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難しいことはしません。簡単なことを、根気よく続けてゆくだけです。筋トレをイメージしてください。そんなに複雑なことをするわけではありませんよね。筋力を養成するのが筋トレ、自分の考え方の仕方を少し変えて苦しい感じを少なくするトレーニングが、マインドフルネスだと、ざっくり考えてくださってかまいません。説明のベースにあるのは、ヴィパッサナー瞑想です。たぶんヴィパッサナー瞑想って、初めて聞く方の方がおおいですよね。ヴィパッサナー瞑想は、観察瞑想と言われています。座ってする「呼吸を観察する瞑想」では、呼吸を観察することへの意識の集中(集中瞑想)により思考を停止し、思考を停止することで感情の生起を一時的(瞑想中)に止めて、心を落ち着かせることもできます。私の経験からの感覚でしかないのですが、一時的にでも感情の生成が停止された、と感じることは、脳のはたらきに変化をもたらすようです。感情の生成が停止されると、「なんでこんなに楽な状態になったの」「今までがなんて重荷だったの」「なんでこんなに楽な状態になったの」「今までがなんて重荷だったの」という状態を体験すると、それは感情の生成が(一時的であっても)停止され、感情の生成による負担から解放されて楽になったのだ、と考えざるをえないからです。脳にとっても「楽な状態」は良いことですから、脳は楽な状態を実現しようとします。しかし、そう簡単には、「楽な状態」は実現しません。なぜならば、これからお話しいたしますが、脳には釈迦が説いたように、あれがいい、これは嫌だ(という考え)に執着する性向があるからです。感情の生起を停止すると、恐怖や好き嫌いといった感情に影響されない思考が現れます。このことを釈迦はこう言っています。「心の動きの停止と智慧による観察(止・観)という二つのことがたがいに関連して起こる。(春秋社 原始仏典第7巻 第149経)この感情に影響されない思考によって、自分を観ること(ヴィパッサナー瞑想、観察瞑想)によって、自分の心のうごきへの観察能力が向上し、瞑想終了後の日常生活であっても、気分の低下を察知し、その原因を理解する能力が向上します。集中状態を作出するためには呼吸が重要ですので、朝晩の瞑想の前に簡単なエクササイズをします。目的は、③「呼吸を観察する瞑想」の効果を上げるため、です。①気道をまっすぐにする姿勢を理解すること、これにより無理なく呼吸ができます。②吐息を吐ききり、体の力を抜くことで呼気を呼び込む感覚を体験すること③腹式呼吸の方法を理解し、日常的にできるようにすること④通常の呼吸より長く、かつ穏やかな呼吸ができる練習することこれらを体験し、身に付けることによってリラクゼーション効果が期待できます。瞑想におけるリラクゼーションとは、「くつろぐ」ことではありません。瞑想におけるリラクゼーションとは、「心身が安静な状態での覚醒」と考えてください。心身はくつろいでいながら、頭は冴えている状態と考えていただくとよいかもしれません。息を吐くときに副交感神経、息を吸うときには交感神経が働いているそうです。副交感神経により、心身がくつろぐ状態を、交感神経により、頭が冴えている状態を、それぞれ作り出すことに寄与していると言えるかもしれません。ゆっくりと滑らかに息を吐ききり(副交感神経優位)、吐ききったら体の力を抜き自然に息を吸い込みます(交感神経優位)。この呼吸法を呼主吸従と言います。このようにすると呼気は長くゆったり、吸気はゆったりと短くなります。呼気を長くゆっくりとすることで副交感神経の働きを優位にし、安静効果が得られるように感じます。実際、息をゆっくりおだやかに吐いているときには、安らぎを感じ、吸気によりそのやすらぎは中断されることを感じることができます。私はその様な感覚を感じますが、やってみて確かめていただくのが本来の瞑想の在り方ですし、それが確かめれられるようであれば、瞑想の効果は表れている状態になっているでしょう。呼主吸従により、心にやすらぎを作り、酸素摂取量を増大し、観察によって思考を停止し、心身が安らぎながら「今現在の自分の体をリアルに感じ取る」ことができる状態に到達します。「今現在の自分の体をリアルに感じ取る」ことができる状況では、ゆったりとした呼吸と意識の流れが合致している感覚がもたらされます。仏教瞑想でもマインドフルネスでも、「呼吸を観察する瞑想」は中核的な方法です。呼吸を観察した時点で、日常的な「無意識な呼吸」ではなくなっていますから、瞑想時の呼吸は「意識して最適な呼吸をする」ことが必要です。酸素摂取量が少ないより、多いほうが身体は賦活(いきいき)されます。呼吸法と酸素摂取量の関係については、村木昌弘先生が「大安般守意経に学ぶ釈尊の呼吸法」(柏樹社)などで説明されています。身体が賦活(いきいき)されるということは、脳の活動も活発化するということです。脳の活動が活発化した方がより集中力、観察力は強化されると考える方が自然です。課題は、体がリラックスした(力まない)状態と、酸素摂取量を増やす、ゆったりとした長めの呼吸(筋肉の動き)をどのように両立させるか、ということになります。ご自身で、体の状態を観察しながら、最適な状態を探ってゆくことになります。「体の状態を観察しながら、最適な状態を探ってゆくこと」ことによって、呼吸を観察する瞑想が、必然的に体の動きと体の感覚を観察する瞑想へと深まってゆきます。「身体が安らいで幸せな人の心は集中する」(春秋社 原始仏典第7巻 第118経) 釈迦の言葉です。身体に緊張が生じない状態、思考と感情の生成の停止により、不安などが生まれてこない状態をつくれば、おのずと集中することが容易になり、集中により苦悩を生み出す自己の心のはたらきを観察することが出来るよ、ということを釈迦は言われているようです。多くの方は毎日歩きますから、これを生かして「歩行の瞑想」をします。やることは「歩いている」ことに集中し、「考えない」「想像しない」ようにすることだけです。歩行に集中することは退屈な作業になります。ですが継続すれば効果がある瞑想です。退屈であるがゆえに、歩行の瞑想に10分間集中して取り組めるようになると、③の「呼吸を観察する瞑想」への集中が容易になり、「呼吸を観察する瞑想」を10分間持続することが、極めて容易になります。人は、考えながら歩いたり、いいことであっても悪いことであっても想像しながら歩いていると、外界への注意力は極めて少なくなっています。考えること、いいことであっても悪いことであっても想像することは、脳のリソース(資源)を大量に使用し、外界への注意へ払うリソースを減少させてしまうようです。不思議なことかもしれませんが、考えながら歩くこと、いいことであっても悪いことであっても想像しながら歩くことを止めて、歩いている自分の体の動きや感覚に注意を向けている時には、目の前の光景や音をリアルに、いきいきと感じることが出来ます。目の前の光景や音をリアルに、いきいきと感じるけれども、感じるだけで意識が引き付けられない、という状態が持続できるようになれば、歩行への集中力が高まっていると言えます。このような状態になっている時には、歩行への集中が無理なく行えて、かすかな快感も感じますから、脳内で快感物質が分泌されているのかもしれません。このような状態を経験すると、③「呼吸を観察する瞑想」への集中は容易になります。また、歩行の瞑想は、外で行い、視覚、聴覚や嗅覚などの刺激にさらされますから、歩行への意識が何かの別のものに向かった場合、自分の意識がどこに向かったのか、その時に何を感じたのか、ということを感じるとることが出来ます。「その時に何を感じたのか、ということを感じるとることができる」とは、「観察力が養われた」状態、ということになります。認知行動療法の「モニタリング」や「非機能的な自動思考」の内容を知ることが容易になります。ただし、気分の低下も容易に感知することが出来るようになりますので、苦痛や苦悩も感じやすくなることを意味します。これは悪いことではなく、苦痛や苦悩を感じやすくなるということは、つらいけれども、苦痛や苦悩を注意ぶかく観察して、どういうことなのかを理解すれば、苦痛や苦悩を解消するヒントが見つかる、ということでもあります。これは、心理カウンセリングが進展するプロセスと同じです。心理療法では、体の状態への気付きが、心への気付きを促す、とも言われいます。自分に苦痛や苦悩をもたらしていることを突き止めなければ、言い換えれば、苦痛や苦悩がなにによってもららされているのか、という探求に向き合わなければ、苦痛や苦悩を解消する方法は見つかりません。また、「非機能的な自動思考」というとらえ方と、釈迦が得た「人の認知のしくみ」である「五蘊」(色受想行識)のうちの、「受」もしくは「想」は重なり合うように感じます。釈迦が得た「人の認知のしくみ」では、外界での出来事を感覚すると、人には、楽の感受、苦の感受、楽でも苦でもない感受(感覚)が生じるとされます。この感受は体にも現れます。これが「受」です。「想」「saññā」は、以下のように説明されます。①「表象作用」(春秋社 原始仏典第2巻 第22経)②「五根に情報がふれた瞬間に起こるイメージ」(アルボムッレ・スマナサーラ先生、「釈迦の実践心理学アビダンマ講義シリーズ第7巻」サンガ)(五根は感覚器官、情報は外部からの刺激)と説明されることもありますが、行動との関係でみると「一瞬のうちに生じて、その内容が明確に認知されずに行動に影響する感情的な反応」ととらえてもよいと思います。「非機能的な自動思考」が、「想」のはたらきによって「一瞬のうちに生じて、その内容が明確に認知されずに行動に影響する感情的な反応」であり、それによって「苦の感受」が生じる、もしくは「苦の感受」が強化されると考えると、「非機能的な自動思考」が気分を低下させる、という認知行動療法の考え方と整合的です。気分の低下が生じた時=「非機能的な自動思考」が生じたときには、「今何を考えただろうか?」と自問して、「非機能的な自動思考」の内容を特定しようと意図すること、言葉として把握することが「行」(それをしようという意欲とそれに基づく行動)のはたらきと言えます。ここまで読んでいただいた方は、「細かい説明でめんどくさいな」という印象をお持ちだと思います。ヴィパッサナー瞑想を行うことで、「細かい説明でめんどくさいな」という「想」の生起、人の認知作用を把握できるようになります。「受」が先行して「想」を生じるとすると、「苦の感受」の発生 ⇒ 気分を下げる「非機能的な自動思考」の生起 ⇒ 「苦の感受」が再発生し強化される、となるのかもしれません。しかし、心の中で起こることは、プロトコルのように手順に沿って進められるもの、というとらえ方よりも、混然一体となっている中で、Aという変化がおこるとBを引き起こし、Bが引き起こされると、Aに影響を与え、その時々に起こった心の動きが強く感知される、というとらえ方のほうが理解を促進するように思います。「なんであんなこと言ってしまったんだろう」という後悔する行動があった場合、その発言に先行して「想」によって、「もし私がこういうふうに相手から思われているかもしれない、そのように思われたら仲間外れにされるかもしれない(恐怖、危険)と感じて回避しよう」という、「一瞬のうちに生じて、その内容が明確に認知されずに行動に影響する感情的な反応」が生じて行動や発言に影響を及ぼしていたからかもしれません。「想」を「一瞬のうちに生じて、その内容が明確に認知されずに行動に影響する感情的な反応」と仮定すると、過去の不快な経験により記憶された「過去の出来事とそれによって引き起こされた感情と、そこから形成されたものごとの判断基準としての信念」が呼び起こされて行動に影響を与えると考えると、「非農的な自動思考」よりは深層にある「非機能的な中核信念またはスキーマ」によって引き起こされる、ととらえることもできるように思います。「想」が生じたことを感じ取ることができて、その内容を知ることができるようになると、「非機能的な自動思考」よりも深い心の領域にあるスキーマや信念を明らかにすることができる、ということになります。また、「一瞬のうちに生じて、その内容が明確に認知さずに行動に影響する感情的な反応」が、危険を回避したいというものであった場合、記憶を蓄える海馬の先にある、『危険を察知するための情動である恐怖の情動と深く結びついている』偏桃体による(大脳による処理を経ていない)反応であると理解してよいかもしれません。(『』内 改定親版人格心理学 大山泰宏さん NHK出版 より引用)歩行の瞑想に集中することは、視覚、聴覚や嗅覚などの刺激にさらされても、そちらに意識を向けない、という訓練になりますから、見たい、知りたい、考えたいという瞬間的に発生した感情的な反応を制御することになります。脳の機能として、感情的なはたらきは大脳辺縁系が担い、理性的な情報処理は大脳が担うとされていますから、「見たい、知りたい、考えたいという瞬間的に発生した感情的な反応を制御」して「感情的な反応をおさえ」ることが、大脳辺縁系の活動を抑制し、大脳が働くリソースを確保する、と考えると、大脳の前頭前野は『視覚情報の制御と処理、短期記憶(作業記憶)の貯蔵、感情の制御、行動の計画と企図などが担われているほか、脳のそれぞれの分野の情報を統合することがわかってきており、自我あるいは意識の座とも言われている。』ので、「意志を強くすること、自己効力感の増大につながる」という理屈には一定の説得力があるように思います。(『』内 改定親版人格心理学 大山泰宏さん NHK出版 より引用)また、後に紹介しますが、釈迦は「身体に向けた注意」、つまりヴィパッサナー瞑想によって、期待できる利益の一番に、好き嫌いの克服、2番目に恐怖心の克服と説いています。「瞬間的に発生した感情的な反応を制御」することで、感情的な反応を抑える訓練(偏桃体を中心とする大脳辺縁系の活動を抑制する)、大脳による情報処理(前頭前野による感情の抑制、行動と計画の企図などを担う)を促進すると仮定すると、感情に突き動かされるのではなく、合理的な検討を経た行動、つまり意志による行動が促進されると考えられる余地はあるでしょう。「瞬間的に発生した感情的な反応の制御」が、なぜ意志の強化や自己効力感の増大といった効果をもたらすのか、ということを理解するためには、人は瞬間的に欲求(愛着)を生んでしまうという釈迦が認識した「人の認知のしくみ」を理解するとよいでしょう。釈迦がとらえた「人の認知のしくみ」である「五取蘊」を簡略化して説明すると、人は五感が刺激を感受して意識が働くと、物体としての体や、認識の各段階である色、受、想、行、識(器官⇒感受⇒表象⇒意欲⇒識別)に愛着が発生し、愛着が発生することに気付かずに、喜びを感じたり怒りを感じて行為すると、その愛着はますます強くなって、その結果として苦悩をもたらす認識方法が強化されるよね、だから自分の認識をよく観察して、愛着が発生しないようにすれば、苦悩の発生原因をなくすることができるよね、というものです。(春秋社 原始仏典第7巻 第148経 「六六経」)このような「人の認知のしくみ」を前提にすると、歩行の瞑想や呼吸を観察する瞑想によって、感覚⇒知覚⇒認知⇒判断に対する観察力を養うと、この「物体としての体や、認識の各段階である色、受、想、行、識(器官⇒感受⇒表象⇒意欲⇒識別)に愛着が発生」することに気付くことが出来るよ、気付くことが出来ればそれを防ぐことが出来るよね、ということになります。歩行の瞑想は、屋外でおこなうため、室内で行う「呼吸を観察する瞑想」と比べて、視覚、聴覚や嗅覚などに対する刺激にさらされることが多く、それらに刺激されて歩行への意識の集中がそれたときに、「その時に何を感じたのか、という」自分の体験を通して、釈迦が到達した「人の認知のしくみ」の理解を深める契機ともなります。※執着の対象としての「五蘊」が「五取蘊」です。)朝晩行います。最低でも10分~15分くらいは必要です。最低でも10分~15分くらいは必要な理由は、リラクゼーション効果を目的とした場合でも、呼吸が安定してリラクゼーションが感じられるまでに、10~15分はかかるからです。ちろん個人差があります。時間が取れるなら45分~60分くらいを目指すとよいと思います。瞑想は、できるだけ空腹時に行ってください。その方が腹式呼吸が容易になりますし、体の感覚も感じ取りやすくなります。就寝前に行う場合は、眠くなったら瞑想を止めて寝てください。眠けを乗り越えて、サマディー状態に入ると、眠りが浅くなります。出家者の方の修行であれば、眠いなどと言ってはいられないのかもしれませんが、出家者でない私たちには、明日の仕事ややるべきことがありますから、睡眠に入るきっかけ(眠くなること)を逃すことは避けるべきです。健康のためには、良質な睡眠の確保を心がけてください。良質な睡眠をとった翌日の方が瞑想の質は高まります。集中力が高まっていることは、「耳が聞こえなくなる」体験をすることで確認できます。完全に聞こえなくなるわけではなく、近くで聞こえていた音が、突然遠くの音のように感じられるようになります。ワールポラ・ラーフラ師が書かれた、英語圏で一番読まれているという仏教概説書の日本語訳「ブッダが説いたこと」(岩波文庫青343-1)にも、そのような記載があります。私自身も経験しました。現在では、カッチッと、しずかにスイッチがはいった感覚で感じ取れます。さらに継続すると、姿勢が安定し、安定的に深い呼吸ができるようになり、姿勢の維持に必要な筋力以外の筋力の力(力み)を抜くことが出来るようになります。そして、体全体の感覚や、部分的に緊張が生まれた(力がはいった)ことが、ありありとリアルタイムで経験できるようになると、集中力の高まりと、リラクゼーションを経験することができます。この状態になると、次のような釈迦や、マインドフルネスの指導者による説明が体感的に理解できるようになります。「〔身体という〕世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識して、注意しながら、身体を身体として観察しているのである。」(春秋社 原始仏典第7巻 第118経)「マインドフルネスとは意図的に、今この瞬間の体験に、判断を加えることなく注意を向けることである」(カバットジン)「マインドフルネスとは注意の領域に生起してくる一つ一つの思考、感情、感覚がそれとして認識され、ありのままのあり方で受け入れられるような、判断を入れず(non-judgemental)、現在の瞬間に中心をおいた(present-centered)、気付き(awareness)である」(Bishopetal 2004)「マインドフルネスとは、受容(acceptance)を伴う、現在の経験への気づきである」(Siegel 2010)(カバットジン~Siegel 2010まで、マインドフルネス ー基礎と実践ー 日本評論社より)UCLAでも取り入れられているそうです。(「世界のエリートがやっている最高の休息法」久賀谷亮さん ダイヤモンド社)この瞑想を行うこととした場合、この瞑想も椅子に座って朝晩行います。この瞑想でも、「呼吸の訓練」によって呼吸を安定させること=長めで深い呼吸が穏やかにできること、が前提になります。一般に言われている「慈悲の瞑想」(定型版)は、四無量心の瞑想の簡略版です。簡略版は、マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)導入時に、集中力を上げるサマタ瞑想として行うことが推奨されています。本来のやりかたは、四無量心と言われる下記の4つから、どれか一つを選んで行います。「慈無量」慈しみの心を養う(自らに優しくする心を養いそれを他者にも向ける)「悲無量」憐みの心を養う(自らの悲しみの克服を願いその願いを他者にも向ける)「喜無量」喜びの心を養う(自らの内に喜びを育て他者にも喜びを願う)「捨無量」心の平静を妨げるこだわりを捨てる自分の中に生み出せない心は、育てられませんから、どれか一つ、自分の性向に合致していて、効果があがるものを選択して行います。「慈しみ」が一番取り組みやすく、「捨」が一番難しいとされています。サマディー(心の集中状態)の到達点「第三禅」では、「喜」を離れて、心の平静を得るようです。(春秋社 原始仏典第2巻 第22経)出家者でない方は「捨」には取り組まない方がいいでしょう。「喜び」の瞑想は、日常的に、些細なことで、たとえばうまくできた、と感じて、心が軽くなった瞬間の気持ちを記憶しておいて、それを瞑想の中で育てることだとらえればよいと思います。認知行動療法の思考記録表は、「非機能的な自動思考」の生起による「気分の低下」を察知して、「非機能的な自動思考」の内容を明らかにして、修正を行いますが、その反対のこと、つまりポジティブな感情をとらえて、瞑想の中で育ててゆくことと考えればよいと思います。ただし、「喜び」の瞑想は、瞋性という性格に該当する方はできない(取り組まない方が良い)とされています。「セルフコンパッション」という、自分に優しくし、必要以上に厳しい態度を取らないことで、気分の低下を防ぐという方法があります。たとえば「自分に対して厳しく、ネガティブなとらえ方をする傾向がある」「他者の自分に対する考えが気になって不安を感じる」方は、「呼吸を観察する瞑想」に代えて、「慈しみ」の瞑想を行うとよいと思います。この場合、「慈しみ」の具体的な内容は、ご自身の考え方や物事の受け止め方を理解したうえで、自分に優しくできるようになってゆく内容であることが必要です。「慈しみの瞑想」について、私の事例でご説明します。心理カウンセリングの講座の中で、自己理解が一番難しくかつ重要であると、繰り返し繰り返し指導されました。日常生活で、些細なことでも、うまくいかない出来事に遭遇したとき、自分に対して「失敗した」と半ば無意識につぶやいていたり、舌打ちしたりなどに気付くことで、自己理解が一番難しくかつ重要であることを実感しました。なぜならば、このようなとらえ方や行動は、「自分がしたことを自分で正確に理解せず」、「自分で自分を攻撃していた」ことになるからです。つまり、自分がしていることを「自己理解」していなかったのです。「自分がしたことを正確に理解せず」、とは、手順を間違えた、または本来の手順を飛ばしたために、自分が期待した結果にならなかった、という事実を認識することなく、失敗したと、きわめて大雑把に、感情的に反応していただけだった、からです。「自分で自分を攻撃していた」、とは、「失敗した」となかば無意識につぶやいていたことや舌打ちしていたことです。カウンセラーの、自分自分に対する態度や行動は、クライエントへの共感や理解の仕方、かかわり方(かかわり行動といます)にも影響します。そのように考えると、カウンセラーは、自分の態度や行動を「自己理解」して、自分に対する不適切な態度や行動を改善してゆくことが極めて重要になります。それゆえ、自分を「やさしくていねいに注意深く見てゆく」という態度、自分を「やさしくていねいに注意深く扱ってゆく」という行動を養い、その態度と行動を、他者(クライエント)に向けてゆけゆくことを意図して、「慈しみ」の瞑想を行っています。「慈しみ」の瞑想は、自分自身を慈しむ心(心理的な態度)を育てて、その心を他者にも向ける瞑想です。「慈しみ」の瞑想は、アサーショントレーニング(主張訓練)と併用すると、良好な対人関係を築くことにも役立つと思います。ということは、結果として、あなたの印象や話し方の改善を通じて、お見合いや交際においても良好な対人関係を築くことにも役立つだろう、ということがいえそうです。アサーショントレーニング(主張訓練)は、自分の考えを尊重し、他者も尊重しながら、自分の意見を効果的に主張する(伝える)訓練です。一見無意味と思われるようなことをするので、効果が実感できないとバカバカしくなって、やりたくなくなります。人間は、意味やメリットを感じないとなかなかやる気になりません。最初は、「無意味なことに一生懸命集中すると集中力が養われる」と割り切って継続するしかないと思います。集中力をつける訓練をしないと、マインドフルネス(瞑想)は進展しません。集中することが瞑想の中核的な効果を生み出します。なので、脳の筋トレ、認知能力の筋トレと考えてください。見ているだけ、理解しているだけでは筋トレになりませんよね。筋トレは、見方を変えれば、「今ある筋力の発揮」です。「今ある筋力を発揮する」から、筋力が維持され増強されます。瞑想の筋トレは、集中力の養成=「今ある集中力を発揮する」つまり、歩行や呼吸の観察に集中することから始めます。「使う筋肉は発達する、使わない筋肉は衰える」のと同様に、マインドフルネス(瞑想)は、「今ある集中力を発揮する」ことによって、集中力を養うことによって、脳の情報処理方法を改変することにつながると考えています。加賀谷亮さんが書かれた前掲書「世界のエリートがやっている 最高の休息法」(ダイヤモンド社)には、マインドフルネスによる脳の機能の変化についての研究が紹介されています。また、日本評論社 「マインドフルネスー基礎と応用ー」には、心理療法分野でのマインドフルネスの活用や効果が紹介されています。研究は、「マインドフルネスをやった人」と、「マインドフルネスをやらなかった人」の比較で行われますが、ご自身で取り組まれる方は、他者との比較ではなく、「マインドフルネスをやる前の自分」と「マインドフルネスに取り組んでからの自分」に、どのような変化があったか、という観点でとらえてください。「マインドフルネスをやると、ほかの人よりも、○○の能力が上がる」と考えたり期待したりするのは、マインドフルネスの効果の発現を阻害します。瞑想経験者は、瞑想を通じて、ああこうなるのか、という「変化の体験」をとおして、瞑想の効果を理解してゆくのですが、当然これから始めようとする方には、「体験」がないので、この方法では理解はできません。理解できないとやりたくなりません。これは「概念的な理解力を養っている」現代人には致し方ない側面ではあります。それゆえ、「マインドフルネス瞑想法」によるストレス対処プログラム(MBSR)をつくりだした、カバットジンさんは、「マインドフルネス瞑想法」に、これから取り組む人に対して、こう言っています。①自分で評価をくださないこと②忍耐づよいこと③初心をわすれないこと④自分を信じること⑤むやみに努力しないこと⑥受け入れること⑦とらわれないこと(「マインドフルネスストレス低減法」北大路書房)しっかりとマインドフルネスの効果や機序(メカニズム)を理解して、やるかやらないか考えますよ、というのは、「概念的な理解力を養っている」現代人にとっては、もっともな戦略です。効果や機序(メカニズム)は、ある程度は説明できますが、瞑想により観察力が高まった状態で、自分の感覚や心を観察した時に初めて、ああそいうことか、と理解できるものです。それゆえ、説明しきれない部分があります。瞑想の機序を理解するヒントになるのは、釈迦の解説、つまり阿含経に説かれた瞑想についての記述であろうと思います。しかし、釈迦の方法論は、高次の、不可逆的な覚醒状態(悟り)に至った釈迦が、覚醒状態(悟り)に至っていない弟子たちに対して、不可逆的な覚醒状態(悟り)に到達できるように、①瞑想の前提となる「人の認知のしくみ」②「このようにしてみなさい」、そうすると「こうなる(苦悩からの解放)」から、「自分でやってみて確かめなさい」という方法論で説いたものであったようですので、「人の認知のしくみ」と「このようにしてみなさい」と「こうなる(苦悩からの解放)」の間のメカニズムは、「自分でやって、なるほどこうなるのかと確かめ」ることになります。自分でやってみて、ささいなことであっても、変化を自分で感じる、ということが、マインドフルネスの本質であると感じています。
一言でいえば、私は「自己探求のツール」であると思っています。ここでは「自己探求」という観点から「何が得られるのか?」、ということをお話します。一定の集中力と観察力(自分の体、感覚などに対する感受性)が養えれば、自分の行動の前に、外部からの刺激をうけて、自分が一瞬のうちに想像したこと(イメージ)、を知ることができるようになります。「外部からの刺激をうけて、自分が一瞬のうちに想像したこと(イメージ)」を知ることができるようになると、自分の感情の悪化や、「言わなきゃよかった」とか「しなきゃよかった」という行動を回避することができます。「外部からの刺激をうけて、自分が一瞬のうちに想像」する心のはたらきを、「想」と言います。「想」につづいて生まれる心のはたらきが「行」です。「行」は、「想」によって刺激された「こうしよう」「こうしたい」という意欲と、その意欲によってもたらされる行動です。「行」によって、「言わなきゃよかった」とか「しなきゃよかった」といった認知が自覚されれば、さらに「想」がうまれます。さらにうまれた「想」を、「行」によって、言葉にしてみたら「嫌われたかもしれない」ということであったりするかもしれません。人はどうやら、言語で明確に認識する前に、一瞬のうちに、イメージによって事態を把握もしくは推測しているようなのです。「想」も「行」も、ヴィパッサナー瞑想の基礎となる、釈迦がとらえた「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」です。認知行動療法に置き換えれば、「想」は、「非機能的な自動思考」になります。「行」は、気分の低下を察知して「私は今何を考えただろうか?」と自問(意欲+行動)して、「非機能的な自動思考」の内容を「知る」こと「修正」することです。ヴィパッサナー瞑想の方法論によって、自分の心と体の感覚(感受または受といいます)に対する観察力を養うことで、認知行動療法の認知再構成のための、「気分の低下」の察知が容易になります。さらに、心の平静と集中が実現できると、自分の心の状態(思考や感情ではありません)を観察して、自分の感じ方に影響している過去の出来事の解釈、やその時の感情の記憶に到達し、悩み苦しみを無くすヒントを得ることができます。そもそも釈迦が苦悩を滅するために自分の心を観察することから、生み出された瞑想法なのですから、しっかりやればそうなるのは自然です。これはあまり期待してもらうと逆効果(瞑想の仕組みから、強い願望を持つとうまくゆかない仕組みになっています)なのですが、瞑想には、心を落ち着ける(思考をいったん止めて、感情が刺激されないようにする)ことによって、脳の情報処理を促進する効果があるように思います。よく、ぐっすり眠った次に日には、昨日悩んでいたことが「なんだったんだろう」ってこともありますよね。脳がキチンと情報処理をしてくれたことになります。瞑想によって、それに加えて、「ああそういうことか」とか「こうすればいいんじゃない」ってのが出てくる確率が高まります。体の動きや感覚などの瞑想対象に意識を集中することを一定時間続けると、「想像の世界」に入り込むことが少なくなります。ここでいう「想像の世界」とは、すでにご説明している「想」が活性化している状態です。そして、この「想」がネガティブなものであった場合には、たびたび引用させていただいている大野裕先生の「想像は現実よりもずっと苛酷です。空想の中では、現実以上の状況が広がります。」という状況をもたらすこともあります。(「初めての認知療法」講談社現代新書)大野先生の言われる状況は、心の働きによって生まれる、『ネガティブな「想」に執着している』状態、と考えられます。釈迦のとらえた「人の心のはたらき「人の認知のしくみ」では、「生じては消えてゆくものに喜びを見出し執着を感じれば苦悩の原因を生み出す」という心のはたらきによって、『ネガティブな「想」に執着している状態』と考えます。人はネガティブな「想」、自分を苦しめる「想」であっても、「想」を生みだすこと自体に執着してしまうようです。このような状態を、アルボムッレ・スマナサーラ先生はこのように記述しています。「想」を「妄想」と「概念」と置き換えて説明されています。」「妄想の回転は苦しいものです。生きる力がなくなるのです。好きなことばかりを妄想することはできません。頭の中で勝手に概念が回転します。悪い概念が回転し始めたら、どんどん苦しくなってゆくのです。昔の失敗を考えると、受けた被害を考えると、過去の苦しみが再現されて人を苦しめるのです。これを知っておいても、概念の勝手な回転をストップさせることはできません。この苦しみから逃れられないのです。」「概念の回転も自然法則なので放っておけばよいのです。」(以上「大念処経」サンガ より)ヴィパッサナー瞑想では、このような時には、『ネガティブな「想」に執着している』ことを知って、『ネガティブな「想」に執着している』ことを手放す、「放っておく」ということを心がけます。自分の体の動きであっても自分の体の感覚であっても、瞑想対象に集中している時には、「想像の世界」は思考から排除されますから、自分の体の動きや自分の体の感覚に集中することによって『ネガティブな「想」に執着している』ことを手放すこととなり、また手放す訓練にもなります。「現実よりもずっと苛酷」な「想像」「空想の中」にいると気付いたら、自分の体の動きや感覚に意識を向けることを、一定時間行えば、「想像」「空想の中」から脱出するきっかけになる、ということになります。「想像」「空想の中」から脱出できれば、現実的な解決策を考えることもできるようになるでしょう。続編「マインドフルネス何をするの」: https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/161710/ その理由は、ヴィパッサナー瞑想が、①しっかりとやれば効果が強力なこと②2600年前から「出家者が解脱に至るための瞑想法」として最適化されて現在に至っているため、私たちがそのままやるにはやや不適な部分がある②について、私の考えを説明します。出家者は、釈迦の方法論によって「離欲」を実現して悟りに至っても、その生活に支障はないでしょう。安心して修行に専念できます。しかし、労働して自らの生活の糧を稼ぎ、自己の価値観に基づく生き方や自己実現を目指している人々、つまり「欲望」の刺激によって成り立っている市場経済の中で、自己の生き方を追求するという「欲望」をもって生きている人々に対して、出家者と同様の「離欲」による、苦悩からの解決を求めるのは相当な困難を伴うと思われるからです。もちろん、選択肢としての「離欲」や「非我」という方法の提示はよいとしても、「離欲」に至ることや「非我」を徹底することが必要、と説くのは、私たちにとっては「非社会的」な行為だとさえ、私には思われるからです。「離欲」に至ることや「非我」を徹底するところには、自己の価値観に基づく生き方や自己実現という考え方からも離れることを意味するでしょう。つまり、本来、仏教(テーラワーダ仏教)は、「出世間の教え」であり、出家者において実践されるべきもの(釈迦は自らの教えを実践し、受け継ぐためには、もっぱら修行に専念できる出家者でなければ難しいと考えたのでしょう)であると考えられるからです。もちろん、「離欲」に至ることや「非我」を徹底することが、個人の自由な選択の結果、選択されたものであれば全く問題ありません。