婚活をたてなおす(ヒント)
- 婚活のお悩み
婚活うまくいってないと感じている方へ
このブログのサマリー(要約)
「結婚できそうもない、と考えてあきらめてしまう人」の「婚活をたてなおす」ために
1.自分を「ていねいに扱う」ことを考えましょう。
2.「生きぐるしさ」のようなものを感じているのであれば、それへの対処策があります。
という観点からヒントを提供しようとするものです。
このブログを読んでいただきたい方
このブログは、婚活うまくいってるよ、結婚できるよ、と思っている方向けのお話ではありません。
どうもうまくゆかない、こんな調子で結婚できるのかな、と感じている方向けです。
結婚相談所に入会したからといって、100%の方が成婚できるわけではありません。
IBJでは正確な成婚率を公表してはいないようです。
そもそも入会退会が常時行われるので、正確な成婚率は算定不可能です。これはどのような統計にもついて回る困難です。
とはいえ、
成婚退会が、未成婚退会を上回っている、
ということなさそうです。
直近10月のIBJ会員様のデータは
登録会員数 ⇒ 103,492名
10月新規入会者数 ⇒ 6,391名
月間・お見合い成立数 ⇒ 88,714件
10月成婚者数 ⇒1,661名
1,661人を12倍しても19,932人です。
10万人会員がいても、年間2万人前後の成婚者数ということになります。
しかし、計算上12か月換算ですから、1年1か月以上かかったけど成婚できた、という人は計算上取り込めないことになりますので、これをもって成婚率、ということにはなりません。
それらの事情を差し引いても、
結婚相談所に入会しても成婚できない方は多い
と言っていいように思います。
逆に言えば、うまくいかず悩んでいるひとは、あなただけでなく、かなりいる、ということでもあります。
このように考えると、少し乱暴な言い方ですが、
ほおっておいても結婚できる人に力を注ぐこと(も大事だけれど)よりも、
結婚できそうもない、と考えてあきらめてしまう人を減らしてゆくこと
が結婚相談所としては、大事だろう考えています。
それゆえ、このブログは、大丈夫、私は結婚できる、という人ではなく、
大丈夫だろうか、
結婚できるのだろうか
もうやめたい
と感じている人に読んでもらいたいブログ、ということになります。
一つ目、自分を「ていねいに扱いましょう」
世間ではセルフコンパッションなん言っているようです。
自分に対して、
これが出来ないからダメなんだ、とか
こんな失敗するなんて・・・私は・・・
なんて思ったり、心の中で言葉を自分になげかけていませんか?
こういう思いは、自分で自分を責めている、つまりていねいに扱っていないことになります。
自分で自分を責めてしまう、これは無理からぬことです。
人は他者を責めるとき「反省しなさい」といいます。「反省する」という態度が見られない、といってさらに人を責める人もいます。
裁判でも「反省の態度」があるかないかが量刑に影響するそうです。
後悔、反省は役に立たない
これについて、釈迦は興味深いことを言っています。
(布教の意図はありません。カウンセラーとして苦悩をなくす援助をする、という観点からの考察です。ですから仏教の理解とは異なるかもしれません。)
五蓋という教えがあり、五つの蓋があってそれらを取り除かないと、瞑想実践は進みませんよ、ということを説いてるものです。
そのうちの一つに、漢訳では、「掉挙悪作」(じょうこおさ)というものがあります。
掉挙は心の浮つき、悪作は後悔であるとされています。
後悔は瞑想の役にたたないよ、と言っているわけです。
解釈すると、後悔は、現在において過去の行為を想起して、まずいことをしてしまった、と考えることです。
これを他者に対して表明すれば「反省」ということになるでしょう。
役に立たないから、そういう行為は止めなさい、と言っているわけです。
釈迦の考えは、前向きに生きなさい、ということではなかったと考えています。
六六経の中で釈迦が、人間が認知するものそれ自体が自分ではないよね、と言っている根拠が、人間が認知するものは生起しては衰退してゆくではないか、生起しては衰退してゆくのが我であると主張するのは成立しないよね、といっているからです。
人間の認知は、生起しては衰退してゆくのに「現在において過去の行為を想起して、まずいことをしてしまった、と考え」つづけたとしたら、自分の認知の流れを止め(今自分がしていること考えていることに気付かない)、今ここには無くて変えることのできない過去のことに一生懸命注意を向けていたら、「そんなことしてたら、自分が、今現在において、どうにもならないことを思いだして自分を苦しめる行為をしていることにも気づけないよね」ってことではないかな、と思います。
だから後悔することは瞑想実践の妨げ、ひいては苦悩をなくす認知を得ることの妨げになる、としたのでしょう。
「どこが不適切であったか考えてそこを直しなさい、そうすればあなたは今よりもっと良くなるよ」なんてことは、ほとんどの人が言ってくれません。
自分で自分を責めるのですから、気分が落ち込みます。気分が落ち込むというのは、感情が激しく揺さぶられることなり、感情が動くときにはすごい心のエネルギーを使う(奪われる)ので、気分が落ち込めば次第とやる気はなくなってきます。
これは自然なことといます。
推測ですが、挫折してしまう方の大半は、婚活がうまくいかなかったからではなくて、うまくいかないことで、自分を責めて、やる気をなくす方向に自分をもっていってしまったから、というふうには考えられませんか?。
自分で自分を責めているのですから、少なくとも自分を、ていねいに扱ってはいませんよね。
これを別の角度から見て、言えば、自分で、自分を好ましくない方向に向かわせている、という態度を取ってはいませんか?
