嫌いなあの人と顔を合わせること」と、心に生じる「プチ苦悩」は同一のものではない。
「人とは認識する機能にほかならない」から、「嫌いなあの人と顔を合わせること」を心が感受することは、生きている限り消すことはできない。
しかし「注意深く観察し、何を感受し心に何が生じたのかを知り、適切に対処する」ならば、自ら作り出した「プチ苦悩」は滅すること(心に生まれないようにすること)が出来る。
心に生じる「プチ苦悩」を滅し、「プチ苦悩」が認識されなくなれば、事実として存在する「嫌いなあの人と顔を合わせること」の存在にかかわらず、心に生じる「プチ苦悩」生まれない、存在しない、という帰結になります。
実はこの考え方は、認知療法的なアプローチ、
事実があなたを苦しめるのではなく、事実に対するあなたのとらえ方(認知)があなたを苦しめます、
という考え方と同様のアプローチになります。
う~ん、この言い方の方がはるかに簡単ですね。
釈迦の人に対する考え方は「人とは認識する機能にほかならない」という徹底した認知論です。
「人とは認知する機能なんだけど」
「見たもの聞いたものとかの感知したものに刺激されて、無かったものを自分で作り出しちゃったりとか」
「少し間違えるよね」
「間違えると、苦悩を生んじゃうよね」
と言っているようです。
J.ティーズデールさんは、お坊さんの講演を聞いて、仏教の苦悩のとらえ方と認知療法の類似性に驚き、それが機縁となって、ティーズデールさんらのチームは、マインドフルネスに認知療法を統合したマインドフルネス認知療法(MBCT)を創始しました。
MBCTにおいては、マインドフルネス実践により、クライエントが「思考は事実ではない」という心理的な態度に到達するよう導くことで、クライエントが、自分に生じたネガティブな思考との付き合い方を変容させることによって、うつの再発予防に効果をあげている、とのことです。
自分の心の機能と生じる思考、感情を識別して対処すれば、感情の扱い方を理解することを通して、苦悩への対処も可能になると言えます。
釈迦は心の機能を分析し、苦悩が生じる過程をあきらかにして、苦悩をなくす方法にたどりついた、又はその逆方向であったかもしれませんが、いずれにしても精緻な心理分析をしています。
「metta」で、こころに留めておいていただきたいこと
ただしここで注意してもらいたいことがあります。
自分の考えた「ていねいな扱い方」を言葉にして、
「心の中で唱え」ることは、
「ていねいに扱う」考え方を、育てるための手段であって、
唱えたからといって「ていねいに扱う」という考え方があなたの中にできあがったわけではない、
言い換えれば、
すぐに脳の思考回路(経験)として確立しない、
ということです。
「おまじない」「願いがかなう呪文」ではありませんし、「神様へのお願い」でもありません。
唱えることそのものに価値があるのではなく、
言葉で唱えることは、自分の心に、自分をていねいに扱う、という思考回路を脳内につくるための手段
だと考えてください。
唱えるときに心を落ち着かせ、集中して(世間的には心を込めてといいます)唱えれば、唱えることに相応の効果はあります。
継続して行うことで、「これをしない日は、他者への対応が少し雑になるようだ」などと感じたとしたら、確実に心のなかに「慈しみ」がに育っています。
唱えること自体も瞑想ですが、「心を落ち着かせて、集中」するための基礎訓練もあると考えてください。
(歩行の瞑想から、座ってする呼吸に集中する瞑想が基礎訓練としてはいいと思っています。)
これをやったからと言って、家族や周囲の人が幸になるというものではありません。そのように考えないでください。
また、この瞑想は、人のために祈っている自分を、いい人だと感じて、て自分をいい気分にさせるためのものではありません。
自分をいい人だと感じるためにやることは、私っていい人、という感情を味わうためにやっている、ということになります。
マインドフルネス的言うと、
「自分をいい気分」にさせると、
自分が気持ちよくなる(本能的な)脳の回路が強化され、
自分や他者を理性的な考えにもとづいて「ていねいに扱う」、
という言い方もできると思います。
感情的に、ではなく理性的に自分をていねいに扱い、それと同様に他者も、感情的にではなく、理性的に区別せずに同じように扱いましょう、という考え方です。
ですから「私は、私も他者も・・・扱います」と唱えても構いません。
目指すところは、私も、他者も同様にていねいに扱う態度、です。
まず自分をていねいに扱わなければ、他者をていねいに扱えないし、仮にできたとしても苦しいでしょ、持続できないでしょ、ということです。
自分にはいいけど、あの人にはダメ、この人にはいいよね、って使い分けをしていたら、相手毎に脳のスイッチを切り替えることになり、その都度、相手によっていい気持になったり、嫌な気分になったりします。
感情を刺激することは脳のエネルギー消費を増大させるようですから、「脳」としては、
「楽じゃねーな」「やってらんねーよ」「つかれたよ」
って感じてるんじゃないでしょうか。少なくとも脳は喜んでいないでしょう。
そういえば大木幸助さんが「脳内麻薬と頭の健康 気分よければ頭もまたよし」(講談社ブルーバックス)って本を書いていたことを思いだしました。
思考が生じただけでも体には、微細な緊張が生じますし、ネガティブなことを考えて感情が生じれば(プチ苦悩が生まれます)それ以上に緊張が生じます(これまたプチ苦悩です)。
感情的になって感情を暴れまくらせた後に、あ~疲れた~って経験されてますよね。
思考、感情によって体に緊張が生じれば、釈迦が説いた
「喜んでいる人は身体も安らぎ、心もやすらぐ」
「身体が安らいで幸せな人の心は集中する」
からは確実に遠のきます。そうなると
「苦悩を遠ざけること」「婚活をたてなおす」ことから遠ざかる
と考えてください。私は解脱を推奨しているわけではありません。
補足説明(1)「それが慈しみなの?」
私の場合の、慈しみの考え方「私は、私を批判しません、責めません」「私は、私について、いい悪いを判定しません、争いませ「粗暴に扱わず、ていねいに扱います」ですが、
なぜそれが慈しみなの? 慈しみっぽくないけど、
とお感じになるかもしれません。ごもっともです。
これは私の性格(考え方のスタイル)に基づいて、私に効果的なように作ったので、このようになりました。
マインドフルネスの原型となった瞑想をしているテーラワーダでは、新人のお坊さんが行う瞑想を、師匠が新人さんの性格をみて、最も取り組みやすくて、効果が出るものを選ぶのだそうです。
その性格を観るときの分類の1つに「瞋性:しんしょう」というのがあり、どうやら私は「瞋性」のようなのです。
「瞋性」は、「物事に対立するアプローチを持つ人」と説明されています(サンガ刊 アルボムッレ・スマナサーラ先生 ブッダの実践心理学 第7巻)。
私の考えは「いや、そうじゃなくて、こうなんじゃない」という形で表わされることが多いので、他者と自分との考え方との「違い⇒対立」や、自分の「こういう状態でなくてはいけない」という自分の認識と実際との「違い⇒対立」にフォーカスしてしまう「考え方スタイル」のようなので、「物事に対立するアプローチを持つ人」であり、それゆえ自分は「瞋性」だろう、と考えたからです。
自分が「瞋性」だと考えると、納得がゆくことがあります。
私の場合、あれしたいこれしたいというのはあまりなく、「(この場合には)それ違うんじゃない、こうしなきゃいけないんじゃない」という考えを起こすことで、「相違・対立⇒怒り」を行動のエネルギーにしていたように思います。それゆえ、会社勤務中は、けっこうけんかしてしまいました。
