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明治憲法下では、その第28条で信教自由の原則が保証されたこともあって、宗教による結婚式が増え、結婚のスタイルは多様化していきます。地方においては昔ながらの自宅結婚式が主流でしたが、都市部では、意外に簡略に行える神前結婚がにわかに流行し、神社での結婚式が増えたそうです。今日は「結婚の形態とは?(その7)」として明治から大正時代にかけての形態を見てみましょう。 <一夫一婦制=一夫一妻制>「散切り頭(ざんぎりあたま)を叩いてみれば文明開化の音がする」の都々逸(どどいつ)の一節は有名です。ちなみに散切り頭とは、ちょん髷(まげ)を切り落とした髪型のことで、この歌は散切り頭の人を、近代化の潮流に乗った先進的な人だとして賞賛したものだとされています。明治初期の文明開化とはいわゆる「脱亜入欧」が叫ばれた時代です。ペリーの浦賀来航以来、怒涛の幕末の時期を経た日本が標榜したのは、欧米文化を積極的に取り入れ富国強兵を実現することだったと言えるでしょう。そして欧米に学び追いつくことで対等な関係を模索するためには、キリスト教の文化を受け入れて普及させることであり、その一つとして重要視されていた「貞操観念」に基づく「一夫一妻制」を、あの一万円札の福沢諭吉や初代文部大臣の森有礼(もりありのり)らが中心となって、導入したと言う訳です。刑法では明治13年、戸籍法では明治19年み「妾(めかけ)」は無くなり、明治31年に民法によって「一夫一婦制」が確立いたしました。長い歴史の中で伝統的に跡継ぎを絶やさない為に側室制度をとってきた皇室も大正天皇以降は皇室典範により廃止され、「一夫一婦制」が広く認知され、一般的なものとなったのです。 <明治憲法に於ける婚姻>明治民法での結婚年齢は女子満15歳、男子は満17歳と規定されていましたが、実際には女子は満20歳で男子は22歳だったそうです。初期には一般庶民は「婿入婚(むこいりこん)」でしたが、一夫一婦制の確立と共に「嫁入婚」へと変化していったとされています。明治初期に、妻の氏は「所生ノ氏=実家の氏」を名乗らせる夫婦別姓を明治9年の太政官指令で適用しようとしましたが、次第に慣習として夫の姓に変える様になったとされています。やがて明治31年に明治民法が成立すると、夫婦は,家を同じくすることにより,同じ氏を称することとされる(夫婦同氏制)が採用されるようになりました。これは「家」の制度を導入し、夫婦の氏について直接規定を置くのではなく、夫婦ともに「家」の氏を称することを通じて同氏になるという考え方を採用したものと言われます。また、婚姻の届け出に関しては、明治3年には縁組規則が制定され、華族は太政官に、士族以下は管轄府県へ婚姻を願い出るようになります。また、翌4年に戸籍法が定められ、8月には華族から平民に至るまで身分に関係なく通婚が許されるようになったと言うことです。 <キリスト教式結婚式・神前結婚式・仏前結婚式>明治時代の婚礼は昔からのしきたりに則って、これまでと同様に自宅で行われていましたが、1873年(明治6年)には英国籍の中華系シンガポール人の貿易商タン・ベン・テキ(TanBengTeck/陳明徳)と日本女性の磯部和以(いそべわい)が日本で最初とされる西洋式の結婚式を挙げました。また、1878年(明治11年)出雲大社宮司千家尊福が神前式を行い、その内容が「婚禮式(こんれいしき)」として残されています。仏前式の最初は1885年(明治18年)、日蓮宗の僧侶であった田中智學によって創設された「国柱会」の前身「立正安国会」において仏教における結婚式(本化正婚式)の規定が定められ、仏教史上初めての結婚式となったそうです。一方では別の説として、日置昌一氏「ものしり辞典」によれば、明治30年の夏に東京日比谷大神宮の拝殿で、高木兼寛男爵媒酌の神前結婚式が日本で初めて行われ、更にその3年後の明治33年に皇太子嘉仁親王(大正天皇)と九条節子(貞明皇后)が結婚され、正装した男女が宮中三殿に拝礼し、神の前で夫婦の誓いを立てる形式の結婚の儀が行われたことで、社会的にも大きな反響を呼び、一般庶民にも神前結婚式が普及するようになったそうです。更に、仏教での仏前結婚は、明治26年の春に真宗本願寺派の藤井宣正氏が、東京白蓮社会堂で仏前式の結婚を行ったのが最初とする説もあります。 <大正時代の結婚式>大正時代になると、だんだんと都会は娯楽施設も増え、喫茶店の女給さんも洋服を着るようになってきます。身分に限らず自由恋愛も盛んとなり結婚式は簡略化されていきました。基本は変わらず自宅での結婚式です。しかし、欧米から「結婚の儀式もない野蛮な国」とされたことから、神前式でも仏前式でも、キリスト教の結婚式とご祈祷を合わせた様な内容にして普及させたとされています。徐々に神前結婚が多くなり、自宅結婚は減っていったそうです。宴会は料理屋かホテルで行うようになり、熱海や箱根などへの新婚旅行も一般化していきました。ちなみに日本初の新婚旅行は龍馬伝にも描かれた坂本龍馬とおりょう(楢崎龍)の薩摩滞在とする説と、薩摩藩家老の小松清廉(こまつきよかど)夫婦が行った霧島旅行とする説があるそうです。今日は、この辺で失礼します。