そのように考えるので、テーラワーダ仏教の瞑想法が、苦悩の解消に役立つのであれば、宗教的な修行とは別に、苦悩を解消するための「自己探求のツール」として活用できるのであれば有用だろうと考えています。私はこの立場ですし、そのような目的のために瞑想を続けてきました。上記のように考えた場合、マインドフルネスは、仏教瞑想に源流を持つものの、現代人に最適化された瞑想、と位置付けられるように思います。マインドフルネスは、カバットジンさんのマインドフルネス瞑想法、マインドフルネスストレス低減法、それに続くマインドフルネス認知療法が効果を上げたことによって、心理療法分野での関心が一気に高まったようです。また、関心の高まりとともにマインドフルネスについて、神経科学や脳科学分野からの研究も盛んになっているようです。それらの関心の高まりや研究を背景に、企業内能力開発への応用や、テーラワーダ仏教の「慈悲の瞑想」による「コンパッション」、「マインドフルな態度」ということが、さかんに喧伝されるようになったようです。ヴィパッサナー瞑想と比較すると、一般的なマインドフルネスの理解は、「自己の思考との付き合い方の態度」訓練的な、かなりマイルドなものである印象があります。。このブログでは、認知行動療法との併用でマインドフルネスをご紹介しているので、ジュディス・ベックさんの「認知行動療法実践ガイド:基礎から応用まで第3版」(星和書店)から引用してご紹介します。『専門家のコンセンサスが得られたマインドフルネスの定義の一つに「開かれた姿勢、受容し、好奇心のこもった眼差しをむけつつ、目の前の体験に注意を向ける(Bishopetai.2004)」がある。』『マインドフルネスは、思考との付き合い方を変える手助けをしてくれる。』批判的なわけではないのでご注意いただきたいのですが、Bishopさんの定義は、西欧のロゴスの伝統の基礎の上に立つものとの印象があり、概念による把握への信頼性、「概念化」を強く感じます。このブログでたびたび引用させてもらいますが、エヴァン・トンプソンさんは、マサチューセッツ州での、ヴィパッサナー瞑想のリトリートに参加した時のことをこう語っています(「仏教は科学なのか 私が仏教徒ではない理由(日本語版2024年)」(Evolving))。「しかし、リトリートの時にずっと次のようなことを考えないわけにはいかなかった。それは、自分の中で起きていることは、「ものごとをありのままに見ることを学ぶ」という表現とは嚙み合わないということだ。私たちには、瞑想実践のときの経験を言い表すための概念体系があらかじめ与えられていた。それは「感覚」「感情」「注意」「意志」など、表面だけ見れば日常的な概念だったが、実際には「刹那主義(momet-to-momentarising)」「無常(impermanence)」「正念(mindofulnes)」「非我(not-self)」「業(karma)」と言った仏教的な概念とも結びついていた。(中略)時折、先生方との面談がグループあるいは個人で組まれることもあったが、それらの面談もこの概念の枠組みを強化した。」エヴァンさんの感想をもって、マインドフルネスの隆盛が、仏教モダニズム(エヴァンさんが批判対象としている欧米での仏教ムーブメント)の中に位置づけられれる、とは言いませんが、マインドフルネスも仏教モダニズムも、「概念化」という方法論を採用している点では共通するようです。テーラワーダ仏教が、ヴィパッサナー瞑想は「ものごとをありのままに見ることを学ぶ」という標題を掲げながら、アメリカの人々により浸透しやすいように、テーラワーダ仏教の教理の「概念化」による教化、という戦略を取っているのかもしれません。心の状態やはたらきは、他の人に見せることができないので、修行に専念できる出家者ではない方(より多くの時間が取れない方)に、マインドフルネスを説明し、指導するには「概念化」は効果的な方法とおもわれますから、Bishopさんのような定義はもっともなものです。一方、ヴィパッサナー瞑想の根本経典の一つとされる「大念処経」での、釈迦の説法のスタイルは概念化とはかなり無縁です。「こうなるためには、こうする必要がある、そのやり方はこうである、それをすると、こうなることを知り理解するだろう、それを知り理解したらこうすればよい」そこにいたるには、こうすればこうなる、やってみなさい、というスタイルです。釈迦は、「人の認知のしくみ」としての「法」と、その認識に至る瞑想方法は説きますが、それについての解釈やとらえ方は、各人に任せられている。私は、釈迦の方法論を、そのように理解しています。それゆえ釈迦の方法論を支持し、「仏教モダニズム」の「概念化」による教化、という方法論にはやや違和感を感じています。釈迦は、教えは説くが、その教えは各人がつかむべきもの、と考えていたと私はとらえていますし、そのように考えれば、概念によって説明し、概念によって教導しようという方法論は必要なくなるでしょう。しかし、釈迦の後継者たちは、一生懸命、釈迦の教えを「概念化」し、自分たちの理論的な基盤としての教理をつくりあげた、というように感じています。そして布教する側の人たちが、私たちは釈迦の説く方法で悟った人であり、釈迦の説く真理を体現している、だから悟っていない人々を悟りへ導くのだ、と考えていると仮定したら、「概念化」による教導は、効果的な手段になります。「概念化」による教導は、「自己探求」にはつながりませんので、私は推奨しません。続編「マインドフルネス何をするの」: https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/161710/ 「マインドフルネスってそもそもなんなの?」ってことを押さえるために、少し、マインドフルネスの源流と展開を見ておきます。大きくは、2つに源流が求められるようです。①東南アジアのテーラワーダ仏教の修行法である「ヴィパッサナー瞑想」②日本の「禅」マインドフルネスは、アメリカでは大人気なようですが、そこには、仏教を科学的なものであるとする、テーラワーダ仏教の「仏教モダニズム」活動が影響を与えているようでもあります。マインドフルネスという言葉は、イギリス人のRhys Davidsさんという方が、1881年にパーリ語の「Buddhist Suttas」を出版した際に、パーリ語の「sati」サティに、英語訳として「マインドフルネス」という言葉をあて、「sammāsati」(漢語訳「正念」)に「rightmindfuless」とされたことことに由来するようです。Rhys Davidsさんが翻訳したのは、インドからスリランカへ、スリランカから東南アジアへと伝来したテーラワーダ仏教が正典とする、インドの地方言語パーリ語で書かれた阿含経です。テーラワーダ仏教は、日本に伝わった仏教とは別系統の仏教です。釈迦の教えを聞いた弟子たちが、釈迦の教えを口承で伝承し、後に文字化されて今日に伝えられているとされるものが、阿含経です。テーラワーダ仏教で、修行のために行う瞑想法が、ヴィパッサナー瞑想ですので、「sammāsati」(漢語訳「正念」)に対する「マインドフルネス」という言葉は、ヴィパッサナー瞑想に由来するということになります。時代は下って1954年に、テーラワーダ僧であった Nyanaponika Thera さんが、「仏教瞑想の核心―マインドフルネスに基づく精神修養」という本で、仏教瞑想の中心にマインドフルネスを位置づけ、マインドフルネスは「正念」そのものではなく、「最小限のありのままの注意」「bareattention」であると解説したことから、その後、西洋では、マインドフルネスを「ありのままの注意」とする見方が広がり、仏教瞑想に関する多くの著作の中で仏教瞑想の本質は、マインドフルネスにあるとされるようになったそうです。(日本評論社 マインドフルネス-基礎と実践- 菅村玄二さん「マインドフルネスの意味を超えて―言葉、概念、そして体験ー」より)。Nyanaponika Thera さんの背景にも、「仏教モダニズム」と言われる活動があったのかもしれません。エヴァン・トンプソンさんは、「仏教は科学なのか 私が仏教徒ではない理由(日本語版2024年)」(Evolving)の日本語版序文でこのように語っています。「西洋における多くの仏教指導者たちは、現代版の仏教徒の瞑想実践を教えることで仏教を紹介し、「仏教はもっとも科学に親和的(sciencefriendly)な宗教である」と語ったり、「実際のところ仏教はまったく宗教ではなく、むしろ哲学的であり、生き方であり、あるいは特別な内観による心の科学に基づいたセラピーなのだ」などと語っています。」「私の関心は現代の西洋世界における仏教モダニズムにあるのですが、仏教モダニズムの起源は十九世紀、二十世紀のアジアに存在するということを理解するのは重要です。つまり仏教モダニズムは、奇異な西洋版の仏教というわけではないのです。私は主に、その起源がスリランカとビルマにおける現代のヴィパッサナー瞑想運動の形式のなかにあったと論じています。それらの運動は、仏教を合理的で経験的な心理学の一種として提示する傾向があるのです。」エヴァ・トンプソンさんの上記のお話に接すると、テーラワーダ仏教のお坊さんが語る仏教観、「(テーラワーダ)仏教は宗教ではなない。なぜならば釈迦が説いた通りの方法で瞑想に取り組めば解脱に至ることが証明できる、釈迦は真理を説いたのだ。証明できなことを信仰しなさいというのが宗教だから、仏教は宗教ではない。」という論理を展開する背景には、どうやら「仏教モダニズム」がありそうだ、との理解に至ります。「仏教モダニズム」により、なんとなく私がテーラワーダ仏教に抱いていた違和感に納得がゆきました。私が感じていた違和感を「仏教モダニズム」への理解を加えて表現すると、テーラワーダ仏教は「科学との接近によって、釈迦の方法は証明できるのだから宗教ではない、釈迦は真理を説いた、ゆえに仏教は他の宗教と異なる、という布教戦略を取っていたのだ」、ということになります。また私は、テーラワーダのお坊さんの説くこと=釈迦の説いたこと、という理解はもっていません。テーラワーダのお坊さんの説くこと=釈迦入滅後テーラワーダが作り上げた釈迦の説いたことの解釈、と理解しています。「仏教モダニズム」によって、テーラワーダ仏教は、科学と瞑想を結びつけることで、釈迦が説いたことは真理、私たちは釈迦が説いた真理に基づいて悟った者、だから私たちは真理を説いているのです、という構図を作ろうとしているように感じます。また、マハーシ・サヤドーさんによる瞑想センター開設も、「仏教モダニズム」の流れの中から実現したことかもしれない、とも感じるようになりました。エヴァ・トンプソンさんの論考に接した時に、下記に引用する、馬場紀寿先生が記述する、上座部大寺派の戦略、経営戦略でいうところの、大乗に対する「差異化戦略」、むしろ「排除戦略」と言った方がいいかもれない戦略と同様のことを、テーラワーダ仏教は、現代社会に通用する方法として、他の宗教に対して、仏教は科学的という「差異化戦略」として、行っているのではないかと感じました。(「初期仏教 ブッダの思想をたどる」岩波新書1735)「後四世紀頃、上座部大寺派は『島史』という史書を編纂した。『島史』が創造した歴史によれば、スリランカの大寺(マハーヴィハーラ)こそが、ゴータマ・ブッダが降臨した聖地であるという。また、大寺には、結集された仏説が完全な形で伝承されているとする。さらに大寺は、世界最初の王であるマハーサンマタ王(参照先省略)の末裔にして釈迦族の血を引く王によって設立されたというのである。」(中略)「こうして史書により作られた歴史観に立って、五世紀前半、上座部大寺派は、パーリ三蔵の正典化を完了し、大乗仏典を「非仏説」として排除する教理的根拠を作り上げた。ブッダはパーリ語で話したのであり、三蔵という正典は、パーリ語でこそ伝承されるべきだという主張をした。」上座部大寺派が現在の、テーラワーダです。現在では、私たちでも理解できるパーリ語正典の日本語訳が、春秋社と大蔵出版から刊行されています。大蔵出版は、片山一良さんがお一人で訳しているそうです(大仕事だと思います)、春秋社版は、ベテラン若手混合で訳しているようです。Rhys Davidsさんがパーリ語正典を英訳してから約120年、日本にも優秀な若手研究者・翻訳者が育っているようです。大乗仏教の国の日本では、あまり日が当たらない仕事かもしれませんが、世界に誇っていい仕事だとおもっています。いずれも底本は、Rhys Davidsさんらが、1882年に設立したパーリ文献協会(ThePaliTextSociety)から出版されている阿含経のようです。禅に取り組んだJ.カバットジンさんが、「マインドフルネス瞑想法」を創始しました。「カバットジンは1979年に、マサチューセッツ大学医学部の中にマインドフルネスに基づくストレス低減プログラムを実施するセンターを開設し、初期は医学的治療が困難な慢性疼痛の対処法として成果を上げて来た。それ以来、徐々に適用範囲を広めて、乾癬や高血圧などの心身症的疾病に適用したり、過食などの食行動の問題や、不安、パニック障害などの心理的な問題も扱い検証してきた。」カバットジンさんの「マインドフルネスに基づくストレス低減プログラム」は、集合研修と自宅実践を組み合わせた8週間のマインドフルネス・トレーニング・プログラムです。この方法が、マインドフルネスストレス低減法(MBSR)となりました。「1995年以降は、ストレスクリニックは、マサチューセッツ大学のマインドフルネス・センター(CenterforMindfulnessinMedicine,Health Care,andSociety:CFM)の中に位置づけられています。マインドフルネス・センターでは、学校や企業に本プログラムを提供したり、医学上の問題を抱える患者に実施したり、専門家の育成にあたったり、継続的な研究を行ったりしています。」(「マインドフルネスストレス低減法」 J.カバットジン 春木豊さん訳 北大路書房)カバットジンさんはこのように言っています。『「マインドフルネス瞑想法」は、″注意集中力″を高めるためのトレーニングを体系的に組み立てたものです。これはアジアの仏教にルーツを持つ瞑想の一つの形式を基本としています。注意を集中するということは″一つひとつの瞬間に意識を向ける″単純な方法です。この力は今まで全く意識していなかったことに、意識的に注意を払うことによって高まってきます。つまり「マインドフルネス瞑想法」は、リラクセーション(緊張がゆるみ、安らいでいる状態)や注意力、意識、洞察力をもたらす潜在的な能力を活かして、自分の人生を上手に管理する新しい力を開発するための体系的な方法なのです。」(前掲書「マインドフルネスストレス低減法」)九州大学の安野広三先生は、カバットジンさんのMBSRの機序(メカニズム)についてこのように述べておられます。「ボディスキャンや座瞑想のワークでは、自ら積極的に痛みの感覚に対する暴露を行いながら、なおかつその体験に対して破局的な、認知・情動的反応、即時的な行動を起こさないという在り様が繰り返し訓練される。それを通じて、痛みに対する恐怖などの感情的苦痛や破局的思考、非適応的な行動反応が減少し、痛みに対するアクセプタンスが促進される。また、瞑想の中で移りゆく思考や記憶、感情をマインドフルな気づきのなかで観察することを続けることで、思考や記憶、感情を現実とは区別して、単なる心の出来事してとらえるという在り様(脱中心化)も発展する。それにより痛みに反応しておこるネガティブな解釈や予想、不安や恐怖などを客観的に距離を置いてとらえられるようになり、それからくるネガティブな影響を減少させることにつながる。」(日本評論社「マインドフルネス-基礎と実践-」)カバットジンさんは、自身の禅とのかかわりについて、このように言われています。「1960年代初期に、まだ学生だった私に初めて日本の禅というものを教えてくれたのは、鈴木大拙でした。その後、鈴木俊隆著“ZenMind,Begneer'sMind(初心禅心)”に出会い、本格的に瞑想の精神を探求する道に足をふみいれることとなったのです。十三世紀の偉大なる禅師、道元のすぐれた思想にも大きな影響を受けました。」(前掲「マインドフルネスストレス低減法」鈴木大拙さんは、エヴァン・トンプソンさんの前掲書では、「1952年から1957年までコロンビア大学で教鞭とって」おり、「彼の翻訳やエッセイ、また哲学的な著作は、西洋において今なお大変な人気です。ヨーロッパのロマン主義とアメリカの超絶主義に影響を受けた彼の著作は、禅仏教を一種の合理的神秘主義として、またすべての宗教の神髄であると提示しています。」と説明されています。鈴木大拙さんが、「すべての宗教の神髄であると提示しています。」と主張したことの当否は私にはわかりませんが、宗教家としての自己の依って立つ基盤からは「離欲」出来なかったのかもしれない、との思いが生じます(誤解なさらないでください。「離欲」していないことを批判しているのではなく、また「離欲」すべきと主張しているのでもありません。「欲」があるほうが自然でありノーマルですから。)。また、「禅仏教を一種の合理的神秘主義として」として紹介のであれば、非常に優れた戦略家の一面を感じます。合理的な記述の上に、「神秘主義」をまとわせることで、合理的なものだが私たちの知らなかった魅力的なもの、ということを印象付けることをねらったのかもしれません、意図せずに。中央公論社 世界の名著第2巻「大乗仏典」の付録で、長尾雅人先生がこのように言われています。昭和42(1967)年12月12日、梅原猛先生との対談です。「教団とか宗門というところまではいかないが、たとえばアメリカにおける禅ブームというもの、あれはブームでも何でもないということはいえるけれども、ペーパーバックの本屋を見ると、禅の本が非常に多い。鈴木大拙さんのものももちろんあるが、アメリカ人その他の書いたものがたくさん出ている。これらのものがアメリカ人の心にいろんなものを植えつけているのですよ。それは宗門とか教団とかいう形とはちがうが、しかしかなりの影響力を将来もってくると思いますね。」カバットジンさんが、禅と出会い傾倒された時期と重なります。道元さんは、中国に留学したお坊さんです。中国の仏教は北伝(大乗)仏教なので、ヴィパッサナー瞑想とは異なる系統です。感覚的なお話でしかないのですが、「仏教瞑想の本質=マインドフルネス=ありのままの注意」という文脈の中で、カバットジンさんは、道元さんから学んだ座禅観から、「注意集中」という中核的な方法論を抽出して、世に送り出したものが、マインドフルネス瞑想法ではないか、という印象を持っています。ヴィパッサナー瞑想の「Sati、サティ」⇒「マインドフルネス」⇒「ありのまま注意」という流れの中で、カバットジンさんは、道元さんの座禅から「注意集中」というエッセンスを抽出し、マインドフルネス瞑想法の中心に位置付けたものと思われます。「マインドフルネスストレス低減法が爆発的に心理療法の分野で知られるようになったのは、なんといっても認知療法の分野で著名なティーズデール(J.D.Teasdale)らがこのプログラムを取り入れてうつの再発予防に効果があるということを検証したことがある。」(前掲書「マインドフルネスストレス低減法」)これがマインドフルネスに、A.T.ベックさんの認知療法を統合したものが、マインドフルネス認知療法です。マインドフルネス認知療法は、マインドフルネスストレス低減法と同様に、8週間の集合研修+自宅実践プログラムです。マインドフルネス認知療法は、創始者の1人、J.ティーズデールさんが、アメリカ生まれの仏教僧AjahnSumedhoの講演を聞いたことがきっかけで誕生したようです。「講演中にJhonは、Sumedhoが述べた仏教による苦悩の分析の核心部にあるアイデアと認知療法の基本的仮説の類似性に衝撃を受けた。両方のアプローチが、私たちを不幸にするのは経験そのものではなく、(仏教分析では)私たちの経験との関係または(Beckの分析では)私たちの経験の解釈であることを強調していた。また仏教のマインドフルネス瞑想の中核が思考として(つまり「真実」や「私」としてではなく、精神的事象として)思考として関係していくことの習得を含むことも明白であった。人はこうすることで、自分の行動をコントロールしたり、不幸は心の状態を作り上げる役に立たない思考パターンの影響から自身を解放できるのだ。」(マインドフルネス認知療法原著第二版 北大路書房)。推測になりますが、J.ティーズデールさんは「仏教モダニズム」との接触を契機として、マインドフルネスに認知療法を統合するアイディアを得たのかもしません。そうだとすると、禅を学んだカバットジンさんの「マインドフルネス瞑想法」は、J.ティーズデールさんらのマインドフルネス認知療法において、テーラワーダ仏教との再会を果たしたことになります。マインドフルネス認知療法では、プログラムへの採用は見送っているものの、テーラワーダ仏教の「慈悲の瞑想」に言及されています。(上掲書)「またマインドフルネスの概念は上記の認知療法家たちのほかにも、行動療法の立場からヘイズ(S.C.Heyes)やリネハン(M.Linehan)らもとりあげている。このことはマインドフルネスの概念が心理療法の分野に広く浸透しつつあることをしめすものであろう。」(前掲書「マインドフルネスストレス低減法」)ヘイズは、アクセプタンス&コミットメントセラピー、リネハンは、弁証法的行動療法を創始しています。アクセプタンス&コミットメントセラピー(ACT)について、安野広三先生ご説明を引用します。「ACTは臨床行動分析を基盤として開発された第三世代と評される認知行動療法の一つであり、MBSRとはその発展してきた経緯は異なるが、マインドフルネスの要素や痛みのアクセプタンスの発展を目指すという側面では、基本コンセプトにおいて同様の要素を含んでいると考えられる。」(中略)「慢性疼痛のような当面は避けることのできない痛みの感覚やそれに必然的に随伴するつらい思考や感情をコントロール・回避しようとする努力は、かえってそれらに関連する苦悩を拡大させる。さらに、そのようなコントロールと回避のための格闘に日常の労力と時間を消費し続けることで日々の生活は痛みに支配され、有意義でいきいきとした生活から遠ざかってしまう。痛みやそれに伴う心理的苦痛をありのままに体験することで、それらとの格闘から派生する苦悩の拡大から自由になることができる。そして痛みとの格闘に日々の労力を使うのではなく、痛みがあっても、自分の人生の価値に沿った活動に取り組み続けることに全力を尽くし、価値のある日々を送られるようにすることをめざす。」(日本評論社 前掲書)また、マインドフルネスは、認知行動療法や他の心理療法にも技法として、さかんに取り入れられています。エヴァ・トンプソンさんの「私は認知科学における心や意識の理解を探求し豊かにしてゆくために、瞑想実践と仏教の哲学的心理学を用いることの重要性を強く支持しています。」という考えに私は同意します。(エヴァン・トンプソンさん前掲書)そして、私は、エヴァ・トンプソンさん同様に、仏教徒となることを選択していません。仏教徒でなくとも、釈迦の説いた方法や、釈迦の至った瞑想による境地を知ることはできます。仏教、言い換えれば釈迦の入滅後に発展した仏教教学を知らない方が、かえって釈迦の説くところを素直に理解できるのではないかと思います。例えば、竹村牧男先生は、「実際には、十二項目の縁起を釈迦がはじめから観じたのではないことは明らかである。」(「インド仏教の歴史」講談社学術文庫)とされています。竹村先生の説が正しいとすれば、阿含経の内容を十二支縁起で説明することは、釈迦が説法時には認識していないことを、釈迦入滅後に仏教教団において成立した仏教教学で説明することになります。その場合は、釈迦は明確に説かなかったが、釈迦はこのように考えたのだ、ということになります。お坊さんにとっては、竹村先生の説は誤りで、自教団の教学の方が真理である、という考えになるでしょう。釈迦の説法を、釈迦の説法より後に成立した仏教教学で解釈しているのではないか、と感じることには時々出くわします。釈迦は入滅の直前に、以下のように説いており、釈迦の言う「理法」「法」に、私たちは阿含経の日本語訳を通じてアクセスできますから、瞑想に取り組むに際して、「仏教」や「仏教教学」という枠組みの中で、釈迦の方法論やヴィパッサナー瞑想をとらえる必要はないと思っています。「わたしは内外に隔てなしに〔ことごとく〕理法をといた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は、存在しない。」「向上につとめた人が一切の相を心にとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」(以上 春秋社 原始仏典第二巻 第16経「ブッダ最後の旅ー大般涅槃経」)教え切った、すべてを説いたのだから、後は君たちの努力次第だよ、ということのように感じます。教え伝える対象として出家者を対象とした(そうではなかったかもしれませんが)ものの、釈迦の語ったことは、悟ったものだけが悟りを指導できる、というテーラワーダの考え方とは異なるものを感じます。ヴィパッサナー瞑想の指導者の方は、「Sati、サティ」を「気づき」という意味でつかわれることが多いようです。パーリ語は、行為を表す言語だそうです(アルボムッレ・スマナサーラ先生「ブッダの実践心理学」)から、「Sati、サティ」の解釈についての異同は、『行為そのもの』への注目=「マインドフルネス」⇒「ありのまま注意」⇒「注意集中」と、『その行為によって到達すること』=「知る」気づき」「自覚」という、注目する対象の違いかもしれません。ちなみに日本での「Sati、サティ」の解釈は、「心を一点にとどめて決意することを「念」(sati.Skt.smrti)という。」(春秋社 原始仏典第2巻 大22経「心の専注の確立」大念処経の註)というもののようです。「Sati、サティ」が指し示すところを考えると、瞑想法についての参考になりそうです。ヴィパッサナー瞑想は一般的に、観察瞑想と言われていますが、その内容は以下のようなものだと理解しています。その各段階で、『行為そのもの』としての「Sati、サティ」が必要とされ、「指し示す行為によりもたらされる状態」としての「Sati、サティ」がもたらされるように思います。①集中力を上げて観察する②観察によって知る=気付きを得る③気づきによって自覚する④自覚に基づいて、好ましい行為を実践するヴィパッサナー瞑想は①②③の観察対象が定められており、身体、感受(感覚)、心(の状態)、法(事象)とされています。また①においては、例えば呼吸の瞑想には、集中状態の創出のために、観察瞑想とは別のもう一つの瞑想「集中瞑想」の効果も活用するようです。なぜ、身体、感受(感覚)、心(の状態)、法(事象)と定められているのかというと、釈迦の認知論についての「③気づきによって自覚する」に至るためです。釈迦のとらえた「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」をかなり簡単にいうと、ⅰ.高い集中力でもって身体、感受(感覚)、心(の状態)、観察してゆくならば、身体、感受(感覚)、心それぞれの働きと、それらの働き方の法則ともいえる「法(事象)」が存在するのみであると知るだろうⅱ.人は五感と意識を介することによってのみ外界とかかわる、人の五感と意識を通じた認知する働きは止められないⅲ.その一方で、五感と意識が作り出す感受(感覚)、思考、意欲、識別は、生まれては消えてゆくものⅳ.生じては消えてゆくものに喜びを見出し執着を感じれば苦悩の原因を生み出すⅴ.苦悩の原因を自らの自覚に基づいた行為によって取り除けば苦悩はなくなるというものです。ジュディス・ベックさんは、『マインドフルネスは、思考との付き合い方を変える手助けをしてくれる。』と言っています。(ジュディス・ベック前掲書)ヴィパッサナー瞑想では、感受、思考、感情、判断は生まれては消えてゆくにもかかわらず、それらに喜びを見出し愛着の対象にするから苦悩の原因となることを知り、それらへの執着をなくすことが目指されます。マインドフルネス認知療法は、この考え方を採用し、うつの再発を促すネガティブな「反芻(はんすう)」について、受講者が到達することが目指される「自己の思考との付き合い方の態度」を、「思考は事実ではない」というところに置き、「自分の思考から距離をおいて」付き合うことを目指したものと理解しています。また、ティーズデールさんたちは、マインドフルネス認知療法の開発に際して、「脱中心化」ということを一つの狙いとしています。(マインドフルネス認知療法原著第二版 北大路書房)大山泰宏先生が『「わたし」とはひとつの虚構、おそらくは人類が手にした最大の虚構であるともいえる。』(改定新版「人格心理学」NHK出版)といわれています。『「わたし」とはひとつの虚構』ということを踏まえると、「脱中心化」とは、「くるしい」と主体的に感じ「くるしむ」ことから、Bishopさんらが定義するマインドフルネスの「開かれた姿勢、受容し、好奇心のこもった眼差しをむけつつ、目の前の体験に注意を向ける」(ジュディス・ベックさん前掲書)ことによって、「今、『わたし』はくるしいと感じている」という認知への転換=「『わたし』という虚構を意識せず苦しい感じること」から、「苦しいと感じている『わたし』がいる」という認知への転換、を目指すものだとの理解が成り立ちます。「④自覚に基づいて、好ましい行為を実践する」と聞くと、仏教色を感じるかもしれません。しかし、ここでは自分以外の外部から与えられる「好ましい行為」ではなく、自らが自覚に基づき選択した「自分に苦悩を生み出さない、自分にとって好ましい行為を実践する」という解釈で使っています。自己の苦悩からの解放の手段を外部に求めるのではなく、苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆくことから、マインドフルネスを、「自己探求のツール」ととらえています。一般的に言って「自己の苦悩からの解放の手段を外部に求める」のであれば、宗教は有効な回答を与えてくれるかもしれません。「苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆく」という方法で有力なのは、カウンセリングやセラピーです。「苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆく」のは、あくまでもクライエント自身であり、カウンセラーやセラピストは、「苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆく」援助者です。カウンセラーやセラピストは、1人では困難を感じる「苦悩からの解放策を自己の内に探求してゆく」ことの伴走者、ということです。そのように考えれば、マインドフルネスを、カウンセリングで活用できる「自己探求のツール」、さらに踏み込んで、カウンセリングに代わる「自己探求のツール」と位置付けることが可能であることが、ご理解いただけると思います。そしてまた、仏教徒であることは不要(仏教の概念は、むしろ妨げになるかもしれない)だと考えていることもご理解いただけると思います。ただし誤解しないでください。信仰をお持ちいただくことは個人の自由の領域に属しますから、現に今もっている信仰もまた不問です。「④自覚に基づいて決意し実践する」ことは、釈迦の「行為論」の段階に入ります。釈迦は宿命論や運命論を排し、自分の自覚に基づく「行為」が自分以外の者に影響を与え、その影響が自分に返ってくる、という考えであったように考えています。釈迦は正しい行動、徳行であっても、2種類あると説いています。釈迦の説く「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」を理解すれば、2種類の識別は難しくありません。ただし、釈迦の説く、より好ましい行為を実現するのは、現代社会で労働に従事している私たちは、出家して労働に従事せず修行に専念しているお坊さんたちより、相当に大変かもしれません。もっとも、お坊さんたちも「仏教モダニズム」という活動を通じて、「布教活動」という労働に従事しているととらえられるのかもしれません。以下のようには考えられないでしょうか。ヴィパッサナー瞑想を、心理療法としてとらえた場合には、「釈迦の認知論」は、「心理教育」に該当する「②観察によって知る=気付きを得る」「③気づきによって自覚する」は、認知療法的なアプローチ「④自覚に基づいて決意し実践する」は、行動療法的なアプローチ奇妙に一致している、という話ではなく、「人の心のはたらき」「人の認知のしくみ」を探求してゆくと、苦悩から解放されるには、①「人の心のはたらき」を知って、『「人の心のはたらき」から生み出される認知』をより適合的な(苦しみを生み出さない)ものにしてゆこと、②「適合的な(苦しみを生み出さない)」認知に基づいた行動よって、好ましい結果を生み出し、「適合的な(苦しみを生み出さない)」認知をより強化すること双方が必要、というになるように思います。続編「マインドフルネス何をするの」: https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/161710/