これが出来ないから、あれがないからうまくいかないとか、考えるのやめませんか?
マインドフルネスを世に知らしめた、J.カバットジンさんは、著書(マインドフルネスストレス低減法、北大路書房)の中で、こんなことを言っています。
「太っていて、自分の体が嫌だと感じている人が、思うような体重に減らしてから、自分の体や自分自身を好きになろうとするのは間違っています。もし、あなたが、本当に欲求不満の悪循環を断ち切りたいと思うなら、今の体重のままの自分を好きになるべきなのです。なぜならば、自分を好きになれる瞬間は”今”しかないからです。」
林先生流に言えば、いつやるの、今でしょ、ということになります。
では、自分を「ていねいに扱う」ことを、どう始めたたらよいのでしょうか?
今の自分を受けいれ、自分をていねいに扱う、ということは、自分にどういう態度で接したら、自分がよろこぶだろうか、という態度を知り、そのような態度をつくることです。
この場合の、「ていねいに扱う」はケアする、と言い換えてもいいと思います。
言い換えれば、自分を自分でどうケアすれば、自分がよろこぶと感じるだろうか?ということを考えることです。
私の例をお話すると、ちょっとした失敗をしたときに、よく「あーバカ失敗した」と言ってしまうことがありました。
これは自分が、自分をていねいに扱っていないことだし、自分がしたことを適切に理解もしていない、と気づき、このように言うことを止めました。
自分が、自分をていねいに扱っていない、ということはご理解いただけると思います。
それでは、自分がしたことを適切に理解もしていない、とはどういうことでしょうか?
自分では失敗した、と思っていた出来事、つまり自分がしたことは、自分が当初想定していた手順を抜かしてしまった、それゆえ、事前の予想とは異なる結果となったが、「失敗した」と思っている結果は、リカバリーできない決定的な失敗でも何でもない、自分が想定したとおりにならなかっただけ、ということに気付いたからです。
ですから、このブログをお読みの方が、知らず知らずのうちに、自分を責めるような言葉を使っているとしたら、それは「リカバリーできない決定的な失敗でも何でもない、自分が想定したとおりにならなかった」ことで、自分を責めて、自らを好ましくない方向にもっていっている可能性が高いと思います。
自分をていねいに扱う態度を養成する
自分をていねいに扱う態度を養成する方法で、効果的なのは、マインドフルネスの研究の中で欧米でも取り上げられている「metta」「慈悲の瞑想」と言われるものだと思います。
久賀谷亮さんの本(最高の休息法 ダイヤモンド社)によれば、UCLAでも採用されている、とのことです。
ただし、簡単なことのように思えても、効果を上げるには瞑想訓練が必要になります。
ご要望があれば指導いたします。そんなに難しいことをするわけではありません。単調なエクササイズですが継続すれば効果は出ます。
「metta」が効果を発揮すメカニズムとやり方
まず自分を「ていねいに扱う」ことはどのような態度なのかと考えてください。自分を「やさしく扱う」でもよいです。
でも「大事に扱う」とは考えない方が良いと思います。
「大事に扱う」とすると、「大事なものだから大事に扱う」「大事なものじゃないから大事に扱わない」ってなってしまいます。
大事、大事じゃないという価値判断とは切り離して、とにかく自分を「ていねいに扱う」「やさしく扱う」ということはどういうことだろうか、と考える方が、よりサステナブルです。
例えば私の場合だと、自分を「ていねいに扱う」ことの内容は、「批判しない、攻撃しない」「良い悪いを判定しない、争わない」「乱暴に扱わない、ていねいに扱う」というふうにとらえています。
わかりにくいので少し説明します。
自分で自分を攻撃するのは「こうありたい」自分、「こうでなきゃいけない」とかいう考えがあって、その通りにならない時ですよね。
「こうありたい」自分、とか「こうでなきゃいけない」とかいう考え(価値観)があって、その通りになっていないと認知すると、緊張状態が生じます。
緊張状態が生じると、その緊張状態を避けたいがために、本末転倒なのですが、自分の評価を下げて結果と一致させよう(だって自分にはできないんだから仕方なでしょ、という論理)、という思考が働くこともがあるようです。そのような思考が働くと自分を責めてしまうようです。心理学では「不適切なコーピング(対処法)」ととらえます。(この辺りの機序、メカニズムは、マインドフルネスをやっていると何となく気付くようになります。)
また、このような心の働きは、後でご紹介する交流分析の考え方でも説明できます。