「瞋性」の「瞋」は怒りですので、その面からも納得できます。
「慈しみ」の瞑想の他に「喜」の瞑想もありますが、「瞋性」の人はこれはできないとされているそうです。やってみましたが、(今までのところは)できませんでした。
「慈悲の瞑想」には、ヴィパッサナー瞑想の開始時時に、集中力を高めるため推奨される「定型の慈悲の瞑想」もあります。
本来の「慈悲の瞑想」は、四無量心、つまり「慈」「悲」「喜」「捨」のうち一つを選んで、その心をつくることに意識を集中することによりサマディー状態をつくる、いわゆるサマタ瞑想です。
サマディーをつくるだけでなく、自らが選択した「慈」「悲」「喜」「捨」のうち一つが心に実現されること自体が、好ましいと受け止められているようです。阿含経の中にも四無量心を養うことを説いたものがあります。
瞑想対象は、自分が作り出すことが可能な心であって、なおかつ自分に好ましい変化を及ぼすものである必要がある、との考え方からです。
そえゆえ、
「私が今ここにいることを認めます、他者も今そこにいることを認めます」
「私に優しい注意深いまなざしを注ぎます、他者にもやさしく注意深いまなざしを注ぎます」
「私の心身に生じたことを正しく見てた正しく知ります」
「他者の心身に生じたことも正しく見て正しく知ります」
「私を、比較対照によって評価しません、他者を比較対照によって評価しません」
「自分に生じた緊張を緩和しようとして、自分に不用意不適切な言動を行いません」
「自分に生じた緊張を緩和しようとして、他者にも不用意不適切な言動を行いません」
「自分に生じた欲求を満たそうとてして、自分に不用意不適切な言動を行いません」
「自分に生じた欲求を満たそうとてして、他者にも不用意不適切な言動を行いません」
「私を攻撃せず、私をていねいに扱います、他者を攻撃せず、他者もていねいに扱います」
という、態度を自分に定着させる(脳の回路を作る)ために、このような「慈しみ」にしています。
上記の「metta」の内容は、私が瞑想してきた中での自分の心の観察に基づき、下でご説明するカウンセリングにおける中核三原則を実践するために、このような考え方をに行き着いたものです。
これをきちんと自分と他者に向けてやると20分から30分はかかります。このくらいやれば効果は出やすくなるでしょう。
その反面、強力に行う場合、多少体には負担がかかるようです。今までの心の態度と違えば違うほど、脳が混乱して、元のままでいようとして抵抗が生じる、というのは自然です。
スキーマ療法が大変なのと同じなのでしょう。
「慈しみ」の瞑想はあくまでも、自分の中に「慈しむ」という態度を育成し定着させるものです。
自分を「慈しみ」、苦悩を低減して、自分の心を軽くして、
他者へ「慈しみ」をもたらすことは、自分の行動を通してしかできません。
慈しみ瞑想は、まずはあなたの心を軽くするための考え方であって、他者のために祈ることそれ自体に価値を置く宗教的な考え方ではありません。
私はカウンセラーであって、布教者ではありませんし、このブログは、
「婚活をたてなおす」ために、
婚活に悩む方の「心を軽くする」方法、ヒントを提供する、
ものですから、これでよいと思っています。
また、私はカウンセラーなので、カウンセリングにおける中核3条件と言われる、
1.カウンセラーの自己一致あるいは純粋性(自分が感じていることを素直に感じとれる)
2.クライエントへの無条件の肯定的配慮(そしてそれがクライエントに伝わっている)
3.クライエントへの共感的理解(そしてそれがクライエントに伝わっている)
という観点も考慮しています。
では、自分の心の中で、なぜ慈しみの心を他者にむけるのでしょうか?
自分から他者、親しい人から嫌いな人にまで「慈しみ」をむけるのは、「苦しみをなくすための慈しみ」という心の態度を、とりあえず自分の中に作って、その心の態度を、私から、親しい人へ、そしてより多くの人へと向けてゆくことで、より確実、強固にしてゆくためと考えられます。
釈迦は「スッタニパータ」の中で次ように言っています。
「149 あたかも、母が己(おの)が独り子を命を賭けて守るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみ)のこころを起こすべし」
「150 また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし。」(ブッダのことば 中村元訳 岩波文庫青301-1)
149 で説かれる慈しみは、皆さんも持つであろう「慈しみ」の感覚に近いと思います。
150 では、釈迦は、他者のために祈りなさい、とは言われていません。自分の心のなかに「無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし」と言われています。
近くに保育園がいくつかあって、園児のお散歩に出くわすことがよくあります。
全員が手をつなぎながら、歩きたくない園児やそれを引っ張って歩かせようとする園児、何かに気を取られて横を向いている園児などいて、見ているとほっこりし、かわいなぁ、元気に育つんだよ、って気持ちが起こります。この気持ちは慈しみでしょう。その気持ちを感じ取ったので「喜」の瞑想は無理でも「慈しみ」はできそうだな、とうことで「慈しみ」の瞑想を始めました。
しかし、「かわいいなぁ」は自分の心に起こった、自分の心を気持ち良くする「感情」なので注意が必要です。
『自分の心に起こった、自分の心を気持ち良くする「感情」』を刺激しつづければ、自分の心は気持ち良くなりますが、他者を慈しむ心にはなりません。
釈迦の方法論は、自分のこころに『自分の心を気持ち良くする「感情」』が起こると、気持ちよいものとして認識され記憶され、知らず知らずのうちにそれを求めるよね、そのことをしっかりと理解しないと、どんどん『自分の心を気持ち良くする「感情」を起こしてくれること』をもとめるようになるよね、それを認識しないからそれに執着して、満たされないとき心が苦しむんじゃない。私(釈迦)はそのように識り、そのようなことは完全に滅し尽した、あなたはあなたの心で確かめてみて、苦悩を滅することを実践してみなさい、私の言っていることが理解できるよ、というもの、というのが私の理解です。
そのように考えると、「かわいいなぁ」という感情を育てるのではなく、子供に対する「元気に育つんだよ」っていう気持ちを、150のように、子供にも子供以外の人にも向けられるように、自分の中に育ててゆく方向性が必要になります。
「かわいいなぁ」を嫌いな人に向ることには困難があります。それができれていれば慈しみの瞑想はもはや不要、すでに解脱の境地かもしれません。
使わない筋肉をはおとろえ、使う筋肉は強化されるように、脳の回路も、好ましい回路を一生懸命使えば回路として強化されますよね、というちょっと推測交じりの説明になります。
慈しみの瞑想の効果の機序(メカニズム)
心に、metta、日本語では「慈しみ」を作り、自分を慈しみ、それが出来たら親しい人から順次周囲の人へ、嫌いな人へも、その考えを向けてゆきます。それに伴って、あなたの幸福感が増し、当然あなたは慈しみをもって自分と他者に接するようになります。
そのような態度ができたなら、あなたの中に、慈しみという「新しい脳の回路ができた」ということになります。
脳も筋肉と同じで、使えば強化されるし、使わなければ衰える、
と考えたらどうでしょうか。
そう考えると少し怖ろしくなります。