『婚活をたてなおす』(1)では、1.自分をていねいに扱う2.マインドフルネスの考え方3.生き苦しさを感じている場合の対処についてご説明しました。前回『婚活をたてなおす(1)』では、ご紹介していないのですが、メンタル面のたてなおしに関して、比較的取り組みやすく、継続して取り組むことによって効果が実感できる方法として 『認知行動療法』の考え方+マインドフルネスの活用が、あげられると考えています。マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想双方の記載があります。マインドフルネスは、ヴィパッサナー瞑想を説いたパーリ語の経典を英訳した際に、使用された言葉です。その後、マインドフルネスは、欧米圏で瞑想法として発展しました。両者は同じものではないのですが、瞑想としての中核的な方法や効果は重なり合う部分がありますので、説明の文脈に応じてマインドフルネス、ヴィパッサナー瞑想の双方を使用しています。続編「マインドフルネス基礎知識」: https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/160950/ 「認知療法には、日常生活でのストレスを和らげる効果があることもわかってきました。」「ストレスを感じるとどうしても私たちは悲観的に考えがちになって、問題を解決できない状況に自らを追い込んでいくのですが、認知療法では、そうした考え方のバランスをとってストレスに上手に対応できる心の状態をつくっていきます。」「悲観的になりすぎず、かといって楽観的にもなりすぎず、地に足のついた現実的でしなやかな考え方をして、今の問題に対処していけるよう手助けをします。」以上のご説明は、大野裕先生の「初めての認知療法」(講談社現代新書)から引用したものです。認知療法(認知行動療法)は、アーロンT.ベック博士により創始され、うつ病の治療に効果を上げました。現在ではパニック障害、強迫神経症、PTSDなどの不安障害、摂食障害、パーソナリティ障害、双極性障害、統合失調症などの治療や再発予防にも効果があるとされています。認知行動療法は、これらの疾患の方だけでなく、ストレスを感じて、少し悲観的になっている方にも役立ちます。認知行動療法は、メンタル面でのたてなおし効果も期待できそうです。あなたが、「うまくいかなくて、すこしへこんでいる状態」であれば、『認知行動療法』の考え方を学び、マインドフルネスを併用することで、自分で気分の改善に取り組むことは可能です。マインドフルネスは、『認知行動療法』の方法に基づいて、気分の低下を感知したり、気分の低下を招いた思考を特定するためには有効です。マインドフルネスの源流となったとされるヴィパッサナー瞑想は、自分の体の動きや、自分の感覚(心身に起こった緊張や不快感)や心の状態を自ら観察する訓練をします。自分の体の動きや、心身の感覚を観察する訓練を通じて、通常意識しない心と体の感覚を知り、強化された観察力により、自分の中に生まれる思考、思考によって生まれる感情などを感知して、放す、つまり追いかけ続けないことで、苦悩の発生につながる心のはたらきを防止します。認知行動療法では、気分の低下を意識し、気分の低下やその時の状況等を記録します。これをセルフモニタリングといいます。なぜこのようなことをするのかというと、気分の低下が、活力の枯渇、行動の抑制をもたらす、と考えているからです。そのことを前提にすると、活力の増進、行動の促進を図るには、気分の低下を防止し、気分の改善をはかればよい、ということになるからです。気分の低下は「非機能的な自動思考」によってもたらされるため、「非機能的な自動思考」の内容を検討、修正するために「今何を考えただろうか」と自問して内容を確認し、その自動思考の内容が合理的なものかどうか検討して「自動思考」そのものや自動思考を生んだ自分の認知(受け止め方)を修正することで、気分の低下を改善し、行動の促進を図ります。その前提としてセルフモニタリングが必須になってきます。認知行動療法が前提とする、人間の認知のプロセスは、「感情が生起するまえには思考が起こる」というものです。気分の低下に先行して、「非機能的な自動思考」つまり気分の低下を起こすような不快な思考が起こっているのだから、その不快な思考を検証して合理的でない部分は修正すれば、気分の低下は解消できるし、自分の受け止め方(認知)も、より適合的なものかわってゆくと考えます。マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)の依って立つ考え方は、感覚器官が感覚、知覚するとその知覚に刺激されて、人は自由に認知し想像して、苦悩を生み出す、だからそのプロセスをよく観察して、苦悩を生み出さないようにするためには、ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)によって観察する能力を養い、苦悩を生み出す原因を感知して対処すればよい、というものです。つまり、マインドフルネス(観察瞑想=ヴィパッサナー瞑想)と認知行動療法は、似た者同士で相性が良いといえます。後にご説明する、マインドフルネス認知療法の創始者の1人、J.ティーズデールさんは、Sumedoさんというお坊さんの講演を聞き、「仏教による苦悩の分析の核心部にあるアイデアと認知療法の基本的仮説の類似性に衝撃を受けた。」と語っています(マインドフルネス認知療法原著第2版 星和書店)。そもそもヴィパッサナー瞑想を創始したと言われる釈迦の、人間に対する考え方自体が、生きている限り、人間は感覚器官を通じて知覚することを止められない、知覚に基づいて自分が判断すること(=認知)が、自分が知らないうちに苦悩を生む、でも人は知覚することは止められないから、自分の感覚、知覚と認知をしっかりと観察して、気を付けないと知らず知らずのうちに苦悩の元をつくってしまうよね、というものであったと理解しています。釈迦の考え方は、「認知行動療法」と基本的を同じ方向性を持つと言えます。研究者の方の人間の認知に関する説明を引用すれば、「刺激が、感覚→知覚→認知という順番をたどっていくほどに、物理的な刺激の世界から自由度を持つ表象の世界を私たちがつくり上げていく。これは逆に言えば、物理的な刺激の世界から自由度を持つ表象の世界を私たちがつくり上げていくことでもある。」ということになるでしょう(大山泰宏さん 産業カウンセラー養成講座テキストより引用)。釈迦は、『物理的な刺激の世界から自由度を持つ表象の世界を私たちがつくり上げていく』過程で、心地よいと感じるものに愛着をもち、不快と感じるものを嫌い、本来生まれては消えてゆく『物理的な刺激の世界』『自由度を持つ表象の世界を私たちがつくり上げていくこと』に執着するから苦悩がうまれるのではないですか、と説いたように思われます。言い換えると『物理的な刺激の世界から自由度を持つ表象の世界を私たちがつくり上げていく』過程で、自ら苦悩の原因を作り出していることに気付かないのが人間だから、自分の感覚、感知、認知という心の働きを良く観察して、苦悩の原因になっていることを取り除けば苦悩から解放されるよね、ということを言われていると理解してよいと考えています。マインドフルネスの原型となったと言われる釈迦の方法論と、認知(行動)療法は、認知論アプローチとして共通性があります。釈迦は、「生老病死は苦である」と言いました。釈迦は苦悩を滅しましたが、「生老病死」を超越して、永遠の命を得たわけではありません。つまり「生老病死は苦である」という事実を認める一方で、『「生老病死は苦である」という事実』によっても、自分の心に苦脳が生じない状態、つまり認知のあり方を変えたことによって、苦悩を滅したと考えられます。このことは、釈迦の方法論は脳の機能の転換をもたらす、といったほうが適切かもしれません。『「生老病死は苦である」という事実』によっても、自分の心に苦脳が生じない状態、つまり「認知のあり方を変えた」は、認知行動療法の方法論と同じです。認知行動療法の、基本的な仮説は、「出来事があなたを苦しめるのではなく、出来事に対するあなたの認知があなたを苦しめるのです」というものです。マインドフルネスに一定時間取り組むことは、一定時間、あれをしたい、これもしたい、という脳の衝動的な欲求を制御して、マインドフルネスという行為に集中することですから、言い換えれば「衝動的な欲求の制御」です。「衝動的な欲求の制御」は、それが小さなものであっても、積み重ねることで脳の変化をもたらすように感じています。以下で引用させたいただく大山先生と大野先生の論考を総合して推測すると、① 「衝動的な欲求の制御」は、「情動に関する中心的な役割を担う偏桃体」の働きを抑制する② 「衝動的な欲求の制御」は、「前頭前野」の「感情の制御」「情報の統合」等の機能の発現までの時間的猶予をもたらす③ 上記を通じて脳の機能の働きを(拮抗、牽制関係から協働関係といった方向に)改変する効果があるように感じます。「海馬は、記憶の形成や保持に重要なはたらきをするといわれている。私たちが体験したことは、大脳で意味的な処理をされる以前に、いったん、この海馬にしばらく蓄えられる。」「海馬の先端には情動に関する中心的な役割を担う偏桃体がある。(中略)とりわけ偏桃体は生命の維持のためには、まずもって重要な危険を察知するための情動である恐怖の情動と深く結びついていることが知られている。」「前頭葉の連合野である前頭前野(前頭連合野)は、(中略)視覚の制御と処理、短期記憶(作業記憶)の貯蔵、感情の制御、行動の計画と企図などが担われているほか、脳のそれぞれの分野の情報を統合することが解ってきており、自我あるいは意識の座ともいわれる。」(以上、大山泰宏さん 改訂新版人格心理学 NHK出版)「不安は『危険』という認知と関係しています。その状況を危険だと判断し、それに対処するだけの力が自分にはなく、他の人たちから助けてもらえないと考えると不安になります。」(はじめの認知療法 講談社現代新書)ロサンゼルスの開業医で、マインドフルネスの研究に詳しい加賀谷亮さんは、著書(「世界のエリートが実践している最高の休息法」ダイヤモンド社)の中でこのように言われています。「通常は前頭葉が偏桃体を上から抑制する(中略)が、長期的にマインドフルネスを行っている人の脳を観察すると、両者が上下関係ではなく、よりフラットにバランスを取り合っている」いくつか、認知行動療法との相乗効果をご説明します。マインドフルネスを継続することにより、自分の心の観察能力が向上しますので、認知行動療法の技法である「セルフモニタリング」の能力が向上します。セルフモニタリングは、自己に生じた「非機能的な自動思考による気分の低下を感知」し、「非機能的な自動思考の内容を特定する」ことがねらいです。「非機能的な自動思考」を説明すると、「自分が経験した出来事によって、半ば無意識に生じた、非合理的で、あなたの気分を下げ、さらに行動を阻害する、あなたの役に立たない、ネガティブな思考」という意味です。「非機能的な自動思考」が生じれば、気分が当然下がりますし、体は緊張します。気分の低下、体に生じた緊張を、マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)は、心と体に生じた苦悩ととらえる訓練をします。よく「認知のゆがみ」という言葉を耳にされると思います。「認知のゆがみ」という言葉は、一般的には「ゆがんでいない認知」とはどのようなものか、ということを提示することなく、ある人が周囲に不適合な行動、例えば犯罪に至ったことの説明として「認知のゆがみ」という概念が使用されることもあるようです。この場合は「犯罪を犯す人には認知のゆがみがある」というと多くの人が納得するからでしょう。人の認知は多かれ少なかれ歪んでいます。それが個性だとも言えます。しかし、「非合理的で、あなたの気分を下げ、さらに行動を阻害する、あなたの役に立たない、ネガティブな思考」を検知して修正することは、出来事を理解し受け止めるための、あなたの「理解の仕方、受け止め方」を改善することを通じて、気分の改善がもたらされる、という効果があります。これは、あなたにとっては、自分を苦しめることにつながる「認知のゆがみ」を修正して「認知を改善」し「気分を改善」することになります。マインドフルネスは、体のうごき、体の感覚などへ、意識を集中して観察することによって、体の感覚の変化に気付く感受性を高め、さらには思考、思考によって生じた感情への感受性を高めます。つまり、「体の感覚の変化に気付く感受性を高め」ることにより、「非機能的な自動思考による気分の低下の感知」することが容易になり、さらには「思考、思考によって生じた感情への感受性を高め」ることによって「非機能的な自動思考の内容を特定する」こともも容易になります人は大半の時間を、「今ここにいる自分の体のうごきや感覚」に意識を向けることなく、「いまここにないこと」を考えることに費やしています。「こうだったらいいな」という状況は今ここにありません、「こうなるのはいやだな」という状況も今ここにはありません。つまり「いまここにないこと」を脳の機能が生み出して、「いいな」「いやだな」という感情があなたに生じたことになります。好きな食べ物をたべて「おいしい」と感じていることは、「いまここでおこっていること」です。「好きな食べ物を思い浮かべた」ときに、「好きな食べ物」は今ここにありませんが、『好きな食べ物をたべて「おいしい」と感じ』たことが記憶からよみがえり、「食べたい」という欲求がおこったとすれば、それは「いまここに生まれたあなたの欲求」です。突然「好きな食べ物を思い浮かべた」のであれば、自分の気持ちが落ち込んでいるから、『好きな食べ物をたべて「おいしい」』と感じることによって、気分を上げい、という「自動思考」が生じたのかもしれません。マインドフルネスは、「私の体、感覚の、いまここにあること」に意識を向けて観察してゆくことを通じて、「いまここにあること」と「事実としてここにないけれども脳が生み出したこと」を識別するの機能を養います。「非機能的な自動思考による気分の低下」は、あなたの心に生じた「いまここにあること」ですから、「非機能的な自動思考」を検知するという、認知行動療法の「セルフモニタリング」する能力を向上させます。「いまここにあること」と「事実としてここにないけれども脳が生み出したこと」を識別するの機能によって、「非機能的な自動思考」の内容が、「あるもの」なのか、「ないけれども自分が生み出したもの」なのかを検証する能力を養成することにもなります。マインドフルネスは、体のうごき、体の感覚へ意識を集中して観察します。しかし、体の動き、体の感覚へ意識を集中し続けることは、最初は簡単ではありません。人は、自分が自由になる時間の大半を、「今ここにいる自分の体のうごきや感覚」に意識を向けることなく、「いまここにないこと」を考え、それによって感情の起伏を生み出すことに費やしています。「今ここにいる自分の体のうごきや感覚」へ向けた意識は、すぐに「いまここにないこと」を考えることに向かいます。人は、考えること自体にも、心地よいと感じ(欲求)しますし、考えて自分の感情を刺激すること(その多くは気分をあげること)にも、心地よいと感じ(欲求)します。このことは、「いまここにないこと」を考えたいという「欲求」があるととらえた場合、「今ここにいる自分の体のうごきや感覚」へ意識を向けなおすことは、『「いまここにないこと」を考えたいという「衝動的な欲求」』を断ち切ることになります。「衝動的な欲求」』を断ち切ることで意志の力が発揮され、自己効力感がすこしづつ養われます。ということは、「今ここにいる自分の体のうごきや感覚」へ意識を向けることだけでなく、「いまここにないこと」に向かった意識を、もう一度「今ここにいる自分の体のうごきや感覚」へ向け直すこと自体が意志を必要として、その効果として自己効力感を養うことになります。そして、一定程度の時間「今ここにいる自分の体のうごきや感覚」に意識を向け続けることが出来るようになると、集中力が養われます。マインドフルネス中に集中力が高まっていることを感覚として知ることが出来れば、意図的に集中力を高めようとすることもできるようになります。意図的に集中力を高めることができると「自己効力感」が現実味をももって実感できます。自分の心をコントロールしているという感覚が「自己効力感」を高めるのでしょう。行動活性化技法と併用することにより、相乗効果を発揮して、より自己効力感を高めることが出来ます。「欲求」』を断ち切る訓練を行うことは、「それをしたい」という「衝動的な欲求」、つまり感情的な欲求を断ち切る訓練を行うことになります。感情的な欲求を断ち切る訓練は、「それは嫌だ」、つまり「それは回避したい」という感情的な欲求を希薄化することにもつながるようです。「念身経」というお経があります。このお経は、呼吸を意識することや自分の行動(体のうごき)を意識して行うことを説いています。つまり、現在のマインドフルネスと同じ方法が説かれています。正確に言えば、マインドフルネスが「念身経」から続く瞑想の方法論の活用している、と言った方が良いでしょう。そしてこの「念身経」を実践した時に、10の利益があると釈迦は説いています。その一番目の利益が、「好き嫌いを克服できるようになる。かれは嫌悪感をものともせず、生じてくる嫌悪感を打ち負かし続ける。」(春秋社 原始仏典第七巻 第119経より)「かれ」と言っているのは、男性出家者(比丘)に向けて説かれた時のことが、お経として伝わっているからです。女性を除外しているわけではありません。2番目の利益が、恐怖心の克服です。3番目の利益が、辛辣で不愉快な発言に耐え、身体に生じる苦しい感覚をこらえられるようになる、ことですが、「身体に生じる苦しい感覚をこらえられるようになる」は、カバットジンさんが創始したMBSR、マインドフルネスストレス低減法で実際に取り組まれていることです。やっと4番目になって、4つの禅定(悟りの段階)に自由に出入りできるよ、と言われています。釈迦の方法論は、嫌悪感や恐怖、他者からの誹謗中傷に傷つかず、ひどい体の痛みにも耐えられることの先に、悟りがあるというものであったようです。ただし誤解しないでください。精神論でもなければ、難行苦行によって強い意志をつくる、といったたぐいのものではありません。釈迦は、難行苦行を否定していますし、考え方は両極端にならない中道を大事にしたようです。先の大山先生の著書からの引用のとおり、脳の構造として、大脳により情報処理をされる前の記憶は、大脳辺縁系の海馬に蓄えられ、海馬の先には偏桃体があり偏桃体は恐怖の感情と深く関連しているそうです。このことを踏まえて、好き嫌いの克服について考えてみます。釈迦の認知論では、好きなことも、それに心が留まってしまい、好きなことが手に入らないければ、手に入らない苦しみが生じる、嫌いなことがあって嫌いということに心が留まってしまうと、嫌いなもの遭遇する苦しみが生じる、ということのようです。好きでも嫌いでもそれに心が留まる(執着する)と苦しみになるよね、ということでしょうか。嫌いな人であっても、仕事上で付き合わなければならいない、今日はあの人と打ち合わせがある・・・嫌だな。この状態は、「嫌いなあの人」に、偏桃体が恐怖と類似する不快の感情を感じたから、「嫌い」という「あの人から離れたい」という感情を生じたことの由来するのかもしれません。そうではなくて「嫌いなあの人」の話し方や、態度、その根底にあると推測される考え方が、ご自身の「嫌い」という「あの人から離れたい」という感情を生じたのかもしれません。いずれにしても、感情が刺激されている、感情が関与しているということは、言えそうです。釈迦の方法論は、感情を抑えて付き合いを優先しなさい、とか、感情的な判断は止めなさい、などという精神論ではありません。①自分の心と体に、苦悩が生じていることを理解しなさい②苦悩が生じたら生じたら生じたと知り、そのプロセス(原因、要因、結果)をよく観察しなさい③なぜ苦悩が生じたわかるでしょう(苦悩が生じないようにするには原因をつくらなければよい)④苦悩が生じないように心がけなさい釈迦の方法論は、嫌いという感情がおこったら、嫌いという感情が起こったと知り、それが起こるプロセスを注意深く観察しないさい、そうすればなぜ嫌いという苦悩が起こったのかがわかるよね、わかったら嫌いという苦悩を起こさない方法もわかるから、それを実践すれば苦悩は起こらない、というものです。苦悩から目をそらすのではなく、苦悩が生じたプロセス、つまり、その原因と要因、その結果もたらされたあなたの苦悩を良く観察すれば、苦悩を無くする方法が見つかるはずだよ、なくす方法が見つかったらそれを実践すれば苦悩から解放されるよね。でもその観察は簡単にはできないから、自分がしていること(体の動き)や、自分の体に生じる感覚を注意深く観察することによって、感受性を養ってね、そうすれば、自分の心に生まれる変化(心が留まっているところや思考、感情の生起と衰滅)が理解できるようになるよ。そうすれば、好き嫌いや恐怖という苦悩が生まれなくする方法がわかるでしょ、というのが念身経のウリ(説くところ)ではないかと思います。例えば、嫌いと感じる経験が強い刺激であったことなどによって、大脳の情報処理の前に、偏桃体に、あの人は危険だ、離れた方がいい、という情動が起こり、その情動が保持され、大脳の情報処理を阻害(あの人のことを考えるのも嫌だ)してきたために、嫌いという感情が保持されてきたとするならば、釈迦の方法論は、大脳の情報処理を活用して嫌いという感情(苦悩)を消滅させる方法、といってもいいかもしれません。少し踏み込んで考察すれば、あの人は嫌いだから顔も見たくない、という認知は、大脳による十分な情報処理が行われた結果ではなく、海馬から偏桃体への情報伝達がなされておこなわれた即応的、感情的な反応が強く保持され続けている認知であるとしたならば、それに対する釈迦の方法論は、苦悩の発生を知り、苦悩を避けず、苦悩を観察することによって、大脳への情報伝達を促進し、その結果として、苦悩が生じなくなるという脳の情報処理能力の改変をもたらす、ということかもしれません。釈迦は、解剖学や神経学、心理学がない時代に、自己の心のはたらき、心のうごきを観察することによって、嫌悪感や恐怖、さらには辛辣な言葉や身体の激しい痛みを感じる脳の情報処理機能、脳の情報ネットワークの機能を改変することによって、これらの苦悩や苦しみを克服したように思います。「ストレス耐性の高さと認知のあり方がどう関連しているかに関しては、多くの研究がある。例えば客観的に同じ状況であっても、「きっとうまくいく」という将来に対してポジティブ幻想を持っている場合は、それを持っていない場合によりもストレスを感じにくいという。また、ストレス要因がさほど大きくない場合は、自分で努力すれば何とかなるという自己効力感を持っている方が、ストレスは感じにくい。逆に、自分で努力しても無駄であるという自己効力感が低い場合、また、自分の能力を過小評価し自分は人より劣っていると思い込むなどの自尊感情が損なわれている場合は、ストレスを感じやすくなる。」(大山泰宏さん 同上書)。活動がうまくゆかずストレス状態が生じているのであれば、「自分で努力すれば何とかなるという自己効力感」という「認知」を育ててゆくこと「自分の能力を過小評価し自分は人より劣っていると思い込む」という「認知」の状態を改善してゆくことにより「婚活をたてなおす」ことができるのではないでしょうか。ポジティブに考えることが大事、というアドバイスをうけた方もいらっしゃるかと思います。ポジティブな思考をすることが適切に思えない状況であっても、ポジティブに考える方が、心の負担は減ります。つまりポジティブ思考は「効果」があります。ポジティブに考えを切り替えられて、活動の停滞が解消されるのであればそれに越したことはありません。しかしあなたが、「うまく結果がだせなくて、すこしへこんでいる」「やらなきゃいけないことはわかってる」「これからもうまくゆかないのではないかと予想して、行動できない状態」であるならば、「私の今の状況は、ポジティブに考えてよい状況ではない」と感じるのではないでしょうか。このような方には「ポジティブに考えなさい」は、ほぼ無意味です。認知行動療法では、「認知の改善」と「行動活性化」双方が必要と考えます。その基本的な考え方は、① 気分が低下が持続し、行動が停滞すると、「現実とのつながりの感覚が薄れ」て、「想像によるネガティブな思考」を誘発しやすくなる。② 「想像によるネガティブな思考」(非機能的な自動思考)の誘発を改善するためには、思考の検討と修正により対処する。③ 「現実とのつながりが薄れ」ていることを改善するためには、小さな行動を起こすこと、行動によってもたらされる外部からの反応や、行動によってもたらされる感覚を強化することにより、現実とのつながり感をつくり、そのことが「想像によるネガティブな思考」の抑止につながる。というものだからです。認知行動療法の考え方からは、「ポジティブに考えることが大事」といアドバイスは、「気分が低下が持続し、行動が停滞」している状況では、ほぼ無意味、ということになります。必要なことは、自分の気分を低下させている「想像によるネガティブな思考」(非機能的な自動思考)に気付き、検討、修正して、小さな行動から始めて、その積み重ねによって行動を活性化し、「想像によるネガティブな思考」を抑止して、自己効力感の増大、自尊感情の回復(=認知の修正)をはかること、が必要ですよね、という建付けになります。実は、うまくゆかない、苦しい、もういやだ、といったことを感じている時にこそ「心理カウンセリング」の存在価値があります。あなたの、自分一人で抱えている、うまくゆかない、苦しい、もういやだ、と言った気持をカウンセラーに対して話すことができたとします。カウンセラーは、あなたの、うまくゆかない、苦しい、もういやだ、という気持ちを、あなたの気持ちとして受け止めて、いい悪いの判断や、こうしなさいという指示などをせずにあなたの心情を、受け止め理解します。たったこれだけでも、あなたは苦しみを吐き出すことができ、カウンセラーに自分の苦しさを受け止めてもらった、ということで気持ちがスッキリします。これを「カタルシス効果」といいます。自身の中にある自分を苦しめている感情を吐き出すことで、自身を「浄化」するという効果です。ゲームに例えて、このように考えるとわかりやすいと思います。婚活をしていて、結婚という目的地に向かって進んでいるあなたの前に、「大きな岩」が立ちはだかって、道をふさいでいます。細い道で、両側は切り立った崖で、岩をよけて通ることはできません。これでは結婚という目的地に向かって進むことができません。その「大きな岩」が、「うまくゆかない、苦しい、もういやだ」といった感情です。そして「大きな岩」を砕いてなくすことができれば、視界が開け、自分がゆきたい先、結婚という目的地を見通すことができます。『「大きな岩」を砕いてなくす』ための手段が、「うまくゆかない、苦しい、もういやだ」と言った感情を吐き出すことによる「カタルシス効果」です。うまくゆかない、苦しい、もういやだ、といった気持があるのであれば、カウンセリングで、自分の気持ちを吐き出してみる、というのは「婚活をたてなおす」一つの方法です。いきなり、カウンセラーに気持ちを吐き出すなんてできない、ってお考えになるかもしれません。気持ちを吐き出すとは、「あなたが自身が感じていること」を「あなた自身がきちんと理解してあげる」ことであり、カウンセラーは、そのための支援者にすぎません。しかし、カウンセラーは、あなたのつらい気持ちを、「あなたの気持ちとして受け止めて、いい悪いの判断や、こうしなさいという指示などをせずにあなたの心情を、受け止め理解」することによって、「あなたが自身が感じていること」を「あなた自身がきちんと理解してあげる」ことを支援する訓練を受けています。「あなたが自身が感じていること」を「あなた自身がきちんと理解してあげる」と、「私は苦しんでいるんだよ」というメッセージは役割を終えて、苦しい気持ちもなくなります。そうすれば、次のステップ「結婚というゴールに進むにはどうしたらよいのか?」ということを考えることができるステージに進めます。すでにご紹介しましたが、大野裕先生は、このように言われています。「不安は『危険』という認知と関係しています。その状況を危険だと判断し、それに対処するだけの力が自分にはなく、他の人たちから助けてもらえないと考えると不安になります。」(はじめの認知療法 講談社現代新書)自己効力感の増大や自尊感情の回復は、大野先生が言われる「それに対処するだけの力が自分にはなく」「他の人たちから助けてもらえないと考える」という自分についての考え方を検討して、自分の考え方が、「合理的じゃないよね、自分の役に立たない考え方だよね」と感じたら修正し、「そんなに怖がる必要はないんだ」という考え方へと転換しながら、自分ができる「行動」から取り組み始めて、その行動を自分自身が振り返って、「できたから、もう少し頑張ってみよう」「自分にも対処する力があるんだ」という考え方を強化することによってたらされます。そのために認知行動療法では、セルフモニタリングや、行動活性化技法、認知再構成法、問題解決療法、ソーシャル・スキル・トレーニング、エクスポージャー法などを活用します。ここで、少し厄介なお話をしなければならないのですが、認知行動療法と一口に言いますが、実は「認知療法」系の「認知行動療法」と、「行動療法」系の「認知行動療法」があります。「行動療法」は「認知療法」をとりいれ、「認知療法」は「行動療法」を取り入れそれぞれが「認知行動療法」となったようです。それゆえ、学会も2つあります。「認知療法」系の「日本認知療法・認知行動療法学会」(旧日本認知療法学会)「行動療法」系の「日本認知・行動療法学会」(旧日本行動療法学会)ティーズデールさんさんたちが、マインドフルネスの統合したのは「認知療法」です。マインドフルネスと認知(行動)療法はすでに融合されています。ベックさんの後継者と言える娘さんのジュディス・ベックさんも、技法として認知行動療法にマインドフルネスを「統合」すること、セラピスト自身がマインドフルネスに取り組むことが有益であることを述べています(認知行動療法実践ガイド:基礎から応用まで 第三版 ージュディス・ベックの認知行動療法テキストー 星和書店)。J.ティーズデールさん、M.ウィリアムズさん、Z.シーガルさんは、マインドフルネスに認知療法を統合して「マインドフルネス認知療法」を創始しました。ティーズデールさんが、Sumedoさんというお坊さんの講演を聞き、(すでにご紹介しましたが)「仏教による苦悩の分析の核心部にあるアイデアと認知療法の基本的仮説の類似性に衝撃を受けた。」(マインドフルネス認知療法原著第2版 星和書店)ことがきかっけであったようです。釈迦の人間のとらえ方と、認知行動療法の方法論は、基本的には「認知論的アプローチ」ですから、「自分の感覚、知覚、認知をしっかりと自分で観察して」「気を付けてゆく」ための方法であるヴィパッサナー瞑想とヴィパッサナー瞑想を源流としたマインドフルネスは、認知行動療法と相性が良いと言えます。これらを背景に、マインドフルネスを技法として活用すること、マインドフルネス的な「態度」「方向性」を心理療法に取り入れる動きが進んでいます(日本評論社 新世代の認知行動療法 熊野宏昭さんご参照ください)。「やらなければいけない」と考えて、それが行動につながり、相応の反応(結果)が出ている方は、たぶんこのブログに目を止めていただいてはいないと思います。「やらきゃいけないってわかっていても、なんだかうまくいかないように感じて・・・行動につながらない」から、「婚活をたてなおす」っていう標題に興味を示していただいているのだと思います。自己効力感が低下、自尊感情が傷ついていて行動が停滞している状況では、「やらなければならない」という思考は、無力です。「やらなきゃいけない、がんばらなきゃいけない」と分かっているけど、行動する気になれない、頑張る気にならないのですから。まずは自己効力感や自尊感情を回復するための手立てを講じることが先決だと考えます。認知行動療法では、「気分の低下」に先立って、「気分を低下させる思考」、言い換えると「非機能的な自動思考」が生じていると考えます。「非機能的な自動思考」の意味は、「自分が経験した出来事によって、半ば無意識に生じた、非合理的で、あなたの気分を下げ、さらに行動を阻害する、あなたの役に立たない、ネガティブな思考」という意味です。こんな思考が生じていれば、気分下がって、不安が増大して、やる気なくしますよね。「非機能的な自動思考」は、気分の低下を招き、不安感情を刺激し強めます。留意してもらいたい点は、「意識せずに行われている思考」ということです。「意識せずに行われている思考」という点は、釈迦の、苦悩の発生原因を示した認知論にも共通します。「非機能的な自動思考」の感知(気分の低下に気付くこと)、「非機能的な自動思考」の内容の検討(どのようなことを考えたか)、にはマインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)は有効です。私の経験からご説明します。定年退職した年のことです。昼食後、仕事机に座り仕事を始めようとしたところ、胸が圧迫されるような嫌な感覚が生まれました。ヴィパッサナー瞑想で行う「受の随観」で感知する「苦の感受」だな、原因は何だろうと考えたところ、昼食時に見ていたテレビでの海外ツアーの紹介を見て、「今のままじゃ海外旅行なんてとてもいけそうもないな」とつぶやいたことが思い出されました。「そうと決まったわけではない、これから挽回できる」と言い直したところ、「胸が圧迫されるような嫌な感覚」はすぐになくなりました。後に認知行動療法を学んでから、私がつぶやいた、「今のままじゃ海外旅行なんてとてもいけそうもないな」という「非機能的な自動思考」を、「そうと決まったわけではない、これから挽回できる」と修正したことで気分の低下が改善されたのだ、ということを理解しました。定年退職後、これからの人生の再構築を迫られていた時期、いわゆる「ライフサイクルの危機」時であったことに加えて、インフルエンザにより、熱はすぐに下がったものの、2週間ほど満足な食事がとれず体力が低下し、体重は6キロ減った(筋肉量が減少)という状態の中で、頑張って結婚相談所を軌道にのせなければ、と思うものの気力がわかない、という状態からの回復時期でした。のちに、カウンセリングの勉強を本格的に始めた際、病気になったときは「うつ状態」(うつ病の発症ではない)になることが多いと学びました。この時の経験から、「やらねければならない」という思考は、気分の低下時、不安が強くなっているときには、「やらねければならないのに、それができない自分」を強く意識することになるため、無益というより、むしろ害になると理解しました。私の場合は、自分では意識しないうちに、認知行動療法の考え方に基づいて、行動活性化法、認知再構成法という技法を活用していた、ということになります。また、マインドフルネスによって、自動思考、自動思考の背後にある信念へのアクセスが容易に哉っており、認知再構成法に取り組むことが容易であったこと、それに加えて瞑想への集中状態の経験を維持することで、不安感と「いやいやながら」日常の活動をする、ということが確実に減少してきたようです。マインドフルネスについては、感情面での改善、具体的には不安感の減少、「いやいやながら」活動することが減少することは、中核的な効果だと思っています。すでにご紹介していますが、釈迦は「念身経」のなかで『身体に対する注意』を養う(ヴィパッサナー瞑想を行う)ことの10の利益を上げ、その一番目と2番目に次の2点をあげています。(春秋社 原始仏典第7巻 第119経)1.好き嫌いを克服できる。2.恐れと怖じ気を克服できるようになる。「ほんとかな~」って思われますよね。でも3番目の利益としてあげられている2つの内の一つ「身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえられるようになる。」という利益は、J.カバットジンさんが、マサチューセッツ大学医学部の「ストレス対処およびリラクゼーション・プログラム」で、慢性疼痛患者さんに、「注意を集中する技術」の指導を行うことで実現しています。(マインドフルネスストレス低減法 J.カバットジン 北大路書房)グレゴリー・ベイトソンさんの論考を参考に考えてみましょう。「誰かに足を踏まれたとき、私が経験するのは“彼による私の足の踏みつけ”そのものではなく、踏まれてからややあって頭に届いた神経報告をもとに再構成された“彼による足の踏みつけについての私のイメージ”にほかならない。」