交流分析では、両親の考えを受け継いだ自我状態である「P」(ペアレント)、成長過程での学習から合理的な思考を身に付けた自我状態である「A」(アダルト)、子供の心、感情をもった自我状態である「C」(チャイルド)の3つが人の中にあると想定します。
その時々によって「P」「A」「C」のどれかが主導的なる、と考えてもらっていいと思います。
もし「こうでなきゃいけない」という考えに明確な根拠がない場合は、ご両親から自然に受け継いだものかもしれません。
ご両親、もしくはどちらかが厳格な方で、こうでなければいけないんだ、とか、「こうでなければいけない」に基づいてしっかりしなさい、とか言われて(かかわり方、という意味でストロークと言います)育った場合、そのような両親の考え方を取り入れた「P」が自部の中に形成され「こうでなきゃいけない」という考えが形成され、「こうでなきゃいけない」行動をとれない自分は、いけない自分、両親に認められない自分、ということになります。
そうなると「C」は、両親に認められないという緊張状態を回避するため(だって自分にはできないんだから仕方なでしょ、という論理)を持ち出して、自分の評価を引き下げて自分を防衛する、とも考えらえます。
私は、母親が頭ごなしに叱るばかりで、何故それがいけないことなのか説明してくれないので、私には母親が怒っている、としか認識できませんでした。
それゆえでしょうか、私は自分を責めるときには「P」つまり母親なら時こういいいそうだな、とういう感覚で自分を責めているようです。嫌だと思いながら(嫌だからこそ克服すためでしょう)、母親のスタイルを取り込んでいるようです。
それなら、「こうありたい」自分、とか「こうでなきゃいけない」という考え(価値観)を修正すればいいんじゃないの、とお考えになるかもしれません。
「あっ、こんな考えしなくていいんだ」というふうに意識できて、簡単に修正できるのであれば、それでいいと思います。
ですが、簡単にはゆかないようです。
感じ方そのものは簡単には変えられない
なぜならば、それらは、今まで生きてきた中で、維持され強化されてきた(適合的であった側面もある)ものだからです。
例えば、スキーマ療法などでは、生育暦をさかのぼれるまでさかのぼって(これだけでも大変です。この作業は、自分が思い出したくない経験や感情を再体験するというつらい経験もします)、今の自分には不適合な考えを形成した経験を特定して、信念や思い込みを修正するという作業をします。
この作業は、心理的な負担つまり、心のエネルギーを相当使いますので、安易には取り組まない方がいいです。私もやっていますが休み休みです。やるとがっつり疲れます。ただし、部分的ではあっても修正できると、かなり「生きるのが楽」に感じるようにはなります。
ですから、一方で自分を「批判しない、攻撃しない」「いい悪いを判定しない、争わない」という態度で、自分を「攻撃しない」、自分と「争わない」で、自分を「ていねいに扱う」という態度を育成することにしています。
実はこれは、マインドフルネスが自分の思考を扱う際の基本的な方向性(目指す心理的な態度)そのものです。
それなら新しい思考回路を作ちゃえ、という方法です
ご自分の「ていねいに扱う」考え方が作れたら、瞑想の中でこれらのことに注意を集中します。わかりやすく言うとこれらの考え方を育てます。
「ていねいに扱う」は「心の態度」なので、「心の態度」そのものを直接作り出すことを目指すのですが、それは簡単ではありません。
そこで言葉の力を使います。自分の考えた「ていねいな扱い方」の考え方を言葉にして、「育てます」と心の中で唱えてください。
ただしここで注意してもらいたいことがあります。
『自分の考えた「ていねいな扱い方」を言葉にして、「育てます」と心の中で唱え』ることは、「ていねいに扱う」考え方を、育てるるための手段であって、唱えたからといって「ていねいに扱う」という考え方があなたの中に育っている、言い換えれば脳の思考回路として確立はしていない、ということです。
「おまじない」「願いがかなう呪文」ではありませんし、「神様へのお願い」のようなものでもありません。
唱えることそのものに価値があるのではなく、言葉で唱えることは、自分の心に、自分をていねいに扱う、という思考回路をつくるための手段だと考えてください。
ただし、唱えるときに心を落ち着かせ、集中して(世間的には心を込めてといいます)唱えれば、唱えることにも相応の効果はあります。
唱えること自体も瞑想ですが、「心を落ち着かせ、集中」するための瞑想訓練があると考えてください。
日本評論社 「マインドフルネス -基礎と実践-」の中で、有光興記さんがその効果について検証されています。
育てたこの考え方を、まずは自分に向けます。まずは自分が自分を「ていねいに扱う」ということをします。