例えば、嫉妬や妬みをほおっておくと、嫉妬や妬みの脳の回路がどんどん強化される、ということになるからです。釈迦は、それを貪随眠、瞋恚随眠という考え方で説明しました。自分の心を注意深く観察しないと、自分の行為によって、あれがいい、これがほしいという性向や、あれは嫌だこれは観たくもないという(怒りの)性向が心のなかに強化されて潜在しますよ、と言っています(六六経)。
海外では、マインドフルネスは、脳の機能の変化という観点からも研究されています。(前掲 加賀谷亮さんの本、日本評論社の本等)
慈悲の瞑想は、本来は仏教瞑想(マインドフルネスの源流の一つともいわれるテーラワーダの瞑想法)です。
なぜこのようなことをやるのかというと(私の解釈ですが)、私を慈しみ、他者を慈しむという考え方、態度を養うことは、脳に慈しむという回路をつくり、強化することになり、それが最終的には、「自己」と「自己以外の他者」という認識を弱くすることをもたらすから、であるように感じます。
「慈しむ」という回路を強化して、自分をケアすれば、当然自分のストレスや不満が少なくなる方向に働きます。
自分のストレスや不満が少なくなり、さらに心身がやすらぎ喜びを感じれば(=軽安、軽安になると悟りに至る7つの支分のうちの軽安覚支が完成するとされます)、他者をうらやむことや怒りを覚えることも少なくなり、他者をケアする、慈しむよう態度が容易につくれるようになります。
自分も他者も慈しむことが十分にできるようになれば、「自分」 vs 「他者」という意識が希薄になります。
それは「悩み苦しむ自分という意識」が希薄になることによって促進されるようです。
「苦しんでいる自分」 vs 「苦しんでいない他者、または自分を苦しめている他者」という認識が強固であれば、「自分」 vs 「他者」という意識の希薄化は難しいでしょう。
私というものは自分の意識が作り上げてきたもの、より分かりやすく言えば、子供のころから「私」という存在を認めてくれる「他者」である養育者や社会的な交流のなかで「私」という意識を育ててきたものですから、「自分」vs「他者」という意識を希薄化してみたら、「私」という意識も希薄化し、それにともなって、悩む、悔やむ、不快に感じるといった『「私」という意識かあ生起する感情が脳の中を右往左往する」』ということも希薄化する、ということなのではないでしょうか。
ただし、この時点で完全に「自分」vs「他者」の意識がなくなるわけではありません(と考えています)。
私という意識がなくなれば、好き嫌い判断できる私がいない、好き嫌い判断できる私がいないということは、苦しみを感じる主体である私はいない、ということになります(理屈上そのようになります)。苦しみや「こうありたい」私、「こうでなきゃいけない」という私の信念や思い込みがなくなれば、考える主体である私という意識は不要になります。
多分ここまで至れば悟りなのでしょう。
こういう機序、メカニズムで悟りに至るようです(としかいえませんが)。
苦しみがなくなり、私という意識がなくなっても、「意志」は残るようです。
マインドフルネスは感情的反応をおさえ「意志」の発現を促す
何故そう考えるかというと、釈迦の行いを見ていると、その様な考えに至らざるを得ないからです。
釈迦は、完全な悟りに至ったとされますが、死の直前まで遊行(教えを説いて回ることを)しました。
これは教えを説きたいという欲求でもなく、
教えを説くべきだという義務感でもなく、
自分が知り得たことは、あますことなく伝えてゆくという釈迦の意志としか考えられません。
釈迦は完全に解脱して、何ものにも苦に感じることがなく、何ものおも欲しいとおもうこともなく、何ものおも厭うことがなく、何ものにも不安を感じず何ものかに悩むこともない、という完全に寂静な境地に至ったはずだからです。
釈迦は死が近づく中でこのように言っています。
「アーナンダーよ、如来の教法には、教師の握拳はない。」
アーナンダーさんは、釈迦のお弟子さんで身近に使えた方です。
如来とは釈迦自身のことです。
握拳とは「教師が奥義として容易に弟子にあかさないもの」だそうです。
そしてこの後に有名な、「自己を洲とし、自己を依処として、他人を依処とすることなく、法を洲とし、法を依処として、他を依処とすることなく住するがよい。」という言葉が発せられます。(筑摩書房 阿含経典第三巻 増谷文雄より)
自分が得たことは全て君たちに教えた、隠していて教えていないものはない。だから自分をよりどころとして、私が教えた法をよりどころとして、(私がいなくなっても)しっかりやってゆきなさい、ということをいったのであると思います。
自分が知り得たことは、あますことなく伝えてゆく、という釈迦の意志を貫徹した人生を言い表した内容であったと思います。
感情の制御と意思のはたらき
瞑想の機序(メカニズム)から感情の制御と意志の働きを考えてみます。
瞑想は、安楽な状態を作ります。高度なリラクゼーションと言っていいと思います。
安楽な状態は、考えないこと、考えないことによって感情が鎮まることによってもたらされます。そのために瞑想対象に集中します。
感情を鎮めることを続けてゆくと、感情の働きが(短時間であっても)制止されます。感情の働きが制止されれば、感情に影響されないで考える能力(智慧と言っているようです)が出てきますので、考えることなくなんとなく、こうしたらいいんじゃね、という考えが出てきます。
感情を感じるのは「私」です。
「私」が感じるのであって、「他者」が感じたことを感知するのではありませんから、感情を感じるためには「私」という認識が必要になります。
感情を感じていないとき「私」という認識は必要ではない、ということになります。
感情的に反応しない、ということになると、あれしたい、これしたくない、あれはいや、これがいい、という感情は働かなくなります(もしくは弱くなります、いずれにしても脳の感情の回路の使用頻度が下がります)から、自分を動かすための意志が自由に働きだします。
感情に影響されないのことで、意志はより発揮されやすくなるのでしょう。
「感情」の刺激による婚活行動の連鎖を、モデル化してみました。あくまでもご説明のための「少し誇張した」モデルです。
結婚したい(願望=感情)
⇓
入会(意志決定)
⇓
思ったようにうまくいかない(不安=感情)
⇓
結婚できるかな(不安=感情)
⇓
結婚できなくて傷つくのは嫌だ(恐怖=感情)
⇓
やめよっか(迷い=感情)
次は、意志による行動パターンです。鉄の意志を持った「アンドロイド婚活」みたいに見えますけど・・・。
結婚する(「したい」という感情を「意志」による決意、目標にする)
⇓
お見合いアナリティクスを活用しよう、申込傾向を変えてみよう
(意志、目標が明確なので、データを活用して、やり方を変えることに抵抗がない)
⇓
うまくいかなかった次へゆこう(意志、目標が明確なので、過ぎたことを悔やむという感情が発生しない)
⇓
申込のペースを維持
⇓
お見合いがきちんと組める
⇓
お見合いアナリティクスを活用して自分の印象改善を図ろう
(意志、目標が明確なので、ネガティブ情報も受け止める)
⇓
交際につながる可能性が高くなる
⇓
成婚につながる可能性が高くなる
瞑想は、感情的な反応を克服する力を養う
治意経、念身経に興味深い記述があります。
治意経は、座禅、テーラワーダの瞑想、マインドフルネスでも中核となる呼吸の瞑想の方法「出入息観」について説いたお経です。
「比丘たちよ、呼吸にしっかり思いを凝らすことは、感覚のうちのひとつであるといえる。それゆえ、比丘たちよ、そのとき比丘は世界に対する欲や不快を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、感覚を感覚として観察しているのである。」(春秋社 原始仏典第7巻 第118経)