「痛みすら、正真正銘の創り出されたイメージである。」(思索社 精神と自然 佐藤良明さん訳)カバットジンさんは、患者さんは「ストレス対処およびリラクゼーション・プログラム」で、「注意を集中する技術」を学ぶ、と説明しています。痛みに「注意を集中する」することによって、「正真正銘の創り出されたイメージである」痛みを、「痛みの発生によって、痛みを嫌悪して、痛みから注意をそらし、痛みの性質を知ることなく、大脳辺縁系中心の即応的、情動的な判断による、耐えられない痛みというイメージの生成」から、「痛みへ注意を集中することによって、痛みの性質を知り、耐えられない痛みではないという、大脳による処理を経た、冷静な判断によるイメージの生成」へと変換したと考えれば納得がゆきます。『身体に対する注意』を利益の一番目と2番目は、1.好き嫌いを克服できる。2.恐れと怖じ気を克服できるようになる。ですから、この痛みに耐えるという利益を実現できた段階で、好き嫌い、恐怖といった感情に影響される「情動的な判断」は、一定程度克服されていると考えられます。これもすでにご紹介済みですが、大山泰宏さんのお話を引用します(NHK出版 改定新版人格心理学)。「私たちが体験したことは、大脳で意味的な処理をされる以前に、いったんこの海馬にしばらくのあいだ蓄えられる。」「海馬の先端には情動に関する中心的な役割を担う偏桃体がある。この海馬の構造が意味するところは、意味化される以前の体験と記憶は、情動体験と深く結びつついているということである。」「とりわけ、偏桃体は生命の維持のためには、まずもって重要な危険を察知するための情動である恐怖の情動と深く結びついていることが知られている。」 大脳での意味的処理を経ない記憶が海馬に蓄えられること、海馬の先端には偏桃体があり、偏桃体は恐怖の情動と深く結びついていること、を考えると、『身体に対する注意』を養う(ヴィパッサナー瞑想を行う)ことは、大脳で処理をされていない情報によって偏桃体が刺激され恐怖の情動が刺激され、「耐えられない痛み」であると認識する脳の働きを、大脳での情報処理によって、「耐えられない痛みではないという認識」を優位にする脳の情報伝達ルートを修正する、ということとらえられるかもしれません。このことを、カバットジンさんの「ストレス対処およびリラクゼーション・プログラム」に当てはめれば、「注意を集中する技術」を学ぶことによって、慢性疼痛の患者さんは、偏桃体による「情動的な判断によるイメージの生成」から、大脳の情報処理による「冷静な判断によるイメージの生成」を行うことが出来るようになった、ととらえてもよい可能性があります。このように考えると、「身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚」に対しても、「注意を集中する技術」によって「情動的な判断」を抑制することで脳の情報のやり取りが変化し「こらえられるようになる」と考えても不思議ではありません。『身体に対する注意』の養成は、意識しながら息を吸い、意識しながら息を吐くこと、歩くこと、立っていること、座ること、横たわること、見ること、体の曲げ伸ばし、食べたり飲んだり噛んだりすること、眠ったり目覚めたり、話したり黙ったりすることを意識して行う(春秋社 原始仏典第7巻 第119経より)ことですから、言い換えれば「注意を集中する」ことになります。当然に「痛み」が発生すれば「痛み」を意識しますから、「注意を集中する」ことの対象になります。釈迦の方法論の要諦はここにあるようです。日常生活の体の動きを意識して行い、今自分がしていることを知ることによって集中力と観察力を養い、好き嫌いが生じたら、好き嫌いから意識をそらさずに、好き嫌が生じたと意識する(大脳への情報伝達を促進?)、恐れが生じたら、恐れから意識をそらさずに、恐れが生じたと意識する(大脳への情報伝達を促進?)、痛みが発生したら、痛みから意識をそらさずに、痛みが生じたと意識する(大脳への情報伝達を促進?)。この方法論によって、ベイトソンさんのいう「正真正銘の創り出されたイメージ」の変換をはかる、ということだとも考えられます。この考え方を、苦悩に適用して、苦悩が生じたら、苦悩から意識をそらさず、苦悩が生じたと意識する(大脳への情報伝達を促進?)、苦悩の生じた過程を知れば苦悩の原因がわかる(大脳による情報処理?)、苦悩の原因がわかれば苦悩を消滅させる方法がわかる(大脳による情報処理?)、苦悩を消滅させる方法がわかれば、苦悩を消滅させる方法を実践すれば苦悩はなくなる、と発展させれば「四聖諦」になります。釈迦は、瞑想による集中力と観察力により苦悩を観察し、その観察に基づいて苦悩を滅し、思考(尋・伺)を滅し、さらには喜びと安楽すら滅するに至った(春秋社 原始仏典第7巻 第119経〔四禅定による修習〕より)のですから、釈迦の方法論は、現在の認知行動療法の到達点を、はるかに超越した到達地点にまで至った、きわめて強力な認知(行動)療法だとも言えます。極めて強力な認知(行動)療法ではあるのですが、労働に従事せず、家族も持たず、もっぱら修行に専念した結果、到達した境地であることは考えておかなければなりません。今日の私たちは、一日修行できませんし、3時間5時間とぶっ通しで瞑想することも難しいでしょう。テーラワーダのお坊さんが説く悟りを目的として瞑想するのは現実的ではないように思います。マインドフルネスは、そのメカニズムを知り、自分が取り組める時間を捻出して、効果的に取り組むしかありません。歩行の瞑想を定期的にやり始めて3か月ほどたちます。机に向かって前かがみになって仕事をしていと内蔵への負担がかかること、動かないと睡眠の質が落ちることから、午前午後おおむね45分をメドにウォーキングをするようにしています。ウォーキングするならば、歩行の瞑想に取り組もうと考えて行うことにしました。段々と歩行に集中できるようになってきました。開始から10分程度たつと、① 自分の意識が「ガイド(手すり)」ついている道をすすんでいるような感覚になり、意識が歩行からそれない状態になります。② この感覚をもう少し継続したい(コンビニの前を通りかかっても寄り道をしたくない)、という気持ちが出てきます。高校生の頃、部活で長距離を走った時の、苦しいけども足を止めたくない、というランナーズハイを思い出させる感覚です。瞑想への集中は、脳内の快感物質の分泌を促すのかもしれません。観察に意識を集中することによって、脳内の快感物質が分泌され、集中→快感物質分泌というオペラント条件付けがなされたとするのならば、快感を求めて集中力は上がりますし、集中によって快感を感じることが出来ますから、集中への動機づけも上がります。瞑想への集中は、瞑想時以外でも喜びを増加させるようなので、快感物質の分泌と関係しているのかもしれません。瞑想による観察への意識集中により、先にご説明した脳の働きが改変され、脳内の快感物質が分泌されると仮定すると、好き嫌い、恐れを感じることは抑制されるでしょうから、「好き嫌いを克服できる」「恐れと怖じ気を克服できるようになる」ということには、納得がゆきます。私が実際に感じた行動活性化法のメリットをご説明します。まず、自分がどの活動にどのくらい時間をかけているか、正確に把握しようとして以下の2つを行ったことが始まりです。① 毎日、その日の自分の活動を記録する「活動記録表」をつける。② 「自分が行うと決めた生産的な活動」を考えて決定する。③ 「活動記録表」にもとづき、「自分が行うと決めた生産的な活動」にどの程度の時間をかけているかを「集計」する。認知行動療法では、「自分の価値に沿った行動」を活性化することを目指しますので、「自分が行うと決めた生産的な活動」が「自分の価値に沿った行動」である必要があります。ほかの人がやっているから、ではなく、「自分の価値に沿った行動」を自分に当てはめて見たときに、どのような状態を実現したいと考えて婚活に取り組んでいるのか、ということを考える必要、言い換えれば自分のとっての価値ある状態、目指している結婚はどのようなものなのか、ということをはっきりと把握する必要があります。「自分の価値に沿った行動」にもとづく、について、私の場合を例に説明します。私は、婚活カウンセリングだけでなく、心理カウンセリングによって、活動の支援を行うことにしていますから、私の「自分が行うと決めた生産的な活動」には以下のようなものがあります。① カウンセリングにおいて、カウンセラーに必須となる「自己理解」促進のため、認知行動療法に基づいたスキーマの検証② カウンセリング理論、心理療法理論の学習③ カウンセリング技能向上のため他者の声や動作の観察を行う④ マインドフルネス(歩行の瞑想、座ってする瞑想、慈しみの瞑想)私がこの方法により感じた効果は、① 最初は、「自分が行うと決めた生産的な活動」がとれていなくても、② 10分20分といった取り組み結果であっても、「見える化」することによって、③ 「これだけできたのだから、もう少しやれそうだ」という気持ちになり、④ 活動時間が確実に増えてゆく=「活動量が増えている」ことを確認することで、取り組む意欲が増す、⑤ 活動のバランスについても一目瞭然のため、次週はこの活動を増やしてゆこう、という発想になってくることです。また、「活動記録表」の副次的なメリットとしては、積極的休養をとる、つまり今日は「生産的な活動」をしない、休む、と決めたら「活動記録表」に「OFF」と記入してしまえば、罪の意識なく活動を休めることです。自己効力感の回復の観点からも、この方法は良いと思います。活動量を「見える化」して、すこしづつ増やして、「これだけやった、もう少し頑張ってみよう」という活動への意欲を刺激することが「自己効力感」の向上につながる、ととらえていいと思います。ご自身で、行動活性化法に取り組まれるときには、以下のような手順でされたらよいと思います。① 活動に取り組める時間(自分のリソース)を明確にする② 自分のリソースに基づき活動記録表のフォームをつくる③ 活動記録表で把握する「婚活活動」を決める④ ③できめた「婚活活動」の項目と時間を転記する「集計表」をつくる⑤ 現在の活動状況に基づき1週間「活動記録表」「集計表」をつけてみる⑥ 「活動記録表」「集計表」で1週間を振り返ってみて、次週の活動を考える⑦ 「うまくできたこと」「うれしいと感じた活動」を増やすことこの場合、お見合いや交際の成立といった「成果」は求めないほうがいいでしょう。「成果記録表」ではなくて、あくまでも「活動記録表」だからです。「成果」につながる予想される「活動」を少しづつ増やしてゆくことで、「自分にはできる」「対処する力がある」という認知を少しづつ増やしてゆくことがねらいです。活動量が増えれば、「成果は必然的についてくる」という発想で行動活性化、つまり「心理的な抵抗なく活動量を上げる」ことを心がけた方がいいと思います。あれこれ迷うと不安になりやすい、ということもあるので、最初は、「心理的な抵抗なく活動量を上げる」と割り切って、「自分にはできるんだ」という自己効力感の回復につながることを目指した方がいいと思います。活動量が上がったうえで、「成果」につながりにくい、と感じたのであれば、その理由を考えて、対策としてとる行動を、「活動」に加えてゆけばよいと思います。「対策としてとる行動」は、婚活カウンセラーに相談してください。そのための婚活カウンセラーですから。「成果」につながりにくい場合には、問題を細分化して取り組む「問題解決法」や、お相手との対面での印象改善を狙いとした「ソーシャル・スキル・トレーニング」などが役立つかもしれません。行動活性化法に、「オペラント条件付け」を活用して、活動や活動量の目標をクリアしたら、自分が望む「報酬」を自分にあげるようにすると効果的です。実は、この「オペラント条件付け」の考え方は、最初に就職した会社で多用されていたのですが、「自発的に活動の目標を決める」「自分の望む報酬を与える」という条件を満たしていなかった(つまり、上司から「やらされてる感」の強いものだった)ので、その時の私は、ほぼ効果を感じませんでした。大事なことは、自発的な、私はこれをする、という活動の目標を決めること報酬は、自分がそれを得るために、ちょっと頑張ってみようと感じる「報酬」を選ぶことです。ベックさんの共同研究者でもあり、同じく認知アプローチをとる論理情動行動療法(論理療法)創始者の、アルバート・エリスさんの本には、オペラント条件付けの「報酬」の例として、ここには書けない、かなり「プライベートな領域の楽しみ」についても挙げられています(もちろん違法なものではありません)。人に公表してやるものではないので、自分が自分に与えられるもので、なおかつ、そのために自分が頑張れる「ご褒美」であることが大事です。私の場合は、「今日は結構頑張ったなあ、でも、もう少し、ここまでやりたいな」と思った時、ここまでやったら今日はワインを開けよう、とオペラント条件付けをします。この「報酬」は、かなり強力です。アルコールの依存性の強さを実感します。飲まないと決めたときには飲まないことができるので、アルコール依存症ではありません。ただし、アルコールを摂取した日は、睡眠の質が落ちて、次の日の気分は少し下がることが認識できます。ご褒美ではあるのですが、得るものがあれば、失うものもある、と考える必要があるようです。アルコールを「オペラント条件付け」に活用される方は、「連続的に」ではなく「間歇的に」行った方がいいと思います。「間歇的に」行えば、「連続的に」行うよりも、相対的に「報酬」の価値は上がります、つまり「オペラント条件付け」がより強力になります。「活動記録表」で、「自分にはできる」「対処する力がある」という認知を少しづつ作ってゆくことと並行して、「非機能的な自動思考」を修正するとともに、「自分、他者、世界のとらえ方」、言い換えると「自分の認知の傾向」を変えることに継続的に取り組むとよいと思います。私は、マインドフルネスを活用して、認知行動療法の「認知モデル」に基づいた「媒介信念、中核信念の認知再構成」を行っています。カウンセリングで一番難しいことは、カウンセラー自身の「自己理解」であるそうです。それゆえ自己理解に継続的に取り組むためです。認知行動療法の「認知モデル」について少し長くなりますが、上記ジュディスさんの本から引用します。『「認知モデル(cognitivemodel)」が提唱するのは、端的に言うと、すべての心理問題の背景には非機能的な思考が共通してみられる(そしてそのような思考がクライアントの気分や行動に影響を及ぼす)ということである。』『自らの思考をより現実的かつ適応的に検討することが出来るようになれば、その人のネガティブな感情や行動が改善されるだろう。』『リカバリー指向のアプローチでも、セラピストは、その人が自らの自動思考を評価できるように手助けする。ただしその際、すでに生じてしまった認知(自動思考)よりも、これからの1週間において、その人が特定の目標を達成するために新たなステップを踏み出すことの妨げになりそうな認知に焦点をあてる。』『認知は、それが適応的であっても不適応的であっても、3つのレベル発生する。そのうち、最も表面的なレベルで生じるのが「自動思考」(例:疲れすぎて何もできない」)である。』『次に「媒介信念(intermediateberief)という認知があるが、これは背景にある思い込みのようなものである(例:自分から仲良くしようとしても、どうせ拒絶されるだろう」)。』『最も深いレベルの認知が、「中核信念(corebefief)で、これは自分自身、他者、そして世界に対する認知である(例:「私は無力だ」「みんな、私を傷つけようとしている「世界は危険だ」)。』『クライアントの気分は行動の改善をより確実なものにするために、これら3つのレベルの認知のすべてに取り組む必要がある。自動思考のみならず、背景にある非機能的な信念を修正できれば、クライアントの変化はより強固なものになる。』『たとえば、ある人が事あるごとに自分の能力を過小評価しているとする。その場合、その人には「自分は無能だ」といった中核信念があるかもしれない。一般化されたこのような信念を修正することができれば(すなわち、自分自身をより現実的にとらえられるようになれば)、日常生活における個々の状況におけるとらえ方も変わってくる。「自分は無能だ」といった信念による自動思考が頻発することは無くなり、たとえ何かうまくできない状況があっても、「自分はこれ(特定の課題)が得意ではない」といった程度の思考に留まるようになるだろう。』『さらに、リカバリー志向のアプローチにおいては、ポジティブで現実的な自動思考(例:私にだって上手にできることはたくさんある」)を生み出し、ポジティブな媒介信念や中核信念(例:「根気よく取り組めば、必要なことを学べるだろう」「他のみんなと同様に、私にも強みと弱みがある」)をはぐくむことを重視する。』「セルフモニタリング」と「認知再構成法」です。「セルフモニタリング」は、日常生活の中で、自分の気分が下がったとき、緊張感が生まれたときなどに、どのような状況でそのようになったかを記録します。「思考記録表」に記録することでも可能です。「セルフモニタリング」を効果的に行うためには、マインドフルネスが役に立つことは、すでにお話しました。「認知再構成法」は、「思考記録表」に基づき、「非機能的な自動思考」を生み出すことを抑制するための方法です。「認知再構成法」は、「思考記録表」のワークシートがありますので、ワークシートに従って検討してゆきます。例えば「思考記録表」のワークシートの記載内容は、① 気分の低下や嫌悪感が生じた状況② その時に感じた気分(最大を100%として何%くらいか、感覚的でよい)③ その時に生じた「非機能的な自動思考」の内容(「今何を考えただろうか?」と自問する)④ その「非機能的な自動思考」がどのような「根拠」に基づき生じたのかを考える⑤ その「根拠」は確からしいかどうか、検討し反論する⑥ 検討、反論に基づき機能的、適応的な思考はどのようなものか考えてみる(「非機能的な自動思考」の修正)⑦ 機能的、適応的な思考によって②の気分は何%になったか並行してマインドフルネスを行い、ご自身の気分の低下とその時に心に生まれた「非機能的な自動思考」が容易に検出できるようになれば、ワークシートなしでも、上記のプロセスを行なえるようになります。最初のうちは、手順になれるため、意識してワークシートに記入して行った方がいいでしょう。「認知再構成法」によって、「非機能的な自動思考」=「自分が経験した出来事によって、半ば無意識に生じた、非合理的で、あなたの気分を下げ、さらに行動を阻害する、あなたの役に立たない、ネガティブな思考」を生じないようにすることを目指します。「認知再構成法」は、「できごと」についての自分の「解釈」や「受け止め方」が、合理的かどうかを検討し、修正するものです。合理的な「解釈」や「受け止め方」でない場合は、合理的な「解釈」や「受け止め方」に修正を加え、気分を下げた自動思考を修正することで、気分の改善を図るものです。気分の低下が、活力の低下、行動の抑制につながる、であれば、気分の低下を防止することで、活力の向上、行動の活性化につながる、という前提に立って、「認知再構成法」は行われます。「認知再構成法」では、心理の深層にある中核信念(スキーマと言われることもあります)、媒介信念(推論の誤り言われることもあります)を修正することは守備範囲ではありません。スキーマや中核信念は、自分や他者や社会に関する、過去の経験から蓄積され一般化された体系的な認知といったものです。例えば過去にお付き合いしていた人からだまされた、という経験がある方は、異性に対して用心ぶかくなるでしょう。だまされたという経験から、「男(女)は信用できない」という他者に対する「過去の経験から蓄積され一般化された体系的な認知」(スキーマ、中核信念)を形成しているかもしれません。だまされたことが1回だけでなく2回になれば、「男(女)は信用できない」という認知(スキーマ、中核信念)はより強化されるでしょう。そして当然、そして当然、「男(女)は信用できない」というスキーマもしくは中核信念は、「できごと」に対する「解釈」や「受け止め方」に影響します。「認知再構成法」は、そのようなスキーマ、中核信念を検討、修正するものではありません。スキーマ、中核信念を検討して、修正してゆくことで、「できごと」に対する自分の「解釈」や「受け止め方」を、より現実に適合したものにしてゆくことができます。やっかいなのは、「男(女)は信用できない」ということが100%誤り、とは言えないことです。とはいえ100%正しいとも言えません。100人の異性がいたとして、100人全員があなたをだますだろう、という予想に基づいて行動することは現実的ではなく効果的でもありません。しかし1人か2人くらいは、あなたをだます人がいるかもしれません。そのように考えると、「男(女)は信用できない」というのは、その1人か2人くらいにしか当てはまらないスキーマ、信念ということになります。その「1人か2人くらいにしか当てはまらないスキーマ、信念」を、残りの善良な99人か98人に対しても適用していたとしたら、それはあまり合理的ではないし、現実に対して適合的ではないよね、ということになります。そうすると、それは、良い人と出会う機会を失う、つまり大きな機会損失になるかもしれないよね、ということになります。その一方で、「男(女)は信用できない」というスキーマや信念に当てはまる人もごくまれにいますから、出くわす可能性もあります。「お付き合いしていた人からだまされた、という経験」は、あなたの中にあなたを苦しめる感情を記憶させ、それがよみがえるたびにあなたを苦しめ、あなたの判断に影響している、と推測されます。単に「男(女)は信用できない」というスキーマや信念を変えればいいですよね、というお話ではなく、あなたの中に記憶されている「あなたを苦しめる感情の記憶」があることを理解して、ケアして、感情の記憶を弱くしていく必要があります。そうしない限り、「あなたを苦しめる感情」は、ことあるごとに、あなたの記憶から呼び覚まされて、あなたの気持ちを下げて、やる気を挫き、あなたの出来事に対する理解の仕方に影響を与えることになりかねません。そして「あなたの記憶から呼び覚まされて、あなたの気持ちを下げて、やる気を挫き、あなたの外界のとら方に影響を与えること」によって、「あなたを苦しめる感情の記憶」は維持され続けます。心理療法としてはかなり難しい領域です。説明のため簡略化して「男(女)は信用できない」という信念を例として使用していますが、スキーマには、自分についての「過去の経験から蓄積され一般化された体系的な認知」も含まれます。スキーマや中核信念の検討、修正は、かなり困難を伴います。私自身は、スキーマの修正に自分で取り組んでいますが、カウンセリングや心理学を勉強していない方が、ご自身で取り組むのは簡単ではありませんし、また心理的な負担が相当かかります。それでも取り組んでみたいという方には、ご自身で取り組めるワークブックもあります。伊藤絵美さん 「自分でできるスキーマ療法ワークブック」Book1、Book2 星和書店スキーマ療法は、認知行動療法が発展したものですので、認知行動療法の「概念化」や「認知再構成法」が活用できるているようであれば、ご自身で取り組んでも、勘所がつかめて効果が得られる可能性は高くなるでしょう。スキーマや中核信念に課題があるようだと、お心当たりがある方はご連絡をください。私で対応できなければ、対応可能なカウンセラー、セラピストにリファー(紹介)します。「スキーマ療法」に対応できるセラピストの方は、そう多くはないと思います。「認知行動療法実践ガイド:基礎から応用まで 第3版 ジュディス・ベックの認知行動療法テキスト」伊藤絵美さん 藤沢大介さん訳 星和書店 セラピストが、認知療法系の認知行動療法の考え方と実践方法を学ぶための標準的テキストと言えます。文量が多い(約600頁)ですが、① 認知行動療法の基礎からセラピーの実践方法まで理解するための「教科書」であること② 各章に「振り返りのための問い」「実践エクササイズ」が設けられており、自らが実践しながら学ぶ方法をとっていること③ セラピーで利用できるワークシートも紹介されています。認知行動療法を、基礎となる考え方から実際の手順まで学びたい方、しっかり取り組みたい方にはお勧めです。「はじめての認知療法」大野裕さん著 講談社現代新書こちらは新書で、自ら実践してみようとという方向けの本です。大野先生は、アーロン.T.ベック博士の下で学び、(旧)日本認知療法学会理事長を務めた方です。認知療法系の認知行動療法の、ご自身での取り組み方がわかりやすく学べます。2010年から認知行動療法は、医師または医師と看護婦が行う場合には保険適用されています。保険適用されてはいるのですが、認知行動療法の訓練を受けた医師、看護師が少ないため、大野先生は、医師および看護師向けの手引書として「認知療法・認知行動療法 治療者用マニュアル」も執筆されています。続編「マインドフルネス基礎知識」: https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/160950/
「うまいかない」「どうしよう」「もう嫌だ」「やめたい」という感情が支配的になっている方の「婚活をたてなおす」ために、1.自分を「ていねいに扱う」ことで婚活をたてなおす2.マインドフルネスが感情を制御することの検証3.「生きぐるしさ」のようなものを感じているのであれば、それへの対処方法という観点からヒントを提供しようとするものです。このブログは、婚活うまくいってるよ、結婚できるよ、と思っている方向けのお話ではありません。どうもうまくゆかない、こんな調子で結婚できるのかな、と感じている方向けです。結婚相談所に入会したからといって、100%の方が成婚できるわけではありません。IBJでは成婚率を公表してはいないようです。そもそも入会退会が常時行われるので、正確な成婚率は算定不可能です。これはどのような統計にもついて回る困難です。とはいえ、成婚退会が、未成婚退会を上回っている、ということなさそうです。2025年10月のIBJ会員様のデータは登録会員数⇒103,492名10月新規入会者数⇒6,391名月間・お見合い成立数⇒88,714件10月成婚者数⇒1,661名1,661人を12倍しても19,932人です。10万人会員がいても、年間2万人前後の成婚者数ということになります。しかし、計算上12か月換算ですから、1年1か月以上かかったけど成婚できた、という人は計算上取り込めないことになりますので、これをもって成婚率、ということにはなりません。と言っても、それらの事情を差し引いても、結婚相談所に入会しても、結婚にたどりつけない人の方が多いと言っていいように思います。逆に言えば、うまくいかず悩んでいるひとは、あなただけでなく、かなりいる、ということでもあります。このように考えると、少し乱暴な言い方ですが、ほおっておいても結婚できる人に力を注ぐこと(それも大事だけれど)よりも、結婚できそうもない、と考えてあきらめてしまう人を減らしてゆくことが結婚相談所としては、大事だろう考えています。それゆえ、このブログは、大丈夫、私は結婚できる、という人ではなく、大丈夫だろうか、結婚できるのだろうかもうやめたいと感じている人に読んでもらいたいブログ、ということになります。続編「婚活をたてなおす」(2-1)「メンタルをたてなおす」 https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/156889/ マインドフルネスの考え方、マインドフルネスの源流とされる仏教瞑想に関わる釈迦の教示などが、ところどころに挿入されています。ここで説かれる釈迦の教示は、初期仏教、原始仏教と言われるもので、日本に伝来した大乗仏教とは別系統のものです。大乗仏教は、菩薩や如来といった救済者を想定しますが、初期仏教では自分を救ってくれる菩薩や如来はいません。自分の苦悩は自分でなくす、自力救済です。つまり、自分で自分の苦悩をなくすことができるということ、そのうで、自分で自分の苦悩をなくすための方法を釈迦は説きました。それゆえ今日の日本の一般的な仏教知識とは別物、ということはあらかじめご理解ください。マインドフルネスの起源やその成り立ち、具体的な行い方は順次ご紹介してゆくつもりです。マインドフルネスは、気分の改善や、自分のやる気をなくす感情の生成を抑える効果があります。釈迦の説いた悟りは、気分の改善や、自分のやる気をなくす感情の生成を抑えることによって、苦悩のないより安楽な心の状態を実現した結果として、到達したもの、とも理解できます。そのように理解すると、釈迦の方法論には、気分の改善や、自分のやる気をなくす感情の生成を抑えるためのヒント、がたくさんあります。たとえば、後悔することや気分が沈むこと、心がざわつくことは役に立たないよ役に立たないことを止めて、心身が安らぐようになると集中できるよ集中力を養うと、好き嫌いや恐怖心が克服できるよ、さらには辛辣な言葉にだってダメージを受けないようなるよ、ひどい、耐えれない痛みにだって苦しめられないようにだってなるよ全て釈迦が語ったとされる阿含経の中に書いてあることです。釈迦は、「身体にむけた注意」を確立する(集中力を得る)と、1番目の利益として、好き嫌いの克服、2番目として、恐怖心の克服、3番目として、辛辣で不愉快な発言に耐えられ、激しい痛みにも耐えられるようになること、そしてここが興味深いところなのですが、4番目に、さとりの境地である4つの禅定に自由に入れるようになるよ、と言われています(念身経)。釈迦が苦悩を抱えていて、その苦悩を克服しようと修行生活に入り、苦悩を克服るする過程で、好き嫌いの克服、恐怖心の克服、辛辣な発言に耐えられるようになり、激しい痛みにも耐えられるようになることもできた、のであれば、瞑想の利益として、苦悩の克服を最優先で説いたことは極めて自然なことのように思われます。釈迦にとっては苦悩から脱出が修行の目的であったものの、釈迦の後継者にとっては、釈迦の教えを守ること=釈迦の到達した境地に達すること、つまり悟りを得ることが目的化したのかもしれません。それゆえ、釈迦が、苦悩から脱する方法を説いたとしても、後継者たちは、釈迦の言葉は変えずに(長い時間を経ていますから、過誤による改変、意図的な改変は多かれ少なかれあったでしょう)、阿含経を、自分たちや自分たちに続くものが、釈迦の到達した境地、つまり悟りに至るための方法論として整備して来た(苦悩から脱する方法、という観点は脇に追いやられた)、という側面もあるでしょう。マインドフルネスは、4番目(悟り)にもたどり着ける方法を使いながら1番目、2番目、3番目の利益を実現する方法、ととらえることも可能です。事実、禅に取り組み、道元さんに深く傾倒した、J.カバットジンさんは、4番目の「激しい痛みにも耐えられようになる」という効能を、マサチューセッツ大学メディカルセンターで行った「ストレス及びリラクセーション・プログラム」、後のマインドフルネスストレス低減法により実現しました。このような釈迦の方法を、「婚活をたてなおす」ために参考になりそうなものを随時挿入していますのでので、少し読みにい構成になっているかもしれません。ご容赦ください。釈迦や仏教のお話が出てきますが、布教等の意図は一切ないのでご安心ください。読んでいただければ、私の釈迦の教えに対する理解は、宗教としての理解とは相当違う、ということはご理解いただけると思います。私にとっての関心は、カウンセラーとして、苦悩の低減、苦悩の克服の援助を行うことにあります。釈迦が教えを説いた2600年前と、私たちが生きる時代は相当異なっています。釈迦が生きた時代は、社会において「生まれ変わりが当然」と考えられている時代であったようです。(佐々木閑 宮崎哲也「ごまかさない仏教」新潮選書)そのようなことを前提に考えると、老いること、病気になること、死ぬことはもちろん現代でもウェルカムなことではないのですが、生まれることも苦であるとした理屈にも納得がゆきます。現代の人々は「終活」という言葉や活動もあるように、死を冷静に受け入れている人も多いと思います。釈迦が生きた時代は、生まれ変わりは当然のことであるうえ、社会階層が厳然として存在しており、人権も確立していない時代に生きる人々にとって、下層階級に生まれ変わることを想像することは、苛烈であることを超えて、天からの罰の意識すら生じさせるものであったかもしれません。私たちが死について考える以上に、深刻かつ重大で恐怖に似たものであったかもしれません。阿含経の鸚鵡経では、学生スバさんが、人の境遇の違いが何によって生じるのかについて質問し、それについて釈迦が回答しています。釈迦の時代の人々が、それが希望でもあり、心を悩ますことにもなる「生まれ変わりを含む神話的世界観」の中で生きていたのだとすれば、釈迦は自らの教えを説くときに、「生まれ変わりを含む神話的世界観」を認めつつ、「生まれ変わりを含む神話的世界観」をから脱出する方法を取らざるを得なかったでしょう。認知療法をご紹介する本からの引用で恐縮ですが、大野裕先生がこんなことを言われています。「想像は現実よりもずっと苛酷です。空想の中では、現実以上の状況が広がります。」(初めての認知療法 講談社現代新書)。老いることはいかんともしがたいことですが、病気の原因はわからず治療法も確立しておらず、死が予想外に自分を襲うかもしれない社会の中で、生まれ変わりは希望となるかもしれせんが、生まれた階層によって人生が決まってしまい、下層の階級に生まれたり、貧しい家にうまれれば苛酷な人生が予想されます。どうすればよい階層に生まれ変われるか、富貴な家にうまれかわれるのか、ということに心を悩ませるでしょう。上位の階層の人たちにとっては、下位の階層に生まれ変わることを想像することは、恐怖に近いものであったかもしれません。上位の階層の人たちが、自分たちは、下位の階層の人たちとはそもそも違う人間であると考えていたならば、下位の階層に生まれ変わることを、祭祀を怠ったことによる懲罰であると考えても不思議ではありません。想像のお話ではありますが。「不安は「危険」という認知と関係しています。その状況を危険だと判断し、それに対処するだけの力が自分にはなく、他の人たちから助けてもらえないと考え得ると不安にます。(大野裕先生 前掲書)2600年前の釈迦の時代の方々は、私たちと違う「世界」を生きており、私たちとは異なる「想像」「不安」に苦しめられる人々がいた、と考える必要があるように思います。釈迦が説いたことは、釈迦の時代の世界観に合致させながら、今生きている人生の苦しみをなくす方法を説くことで、それによって(当時信じられていた)生まれ変わりへの渇望を断ち切った(悟りを得た)ならば、生まれ変わって、苛酷なこの「神話的世界観」の「想像の世界」の中で、再び生まれ変わり、老いること、病をえること、死ぬことに、悩まされることはないよね、(当時信じられていた)生まれ変わりへの渇望を断ち切って(悟りを得て)も、今生きている人生がなくなるわけじゃないから、今生きている人生の苦しみをなくす方法を会得したことによって、今生きている人生を苦しむことなく生きられるよね、というものであったように思います。