私の場合だと「私は、私を批判しません、攻撃しません」「いい悪いを判定しません、争いません」「乱暴に扱わず、ていねいに扱います」という言葉を投げかけてもOKです。
次に親しい人(家族が良いとされています)に、この考え方を向けます。
私の場合の考え方では、「私は慈しみを家族に向けます。「私は、批判しません、攻撃しません」「いい悪いを判定しません、争いません」「乱暴にあつかわず、ていねいに扱います」と唱えてもけっこうです。
それから周囲の人に向けます。
そしてここは少し大変なのですが、私が嫌いな人々、私を嫌いな人々にも向けます。
嫌いな人にも「慈しみ」を向けることがきちんとできたら、それは本物の「慈しみ」になるでしょう。
そして「生きとし生けるもの」に向けて終わります。
言葉にして心の中で唱えるのは、『「ていねいに扱う」考え方を、育てるるための手段』ですからから、これをやったからと言って、家族や周囲の人が幸になるというものではありません。そのように考えないでください。
また、この瞑想は、人のために祈っている自分を、いい人だと感じて、自分をいい気分にさせるためのものではありません。自分をいい人だと感じることは、『「こうありたい」自分、「こうでなきゃいけない」とかいう考え』を強化する方向に働くので、良い結果をもたらさないと思います。
たぶん、という言い方になりますが、「自分をいい気分」にさせると自分が気持ちよくなる(本能的な)脳の回路が強化され、自分や他者を「ていねいに扱う」、「慈しみの態度」という「理性的な」脳の回路が作られない、という言い方もできると思います。
自分もていねいに扱い、それと同様に他者も区別せずに同じように扱いましょう、という考え方です。
使い分けをしなければ、煩雑にはなりません。瞑想的に言うと、実は、これが自分というより「脳」が「楽」な状態を作り出す方法でもあります。
自分はこれやってもいいけど、あの人はダメ、この人はいいよね、って使い分けをしていたら、相手毎に対応のスイッチを切り替えての、その都度いい気持になったり、嫌な気分になったりしますから、「脳」としては「楽じゃねーな」「やってらんねーよ」って感じてるんじゃないでしょうか。
瞑想の方法論として少しだけ説明します
心に、metta、日本語では「慈しみ」を作り、自分を慈しみ、それが出来たら親しい人から順次周囲の人へ、嫌いな人へも、その考えを向けてゆきます。それに伴って、あなたの幸福感が増し、当然あなたは慈しみをもって自分と他者に接するようになります。
そのような態度ができたなら、あなたの中に、慈しみという「新しい脳の回路ができた」ということになります。
脳も筋肉と同じで、使えば強化されるし、使わなければ衰える、と考えたらどうでしょうか。
そう考えると少し怖ろしくなります。
例えば、嫉妬や妬みをほおっておくと、嫉妬や妬みの脳の回路がどんどん強化される、ということになるからです。釈迦は、それを貪随眠、瞋恚随眠という考え方で説明しました。自分の心を注意深く観察しないと、自分の行為によって、あれがいいこれがほしいという性向や、あれは嫌だこれは観たくもないという(怒りの)性向が心のなかに強化されて潜在しますよ、と言っています(六六経)。
海外では、マインドフルネスは、脳の機能の変化という観点からも研究されています。
慈悲の瞑想は、本来は仏教瞑想(マインドフルネスの源流の一つともいわれるテーラワーダの瞑想法)です。
なぜこのようなことをやるのかというと(私の解釈ですが)、私を慈しみ、他者を慈しむという考え方、態度を養うことは、脳に慈しむという回路をつくり、強化することになり、それが最終的には、「自己」と「自己以外の他者」という認識を弱くすること目指しているように思います。
「慈しむ」という回路を強化して、自分をケアすれば、当然自分のストレスや不満が少なくなる方向に働きます。
自分のストレスや不満が少なくなり心が軽くなれば、他者をうらやむことや怒りを覚えることも少なくなり、他者をケアする、慈しむようことが容易にできるようになります。
自分も他者も慈しむことが十分にできるようになれば、「自分」 vs 「他者」という意識が希薄になります。
それは「悩み苦しむ自分という意識」が希薄になることによって促進されるようです。
「苦しんでいる自分」 vs 「苦しんでいない他者または自分を苦しめている他者」、という認識が強固であれば、「自分」 vs 「他者」という意識の希薄化は難しいのではないでしょうか。
私というものは自分の意識が作り上げてきたもの、より分かりやすく言えば、子供のころから「私」という存在を認めてくれる「他者」である養育者や社会的な交流のなかで「私」という意識を育ててきたものですから、「自分」vs「他者」という意識を希薄化してみたら、「私」という意識も希薄化し、それにともなって、悩む、悔やむ、不快に感じるといった『「私」という意識が持つ感情が右往左往する」』ということも希薄化する、ということなのではないでしょうか。