これはとても興味深い説明です。
呼吸にしっかり想いを凝らす、という行為に集中することによって、欲や不快感という感情は(一時的であっても)なくなり、そのような状態では、「熱心に(高い集中力をもって)、意識し(今感じていることを継続的に感じ取り)、注意しながら(注意が体中に行き届いて)」、呼吸ではなくて、呼吸にしっかり想いを凝らしている自分の感覚が感覚として観察できますよ、ということを言われています。
「感覚を感覚として観察しているのである」という状態は、念身経の『身体に向けた注意』が確立している状態のそのものだと考えられます。
第22経で「肉体的な」「楽の感受」「苦の感受」「苦でも楽でもない感受」が説かれていることとにも納得がゆきます。
念身経では、出入息観(呼吸に集中する瞑想)や、所作の自覚による修習(体の動きを注意深く観察する瞑想)などにより『身体に向けた注意』を養うと、10の利益が得られますよ(春秋社 原始仏典第7巻 第119経より)と説いて、その一番目、二番目として次のことをあげています。
1.好き嫌いを克服できるようになる。かれは嫌悪感をものともせず、生じてくる嫌悪感を打ち負かし続ける。
2.恐れと怖気を克服できるようになる。かれは恐れと怖気をものともせず、生じてくる恐れと怖気を打ち負かし続ける。
これは、精神論ではないようです
第118経の「欲や不快を除き去って」という釈迦の説明と、脳の機能を重ね合わせて説明を試みます。
大山泰宏さんは「改定新版 人格心理学」(NHK出版)の中でこのように言われています。
少し長くなりますが引用します。(太字は宮崎が付しました。)
「脳から人格を考える際に、大脳新皮質と同時に重要なのが、大脳辺縁系である。大脳辺縁系は、情緒や欲動、記憶に関わる場所であると言われており、原皮質、古皮質、海馬、扁桃体などからなり、間脳(視床、視床下部)を含める場合もある」
「ヒトは大脳新皮質の発達によって表象や運動企図や計画の能力あるいは言語等を獲得したが、大脳辺縁系はそれ以前のあり方に関わっている。すなわち情動的な反応や愛着、あるいは体系化されていない短期的な記憶など、個体が結びついたり状況を意味づけて即座の反応をしてゆくために重要な役割を果たす部分である。」
「辺縁系の働きから人格を理解する上で、特に重要なのが、海馬である。海馬は、記憶の形成や保持に重要な働きをするといわれている。私たちが体験したことは、大脳での意味的な処理をされる以前に、いったんこの海馬にしばらくのあいだ蓄えられる。」
「海馬の先端には情動に関する中心的な役割をになう偏桃体がある。情動体験は生体に対して、外界から突然やってくる物事への即座の反応や構えを引き起こし、私たちが記憶や知識を介して複雑な判断をする以前に、当面の生命の保全に必要な行動をとらせる。とりわけ偏桃体は生命の維持のためには、まずもって重要な危険を察知するための情動である恐怖の情動と深く結びついていることが知られている。」
久賀谷亮さんは、前記「最高の休息法」の中で、
「マインドフルネスは不安のような脳のストレス反応にも、効果を発揮する」
「いくつかの研究でも、3か月以上にわたってマインドフルネスを実践する長期瞑想者では、前頭葉と偏桃体が上下関係ではなく、より対等でポジティブな関係をつくることがわっかって」いる、と言われています。
また、大野裕先生は「はじめての認知行動療法」(講談社現代新書)の中で、
「不安は『危険』という認知と関係しています。その状況を危険だと判断し、それに対処するだけの力が自分にはなく、他の人たちから助けてもらえないと考えると不安になります。危険を現実以上に過大評価し、自分の力や周りからの支援を過小評価すると不安は、より強くなります。」
久賀谷さんは、前記書籍を、脳の疲労回復という観点を中心に据えて書いておられますが、マインドフルネスの研究成果をふまえて、マインドフルネスに期待できる効果として、以下をあげています。(ただし研究のクオリティには多少の課題があるとも言われいます。)
集中力の向上 ー 1つのことに意識を向け続けることが出来るようになる。
感情調整力の向上 ー ストレスなどの刺激に対して感情的な反応をしなくなる
自己認識への変化 ― 自己へのとらわれの減少、自己コントール力の向上
免疫機能の改善 ― ウイルス感染などに対する耐性、風邪をひきづらい
「集中力の向上」は、第118経の「出入息観」に取り組むことによって、「熱心に、意識し、注意しながら」という釈迦の記述は、
宮崎の経験による解釈では(宮崎の解釈によらずとも)、マインドフルネスに取り組まれる方は、集中力が向上することは体験的に理解していますが、
「熱心に(高い集中状態で)、意識し(今感じていることを継続的に感じ取ることができて)、注意しながら(注意が体中に行き届いて、これから生じることも感じ取れる)」
となりますので、集中力の向上は当然にもたらされる結果であろうと思います。
「感情調整能力の向上」は、第119経で説かれる「好き嫌いを克服できるようになる」「恐れと怖気を克服できるようになる」そのものと言えます。
その前提として、第118経の「欲や不快を除き去」ることによって、久賀谷さんが言われる、「前頭葉と偏桃体が上下関係ではなく、より対等でポジティブな関係をつくる」ことが実現され、その結果として「感情調整能力の向上」がもたらされると考えれば納得性は高いと思います。
「自己認識への変化」、「自己へのとらわれの減少」は、
仏教瞑想も、マインドフルネスも、今の体や感覚への集中を通じて、過去のことや未来のこと、ここに無い事象を考えることを「妄想」もしくは「雑念」としてとらえて、離れたうえで、今現在の呼吸や感覚への意識の集中をはかります。
第118経の「呼吸にしっかり思いを凝らすことは、感覚のうちのひとつであるといえる。それゆえ、比丘たちよ、そのとき比丘は世界に対する欲や不快を除き去って」を手掛かりにしても、欲や不快は「自分が」感じることですから、欲や不快を感じないということは、自我意識が希薄であるか、自我意識がない(この状態が常態化すれば解脱なのでしょう)、ということになりますから、「自己へのとらわれの減少」は必然的にもたらされると考えてよいでしょう。
「自己コントール力の向上」は、
「記憶や知識を介して複雑な判断をする以前に、当面の生命の保全に必要な行動をとらせる。とりわけ偏桃体は生命の維持のためには、まずもって重要な危険を察知するための情動である恐怖の情動と深く結びついている」(大山先生)
「不安は『危険』という認知と関係しています。それに対処するだけの力が自分にはなく、他の人たちから助けてもらえないと考えると不安になります」(大野先生)
「前頭葉と偏桃体が上下関係ではなく、より対等でポジティブな関係をつくる」(加賀谷先生)
これらのことを考え合わせると、不安や恐怖、危険という「まずもって」おこなわれる判断の機能を抑制することによって、自己コントロールの余地が拡大できると考えると、「自己コントール力の向上」は必然的にもたらされる、と思います。
「免疫機能の改善」については、J.カバットジンさんが著書「マインドフルネスストレス低減法」の中で「免疫システムに与える心の影響」として考察されています。
「婚活をたてなおす」ことにつながる
好き嫌い、恐れと怖気(おじけ)(といった感情)を克服できるということは、
多少の失敗があっても、自分を責めず自分を嫌になることなく、
うまくいかないことで自分が傷つくことを恐れることなく、婚活に取り組めるようになる、
ということでないでしょうか?