大野先生のご専門の「認知療法」の、事実があなたを苦しめるのではなく、事実に対するあなたの考えかた=あなたの認知が、あなたを苦しめるのです、という認知の転換を図る認知療法の考え方と一脈通じる、一脈通じるというより、上記の仮説は、認知の転換そのものです。そのように考えれば、釈迦が説いた「今生きている人生の苦しみをなくす方法」は現代人にも有効であり、釈迦自身が苦悩を克服する過程で得た心の働きについての認識、心の働きの中で、どのようにして苦悩が生じるのか、その苦悩をなくすにはどうしたらよいのか、という方法論は現代人にも参考になるように思います。ということは、「婚活うまくいかない」「どうしよう」「もう嫌だ」「やめたい」という苦悩にも役立つヒントになるのではないでしょうか、という理解から釈迦の考え方、方法論を紹介するものです。私はカウンセラーですので、苦悩をなくす援助をすることが役割ですから、クライエントの苦悩をなくす方法、ヒントとして、釈迦の方法を参照している、とご理解ください。阿含経から引用がありますが、私の阿含経の解釈は、信仰の対象としての釈迦の教えではなく、苦悩を滅した釈迦の心理分析と苦悩をなくす方法のヒント苦悩をなくす方法である瞑想について効果的な方法、留意点という関心から行われています。ですから、布教の意図は全くありません。また阿含経を宣揚し、他の教えとの優劣等を論じる意図もありません。釈迦は、家族の元を離れ修行生活に入りました。もっぱら修行する生活にはいることによって苦悩を完全に滅すつことが出来たようです。現在の私たち、つまり、家族を持ち、労働して生活の糧を得ながら生活している私たちとは、まったく異なる環境で苦しみを滅することのためだけに生活して、苦悩を滅尽した、ということも忘れてはいけない点であると考えます。それゆえ、現在の生活を送りながら私たちが、釈迦の方法論を活用するには、釈迦の説かなかった工夫が必要だと考えます。瞑想の指導者の方からは、瞑想の要点は「概念的思考から離れる」ということをよく聞きます。瞑想の行き着く先として「概念的思考を滅すること」というのは理解しますが、「家族を持ち、労働して生活の糧を得ながら生活しているもの」が概念的思考なしで、現代社会で生活してゆけるでしょうか?私は無理だと思います。無理ではないかもしれませんが、相当に困難だと思います。私たちは、釈迦が悟りに到達するよりも、テーラワーダのお坊さんが出家して解脱に到達するよりも、難しい環境にいると考える必要があるように思います。そのためには、瞑想を「概念化」して「理解して」取り組むこと、心理学や心理療法の考え方を援用することも、「釈迦の説かなかった工夫」の一つだと思います。そのように考えると、マインドフルネス・ストレス低減法を世に送り出したJ.カバットジンさんや、マインドフルネス認知療法を創始した、J.ティーズデールさん、M.ウィリアムズさん、Z.シーガルさんが行った業績への正確な理解が進むように感じます。「信仰」「修行」ではないので、「とにかく信じてみなさい」というスタンスはとりません。そのため「マインドフルネス」について、仏教瞑想や脳の機能や心理学などの観点から説明しようとしているため、説明が煩瑣になってしまい、結果として文量が多くなってしまいました。この点はご了解ください。世間ではセルフコンパッションなんていいます。じぶんにやさしくする、そして人にもやさしくするための方法です。セルフコンパッションにより幸福感が増す、とされいます。自分に対して、これが出来ないからダメなんだ、とかこんな失敗するなんて私は・・・好かれないのかな、魅力ないのかな・・・なんて思ったり、心の中で言葉を自分になげかけていませんか?「そうじゃない、みんな俺を/私をみとめないからだ」って思っていても、うまくいかず婚活戦線を離脱することになったら、同じ思いを抱えることになりますよね。こういう思いは、自分で自分を責めている、つまりていねいに扱っていないことになります。自分で自分を責めてしまう、このようになるのは無理からぬことです。人は他者を責めるとき「反省しなさい」といいます。「反省の態度が見られない」、といってさらに人を責める人もいます。裁判でも「反省の態度」があるかないかが量刑に影響するそうです。日本の人は「反省」が好き、というより「反省させること」「反省の態度を要求すること」が好きなのかもしれません。釈迦は、カウンセリングという観点からみると、とても興味深いことを言っています。五蓋といわれる教えです。瞑想をするときに、自らの心の状態について五つの観点から見てみなさい、というものです。そのうちの一つに、漢訳では、「掉挙悪作」(じょうこおさ)というものがあります。掉挙は心の浮つき、ざわつき、悪作は後悔であるとされています。後悔は、現在において過去の行為を想起して、まずいことをしてしまった、と考えることです。これを他者に対して表明すれば「反省」ということになるでしょう。後悔していて(悪作)、今、目の前のことに集中できず、心が浮つき、ざわついている(掉挙)状況は嫌ですよね。(心が浮つき、ざわついていて、集中できないから「後悔する」という「過去のこと」を思い出してしまう、ということかもしれません。)これは良くないことだから止めなさい、というスタイルを、釈迦はとりません。今、私は概念でご説明していますが、釈迦の心をお弟子さんたちに見せることはできませんから、お弟子さんたちが、瞑想で何を観て、何を知ればよいのかを示し、瞑想する人自身が体験して身に付ける、というスタイルだからです。釈迦の説法とお弟子さんたちの瞑想による「認知の獲得」を()で示します。心に掉挙悪作があるときは、あると知り(=これが釈迦が説く掉挙悪作であるようだとつきとめること)、ない時はないと知り(=突き止めた掉挙悪作が今はないこと、ない時は心が晴れやかで集中できるということを知り)、掉挙悪作が生じたときは生じたと知り(=掉挙悪作がなかったのに、生じて心が集中できなくなったことを知り)、滅ぼされた時には滅ぼされたと知り(=掉挙悪作を無くし心に集中状態が戻ったことを知り)、未来に生じないと知る(=掉挙悪作を起こさないようにする方法を知る)ようにしなさい、というふう釈迦はいわれてます(春秋社 原始仏典第二巻 第22経より要約)。釈迦が教えを説いた時代は、識字率も高くなかったでしょうし、体系的な学校教育によって、現在の私たちのように「概念」によって知識の移転を受けて、「概念の理解度」によって知識の吸収度合いを計測して(試験を受ける)、評価を受けるということは無かったでしょうから、文字が読めない人や、概念的な説明では理解できない人たちにも理解できるように、「あなたがやってみることはこういうことですよ、やってみなさい」と課題を与えて、お弟子さんたちが「体験すること」で教導する「体験学習」であったともとらえらます。釈迦が説いたことは「法」であり「法」は真実であるとされますが、釈迦は自らが説いた「法」を盲目的に信じなさい、ということではなく、「法」はお弟子さんたちが自らの体験と照合して苦悩の生起を知り苦悩を生み出すものを知ることによって「法」が真実であることを自ら証明し納得し、苦悩を生み出すものからの解放、その先にある解脱に導こうとしたのでしょう。そのように考えると、釈迦は「法」という「仮説」をお弟子さんたちに提示し、お弟子さんたちは「法」という「仮説」を自らの体験と重ね合わせて、「法」を証明し実践し「法」を体現することで解脱に至るということと理解できるでしょう。釈迦は、自身の苦悩の分析から、概念的思考それ自体が「苦悩である」とも考えていたようにも思います。それゆえ概念的思考ではなく、「あなたがやってみることはこういうことですよ、やってみなさい」と説明し、お弟子さんたちが「体験すること」で教導する「体験学習」スタイルを取ることにより、概念的思考に陥らないようにしたのではないかとの考えも生じます。そのようにして釈迦は、最終的には掉挙悪作が未来において生じない状態に導くのですが、そのことを我々が日々使っている思考方法、つまり概念的思考で解釈すると、「心がざわつくこと、後悔することは、心が安らかにならず苦悩をなくすためには障害になるからなくしなさい」ということになります。この釈迦の教えは、変えることのできない過去ではなく、選択することのできる将来に向かって生きなさい、ということだけを言っているのではなさそうです。少し長くなりますけれども、苦悩を低減するという観点からは重要ですので説明します。六六経の中で釈迦が、人間のもつ認知する機能も認知したことも(自分だと思っているもの)、自分ではないよね、と言っている根拠が、人間が認知するものは(意識の中で)生起しては衰退してゆくではないか、生起しては衰退してゆくものが自分であると主張するのは成立しないよね、といっているからです。人間の認知は、生起しては衰退してゆくのに、「現在において過去の行為を想起して、まずいことをしてしまった、と考え」つづけたとしたら、自分の認知の流れを止めてしまいます。それは、今自分がしていること、考えていることを自分自身が知っていない、ということになります。「今ここには無くて変えることのできない過去のこと」を悔やんでいたら(一生懸命考えていたら)、「それは、自分が、どうにもならない過去を思いだして、今現在、自分を苦しめ、自分にダメージをあたえる行為をしている、ということに知らないでいるってことだよね」ってことではないかな、と思います。「今現在、自分を苦しめる行為をしている、ということにも気づいていないよね」、だから、自分のしていること、感じていること、心に生じた考えを、リアルタイムでしっかりと見る能力をやしなって「今、自分は、自分を苦しめる行為をしている」ってことを検出して、もう自分を苦しめるのは止めよう、ってなったら苦しみの連鎖、拡大再生産(もう婚活止めたい!って気持ち)からも脱出できんじゃね、ってことになります。「脱出できんじゃね」、とは釈迦はいわれなかったでしょうが、今の言葉でいうとそんな感じだとおもいます。ああしなさい、こうしなさい、ではなく、「メカニズムは、教えてあげたらからさぁ、自分でやらない限り自分の悩み苦しみはなくならないでしょ、やってたしかめてみなよ」というスタイルであると思います。後世の仏教教学は、釈迦が、このようにしてみなさい、こうなるよ、そうすれば解脱に至るよ、説いたことことから、釈迦の到達した立場=解脱に至るためには、こうすることが必要だ、こうすべきだ、という教学になった(大乗は全く別の考え方です)のでしょう。「後悔すること」は、過去の出来事に心を向けて、そこにとどまり苦しみ、かつ今、自分がしていること気づけないことだから、瞑想実践の妨げ、ひいては苦悩をなくす認知を得ることの妨げになる、と説いたのでしょう。もし、悪作を「後悔」という内省的なものではなく、「心残りでわすれられないこと」と考えるのであれば「未完結の経験」ともいえるかもしれません。「未完結の経験」とは、ゲシュタルト療法の概念で、「心理的プロセスが中断されたまま、心残りになっていること」、「体験が完結しないうちは、そのことが何度も意識にのぼるもの」ゲシュタルト療養では、「未完結の経験を統合し、完結させてゆく人の傾向をセラピーの中で実現する」ことで対処します。(基礎から学ぶ心理療法 ナカニシヤ出版 第9章 金子周平さん執筆)「後悔」であっても「未完結の経験」であっても、「婚活をたてなおす」妨げとなるでしょう。「後悔」「未完結の体験」それ自体がプチ苦悩でもあります。「どこが不適合であったか考えてそこを修正しなさい、そうすればあなたは今よりもっと良くなるよ、そうすればきっとうまくゆく」なんてことは、ほとんどの人が言ってくれません。考えてみると不思議です。適切なアドバイスはもらえないうえにさらに、自分で自分を責めるのですから、気分が落ち込みます。私たちカウンセラーは「ダメ出し」なんてことは当然しません。そのうえで、あなたのしきてたこと、今考えていること感じたことを、お聞かせいただいたうえで、今後どのような活動をしていったらよいか?ということを一緒にプランニングしてゆきます。気分が落ち込むというのは、感情が激しく揺さぶられたことの結果であり、感情が動くときにはすごい心のエネルギーを使う(奪われる)ので、気分が落ち込めば次第とやる気はなくなってきます。(休養しているつもりが脳のエネルギーを大量に消費して、疲労が回復しないメカニズムを、脳内ネットワークの概念とともに説明されいるのが、久賀谷亮さんの本(最高の休息法 ダイヤモンド社)です。マインドフルネスについての研究も紹介されています。興味がある方はご参照ください。)釈迦は、もともと人間はこのような性向(苦悩をつくる性向=悩むとエネルギーを大量消費します)がある、だから苦悩をなくすためには、自分が何をしているのか注意深く観察しなさい、と説きましたが、ここではその説明は省略します。推測ですが、挫折してしまう方の大半は、婚活がうまくいかなかったからではなくて、うまくいかないことで、自分を責めて、やる気をなくす方向に自分をもっていってしまったから、というふうには考えられませんか?。自分で自分を責めているのですから、少なくとも自分を、ていねいに扱ってはいませんよね。これを別の角度から見て、言えば、自分で、自分が望まない方向に自分を向かわせている、という態度を取ってはいませんか?考えて、自分を責める、つまり乱暴に扱うことは、止めにしませんか?マインドフルネスを世に知らしめた、J.カバットジンさんは、著書(マインドフルネスストレス低減法、北大路書房)の中で、こんなことを言っています。「太っていて、自分の体が嫌だと感じている人が、思うような体重に減らしてから、自分の体や自分自身を好きになろうとするのは間違っています。もし、あなたが、本当に欲求不満の悪循環を断ち切りたいと思うなら、今の体重のままの自分を好きになるべきなのです。なぜならば、自分を好きになれる瞬間は”今”しかないからです。」林先生流に言えば、いつやるの、今でしょ、ということになります。自分を「ていねいに扱う」とは、自分で、自分が嫌になるような態度とは反対の態度、習慣を心に養う方法ととらえてください。では、自分を「ていねいに扱う」ことを、どう始めたたらよいのでしょうか?今の自分を受けいれ、自分をていねいに扱う、ということは、自分にどういう態度で接したら、自分が嫌にならないだろうか、という態度を知り、そのような態度を自分のなかにつくることです。この場合の、「ていねいに扱う」はケアする、と言い換えてもいいと思います。言い換えれば、自分を自分でどうケアすれば、自分が嫌にならないと感じるだろうか?ということを考えることです。私の例をお話すると、ちょっとした失敗をしたときに、よく「あーバカ失敗した」と言ってしまうことがありました。これは自分が、自分をていねいに扱っていないことだし、自分がしたことを適切に理解もしていない、と気づき、このように言うことを止めました。自分が、自分をていねいに扱っていない、ということはご理解いただけると思います。それでは、自分がしたことを適切に理解もしていない、とはどういうことでしょうか?自分では失敗した、と思っていた出来事、つまり自分がしたことは、自分が当初想定していた手順を抜かしてしまった、それゆえ、事前の予想とは異なる結果となった、しかし「失敗した」と思っている結果は、リカバリーできない決定的な失敗ではなく、自分が想定したとおりにならなかっただけ、ということに気付いたからです。ですから、このブログをお読みの方が、知らず知らずのうちに、自分を責めるような言葉を使っているとしたら、それは、「リカバリーできない決定的な失敗ではなく、自分が想定したとおりにならなかった」ことで、自分を責めて、自分が望まない方向にもっていっている可能性が高いのではないかと思います。自分を「ていねいに扱う」心の態度を養成する方法で、効果的なのは、マインドフルネスの研究の中で欧米でも取り上げられている「metta」「慈悲の瞑想」と言われるものだと思います。正確にいうと、慈は「metta」、悲は「karuna」です。前掲の久賀谷亮さんの本(最高の休息法 ダイヤモンド社)によれば、UCLAでも採用されている、とのことです。日本評論社 「マインドフルネス -基礎と実践-」の中で、有光興記さんが慈悲の瞑想の効果についての研究成果等について説明されています。ただし、効果を上げるには、多少の瞑想訓練が必要になります。ご要望があれば指導いたします。そんなに難しいことをするわけではありません。ここで紹介したくないわけではなく、紹介しているとどんどん分量が増えてしまうので、順次ブログでご紹介してゆきます。まず自分を「ていねいに扱う」ことはどのような心の態度なのかと考えてください。自分を「やさしく扱う」態度でもよいです。でも「大事に扱う」とは考えない方が良いと思います。「大事に扱う」とすると、「大事から大事に扱う」の反対の「大事じゃないから大事に扱わない」っていう考えが出てきてしまいます。大事、大事じゃないという価値判断とは切り離して、とにかく無条件に自分を「ていねいに扱う」「やさしく扱う」ということはどういうことだろうか、と考える方が、よりサステナブルです。例えば私の場合だと、自分を「ていねいに扱う」ことの内容は、「今ここに自分がいることを認める、肯定する」「自分をやさしく注意深く見る」「自分の心身に生じたことを正しく見て、正しく知る」「自分に生じた緊張を緩和しようとして自分に不用意、不適切な言動をしない」「自分に生じた欲求を満たそうとして自分に不用意、不適切な言動をしない」「自分を攻撃しない、自分をやさしくていねいに扱う」というふうにとらえています。自分で自分を批判したり攻撃したりすることに対する対抗策として、「ていねいに扱う」ことは有効だと考えています。少し説明します。自分で自分を攻撃するのは、「こうありたい」自分、自分は「こうでなきゃいけないよね」とかいう考えがあって、多くの場合は、その通りにならない時ですよね。「こうありたい」自分(欲求、期待)、とか「こうでなきゃいけない」とかいう考え(価値判断)があって、その通りになっていないと認知すると、緊張状態が生じます。緊張状態が生じると、その緊張状態を回避または解消したいがために、本末転倒なのですが、できない自分を攻撃したり、または自分の評価を下げて結果と一致させよう(だって自分にはできないんだから仕方なでしょ、という論理)、という思考が働くこともあるようです(すべての人が、というわけではありません)。そのような思考が働くと、自分で自分を攻撃してしまい、「自分を粗暴に扱う」結果になります。心理学では「不適切なコーピング(対処法)」ととらえます。(この辺りの心の働きは、マインドフルネスをやっていると気付くようになります。というより気付く訓練が「マインドフルネス」です。)また、このような心の働きは、後でご紹介する交流分析の考え方でも説明又は理解できるかもしれません。交流分析では、両親の考えを受け継いだ自我状態である「P」(ペアレント)、成長過程での学習から合理的な思考を身に付けた自我状態である「A」(アダルト)、子供の心(直観的、素直な心)、感情をもった自我状態である「C」(チャイルド)の3つの自我状態が人の中にあると想定します。その時々によって「P」「A」「C」の自我状態のどれかが、自分のなかで主導的になる、と考えてもらっていいと思います。(ちなみに「その時々によって「P」「A」「C」の自我状態のどれかが、自分のなかで主導的になる」というとらえ方は、スキーマ療法の「スキーマモード」と類似する印象を持ちます。ご自身について、ある特定の状況では、普段と違う感じかた、対応をしてしまう、と感じるとしたら、交流分析やスキーマ療法の考え方によって、ご自身への理解、苦悩の解消が進むかもしれません。)もし「こうでなきゃいけない」という考えに明確な根拠がない場合は、ご両親から意識せずに受け継いだものかもしれません。この考え方が、重要というか肝なのは、両親について「嫌だな」と感じる面であっても、両親との関係に現在問題がなくても、結構受けついでしまっている、ということがあることです。知らず知らずにうちに、もしくは両親の過去のあなたへの接し方から、あなたにもたらされる葛藤を克服するために、両親の考えを積極的に取り入れている、ということかもしれません。ご両親、もしくはどちらかが厳格な方で、こうでなければいけないんだ、とか、「こうでなければいけない」に基づいてしっかりしなさい、とか言われて(かかわり方、という意味でストロークと言います)育った場合、そのような両親の考え方を取り入れた「P」が自部の中に形成され「こうでなきゃいけない、そうでないと愛されない」という考えが形成されるかもしれません。そして、「こうでなきゃいけない」行動をとれない自分は、いけない自分、両親に認められない自分、ということになります。(「こうでなきゃいけない」という考え方自体を、現在の「A」(アダルト)が、悩ましいと考えているかもしれません。)そうなると「C」は、両親に認められないという緊張状態を回避するため(だって自分にはできないんだから仕方なでしょ、という論理)を持ち出して、自分の評価を引き下げて(心の中におこる両親からの叱正に対して)自分を防衛する、ということも考えらえます。私の場合は、母親が頭ごなしに叱るばかりで、何故それがいけないことなのか、何に起こっているのかわからなかったで、私には、母親が怒っている(怖い、嫌だ)、としか認識できませんでした。(後年、当時母は、舅、つまり祖父との関係が非常に悪く精神的に相当な負荷がかかっていた(母親本人の性格にも一因がありますが)、ということを理解しました。私はその犠牲者だったという側面もあったようです。)それゆえでしょうか、私は自分を責めるときには、「P」つまり母親ならこういう言葉で攻撃するだろうな、という感覚を味わいながら自分を責めていることが多いです。嫌だと思いながら(嫌だからこそ克服するためでしょう)、母親のスタイルを取り込んでいるようです。当然、頭ごなしに叱られている自分の感情の記憶も再現されますから、(今では怖い、嫌だという感情はありませんが)気分は下がります。それなら、「こうありたい」自分(欲求、期待)、とか「こうでなきゃいけない」という考え(価値判断)を修正すればいいんじゃないの、とお考えになるかもしれません。「こんな考えしなくていいんだ」というふうに意識できて、「はい、変えます」と簡単に修正できるのであれば、それでいいと思います。ですが、簡単にはできないことが多いように思います。なぜならば、それらは、今まで生きてきた中で、あなたを取り巻く人々との関係に適応するために維持され強化されてきた(適合的であった側面もある)ものだからです。例えば、スキーマ療法などでは、生育暦をさかのぼれるまでさかのぼって、今の自分に不適合な考えを形成した経験を特定して、現在の「大人の合理的な判断」で経験を再解釈し、現在の自分を苦しめている「早期不適合スキーマ」を修正するという作業をします。これだけでも大変です。この作業は、自分が思い出したくない経験や感情を再体験するというつらい経験をします。この作業は、心理的な負担つまり、心のエネルギーを相当使う上に、心理的な圧迫を伴うこともありますので、簡単にできるとは考えない方がいいです。私もやっていますが休み休みです。カウンセラーであっても、やるとがっつり疲れます。ただし、部分的ではあっても修正できると、かなり「生きるのが楽」に感じるようにはなります。なんでこんな大変なことをやる人がいるのかというと、大変な作業であっても「なくしたい苦悩」や「生き苦しさ」があるからです。ですから、どうしても「なくしたい苦悩」「生き苦しさ」がない方は手を付けない方がいいです。また取り組む必然性もありません。言い方を変えれば、支払う労力が大きくても、それ以上に得られるもの(生きることが楽になるなどの感覚)が、大きい方と感じる方が検討されたほうがいい方法です。私の場合はカウンセラーとして、自己理解(これが一番難しいと言われいます)と、療法の勉強の一環としてやっています。それゆえ、私は、カウンセラーとしてクライアントに向き合う時に、自分にとって好まし態度として、「私を批判しない、私を責めない、私の良し悪しを判定しない、私と争わない、私を粗暴にあつかわず、ていねいに扱う」という態度を育ること。クライエントに対しては、私の心の中であっても(心の態度として)、「クライエントを批判しない、クライエントを責めない、クライエントの良し悪しを判定しない、クライエントと争わない、クライエントを粗暴にあつかわず、ていねいに扱う」態度を育てることを意識してやっています。実はこのような態度は、マインドフルネスが、自分の思考を扱う際の基本的な方向性(目指す心理的な態度)そのものです。後悔は役に立たない、とお話したときの「悪作」は早期不適合スキーマ、という考え方も成立するかもしれません。なぜかというと、早期不適合スキーマによる「現在感じる不快感、苦悩」は、瞑想への集中状態を妨げることになるからです。瞑想により相当程度集中力が高まり、初禅に達しているならば、「現在感じる不快感、苦悩」が過去に経験した不快な経験によって経験された感情の再現であるということは、比較的容易つきとめられるであろうと考えられます。ヴィパッサナー瞑想は、サマディーの段階としては低次の段階にとどまるとされています。なぜかというと、楽や喜という感覚すらも滅した高次のサマディーでは、「法」とはどのようなものかという考察が出来ないからです。自らの体験に照らして法を理解し、それを実践して解脱にいたるという方法論を取る場合には、低次のサマーディ、「尋」「伺」という思考を残した初禅にとどまって「法」を考察する必要があります。より高次のサマディーに至るには、「現在感じる不快感、苦悩」の原因を滅する必要がありますから、釈迦が感じた早期不適合スキーマ類似の心理を「kukkucca」とし、漢訳者たちが「kukkucca」とは、「自らが過去に作った今の自分を苦しめる悪い考え」と理解して「悪作」という字をあてた、と考えても心理療法の観点からは、まったく無理がありません。早期不適合スキーマとは、無条件に愛されたい守ってもらいたいなどの、幼少時に本来子供が持っており満たされて当然の欲求が充足されなかったことにより、幼少時(早期)に形成された不適合な”スキーマ”=過去の経験から一般化され、思考や判断、認知などの活動を支える構造化された知識(※)、のことです。早期不適合スキーマの原因が、例えば両親のネグレクトや暴力にあったとしても、早期不適合スキーマ自体は、あくまでも本人の認知の中に存在しますから、スキーマ療法では、心理職(カウンセラー、セラピスト)の援助を受けながら、早期不適合スキーマを抱えた方自らが、早期不適合スキーマを修正、除去してゆくことになります。釈迦は、徹底して自己の心の機能を観察した方であった(つまり徹底した認知論者であった)と理解していますので、「kukkucca」を「自らが過去に作った今の自分を苦しめる悪い考え」であったと認知し、自ら修正したことは十分に可能であっただろうと考えています。考え方を少し変えてみれば、釈迦の苦悩の中には、早期不適合スキーマが含まれていた、ということかもしれません。釈迦は、生後間もなく生母を無くしているそうです。生母を失ったということを幼少期に知ったとすれば、当時の世界観に従って、母は生まれ変わってどこかにいるはず、なんで自分を置いて生まれ変わったの?という怒りにも似た思慕の感情が起こっても、心理療法の観点から見ればおかしくはないでしょう。(※)大山泰宏さん産業カウンセラー養成講座テキストより話がすこし、「metta」の方法の説明からはなれれてしまいました。「ていねいに扱う」方法に戻ります。自分を「慈しむ方法」として、自分を「ていねいに扱う」とはどういう心の態度だろうかと考えてください。そして、ご自身で考えた、自分を「ていねいに扱う」考え方を、言葉にして表してください。このとき「ていねいに扱う」考え方は、あくまでも自分の扱い方ですが、他者にも向けてゆくので、他者に向けられない考えはまずいです。あまりないとは思いますが「自分のことを一番に考えて、ていねいに扱います」とした場合、それを他者に向けると「他者のことを一番に考えて、ていねいに扱います」となってしまいます。自分も一番、他者も一番という考え方も成立すると主張される方もいらっしゃるかもしれませんが、「脳は、自分が意図しただけでは意図したように働いてくれない」という考えが、マインドフルネスや瞑想の前提にはあって、「脳が、自分で意図した方向に働くよう継続して働きかける」ことがマインドフルネスであり瞑想と考えられます。そのように考えると、「自分も一番、他者も一番」という考え方は、そのような働きかけをうけた脳が混乱する可能性があります。ですから、自分に向けても、他者に向けても無理のない「ていねいに扱う」考え方が良いと思います。私の例でいうと「私は、私を批判しません、私を攻撃しません、私を他者やと比較せず、評価しません、判定しません、私のしたことを適切に理解して、私を粗暴にあつかわず、ていねいに扱います」ということは「他者を」に入れ替えても無理なく成立します。自分を「ていねいに扱う」考え方は、次の観点も入れてください。他者と自分を比較しない優劣を考えない自分の価値を考えない「人にはその人独自の個性がある」と考えると、そもそも、人と人を比較すること自体が「かなり無理がある」ように思います。比較や評価というのは、ある尺度をあてて、その尺度の下でのみ、可能となるものです。学校であれば、「学力についての人為的に作られた試験の点数」という尺度、スポーツであれば「人為的なルールのもとでの勝敗やタイム、人為的な採点に基づく得点」という尺度、企業内であれば「人為的に考えた評価機基準に基づく人為的な判断による評価」という尺度です。つまり、本来比較できないこと評価できないことを、優劣を判定したり評価したりしたいがために、人為的な尺度を考え出して当てはめて比較し、優劣を判定しているのです。ですから、優劣、比較や評価は、あくまでも「人為的な尺度」のもとでのみ可能、と考えた方が良いでしょう。社会的な必要性から尺度が作られて、比較して優劣をつけてはいるのでしょうが、比較や優劣の判断が必要ないところにまで比較、優劣の判断を持ち込まないほうがいいと思います。自分を「ていねいに扱う」ときには、他者と自分を比較して、という態度、考え方は持たない方がいいと思います。仏教では「生き物を殺すこと」は、悪行とされています。どのような考え方から、生き物を殺すことを悪行と考えたのか、馬場紀寿先生「初期仏教」(岩波新書1735)から、初期仏教が考える「行為」についての考察を引用します。「『意志』を核として行為論を組み立てたことは、仏教が生命の範囲を人間と動物にとどめ、植物に広げなかったことを裏付ける。人間や動物には意思があるのに対し、植物には意思がないと考えたからである。意志がなければ行為をすることもないから、植物は輪廻せず、生命がないことになる。」生き物を殺すことを悪行としたのは、「『意志』を核として行為論を組み立て」「あくまで自分で自分の行為を律する」「意思の発現として他者に及ぼす行為が自分に折り返してくる結果にもとづく」「自身で生み出す規範」としたから、と馬場先生は説明されています。「鸚鵡経」では、学生スバさんの、短命や長寿、多病の人々、無病の人々などの違いはなぜ生じるのですか、という質問に、釈迦は「生き物たちは自分の行為(業)を持つ者であり、行為の相続人であり、行為の行き着く場所なのです。」と言っています(春秋社 原始仏典第7巻 第135経)。釈迦は、天や神という自己を超越したものへの信仰による救い=『自らの意志で判断することを「放棄」し、天や神を信仰または一体感を感じること、天や神に「任せきる」ことで安心立命を得ること』を選択せず、運命論や宿命論を排し、「意志による自らの行為が自分を幸せにし、不幸にもする」と考えたようです。自己の外部に救いを求めず、徹頭徹尾、自分の心の働きを観察し、その観察に基づき自分を律することによって苦悩を滅した釈迦の強靭さを感じます。※「春秋社 原始仏典第7巻 第135経」の中に、〔すべての行為は前世の行為によってもたらされる〕との表題がついた章がありますが、釈迦がスバさんに語ったことは、おのれが今現在行う行為によって(将来の)生まれが決まるということを説明しており、前世の行為によって現在のあなたの生まれが決まっている、という説明はしていません。前世、現世、来世を説明する後世の十二支縁起からすれば〔すべての行為は前世の行為によってもたらされる〕という表題は整合的ですが、「実際には、十二項目の縁起を釈迦がはじめから観じたのではないことは確かである。」との竹村牧男先生のお考えおよび「その十二支縁起がはじめどのようなものとして具体的に考えられていたのかは不審だが、のちの『倶舎論』の説明によると、生死輪廻の、過去・現在・未来三世の因果として次のようになる。」とのご説明(インド仏教の歴史 講談社学術文庫)を踏まえると、釈迦の話した内容に、十二支縁起に説かれる三世の因果を前提とした表題をつけることは適切でないと感じています。また、前記竹村先生の著書の聖求経の引用「我が解脱は不動である。これは最後の生存である。もはや再び生存することは無い。」との釈迦の言葉を、当時の社会において支配的であった「人は生まれ変わるという」多くの人が信じるがゆえの「真理」に対して、「生まれ変わりへの渇望を完全に断ち切った」=生まれ変わりへの渇望はみんなが持っているが、私は、生まれ変わりの有無に拘泥することなく「生まれ変わりへの渇望を完全に断ち切った」と理解することも可能です。私はその理解の方が適切だと思っています。釈迦は、スバさんに、当時の社会において支配的であった「人は生まれ変わるという」考え方を下敷きに、スバさんの現在の行いによって、将来どのように生まれるかが決まるのですよ、という形の説法で、「今現在のあなたの行為を良いものにすれば、良い生まれ変わりが出来ますよ」と説きながら、「今現在のあなたの行為を良いものにすれば、現在のあなたの苦悩がなくなりますよ」と説いたと考える方が妥当だと思います。スバさんは、釈迦のお話をきいて弟子入りしたようですから、スバさんが「生まれ変わりへの渇望を完全に断ち切」れば、釈迦に問うた疑問自体が意味をなさなくなり、「今ここにない生まれ変わりという将来のことに悩まされること」なく、「今生きている自分の行為を律することで、今生きている人生の苦悩をなくす」ことができます。これこそが釈迦が教えを説いたことの目的ではないかと思います。生まれ変わりを当然と考えている人には、生まれ変わりを前提としてお話をしなければ、理解もされず、そもそも聞く耳を持たないかもしれません。動物には昆虫なども含むようですが、「生物多様性」という考え方は、2600年前にはなかったでしょう。馬場先生のご説明に、「全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし」(ブッダの言葉 中村元訳 岩波文庫)を重ね合わせると、私には、どうも釈迦は、こう考えていたのではないか、という考えが生まれます。