ただし、この時点で完全に「自分」vs「他者」の意識がなくなるわけではありません。
私という意識がなくなれば、苦しみを感じる主体である自分はなくなります(理屈上)。苦しみや「こうありたい」自分、「こうでなきゃいけない」という自分の信念や思い込みがなくなれば、考える主体である私という意識は不要になります。多分ここまで至れば悟りなのでしょう。
こういう機序、メカニズムで悟りに至るようです(としかいえませんが)。
苦しみがなくなり、私という意識がなくなっても、最後までのこるのは「意思」のようです。
「意思」を育てたいのなら、ガンガン瞑想してください
何故そう考えるかというと、釈迦の行いを見ていると、その様な考えに至らざるを得ないからです。
釈迦は、完全な悟りに至ったとされますが、死の直前まで遊行(教えを説いて回ることを)しました。
これは教えを説きたいという欲求でもなく、教えを説くべきだという義務感でもなく、自分が知り得たことは、あますことなく伝えてゆくという釈迦の意思としか考えられません。
釈迦は死が近づく中でこのように言っています。
「アーナンダーよ、如来の教法には、教師の握拳はない。」
アーナンダーさんは、釈迦のお弟子さんで身近に使えた方です。如来とは釈迦自身のことです。握拳とは「教師が奥義として容易に弟子にあかさないもの」だそうです。
そしてこの後に有名な、「自己を洲とし、自己を依処として、他人を依処とすることなく、法を洲とし、法を依処として、他を依処とすることなく住するがよい。」という言葉が発せられます。(筑摩書房 阿含経典第三巻 増谷文雄より)
自分が得たことは全て君たちに教えた、隠していて教えていないものはない。だから自分をよりどころとして、私が教えた法をよりどころとして、(私がいなくなっても)しっかりやってゆきなさい、ということでしょう。
釈迦は強い意志により死の直前まで遊行したようですから、自らの意志を貫徹した人生を締めくくるにふさわしい内容であったと思います。
誤解しないでくださいね、悟りを推奨しているわけではありません
そもそも私は、仏教徒ではありません。
心理支援に関わるカウンセラーとして、苦悩ってどうすればなくなるの?という観点からの学習しています。
釈迦の観察による「無我」の考え方は、近代的な自我概念、つまり自由意思をもって自分で意思決定し、基本的人権という権利をもち、契約関係において権利義務を果たすという人間観や、個人の尊重や自己実現といった概念からすると、少し都合が悪いように感じられるかもしれません。
それゆえでしょうか、仏教瞑想の流れをくむにもかかわらず、マインドフルネスでは無我にはフォーカスしません。
それに、現代人は(事情により労働できない人には各種セーフティーネットがありますが)、働いて自ら稼得したお金により生活し、納税して社会を支えることを義務付けられていますから、苦悩もなくりました、「欲」もなくなったので労働しません、「欲」を刺激しないために労働しません(少し極端かつ非現実的なのですが)、というのは社会を維持する観点からは、ちょっと困ったことになります。
健康でいて、(健全な欲を満たして)自分の人生を謳歌して、お金を稼いで自立して税金を納めてね、ということが要請されている人間に、金銭欲も含め欲を滅して解脱しなさいという教えはそぐわないでしょう。
そのように考えると、釈迦の教えは、現代に限定されず「非社会的」な側面もあるように思います。
これは釈迦の教えを伝えて来た人々が出家者であったから解脱を目的とした出家者を中心に考えてきたから、という事情もあるのかもしれません。
日本の仏教は、出家主義を批判し、在家救済をといた大乗の系統ですので、出家主義、解脱目的主義(私の印象です)ではありません。
心理療法としても効果を発揮
「マインドフルネス認知療法」では、従来の認知療法の「ネガティブな思考は修正するのだ!」という態度ではなく、「思考は事実ではない」という心の態度を養成することで、ネガティブな思考との”ちょっとゆる~い”付き合い方へと導くことで、効果を上げているようなので、釈迦の考え方に、接近しているようにも思います。
「認知論」という大枠では釈迦の方法論と認知療法は合致しています。それは「マインドフルネス認知療法」の創始者の1人のJ.ティーズデールさんも認識しています(マインドフルネス認知療法原著第二版 北大路書房)。
悟り、解脱に至らずとも、瞑想(マインドフルネス)による苦悩の低減という効果は認められる、と言っていいように思います。