結婚の形態とは?と題してお送りしてきましたが、かいつまんでみれば、「共同婚」→「妻問婚(通い婚)」→「婿取婚(婿入婚)」→「嫁取婚(嫁入婚)」と変化してきたと言えると思います。でもこれはあくまで貴族や武士の間での話だった訳で、人口の9割以上を占める庶民は、常陸国風土記に出てくる「筑波山の歌垣(うたがき)」のように、「今年の収穫を神に感謝し、来年の豊作を祈る」お祭りと言う趣旨で開催されたのが、現代で言うところの‟大婚活パーティー”で相手を見つける形態であり、田舎の村落では村の男女が性を共有する、大らかで開放的な文化が、悠久の昔から続いていたのだと思います。では同じ庶民でも都会の庶民はどうだったのでしょうか?。今日は「結婚の形態とは?(その6)」として花のお江戸の庶民にフォーカスをあててみたいと思います。 <恋愛と結婚は別物>田中優子氏「ゆう魚斎雑録」:結婚より引用。江戸時代の常識では、恋愛と結婚は別のものだった。私たちの時代では、唯一無二の男女として恋をし、その結果結婚するのがいちばん幸せだ、と思っている。しかし江戸時代では恋愛結婚のことを「浮気な結婚」と言った。そして浮気な結婚は、してはならないわけではないが、いいかげんな結婚だと思われていた。なぜなら結婚生活は非常に現実的なものであり、それなりに真面目に実質的に取り組まなければならないからだ。江戸時代は恋に満ち満ちている。ならば恋はどうなのかというと、結婚する場合もあるし、配偶者とは別の人と恋愛している場合もあるし、結婚しない場合もある。つまり結婚とは「関係ない」のである。そのことはべつだん悲劇でもなんでもない。正に恋愛と結婚は全く別だったと言うことなのです。(引用終わり) <高い離婚率>高木侃氏「三くだり半と縁切寺」より引用。江戸時代の話、女性はたった一枚の紙きれで簡単に離縁された、と人は言う。その紙切れを称して、三くだり半という。3行半に書く習慣だったから、離縁状を三くだり半と呼んだとか。それは次のようなものだった。 離別一札の事 一、今般双方勝手合を以及離 縁然ル上者其元儀何方縁組いたし候共私方に二心無依之離別一札如件 亥十一月廿四日長吉 おせいとの 意訳:離別状。この度、双方協議の上、離縁いたします。したがって、今後あなたが誰と縁組みしようとも、私に異議はなく、翻意することもありません。以上、本状を以て離別状と致します。亥年11月24日。長吉。おせい殿。 三くだり半が夫から妻に渡されたからといって、妻が泣く泣く実家に帰っていたわけではない。江戸時代には離婚は恥でも何でもなかった。気に入らない男性を、さっさと見捨ててしまった女性もいた。現在、離婚が増えていると巷間では騒いでいるが、明治前期の離婚はすこぶる多い。現在の離婚率は、増えたといっても1パーセント台だが、明治初期には4パーセント近かった。これは江戸時代の離婚の多さを反映したものだといわれる。 この離婚は、夫による一方的な追い出し離縁だったのだろうか。実は、追い出し離婚だけではなく、妻のほうからの飛びだし離婚も多かったのである。しかし、女性の再婚にあたっては、離縁状が必要だったので、必ず三くだり半は書かれた。夫には三くだり半を書く権利ではなく、書く義務があった。権利と義務では、その性質はまったく正反対である。この時代の離婚は、夫婦双方での協議離婚が主流であり、夫からの追い出し離婚だけで、江戸時代を見るのは誤りである。次の5つの場合は、妻から一方的に離婚できた。現在の離婚条件よりも、はるかに女性に有利だった。 1.夫が妻の承諾なしに、妻の衣類など持参財産を質に入れたとき2.妻と別居もしくは音信不通つまり事実上の離婚状態が3~4年続いたとき3.髪を切ってでも離婚を願うとき4.夫が家出して12カ月(古くは10カ月)が過ぎたとき5.比丘尼寺(縁切寺)へ駆け込んで、3カ年が経過したとき 江戸時代の縁切寺は、鎌倉の東慶寺と群馬の満徳寺だけであったが、妻からの離婚靖求もかなりの程度に認められていた。働かなくてもすむ専業主婦はいなかったので、すべての女性は労働力だった。未婚・既婚を問わず、江戸時代の女性たちはよく働いた。働き手である限り、女性の存在が軽んじられることはあり得ない。むしろ明治の中頃になって、民法によって家制度が敷衍され、男尊女卑が強制されたことによって、女性の地位は厳しいものになったのである。以上引用終わり。 現代でも「愛想をつかした」という意味で使われている「三行半をつきつけた」という言葉ですが、上記の引用でもお分かりの通り、重要なのは、離婚が成立するには妻側の承諾が必須であったことです!。その承諾の証拠として、三行半の受取書である「返り一札」を妻側に出してもらったと言う史実が残っているそうです。また、妻が三行半を受理していないのに、夫が一方的に離婚を言い渡した上に再婚してしまった場合は、重婚の罪に問われ「所払い(ところばらい)=追放の刑」に処せられたそうです。三行半を書くのは夫の「義務」であり、三行半なくしては離婚も再婚もできなかったのです。ちなみに、この三行半は夫から妻に出すのが基本でしたが、「先渡し離縁状」と言って、妻が夫に書かせる場合もありました。夫が怠け者や賭け事をするなどの問題がある場合、妻が先に離縁状を書かせて、取って置く場合もあったようです。 <花のお江戸庶民の結婚の実態>ずばり「お見合い」です!。マナー講師の平松幹夫氏の言葉を引用させていただくと、当時のお見合いは庶民の風習でした。現在のようにお茶や食事をしながら会話をするというスタイルではなく、世話人が選んだ場所に女性を連れて行き、それを男性が物陰から、顔立ち、スタイル、立ち居振る舞いなどを観察(見合い)します。そして、男性が女性を気に入ったら、世話人に扇子を託す。その扇子を世話人が女性宅に届け、それを女性側が受け取れば、婚約成立という仕組みだったそうです。そしてもう一つは、「くっつき合い」と呼ばれた恋愛です。これは、長屋の庶民ならではの結婚の形態です。しかも「できちゃった婚」が結構多かったと言うのですから驚きです。武家や商家の人にとって、結婚は自分で決められることではなかった訳ですから、たぶん、自由に結婚できる庶民が羨ましかったかも知れません。 <まとめ>現在の私たちの祖先のほとんどが農民や町人であったわけで、日本人=武士という考え方は、そもそも間違いだと言えると思います。江戸時代の人口は約3千万人前後で推移していたとされますので、その9割≒2千7百万人を占めていたのは武士ではなく、ごく普通の一般庶民です。江戸時代の江戸庶民の人口は所説ありますが凡そ130万人、当時の庶民たちの結婚と言えば、「夫婦別姓」であり、ほとんどの夫婦が「銘々稼ぎ(めいめいかせぎ)」と呼ばれた共働きでした。ちなみに庶民でも庄屋や中小の自作農は「姓」を持っていました。また何より、「夫婦別財」であり、夫といえども妻の財産である着物などを勝手に売ることはできなかったのです。要するに、明治民法が制定されるまでの日本人庶民の結婚とは、限りなくお互いが精神的にも経済的にも自立したうえでの、より対等な経済共同体という形に近かったわけです。さて令和を迎えた現在、国民の平均年収は約420万円と言われておりますが、女性がお見合い相手を選ぶ際の条件として「年収〇〇〇万円以上」を挙げられる方が非常に多いと感じています。しかし、通常は女性の年収はプロフィールには記載されませんし、ご入会される時の必要書類として「収入証明書」の提出が義務付けられているのは男性の方のみです。「夫婦別財」で「銘々稼ぎ」だった江戸時代の庶民は今よりも自由で対等な夫婦関係を築いていた様に感じてしまうのは私だけでしょうか?!。今日は、この辺で失礼します。
昨日は「嫁入り次第」の様子をご紹介いたしました。いにしえの婚礼の様子がイメージされましたでしょうか。この形態は長く、安土桃山時代まで行われたと伝えられています。さて、南北朝に於ける内乱の時代を含め広義の室町時代は、いわゆる「下剋上(げこくじょう)」と言って、社会的に身分の低い者が身分の上位の者を実力で倒す風潮が強まった時代です。そこで幕府は乱世を安定させる方策として、民衆に道徳心を目覚めさせようと「礼法(れいほう=らいほう)」と呼ばれる礼儀作法を普及させようとしました。「嫁入り次第」もこの「礼法」にのっとって行われたものでした。今日は「結婚の形態とは?(その5)」として、婚礼に無くてはならない「仲人」の存在についてお送りいたします。 <仲人の歴史>仲人の歴史は記紀万葉の時代以前まで遡ります。古事記と日本書紀に「天皇は、雌鳥(めとり)の皇女をお妃にするため、異母弟の速総別尊命(はやふさわけのみこと)を仲立ち(なかだち)にした」という逸話が残っており、この「仲立ち(なかだち)」と言う言葉が「仲人」の始まりとされていて、この話は仁徳天皇40年(紀元352年)2月と記されていますから、「仲立ち(なかだち)」は、かなり昔から必要とされてきた存在なのです。平安時代になると、かなり一般的になり、当時の「妻問婚=通い婚」には仲人が登場し、鎌倉時代には「媒(なかだち)」と呼ばれる職業仲人が存在していたとされています。一説には、更に遡り、この段々と時代と共に仲人の存在は重視される様になり、庶民でも「嫁入婚(よめいりこん)」が定着した江戸時代には、婚姻の段取りを全て取り仕切るようになったのです。両家の身分・懐具合・仕事内容、などが釣り合うかどうかを考えて「縁談話(えんだんばなし)」を進めました。仲人は婚礼の立会人も務めたことから、別名「橋渡し(はしわたし)」などと呼ばれることもありました。かつては「仲人と言えば親も同然」と言われ、嫁と婿の当人同士だけでなく「両家の間を取り持つ」と言う重要な役割があったとされています。場合によっては夫婦喧嘩の仲裁までやることもあったそうです。婚姻後の将来に渡っても、その後の人生の後見人役として夫婦の支えとなっていたのです。 <月下氷人(げっかひょうじん)>「月下氷人」は「月下老人(げっかろうじん)」と「氷上人(ひょうじょうじん)」がひとつになってできた言葉で、正に「仲人」を表す言葉です。①「月下老人(げっかろうじん)」:「続幽怪録(ぞくげんかいろく)」に登場する人物のことです。唐の韋固(いこ)なる青年が旅の途中、宋城の南の宿場町を通りかかった際、寺の門前で大きな袋を置き月光の下で書を読んでいる老人に出会いました。その袋から赤い縄(なわ)が出ていることに気付いた韋固が老人に縄の使い道を尋ねたところ、「この縄で足をつなげば、どんな男女でも夫婦の縁で結ばれる」と答えたと記されています。さらに老人は韋固の未来の妻を予言しましたが、14年後に韋固が結婚した女性は老人が予言した娘その人でした。これらのことから男女の縁を結ぶ人のことを「月下老人(げっかろうじん)」と呼ぶようになったそうです。「赤い糸」ならぬ「赤い縄」だったのです!。 ②「氷上人(ひょうじょうじん)」:「晋書索紞伝(しんじょさくたんでん)」に登場する、晋(しん)代の中国にいたとされている策耽(さくたん)という名前の高名な占い師です。ある日、「氷の上に立って氷の下の人と話をした」という夢を見た令狐策(れいこさく)という人物が策耽を訪ね、夢占いをしてもらいました。すると策耽(さくたん)は、「氷の上下は陰陽であるから、その夢はあなたが結婚の媒酌をすることの前兆だ」と言われたのです。すると令狐策は本当に大守の息子の仲人を頼まれ、めでたく婚姻が成立した。という話から「氷上人」が仲人のことを指すようになったのです。 ③「月下氷人(げっかひょうじん)」:結婚に於ける「仲人」を意味する言葉です!。「月下氷人」という言葉そのものは、由来となった「続幽怪録(ぞくげんかいろく)」や「晋書索紞伝(さくたんでん)」には登場せず、中国で使われてもいません。日本で「月下老人(げっかろうじん)」と「氷上人(ひょうじょうじん)」という占いの名人にまつわる逸話をつなげてこの言葉ができました。