「生きていることに価値があるんだよ」「価値があるから生きているんじゃないよ」「優れているから価値があるとか、劣っているから価値がないとか考えないことだよ」「自分の行為をとおして自分を大事にすることを通してしか、自分の幸せをつくってゆくことはできないよ」自分を「ていねいに扱い」、なおかつ他者も「ていねいに扱う」という心の態度は、比較、優劣の判断、価値の判断とは無縁の考え方なように思います。自分の「ていねいに扱う」考え方が作れたら、朝起きた時、就寝前にベッドや椅子に腰かけて、心を落ち着けて、心の中で「ていねいに扱う」言葉を唱えます。「ていねいに扱う」は、「心の態度」なので、「心の態度」そのものを直接作り出すことが望ましいのですが、それは簡単ではありません。瞑想の方法としては、意識を集中してこの気持ちを「作り」「大きく」するのですが、それは上級者でないとできません。あなたはそれができるの?と聞かれたら、できてません、と答えます。しかし、意識の集中の前提となる、心と体が「楽」で集中している状態(サマーディ)で、言葉で気持ちを作り、心の態度をつくり、それを他者へ向けてゆくことはできているようです。「慈悲の瞑想」は、テーラワーダでは定型文があり、ヴィパッサナー瞑想を行うとき、その定型文が最初に唱えられるようです。ヴィパッサナー瞑想は、観察のための瞑想であり、観察力を高めるため集中力を高める必要があります。集中力を高めるために、集中の瞑想である「慈悲の瞑想」を最初に行うようです。また修行の一環としての「慈悲の心」を養うという意味あるでしょう。「慈悲の心」といいますが、正確な内容(ねらいとしているところ)は、慈悲喜捨という4つの心です。「心と体が「楽」で集中している状態(サマーディ)」の初期段階では、思考は出来ます(尋、伺)ので、自分に養いたいと感じた心の態度を、瞑想文として唱えることもできます。「metta」を行う際は、言葉の力を借りて気持ち、心の態度をつくるようにします。仏教瞑想では、瞑想対象によって異なりますが、言葉の力を借りて集中状態をつくるようです。集中状態が高まってくるにつれて、言葉を放してゆくことが出来るようになるようです。言葉は、「筏を大きな川を渡るためのものであって、渡った後に担ぐものではない。」(馬場紀寿さん 初期仏教 岩波新書175 蛇喩経引用)の譬えの筏のようなものと理解してください。まず「慈しみ」の内容を自分で確認して、育てます。「私は、私に慈しみを向けます」と唱えて[自分で考えた「ていねいに扱う」考え方]を言葉にして唱えます。私の場合だと「私は今自分がここにいることを認めます、肯定します」「私は私に、やさしく注意深いまなざしを向けます」「私の心身に生じたことを正しく見て、正しく知ります」「私に生じた緊張を緩和しようとして私に対して不用意、不適切な言動をとりません」「私に生じた欲求を満たそうとして私に対して不用意、不適切な言動をとりません」「私は私を攻撃的しません、私は私をやさしくていねいに扱います」という言葉をとなえます。綺麗な言葉を並べるよりも、「自分にとって説得力、納得性がある内容であること」が大事です。ちなみに、「私は今自分がここにいることを認めます、肯定します」「私は私に、やさしく注意深いまなざしを向けます」「私の心身に生じたことを正しく見て、正しく知ります」は、マインドフルネスが実現しようとしている心理的な態度になります。まずは、「慈しみ」を育てるために何回か繰り返して唱えてください。私は、「私に慈しみを向けます」と唱えながら、上の項目を心に思い浮かべます。言葉で唱えず、いわゆる「念」=心にとどめおく、という作業をします。※マインドフルネスの語源:パーリ語の「sati」に、「念」(心にとどめおく、好ましい心の状態をつくる)という解釈で、リス・デイヴィッズさんという方が、「mindfulness」という英語をあてたことに由来するようです。その後テーラワーダのお坊さんから、「sati」は「念」ではなく、「最低限のありのままの注意」(bareattention)であるという指摘がなされ、欧米では「mindfulness」とは、「ありのままの注意」である、という考え方がデファクトスタンダードとなったようです。日本評論社 マインドフルネスー基礎と実践ー)次に親しい人に向けます。親しい人は、家族が良いとされていますので、「私は慈しみを家族に向けます」と唱えて慈しみの心を向けます。私の場合の考え方を例にとれば、「私は慈しみを家族に向けます。」「私は今家族がそこにいることを認めます、肯定します」「私は家族に、やさしく注意深いまなざしを向けます」「家族の心身に生じたことを正しく見て、正しく知ります」「私に生じた緊張を緩和しようとして、家族に不用意、不適切な言動をとりません」「私に生じた欲求を満たそうとして、家族に不用意、不適切な言動をとりません」「私は家族を攻撃的しません、私は家族をやさしくていねいに扱います」と2回~3回唱えてもよいですし、「私は慈しみを家族に向けます」と唱えながら、上記の6つの「慈しみ」の考え方、心の態度を「心の中に思い浮かべて」家族に向けてもよいでしょう。この「metta」「慈しみの瞑想」の狙いは、自分を「ていねいに扱う」ことで、「婚活をたてなおす」こと、あなたの「ていねいに扱う」態度が、お見合い相手や交際相手にも波及すること、それによって、あなたのお相手への印象を向上させることを効果として期待していますですから、「家族が、自ら自分と同じ慈しみを持つこと」を願うのではなく、「私は、家族に・・・します。」というあなたの慈しみを、家族に向けるという方向性でよいと思います。それから周囲の人に向けます。そして次に、ここが少し大変なのですが、私が嫌いな人々、私を嫌いな人々にも向けます。ちょっと修行っぽいですね。でもちょっと考えてくださいね。あの人嫌い、あの人のこと考えるとむかつく、あの人は私のことが嫌いだから、私も嫌い、と考えた時、心がかき乱されれ、心に嫌な気持ちが起こるのは誰でしょうか。嫌いなあの人の心にでもなく、私を嫌いなあの人の心にでもありません。嫌いな人、あなたを嫌いな人を想像しただけで、あなたの心に嫌な気持ち、「プチ苦悩」が生まれるわけです。バカバカしくありませんか?ですから、嫌いな人にも、私を嫌いな人にも「慈しみ」を向けて、言い換えれば、嫌いなあの人を思い浮かべて「嫌」「嫌い」という気持ちをおこさないようにして、自分に「プチ苦悩」をつくらないようにする訓練です。そう割り切りましょう。これは認知行動療法では暴露法、エクスポージャー法と同じ効果をもたらすように思います。自分が緊張状態に陥る状況(対応が苦手な人に会う、対応が苦手な人に会うことを想像することは、嫌悪感から緊張状態をもたらします)を、積極的に想像してみる、もしくはその状況に身を置くことで、耐性を作ってゆく、つまり耐えられた、という経験から、対応が苦手な人に会って自分には、嫌悪感がおこらず緊張も生じない、という反応と認知を形成してゆくのと似ています。瞑想の場合の目的は、嫌いな人、私を嫌いな人を想像しても、見ても、会っても、自分の心に「プチ苦悩」をつくらないことです。(誤解しないでくださいね、あの人が嫌いな理由が、ハラスメントや強要などによるものであれば、それは別の次元の話です。ハラスメントや強要に対しては、相談窓口等への相談により対処して、自分の身体の安全および心理的安全性を確保してください。)「嫌いなあの人、私を嫌っているあの人のために祈る」のではなく、私の心をキレイにする、私の心の負担をなくすためにするのだ、と。このように唱えても構いません。「私は、嫌いな人々、私を嫌いな人々にも慈しみの心を向けます。これは私の心をキレイにし、私の心の負担をなくすために行います。」このように唱え、「プチ苦悩」が無くなる、または低減すれば効果は、あなたの心の改善効果は大きいでしょう。そもそも、釈迦の考え方は、完全な自力救済です。すでにご説明していますが、「自分の意志による行為が自分を幸せにも不幸にもする」というものであったようですから、「自分の幸せは自分の行為で作るしかないよね」ということになります。宗教的な観点からすれば、他者のために祈ることはとても価値のあること、心の成長をもたらすことなどと言われるでしょう。しかし、釈迦の考え方は、宗教的な先入観のないカウンセラーやセラピスト(心理療法家)であれば、ごく当然のことと理解されるだろうと思います。カウンセリングにしても、心理療法にしても、カウンセラーやセラピストが癒す、つまり「苦悩から解放する」わけではありません。苦悩を低減する、苦悩を克服するのはクライエント自身です。クライエント自身が、苦悩を低減したい、苦悩を克服したいと考え、主体的に取り組まない限り成果は期待できません。カウンセラーやセラピストにできることは、クライエント自らが苦悩を低減すること苦悩を克服することを援助をすること、具体的に言えば、クライエントが課題の認識に至る過程での援助、クライエントが課題を解決するプロセスでの援助だけです。「私の心をキレイにする、私の心の負担をなくす」ことで心穏やかで過ごせますから、脳に負担がかかりません。なにより「イヤ」「嫌い」という回路に使用頻度が少なくなります。「イヤ」「嫌い」という回路に使用頻度が少なくなれば、その回路は弱くなり、心が次第に穏やかになります。釈迦は、心穏やかであることを重視しています。(春秋社 原始仏典第7巻 第118経より)「喜んでいる人は身体も安らぎ、心もやすらぐ。」「身体が安らいで幸せな人の心は集中する。」「集中」するは、マインドフルネスの中核的な方法、手段です。「うまくいってなくて、悩んでいるのにどうやって安らぐの?」という方こそ、「安らぐことが出来ない感情のループ」を断ち切るために、まずは、「metta」からは始めてはいかがでしょうか。最後に「生きとし生けるもの」に「慈しみ」「ていねいに扱う」態度を向けて終わります。家族と顔を合わせた時、同僚と会った時、取引先に会ったった時、嫌いな人に合った時、一瞬でも「ていねいに扱う」という考えが起こったなら、あなたの中に確実に育っている考えていいと思います。必要なことはあなたの心の中に、「ていねいに扱う」「慈しみ」の心の態度が作られることであり、意識的に努力して行動することではありません。はっきり言ってしまいますが、「プチ苦悩」の生まれるメカニズムは、釈迦の教えの「肝」です。自分の心の動きを理解して、「プチ苦悩」の生まれるメカニズムが解るようになれば、釈迦の説いている、人に苦悩が発生するメカニズムと、それをなくす方法は「なるほど、そういうことか」ってなります。なぜならば釈迦は、「人々が理解できない高度な教え」を説いたのではなく、誰の心においても発生する、注意深く観察しさえすれば知ることのできる心の働きと、その結果心に生まれる思考や感情、そして苦悩を知り、それらを無くす方法を説いたからです。マインドフルネス認知療法第2版(北大路書房)ではこんなことが書かれています。「私たちが、『感情』として経験するものは、思考、感情、身体感覚、衝動のパッケージである。パッケージの構成要素は密接に絡み合っているので区別するのが非常に難しいことが多いーとはいえ、それらに近づいて学べることを学べば、この構成要素がお互いを強め合い苦悩を増大、悪化させていること、そして苦悩が引き起こすダメージを修復しようとする私たちの努力を理解できる。」「パッケージ」を理解する方法の一つが「色受想行識」という「五蘊」の機能で、心の動きを理解することです。自分の心の動きを理解することが出来れば、「プチ苦悩」の発生を知ることができ、知ることが出来れば予防することが出来ます。「発生を知る、それがなくなることを知る、そうすればば発生を防ぐことが出来る」というのも釈迦の重要な方法論です。この場合、たぶん、という限定つきなのですが、「釈迦の人間の考え方」で押さえておきたいことは、対象が存在していて、それを人が認識するのではなく、対象を認識する限りにおいて、その対象は存在する、今現在の五感の感受とは関係なく、心は考えを作り出し認識し存在させるその前提として、生きている限り人は認識する機能が働きつづける、それゆえ認識することが生きることであり、人とは認識する機能にほかならない、認識する機能それ自体は、制止できない制止できないから、認識する機能は認知する過程で苦悩を生み出し、認識する機能自体に執着し、それがまた苦悩を生むゆえに生きることは苦脳を感じ続けることできることは、注意深く観察し、何を感受し何が心に生じたのかを知り、適切に対処することだけである適切に対処すれば苦悩を生み出すことがなくなるだろう以上のようにとらえると、釈迦の説くことは理解しやすいように感じます。かなり「根暗」な考え方ですが、常人が到達できない位まで認識の感度を研ぎ澄まし、観察力を上げてゆくと「自分でコントールできない領域への認知が増し」、「自分でコントールできない」からこそ「苦悩」ととらえるのでしょう。仏教学者さんたちは、「色受想行識」以下のようにとらえています。「色」は「物質的なもの」とされます。また物質としての身体の意味で「姿」する考えもあります。文脈上「物質としての身体」とするのが適切か、見たものなどの「物資的なもの」とするのが適切か、という観点の違いからであるようです。「受」は「感覚的感受」「知覚や感覚」としています。「想」を「表象作用」、「表象」「行」は「潜在形成力」、「諸形成作用」とし、「識」を「識別作用」、「認識・分節作用」としています。(春秋社 原始仏典第2巻 第22経渡辺研二さん訳、岩波新書1735 初期仏教 馬場紀寿さんより)私の実例で説明します。わかりやすくアレンジしてありますが、私の心に生起した内容は事実です。複数人のミーティングに先立って、ある方と10分くらいお話して自分の意見を伝えました。その方が中心となりミーティングが始まりました。その方がミーティングの中で、私がその方にお話ししたことについて言及されたのですが、私の意図とは異なっていました。私はその時「違和感」「引っ掛かり」のようなものを感じました。ミーティング中は、ミーティングの目的にそって話、私は「違和感」「引っ掛かり」について発言せず、問題にはしませんでした。ミーティング終了後、一人になって「違和感」「引っ掛かり」について考えたところ、「わかってもらえなかったのかな」考えたところ「悲しい」「虚しい」という感情(プチ苦悩)が生まれました。「でも、あの人の立場だったらわかってしかるべきだ」と考えたところ「怒り」(プチ苦悩)が生まれました。「まぁ、それがあの人の理解力の限界なのかな」と考えたら「怒り」(プチ苦悩)はなくなりました。「受」とされるのは、私が「違和感」「引っ掛かり」と感じたことと理解して良いでしょう。「受」は、「楽しみの感受」、「苦しみの感受」、「苦しみでも楽しみでもない感受」の(知る=観察する対象として)3種類あるとされています。(春秋社 原始仏典第2巻 第22経大念処経より)「想」は、①「違和感」「引っ掛かり」とを受けて私の心に起こった、言葉になる前の「想い」。②「行」によって形成された「わかってもらえなかったのかな」「でも、あの人の立場だったらわかってしかるべきだ」「まぁ、それがあの人の理解力の限界なのかな」を認識した「識」によって記憶と照合して呼び覚まされた「悲しい」「虚しい」「怒り」という感情。「行」は、①「想」を受けて、「わかってもらえなかったのかな」「でも、あの人の立場だったらわかってしかるべきだ」「まぁ、それがあの人の理解力の限界なのかな」という「言葉による認識を形成した機能」(意行)②「悲しい」「虚しい」「怒り」という認識(言葉)を形成したこと。③私がミーティングの場で「そういう主旨でいったんではないです」と発言すればそれも、「行」(口行もしくは身行)となります。「識」は、①「想」を「行」によって言語化する際に、記憶と照合して感情を呼び覚ます(生起させる)機能②「想」「行」によって形成された言葉(概念)により「悲しい」「虚しい」「怒り」を生起させ、それらが生まれたと「識別し」、「怒り」がなくなったと「識別した」機能以上のようにとらえていいように思います。「受」「想」「行」「識」の機能によって生み出された思考は、「悲しい」「虚しい」「怒り」という感情(プチ苦悩)を生み出し、また「怒り」(プチ苦悩)を消滅させました。「想」を受けて行われた「行」=言語化された思考/行動は、「識」によって記憶と照合され、「感情」(プチ苦悩)を生起させ、場合によっては消滅させると言えそうです。この考え方を脳の機能から検討するために、後にも引用していますが、大山泰宏先生の、脳の「海馬」の働きのご説明をここでも引用します。太字は宮崎が付したものです。「海馬は、記憶の形成や保持に重要な働きをすると言われている。私たちが経験したことは、大脳で意味的な処理をされる以前に、いったんこの海馬にしばらくのあいだ蓄えられる。」「その記憶は過去の記憶と結びつけられたり、比較されたたりといった意味処理をまだされていないので断片的である。海馬に蓄えられているあいだに記憶は整理され、大脳新皮質に伝えられ、体系化された記憶となり、長期的に残るようになる。」「海馬の先端には情動に関する中心的な役割を担う偏桃体がある。この脳の構造が意味することは、意味化される以前の体験と記憶は、情動体験と深く結びついているということである。」「受」=「感覚的感受」「知覚や感覚」、「想」=「表象作用」「表象」は、「大脳で意味的な処理をされる以前」の「その記憶は過去の記憶と結びつけられたり、比較されたたりといった意味処理をまだされていないので断片的」な記憶に基づく、「意味化される以前の体験と記憶は、情動体験と深く結びついている」心の機能と言えるように思います。「識」=「識別作用」、「認識・分節作用」は、「過去の記憶と結びつけられたり、比較されたたりといった意味処理」機能や、「整理され、大脳新皮質に伝えられ、体系化された記憶となり、長期的に残る」記憶の機能と考えられます。「行」=「潜在形成力」、「諸形成作用」は、「情動体験と深く結びついている」「受」「想」を、「識」の「過去の記憶と結びつけられたり、比較されたたりといった意味処理」機能を援用して、言語により明確化し、その結果として行動につながる機能と言えるのではないでしょうか。「受」「想」は、「大脳で意味的な処理をされる以前」、「海馬の先端には情動に関する中心的な役割を担う偏桃体がある。この脳の構造が意味することは、意味化される以前の体験と記憶は、情動体験と深く結びついている」という脳の働きと考えると、釈迦の人間に対する考え方(認知論)と、ヴィパッサナー瞑想による観察力の涵養の意味が理解できるように思います。つまり人間は、「大脳で意味的な処理をされる以前」「意味処理をまだされていない」段階で、「受」「想」の働きによって、情動的な反応が刺激され、「識」を援用しておこなう「行」の方向性を決めてしまう、という人間の認知の特性を知らない(貪瞋痴の「痴」の状態)から苦しみを生み出すのではないですか、ヴィパッサナー瞑想による四念処でそれは確認できますよ、確認できれば、どうすれば苦悩から逃れられるかは自ずとわかりますよね、と釈迦は言われているように思います。後にまたご紹介しますが、念身経では、『身体に向けた注意』を養うと、10の利益が得られますよ(春秋社 原始仏典第7巻 第119経より)と説いて、その一番目、二番目として次のことをあげています。1.好き嫌いを克服できるようになる。2.恐れと怖気を克服できるようになる。双方とも、情動的な反応を克服できますよ、と言い換えられます。『身体に向けた注意』を養う、つまりヴィパッサナー瞑想では、観察しているときに思考が生じると「妄想」とラベリングして放す、つまり思考には取り合わないという態度をとって観察を続けます。「妄想」とラベリングして、思考には取り合わないという態度を取り続けることによって、感情の生成は抑制されます。ヴィパッサナー瞑想を継続して行っていると、ある時点でこのことは体験できます。『身体に向けた注意』を養うエクササイズで「思考には取り合わないという態度を取り続けること」「感情の生成は抑制される」ことを、海馬ー偏桃体での情報のやり取りが細ること、というふうに考えると、「好き嫌いを克服できるようになる」、「恐れと怖気を克服できるようになる」という利益が、『身体に向けた注意』を養うことによってもたらされることは、ごく自然なことだと了解できます。また、観察への集中によって思考が停止し、思考の停止によって感情の生成が停止され、感情がなくなった状態(初禅)を経験すると、気分を下げることだけでなく気分をあげることや、何かをいいと思いそれに執着することにも抵抗感(うっとおしいという感覚)を覚えるようになります。このことは、脳が感情の生成を嫌っているかのような印象を持ちます。脳は快適な状態を求めますから、疲労感を生む感情の生成を行われないという状態を経験すると、脳の生理からも感情の生成を抑制するという機能が働くように感じています。これもレジリエンスと言えるかもしれません。海馬と偏桃体のつながりや脳の構造を考えると「うまくいかない、どうしよう」という思いを抱えながら、検索して「こうすればうまくいく」という投稿を読んで、一喜一憂することは、脳にとっては、あまり好ましい影響をもたらさないように思われます。色受想行識=五蘊の観察(ヴィパッサナー瞑想)について、アルボムッレ・スマナサーラ先生は、このように説明されています。「受想行識は同時に生まれるのです。ですから同じものであると誤解する恐れもあります。同時に生まれても、受想行識の機能は互いに違います。五蘊を観察する修行者は、受想行識のそれぞれの機能で区別して、観察するのです。」(サンガ刊 大念処経)同時に起こることを、機能で区別するのですから、高い集中力と観察力が必要になると言えます。ヴィパッサナー瞑想が、身の随観、受の随観、心の随観と進んでゆくのは、高い集中力と観察力を養うため、と言えそうです。釈迦はこのように説かれています。「苦の感受を受けているときに、人が、愁い、悲しみ、嘆き、胸を打って泣き、迷妄におちいるなら、かれのなかに怒りうらむ性向(瞋恚随眠)が潜在する」(春秋社 原始仏典第7巻 第148経六六経)これを、今回のケースに当てはめてみると、もし仮に、私の心に生じた「悲しい」「虚しい」「怒り」の感情を、私がミーティングで表明したとすれば、私の心には、発言という「行」によって「怒りうらむ性向(瞋恚随眠)が潜在」(プチ苦悩が強くなって潜在)したかもしれない、と考えられます。※第148経において「苦の感受」となっているのは、第22経とは訳者が異なること、春秋社は訳者間で訳語の統一を行わない方針であるためです。その上で、第148経「苦の感受」が、第22経の「苦しみの感受」と同義かというと、第148経「苦の感受」は、上記の事例でいえば、私の心に生じた「悲しい」「虚しい」「怒り」と考える方が妥当なようにも思います。第22経では、「苦の感受」は、「肉体的」および「非肉体的な」「楽しみの感受」、「苦しみの感受」、「苦しみでも楽しみでもない感受」を知る(観察する)、とされています。認知行動療法の考え方では、非機能的な自動思考(自分にとってネガティブな思考)は、体にも影響を及ぼすと考えますから、「肉体的」な「楽しみの感受」、「苦しみの感受」、「苦しみでも楽しみでもない感受」を知る、という考え方と整合的です。釈迦は、「肉体的」な「苦の感受」を知ることから苦悩が生じていることを感知し、それを無くすことで、心身を安らかにして、高い集中力を生み出し、それが、さらに苦悩の発生と消滅を知る「強力な観察力」をもたらしたのでしょう。そのように考えないと「肉体的」な「苦の感受」を感知するとしていることの理由が理解できません。そしてそのように考えることは、先のマインドフルネス認知療法原著第二版「私たちが、『感情』として経験するものは、思考、感情、身体感覚、衝動のパッケージである。」と整合的です。プチ苦悩は、行動(行)によって、心の中に潜在するので、自分の「想」「行」によってまた発生します。「想」や「行」が、「悲しみ」や「怒り」といったプチ苦悩を生むメカニズムはご理解いただけたとおもいます。それでは、釈迦の苦悩を無くす方法とはどのような「方法論」であったのでしょうか?再び上記第22経から引用します。「また、いまだ生じていない怒りが生じるままにそれを知り、すでに生じている怒りが滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた怒りが未来に生じることがないということを知るのである。」上記の私の「怒り」(プチ苦悩)が生まれた過程と、消えた過程を重ね合わせてください。『「でも、あの人の立場だったらわかってしかるべきだ」と考えたところ「怒り」(プチ苦悩)が生まれました。』➡第22経「また、いまだ生じていない怒りが生じるままにそれを知り、」『「まぁ、それがあの人の理解力の限界なのかな」と考えたら「怒り」(プチ苦悩)はなくなりました』➡第22経「すでに生じている怒りが滅ぼされるままにそれを知り、」『「想」=思考は、「感情」を刺激して「感情」(プチ苦悩)を生起させ、場合によっては消滅させる」「プチ苦悩は、行動(行)によって、心の中に潜在するので、自分の「想」「行」によってまた発生します」と知り、「想」「行」を起こさないまたは意識して制御する。そうすればプチ苦悩は起こらない。➡第22経「すでに滅ぼされた怒りが未来に生じることがないということを知るのである。」これをまた前記第22経とは別の、釈迦の説法に重ね合わせてみます。「苦しみ」を「プチ苦悩」に入れ替えて読んでみてください。そうすれば、釈迦の説いた、苦しみを滅する方法論がご理解いただけると思います。これが釈迦が苦しみを滅した方法である「四聖諦」です。これを理解した、ということは、釈迦が苦悩を滅した「中核な方法論」を知ったことになります。「『これは苦しみであると』とありのままに知り、『これは苦しみの原因』であるとありのままに知り、『これは苦しみの消滅である』とありのままに知り、『これは苦しみの消滅に至る道である』とありのままに知るのである」上から順番に、日本では「苦聖諦くしょうたい」「苦集聖諦くじゅうしょうたい」「苦滅聖諦くめつしょうたい」「苦滅道聖諦くめつどうしょうたい」と呼ばれてきました。この方法「四聖諦」による苦悩の消滅を実践するためには、通常、意識しない自分の心の動きを意識するための観察力が必要ですよね、観察力を養うには、心を観察し続けるための集中力が必要ですよね、そのためには前記第22経「心の専注の確立」(大念処経)、前記第148経の「出入息観」(治意経)や、第149経「身体に向けた注意」の養成(念身経)で説く、修練、つまり「心と体のエクササイズ」が必要ですよね、という理屈になり、観察力を養う「心と体のエクササイズ」=瞑想(≒マインドフルネス)に習熟すれば、釈迦が、「人々が理解できない高度な教え」を説いたのではなく、誰の心においても発生する、注意深く観察しさえすれば知ることのできる心の働きと、その結果心に生まれる思考や感情、そして苦悩を知り、それらを無くす方法を説いた、ということが無理なく理解できます。また、『観察力を養う「心と体のエクササイズ」=瞑想(≒マインドフルネス)』は、その過程で感情(快、不快)の生成を抑える効果があります。快の感情は、これが好き、これがいい、こうだといいなという感受に執着する感情、不快の感情は、これは嫌、嫌なものから離れたい、快の感情が満たされないこと嫌なものから離れられないことによる怒り、です。これらの感情の生成が押さえられれば、苦悩自体が少なくなりますし、「快、不快」という「強力な認知バイアス」がなくなる、もしくは弱くなることになりますから、『観察力』がより「クリアー」になります。そして、この状態を仏教では智慧が発現した、と言っています。ちなみに「受」の3種類の感受については、研究によっても明らかにされています。「私たちはほとんどの時間で、快適か、不快か、どちらでもないかに基づいて、入ってきた刺激に反応することが解っている。」(マインドフルネス認知療法原著第2版 北大路書房)フリードマンさんとフォスターさんの研究とのことです。「楽しみの感受」は、「快適」、「苦しみの感受」は「不快」、「苦しみでもなく楽でもない感受」は「どちらでもない」ととらえてよいように思います。また、子供の情緒の発達を研究したK.M.B.ブリッジェスさんによれば、新生児の情緒は、興奮、快、不快の三種類しかなく、成長に従って、快と不快から情緒が分化してゆき、5歳くらいで大人に観られる情緒が育成されるそうです。先ほど掲げた、「釈迦の人間の考え方」に、嫌いな人に会う「プチ苦悩」に当てはめると、以下のようになります。「対象を認識する限りにおいて、その対象は存在する」のだから、「嫌いなあの人と顔を合わせること」は存在する。「対象を認識する限りにおいて、その対象は存在する」のだから、存在する「嫌いなあの人と顔を合わせること」によって、心に「プチ苦悩」が生じたのであれば、心に「プチ苦悩」は存在する。「できることは、注意深く観察し何を感受し何が生じたを知り、適切に対処することだけである」のだから、存在する「嫌いなあの人と顔を合わせること」と、心に生じる「プチ苦悩」は同一のものではない。「人とは認識する機能にほかならない」から、「嫌いなあの人と顔を合わせること」を心が感受することは、生きている限り消すことはできない。しかし「注意深く観察し、何を感受し心に何が生じたのかを知り、適切に対処する」ならば、自ら作り出した「プチ苦悩」は滅すること(心に生まれないようにすること)が出来る。心に生じる「プチ苦悩」を滅し、「プチ苦悩」が認識されなくなれば、事実として存在する「嫌いなあの人と顔を合わせること」の存在にかかわらず、心に生じる「プチ苦悩」生まれない、存在しない、という帰結になります。実はこの考え方は、認知療法的なアプローチ、事実があなたを苦しめるのではなく、事実に対するあなたのとらえ方(認知)があなたを苦しめます、という考え方と同様のアプローチになります。う~ん、この言い方の方がはるかに簡単ですね。釈迦の人に対する考え方は「人とは認識する機能にほかならない」という徹底した認知論です。「人とは認知する機能なんだけど」「見たもの聞いたものとかの感知したものに刺激されて、無かったものを自分で作り出しちゃったりとか」「少し間違えるよね」「間違えると、苦悩を生んじゃうよね」と言っているようです。J.ティーズデールさんは、お坊さんの講演を聞いて、仏教の苦悩のとらえ方と認知療法の類似性に驚き、それが機縁となって、ティーズデールさんらのチームは、マインドフルネスに認知療法を統合したマインドフルネス認知療法(MBCT)を創始しました。MBCTにおいては、マインドフルネス実践により、クライエントが「思考は事実ではない」という心理的な態度に到達するよう導くことで、クライエントが、自分に生じたネガティブな思考との付き合い方を変容させることによって、うつの再発予防に効果をあげている、とのことです。自分の心の機能と生じる思考、感情を識別して対処すれば、感情の扱い方を理解することを通して、苦悩への対処も可能になると言えます。釈迦は心の機能を分析し、苦悩が生じる過程をあきらかにして、苦悩をなくす方法にたどりついた、又はその逆方向であったかもしれませんが、いずれにしても精緻な心理分析をしています。ただしここで注意してもらいたいことがあります。自分の考えた「ていねいな扱い方」を言葉にして、「心の中で唱え」ることは、「ていねいに扱う」考え方を、育てるための手段であって、唱えたからといって「ていねいに扱う」という考え方があなたの中にできあがったわけではない、言い換えれば、すぐに脳の思考回路(経験)として確立しない、ということです。「おまじない」「願いがかなう呪文」ではありませんし、「神様へのお願い」でもありません。唱えることそのものに価値があるのではなく、言葉で唱えることは、自分の心に、自分をていねいに扱う、という思考回路を脳内につくるための手段だと考えてください。唱えるときに心を落ち着かせ、集中して(世間的には心を込めてといいます)唱えれば、唱えることに相応の効果はあります。継続して行うことで、「これをしない日は、他者への対応が少し雑になるようだ」などと感じたとしたら、確実に心のなかに「慈しみ」がに育っています。唱えること自体も瞑想ですが、「心を落ち着かせて、集中」するための基礎訓練もあると考えてください。(歩行の瞑想から、座ってする呼吸に集中する瞑想が基礎訓練としてはいいと思っています。)これをやったからと言って、家族や周囲の人が幸になるというものではありません。そのように考えないでください。また、この瞑想は、人のために祈っている自分を、いい人だと感じて、て自分をいい気分にさせるためのものではありません。自分をいい人だと感じるためにやることは、私っていい人、という感情を味わうためにやっている、ということになります。マインドフルネス的言うと、「自分をいい気分」にさせると、自分が気持ちよくなる(本能的な)脳の回路が強化され、自分や他者を理性的な考えにもとづいて「ていねいに扱う」、という言い方もできると思います。感情的に、ではなく理性的に自分をていねいに扱い、それと同様に他者も、感情的にではなく、理性的に区別せずに同じように扱いましょう、という考え方です。ですから「私は、私も他者も・・・扱います」と唱えても構いません。目指すところは、私も、他者も同様にていねいに扱う態度、です。まず自分をていねいに扱わなければ、他者をていねいに扱えないし、仮にできたとしても苦しいでしょ、持続できないでしょ、ということです。自分にはいいけど、あの人にはダメ、この人にはいいよね、って使い分けをしていたら、相手毎に脳のスイッチを切り替えることになり、その都度、相手によっていい気持になったり、嫌な気分になったりします。感情を刺激することは脳のエネルギー消費を増大させるようですから、「脳」としては、「楽じゃねーな」「やってらんねーよ」「つかれたよ」って感じてるんじゃないでしょうか。少なくとも脳は喜んでいないでしょう。そういえば大木幸助さんが「脳内麻薬と頭の健康 気分よければ頭もまたよし」(講談社ブルーバックス)って本を書いていたことを思いだしました。思考が生じただけでも体には、微細な緊張が生じますし、ネガティブなことを考えて感情が生じれば(プチ苦悩が生まれます)それ以上に緊張が生じます(これまたプチ苦悩です)。感情的になって感情を暴れまくらせた後に、あ~疲れた~って経験されてますよね。思考、感情によって体に緊張が生じれば、釈迦が説いた「喜んでいる人は身体も安らぎ、心もやすらぐ」「身体が安らいで幸せな人の心は集中する」からは確実に遠のきます。そうなると「苦悩を遠ざけること」「婚活をたてなおす」ことから遠ざかると考えてください。私は解脱を推奨しているわけではありません。私の場合の、慈しみの考え方「私は、私を批判しません、責めません」「私は、私について、いい悪いを判定しません、争いませ「粗暴に扱わず、ていねいに扱います」ですが、なぜそれが慈しみなの? 