強い心理的困難・ストレス状況にある人に効果があるのだから、すこし気持ちがへこんでいる人、軽いストレスの人にも効果あるんじゃね?って考えても不思議はありませんよね。
例えて言えば、強い心理的困難・ストレス状況にある人を-2の位置にいるとして、その人が0の位置に移動できるのなら、-1の位置にいる軽度のストレス状態の人が同じことをしたなら、+1の位置に移動できてパフォーマンスアップ期待できるよね、これって健康管理にもなるし、能力開発の可能性もあるんじゃね?と考えても不思議ではないでしょう。
そんなこんなで、マインドフルネスが能力開発プログラムに活用されるようになったのかもしれません。
自分を慈しむ、「ていねいに扱う」ことのメリット
このブログは「婚活をたてなおす」ためのものですから、婚活における「metta」のメリットをお伝えしなければなりません。
自分を慈しむこと(ていねいに扱うこと)が出来れば、自らを責めてエネルギーを浪費して、嫌になることが減少するでしょう。
あなたが、慈しみをもって他者に接する(ていねいに扱う)ならば、他者はあなたを自分をていねいに扱ってくれる人だと感じ、それを魅力と感じるでしょう。
ただし効果が出てくるのは、『「心の態度」そのもの』が出来てからです。
それゆえ「ていねいに扱う」考え方を育てるための手段として、『自分の考えた「ていねいな扱い方」を言葉にして』自分の心の中に、その考え方を定着させるしか方法はありません。瞑想への集中状態がすすめば、効果はより加速するでしょう。
心の中にないものは、外に現れてきません。
心の中にないものは作るしかありません。自分が他者との関係のなかで「私」という意識を作ってきたように。
自分には、できないな、と思うかもしれませんが、マインドフルネスの源流の一つとされるテーラワーダの瞑想の考え方は、心はほおっておくと、悪くなる(自分を自分で攻めて、良くない方向にもっていってしまうのもその一つといえます)から、自分の心をしっかりと観て、自分の心の動きを理解して、自分を良い方向に持ってゆく心を育てましょう、という考え方のようです。
この考え方は、カバットジンさんの「注意集中」とい考え方も同様なようです。
心の中に無いものを、あるように見せることを、心理学では「自己呈示」といいます。
自分が利益を得るために、自分のなかにないことを、あるかのように見せることです。
心の中に無いけれども、自分が欲しいものを得るための手段として装うのですから、見透かされるリスクは常にあります。
あなたが、慈しみをもって他者に接する(ていねいに扱う)ならば、他者はあなたを自分をていねいに扱ってくれる人だと感じ、それを魅力と感じるでしょう。
お相手が、このように感じるのであれば、あなたはお相手を人生を共にするにふさわしいかどうか、という観点から判断すればよいことになります。
集中する対象(瞑想で養う考え方)としては、やはり「慈しみ」が良いでしょう。
2つ目、「生きぐるしさ」のようなものを感じているのであれば、それへの対処が必要です。
これは、
なんとなく自分が認められていない感じ
なんだか、ここにいていい、という感じがしない
誰かから責められているわけではないけど、なんか罪の意識のようなものがある
というような感覚です。
漠然とした居心地のわるさ、といったような感じでしょうか。
これらには理由があることが多いようです。
漠然とした居心地の悪さの正体
例えば、すでにお話したスキーマ療法では、子供のころ環境に適応するために形作られ、生活を通じて維持強化されている認知構造を「スキーマ」といいます。
スキーマはもともと環境に適応するためのものですが、子供が持っていて、満たされて当然の感情的な欲求(中核的感情欲求)が満たされない状況で、環境に適応した場合、不適切で「生きぐるしさ」をもたらす「早期不適合スキーマ」を形成されると考えます。
私の場合は、次の第一領域のスキーマがあるようです。
早期不適合スキーマ(セラピストのためのスキーマ療法徹底ガイド 伊藤絵美さん 金剛出版より)
第一領域:ありのままの自分は愛されない、守ってもらえない、理解してもらえない
第二領域:自分一人ではうまくできない、自信がもてない、誰かがいてくれないとダメ
第三領域:自分ではなく他人次第、自分の気持ちや欲求は後回し
第四領域:楽しんではならない、いつも警戒していないといけない、ちゃんとしなきゃ
第五領域:自分を律することが出来ない、ルールが守れない、自分勝手になりすぎる
無理やり自分にあてはめないでくださいね
これに、あなたを無理やり当てはめる必要はありません。多少なりとも誰にも思い当たることはあるでしょう。だからといって、スキーマ療法が必要というわけでは当然にありません。
早期不適合スキーマは、仕事等で成功された方にもあり、仮にあったとしても、生活には支障がない方の方が多いようです。