人生の門出を祝う結婚式によく使われます。 <まとめ>現代の仲人は「頼まれ仲人」と「引き合わせ仲人」の二種類を指します。1990年代にバブルが崩壊し、また日本の伝統的な雇用形態だった「年功序列」や「終身雇用」が影を潜め、更に自由で多様化した挙式が増えると、会社の上司に仲人を頼むことは少なくなり、挙式の場だけ依頼される「頼まれ仲人」が一般的になりました。また、縁談を最初から携わり、全ての段取りを世話する「引き合わせ仲人」は実質的に殆ど無くなってきていると思います。しかし、そこは声を大にして申し上げたいと思いますが、我々結婚相談所のプロ仲人がしっかりとサポートする役割を担っていて、時には「両家の間を取り持つ」ことや、場合によってはお二人の喧嘩の仲裁や、プロポーズの演出もお手伝いします。結婚後の将来に渡っても、何らかの形でお二人とのご縁が細く長く繋がって行けば良いと願って居ります!。今日は、この辺で失礼します。
昨日は、鎌倉時代に「婿取婚」から「嫁取婚」への変化の過渡期を迎えたものの、母系型家族が崩れ、武家で「嫁」が男性の家に入る「嫁取婚=嫁入婚」が結婚の基本形とされるようになってくるのは、室町時代になってからだと言う話をいたしました。今日は「結婚の形態とは?(その4)」として「冠婚百科」より「嫁入婚」の“しきたり”についてご紹介いたします。 <嫁入り次第>「冠婚百科」の「嫁入婚」の記述によれば、明らかな様子を見て取ることができます。~~~平安時代、公家では牛車(ぎっしゃ=ウシや水牛に牽引させる車)を用いたが、武家社会では輿(こし=屋形の形をした担ぐ乗り物)を使い、輿を連ねての嫁入り道中が行われるようになる。当時の武家の嫁入は、まず嫁の家の門の外では松の木を焚いて門火を行った。嫁は多産のシンボルである犬張子の箱を2つ置きその間に座り、輿に乗って門を出た。花嫁の輿が婿の家に着くと、ここでも門火を焚き、輿が門に入るときに、「請取渡し」の儀が行われる。ついで「輿寄(こしより)」の儀式があり、それがすむと花嫁は輿から出て「祝言の間(しゅうげんのま)」に進む。祝言の間は、家の中で最も奥の庭に面した所で、嫁は床の上座に座る。次に婿が座につくと、「待上臈(まちじょうろう)=大臣の女」は祝儀の言葉をのべて両人を合わす。まず最初の祝儀は、「式三献(しきさんこん)=現在の三々九度」と呼ぶ酒式から始められる。この時各人に御膳が三つずつ置かれ、そこに盃が3つ添えられている。女房(貴人の家に仕える女)3人が出て、嫁より盃を始め、婿、待上臈と3人が3度づつ、継ぐのである。式三献のあと、初献(しょこん)、雑煮が出る。これは夫婦だけの宴で、父母、兄弟は立ち会わない。こうして祝言が終了すると、いよいよ床入(とこいり)となる。さて「色直し」の衣裳は婿の方から土産に出されるもので、二日目の夜に赤や青の衣裳を着ることになるが、それまでは男女とも白の衣裳を着る。そして嫁は色直しがすんだあとで、初めて舅、姑と対面した。~~~ <現代に通じるしきたりの数々>①輿(こし):神輿(みこし)として祭礼の道具になっています。※玉の輿(たまのこし):普通の一般女性がお金持ちの子息の嫁になる事を「玉の輿に乗る」と言う言い方として残っています。 ②引出物(ひきでもの):元来は平安時代の貴族が馬を庭に引き出して客たちに見せて贈り物にしていたことに始まり、何か喜び事があるたびに祝宴が開かれ贈り物が楽しみにされた様です。鎌倉時代以降の武士は、刀剣、弓矢、高価な海産物を贈り、江戸時代では焼いた鯛、鰹節を引出物にしたそうです。何れの時代でも人々に好まれる高価で縁起の良いものが贈られたのだと思います。 ③里帰り(さとがえり):里帰りは嫁入り婚の儀礼であり、結婚成立したのち,嫁が実家に帰ることをいう。伝統的風習の一形式としては、結婚ののち3日目、また5日目に夫が妻を妻の実家まで送り、夫は婚家に帰り、妻は自分の実家に宿泊し、翌日、妻の母が妻を夫のいる婚家に送り届けると言うしきたりになっていました。 ④お色直し:現代に於けるお色直しは、新婦が白一色で仕立てられた白無垢(しろむく)から、色打掛(いろうちかけ)に着替えることを指していて、白無垢から色打掛に衣裳替えするのには「相手の家に染まる」という意味が込められている。などの説明がなされますが、実は、本来の意味は、「式三献(しきさんこん)」の後、夫婦だけの宴があり「祝言(しゅうげん)=婚礼」が終了すると、「床入(とこいり)=共寝(ともね)」となります。つまり床入の前の初日に着る白の衣装から、二日目の夜に着る色付きの衣装へ変わることを「嫁の色直しを済ませる」と言うのです。 ⑤式三献(しきさんこん):現在の三々九度のことです。「三献の儀」として確立したのは室町時代の武家礼法によるとされています。ちなみに、現在の三々九度の正式な作法は、三段に重ねられた小・中・大・の杯(さかずき)を順番に3回づつ合計9回飲むことになります。一の盃(小)は新郎→新婦→新郎、二の盃(中)は新婦→新郎→新婦、三の盃(大)は新郎→新婦→新郎となります。注ぎ方はお銚子を3度傾けて3度目に酒を注ぎ、飲む時も1度、2度は盃に口をつけるだけで、3度目にいただくのが一般的です。略式では各盃を2回づつ、計6回で済ませることが多いです。神前や仏前結婚式では、この正式な作法を行うことがあるそうです。今日は、この辺で失礼します。