慈しみっぽくないけど、とお感じになるかもしれません。ごもっともです。これは私の性格(考え方のスタイル)に基づいて、私に効果的なように作ったので、このようになりました。マインドフルネスの原型となった瞑想をしているテーラワーダでは、新人のお坊さんが行う瞑想を、師匠が新人さんの性格をみて、最も取り組みやすくて、効果が出るものを選ぶのだそうです。その性格を観るときの分類の1つに「瞋性:しんしょう」というのがあり、どうやら私は「瞋性」のようなのです。「瞋性」は、「物事に対立するアプローチを持つ人」と説明されています(サンガ刊 アルボムッレ・スマナサーラ先生 ブッダの実践心理学 第7巻)。私の考えは「いや、そうじゃなくて、こうなんじゃない」という形で表わされることが多いので、他者と自分との考え方との「違い⇒対立」や、自分の「こういう状態でなくてはいけない」という自分の認識と実際との「違い⇒対立」にフォーカスしてしまう「考え方スタイル」のようなので、「物事に対立するアプローチを持つ人」であり、それゆえ自分は「瞋性」だろう、と考えたからです。自分が「瞋性」だと考えると、納得がゆくことがあります。私の場合、あれしたいこれしたいというのはあまりなく、「(この場合には)それ違うんじゃない、こうしなきゃいけないんじゃない」という考えを起こすことで、「相違・対立⇒怒り」を行動のエネルギーにしていたように思います。それゆえ、会社勤務中は、けっこうけんかしてしまいました。「瞋性」の「瞋」は怒りですので、その面からも納得できます。「慈しみ」の瞑想の他に「喜」の瞑想もありますが、「瞋性」の人はこれはできないとされているそうです。やってみましたが、(今までのところは)できませんでした。「慈悲の瞑想」には、ヴィパッサナー瞑想の開始時時に、集中力を高めるため推奨される「定型の慈悲の瞑想」もあります。本来の「慈悲の瞑想」は、四無量心、つまり「慈」「悲」「喜」「捨」のうち一つを選んで、その心をつくることに意識を集中することによりサマディー状態をつくる、いわゆるサマタ瞑想です。サマディーをつくるだけでなく、自らが選択した「慈」「悲」「喜」「捨」のうち一つが心に実現されること自体が、好ましいと受け止められているようです。阿含経の中にも四無量心を養うことを説いたものがあります。瞑想対象は、自分が作り出すことが可能な心であって、なおかつ自分に好ましい変化を及ぼすものである必要がある、との考え方からです。そえゆえ、「私が今ここにいることを認めます、他者も今そこにいることを認めます」「私に優しい注意深いまなざしを注ぎます、他者にもやさしく注意深いまなざしを注ぎます」「私の心身に生じたことを正しく見てた正しく知ります」「他者の心身に生じたことも正しく見て正しく知ります」「私を、比較対照によって評価しません、他者を比較対照によって評価しません」「自分に生じた緊張を緩和しようとして、自分に不用意不適切な言動を行いません」「自分に生じた緊張を緩和しようとして、他者にも不用意不適切な言動を行いません」「自分に生じた欲求を満たそうとてして、自分に不用意不適切な言動を行いません」「自分に生じた欲求を満たそうとてして、他者にも不用意不適切な言動を行いません」「私を攻撃せず、私をていねいに扱います、他者を攻撃せず、他者もていねいに扱います」という、態度を自分に定着させる(脳の回路を作る)ために、このような「慈しみ」にしています。上記の「metta」の内容は、私が瞑想してきた中での自分の心の観察に基づき、下でご説明するカウンセリングにおける中核三原則を実践するために、このような考え方をに行き着いたものです。これをきちんと自分と他者に向けてやると20分から30分はかかります。このくらいやれば効果は出やすくなるでしょう。その反面、強力に行う場合、多少体には負担がかかるようです。今までの心の態度と違えば違うほど、脳が混乱して、元のままでいようとして抵抗が生じる、というのは自然です。スキーマ療法が大変なのと同じなのでしょう。「慈しみ」の瞑想はあくまでも、自分の中に「慈しむ」という態度を育成し定着させるものです。自分を「慈しみ」、苦悩を低減して、自分の心を軽くして、他者へ「慈しみ」をもたらすことは、自分の行動を通してしかできません。慈しみ瞑想は、まずはあなたの心を軽くするための考え方であって、他者のために祈ることそれ自体に価値を置く宗教的な考え方ではありません。私はカウンセラーであって、布教者ではありませんし、このブログは、「婚活をたてなおす」ために、婚活に悩む方の「心を軽くする」方法、ヒントを提供する、ものですから、これでよいと思っています。また、私はカウンセラーなので、カウンセリングにおける中核3条件と言われる、1.カウンセラーの自己一致あるいは純粋性(自分が感じていることを素直に感じとれる)2.クライエントへの無条件の肯定的配慮(そしてそれがクライエントに伝わっている)3.クライエントへの共感的理解(そしてそれがクライエントに伝わっている)という観点も考慮しています。では、自分の心の中で、なぜ慈しみの心を他者にむけるのでしょうか?自分から他者、親しい人から嫌いな人にまで「慈しみ」をむけるのは、「苦しみをなくすための慈しみ」という心の態度を、とりあえず自分の中に作って、その心の態度を、私から、親しい人へ、そしてより多くの人へと向けてゆくことで、より確実、強固にしてゆくためと考えられます。釈迦は「スッタニパータ」の中で次ように言っています。「149 あたかも、母が己(おの)が独り子を命を賭けて守るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみ)のこころを起こすべし」「150 また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし。」(ブッダのことば 中村元訳 岩波文庫青301-1)149 で説かれる慈しみは、皆さんも持つであろう「慈しみ」の感覚に近いと思います。150 では、釈迦は、他者のために祈りなさい、とは言われていません。自分の心のなかに「無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし」と言われています。近くに保育園がいくつかあって、園児のお散歩に出くわすことがよくあります。全員が手をつなぎながら、歩きたくない園児やそれを引っ張って歩かせようとする園児、何かに気を取られて横を向いている園児などいて、見ているとほっこりし、かわいなぁ、元気に育つんだよ、って気持ちが起こります。この気持ちは慈しみでしょう。その気持ちを感じ取ったので「喜」の瞑想は無理でも「慈しみ」はできそうだな、とうことで「慈しみ」の瞑想を始めました。しかし、「かわいいなぁ」は自分の心に起こった、自分の心を気持ち良くする「感情」なので注意が必要です。『自分の心に起こった、自分の心を気持ち良くする「感情」』を刺激しつづければ、自分の心は気持ち良くなりますが、他者を慈しむ心にはなりません。釈迦の方法論は、自分のこころに『自分の心を気持ち良くする「感情」』が起こると、気持ちよいものとして認識され記憶され、知らず知らずのうちにそれを求めるよね、そのことをしっかりと理解しないと、どんどん『自分の心を気持ち良くする「感情」を起こしてくれること』をもとめるようになるよね、それを認識しないからそれに執着して、満たされないとき心が苦しむんじゃない。私(釈迦)はそのように識り、そのようなことは完全に滅し尽した、あなたはあなたの心で確かめてみて、苦悩を滅することを実践してみなさい、私の言っていることが理解できるよ、というもの、というのが私の理解です。そのように考えると、「かわいいなぁ」という感情を育てるのではなく、子供に対する「元気に育つんだよ」っていう気持ちを、150のように、子供にも子供以外の人にも向けられるように、自分の中に育ててゆく方向性が必要になります。「かわいいなぁ」を嫌いな人に向ることには困難があります。それができれていれば慈しみの瞑想はもはや不要、すでに解脱の境地かもしれません。使わない筋肉をはおとろえ、使う筋肉は強化されるように、脳の回路も、好ましい回路を一生懸命使えば回路として強化されますよね、というちょっと推測交じりの説明になります。心に、metta、日本語では「慈しみ」を作り、自分を慈しみ、それが出来たら親しい人から順次周囲の人へ、嫌いな人へも、その考えを向けてゆきます。それに伴って、あなたの幸福感が増し、当然あなたは慈しみをもって自分と他者に接するようになります。そのような態度ができたなら、あなたの中に、慈しみという「新しい脳の回路ができた」ということになります。脳も筋肉と同じで、使えば強化されるし、使わなければ衰える、と考えたらどうでしょうか。そう考えると少し怖ろしくなります。例えば、嫉妬や妬みをほおっておくと、嫉妬や妬みの脳の回路がどんどん強化される、ということになるからです。釈迦は、それを貪随眠、瞋恚随眠という考え方で説明しました。自分の心を注意深く観察しないと、自分の行為によって、あれがいい、これがほしいという性向や、あれは嫌だこれは観たくもないという(怒りの)性向が心のなかに強化されて潜在しますよ、と言っています(六六経)。海外では、マインドフルネスは、脳の機能の変化という観点からも研究されています。(前掲 加賀谷亮さんの本、日本評論社の本等)慈悲の瞑想は、本来は仏教瞑想(マインドフルネスの源流の一つともいわれるテーラワーダの瞑想法)です。なぜこのようなことをやるのかというと(私の解釈ですが)、私を慈しみ、他者を慈しむという考え方、態度を養うことは、脳に慈しむという回路をつくり、強化することになり、それが最終的には、「自己」と「自己以外の他者」という認識を弱くすることをもたらすから、であるように感じます。「慈しむ」という回路を強化して、自分をケアすれば、当然自分のストレスや不満が少なくなる方向に働きます。自分のストレスや不満が少なくなり、さらに心身がやすらぎ喜びを感じれば(=軽安、軽安になると悟りに至る7つの支分のうちの軽安覚支が完成するとされます)、他者をうらやむことや怒りを覚えることも少なくなり、他者をケアする、慈しむよう態度が容易につくれるようになります。自分も他者も慈しむことが十分にできるようになれば、「自分」vs「他者」という意識が希薄になります。それは「悩み苦しむ自分という意識」が希薄になることによって促進されるようです。「苦しんでいる自分」vs「苦しんでいない他者、または自分を苦しめている他者」という認識が強固であれば、「自分」vs「他者」という意識の希薄化は難しいでしょう。私というものは自分の意識が作り上げてきたもの、より分かりやすく言えば、子供のころから「私」という存在を認めてくれる「他者」である養育者や社会的な交流のなかで「私」という意識を育ててきたものですから、「自分」vs「他者」という意識を希薄化してみたら、「私」という意識も希薄化し、それにともなって、悩む、悔やむ、不快に感じるといった『「私」という意識かあ生起する感情が脳の中を右往左往する」』ということも希薄化する、ということなのではないでしょうか。ただし、この時点で完全に「自分」vs「他者」の意識がなくなるわけではありません(と考えています)。私という意識がなくなれば、好き嫌い判断できる私がいない、好き嫌い判断できる私がいないということは、苦しみを感じる主体である私はいない、ということになります(理屈上そのようになります)。苦しみや「こうありたい」私、「こうでなきゃいけない」という私の信念や思い込みがなくなれば、考える主体である私という意識は不要になります。多分ここまで至れば悟りなのでしょう。こういう機序、メカニズムで悟りに至るようです(としかいえませんが)。苦しみがなくなり、私という意識がなくなっても、「意志」は残るようです。何故そう考えるかというと、釈迦の行いを見ていると、その様な考えに至らざるを得ないからです。釈迦は、完全な悟りに至ったとされますが、死の直前まで遊行(教えを説いて回ることを)しました。これは教えを説きたいという欲求でもなく、教えを説くべきだという義務感でもなく、自分が知り得たことは、あますことなく伝えてゆくという釈迦の意志としか考えられません。釈迦は完全に解脱して、何ものにも苦に感じることがなく、何ものおも欲しいとおもうこともなく、何ものおも厭うことがなく、何ものにも不安を感じず何ものかに悩むこともない、という完全に寂静な境地に至ったはずだからです。釈迦は死が近づく中でこのように言っています。「アーナンダーよ、如来の教法には、教師の握拳はない。」アーナンダーさんは、釈迦のお弟子さんで身近に使えた方です。如来とは釈迦自身のことです。握拳とは「教師が奥義として容易に弟子にあかさないもの」だそうです。そしてこの後に有名な、「自己を洲とし、自己を依処として、他人を依処とすることなく、法を洲とし、法を依処として、他を依処とすることなく住するがよい。」という言葉が発せられます。(筑摩書房 阿含経典第三巻 増谷文雄より)自分が得たことは全て君たちに教えた、隠していて教えていないものはない。だから自分をよりどころとして、私が教えた法をよりどころとして、(私がいなくなっても)しっかりやってゆきなさい、ということをいったのであると思います。自分が知り得たことは、あますことなく伝えてゆく、という釈迦の意志を貫徹した人生を言い表した内容であったと思います。瞑想の機序(メカニズム)から感情の制御と意志の働きを考えてみます。瞑想は、安楽な状態を作ります。高度なリラクゼーションと言っていいと思います。安楽な状態は、考えないこと、考えないことによって感情が鎮まることによってもたらされます。そのために瞑想対象に集中します。感情を鎮めることを続けてゆくと、感情の働きが(短時間であっても)制止されます。感情の働きが制止されれば、感情に影響されないで考える能力(智慧と言っているようです)が出てきますので、考えることなくなんとなく、こうしたらいいんじゃね、という考えが出てきます。感情を感じるのは「私」です。「私」が感じるのであって、「他者」が感じたことを感知するのではありませんから、感情を感じるためには「私」という認識が必要になります。感情を感じていないとき「私」という認識は必要ではない、ということになります。感情的に反応しない、ということになると、あれしたい、これしたくない、あれはいや、これがいい、という感情は働かなくなります(もしくは弱くなります、いずれにしても脳の感情の回路の使用頻度が下がります)から、自分を動かすための意志が自由に働きだします。感情に影響されないのことで、意志はより発揮されやすくなるのでしょう。「感情」の刺激による婚活行動の連鎖を、モデル化してみました。あくまでもご説明のための「少し誇張した」モデルです。結婚したい(願望=感情) ⇓入会(意志決定) ⇓思ったようにうまくいかない(不安=感情) ⇓結婚できるかな(不安=感情) ⇓結婚できなくて傷つくのは嫌だ(恐怖=感情) ⇓やめよっか(迷い=感情)次は、意志による行動パターンです。鉄の意志を持った「アンドロイド婚活」みたいに見えますけど・・・。結婚する(「したい」という感情を「意志」による決意、目標にする) ⇓お見合いアナリティクスを活用しよう、申込傾向を変えてみよう(意志、目標が明確なので、データを活用して、やり方を変えることに抵抗がない) ⇓うまくいかなかった次へゆこう(意志、目標が明確なので、過ぎたことを悔やむという感情が発生しない) ⇓申込のペースを維持 ⇓お見合いがきちんと組める ⇓お見合いアナリティクスを活用して自分の印象改善を図ろう(意志、目標が明確なので、ネガティブ情報も受け止める) ⇓交際につながる可能性が高くなる ⇓成婚につながる可能性が高くなる治意経、念身経に興味深い記述があります。治意経は、座禅、テーラワーダの瞑想、マインドフルネスでも中核となる呼吸の瞑想の方法「出入息観」について説いたお経です。「比丘たちよ、呼吸にしっかり思いを凝らすことは、感覚のうちのひとつであるといえる。それゆえ、比丘たちよ、そのとき比丘は世界に対する欲や不快を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、感覚を感覚として観察しているのである。」(春秋社 原始仏典第7巻 第118経)これはとても興味深い説明です。呼吸にしっかり想いを凝らす、という行為に集中することによって、欲や不快感という感情は(一時的であっても)なくなり、そのような状態では、「熱心に(高い集中力をもって)、意識し(今感じていることを継続的に感じ取り)、注意しながら(注意が体中に行き届いて)」、呼吸ではなくて、呼吸にしっかり想いを凝らしている自分の感覚が感覚として観察できますよ、ということを言われています。「感覚を感覚として観察しているのである」という状態は、念身経の『身体に向けた注意』が確立している状態のそのものだと考えられます。第22経で「肉体的な」「楽の感受」「苦の感受」「苦でも楽でもない感受」が説かれていることとにも納得がゆきます。念身経では、出入息観(呼吸に集中する瞑想)や、所作の自覚による修習(体の動きを注意深く観察する瞑想)などにより『身体に向けた注意』を養うと、10の利益が得られますよ(春秋社 原始仏典第7巻 第119経より)と説いて、その一番目、二番目として次のことをあげています。1.好き嫌いを克服できるようになる。かれは嫌悪感をものともせず、生じてくる嫌悪感を打ち負かし続ける。2.恐れと怖気を克服できるようになる。かれは恐れと怖気をものともせず、生じてくる恐れと怖気を打ち負かし続ける。第118経の「欲や不快を除き去って」という釈迦の説明と、脳の機能を重ね合わせて説明を試みます。大山泰宏さんは「改定新版 人格心理学」(NHK出版)の中でこのように言われています。少し長くなりますが引用します。(太字は宮崎が付しました。)「脳から人格を考える際に、大脳新皮質と同時に重要なのが、大脳辺縁系である。大脳辺縁系は、情緒や欲動、記憶に関わる場所であると言われており、原皮質、古皮質、海馬、扁桃体などからなり、間脳(視床、視床下部)を含める場合もある」「ヒトは大脳新皮質の発達によって表象や運動企図や計画の能力あるいは言語等を獲得したが、大脳辺縁系はそれ以前のあり方に関わっている。すなわち情動的な反応や愛着、あるいは体系化されていない短期的な記憶など、個体が結びついたり状況を意味づけて即座の反応をしてゆくために重要な役割を果たす部分である。」「辺縁系の働きから人格を理解する上で、特に重要なのが、海馬である。海馬は、記憶の形成や保持に重要な働きをするといわれている。私たちが体験したことは、大脳での意味的な処理をされる以前に、いったんこの海馬にしばらくのあいだ蓄えられる。」「海馬の先端には情動に関する中心的な役割をになう偏桃体がある。情動体験は生体に対して、外界から突然やってくる物事への即座の反応や構えを引き起こし、私たちが記憶や知識を介して複雑な判断をする以前に、当面の生命の保全に必要な行動をとらせる。とりわけ偏桃体は生命の維持のためには、まずもって重要な危険を察知するための情動である恐怖の情動と深く結びついていることが知られている。」久賀谷亮さんは、前記「最高の休息法」の中で、「マインドフルネスは不安のような脳のストレス反応にも、効果を発揮する」「いくつかの研究でも、3か月以上にわたってマインドフルネスを実践する長期瞑想者では、前頭葉と偏桃体が上下関係ではなく、より対等でポジティブな関係をつくることがわっかって」いる、と言われています。また、大野裕先生は「はじめての認知行動療法」(講談社現代新書)の中で、「不安は『危険』という認知と関係しています。その状況を危険だと判断し、それに対処するだけの力が自分にはなく、他の人たちから助けてもらえないと考えると不安になります。危険を現実以上に過大評価し、自分の力や周りからの支援を過小評価すると不安は、より強くなります。」久賀谷さんは、前記書籍を、脳の疲労回復という観点を中心に据えて書いておられますが、マインドフルネスの研究成果をふまえて、マインドフルネスに期待できる効果として、以下をあげています。(ただし研究のクオリティには多少の課題があるとも言われいます。)集中力の向上 ー 1つのことに意識を向け続けることが出来るようになる。感情調整力の向上 ー ストレスなどの刺激に対して感情的な反応をしなくなる自己認識への変化 ― 自己へのとらわれの減少、自己コントール力の向上免疫機能の改善 ― ウイルス感染などに対する耐性、風邪をひきづらい「集中力の向上」は、第118経の「出入息観」に取り組むことによって、「熱心に、意識し、注意しながら」という釈迦の記述は、宮崎の経験による解釈では(宮崎の解釈によらずとも)、マインドフルネスに取り組まれる方は、集中力が向上することは体験的に理解していますが、「熱心に(高い集中状態で)、意識し(今感じていることを継続的に感じ取ることができて)、注意しながら(注意が体中に行き届いて、これから生じることも感じ取れる)」となりますので、集中力の向上は当然にもたらされる結果であろうと思います。「感情調整能力の向上」は、第119経で説かれる「好き嫌いを克服できるようになる」「恐れと怖気を克服できるようになる」そのものと言えます。その前提として、第118経の「欲や不快を除き去」ることによって、久賀谷さんが言われる、「前頭葉と偏桃体が上下関係ではなく、より対等でポジティブな関係をつくる」ことが実現され、その結果として「感情調整能力の向上」がもたらされると考えれば納得性は高いと思います。「自己認識への変化」、「自己へのとらわれの減少」は、仏教瞑想も、マインドフルネスも、今の体や感覚への集中を通じて、過去のことや未来のこと、ここに無い事象を考えることを「妄想」もしくは「雑念」としてとらえて、離れたうえで、今現在の呼吸や感覚への意識の集中をはかります。第118経の「呼吸にしっかり思いを凝らすことは、感覚のうちのひとつであるといえる。それゆえ、比丘たちよ、そのとき比丘は世界に対する欲や不快を除き去って」を手掛かりにしても、欲や不快は「自分が」感じることですから、欲や不快を感じないということは、自我意識が希薄であるか、自我意識がない(この状態が常態化すれば解脱なのでしょう)、ということになりますから、「自己へのとらわれの減少」は必然的にもたらされると考えてよいでしょう。「自己コントール力の向上」は、「記憶や知識を介して複雑な判断をする以前に、当面の生命の保全に必要な行動をとらせる。とりわけ偏桃体は生命の維持のためには、まずもって重要な危険を察知するための情動である恐怖の情動と深く結びついている」(大山先生)「不安は『危険』という認知と関係しています。それに対処するだけの力が自分にはなく、他の人たちから助けてもらえないと考えると不安になります」(大野先生)「前頭葉と偏桃体が上下関係ではなく、より対等でポジティブな関係をつくる」(加賀谷先生)これらのことを考え合わせると、不安や恐怖、危険という「まずもって」おこなわれる判断の機能を抑制することによって、自己コントロールの余地が拡大できると考えると、「自己コントール力の向上」は必然的にもたらされる、と思います。「免疫機能の改善」については、J.カバットジンさんが著書「マインドフルネスストレス低減法」の中で「免疫システムに与える心の影響」として考察されています。好き嫌い、恐れと怖気(おじけ)(といった感情)を克服できるということは、多少の失敗があっても、自分を責めず自分を嫌になることなく、うまくいかないことで自分が傷つくことを恐れることなく、婚活に取り組めるようになる、ということでないでしょうか?瞑想により集中力が高まるという経験を、繰り返し体験してゆくと、不安感や、面倒だな、やりたくないな、という感情は確実に減少します。3番目の利益が、「辛辣で不愉快な発言に耐え、身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、死にそうな感覚をこらえられるようになる。」(一部抜粋)です。「身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、死にそうな感覚をこらえられるようになる。」ということは、J.カバットジンさんが、マインドフルネスストレス低減法(MBSR)で、取り組み、成果をあげたことです。医療処置では対処できない慢性疼痛患者の心理的苦悩への対処法として効果を上げました。まるでカバットジンさんはこのお経をみてMBSRをつくったかのようです。アルボムッレ・スマナサーラ先生も、「大念処経」(サンガ刊)のなかで、激痛にさいなまれる方の緩和医療での効果性を解説されています。スマナサーラ先生によれば、痛みが生じたとき大ざっぱに痛みをとらえて「痛い痛い」と感じる(現在の)状況から、痛みが発生したところに意識を集中して、痛みののものをより明確に知るということを通して、痛みそのものと、痛い、苦痛だ、耐えられない、という感情的な反応を切り離すことによって痛みはあるが、心で苦しいと考えない状態を作ってゆく、とうことのようです。私はこの方法は、釈迦が苦しみを滅した方法として説いた「四聖諦」(すでにご紹介ずみですが)そのものだと感じています。「四聖諦」は、お経で読んでもちんぷんかんぷんですが、このブログでご理解いただいていると思いますが、痛みに即して考えてみると、痛みが具体的にどこに、どのくらい発生したのか、あえて痛みに意識を向けてみてみよう(苦聖諦)ここに発生した、かなり痛い、痛み自体は抑えられない、治療法がないんだから(苦集聖諦)痛みはどうしようもないから、痛みに反応して、苦しいと考えないようにしよう、気持ちが楽になる(苦滅聖諦)痛みが発生した時は、この方法で対処しよう、対処法を一生懸命学ぼう(苦滅道聖諦))「痛み」を「苦しみ」に入れ替えれば「四聖諦」と考えてよいのではないかと思います。生老病死は苦!といっても、生老病死の事実と、生老病死を認識したときに「心に起こる苦悩」と分離して、「心に起こる苦悩」なくせれば、心は苦しまないよね、ということになります。「プチ苦悩」のところでご説明した「認知療法」アプローチです。釈迦の人間観は、どうやら次のようなものであったようです。「比丘たちよ、何を一切となすのであろうか。それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香りである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(概念)とである。比丘たちよ、これを一切というのである。」(筑摩書房 阿含経典第三巻 増谷文雄)増谷文雄先生はこのことを、「詮ずるところ、この世界にあって生きる存在である人間にとっては、「人間にとっての世界」を意味するものであるより他はないのである。」「そこに語られているものは、まことにリアリスティックな「一切」であって、空想や幻想は全く混えられていない。つまり、六根によって把握せられる六境のほかには、何も介入するところはなかった。それが釈尊の世界であったのである。」補足※六根は眼、耳、鼻、舌、身、意、六境は六根によって感知される対象、物体、声、香り、味、感触、概念と考えてください。グレゴリー・ベイトソンさんはこんなことを言っています。「誰かに足を踏まれたとき、私が経験するのは、"彼による私の足の踏みつけ"そのものではなく、踏まれてからややあって脳に届いた神経報告を基に再構成された"彼による足の踏みつけについての私のイメージ"に他ならない。」「外界の経験は常にある特定の感覚器官と神経回路が介在しているのである。」「その限りにおいて、ものとは私の創造物であり、ものの経験は主観的であって客観的ではない。」「痛みとか、外界の視覚イメージとかの感覚データの客観性を疑う人間が、少なくとも西洋文化の中に。ほとんどいないということは、やはり熟考に値する問題である。われわれの文明は、この客観性の幻想の上に深く根差しているのである。」(精神と自然 生きた世界の認識論 思索社)ここからは私の解釈なので、指先に少し唾をつけて眉に付けてください(へへッ)。釈迦は、すでにお話しましたが、人を、外界の刺激を感知する装置と考え、生きている限り感知することはなくせないよね、と考えていたのではないかと思います。そのうえで、感知する装置なのに、感知する装置そのものへの愛着や装置が生み出す感知への愛着を生み出してしまう。経験した感知そのものを超えて美しいとか美しくない、おいしいとかおいしくないという認識を生み出すと、それへの愛着や嫌悪を生み、愛着は欲望の対象となり、求めても得られないと求不得苦を生み、愛おしいものを失くすと愛別離苦を生み、嫌悪するものから離れられない時には怨憎会苦を生みだす(人に限定しない方が意味が理解しやすいと思います)んじゃない?。これらの感知する装置(こころの働き)をしっかり見て、理解し、気を付ければ苦悩は発生しないよ、(『身体に向けた注意』を養う瞑想をして)私の言うことを確かめてごらん。それゆえ、自分の心の動きをよく見て、愛着や嫌悪を生み出さないように(脳内の回路を使わないことで弱化)すれば、苦しむことはないよね、と言っていると考えられます。『身体に向けた注意』を養うとは、とは、釈迦が説いた心の働きを観察することにつながる観察力を養う瞑想で、ヴィパッサナー瞑想と言われます。ヴィパッサナー瞑想は、体の動き、感覚に意識を向けて集中力をと観察力を養います。体の感覚は、「痛い」ではなく、(私に)「痛みが生じた」と観察します。思考が生じたら、思考は愛着や嫌悪の感情を増幅する「妄想」なので放します。「妄想」「放す」とラベリングして意識を向けないようにします。努力して「さよならする」ってかんじでしょうか。「さよならする」のは、少しさみしいですね、自分に生じた思考なのに・・・人は自分の考えを確かめたり、感情を刺激したりすることに愛着を感じます。ですから、実は「思考」を「放す」「さよならする」ことの効果はかなり大きくて、感情的な反応を減らす効果があるようです。思考を停止して、愛着や嫌悪の感情の生成が止滅すると、当然、愛着や嫌悪に影響されない思考になります。愛着や嫌悪がないのでストレスフリーな状態で思考できます。その状態で釈迦が説いた法を検証し、ああそういうことか、という気付きを得て、自分の認識とします。私が経験したヴィパッサナー瞑想の進み方です。念身経のお話に戻ります。4番目は全文を引用します。「現世で気持ちよく過ごすことのできる、雑念を捨ててすっきりした四つの禅定を、思うままに、難なく得、苦労なく得られるようになる。」四つの禅定は悟りの段階を説明したものです。4番目に「四つの禅定」の悟りが難なく得られますよ、と言われています。たゆまず精進してゆけばここにたどりつきますよ、ということでしょう。そもそも私は、仏教徒ではありません。心理支援に関わるカウンセラーとして、苦悩ってどうすればなくなるの?という観点からご紹介しています。また、仏教の素養のある方、つまり釈迦が説いた教えを発展させ、より高度化した後世の仏教を学ばれた方は、後世の仏教の考え方で、阿含経を解釈される傾向があるように思います。現在の仏教を知らないほうが、先入観なく釈迦の教えに近づきやすいと考えています。ちなみにテーラワーダの出家と日本の現代における出家は、意味するところが大きく異なります。阿含経は、出家者がその伝承を荷い、保存し整備して来ました。阿含経が文字化されて(たぶん流通するようになってから)ほどなくして大乗経典作られたようです。ですから、阿含経が成立した後に、阿含経の伝承を荷い、保存整備して来た出家者集団の在り方を批判して成立した大乗仏教の思想から、阿含経を読まない方がいいように思います。新しくできた法律を、その法律ができる前の出来事当てはめて裁く(当否を判断する)ようなことになりかねません。釈迦の観察による「無我」の考え方(非我と言った方がいいのではと思っています)は、近代的な自我概念、つまり自由意思をもって自分で意思決定し、基本的人権という権利をもち、契約関係において権利義務を果たすという人間観や、個人の尊重や自己実現といった概念からすると、少し都合が悪い(正確に理解されない可能性がある)ようにとられるでしょう。それゆえでしょうか、仏教瞑想の流れをくむにもかかわらず、西欧とアメリカで発展したという経緯からでしょか、マインドフルネスでは無我にはフォーカスしません。それに、現代人は(事情により労働できない人には各種セーフティーネットがありますが)、働いて自ら稼得したお金により生活し、納税して社会を支えることを義務付けられていますから、苦悩もなくりました、「欲」もなくなったので労働しません、「欲」を刺激しないために労働しません(少し極端かつ非現実的なのですが)、というのは社会を維持する観点からは、ちょっと困ったことになります。健康でいて、(健全な欲求を満たして)自分の人生を謳歌して、お金を稼いで自立して税金を納めてね、ということが要請されている社会に生きている人間に、一切を捨てて出家して、欲を滅して解脱しなさい、という教えはそぐわないでしょう。また出家者と同様に、解脱が、唯一の目的として許される、という考えも同様のように思います(瞑想の機序からすれば合理性はありますが)。そもそもたくさん人が出家すれば(テーラワーダの出家者は労働に従事しないようです)、社会の支え手が少なくなります。自給自足経済では、自給する人が減りますが、出家者も食べなければなりませんから、出家者の食べる分も誰かが負担しなければなりません。分業が発展して職業に特化して他者に必要なものを提供し、分業化が市場経済によって発達した社会では、出家者が増えれば、経済成長が順調であれば人手不足になります。出家者は社会からのお布施で生活しますし、独身で子をつくりませんから、出家者が増えると現在の年金財政のような事態を招来します。解脱を、「輪廻を前提として、自らの再生への欲望を断つこと」ではなく、結果として、リチャード・ドーキンスさんのいう「利己的な遺伝子」が、『自らの生存のための乗り物である子孫』をつくらないことになる、と考えると自然の摂理に反し、反社会維持的なように感じられます。社会の維持という観点から、そうそう出家者というのは増えてはいけないことになります。そのように考えると、釈迦の教えは、現代に限定されず「浮世離れ」したところがあるように思います。いいかえれば、完全な悟り(苦悩の滅尽に至る過程での欲、怒りの滅尽)に至ることと引き換えに「社会不適応的」な面も持たざるをえなかった、とも考えられます。阿含経には「在家的思考」という言葉が出てきます。釈迦を教えを実践している出家者が至る悟りに対置された思考のようです。釈迦は出家を推奨し、出家に価値を置き、在家者を顧みなかったのだろうか?、「在家的思考」の内容は理解できますが、果たして、在家者を除外して教えを説いたと感じさせる「在家的思考」という言葉を使う必要があったのだろうか?、という疑問です。これは釈迦の教えを伝えて来た人々が出家者であったことから、解脱を目的とした出家者を中心に教理を発展させてきた、という事情もあるのかもしれません。