瞑想により集中力が高まるという経験を、繰り返し体験してゆくと、不安感や、面倒だな、やりたくないな、という感情は確実に減少します。
3番目の利益が、
「辛辣で不愉快な発言に耐え、身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、死にそうな感覚をこらえられるようになる。」
(一部抜粋)です。
「身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、死にそうな感覚をこらえられるようになる。」
ということは、
J.カバットジンさんが、マインドフルネスストレス低減法(MBSR)で、取り組み、成果をあげたことです。
医療処置では対処できない慢性疼痛患者の心理的苦悩への対処法として効果を上げました。まるでカバットジンさんはこのお経をみてMBSRをつくったかのようです。
アルボムッレ・スマナサーラ先生も、「大念処経」(サンガ刊)のなかで、激痛にさいなまれる方の緩和医療での効果性を解説されています。
スマナサーラ先生によれば、痛みが生じたとき大ざっぱに痛みをとらえて「痛い痛い」と感じる(現在の)状況から、痛みが発生したところに意識を集中して、痛みののものをより明確に知るということを通して、痛みそのものと、痛い、苦痛だ、耐えられない、という感情的な反応を切り離すことによって痛みはあるが、心で苦しいと考えない状態を作ってゆく、とうことのようです。
私はこの方法は、釈迦が苦しみを滅した方法として説いた「四聖諦」(すでにご紹介ずみですが)そのものだと感じています。
「四聖諦」は、お経で読んでもちんぷんかんぷんですが、このブログでご理解いただいていると思いますが、痛みに即して考えてみると、
痛みが具体的にどこに、どのくらい発生したのか、あえて痛みに意識を向けてみてみよう(苦聖諦)
ここに発生した、かなり痛い、痛み自体は抑えられない、治療法がないんだから(苦集聖諦)
痛みはどうしようもないから、痛みに反応して、苦しいと考えないようにしよう、気持ちが楽になる(苦滅聖諦)
痛みが発生した時は、この方法で対処しよう、対処法を一生懸命学ぼう(苦滅道聖諦))
「痛み」を「苦しみ」に入れ替えれば「四聖諦」と考えてよいのではないかと思います。
生老病死は苦!といっても、生老病死の事実と、生老病死を認識したときに「心に起こる苦悩」と分離して、「心に起こる苦悩」なくせれば、心は苦しまないよね、ということになります。
「プチ苦悩」のところでご説明した「認知療法」アプローチです。
釈迦の「認知療法的」人間観
釈迦の人間観は、どうやら次のようなものであったようです。
「比丘たちよ、何を一切となすのであろうか。それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香りである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(概念)とである。比丘たちよ、これを一切というのである。」(筑摩書房 阿含経典第三巻 増谷文雄)
増谷文雄先生はこのことを、
「詮ずるところ、この世界にあって生きる存在である人間にとっては、「人間にとっての世界」を意味するものであるより他はないのである。」
「そこに語られているものは、まことにリアリスティックな「一切」であって、空想や幻想は全く混えられていない。つまり、六根によって把握せられる六境のほかには、何も介入するところはなかった。それが釈尊の世界であったのである。」
補足※六根は眼、耳、鼻、舌、身、意、六境は六根によって感知される対象、物体、声、香り、味、感触、概念と考えてください。
グレゴリー・ベイトソンさんはこんなことを言っています。
「誰かに足を踏まれたとき、私が経験するのは、"彼による私の足の踏みつけ"そのものではなく、踏まれてからややあって脳に届いた神経報告を基に再構成された"彼による足の踏みつけについての私のイメージ"に他ならない。」
「外界の経験は常にある特定の感覚器官と神経回路が介在しているのである。」
「その限りにおいて、ものとは私の創造物であり、ものの経験は主観的であって客観的ではない。」
「痛みとか、外界の視覚イメージとかの感覚データの客観性を疑う人間が、少なくとも西洋文化の中に。ほとんどいないということは、やはり熟考に値する問題である。われわれの文明は、この客観性の幻想の上に深く根差しているのである。」
(精神と自然 生きた世界の認識論 思索社)
ここからは私の解釈なので、指先に少し唾をつけて眉に付けてください(へへッ)。
釈迦は、すでにお話しましたが、人を、外界の刺激を感知する装置と考え、生きている限り感知することはなくせないよね、と考えていたのではないかと思います。
そのうえで、感知する装置なのに、感知する装置そのものへの愛着や装置が生み出す感知への愛着を生み出してしまう。経験した感知そのものを超えて美しいとか美しくない、おいしいとかおいしくないという認識を生み出すと、それへの愛着や嫌悪を生み、愛着は欲望の対象となり、求めても得られないと求不得苦を生み、愛おしいものを失くすと愛別離苦を生み、嫌悪するものから離れられない時には怨憎会苦を生みだす(人に限定しない方が意味が理解しやすいと思います)んじゃない?。これらの感知する装置(こころの働き)をしっかり見て、理解し、気を付ければ苦悩は発生しないよ、(『身体に向けた注意』を養う瞑想をして)私の言うことを確かめてごらん。
それゆえ、自分の心の動きをよく見て、愛着や嫌悪を生み出さないように(脳内の回路を使わないことで弱化)すれば、苦しむことはないよね、と言っていると考えられます。
『身体に向けた注意』を養うとは、とは、釈迦が説いた心の働きを観察することにつながる観察力を養う瞑想で、ヴィパッサナー瞑想と言われます。
ヴィパッサナー瞑想は、体の動き、感覚に意識を向けて集中力をと観察力を養います。
体の感覚は、「痛い」ではなく、(私に)「痛みが生じた」と観察します。
思考が生じたら、思考は愛着や嫌悪の感情を増幅する「妄想」なので放します。「妄想」「放す」とラベリングして意識を向けないようにします。
努力して「さよならする」ってかんじでしょうか。
「さよならする」のは、少しさみしいですね、自分に生じた思考なのに・・・人は自分の考えを確かめたり、感情を刺激したりすることに愛着を感じます。
ですから、実は「思考」を「放す」「さよならする」ことの効果はかなり大きくて、感情的な反応を減らす効果があるようです。
思考を停止して、愛着や嫌悪の感情の生成が止滅すると、当然、愛着や嫌悪に影響されない思考になります。
愛着や嫌悪がないのでストレスフリーな状態で思考できます。
その状態で釈迦が説いた法を検証し、ああそういうことか、という気付きを得て、自分の認識とします。
私が経験したヴィパッサナー瞑想の進み方です。
「悟り」は4番目の利益
念身経のお話に戻ります。4番目は全文を引用します。
「現世で気持ちよく過ごすことのできる、雑念を捨ててすっきりした四つの禅定を、思うままに、難なく得、苦労なく得られるようになる。」
四つの禅定は悟りの段階を説明したものです。
4番目に「四つの禅定」の悟りが難なく得られますよ、と言われています。
たゆまず精進してゆけばここにたどりつきますよ、ということでしょう。
解脱を推奨することは現代の事情に合わない
そもそも私は、仏教徒ではありません。
心理支援に関わるカウンセラーとして、苦悩ってどうすればなくなるの?という観点からご紹介しています。
また、仏教の素養のある方、つまり釈迦が説いた教えを発展させ、より高度化した後世の仏教を学ばれた方は、後世の仏教の考え方で、阿含経を解釈される傾向があるように思います。現在の仏教を知らないほうが、先入観なく釈迦の教えに近づきやすいと考えています。
ちなみにテーラワーダの出家と日本の現代における出家は、意味するところが大きく異なります。
阿含経は、出家者がその伝承を荷い、保存し整備して来ました。
阿含経が文字化されて(たぶん流通するようになってから)ほどなくして大乗経典作られたようです。
ですから、阿含経が成立した後に、阿含経の伝承を荷い、保存整備して来た出家者集団の在り方を批判して成立した大乗仏教の思想から、阿含経を読まない方がいいように思います。
新しくできた法律を、その法律ができる前の出来事当てはめて裁く(当否を判断する)ようなことになりかねません。
釈迦の観察による「無我」の考え方(非我と言った方がいいのではと思っています)は、近代的な自我概念、つまり自由意思をもって自分で意思決定し、基本的人権という権利をもち、契約関係において権利義務を果たすという人間観や、個人の尊重や自己実現といった概念からすると、少し都合が悪い(正確に理解されない可能性がある)ようにとられるでしょう。
それゆえでしょうか、仏教瞑想の流れをくむにもかかわらず、西欧とアメリカで発展したという経緯からでしょか、マインドフルネスでは無我にはフォーカスしません。
それに、現代人は(事情により労働できない人には各種セーフティーネットがありますが)、働いて自ら稼得したお金により生活し、納税して社会を支えることを義務付けられていますから、苦悩もなくりました、「欲」もなくなったので労働しません、「欲」を刺激しないために労働しません(少し極端かつ非現実的なのですが)、というのは社会を維持する観点からは、ちょっと困ったことになります。