元々「結婚」と「恋愛」の間が意識されていなかった記紀万葉の時代には、大らかな自由恋愛が主流でした。最初は「共同婚=単なる男女の結びつき」で、生まれた子供は部族みんなで育てられていたので、一夫一婦制の考え方も、夫婦が同居することもありませんでした。庶民は特に「夫婦」と言う形態よりも、部族の中で子が生まれて繁栄していけばそれで良しとされたのです。父親は誰だか分からないので、必然的に母親の一族が中心となって子の教育が成され、財産も娘が相続する母系社会が形成されていったと考えられます。今日は「結婚の形態とは?(その3)」をお送りいたします。 <婚姻と言う考え方>奈良時代頃からは「露顕の式(ところあらわしのしき)」と言う「婚姻」が行われ男を女側の家の一員としたと考えられています。「夫婦」と言う考え方が出てきたとは言え、その関係性は希薄で、「妻問婚=男から女への通い婚」であり夫婦は別居、離婚も簡単で、夫が妻方に通わなくなったら「床去り」「夜離れ」と言われて離婚となったのです。また通ってきた夫を妻が返してしまえば、やはり離婚です。何ら「婚姻宣言」も「婚姻届」もない結婚は大変あいまいなものだったのです。ですから、一夫多妻はもとより多夫多妻となる婚姻も珍しくなかったと言うことになります。この「妻問婚=男から女への通い婚」は平安時代までずっと受け継がれていくのです。 <婿取婚(むことりこん)>平安時代になると、「妻問婚」は「婿取婚(むことりこん)」に形を変えて行きます。夫婦の居住形態も、それまで主流だった別居から妻側の家への同居へと変化していったと考えられています。当時は「婚姻令」が定められ①男は十五歳、女は十三歳以上に達しなければ婚姻は許されないとされました。②女の結婚にあたっては特にその祖父母・伯叔父母・兄弟・外祖父母の承諾を得なければならない、とされていました。③結婚には媒人を必要とする、と決められていました。④正妻を有する者がさらに他の女を正妻としてめとることは許されない、というものです。しかし、それでも母から娘へ家や財産が引き継がれる母系社会は、後に武家が台頭する様になる鎌倉時代まで続くことになります。 <嫁取婚(よめとりこん)>鎌倉時代頃の一夫多妻の慣習は妻を3人まで持つことが許されており、婿取婚の形をとりながらも、ある程度の一定期間が経過した後に夫側の家に居住を移すと言う様に変化してきており、それまで長きに渡って継続してきた母系型家族の形がだんだんと崩れてきます。それに伴って特に武家社会では父権が強く台頭することとなり、必然的な形として「嫁取婚(よめとりこん)」が現れます。武士は結婚しても土地を離れることは出来なかったので「嫁取婚(よめとりこん)」が進んだとも言われますが、上流の公家では伝統的な「婿取婚(むことりこん)」だったことから二重の形態が両立する形になり問題も生じましたが、やがて武士が力を強めるようになってくると、公家と武家との間でも「嫁取婚(よめとりこん)」が行われ出しました。①鎌倉時代になり、武家社会の色彩が強くなると「個人」から「家」へと社会基盤が変化しました。租税も個人単位から家単位で課税され、負担する様になりました。婚礼のしきたりが整い始めたのもこの時代と言われています。ちなみに「お色直し」や「引き出物」「里帰り」などは現在でも使われている古くからの慣習です。 ②母系型家族が崩れ、武家では「嫁」が男性の家に入る「嫁取婚(よめとりこん)=嫁入婚(よめいりこん)」が結婚の基本形とされるようになってくるのは、室町時代になってからと言われています。権力固めやお互いの家のメリットを婚姻関係を結ぶことで、盤石なものとするために策が練られた「政略結婚」も当然のように行われていました。 ③鎌倉時代は「婿取婚(むことりこん)」から「嫁取婚(よめとりこん)」への変化の過渡期だったと言えます。男性が力をつけてきたことは確かですが、全てにおいて男性優位ではなかったのです。女性が結婚しても夫の姓を名乗らず実家の姓を名乗り、親の領地を相続する権利を持っていた為、男性と女性の力関係は、同じ程度あった事がわかります。また、夫の土地と、妻の土地を、夫だけでなく、妻も合わせて経営していました。もし、妻が夫よりも先に死んでしまった場合には、その土地の所有権は、夫には移らず、子供に相続され、夫の土地とは、しっかり別に分けられていたのです。 <農村部の婚姻>今まで述べてきた様に、鎌倉時代は母系型家族から父系型家族へ、「婿取婚(むことりこん)」から「嫁取婚(よめとりこん)」へと変化した過渡期だと言いましたが、公家はこれまでと同じに家と家の結びつきが特別必要だった訳ではなく、また農民も農村部で農業を営んでいる農民にとってもそんなに必要な制度ではありませんでした。公家や農民にとっては、特に武家の婚姻制度へ合わせるメリットは無かったと言えます。先日も書きましたが、そもそも「婿取婚(むことりこん)」が成される様になった背景には、農耕生活が一般的になるにつれてのことであり、武家の婚姻制度に合わせる必要性は余り無かったのです。特に、農家を生業にしている家族にとって、娘は年齢的にも大事な労働力ですので、手放したくないですし、婿になってくれる方は、喉から手が出るくらい欲しかった労働力だという事です。 <まとめ>これは現在でも言えることですが、「婿取婚(むことりこん)」が、廃れてしまった背景は、農耕生活が薄れていった事も理由として考えられます。地方の農家は子供が娘しか居なかった場合は「婿取婚(むことりこん)」をして代々続いてきたと言えますが、親の代で農家を続けることをやめてしまうことが増えたので「婿取り」をする必要がなくなってしまった訳です。今日は、この辺で失礼します。