そこでは、出家者を価値あるものとして、自分たちの僧団の権威を高めるという意図のもとに、出家して解脱することは至上の価値であるという考えを宣揚する意図もって経典を整備したからそうなった、と考えても、おかしくはないと思います。また僧団で行われる瞑想方法も、解脱を唯一の目的とし、解脱を至上の価値とした体系に基づき組み立てられたものであったかもしれません。出家者が釈迦の教えに基づき解脱にまい進する姿を、教団外から眺めたらどのように映るでしょうか?「私たちは仏の教えの蚊帳の外なのか」と感じても不思議はないでしょう。植木雅俊さんの「仏教、本当の教え」(中公新書2135)のなかには、このような記述があります。「ここには、在家も女性も軽視していない原始仏教の人間観がうかがえる。ただし、釈迦入滅後100年たったころから顕著になり始める教団の権威主義化に従い、在家や女性は軽視され始め、小乗仏教徒と貶称された保守的・権威主義的な教団を代表する説一切有部などにおいては、経典の自分たちに都合の悪い部分を削除して、改変するという操作も行われた。その痕跡が男性出家者にみに限定された「十大弟子」であろう。」日本の仏教は、部派仏教の出家主義を批判し、在家救済を説いた大乗の系統ですので、出家至上主義、解脱第一主義(私の印象です)ではありません。釈迦の教えの担い手であった部派仏教には、出家して解脱した人が救われるだけでなく、在家者も救うことが釈迦の意図であったはずであるとする大乗仏教を生み出させる要素を内包していたように思います。大乗から小乗と貶称された部派仏教のうち最後まで残った上座部大寺派は、スリランカの大寺こそゴータマ・ブッダが降臨した聖地であるとする「島史」を作り、それを背景として、パーリ三蔵を正典化し、大乗仏典は釈迦直伝の経典ではない(非仏説)として排除する教理を作り上げたそうです。(初期仏教 馬紀寿 岩波文庫赤1735)宗教としての教え、宗教としてのあり方という観点から離れて、解脱を目的とするのではなく、釈迦が得た苦悩の発生のメカニズムと苦悩をなくす方法に学び、現代人が自分の生活を送りながら、苦悩を低減し、イキイキと生きるための方法としてのマインドフルネスははきわめて画期的なものだと感じます。マインドフルネスに、従来の認知療法を統合した「マインドフルネス認知療法」では、従来の認知療法の「ネガティブな思考は修正するのだ!」という態度ではなく、マインドフルネス実践によって「思考は事実ではない」という心の態度を養成することで、ネガティブな思考との”ちょっとゆる~い”付き合い方へと導くことで、効果を上げているようなので、釈迦の考え方に、より接近しているようにも思います。「認知論」という大枠では、釈迦の方法論と認知療法は合致しています。同様のことを「マインドフルネス認知療法」の創始者の1人のJ.ティーズデールさんも認識しています(マインドフルネス認知療法原著第二版 北大路書房)。悟り、解脱に至らずとも、瞑想(マインドフルネス)による苦悩の低減という効果は認められる、と言っていいように思います。強い心理的困難・ストレス状況にある人たちに効果があるのだから、すこし気持ちがへこんでいる人、軽いストレスの人にも効果あるんじゃね?って考えても不思議はありませんよね。例えて言えば、強い心理的困難・ストレス状況にある人を-2の位置にいるとして、その人が0の位置に移動できるのなら、-1の位置にいる軽度のストレス状態の人が同じことをしたなら、+1の位置に移動できてパフォーマンスアップ期待できるよね、これって健康管理にもなるし、能力開発の可能性もあるんじゃね?と考えても不思議ではないでしょう。そんなこんなで、マインドフルネスが能力開発プログラムにも活用されるようになっているようです。このブログは「婚活をたてなおす」ためのものですから、婚活における「metta」のメリットをお伝えしなければなりません。自分を慈しむこと(ていねいに扱うこと)が出来れば、自らを責めてエネルギーを浪費して、嫌になることが減少するでしょう。あなたが、慈しみをもって他者に接する(ていねいに扱う)ならば、他者はあなたを自分をていねいに扱ってくれる人だと感じ、それを魅力と感じるでしょう。ただし効果が出てくるのは、『「心の態度」そのもの』が出来てからです。それゆえ「ていねいに扱う」考え方を育てるための手段として、『自分の考えた「ていねいな扱い方」を言葉にして』自分の心の中に、その考え方を定着させるしか方法はありません。瞑想への集中状態がすすめば、効果はより加速するでしょう。言葉を使わず「ていねいな扱い方」をこころのなかに作り定着させる、ということも瞑想上級者であればできるようです。心の中にないものは、外に現れてきません。心の中にないものは作るしかありません。自分が他者との関係のなかで「私」という意識を作ってきたように。そしてまた、うまくゆかないかも、それはいやだ、という感情も、自分の意図を超えて、人間の本能的な脳の働きにより作り出されたものだと考えます。人間は生き延びるために、本能的に不快感という感情により危険を察知または予知して回避してきたとすれば、不快感を生じさせることは、生き延びるため必要な本能的な機能と言えます。自分には、できないな、と思うかもしれませんが、マインドフルネスの源流の一つとされるテーラワーダの瞑想の考え方は、心はほおっておくと、悪くなる(スマナサーラ先生の言葉です。自分を自分で責めて、自分が望まない方向へもっていってしまうのも、その一つといえます)から、自分の心の動きをしっかりと観察して、自分の心の動きを理解して、自分を良い方向に持ってゆく心を育てましょう、という考え方の実践がマインドフルネスととらえてよいでしょう。心の中に無いものを、あるように見せることを、心理学では「自己呈示」といいます。自分が利益を得るために、自分のなかにないことを、あるかのように見せることです。言葉は相手に届いても、その言葉が心の中にあるものかどうか、確かめる術はありませんから、自己呈示は成り立ちます。心の中に無いけれども、自分が欲しいものを得るための手段として装うのですから、見透かされるリスクは常にあります。あなたが、慈しみをもって他者に接する(他者をていねいに扱う)ならば、お見合い相手、交際相手はあなたを、自分をていねいに扱ってくれる人だと感じ、それを魅力と感じるでしょう。お相手が、あなたに対してこのように感じるのであれば、あなたはお相手を、あなたが人生を共にするにふさわしいかどうか、という観点から判断すればよいという「ポジション」に立つことになります。集中する対象(瞑想で養う考え方)としては、やはり「慈しみ」が良いでしょう。K.M.B.ブリッジェスさんが、人の情緒の発達について研究しています。それによると、新生児には、興奮という情緒しかなく生後3か月で「不快」「快」が生まれ生後6か月で「不快」から「恐れ」「嫌悪」「怒り」が分化1歳で「快」から「得意」「愛情」が分化しおよそ5歳ころまでに成人に観られる情緒が一通り出そろうとさています(「新しい交流分析の実際 杉田峰康 創元社より)。「危険」という情緒はありませんから、「危険」というのは「判断」と考えたほうがいいでしょう。「危険」と判断する脳の部位と、「不快」と感じるの脳の部位との協働により、「危険=不快」という連結ができるのでしょう。ならば「危険」⇒「不快」の順序ではないか、とのご指摘もあろうかともいますが、「危険」は判断なので、「危険」と判断したときには、それが「危険」であったときには、自分の生命を救えないかもしれません。でも、不快感から分岐した情緒「恐れ」、いいかえれば「怖い」であれば、「危険」と判断することなくなく、とっさに、本能的な感じ方によって、嫌だ離れよう、という行動に結びつきやすいと考えられるのではないでしょうか。マインドフルネスでは、自分が感受する「快」「不快」「どちらでもない」という3つの感覚を、「判断する」ことをせず検知することの訓練もします。なぜそのようなことをするのかというと、「快」「不快」「どちらでもない」によって、自分の心の働きが影響を受けるからです。この部分のとらえ方は、認知療法を創始したA.T.ベックさんの認知モデルと類似性があります。「生きぐるしさ」への対処が必要です。これは、なんとなく自分が認められていない感じなんだか、ここにいていい、という感じがしない誰かから責められているわけではないけど、なんか罪の意識のようなものがあるというような感覚です。漠然とした居心地のわるさ、といったような感じでしょうか。これらには理由があることが多いようです。例えば、すでにお話したスキーマ療法では、子供のころ環境に適応するために形作られ、生活を通じて維持強化されている認知構造を「スキーマ」といいます。スキーマはもともと環境に適応するためのものですが、子供が持っていて、満たされて当然の感情的な欲求(中核的感情欲求)が満たされない状況で、環境に適応した場合、不適切で「生きぐるしさ」をもたらす「早期不適合スキーマ」を形成されると考えます。私の場合は、次の第一領域のスキーマがあるようです。早期不適合スキーマ(セラピストのためのスキーマ療法徹底ガイド 伊藤絵美さん 金剛出版より)第一領域:ありのままの自分は愛されない、守ってもらえない、理解してもらえない第二領域:自分一人ではうまくできない、自信がもてない、誰かがいてくれないとダメ第三領域:自分ではなく他人次第、自分の気持ちや欲求は後回し第四領域:楽しんではならない、いつも警戒していないといけない、ちゃんとしなきゃ第五領域:自分を律することが出来ない、ルールが守れない、自分勝手になりすぎるこれに、あなたを無理やり当てはめる必要はありません。多少なりとも誰にも思い当たることはあるでしょう。思い当たることがあるからといって、スキーマ療法が必要というわけでは当然にありません。スキーマ療法は、認知行動療法では効果が認められなかったパーソナリティ障害等に対応するセラピーとして開発されようです。「パーソナリティの問題に対する統合的認知行動療法アプローチ」とテキスト(スキーマ療法 金剛出版)では副題がついています。これらの早期不適応スキーマがあったとすると、高ストレス状態(結婚も高ストレス状態をもたらすと言われます※)では、スキーマが活性化して、適切な判断を妨げたり、苦悩を招来することもあるかもしれません。※ホームズとレイエの社会的再適応評価尺度によれば、配偶者の死は100、離婚は73、結婚は50とされています。ちなみに解雇・失業は47です。私の場合は、カウンセリングの実習(婚活カウンセリングではなく、心理/メンタルヘルスのカウンセリングの講座)の中で、「いまここいにいることが許されていないような居心地の悪さ」があることに気付き、どういうことかと探ってみたところ、どうやら「自分が自分のままでは受けれいられない、自分が受け入れられるためにには、自分でない自分にならないといけない」という、幼少期に形成せされた考え方が維持されているようだと気付きました。この考え方には以前から、気づいてはいたのですが、意識して無力化するということをしなかったので、ずぅっーとこの考え方が生きていた、ということに気付いた、という方が適切な言い方になります。その講座の中で、より効果が根源的とされる心理療法「スキーマ療法」や「ACT」を知り、勉強がてら前記伊藤絵美さんの本と上記「テキスト」を買って読み始めたところ、「自分が自分のままでは受けれいられない、自分が受け入れられるためにには、自分でない自分にならないといけない」という自分の居心地を悪くしている考えは、「ありのままの自分は愛されない、守ってもらえない、理解してもらえない」という第一領域の早期不適合スキーマに該当することを知りました。伊藤絵美さんの本に倣い、自分の生育暦の中で、早期不適合スキーマの原因となった体験と感情、そして(こちらの方が厄介でした)早期不適合スキーマを維持強化してきた「社会人時代」の経験をできる限り洗い出しました。スキーマは、環境に適合するために作り出されたものなので、環境が変わっても、使い続ける(多少なりとも有用性はある)ことで維持強化されます。学生から社会人、一般社員から役職者、転職、出向、帰任といった環境変化の中で、環境変化に適切に対応できなかったとき(今だからこそそういえますが)、周囲との軋轢を招くこともあり、「ありのままの自分は愛されない、守ってもらえない、理解してもらえない」「だからできるだけ自分じゃない自分にならなきゃいけないんだ」というスキーマが強化され、維持されていたようです。ここまでわかると、だいぶ楽にはなります。ただしすぐに完全に無力化できる、とはならないようです。スキーマはかなり手ごわいようです。似たような概念に、交流分析の「基本的構え」「禁止令」「早期決断」「人生脚本」などの概念があります。こちらの方が、このブログを見ていただいている方が、ご自身を点検なさるには使い勝手がいいと思います。どうもお見合いがうまくゆかない、交際になってもうまく進展しない、という方は、ご自身の基本的構えが出てしまっているかもしません。基本的構えは、人生早期に、両親との関係で取るポジションを、「自己肯定=私はOK」「自己否定=私はNOTOK」「他者肯定=他者はOK」「他者否定=他者はNOTOK」という4つで考えます。自分を慈しみ他者を慈しむことは、自他ともに肯定、OKという構えをつくること、といえるかもしれません。交流分析では、人は、否定的な構えを持ってしまうと、人とのかかわりを「ゲーム」化することによって、または人生脚本において、その否定的構えを証明すべく行動すると考えます。わかりやすくいうと、「自己否定=私はNOTOK」の基本的構えをもった人は、人とのかかわりの中で、建設的なかかわり方ではなくて、「私はNOTOK」ということを証明するためのかかわり方(自虐的な行動に見えるかもしれません)をする、また、生き方においても「私はNOTOK」ということを証明するための生き方、人生の選択をする、ということになります。破滅型、といわれる人がいることも、このように考えると理解が容易になります。また「P」「A」「C」の考え方でいうと、親の考えが、その子供に受け継がれ、親が家を繁栄させると子供がさらにその家を繁栄させる、という歴史に(その反対にも)、一定の説明ができるかもしれません。だから対処が必要というようなことは申し上げるつもりもありませんし、そのような論理は展開いたしません。そのようなことは、カウンセラー倫理からも厳に禁止されることです。「他者否定=他者はNOTOK」の構えをもってしまった場合は、「あなたはNOTOK」ということを証明しようとして、「ゲーム」化して、相手とかかわるので、相手は不快な気分になります。そして、自分も不快になって終了、というのが「ゲーム」の結末です。結婚したいという気持ちはあるのに、なんだかうまくゆかない、と感じている方は、ご自身の基本的構えがどれに該当するだろうか?ということを考えてみることも、婚活をたてなおすヒントになるかもしれません。社会生活が無事に行われていて、不快な気分が生まれる行動や人とのかかわり方を反復的に繰り返す、ということがなければ、気にすることはないでしょう。逆に言えば「不快な気分が生まれる行動や人とのかかわり方を反復的に繰り返す」場合には、何らかの対処を行った方が良いでしょう。禁止令は、意識せずに自分で自分に課している「こうしてはいけない」という考え方・ルールです。禁止を命じるものですから、こうしたい、ああしたいという行動や感情を抑制しますから「生きぐるしさ」につながります。人生脚本は、幼少期に形作られた自身の「早期決断」が、その後の生き方を拘束するという考え方です。幼少期の決断ですから、不合理なものもあります。幼少期の決断は「魔術的」とみる見方もあります。「魔術的」とは、合理的現実的な判断をおこなう「A(アダルト)」からみれば、「とても現実的とは思えない子供の想像」に基づいて決断(心に決めること)をしている、ということを意味するようです。現在における改善したいと感じている行動や、しばしば再現される不快な感情などから、「早期決断」を探り当てて、「再決断法」という方法により、書き換えを行う方法があります。これによって、私も書き換えを行ったことがありますが、かなり気分が晴れます。「これだったのか」という感じです。それは、両親との出来事をめぐっておこなわれた「早期決断」でしたが、両親との関係がその後改善し、現在良好になっていても、「早期決断」自体は生き続けていました。その「早期決断」は、両親との不和をきっかけに「この人たちは私の気持ちを理解してくれない(しようとしない)。この人たちには私の気持ちを話しても無駄だ、自分のほんとうの気持ちはもう絶対に話さない」というものでした。争いが再燃した時に、母親は、私が母親の言い分に以前から、まったく同意も納得もしていないにもかかわらず、(以前話し合った時に)「あの時お前は泣いて心を入れ替えたんじゃないのか」と言われた時に、「あっ、この人、私のこと何もわかってくれていない、自分の都合でしか考えないんだ」と感じた時、この早期決断がなされました。かなり強力な早期決断であったのでしょう、社会人となって独立してから、相当期間母親とは一切連絡を取りませんでした。ちなみに早期決断は、「リトルプロフェッサー、小さな教授」という、「C」の自我状態の中で、直観と生存の智慧に富む部分、生まれながらにして備わる直観的、創造的な能力」が決断するとされています。(前掲 新しい交流分析の実際)この早期決断の検知と修正は、自分にとって非常に大きな収穫でした。母親との関係はだいぶ前に修復されていました(「でもあの人は悪党じゃないよね」という理解は一貫して持っていました)が、この早期決断は、形をかえて自分の中で生き続けて、母親との関係ではなく、社会生活における他者との関係において「私はあなたに私の気持ちは伝えないから(理解しようとしてくれないよね)、だから私もあなたの気持ち積極的に理解しようとしなくてもいいよね。私は私、あなたはあなたでいいよね」という心理的態度になって維持されていたようです。この早期決断を検知するきっかけとなったのは、カウンセリング実習でした。クライエント役の話している内容は理解できますし、感情的なキーワードも検知できるのですが、クライエント役の心の動きを感じ取る、ということがどうもうまくできないようだ、という感覚が生じました。それゆえ、この早期決断にたどり着いた時には、カウンセリング実習で感じていたことの原因は「これだったのか」という感じだったのです。カウンセラーとしては、大きな収穫であったと感じています。スキーマ療法に取り組む一方で、交流分析の「早期決断」にたどり着いた、ということは十分にあり得ることだと思います。交流分析は、「P(ペアレント)」を、「CP(CriticalParent:批判的な親)」「NP(NurturingParent:保護的な親」「C(チャイルド)」を、「FC(FreeChild:自由な子供)」「AC(AdaptedChild:順応する子ども)」に細分化します。(新しい交流分析の実際 杉田峰康 創元社より)。他方、スキーマ療法は、今の自分はどういう状態にあるか、という観点から、大分類として「チャイルドモード」「非機能的コーピングモード」「非機能的ペアレントモード/非機能的批判モード」「ヘルシーアダルトモード」(伊藤絵美さん前掲書より)に分けて考えますから、人の心の理解として、両親、子供、大人という観点をもつということは交流分析と共通しています。スキーマ療法をしながら、交流分析の「早期決断」にたどり着いた(スキーマ療法をしながら、交流分析を集中的に勉強したという事情もあります)ということは、自然といえば自然な気もします。このブログでお話したことは、あなたが、婚活をしながら「生きぐるしさ」を感じているのであれば、その原因を探ることに役立つかもしれません。ただし、スキーマ療法ではこうだから自分はこうだ、とか、交流分析では私はこうだ、だから対処が必要とかいうことではなく、スキーマ療法や交流分析に関係なく、あなたは今の今まで生きてきて、現在もきちんと生きています。スキーマ療法や交流分析は、きちんと生きているけど、「生きるぐるしさ」や「居心地のわるさ」を感じているときに、それらの原因にたどりつき、それらを解消するための一手法にしかすぎない、ということは心にとどめておいてください。あなたが、婚活をしながら「生きぐるしさ」を感じているのであれば、、これらのご相談にも対応いたします。続編「婚活をたてなおす」(2-1)「メンタルをたてなおす」 https://www.ibjapan.com/area/tokyo/49546/blog/156889/
しっかりやれば有効です。「しっかりやれば有効」ということになると、「しっかりやる」ということの内容が重要になってきます。「しっかりやる」とは?1.一日の中で時間を決めて、定期的継続的に行う2.時間内はマインドフルネスに集中してやるの2点になろうかと思います。1.一日の中で時間を決めて、定期的継続的に行うことマインドフルネスは、わかりやすく言うと「頭の機能を転換」するトレーニングです。瞑想を通じて、「頭の機能を転換」するトレーニングをおこない、瞑想中に「頭の機能を転換」し、その状態が瞑想以外の日常生活の中でも機能するようにするようになることが理想的です。まずそのためには、一日の中で時間を決めて継続的に取り組むことが必要です。2.時間内はマインドフルネスに集中してやること物事の在り方として当然のことですが、1日10分トレーニングする人よりも1日30分トレーニングする人のほうが、トレーニングの効果はより期待できると考えられます。とはいっても、30分間トレーニングはしていても、集中していない人よりも、10分間であっても集中して取り組む人の方が効果が出る可能性は十分あります。そもそもマインドフルネスは「注意集中」の訓練ですから、長時間やっても集中しないと効果は期待できません。マインドフルネスに集中するとは、端的に言うと、マインドフルネスに取り組む時間内は、心の中からマインドフルネス以外のことがらを「捨てる」「締め出す」「考慮しない」「関心を向けない」という態度をもってマインドフルネスに取り組むことです。たとえ10分でもこれが出来れば、効果は上がります。しかし、あらかじめ申し上げておきますが、10分間継続して集中状態が維持できるとすれば、その方はすでに相当な「上級者」です。このレベルになれば、自己の心の状態を観察して、複数の瞑想を組み合わせて行うことも可能です。30分一生懸命やっても集中できている状態が1、2分実現できればうまくできていると言えるでしょう。「頭の機能の転換」エネルギー消費の低減人間はリラックス状態のときに、デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)という脳の情報網が活発になるそうです。リラックス状態なので、休憩していることになるはずですが、実はDMN状態は極めて脳のエネルギー消費が高い状態だそうです。気分はリラックスしながら、脳はたくさんのエネルギーを消費、つまり一生懸命働いている、ということになります。最近の研究で、マインドフルネスはDMNのエネルギー消費を低減する効果があるとわかってきたそうです。さらに、10年以上のマインドフルネス経験のある人にはDMNの変化が認められることもあるそうです。(久賀谷亮「最高の休憩法」ダイヤモンド社より)DMNのエネルギー消費を低減するとは?ここでは自分の経験からお話します。マインドフルネスは、呼吸や運動、体に感じる感覚へ意識を集中し、細かく観察することによって自分の「いまここでの変化」に注意を集中することによって、今ここには無いこと(=過去の出来事や未来のこと、ここではないところのこと)に意識が向かう思考を停止し、思考を停止することによって感情の生起を止めることが出来るようになることが、到達度合いの一つの目安になります。たとえば呼吸に注意を向け、呼吸に伴う腹のふくらみとへこみに意識が集中し、それを言葉で確認すること(ラベリング)がシンクロすると、思考は停止します。思考が停止すると、感情の生起が停止します。感情の生起が停止すると「こんなに楽になるのか」という状態を経験できます。久賀谷さんは、言及されていませんが、感情の生起の停止による「こんなに楽になるのか」という状態が、DMNのエネルギー消費を低減している状態であると私は考えています。また、感情の生起を停止することにより、あれこれ悩むことが少なくなり、あれこれ悩まないことで思考の整理が進む、というメリットもあるでしょう。人が迷うときには、感情につき動かされた考え方や欲求と、意識的論理的に導き出した考えが混然としている状態ととらえるならば、感情に突き動かされた考え方や欲求がなくなれば、答えは出しやすくなるでしょう。あれこれ想像をめぐらした結果、疲れを感じたり気分が落ち込んでやる気がなくなった、という経験は多くの方がお持ちだと思います。この状態がDMNが活動して、心があれこれと考えて、それに伴い感情が生起し、脳が大量のエネルギーを消費している状態だと考えてよいと思います。DMNの活動の抑止は、DMNとシーソーのような関係にあるワーキングメモリーが活性化することによるとする考え方もあるようです(社会脳ネットワーク入門、芋阪直行・越野英哉、新曜社)。「頭の機能の転換」思考の質的変容人間はその認知構造上、自分の体に起こった感覚も外部の出来事も直接体験できません。神経と脳の機能を思い起こしていただければ、ご理解いただけることなのですが、グレゴリー・ベイトソンさんが、わかりやすい説明をしているので引用します。「誰かに足を踏まれたとき、私が経験するのは、”彼による私の足の踏みつけ”そのもではなく、踏まれてからややあって脳に届いた神経報告をもとに再構成された”彼による足の踏みつけについての私のイメージ”にほかならない。外界の経験には常にある特定の感覚器と神経危経路が介在しているのである。その限りにおいて、ものとは私の想像物であり、ものの経験は主観的であって客観的ではない。」さらにこのようにも言っています。「自分たちが”見て”いるイメージが、脳なり精神なりによって作り出されれることは誰でも知っているが、このことをただ知識として知っているというのと、実際に感得しているというのでは大違いである。」(精神と自然グレゴリー・ベイトソン佐藤良明訳思索社)瞑想指導者の地橋秀雄さんは、瞑想の進め方について、著書の中で次のように言われています。「何をもって基本が出来たと判断すればよいのでしょうか。それは、法と概念の仕分けができることです。(中略)思考を止めて厳密に法としての事実のみに気付く状態にならなければ、その先には進めません。」(ブッダの瞑想法地橋秀雄春秋社)地橋さんの言われていることを、ベイトソンさんの言われていることを考え合わせると、『人間が認知したものは全て頭の中で作られたイメージにすぎないが、神経系をとおって脳に到達した情報=実在する事実=「法」と、その情報に反応して脳が(自分なりに)作り上げた「概念(的理解)」を仕分けできるようになることが瞑想の基本』と解釈することが出来ます。このことは、ベイトソンさんの言う「自分たちが”見て”いるイメージが、脳なり精神なりによって作り出されれること」を、「実際に感得している」状態を作り出すこと、と言ってもいいかもしれません。「頭の機能の転換」のまとめ1.感情の生起が停止または抑制されることで、DMN起動時の能のエネルギー消費が抑制されること(楽になる、疲れなくなる)2.脳に到達した情報と、その情報に反応して形成される概念的理解を仕分けできるようになる(訓練をする)3.上記2.の訓練により、1.の機能転換がすすみ、脳には余力が生まれ、思考の整理が進む久賀谷さんの指摘されている「10年以上のマインドフルネス経験のある人にはDMNの変化が認められる」とは、このようなことではないかと考えています。
マインドフルネスは「いま、ここ、からだ、やさしさ」のキーワードで実践できます。比較的シンプルにこのキーワードで実践できるマインドフルネスをご紹介します。本格的に、その効果を実感するのであれば相応の努力は必要です。投資を考えてください。1万円を1年後に10万円にする投資は難しいでしょうが、100万円を1年後に110万円にする投資はありえるでしょう。マインドフルネスも同様です。1万円分の努力をしても1年後に10万円分のリターンはありません。このことは経験から確実に言えます。8週間のマインドフルネス実践プログラムであるMBSR、MBCTも静座して行う瞑想の時間を1日1回45分としてます。それ以外にも行うことがあります。45分という時間は、座禅の1柱(線香の燃え尽きる時間)に範をとっているようです(マインドフルネスはもともと仏教瞑想に範をとっています)。たとえ話に戻ると、100万円分の努力をすれば1年後に10万円分のリターンは容易に得られると言えます。とはいってもいきなり100万円の投資はできないよ、というのもごもっとな意見です。そこで一番シンプルな、マインドフルネスを体験できる実践と考え方をお伝えいたします。
どうしたらくじけない心を作れると思いますか?「強いメンタルを持つ」?「強いメンタル」があれば、少々の失敗でも、くじけないかもしれません。そもそも「強いメンタル」があれば「心がくじけない」のであれば、「心がくじけて」しまう方は、「強いメンタル」がないから、「心がくじけて」しまうことになります。では、どうやって「強いメンタル」を持つのでしょうか?確かに「強いメンタル」の持ち主と言われる方や、「強いメンタル」をお持ちと感じられる方はいらっしゃいます。しかし残念ながら、私には「強いメンタル」を持つ方法を考えたことがないので、「強いメンタル」の作り方はわかりません。より正確に言えば、『「強いメンタル」を持っているといわれる方』のようになることを推奨することが良いととであるとは感じられません。回りくどい言いかたですね。ご免なさい。「強いメンタル」は同時に、自分の心の微細な状態を確認することが出来なくしてしまうかもしれず、そのことが結果として周囲の状況への不適応を招くかもしれない、と推測されるからです。「強いメンタル」よりは「しなやかでくじけない心」をつくる方がいいように感じます。
成婚された会員様数2023年成婚者数は13,516名(IBJ会員)です。成婚した人の割合2024年8月時点のIBJ登録会員数は94,022名ですので、2024年8月時点の会員様数に対する2023年の成婚者の割合は14.37%になります。2023年成婚者数を8月末時点の会員数で割っただけですので、これから活動される会員様個人の成婚率が14.37%ということではありません。登録会員数は、退会(成婚・非成婚)と新規入会により随時変動しますので、厳密な成婚率の算出はできません。厳密に算出できないのは合計特殊出生率と同様です。また、登録はしているものの活動されていない方もいらっしゃる(人数未開示)ようですので、活動している会員様数に対する成婚者数の割合は、理論上はより高い数字になります。ご入会者の全てが成婚するわけではないということは残念ながら事実です。結婚を希望されて入会されるのですが、「成婚する人」「しない人」に分かれてしまいます。成婚する人しない人の違いは何なのでしょうか?成婚するために必要なことは何でしょうか?
(1)人は一人でいても、一人になれないクライアントが、自分の抱える問題の解決につながる自分への関与や洞察は、一人でいるときになされる、というカウンセリングの考え方があります。人は、一人で自分のことを考えていても、他者の目から完全に自由になることはできず、何かをしようとするときに、他者から「どう思われるだろうか」「こんな風に見られたくない」といったことを、半ば無意識に考えてしまうことがあります。このような状況では、クライエントが、問題の解決につながる自己への関与や洞察を行うことができない、ということになります。そこでカウンセリングは、他者の目を意識せず、自由に自己に関与し洞察するために、他者からの評価や批判を受ける懸念のない「安心できる空間と時間」を提供することが必要だと考えるわけです。そこでのカウンセラーは、たとえばクライエントの庇護者的な立場を取るなどして、クライエントが自由に自己に関与し洞察することを促進することによって、問題の解決を援助することが、役割になります。(2)カウンセリングは、どんなにときに有益でしょうか?カウンセリングはどんなときに有益でしょうか?たとえば『婚活に取り組んでいる、活動もしている…でも…』という考えが、しばしば頭に浮かぶとき『活動してはいるけれども、行き詰まりを感じている』とき婚活やご自身のについて『ネガティブな考え』がしばしば頭に浮かぶときなどには有益だと考えられます。(3)「でも…」や「ネガティブな考え」の意味最初に核心的なことを言ってしまうと、「でも…」や「ネガティブな考え」は、婚活に関して適応的でない考え、適応的でない思考であるかもしれません。「適応的でない」ということの意味は、「結婚したいという希望を実現するための行動を阻害してしまうので、希望の実現に適合していない」という意味です。結婚を希望している一方で、「結婚したいという希望を実現するための行動に適応していない考え、思考」が自分にあるとしたらどうでしょうか?結婚したいという希望がある一方で、希望の実現を阻害する考え、思考があるので、その考え、思考が活性化してしまった時には、自分の希望がかなえられそうな見通しがなくなり、気分は落ち込むでしょう。気分が落ち込むと行動が鈍ってしまうでしょう。人には適応的(自分の価値や希望を実現することに適応的)な考え、思考もあれば、適応的でない考え、思考もあり、適応的でない考え、思考が活性化してしまった場合には心理的負担が増大することになります。(4)ポジティブだから大丈夫というわけでもない「自分はうまくいっているから大丈夫」という方でも、何かをきっかけに適応的でない考え、思考が活性化するかもしれません。自分に対してのポジティブな見方は大事ですが、「今うまくいっている」「ポジティブな考え方をしている」から、適応的でない認知(信念)を全く持っていない、ということではありません。うまくいかないこと続いたり、大きな心理的負担がかかった時には、適応的でない考え、思考が活性化することも否ないとは言えません。逆にいえば、今、適応的な考えが優位になって、うまくゆかず落ち込んでいる方も、「ポジティブで適応的な考え」は持っているはずなので「ポジティブで適応的な考え」を強化して、活性化してゆけば気分が改善し、活動も活性化できる、ということになります。(5)そんなときカウンセリングが役に立つということになります。これから、その理由、カウンセリングの考え方、婚活カウンセリングの場合、婚活上のアドバイスについて、ご説明してゆきます。
前編1.お相手への希望条件は現実的ですか?2.イライラしていませんか?3.落ち込んで無気力になっていませんか?4.集中できない状態ではありませんか? 後編5.落ち着きをなくしていませんか? 6.過去の失敗を気にしすぎていませんか? 7.迷っていませんか? 8.ネタばらし(もととなる考え方)
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