健康でいて、(健全な欲求を満たして)自分の人生を謳歌して、お金を稼いで自立して税金を納めてね、ということが要請されている社会に生きている人間に、一切を捨てて出家して、欲を滅して解脱しなさい、という教えはそぐわないでしょう。
また出家者と同様に、解脱が、唯一の目的として許される、という考えも同様のように思います(瞑想の機序からすれば合理性はありますが)。
そもそもたくさん人が出家すれば(テーラワーダの出家者は労働に従事しないようです)、社会の支え手が少なくなります。
自給自足経済では、自給する人が減りますが、出家者も食べなければなりませんから、出家者の食べる分も誰かが負担しなければなりません。
分業が発展して職業に特化して他者に必要なものを提供し、分業化が市場経済によって発達した社会では、出家者が増えれば、経済成長が順調であれば人手不足になります。
出家者は社会からのお布施で生活しますし、独身で子をつくりませんから、出家者が増えると現在の年金財政のような事態を招来します。
解脱を、「輪廻を前提として、自らの再生への欲望を断つこと」ではなく、結果として、リチャード・ドーキンスさんのいう「利己的な遺伝子」が、『自らの生存のための乗り物である子孫』をつくらないことになる、と考えると自然の摂理に反し、反社会維持的なように感じられます。
社会の維持という観点から、そうそう出家者というのは増えてはいけないことになります。
そのように考えると、釈迦の教えは、現代に限定されず「浮世離れ」したところがあるように思います。
いいかえれば、完全な悟り(苦悩の滅尽に至る過程での欲、怒りの滅尽)に至ることと引き換えに「社会不適応的」な面も持たざるをえなかった、とも考えられます。
阿含経には「在家的思考」という言葉が出てきます。釈迦を教えを実践している出家者が至る悟りに対置された思考のようです。
釈迦は出家を推奨し、出家に価値を置き、在家者を顧みなかったのだろうか?、「在家的思考」の内容は理解できますが、果たして、在家者を除外して教えを説いたと感じさせる「在家的思考」という言葉を使う必要があったのだろうか?、という疑問です。
これは釈迦の教えを伝えて来た人々が出家者であったことから、解脱を目的とした出家者を中心に教理を発展させてきた、という事情もあるのかもしれません。
そこでは、出家者を価値あるものとして、自分たちの僧団の権威を高めるという意図のもとに、出家して解脱することは至上の価値であるという考えを宣揚する意図もって経典を整備したからそうなった、と考えても、おかしくはないと思います。
また僧団で行われる瞑想方法も、解脱を唯一の目的とし、解脱を至上の価値とした体系に基づき組み立てられたものであったかもしれません。
出家者が釈迦の教えに基づき解脱にまい進する姿を、教団外から眺めたらどのように映るでしょうか?
「私たちは仏の教えの蚊帳の外なのか」と感じても不思議はないでしょう。
植木雅俊さんの「仏教、本当の教え」(中公新書2135)のなかには、このような記述があります。
「ここには、在家も女性も軽視していない原始仏教の人間観がうかがえる。ただし、釈迦入滅後100年たったころから顕著になり始める教団の権威主義化に従い、在家や女性は軽視され始め、小乗仏教徒と貶称された保守的・権威主義的な教団を代表する説一切有部などにおいては、経典の自分たちに都合の悪い部分を削除して、改変するという操作も行われた。その痕跡が男性出家者にみに限定された「十大弟子」であろう。」
日本の仏教は、部派仏教の出家主義を批判し、在家救済を説いた大乗の系統ですので、出家至上主義、解脱第一主義(私の印象です)ではありません。
釈迦の教えの担い手であった部派仏教には、出家して解脱した人が救われるだけでなく、在家者も救うことが釈迦の意図であったはずであるとする大乗仏教を生み出させる要素を内包していたように思います。
小乗と貶称された部派仏教のうち最後まで残った上座部大寺派は、スリランカの大寺こそゴータマ・ブッダが降臨した聖地であるとする「島史」を作り、それを背景として、パーリ三蔵を正典化し、大乗仏典は釈迦直伝の経典ではない(非仏説)として排除する教理を作り上げたそうです。(初期仏教 馬紀寿 岩波文庫赤1735)
宗教としての教え、宗教としてのあり方という観点から離れて、
解脱を目的とするのではなく、
釈迦が得た苦悩の発生のメカニズムと苦悩をなくす方法に学び、
現代人が自分の生活を送りながら、
苦悩を低減し、イキイキと生きるための方法としてのマインドフルネスははきわめて画期的なもの
だと感じます。
心理療法として効果を発揮しています
マインドフルネスに、従来の認知療法を統合した「マインドフルネス認知療法」では、従来の認知療法の「ネガティブな思考は修正するのだ!」という態度ではなく、マインドフルネス実践によって「思考は事実ではない」という心の態度を養成することで、ネガティブな思考との”ちょっとゆる~い”付き合い方へと導くことで、効果を上げているようなので、釈迦の考え方に、より接近しているようにも思います。
「認知論」という大枠では、釈迦の方法論と認知療法は合致しています。
同様のことを「マインドフルネス認知療法」の創始者の1人のJ.ティーズデールさんも認識しています(マインドフルネス認知療法原著第二版 北大路書房)。
悟り、解脱に至らずとも、瞑想(マインドフルネス)による苦悩の低減という効果は認められる、と言っていいように思います。
強い心理的困難・ストレス状況にある人たちに効果があるのだから、すこし気持ちがへこんでいる人、軽いストレスの人にも効果あるんじゃね?って考えても不思議はありませんよね。
例えて言えば、強い心理的困難・ストレス状況にある人を-2の位置にいるとして、その人が0の位置に移動できるのなら、-1の位置にいる軽度のストレス状態の人が同じことをしたなら、+1の位置に移動できてパフォーマンスアップ期待できるよね、これって健康管理にもなるし、能力開発の可能性もあるんじゃね?と考えても不思議ではないでしょう。
そんなこんなで、マインドフルネスが能力開発プログラムにも活用されるようになっているようです。
自分を慈しむ、「ていねいに扱う」ことのメリット
このブログは「婚活をたてなおす」ためのものですから、婚活における「metta」のメリットをお伝えしなければなりません。
自分を慈しむこと(ていねいに扱うこと)が出来れば、自らを責めてエネルギーを浪費して、嫌になることが減少するでしょう。
あなたが、慈しみをもって他者に接する(ていねいに扱う)ならば、他者はあなたを自分をていねいに扱ってくれる人だと感じ、それを魅力と感じるでしょう。
ただし効果が出てくるのは、『「心の態度」そのもの』が出来てからです。
それゆえ「ていねいに扱う」考え方を育てるための手段として、『自分の考えた「ていねいな扱い方」を言葉にして』自分の心の中に、その考え方を定着させるしか方法はありません。瞑想への集中状態がすすめば、効果はより加速するでしょう。
言葉を使わず「ていねいな扱い方」をこころのなかに作り定着させる、ということも瞑想上級者であればできるようです。
心の中にないものは、外に現れてきません。
心の中にないものは作るしかありません。自分が他者との関係のなかで「私」という意識を作ってきたように。
そしてまた、うまくゆかないかも、それはいやだ、という感情も、自分の意図を超えて、人間の本能的な脳の働きにより作り出されたものだと考えます。人間は生き延びるために、本能的に不快感という感情により危険を察知または予知して回避してきたとすれば、不快感を生じさせることは、生き延びるため必要な本能的な機能と言えます。
自分には、できないな、と思うかもしれませんが、マインドフルネスの源流の一つとされるテーラワーダの瞑想の考え方は、心はほおっておくと、悪くなる(スマナサーラ先生の言葉です。自分を自分で責めて、自分が望まない方向へもっていってしまうのも、その一つといえます)から、自分の心の動きをしっかりと観察して、自分の心の動きを理解して、自分を良い方向に持ってゆく心を育てましょう、という考え方の実践がマインドフルネスととらえてよいでしょう。
心の中に無いものを、あるように見せることを、心理学では「自己呈示」といいます。
自分が利益を得るために、自分のなかにないことを、あるかのように見せることです。
言葉は相手に届いても、その言葉が心の中にあるものかどうか、確かめる術はありませんから、自己呈示は成り立ちます。
心の中に無いけれども、自分が欲しいものを得るための手段として装うのですから、見透かされるリスクは常にあります。
あなたが、慈しみをもって他者に接する(他者をていねいに扱う)ならば、お見合い相手、交際相手はあなたを、自分をていねいに扱ってくれる人だと感じ、それを魅力と感じるでしょう。
お相手が、あなたに対してこのように感じるのであれば、あなたはお相手を、あなたが人生を共にするにふさわしいかどうか、という観点から判断すればよいという「ポジション」に立つことになります。
集中する対象(瞑想で養う考え方)としては、やはり「慈しみ」が良いでしょう。
補足説明(2)不快感は本能的なもの?