昨日は、古事記や日本書紀にその記述が見られる、「共同婚」と呼ばれる「自由恋愛=単なる男女の結びつき」の時代から、母親を中心とした母系氏族の形成を経て、やがて古墳時代頃に「妻問婚」に発展したところまでをお話しいたしましたが、今日は「結婚式」が生まれるあたりから、その内容を中心に「結婚の形態とは?(その2)」と題してお送りいたします。 <当時の出会い>源氏物語などに描かれている当時の貴族社会では、女性は、人目を避けるのがたしなみとされ、同世代の男性が直接に、適齢期の女性と知り合う事はまれでした。男性は、まず女性の風聞を耳にしたり、苦労の末の垣間見(かいまみ)によってその容姿を知り、求婚の歌や手紙を送りました。女は最初侍女による代筆の返事を送り、交渉の進展次第で自筆のものを送りました。やがて、親達の同意を得、男が夜に女のもとを訪れ、契りを結びます。翌朝、男が女の元に文(ふみ)を送るのですが、これを「後朝の文(ふみ)」といいます。早く届けられるのが、誠意の証とされ、三晩にわたって、男が女のもとに通うのが男の結婚の意志をあらわす事であったのです。 <露顕の式(ところあらわしのしき)>これが奈良時代頃に農民の間で生まれ、やがて平安期に貴族の間で広まったとされる、元祖「結婚式+披露宴=婚礼」です。当時の戸法(民法)では唐の習慣に倣い、男子15歳、女子13歳で婚姻が許される様になりました。勿論、現代と同じように貴賤(身分の差)によって様々だったそうです。どういう事かと言えば、男が女の家へ通う形はそれまでの時代と同じですが、三日目に寝ているところを家族が見つけて「三日夜の餅(みかよのもち)」を食べることで「婿」にしてしまうと言うところが特徴的です。「露顕の式」は「三日夜通い(みかよのもち)」と呼ばれる夜這いの三日目にする儀式だったそうです。以下にその内容を紹介します。中々歴史的な資料が見つかりませんでしたが、出典は「Privatter」様のサイトから引用させていただきます。ちなみに現代でも、秘密など隠していたことが表に出てしまうことを、「露顕(ろけん)する」と言いますが、三日目に親戚中に公式発表される元祖「婚礼」からきていたのです!。 <露顕の式の内容>①一日目は女側の親に挨拶し新婦と共寝する(一夜を共にする)。翌朝に「後朝の文」を誠意の証として出来るだけ早く送り、二日目も普通に通い、三日目の朝には「三日夜の餅(みかよのもち)」が届けられて、女性側親族・知人への「露顕の式(ところあらわしのしき)」となります。公家の婚礼の様な豪華なものだとここで立派な管弦楽付きの宴になったそうです。 ②三日目通して通う夜、女性側の親族は男が家族になるようにと「階」と言って部屋の入り口に靴を脱ぐ場所に置かれている靴を抱いて寝るという習慣があったそうです。通う間の朝ごはんは女側が出します。つまり、朝ご飯を食べてから文を交わして帰るまでがルーティーンになっていると言う訳です。 ③三日間設ける理由はキャンセル期間を設けるという事だったそうです。お餅を食べると基本離婚不可になります!。ここはポイントで、お餅を共に食することで一つになるという意味があるのです。二日目以降、通わないという事でも離婚?というか別居になりますが、結婚したら女性側が男性の衣服などの面倒をみるという風習があったそうです。 ④「露顕の式(ところあらわしのしき)」は肉親だけでなく親戚一同に公開する、いわば披露宴です。三日通いの間は肉親の一部や下働きが知っているのみですが、結婚成立すると一族友人に公式公表するということになります。三日夜餅は「黒塗の角膳に一対の鶴の箸置き、小さい銀のお盆三皿にに丸餅が載っている」形をしており、男性側が歯で食いちぎって食べてはいけないとされていたそうです。たぶん縁起を担ぐ意味があったのだと思います。 <宴会の作法>冠婚百科の「日本結婚史」によれば、日本の古い習慣では、宴会は非常に厳格な作法があり、酒宴でも客が席に着いたところでただちに酒が出るのではなく、はじめに高坏(高い台のついた食器)にもてなしの料理を載せ、全員に運び終わると、次に酌人が上席から酒をついでまわり、これを「一献(いっこん)」といいます。次に第二台の料理になります。そして同じように酒をつぐと「二献」が終わります。ついで「三献」が始まって座を閉じ、正式の宴は終わる。この「露顕の式(ところあらわしのしき)」の間は、殿中の燈篭、灯台の明かりは消さないのが吉例で、宮廷民間ともに同じ作法だったそうです。 <庶民の結婚>この時代、貴族の結婚の形については多く資料が残っている事が多いのですが、一般庶民の結婚のあり方は記録として残っていないものが多く、貴族の婚礼よりもっと質素だったと思われます。奈良時代初期の713年に編纂された常陸国風土記によれば、庶民の場合、「歌垣(うたがき)」など、祭りの場で未婚の男女が出会い、歌をやりとりすることで、求婚相手を見つける集いの場となっていたようです。春の田植えが終わると「豊作になりますように!」と祈りがこめられて行われ、秋には「今年の収穫を神に感謝し、来年の豊作を祈る」という趣旨で開催されたのが「歌垣(うたがき)」の源流だと言えます。ここ「茨城県の筑波山」の歌垣は、「兵庫県の歌垣山」、「佐賀県の杵島山」とともに、「日本三大歌垣」と呼ばれたもので、現代で言うところの‟大婚活パーティー”の会場だった場所なのです!。そんな一大聖地で、結婚相談所を営むことができていることが、古代の民から社会貢献を託されている、何か不思議な心持ちであり、ご先祖代々からの大きな意思を感じずには居られません!!。今日は、この辺で失礼します。