ただし、人生の決断(結婚は決断です)や高ストレス状態(実は結婚は高ストレス状態をもたらすと言われます※)では、これらのスキーマが活性化して、適切な判断を妨げたり、苦悩を招来することもあるかもしれません。
※ホームズとレイエの社会的再適応評価尺度によれば、配偶者の死は100、離婚は73、結婚は50とされています。ちなみに解雇・失業は47です。
私の場合は、カウンセリングの実習(婚活カウンセリングではなく、心理/メンタルヘルスのカウンセリングの講座)の中で、「いまここいにいることが許されていないような居心地の悪さ」があることに気付き、どういうことかと探ってみたところ、どうやら「自分が自分のままでは受けれいられない、自分が受け入れられるためにには、自分でない自分にならないといけない」という、幼少期に形成せされた考え方が維持されているようだと気付きました。
この考え方には以前から、気づいてはいたのですが、意識して無力化するということをしなかったので、ずぅっーとこの考え方が生きていた、ということに気付いた、という方が適切な言い方になります。
その講座の中で、より効果が根源的とされる心理療法「スキーマ療法」や「ACT」を知り、勉強がてら前記伊藤えみさんの本を買って読み始めたところ、
「自分が自分のままでは受けれいられない、自分が受け入れられるためにには、自分でない自分にならないといけない」
という自分の居心地を悪くしている考えは、
「ありのままの自分は愛されない、守ってもらえない、理解してもらえない」
という第一領域の早期不適合スキーマに該当することを知りました。
伊藤絵美さんの本に倣い、自分の生育暦の中で、早期不適合スキーマの原因となった体験と感情、そして(こちらの方が厄介でした)早期不適合スキーマを維持強化してきた「社会人時代」の経験をできる限り洗い出しました。スキーマは、環境に適合するために作り出されたものなので、環境が変わっても、使い続ける(多少なりとも有用性はある)ことで維持強化されます。
学生から社会人、一般社員から役職者、転職といった環境変化の中で、環境変化に適切に対応できなかったとき(今だからこそそういえますが)、周囲との軋轢を招くこともあり、「ありのままの自分は愛されない、守ってもらえない、理解してもらえない」「だからできるだけ自分じゃない自分にならっまきゃ」というスキーマが強化され、維持されていたようです。
ここまでやると、だいぶ楽にはなります。ただしすぐに完全に無力化できる、とはならないようです。スキーマはかなり手ごわいようです。
交流分析の考えでも対処できそうです
似たような概念に、交流分析の「基本的構え」「禁止令」「早期決断」「人生脚本」などの概念があります。
基本的構えは、人生早期に、両親との関係で取るポジションを、
「自己肯定=私はOK」
「自己否定=私はNOT OK」
「他者肯定=他者はOK」
「他者否定=他者はNOT OK」
という4つで考えます。自分を慈しみ他者を慈しむことは、自他ともに肯定、OKという構えになること、とも言い換えられます。
交流分析では、人は否定的な構えを持ってしまうと、人とのかかわりを「ゲーム」化することによって、または人生脚本において、その否定的構えを証明すべく行動すると考えます。
わかりやすくいうと、「自己否定=私はNOT OK」の基本的構をもった人は、人とのかかわりの中で、建設的なかかわり方ではなくて、「私はNOT OK」ということを証明するためのかかわり方(自虐的な行動と言ってもいいかもしれません)をする、また、生き方においても「私はNOT OK」ということを証明するための生き方、人生の選択をする、ということになります。
破滅型、といわれる人がいることもこのように考えると理解が容易になります。
「他者否定=他者はNOT OK」の構えをもってしまった場合は、「あなたはNOT OK」ということを証明しようとして、「ゲーム」化して、相手とかかわるので、相手は不快な気分になります。そして、自分も不快になって終了、というの「ゲーム」の結末です。
結婚したいという気持ちはあるのに、なんだかうまくゆかない、と感じている方は、ご自身の基本的構えがどれに該当するだろうか?ということを考えてみることも、婚活をたてなおすヒントになるかもしれません。
社会生活が無事に行われていて、不快な気分が生まれる行動や人とのかかわり方を反復的に繰り返す、ということがなければ、気にすることはないでしょう。
逆に言えば「不快な気分が生まれる行動や人とのかかわり方を反復的に繰り返す」場合には、何らかの対処を行った方が良いでしょう。
禁止令は、意識せずに自分で自分に課している「こうしてはいけない」という考え方・ルールです。