K.M.B.ブリッジェスさんが、人の情緒の発達について研究しています。
それによると、
新生児には、興奮という情緒しかなく
生後3か月で「不快」「快」が生まれ
生後6か月で「不快」から「恐れ」「嫌悪」「怒り」が分化
1歳で「快」から「得意」「愛情」が分化し
およそ5歳ころまでに成人に観られる情緒が一通り出そろう
とさています(「新しい交流分析の実際 杉田峰康 創元社より)。
「危険」という情緒はありませんから、「危険」というのは「判断」と考えたほうがいいでしょう。
「危険」と判断する脳の部位と、「不快」と感じるの脳の部位との協働により、「危険=不快」という連結ができるのでしょう。
ならば「危険」⇒「不快」の順序ではないか、とのご指摘もあろうかともいますが、「危険」は判断なので、「危険」と判断したときには、それが「危険」であったときには、自分の生命を救えないかもしれません。
でも、不快感から分岐した情緒「恐れ」、いいかえれば「怖い」であれば、「危険」と判断することなくなく、とっさに、本能的な感じ方によって、嫌だ離れよう、という行動に結びつきやすいと考えられるのではないでしょうか。
マインドフルネスでは、自分が感受する「快」「不快」「どちらでもない」という3つの感覚を、「判断する」ことをせず検知することの訓練もします。
なぜそのようなことをするのかというと、「快」「不快」「どちらでもない」によって、自分の心の働きが影響を受けるからです。
この部分のとらえ方は、認知療法を創始したA.T.ベックさんの認知モデルと類似性があります。
「生きぐるしさ」のようなものを感じているなら
「生きぐるしさ」への対処が必要です。これは、
なんとなく自分が認められていない感じ
なんだか、ここにいていい、という感じがしない
誰かから責められているわけではないけど、なんか罪の意識のようなものがある
というような感覚です。
漠然とした居心地のわるさ、といったような感じでしょうか。
これらには理由があることが多いようです。
漠然とした居心地の悪さの正体
例えば、すでにお話したスキーマ療法では、子供のころ環境に適応するために形作られ、生活を通じて維持強化されている認知構造を「スキーマ」といいます。
スキーマはもともと環境に適応するためのものですが、子供が持っていて、満たされて当然の感情的な欲求(中核的感情欲求)が満たされない状況で、環境に適応した場合、不適切で「生きぐるしさ」をもたらす「早期不適合スキーマ」を形成されると考えます。
私の場合は、次の第一領域のスキーマがあるようです。
早期不適合スキーマ(セラピストのためのスキーマ療法徹底ガイド 伊藤絵美さん 金剛出版より)
第一領域:ありのままの自分は愛されない、守ってもらえない、理解してもらえない
第二領域:自分一人ではうまくできない、自信がもてない、誰かがいてくれないとダメ
第三領域:自分ではなく他人次第、自分の気持ちや欲求は後回し
第四領域:楽しんではならない、いつも警戒していないといけない、ちゃんとしなきゃ
第五領域:自分を律することが出来ない、ルールが守れない、自分勝手になりすぎる
無理やり自分にあてはめないでくださいね
これに、あなたを無理やり当てはめる必要はありません。多少なりとも誰にも思い当たることはあるでしょう。
思い当たることがあるからといって、スキーマ療法が必要というわけでは当然にありません。
スキーマ療法は、認知行動療法では効果が認められなかったパーソナリティ障害等に対応するセラピーとして開発されようです。
「パーソナリティの問題に対する統合的認知行動療法アプローチ」とテキスト(スキーマ療法 金剛出版)では副題がついています。
これらの早期不適応スキーマがあったとすると、高ストレス状態(結婚も高ストレス状態をもたらすと言われます※)では、スキーマが活性化して、適切な判断を妨げたり、苦悩を招来することもあるかもしれません。
※ホームズとレイエの社会的再適応評価尺度によれば、配偶者の死は100、離婚は73、結婚は50とされています。ちなみに解雇・失業は47です。
私の場合は、カウンセリングの実習(婚活カウンセリングではなく、心理/メンタルヘルスのカウンセリングの講座)の中で、「いまここいにいることが許されていないような居心地の悪さ」があることに気付き、どういうことかと探ってみたところ、どうやら「自分が自分のままでは受けれいられない、自分が受け入れられるためにには、自分でない自分にならないといけない」という、幼少期に形成せされた考え方が維持されているようだと気付きました。
この考え方には以前から、気づいてはいたのですが、意識して無力化するということをしなかったので、ずぅっーとこの考え方が生きていた、ということに気付いた、という方が適切な言い方になります。
その講座の中で、より効果が根源的とされる心理療法「スキーマ療法」や「ACT」を知り、勉強がてら前記伊藤絵美さんの本と上記「テキスト」を買って読み始めたところ、
「自分が自分のままでは受けれいられない、自分が受け入れられるためにには、自分でない自分にならないといけない」
という自分の居心地を悪くしている考えは、
「ありのままの自分は愛されない、守ってもらえない、理解してもらえない」
という第一領域の早期不適合スキーマに該当することを知りました。
伊藤絵美さんの本に倣い、自分の生育暦の中で、早期不適合スキーマの原因となった体験と感情、そして(こちらの方が厄介でした)早期不適合スキーマを維持強化してきた「社会人時代」の経験をできる限り洗い出しました。スキーマは、環境に適合するために作り出されたものなので、環境が変わっても、使い続ける(多少なりとも有用性はある)ことで維持強化されます。
学生から社会人、一般社員から役職者、転職、出向、帰任といった環境変化の中で、環境変化に適切に対応できなかったとき(今だからこそそういえますが)、周囲との軋轢を招くこともあり、「ありのままの自分は愛されない、守ってもらえない、理解してもらえない」「だからできるだけ自分じゃない自分にならなきゃいけないんだ」というスキーマが強化され、維持されていたようです。
ここまでわかると、だいぶ楽にはなります。ただしすぐに完全に無力化できる、とはならないようです。スキーマはかなり手ごわいようです。
交流分析の考えでも対処できそうです
似たような概念に、交流分析の「基本的構え」「禁止令」「早期決断」「人生脚本」などの概念があります。
こちらの方が、このブログを見ていただいている方が、ご自身を点検なさるには使い勝手がいいと思います。
どうもお見合いがうまくゆかない、
交際になってもうまく進展しない、
という方は、
ご自身の基本的構えが出てしまっているかもしません。
基本的構えは、人生早期に、両親との関係で取るポジションを、
「自己肯定=私はOK」
「自己否定=私はNOT OK」
「他者肯定=他者はOK」
「他者否定=他者はNOT OK」
という4つで考えます。自分を慈しみ他者を慈しむことは、自他ともに肯定、OKという構えをつくること、といえるかもしれません。
交流分析では、人は、
否定的な構えを持ってしまうと、
人とのかかわりを「ゲーム」化することによって、
または人生脚本において、
その否定的構えを証明すべく行動すると考えます。