「婚姻届」の名の通り、民法上は「婚姻」が正式に用いられています。しかし日常用語としては「結婚」が一般的に馴染みが深いのではないでしょうか。そもそも「婚姻」と「結婚」と言う字が使われる様になったのは、両方とも平安時代からだと言われています。日本国語大辞典第二版によりますと、当時は「婚姻」が多く使われ、「結婚」が多用される様になったのは明治時代に入ってからだそうです。それ以前も含めて、実に様々な変遷を経て現在に至るということに、正直言って驚きです!。今日は「結婚の形態とは?(その1)」をテーマにしてお送りいたします。 <乱婚・雑婚>飛鳥時代や大和時代、或いはそれ以前のいわゆる原始時代からずっと続いてきたとされる、おおらかな婚姻制度の原初的形態。日本大百科全書によれば、「19世紀の社会進化論者によって想定された動物的な性関係のこと。実証はされていない。最近では一部の霊長類でさえ人間の家族に相当するものが明らかになってきており、乱婚・雑婚の概念そのものが疑わしくなってきた。」とも言われています。 <共同婚(集団婚)>西暦700年代の初め、歴史区分で言えば奈良時代初期に書かれた日本最初の歴史書である古事記や日本書紀は、ほとんど神話や伝説の時代の事が書かれている訳ですが、そこには「共同婚(集団婚)=女子共有の時代」が事実として書かれています。これは、以前からずっと共同体(村)の中で行われてきた、複数の男女がグループで婚姻関係を結ぶ「自由恋愛=単なる男女の結びつき」の形です。儀式としての「結婚式」は行われてませんが、これが村内の生産基盤を安定させていたと考えられているのです。 <妻問婚(つまどいこん)>やがて村外にも広がりますが、父親が特定されませんから、生まれた子は母親のもとで育つようになり、母親を中心とした母系氏族が形成されていくのです。やがて古墳時代頃になると、これが「妻問婚=通い婚」と呼ばれる形態に発展して行きます。男が女の家の戸口から呼びかけて求婚したり、垣根越しに男が和歌で求婚して女が答歌したり、いわゆる「夜這い=求婚」は男が女へ試みる(プロポーズする)と言う点では現代と似た形だったかも知れません。しかも夫婦は同居してなかったので、現代で言えば「別居婚」になるわけです。ある意味進んでいたことになるのでしょうか?!。今日はこの辺で失礼します。
徳仁新天皇陛下が即位され、「令和」の時代が幕を開けました。婚活茨城!仲人ひきうけ隊では、改元を記念して、5月に実施した「1ヶ月お試しキャンペーン」が大変ご好評をいただきましたので、第二弾を6月限定の新たな内容で開催することにいたしました。皆様のお悩みやご相談をお聞かせください!。 <キャンペーン内容> ①6月ご入会限定キャンペーンとして、「のりかえコース」を初期費用1万円(税別)で応援させていただきます!。「これまで色々な婚活サービスを利用したけど、想像もしなかった色々な理由で成婚を実現できず苦労している…。」と真剣にお困りの方、是非ご利用ください!!。 ②ご入会後、最初の一ヶ月で80名のお見合い申し込み枠をクリアしても、万が一お見合いが成立しなかった場合は、お支払いいただいた初期費用の半額5千円(税別)をご返金いたします!!。翌月以降の活動を継続するか否かのご判断も勿論自由です。絶対に損はしない内容だと思いますので、早速お電話にてお問い合わせください!。③お相手からのお見合い申受けがあった場合でも、予め決めたご本人の希望内容から逸脱していて、お断りをした場合も、お見合い不成立に含めます。但し、お受けした場合は成立とさせていただきます。 ④「のりかえコース」の詳しい内容につきましては、当社ホームページの料金Course説明をご参照ください。 <実施対象> 6月1日(土)~6月30日(日)までに、当キャンペーンへ申し込まれた全てのお客様。(ご親族様の代理申込みも可) <詳細お問い合わせ> ※詳細は080-3332-0233、またはhikiuketai@gmail.com(担当:塙)へご連絡をお願いいたします。
奈良時代初期に編纂された常陸国風土記の総記には、倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)が清らかな井戸で手を洗った際に衣の袖を漬して濡らしてしまったとの有名な一説があり、そこから「衣袖漬の国(ころもそでひたしのくに)」⇒「ひたちのくに」⇒「常陸国」と説明されているのを読んだことがあります。当時の「常陸国」は未だ統一されていない東北地方が、常陸国より奥に位置していたことから「陸奥(みちのく)」と呼び、その玄関口であり、重要な開発拠点を担っていたとされています。今でこそ魅力度が低いとされている茨城県ですが、記紀万葉の時代に遡れば、常陸国=茨城県は、出雲国、播磨国、豊後国、肥前国と並んで風土記編纂がなされたベスト5に入っていたことになります。しかもその国府が置かれていたのが、わが地元の石岡市になる訳ですから、何か妙に誇らしげな気持ちになります。 とは言え、石岡市の人口は約7万5千人で、ここ10年間で7千人ほどが減少してしまいました。残念ながら過疎化が進む地域でもあります。私たちは、市民がそれぞれの立場で、より積極的に地域と関わりを持ち、少しでも暮らし易い魅力的な街づくりに貢献したいと願っております。このまちで生まれ、このまちで育ち、たくさんの思い出とともにこのまちを愛し、沢山の人々と関わり合いながら、これからも生きていく!。地域の発展は家族の幸せが基本です!。縁あってこの地に住む一人一人が、何かしらのきっかけでより深い縁で結ばれ、愛情を育み成婚し新たな家計を営み、家族としてたくさんの幸せを享受していく。記紀万葉の古(いにしえ)の時代から、長い歴史と人間模様を内に秘めつつ、今日まで脈々と続き、明るい未来へと進めていく。そんな何気ない日常を決して絶やさず、次の世代へ、そしてまた次の世代へと大切に受け継いでいきたいと、ただそれだけを願っているのです!。 「婚活茨城!仲人ひきうけ隊」のごく自然な当たり前の活動が、ほんの少しでもこのブログを読んでくださっている皆さんの興味と関心に触れることを期待し、毎日やれることを精一杯、真面目に、臨機応変に、手を抜かずにプロの仕事をし続ける!。僅かな試みが誰かの気持ちにほんの少し影響し、もしかしたらと希望が生まれ、勇気ある一歩が自らの成長と相手からの関心を促し、お互いに歩み寄り、新しい出会いと愛情を生んでいく。笑顔があふれ、幸せに満ちた毎日を、普通におくるための一助となりたいと、心に誓いながら今日も会員様のサポートに徹したいと思います!!。5月限定でお届けした、『祝「令和」改元記念!1ヶ月お試しキャンペーン』も本日で最終日を迎えました。ご好評いただきました皆様へは、心より感謝申し上げます!。まだ今日一日、お申込みをお待ちしていますので、是非このチャンスを生かしてみませんか?。お問い合わせは、080-3332-0233担当:塙(はなわ)までお願いいたします!。今日は、この辺で失礼します。