禁止を命じるものですから、こうしたい、ああしたいという行動や感情を抑制しますから「生きぐるしさ」につながります。
人生脚本は、幼少期に形作られた自身の「早期決断」が、その後の生き方を拘束するという考え方です。
幼少期の決断ですから、不合理なものもあります。
幼少期の決断は「魔術的」とみる見方もあります。「魔術的」とは、合理的現実的な判断をおこなう「A(アダルト)」からみれば、「とても現実的とは思えない子供の想像」に基づいて決断(心に決めること)をしている、ということを意味するようです。
現在における改善したいと感じている行動や、しばしば再現される不快な感情などから、「早期決断」を探り当てて、「再決断法」という方法により、書き換えを行う方法があります。
これによって、私も書き換えを行ったことがありますが、かなり気分が晴れます。「これだったのか」という感じです。
それは、両親との出来事をめぐっておこなわれた「早期決断」でしたが、両親との関係がその後改善し、現在良好になっていても、「早期決断」自体は生き続けていました。
その「早期決断」は、両親との不和をきっかけに「この人たちは私の気持ちを理解してくれない(しようとしない)。この人たちには私の気持ちを話しても無駄だ、自分のほんとうの気持ちはもう絶対に話さない」というものでした。
争いが再燃した時に、母親は、私が母親の言い分に以前から納得していないにもかかわらず、(以前話し合った時に)「あの時お前は泣いて心を入れ替えたんじゃないのか」と言われた時に、この早期決断がなされました。かなり強力な早期決断であったのでしょう、社会人となって独立してから、相当期間母親とは一切連絡を取りませんでした。
この早期決断の検知と修正は、自分にとって非常に大きな収穫でした。
母親との関係はだいぶ前に修復されていましたが、この早期決断は、形をかえて自分の中で生き続けて、母親との関係ではなく、社会生活における他者との関係において「私はあなたに私の気持ちは伝えないから(理解しようとしてくれないよね)、だから私もあなたの気持ち積極的に理解しようとしなくてもいいよね。私は私、あなたはあなたでいいよね」という心理的態度になって維持されていたようです。
この早期決断を検知するきっかけとなったのは、カウンセリング実習でした。クライエント役の話している内容は理解できますし、感情的なキーワードも検知できるのですが、クライエント役の心の動きを感じ取る、ということがどうもうまくできないようだ、という感覚が生じました。
それゆえ、この早期決断にたどり着いた時には、カウンセリング実習で感じていたことの原因は「これだったのか」という感じだったのです。
カウンセラーとしては、大きな収穫であったと感じています。
スキーマ療法に取り組む一方で、交流分析の「早期決断」にたどり着いた、ということは十分にあり得ることだと思います。
交流分析は、「P(ペアレント)」を、
「CP(Critical Parent:批判的な親)」
「NP(Nurturing Parent:保護的な親」
「C(チャイルド)」を、
「FC(Free Child:自由な子供)」
「AC(Adapted Child:順応する子ども)」に細分化します。
(新しい交流分析の実際 杉田峰康 創元社より)。
他方、スキーマ療法は、今の自分はどういう状態にあるか、という観点から、大分類として
「チャイルドモード」
「非機能的コーピングモード」
「非機能的ペアレントモード/非機能的批判モード」
「ヘルシーアダルトモード」
(伊藤絵美さん前掲書より)
に分けて考えますから、人の心の理解として、両親、子供、大人という観点をもつということは交流分析と共通点があります。
スキーマ療法をしながら、交流分析の「早期決断」にたどり着いたと(スキーマ療法をしながら、交流分析を集中的に勉強したという事情もあります)いうことは、自然といえば自然な気もします。
今まできちんと生きてきて、今もきちんと生きている
このブログでお話したことは、あなたが、婚活をしながら「生きぐるしさ」を感じているのであれば、その原因を探ることに役立つかもしれません。
ただし、スキーマ療法ではこうだから自分はこうだ、とか、交流分析では私はこうだ、とかいうことではなく、スキーマ療法や交流分析に関係なく、あなたは今の今まで生きてきて、現在もきちんと生きています。
スキーマ療法や交流分析は、きちんと生きているけど、「生きるぐるしさ」や「居心地のわるさ」を感じているときに、それらの原因にたどりつき、それらを解消するための一手法にしかすぎない、ということは心にとどめておいてください。
あなたが、婚活をしながら「生きぐるしさ」を感じているのであれば、、これらのご相談にも対応いたします。