わかりやすくいうと、「自己否定=私はNOT OK」の基本的構えをもった人は、人とのかかわりの中で、建設的なかかわり方ではなくて、
「私はNOT OK」ということを証明するためのかかわり方(自虐的な行動に見えるかもしれません)をする、
また、生き方においても
「私はNOT OK」ということを証明するための生き方、人生の選択をする、
ということになります。
破滅型、といわれる人がいることも、このように考えると理解が容易になります。
また「P」「A」「C」の考え方でいうと、親の考えが、その子供に受け継がれ、親が家を繁栄させると子供がさらにその家を繁栄させる、という歴史に(その反対にも)、一定の説明ができるかもしれません。
だから対処が必要というようなことは申し上げるつもりもありませんし、
そのような論理は展開いたしません。
そのようなことは、カウンセラー倫理からも厳に禁止されることです。
「他者否定=他者はNOT OK」の構えをもってしまった場合は、「あなたはNOT OK」ということを証明しようとして、「ゲーム」化して、相手とかかわるので、相手は不快な気分になります。そして、自分も不快になって終了、というのが「ゲーム」の結末です。
結婚したいという気持ちはあるのに、
なんだかうまくゆかない、と感じている方は、
ご自身の基本的構えがどれに該当するだろうか?ということを考えてみることも、
婚活をたてなおすヒントになるかもしれません。
社会生活が無事に行われていて、不快な気分が生まれる行動や人とのかかわり方を反復的に繰り返す、ということがなければ、気にすることはないでしょう。
逆に言えば「不快な気分が生まれる行動や人とのかかわり方を反復的に繰り返す」場合には、何らかの対処を行った方が良いでしょう。
禁止令は、意識せずに自分で自分に課している「こうしてはいけない」という考え方・ルールです。
禁止を命じるものですから、こうしたい、ああしたいという行動や感情を抑制しますから「生きぐるしさ」につながります。
人生脚本は、幼少期に形作られた自身の「早期決断」が、その後の生き方を拘束するという考え方です。
幼少期の決断ですから、不合理なものもあります。
幼少期の決断は「魔術的」とみる見方もあります。「魔術的」とは、合理的現実的な判断をおこなう「A(アダルト)」からみれば、「とても現実的とは思えない子供の想像」に基づいて決断(心に決めること)をしている、ということを意味するようです。
現在における改善したいと感じている行動や、しばしば再現される不快な感情などから、「早期決断」を探り当てて、「再決断法」という方法により、書き換えを行う方法があります。
これによって、私も書き換えを行ったことがありますが、かなり気分が晴れます。「これだったのか」という感じです。
それは、両親との出来事をめぐっておこなわれた「早期決断」でしたが、両親との関係がその後改善し、現在良好になっていても、「早期決断」自体は生き続けていました。
その「早期決断」は、両親との不和をきっかけに「この人たちは私の気持ちを理解してくれない(しようとしない)。この人たちには私の気持ちを話しても無駄だ、自分のほんとうの気持ちはもう絶対に話さない」というものでした。
争いが再燃した時に、母親は、私が母親の言い分に以前から、まったく同意も納得もしていないにもかかわらず、(以前話し合った時に)「あの時お前は泣いて心を入れ替えたんじゃないのか」と言われた時に、「あっ、この人、私のこと何もわかってくれていない、自分の都合でしか考えないんだ」と感じた時、この早期決断がなされました。かなり強力な早期決断であったのでしょう、社会人となって独立してから、相当期間母親とは一切連絡を取りませんでした。
ちなみに早期決断は、「リトルプロフェッサー、小さな教授」という、「C」の自我状態の中で、直観と生存の智慧に富む部分、生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力」が決断するとされています。(前掲 新しい交流分析の実際)
この早期決断の検知と修正は、自分にとって非常に大きな収穫でした。
母親との関係はだいぶ前に修復されていました(「でもあの人は悪党じゃないよね」という理解は一貫して持っていました)が、この早期決断は、形をかえて自分の中で生き続けて、母親との関係ではなく、社会生活における他者との関係において「私はあなたに私の気持ちは伝えないから(理解しようとしてくれないよね)、だから私もあなたの気持ち積極的に理解しようとしなくてもいいよね。私は私、あなたはあなたでいいよね」という心理的態度になって維持されていたようです。
この早期決断を検知するきっかけとなったのは、カウンセリング実習でした。クライエント役の話している内容は理解できますし、感情的なキーワードも検知できるのですが、クライエント役の心の動きを感じ取る、ということがどうもうまくできないようだ、という感覚が生じました。
それゆえ、この早期決断にたどり着いた時には、カウンセリング実習で感じていたことの原因は「これだったのか」という感じだったのです。
カウンセラーとしては、大きな収穫であったと感じています。
スキーマ療法に取り組む一方で、交流分析の「早期決断」にたどり着いた、ということは十分にあり得ることだと思います。
交流分析は、「P(ペアレント)」を、
「CP(Critical Parent:批判的な親)」
「NP(Nurturing Parent:保護的な親」
「C(チャイルド)」を、
「FC(Free Child:自由な子供)」
「AC(Adapted Child:順応する子ども)」に細分化します。
(新しい交流分析の実際 杉田峰康 創元社より)。
他方、スキーマ療法は、今の自分はどういう状態にあるか、という観点から、大分類として
「チャイルドモード」
「非機能的コーピングモード」
「非機能的ペアレントモード/非機能的批判モード」
「ヘルシーアダルトモード」
(伊藤絵美さん前掲書より)
に分けて考えますから、人の心の理解として、両親、子供、大人という観点をもつということは交流分析と共通しています。
スキーマ療法をしながら、交流分析の「早期決断」にたどり着いた(スキーマ療法をしながら、交流分析を集中的に勉強したという事情もあります)ということは、自然といえば自然な気もします。
今まできちんと生きてきて、今もきちんと生きている
このブログでお話したことは、あなたが、婚活をしながら「生きぐるしさ」を感じているのであれば、その原因を探ることに役立つかもしれません。
ただし、スキーマ療法ではこうだから自分はこうだ、とか、交流分析では私はこうだ、だから対処が必要とかいうことではなく、スキーマ療法や交流分析に関係なく、あなたは今の今まで生きてきて、現在もきちんと生きています。
スキーマ療法や交流分析は、きちんと生きているけど、「生きるぐるしさ」や「居心地のわるさ」を感じているときに、それらの原因にたどりつき、それらを解消するための一手法にしかすぎない、ということは心にとどめておいてください。
あなたが、婚活をしながら「生きぐるしさ」を感じているのであれば、、これらのご相談にも対応いたします。
続編「婚活をたてなおす」(2-1)「メンタルをたてなおす」
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