女性が、積極的に「結婚」の二文字を引き寄せる方法は二つだと紹介してきました。それは、一つには“アシスト”です。男性のプライドを傷つけないように、ゴールに繋がるラストパスを目立たず確実に決めて、プロポーズを自らの手で“アシスト”するのです。男性は上手く受け取ることさえできれば、派手にゴールを決めてスタンドにアピールできると言う訳です!。女性としてはとても賢いやり方です。もう一つは“逆プロポーズ”です。晩婚化が進んだこともあり、受け身な男性に業を煮やしながら無駄な時間を過ごすことは許されないと言う心理状態になります。脈無しなら次へ進みたいと決断し、“逆プロポーズ”に及ぶのです。一見捨て身の戦術にも思えますが、女性はあくまでも慎重です!。かなりの自信があっての最後の一押しか、自分の気持ちにけじめをつける決意の表れかのどちらかです。その覚悟の違いのせいか、昨日ご紹介した通り成功率が非常に高いのです!。しかし、実はもう一つ効果的な方法があるのではないかと感じています。“アシスト”ほど策略的ではなく、“逆プロポーズ”ほど焦燥感が募ることもない、自然な方法です!。今日は「逆プロポーズよりも確実なアプローチ方法とは?」のテーマでお送りします。 <秘密を共有>男性はあなたのギャップにグッと心を惹かれます。普段は気の強いしっかり者のままでいても、二人になった時だけ気の弱いところを見せてしまいましょう。彼はあなたのいつもと違う一面を見たことを、とても印象深く記憶に残します。あなたも実際に彼にだけその様に行動した自分を認識してますので、二人は秘密の共有をしたことになるのです。そんなことが繰り返されると、二人の距離がいつの間にか縮まっていくのです!。 <個性を磨く>男性は、自分にない才能や知性の持ち主に惹かれるものです!。何も特別な事をする必要はありません。先ずは、自分が今まで何か得意としてきたことに磨きをかけること。知性についても、毎日のニュースで世の中の出来事をきちんと把握し、自分なりの考えを持つようにしましょう。もし、何も磨きをかけられる様なことが無い場合は、何かしらの資格を取得してみましょう。それが、あなたの立派な個性として輝くと思います。不思議と彼氏に追いかけられる存在になっている筈です。 <隙を見せる>「自分の短所や弱さを見せる」「クロスの法則を実行する」「おっちょこちょいを隠さない」「羞恥心を欠かさない」「方向音痴を隠さない」…。これらは男性の大好物!。つい“守ってあげたい症候群”に陥ってしまいます!。気をつけなければいけないのは、彼氏の前だけにすると言うことです!。 <甘え上手>彼氏に甘えることが下手な女性は、自分に何かしらのコンプレックスを抱えているか、プライドが高いかの場合が多いと思います。そんなあなたは「笑顔を絶やさない」「視線を合わせる」「相手が何を望んでいるかに敏感になる」「否定せずにとにかく誉める」「素直に謝ることを忘れない」、これを彼氏の前だけで結構ですから、すぐにでも実行してください!。あなたの魅力が彼に伝わり、いつの間にか自然に甘えさせてくれる雰囲気が出来上がっていると思います。 <自立する>きちんと自分の意見を持っている女性は魅力的です。そんな彼女は彼氏に依存し過ぎず、精神的にも、経済的にも自立し、背筋が一本通っていると思います。自立した女性は男性にパートナーとして認識されやすくなります。男女の恋愛感情とはまた別の、特別な信頼関係が生まれるのです!。自立することで、あなたの価値は大いに上がり、彼氏にはなくてはならない信頼できる特別な女性へと変身できるのです!。 <家庭的>家事のさ・し・す・せ・そ、をソツなくこなすに限ります!。特に「炊事=料理」の腕を磨きましょう!。チャーハン、パスタ類、オムライスなどを上手に作れる男性は結構います。つまり、“そこそこ旨い”では話になりません!。男性から「あれが食べたい」「今日はこれにして」と積極的にリクエストされるくらいのレベルまで上達しましょう。別に料理教室などに通わなくても、クックパッドで色々試しながら自己流にアレンジしていけば良いのです。必要なのは、“手間と時間を惜しまない”これが全てです。いつの間にか勝手に彼があなたの虜になってくれます!!。 <まとめ>今日は「逆プロポーズよりも確実なアプローチ方法とは?」をテーマにお送りしましたが、如何でしたでしょうか?。色々と考えて紹介してみましたが、大切な事は「彼氏との精神的な親密度を上げること」「幸せのための手間と時間を惜しまない事」「あなた自身の価値を上げること」「信頼できるパートナーになること」です!。勿論、どれかを実現するのではありません。全部にトライしてみましょう!。‟ローマは一日にして成らず” です。正に手間と時間はかかりますが、これが一番自然で確実なアプローチ方法だと思います!。今日は、この辺で失礼します。
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